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  11. 佐久間象山

佐久間象山

ジャパンナレッジで閲覧できる『佐久間象山』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
佐久間象山
さくましょうざん
一八一一 - 六四
江戸時代後期の思想家。松代藩士。実名は初め国忠、のちに啓(ひらき)、またの名を大星という。幼名は啓之助、通称は修理(しゅり)、字は初め子迪(してき)、のちに子明、象山はその号である。文化八年(一八一一)二月二十八日に信州松代城下に生まれる。父の国善(通称一学)は五両五人扶持で側右筆、表右筆組頭を勤めたが、卜伝流の剣術の達人で道場を開いており、和漢の学にも通じていた。象山は、幼時、腕白なきかん坊であったが、きわめて利発で、やがて家老鎌原(かんばら)桐山などから経学文章を、町田源左衛門から和算を学ぶ。十八歳で家督を継ぎ、天保四年(一八三三)江戸に出て佐藤一斎に師事するが、朱子学を信ずる彼は、一斎が陽明学を奉ずるのに不満で、文章詩賦しか学ばぬと称していたという。七年初め帰藩したが、十年江戸に再遊、神田阿玉池に塾を開く。同十二年江戸藩邸学問所頭取となるが、この当時までは伝統的な漢学の修得に没頭していた。アヘン戦争の情報に衝撃を受けた象山は、老中で海防掛となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられたことも加わって、俄かに対外的危機に目覚め、以後海防の問題に専心する。天保十三年十一月の藩主宛上書は、西洋列強と戦争になった場合勝目がないとして、オランダより船を購入すると同時に教師を招き、大船・大砲を充実すべきことなどを説いたもので、「海防八策」とよばれる。その九月に西洋砲術を学ぶため江川坦庵(太郎左衛門)に入門していたが、みずから原書を読む必要を痛感して、三十四歳の弘化元年(一八四四)黒川良安に就いてオランダ語を学び始めた。嘉永二年(一八四九)『ドゥーフ=ハルマ』の改訂・出版を企てるが、幕府の許可が下りず中絶した。同四年江戸木挽町に塾を開き、西洋真伝を標榜して砲術を教えたが、弟子には必ず砲術と儒学を兼修させた。門下に勝海舟・吉田松陰・加藤弘之らがいる。この前後に各藩の依頼でたびたび大砲を鋳造し、嘉永五年には易の原理で砲術の理論を説明した『〓卦』を著わす。この間、天保十四年に郡中横目役(弘化四年まで)、翌弘化元年に佐野・湯田中・沓野三ヶ村利用係を命ぜられ、嘉永四年までたびたび藩地に戻り、その地の開発に尽力する。また、天保十四年に佐久間氏の旧禄百石に加増され、嘉永五年四十二歳の折に勝海舟の妹順子を娶っている。嘉永六年のペリー来航とともに、西洋事情探索と国力充実の必要を一層強調したが、翌安政元年(一八五四)四月吉田松陰に密航を慫慂した廉で幕府に捕えられ、九月に松代で蟄居するよう命じられた。『省〓録』はこの獄中の感懐を記したものである。蟄居中、閑寂を楽しみ蘭書の学習に精進するが、知己との情報交換を怠らず、安政五年の日米修好通商条約締結の際には、藩の家老を通して米国との折衝案を幕府要路へ送る一方、京都の梁川星巌へ密使を出し公武融和を働きかけた。文久二年(一八六二)九月には時事を痛論した幕府への上書稿を書き、十二月には攘夷の不可と積極的な貿易・海外進出を説いた意見書を藩主へ提出する。同月末九年ぶりで赦免されるが、この前後になされた高知藩と萩藩、さらに翌三年の朝廷からの招聘は、藩内の反対派からは象山追出しの具とされようとした。元治元年(一八六四)三月幕府の徴命を受けて上洛、海陸御備向手付御雇(四十人扶持十五両)となる。京都では公武合体論と開国進取説に立脚して、一橋慶喜や皇族・公卿の間を奔走したが、七月十一日に三条木屋町筋で尊攘派に斬殺された。禁門の変の七日前であり、変に備え天皇を彦根へ遷すよう画策していたことが、直接の原因であった。時に五十四歳。遺骸は花園妙心寺大法院に葬られる。法名は清光院仁啓守心居士。象山が自己の使命としたのは、対外的危機を克服するため、優越した西洋の科学技術を摂取して国力を充実することであった。その場合、西洋の国力の基礎を自然科学ないし実験的思考にまでさかのぼって捉えた点に、彼の特徴がある。この背後には、格物窮理を重視する彼の朱子学があった。彼は格物窮理の観念を媒介として西洋の科学技術を理解、導入したが、その過程は儒教の格物窮理を自然科学的、実験的方法に読み直していくことであった。大砲の鋳造から硝石や写真器の製作、豚飼育や馬鈴薯栽培の奨励といった行動には、実験的精神の萌芽が認められよう。その反面、社会政治制度の面については、彼の眼は比較的に狭く、幕藩体制の身分秩序を天地自然の秩序とみる朱子学的見方を最後まで保持した。これがその自然科学的思考の一層の展開を妨げると同時に、その西洋理解を科学技術面に限定した。「東洋道徳、西洋芸術」の観念がここから出てくる。たしかに蘭学の習得につれその視野は世界に拡大したが、彼の夷狄観批判は、それが西洋科学技術の摂取と西洋諸国に対する現実的対応とを妨げるという点に根拠があった。彼の対外論は、初期の避戦論から積極的な貿易・海外進出論に発展したが、これは押しつけられた「開国」を、日本が世界を席捲する第一歩へ転じようとするものにほかならなかった。『(増訂)象山全集』全五巻がある。
[参考文献]
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山高野長英佐久間象山横井小楠橋本左内』(『日本思想大系』五五)、宮本仲『佐久間象山』、大平喜間多『佐久間象山』(『人物叢書』二三)、植手通有『日本近代思想の形成』、信夫清三郎『象山と松陰』、丸山真男「幕末における視座の変革―佐久間象山の場合―」(『展望』一九六五年五月号)
(植手 通有)


日本大百科全書(ニッポニカ)
佐久間象山
さくましょうざん
[1811―1864]

幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い。
1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家(りんけ)の塾頭佐藤一斎(さとういっさい)の門に入った。ただし、すでに純乎(じゅんこ)たる朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。1842年、主君真田幸貫(さなだゆきつら)が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢(ばってき)され、命を受けて、アヘン戦争(1840~1842)で険悪化した海外事情を研究し、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学(らんがく))修業の必要を痛感した象山は、1844年(弘化1)34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得し、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収し、その応用にも心がけた。1851年(嘉永4)江戸に移住して塾を開き、砲術・兵学を教えた。このころから西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰(よしだしょういん)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らの俊才が続々入門した。1853年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十条」を提出する一方、愛弟子(まなでし)吉田松陰に暗に外国行きを勧めた。しかし1854年(安政1)に決行された松陰の海外密航は失敗に帰し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居(ちっきょ)させられた。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。1862年(文久2)蟄居を解かれ、1864年(元治1)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日ついに斬殺(ざんさつ)された。享年54歳。
象山の知的世界――変革的意識とエリート意識に立脚する政治的世界と照応する――は、人間の内なる理(倫理)を究める「東洋の道徳」と、人間の外なる天地万物の理(物理)を明らかにする「西洋の芸術」によって構成され、「倫理」と「物理」を連続的にとらえることによって天人合一の境地に達しようとする朱子学によって統轄されており、その朱子学は幼年期から熟通していた易道と深く結び付いていた。著書には『省諐録(せいけんろく)』『礮卦(ほうけ)』などがある。
[石毛 忠]2016年5月19日



改訂新版 世界大百科事典
佐久間象山
さくましょうざん
1811-64(文化8-元治1)

幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。儒学を学び朱子学を信奉する。1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840-42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。これを機に蘭書学習に精進する一方,蟄居中にもかかわらず,たびたび意見書を書いて要路に働きかける。63年(文久3)初め赦免,64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り,海陸御備向手付御雇となるが,7月に尊攘派によって暗殺された。禁門の変を前にして,天皇を彦根へ移すよう画策していたことが,その直因である。

象山が課題としたのは,対外的危機を克服するため,海外の事情を知ると同時に,西洋の科学技術を導入して国力を充実することであった。その場合,西洋砲術の師江川坦庵らとは異なって,みずからオランダ語を学び,武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いたばかりでなく,西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ,それを根本から摂取しようとした点に,彼の特徴がある。こうした態度の基礎には,彼の儒学の素養,とくにものごとの理を究めることを重んずる朱子学的な格物窮理の観念があった。その反面,彼には幕藩体制の階層秩序を天地自然のものと見る朱子学的な社会観が固持されており,これが西洋の文物に対する彼の関心が社会政治制度の面に向かうのを妨げた。〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念がここに生ずる。蘭学の学習とともに,彼の視野は世界に向かって広がっていったが,その夷狄観批判は,夷狄観が西洋の科学技術の導入を妨害するからであって,必ずしも日本と西洋諸国との価値の上における平等を認めるものではなかった。またその開国論は,押しつけられた開国を,日本が世界を席巻するための第一歩に転じようとするものにほかならなかった。著書に《省諐録(せいけんろく)》などがある。
[植手 通有]

[索引語]
東洋道徳・西洋芸術 象山 海防 江川太郎左衛門
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1811-64(文化8-元治1) 幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。
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29. アヘン戦争画像
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32. 伊藤博文[文献目録]
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そしてその翌年九月には英竜に西洋砲術の教授を許可した。そのため入門するものは、幕臣川路聖謨・松代藩士佐久間象山はじめ、約一ヵ月の間に百名近くにのぼった。また同じ
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鋭音号令(気ヲ付ケ、前ヘナラエ、捧(ささ)ゲ銃(つつ))の考案、パンの製作などがある。門人には、佐久間象山(しょうざん)、川路聖謨(としあきら)、阿部正弘(まさ
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45. おおいしむら【大石村】長野県:小県郡/東部町
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46. 大国隆正[文献目録]
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の事蹟』大森金五郎『大国隆正先生に就て』五弓安二郎『大国隆正と帰正館』沖本常吉『大国隆正と佐久間象山』金子英二『大国隆正と里井浮丘』緒方梅歌『大国隆正と鈴木重胤
47. おおだにむら【大谷村】鳥取県:米子市
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求馬の甥盤谷は医術のほか儒学・武芸に通じ、とくに絵画に秀でたという。天保八年(一八三七)以降諸国を遍歴、佐久間象山とも親交を結び勤皇運動に加わった。晩年は長野県
48. おおつき-りゅうのしん【大槻竜之進】
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享和2年生まれ。大槻俊斎の兄。陸奥(むつ)仙台藩の重臣片倉氏の家臣。砲術を高島秋帆,江川英竜,佐久間象山にまなぶ。安政3年藩の大番士となり,西洋砲術教授として活
49. おがわらむら【小河原村】長野県:須坂市
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取り立てた。近代養蚕盛行に一役買った蚕種家は、高畑に桑園の所有を心掛けた。口碑では、新田の北村菊蔵は佐久間象山から旱魃地に桑が適するとの指示を得て、上州から桑の
50. 荻生徂徠[文献目録]
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荻生徂徠』相良亨『経世論者としての荻生徂徠と本多利明』有賀春雄『嵩山房と徂徠先生』頓智二『佐久間象山と蕃山徂徠との関係及其性格』飯島忠夫『庶民と儒学 徂徠学とそ
「佐久間象山」の情報だけではなく、「佐久間象山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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