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  11. オスマン帝国

オスマン帝国

ジャパンナレッジで閲覧できる『オスマン帝国』の世界大百科事典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
オスマン帝国
オスマンていこく
Osman

中央アジアから移住したトルコ族によって建国され,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン,黒海北岸,およびカフカス南部を支配したイスラム国家。1299-1922年。正称アーリ・オスマンĀl-ı Osman(〈オスマンの家〉の意),英語ではオットマンOttoman帝国。公用語はオスマン・トルコ語。アッバース朝やビザンティン帝国の系統を引いて整備された官僚機構による中央集権体制,被支配諸民族の宗教的・社会的自治を認める柔軟な地方統治,門閥を許さぬ能力主義などが帝国の永続を可能にした。帝国史は,大きく,前期(建国から16世紀末。トルコ系ガージー(イスラム戦士)の連合国家からスルタンによる専制支配へ移行し,中央集権支配がゆきとどいた隆盛期)と,後期(17世紀から滅亡まで。在地勢力の伸長した17,18世紀と,西欧化改革と経済的植民地化とを特徴とする近代とに区分される)に分けられる。

前期

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1071年のマラーズギルドの戦(ビザンティン帝国とセルジューク朝トルコ)の勝利を契機としてアナトリアへ侵入したトルコ族のうち,オスマンと名のる人物を中心とした勢力がビザンティン国境近くのソユットSöğütに建国した(1299)。この勢力は,中央アジア,イランから移住したトルコ系遊牧民(トルクメン)を人的資源とし,ガージー,アヒー(宗教を媒介とした組織のリーダー),デルウィーシュ(神秘主義教団の修道者),および一部のビザンティン辺境領主(アクリタイ)の協力を得て,国境を拡大し,1326年にブルサを征服して首都とし,さらにニカエア(トルコ名イズニク,1331),ニコメディア(トルコ名イズミト,1337)を攻略して,54年にバルカンへ進出した。61年ころ,アドリアノープル(トルコ名エディルネ)を征服して,ここへ首都を移した。その後,コソボの戦(1389),ニコポリスNicopolisの戦(1396),バルナVarnaの戦(1444)などで,あいついでバルカン諸民族を破り,ブルガリア,北部ギリシア,セルビアを支配下におさめた。この間,アイドゥン侯国,カラマン侯国などアナトリアの諸侯国の併合を進めたが,1402年にティムールとのアンカラの戦に敗北し,王朝は一時断絶の危機にさらされたが,すぐにバルカンとアナトリアの領土を回復し,53年にコンスタンティノープルを攻略してビザンティン帝国を滅亡させ,ここをイスタンブールと改めて首都と定めた。15世紀末までにアナトリアとバルカンを統一すると,16世紀初頭にはエジプトのマムルーク朝を破って(1517),アラブ地域を併合し,二聖都メッカとメディナの保護権を掌握すると,オスマン帝国のスルタンは,同時にイスラム世界全体の長としてのカリフの資格を獲得した(スルタン・カリフ制)。西方では,モハーチの戦(1526)によってハンガリーを服属させ,ウィーンを包囲攻撃した(1529)。1522年にはロードス島のヨハネ騎士団をマルタへ追放して地中海の制海権を掌握した。このころ,チュニジア,アルジェリア方面を根拠地としていたアナトリア出身の海賊バルバロス・ハイレッディン・パシャが33年にオスマン艦隊の提督(カプダン・パシャkapdan paşa)に任命されると,北アフリカの併合(1574以降)が決定的となった。16世紀後半,キプロス島の征服(1571)など若干の領土拡張がみられたが,レパントの海戦(1571)に象徴されるように,ハプスブルク王家をはじめとするヨーロッパ諸国の反撃(オーストリア・トルコ戦争)の前に,帝国の領土拡張はようやく停滞した。

政治,行政

建国当初,ガージーもしくはベイbeyと呼ばれた支配者は,第3代ムラト1世(在位1362-89)以後スルタンを名のったが,パーディシャーpādişāh(守護王の意),ハーカーンhākān(大ハーンの意)のごとき,ペルシア的・トルコ的称号も使われた。王位継承の規律はなく,争いが絶えなかったため,メフメト2世(在位1444-46,1451-81)は,スルタンの即位後の〈兄弟殺し〉を法制化した。帝国の統治機構には当初,アナトリアのトルコ系有力者,ウラマー出身者が起用されたが,バルカン半島,とりわけ,コンスタンティノープル征服以後デウシルメ出身者の台頭が著しかった。これらの非トルコ系,奴隷身分の者たちの大部分はイエニチェリなど常備軍団員となったが,その一部は宮廷侍従の経歴をへて,サドラザム(大宰相)をはじめとする中央(のちには地方も)行政機構の枢要な地位を独占した。一方,イスラム国家であるオスマン帝国は,イスタンブールをはじめ各地にマドラサ(イスラム高等教育施設)を建設し,ハナフィー派法学を中心としたイスラムの諸学問を学んだウラマーたちに,帝国の司法と教育,および行政の一部を担当させた。法律制度は〈神の法〉であり唯一絶対性をもつシャリーアであり,その法解釈はムフティーにゆだねられたが,その最高権威者シェイヒュル・イスラム(シャイフ・アルイスラーム)は,トプカプ宮殿(宮廷)内の御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーンdivan-ı hümayun)の権限外にあって,スルタンやデウシルメ出身官僚層の政治的決定事項に対してシャリーアに照らした〈意見書(ファトワーfetva)〉を通じて,これを掣肘(せいちゆう)した。また,各地域の実情に応じた柔軟な統治を実現するために,シャリーアの枠内にとどまることを条件に,カーヌーン(世俗法)およびヤサyasa(禁令)が,スルタンの勅令あるいはシェイヒュル・イスラムの〈意見書〉の形態をとって発布された。地方行政区分は,エヤーレトeyâlet(州),サンジャクsancak(県),カザーkazā(郡)からなっており,前2者にはそれぞれ,ベイレルベイbeylerbeyi,サンジャクベイsancakbeyiと呼ばれる軍政官が派遣された。カザーの行政官はウラマー層に属するカーディー(裁判官)であったが,彼は御前会議に列席する大法官(カザスケルkazasker)に直属し,同時に,刑事・民事訴訟の双方を取り扱うシャリーア法廷を主宰した。このように,ムフティーやカーディーのごときウラマー層が統治機構の一端に組みこまれ,官僚化されたところに,帝国のイスラム国家体制の,イランやアラブ諸王朝とは異なる特徴がある。また,エヤーレトと中央政府との関係は全国一律ではなく,基本的には,ティマール制が適用されて中央政府の直接支配を受けた地域(アナトリア,バルカン,歴史的シリアの一部)と,エジプト,メソポタミア,アラビア半島,北アフリカのようにベイレルベイ,カプダン・パシャ(提督)あるいは土着の支配者(メッカのシャリーフ,東部アナトリアのトルコ系・クルド系遊牧民族長,ワラキア・モルドバの君侯など)を通じて,貢納金を支払うなどの間接的支配を受けるにとどまり,既存の社会組織をそのまま維持した地域とに分けられる。ティマール制のもとでは土地はすべて国有地(ミーリーmiri)とされ,軍事封土の保有者シパーヒーによる農民支配は,カーヌーンによって細かく規定されていた。また,非ムスリム諸民族の場合は,それぞれが属する宗教的共同体(ギリシア正教会,セルビア教会,ブルガリア教会,アルメニア教会,ユダヤ教会など)ごとの内部自治を認められた(ミッレト制)。

社会,経済,文化

帝国の社会的身分秩序は,軍人,官僚,ウラマー層およびその家族,親族,奴隷からなるアスケリーaskerı(さらに武官ehl-i seyfiyyeと文官ehl-i kalemiyyeとに分けられる)と生産者大衆レアーヤーreaya(小商工民,農民,遊牧民を指し,ムスリムと非ムスリムの区別を含まない)とからなり,〈レアーヤーの子はレアーヤーである〉という身分秩序観念があった。そして,イスラムの諸学問を修め,ペルシア文学を愛好し,みずから〈オスマン紳士(オスマンルOsmanlı)〉を自認する支配エリートは,アラビア語,ペルシア語に粉飾されたオスマン・トルコ語を話し,民衆の素朴な口語を〈粗野なトルコ語kaba türkçe〉と呼んだ。彼らにとって〈トルコ人〉とは田舎者,無教養な者を意味した。ただし,デウシルメ,マドラサでの教育のほかにも,個人的能力,チャンスなどを通じてレアーヤーからアスケリーへと社会的に上昇する機会は多く,むしろ能力主義,機能主義にもとづく開放的な社会であった。

商業の面からみた場合,帝国はアナトリアとバルカンを貫通する陸上キャラバン・ルート,および黒海,エーゲ海,アドリア海,地中海,紅海,インド洋を結ぶ海上交易ルートを掌握する中継貿易国家であった。その中心地イスタンブールは,16世紀末には75万前後の人口を擁する巨大な交易地となった。帝室財政はそれによる交易利潤に大きく依存していたから,スルタンは,香料,各種織物,ブドウ酒などの国際商品取引を円滑にするために,外国人商人に通商特権(カピチュレーション)を与えるなど開放的商業政策をおこなった。その結果,イスタンブールを中心とした広大な商業圏が成立した(パクス・オトマニカ)。その反面,この都市の軍需品や食糧を確保するために,とくにアナトリアとバルカンの商工業(ギルドと市(いち))に対する官僚的統制を強化し,鉱山資源(銅,鉄,銀,クロム,ミョウバンなど)の開発や特殊な農作物(とくに米)生産を専売制の下におき,1550年以後帝国領内からの小麦の輸出を禁じた。

後期

16世紀末以後,領土拡大の停止,中央政府の腐敗,人口増加,国際交易路の大西洋への転換,メキシコ・ペルー産銀の流入(1580年代以降)などを契機として帝国の経済・社会体制は動揺し,首都ではインフレ,食糧難,イエニチェリの暴動があいついで社会不安が増大した。地方では,シパーヒーの没落と反乱,イエニチェリの土着化,農民の離村,遊牧民の匪賊化,一部富裕層による土地の兼併などがみられた。1590年代から17世紀半ばにかけて,アナトリア,北部シリアでは,これらを原因として,シパーヒー,下層ウラマー(ソフタsoftaと呼ばれる学生),都市下層民,土地を失った農民,遊牧民による一連の反乱(これらは,1580年代の最初の反乱者シェイフ・ジェラールにちなんでジェラーリーCelali反乱と呼ばれた)が頻発した。

在地勢力の台頭

18世紀に入ると,帝国の政治・社会体制は,15,16世紀におけるそれとは,まったく別の様相を呈した。中央では,デウシルメ制が消滅してムスリム出身の書記(カーティブ)層が台頭し,後半には行政の中心がトプカプ宮殿を離れて,大宰相府(バーブ・アーリーBāb-ıĀlī,Sublime Porte)へ移行した。アナトリア,バルカン,歴史的シリアでは,ワーリー(vali,wālī,旧ベイレルベイ),ムタサッルフ(mutasarrıf,旧サンジャクベイ)が影響力を喪失して代官(ミュテセッリムmütesellim)が地方行政を牛耳り,また,ティマール制は,制度としては存在したが実質を失い,徴税機構は,ミュルテジムmültezimと呼ばれる請負人による徴税請負制(イルティザーム)に代わった。代官はふつう,当該地域の最大のミュルテジムであった。ティマール制のもとで維持されていた自営の小農民による土地保有は部分的に解体され,とくに河川流域の肥沃な地帯や交通の要路には,チフトリキ(私的大土地所有)が発達した。イルティザームとチフトリキとを経済的・社会的基盤としてアーヤーンと総称される在地の有力者層が台頭して,代官職や各種の徴税官職を独占し,カーディーの主宰するシャリーア法廷に干渉すると,帝国の中央集権的イスラム国家体制は,アナトリアとバルカンにおいてさえ,重大な危機に直面した。アーヤーン層は,都市において,ハーン,店舗,搾油所,家屋などを建設し,その収入によってモスク,マドラサ,ザーウィヤ,給水施設などの宗教・社会施設をつくって都市化を促進した。それ以外の地域でも在地勢力の台頭は顕著であった。アラビア半島では,18世紀半ばにワッハーブ派が起こり,一時期オスマン帝国の支配を排除することに成功した。エジプトでは,イルティザーム制のもとにマムルーク軍人が勃興し,中央政府の派遣する総督(その多くはパシャの称号を与えられた)を傀儡(かいらい)化した。シリアでもアーヤーン勢力の伸張がみられたが,18世紀末にはボスニア地方出身のアフマド・ジャッザール・パシャAḥmad Jazzār Paşa(?-1804)の過酷な支配を受けた。北アフリカではデイdeyないしはベイbeyを名のる軍人層が実権を握り,帝国支配はすでに名目的なものとなった。

18世紀以後,地中海やバルカンを経由して帝国各地とヨーロッパ諸国との貿易が拡大すると,帝国内部では,これと結びついて非ムスリム商人が勃興した。とくにバルカンでは,征服当初都市を離れていたバルカン諸民族が都市に移り,ムスリム商工民と競合し,彼らの間に民族独立運動が芽生えた。1699年のカルロビツ条約でハンガリーを放棄して東欧から後退した帝国は,18世紀を通じてバルカンへの南進をねらうロシアと抗争したが(露土戦争),1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって,その弱体化を露呈した。帝国の抱える内部的分裂,民族的・地域的対立を利用することによって,中東への政治的・経済的侵出を果たそうとするヨーロッパ列強は,キリスト教徒少数民の権利保障,国内通行税の廃止をはじめとする法体系の一本化などを要求した。これに対して歴代のスルタンは,軍事,行政,教育,法制などの分野における西欧化改革を進めることによって,ヨーロッパの要求にこたえつつ,自己の中央集権的専制支配を再確立する道を模索した。

西欧化とその反響

セリム3世Selim Ⅲ,(在位1789-1807)が新設した西欧型新軍団〈ニザーミ・ジェディードNizam-ı Cedid〉に象徴されるように,帝国の改革はまず軍事組織から始まった。マフムト2世(在位1808-39)は,イエニチェリ軍団を全廃し,同時にこれと結びついたベクターシュ教団を閉鎖し(1826),中央官制を改革して大宰相(サドラザム)に集中していた権力を分散させて,スルタンの権限を強化した。彼はアナトリアとバルカンのアーヤーン相互の間に存在した対立を利用して,彼らの政治的影響力を弱めることによって中央集権体制の強化に成功した。しかし,彼の一連の政策は地方民衆の反発をうけ,これを利用したエジプトのムハンマド・アリーがその軍隊を西アナトリアに進軍させると,ヨーロッパ列強はこぞって干渉し,〈東方問題〉はいっそう激化した。エジプト問題に対してイギリスの支援をあてにしたマフムト2世が1838年に締結したイギリス・トルコ通商は,その後ヨーロッパ諸国との間にも一連の通商条約を結ぶ結果となり,それによってヨーロッパ工業製品の流入をひきおこし,土着産業の衰退をもたらした。翌39年のギュルハネ勅令を契機としたタンジマート(1839-76)改革期を通じて,帝国の行政,法律,教育の西欧化がさらに徹底して進められた。その結果,唯一絶対性を誇ったシャリーアは相対化され,シャリーア法廷の枠外にムスリムと非ムスリムとの間の民事・商事訴訟を取り扱う混合裁判所が設置されるなど,イスラム国家から西欧型世俗国家への移行が進展した。一方,教育の西欧化は,新しいタイプの軍人,官僚,技術者,弁護士,知識人を生み出し,司法や教育分野におけるウラマーの影響力を低下させた。国家レベルにおけるこのような改革にもかかわらず,経済・財政面におけるヨーロッパ諸国への従属は,19世紀を通じて深まり,75年には外債利子の支払不能を宣言せざるを得なくなり,以後,帝国は経済的自主性を喪失した。こうした事態に対して,先にあげた新しいタイプのエリート層は〈新オスマン人〉を名のり,反専制・自由主義・立憲を標榜した運動を展開し,76年にミドハト憲法にもとづく第1次立憲制の樹立に成功したが,やがて,パン・イスラム主義の装いのもとに専制によるオスマン帝国体制を維持しようとしたアブデュルハミト2世(在位1876-1909)の弾圧のもとに沈黙をよぎなくされた。しかし,アブデュルハミトが西欧列強と同じように,国内における地域,民族,宗教,宗派にもとづく対立を利用して被支配民族の自立要求を弾圧したことは,アルメニア問題など将来に大きな禍根を残した。アブデュルハミトの専制支配下に,新聞,雑誌,小説などジャーナリズムの発達によって西欧化はかえって深まって民衆レベルに到達した。また〈帝国の救済〉をめぐる思想潮流は,オスマン主義,パン・トルコ主義(トゥラン主義),イスラム改革主義の間をゆれ動いた。1908年の〈青年トルコ〉革命は,アブデュルハミトの専制を打倒することに成功した(第2次立憲制)が,列強の激しい干渉,思想的・政治的混乱があいつぎ,13年以降青年将校による軍部独裁体制が確立し,そのもとで帝国は第1次世界大戦に加わり敗北した。大戦中にアラブが独立し,敗戦後トルコ革命が成就すると,22年11月,スルタン制が廃止されて,オスマン帝国は,ここに消滅した。
[永田 雄三]

[索引語]
Osman アーリ・オスマン オットマン Ottoman オスマン・トルコ語 ソユット Söğüt アヒー デルウィーシュ アクリタイ ニコポリスの戦 Nicopolis バルナの戦 Varna スルタン・カリフ制 ベイ bey ムラト1世 パーディシャー pādişāh ハーカーン hākān シェイヒュル・イスラム ディーワーヌ・ヒュマーユーン divan-ı hümayun ファトワー エヤーレト サンジャク[県] カザー ベイレルベイ サンジャクベイ sancakbeyi カザスケル kazasker ミーリー miri ミッレト制 アスケリー askerı レアーヤー reaya オスマンル Osmanlı kaba türkçe トルコ人 カピチュレーション パクス・オトマニカ ジェラーリー反乱 Celali バーブ・アーリー Sublime Porte vali wālī ミュテセッリム mütesellim ミュルテジム mültezim イルティザーム アーヤーン アフマド・ジャッザール・パシャ Aḥmad Jazzār Paşa デイ dey ベイ bey セリム3世 Selim Ⅲ ニザーミ・ジェディード イギリス・トルコ通商 混合裁判所 ミドハト憲法
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検索コンテンツ
1. オスマン帝国画像
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8. アシール
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12. アタテュルク(Atatürk, Mustafa Kemal)
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15. アッバース・ヒルミー2世(‘Abbās Hilmī)
世界人名大辞典
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18. アデン
世界大百科事典
ふくめ,経済的・軍事的重要拠点として時の強国の垂涎の的となった。1513年にはポルトガルの攻撃をうけ,38年オスマン帝国,1635年ザイド派イマーム,1839年
19. アドゥヴァル ハリデ・エディプ
世界文学大事典
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20. アドリアノープル条約
世界大百科事典
意図するロシアが,オスマン帝国の内政へ干渉したことを契機に,28年4月に両国は開戦した。ペロポネソス半島のギリシア人とも戦わねばならなかったオスマン帝国は苦戦し
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22. アバディーン(Aberdeen, George Hamilton Gordon, 4th Earl of)
世界人名大辞典
立内閣を組織し,首相となる[52-55].懸案事だった第2次議会改革を実現する前にロシアがオスマン帝国と戦争状態に入り[53],パーマストンら閣内の主戦派に引き
23. アパフィ・ミハーイ1世(〔ハンガリー〕Apaffy Mihály I)
世界人名大辞典
〔1632.11.3~90.4.15〕 トランシルバニア公.オスマン帝国の宗主権下にあったトランシルバニア(〔ハンガリー〕Erdély 〔独〕Siebenbür
24. アフガーニー
日本大百科全書
激しく攻撃し、イランにおけるタバコ・ボイコット運動、立憲主義運動に影響を与えた。1892年、オスマン帝国のアブデュル・ハミト2世は、その汎イスラム主義を利用する
25. アフガーニー(Jamāl al-Dīn al-Afghānī)
世界大百科事典
シャー暗殺事件の激動が始まった。90年以降,彼をパン・イスラム主義の立場で利用しようとしたオスマン帝国スルタン,アブデュルハミト2世に迎えられてイスタンブールへ
26. アフマディー教団
世界大百科事典
つくられたといわれている。教団として有力になってくるのは15世紀の中ごろ以降のことである。オスマン帝国の支配時代にも発展し,エジプトで最も有力な教団に成長した。
27. アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Aḥmad Shāh Durrānī)
世界大百科事典
彼は北インドへ侵入をくりかえし,またイラン北東部へも領土を広めた。その勢力は当時のイスラム世界ではオスマン帝国に次ぐものであった。勝藤 猛 Aḥmad Shāh
28. アフメト1世(Ahmed I)
世界人名大辞典
〔1590.4.18~1617.11.22〕 オスマン帝国の第14代の君主[1603/17].メフメト3世の子.西ではハプスブルク家,東ではサファヴィー朝との戦
29. アフメト2世(Ahmed II)
世界人名大辞典
〔1643.2.25~95.2.6〕 オスマン帝国の第21代の君主[1691/95].イブラヒム(İbrahim)の子.父の廃位後,2人の兄(メフメト4世,スレ
30. アフメト3世(Ahmed III)
世界人名大辞典
〔1673~1736〕 オスマン帝国の第23代の君主[1703/30].メフメト4世の子.母はエメトゥッラー・ギュルヌーシュ妃(Emetullah Gülnuş
31. アフメト・ウェフィク・パシャ(Ahmet Vefik Paşa)
世界大百科事典
1819-91 オスマン帝国の政治家,文人。外交官の子で,自らも外交官として活躍した後,初代の国会議長,総理大臣を歴任した。しかし,モリエールからの多数の翻訳・
32. アフメト・ジェヴデト・パシャ(Ahmed Cevdet Paşa)
世界人名大辞典
〔1823~95.5.24(25)〕 オスマン帝国の歴史家,政治家.ロフチャ(現ブルガリア)の名家に生まれ,ウラマーとしての教育を受ける.のち諸学を学び,地方法
33. アフメト・タシュキョプリュザーデ(Ahmed Taşköprüzâde)
世界人名大辞典
〔1495~1561〕 オスマン帝国の法学者,伝記作者.ウラマーの名家に生まれ,自身も各地のマドラサの教授を務め,イスタンブールの法官まで出世した[1552].
34. アフメト・テヴフィク・パシャ(Ahmed Tevfik Paşa)
世界人名大辞典
〔1845.2.11~1936.10.8〕 オスマン帝国末期の政治家.オスマン帝国最後の大宰相.クリミア・ハン家の血をひく名家の出.オスマン政府翻訳局に入り,の
35. アフメト・パシャ(Ahmet Psşs Humbaracı)
世界大百科事典
Alexandre de Bonneval。フランス,後にオーストリアで軍務についたが,1729年にオスマン帝国に亡命し,イスラムに改宗してアフメトと名のった。
36. アフメト・パシャ(フンバラジュ)(Ahmed Paşa (Humbaracı))
世界人名大辞典
フランス出身のオスマン帝国軍人.砲兵隊長.フランス名家の出.軍人として出世するがルイ14世の不興を買い,国外追放[1704].イタリアを経て,オーストリア軍に入
37. アフメト・ルザー(Ahmed Rıza)
世界人名大辞典
〔1858~1930.2.26〕 オスマン帝国末期の政治家,思想家.オスマン官僚の父とオーストリア系の母をもつ.農業研究のためパリで学ぶ.その間に〈統一と進歩〉
38. アフメト・ヴェフィク・パシャ(Ahmed Vefik Paşa)
世界人名大辞典
〔1813?~91.4.1〕 オスマン帝国の政治家,文人,劇作家.オスマン帝国の改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの保護をうけパリへ留学[1834-37].帰
39. アフリカ画像
日本大百科全書
、初期の、西端のモロッコとガーナ帝国(現、モーリタニア南東部)を結ぶものから、16世紀以後オスマン帝国の支配下にあったリビア、チュニジアとチャド湖周辺のボルヌー
40. アフリカ画像
世界大百科事典
出したオスマン帝国との接触が盛んであった。騎馬兵の装束,鉄砲,大型の金管楽器など,のちにナイジェリアのヌペ,ハウサ諸国,カメルーン北部の諸王国にもとり入れられた
41. アブデュルアジーズ(Abdülaziz)
世界大百科事典
1830-76 オスマン帝国の第32代スルタン。在位1861-76年。帝の治世はタンジマート後期にあたり,西欧化改革の推進につとめたが,バルカン諸民族のあいつぐ
42. アブデュルアズィズ(Abdülaziz)
世界人名大辞典
〔1830.2.9~76.6.4〕 オスマン帝国の第32代の君主[1861/76].マフムト2世の子.西洋式の教育をうけ,兄アブデュルメジトを継いで即位.アーリ
43. アブデュルハク・ハーミト・タルハン(Abdülhak Hâmid Tarhan)
世界人名大辞典
〔1852.1.2~1937.4.12〕 オスマン帝国の外交官,詩人,劇作家.外交官として長年ヨーロッパ諸国やインドに赴任するかたわら,トルコの詩壇に対して西欧
44. アブデュル・ハミト(2世)
日本大百科全書
オスマン・トルコ帝国第34代スルタン(在位1876~1909)。兄ムラト5世が病気を理由に廃位されたのち、オスマン帝国憲法の制定を約して即位した。1876年、ミ
45. アブデュルハミト[2世](Abdülhamit Ⅱ)
世界大百科事典
1842-1918 オスマン帝国末期の専制君主,第34代スルタン。在位1876-1909年。即位当初,バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ諸列強の干渉をか
46. アブデュルハミト1世(Abdülhamid I)
世界人名大辞典
〔1725.5.20~89.4.7〕 オスマン帝国の第27代の君主[1774/89].アフメト3世の子.父の失脚後,宮廷に44年間幽閉されたが,兄ムフタファ3世
47. アブデュルハミト2世(Abdülhamid II)
世界人名大辞典
〔1842.9.22~1918.2.10〕 オスマン帝国の第34代の君主[1876/1909].スルタンのアブデュルメジトの子.叔父にあたるスルタンのアブデュル
48. アブデュルメジト(Abdülmecid)
世界人名大辞典
〔1823.2.23~61.6.25〕 オスマン帝国の第31代,タンズィマート改革期の君主[1839/61].マフムト2世の子.西洋式の教育をうけ,フランス語に
49. アブドゥッラー・イブン・フサイン(1世)(‘Abdullāh ibn Ḥusayn)
世界人名大辞典
1].マッカ(メッカ)太守フサイン(ヒジャーズ王)の次子.第一次大戦ではイギリスと提携し,オスマン帝国に対するアラブ反乱の指導者として戦った.イギリスの委任統治
50. アミダ
世界大百科事典
現トルコ領ディヤルバクル。ペルシア領から230年にローマ帝国領。638年にアラブ人に征服され,1517年にオスマン帝国領。早くからキリスト教の宣教が行われ,確認
「オスマン帝国」の情報だけではなく、「オスマン帝国」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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