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  11. ドイツ帝国
世界大百科事典・日本大百科全書

改訂新版 世界大百科事典
ドイツ帝国
ドイツていこく
Deutsches Reich

ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962-1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871-1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933-45)もこれに次ぐものとして〈第三帝国〉を称した。しかし日本でドイツ帝国というとき,普通第二帝国をさす。

ドイツ統一

ドイツ帝国は,普仏戦争の最中,1871年1月,フランスのベルサイユ宮殿における皇帝戴冠によって誕生した。これに象徴されるように,ドイツ帝国をつくりあげた直接の力はプロイセン軍隊であり,この事業の政治的指導者はプロイセン首相ビスマルクであり,彼の政策は〈鉄血政策〉と称される。

 ドイツ統一は1848年の革命以来ドイツ市民階級の念願であり,それは本来自由主義の要求と組み合わされていた。しかし三月革命の敗北,プロイセン憲法紛争(1862-66)での挫折を通じて,ドイツ統一の主導権は市民階級からプロイセン王権の手に移った。プロイセンは66年普墺戦争でドイツ統一の競争相手オーストリアを破り,同国を排除して北ドイツ連邦を成立させた。普墺戦争の勝利はまたプロイセン国内で,憲法闘争をめぐり王権と対立していた議会の自由主義勢力を圧倒するのにも利用された。さらに70-71年ビスマルクは普仏戦争でドイツ統一を妨げるフランスのナポレオン3世を破り,南ドイツ4ヵ国を加えて統一事業を完成させた。ドイツ帝国の成立は,まず19世紀前半を通じて争われてきたドイツ国民国家のあり方,すなわちオーストリアも加わる大ドイツか,プロイセン中心の小ドイツかの選択に結着をつけた(大ドイツ主義)。こうして約1000万人のドイツ人をオーストリアに残したまま,4100万人の新ドイツ国民国家が発足した。

 ビスマルクのドイツ統一事業は確かに自由主義ブルジョアジーや民衆の〈革命〉から王権を守る反革命であったが,ビスマルクは単純な保守政治家ではなく,その政策は産業革命とともに進む資本主義経済の発展,市民社会の成長を促す積極的な役割も果たした。すなわち帝国建設に伴う種々の立法,貨幣・度量衡の統一,郵便・鉄道・銀行事業の整備,移動の自由や職業選択の自由の確立などはドイツの資本主義発展をいっそう促進し,市民社会の成熟を早めた。それゆえ,ドイツ帝国の建設はドイツの資本主義的転換を一挙に加速した〈上からの革命〉であったといえよう。

政治体制と政治構造

ドイツ帝国は25の邦(22の君主国,3自由都市)および帝国直轄領としてのエルザス・ロートリンゲンからなる連邦であった。邦の中で人口,面積ともに全ドイツのほぼ3分の2を占めるプロイセンが圧倒的優位を占め,プロイセン王はドイツ皇帝をも兼ね,国家元首として外国と条約を結び,和戦を決定し,帝国官吏,陸海軍人を任免した。最初にビスマルクが就任した帝国宰相Reichskanzlerは帝国行政の最高責任者で,彼のもとに各省長官がおかれた。しかし帝国宰相はたいていプロイセン首相を兼ね,帝国の行政もプロイセン行政に依存するところが多かった。さらに帝国とプロイセンを問わず,行政と軍隊の上層ではユンカー・貴族が勢力をふるいつづけた。このように強力で保守的な行政府に対し,立法府である帝国議会Reichstagは,普通選挙という民主的な基盤の上に立っていたが,その権限には種々制約が加えられ,また連邦参議院やプロイセン邦議会が並び立って,その役割の拡大を妨げていた。しかし帝国議会は,帝国の諸政治機関のうちいちばん社会や世論の動向を敏感に反映する場であり,帝国政府もしだいにその意向を無視できなくなった。そのうえ,19世紀の末以降,帝国議会へのドイツ社会民主党のめざましい進出は,ドイツ帝国の保守的な支配体制を根底から揺るがすこととなった。

ビスマルク時代

このような支配体制の上にドイツ帝国の政治は幾度か流れを変えた。1871-77年はビスマルクの自由主義との蜜月時代で,政府は帝国議会と協力して国家建設のため種々の改革に取り組む一方,反プロイセンのカトリック教徒に対する文化闘争を強行した。しかしカトリック教徒とその政党,中央党の抵抗は続き,文化闘争は失敗に終わった。そのうえ73年から経済恐慌が起こり,また社会主義政党が合同して勢いを増した。ビスマルクは政策の転換をはかり,78年皇帝暗殺未遂事件をとらえて社会主義者鎮圧法を成立させ,次いで79年おもに重工業資本家とユンカーの利益を守るため保護関税を導入した。以後,80年代を通じて,ビスマルクはこの保守的な両支配層との同盟を堅持するとともに,労働者を〈アメとムチ〉の政策,すなわち社会政策と弾圧立法によって社会民主党の影響から遠ざけ,国家の味方に引き寄せようと努めた。しかしこのもくろみは結局失敗し,89年ルールに大炭坑ストライキが起こると,これへの対応をめぐりビスマルクは若い皇帝ウィルヘルム2世(在位1888-1918)と対立してついに辞職した。

 一方,ビスマルクが20年間国内政治で独裁的力をふるうことのできた背景には彼がおさめた外交上の成功があった。彼の外交はフランスを孤立させ,ヨーロッパの現状維持を目ざしていたが,そのため1873年独墺露3国間で三帝同盟を締結,79年にはドイツ・オーストリア同盟が成立し,82年にはイタリアが加わって三国同盟となった。しかしバルカンでのオーストリアとの対立が原因でロシアがドイツから離れようとしたので,ビスマルクは対露関係維持に腐心し,87年再保障条約を成立させた。

ウィルヘルム時代

1890年以後ドイツ帝国の政治はウィルヘルム2世の親政を意味してウィルヘルム時代と呼ばれる。ビスマルクのあとを継いだ宰相カプリービ(在任1890-94)のもとで,社会主義者鎮圧法の廃止,労働者保護立法の拡充や農業関税の引下げなど,工業社会の要求にこたえて政策の手直しが若干行われた。しかし次の宰相ホーエンローエChlodwig zu Hohenlohe-Schillingsfürst(1819-1901。在任1894-1900)の時期には,皇帝が再び弾圧立法を提案したり,政府とその政策に足並みの乱れと動揺とが目だち,さらに議会主義やプロイセン邦議会の三級選挙法改正を求める世論の高まりが,支配層の危機感を深めた。皇帝と帝国宰相B.vonビューロー(在任1900-09)はこの動揺を鎮め,支配層の結集をはかるため農業関税の再引上げや重工業の利益になる大艦隊の建造を進める一方,膨張主義的世界政策の展開によって国民の統合をはかった。しかし増大する軍事費の負担をめぐって支配層の内部にも対立が生まれ,帝国宰相ベートマン・ホルウェーク(在任1909-17)はこの対立の打開に腐心したが解決策を見いだせず,左右から批判を浴びた。第1次大戦前夜のドイツ帝国にとって内政での最大の問題はドイツ社会民主党の躍進で,同党は1912年の総選挙で帝国議会の第1党になった。しかしマルクス主義をとる反体制政党の内部でも,20世紀に入って改良主義や修正主義が強まり,変質が進んでいた。

 ウィルヘルム時代にドイツ帝国の外交を方向づけたのは世界政策Weltpolitik,Weltmachtpolitikで,政府は東アジアや中東で積極的膨張政策を展開する一方,そのための手段として大海軍の建設(建艦競争)と陸軍の増強に努めた。しかしこれはイギリスはじめ帝国主義列強との摩擦を増大させ,1904年英仏協商,07年英露協商が成立し,ドイツの孤立が明らかとなった。政府はこの状況を打開するため2度のモロッコ事件をひき起こしたが,逆に英仏の結束を強める結果に終わった。このような内外での行詰りを打開するため,14年8月ドイツは第1次世界大戦に突入した。開戦とともに,一時社会民主党も含め挙国一致体制が生まれたが,戦争が長びくにつれ再び対立が激化した。この窮境を切り抜けるため17年以降軍部独裁体制がとられたが,18年秋敗戦が決定的となると,11月に革命が勃発し帝制は崩壊した(ドイツ革命)。

経済と社会の発展

ドイツ帝国では,上記のような政治の停滞と経済と社会でのめざましい発展とがきわだった対比をなしていた。経済発展の原動力は工業にあり,ドイツ工業は1870年代はじめに世界の工場・イギリスになお後れをとっていたが,その後急上昇をとげ,重工業では世紀の境にイギリスを追い抜いた。また化学・電気など新しい工業分野でははじめからイギリスに勝っていた。こうして銀行業や貿易ではイギリスに及ばなかったとはいえ,20世紀初めドイツは工業ではアメリカ合衆国に次ぎ,貿易でもイギリスに次いでそれぞれ世界第2位の位置を占めた。

 このような工業発展にともない,この国の経済に占める農業,鉱工業,交通・商業・サービス業の割合は,1870-1913年の間に総生産額のそれぞれ38:32:30から23:45:32へと変わった。同じ時期にドイツ帝国の総人口は約4100万から6500万に増加したが,全就業人口中に占める農業の割合は全体の50%から35%,鉱工業が28%から36%,商業・交通・サービス部門の従事者が22%から30%へと変化した。これは都市化をも意味し,住民2000人以上の都市に住む人口は1875年に総人口の3分の1以下であったが,1900年には2分の1を超えた。この時代に,農村から都市へ,ドイツ国内ではエルベ川の東から西へ,大量の人口移動が起こるとともに,約290万人が国を出て海外に移住した。

 しかしドイツ帝国での工業化による社会の水平移動は,社会の垂直移動をあまりともなわなかった。すなわち上流階級(貴族・ユンカー,大資本家)と中間層(官吏,教師,サラリーマン,中小資本家,手工業者,農民)と下層階級(労働者)をへだてる階層間の垣根は容易に越えられなかった。教育制度も階層の維持を助け,義務教育である初等教育は普及していたが,中等教育に進んだ者は全就学児童100人中3人,大学で学べた者は1000人中1人にすぎなかった。労働者の子弟で大学に進む者はほとんどいなかった。そのうえ,ドイツ帝国の権威主義的政治体制は貴族の優位を守り,社会民主党を差別,敵視するなどして,階層差をむしろ強める役割を果たした。このような中で,上流階級に加わった大資本家や大学に学んだ知識人も,市民としての自覚やみずからの価値体系を育てるよりも,貴族に同調し,同化する傾向が強まった。ドイツ帝国における,社会のこのような階層序列は帝制が共和制に変わったワイマール時代にも維持され,やがて1930年代ナチス政権を成立させる条件の一つとなった。
[木谷 勤]

[索引語]
Deutsches Reich ビスマルク,O.E.L.F.von 第二帝国 普仏戦争 宰相(ドイツ) Reichskanzler ユンカー 帝国議会(ドイツ) Reichstag ドイツ社会民主党 文化闘争 飴と鞭 ウィルヘルム2世 カプリービ,L. ホーエンローエ,C.zu Hohenlohe-Schillingsfürst,C.zu ビューロー,B.von 世界政策 ベートマン・ホルウェーク,T.von 世界政策 Weltpolitik Weltmachtpolitik 建艦競争


日本大百科全書(ニッポニカ)
ドイツ帝国
どいつていこく
Deutsches Reich ドイツ語

ドイツで帝制がとられたことは史上二度ある。最初はオットー1世(大帝)の創始した神聖ローマ帝国(第一帝国、962~1806)で、次がビスマルクのドイツ統一により実現した帝国(第二帝国、1871~1918)である。わが国では普通、後者を「ドイツ帝国」とよぶ。この帝国は1871年、プロイセン・フランス戦争の勝利のあと、北ドイツ連邦に南ドイツ四か国が参加して成立した。プロイセン以下22の君主国と三自由都市からなる連邦で、帝国の元首、すなわち皇帝の位にはプロイセン王がつき、政府を代表する帝国宰相はたいていプロイセン首相が兼ねた。プロイセンは面積、人口、経済力、軍事力で他の邦国を圧倒する実力をもっていた。宰相は憲法上皇帝の任命する一大臣にすぎなかったが、その権限は大きく、ビスマルクがその地位にある間、事実上彼の独裁が行われた。しかし彼のあと、歴代の宰相の力は弱く、皇帝の意のままになって、内政に混乱が生じた。一方、立法府である帝国議会の議員は普通選挙で選ばれ、民意をよく反映したが、その権限は予算審議などに限られ、政治を左右する力をもたなかった。しかし時がたつにつれ、社会民主党のような批判勢力が目覚ましく進出し、帝国議会も政治的影響力を増大させた。この時期、ドイツ資本主義は飛躍的な成長を遂げ、工業の生産力は20世紀初めイギリスを追い抜き、アメリカに次いで世界第二位になった。また、学問や文化でもドイツは当時の世界をリードした。このような実力を背景に、ドイツ帝国は対外膨張に努め、世界の強国を目ざした。このため、イギリスはじめ帝国主義列強との対立が激化し、1914年第一次世界大戦に突入した。4年の戦いののち敗れ、革命(ドイツ革命)が勃発(ぼっぱつ)、皇帝が退位して、ドイツ帝国は崩壊した。
 なお、ヒトラーのナチス国家(1933~45)も、これに次ぐものとして「第三帝国」を称した。
[木谷 勤]

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1. ドイツ帝国
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一により実現したドイツ帝国(1871-1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933-45)もこれに次ぐものとして〈第三帝国〉を称した。しかし
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ロシア帝国(世界大百科事典)
18世紀初めから1917年のロシア革命までのロシア。帝政ロシアともいう。正式には1721年にピョートル1世(大帝)が皇帝(インペラートルimperator)の称号をとってから,1917年の二月革命でニコライ2世が退位するまでをいう
ドイツ帝国(世界大百科事典・日本大百科全書)
ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962-1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871-1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933-45)もこれに次ぐものとし
ロシア革命(世界大百科事典・日本大百科全書)
20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み
日英同盟(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日露戦争前から第一次世界大戦後のワシントン会議直後まで日英間に結ばれていた同盟条約。〔由来〕明治三十一年(一八九八)三月十七日イギリス植民相チェンバレンは、ロンドン駐在の日本公使加藤高明を招き、ロシアの進出に直面する極東の国際情勢について
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