卦』を著わす。この間、天保十四年に郡中横目役(弘化四年まで)、翌弘化元年に佐野・湯田中・沓野三ヶ村利用係を命ぜられ、嘉永四年までたびたび藩地に戻り、その地の開発に尽力する。また、天保十四年に佐久間氏の旧禄百石に加増され、嘉永五年四十二歳の折に勝海舟の妹順子を娶っている。嘉永六年のペリー来航とともに、西洋事情探索と国力充実の必要を一層強調したが、翌安政元年(一八五四)四月吉田松陰に密航を慫慂した廉で幕府に捕えられ、九月に松代で蟄居するよう命じられた。『省
録』はこの獄中の感懐を記したものである。蟄居中、閑寂を楽しみ蘭書の学習に精進するが、知己との情報交換を怠らず、安政五年の日米修好通商条約締結の際には、藩の家老を通して米国との折衝案を幕府要路へ送る一方、京都の梁川星巌へ密使を出し公武融和を働きかけた。文久二年(一八六二)九月には時事を痛論した幕府への上書稿を書き、十二月には攘夷の不可と積極的な貿易・海外進出を説いた意見書を藩主へ提出する。同月末九年ぶりで赦免されるが、この前後になされた高知藩と萩藩、さらに翌三年の朝廷からの招聘は、藩内の反対派からは象山追出しの具とされようとした。元治元年(一八六四)三月幕府の徴命を受けて上洛、海陸御備向手付御雇(四十人扶持十五両)となる。京都では公武合体論と開国進取説に立脚して、一橋慶喜や皇族・公卿の間を奔走したが、七月十一日に三条木屋町筋で尊攘派に斬殺された。禁門の変の七日前であり、変に備え天皇を彦根へ遷すよう画策していたことが、直接の原因であった。時に五十四歳。遺骸は花園妙心寺大法院に葬られる。法名は清光院仁啓守心居士。象山が自己の使命としたのは、対外的危機を克服するため、優越した西洋の科学技術を摂取して国力を充実することであった。その場合、西洋の国力の基礎を自然科学ないし実験的思考にまでさかのぼって捉えた点に、彼の特徴がある。この背後には、格物窮理を重視する彼の朱子学があった。彼は格物窮理の観念を媒介として西洋の科学技術を理解、導入したが、その過程は儒教の格物窮理を自然科学的、実験的方法に読み直していくことであった。大砲の鋳造から硝石や写真器の製作、豚飼育や馬鈴薯栽培の奨励といった行動には、実験的精神の萌芽が認められよう。その反面、社会政治制度の面については、彼の眼は比較的に狭く、幕藩体制の身分秩序を天地自然の秩序とみる朱子学的見方を最後まで保持した。これがその自然科学的思考の一層の展開を妨げると同時に、その西洋理解を科学技術面に限定した。「東洋道徳、西洋芸術」の観念がここから出てくる。たしかに蘭学の習得につれその視野は世界に拡大したが、彼の夷狄観批判は、それが西洋科学技術の摂取と西洋諸国に対する現実的対応とを妨げるという点に根拠があった。彼の対外論は、初期の避戦論から積極的な貿易・海外進出論に発展したが、これは押しつけられた「開国」を、日本が世界を席捲する第一歩へ転じようとするものにほかならなかった。『(増訂)象山全集』全五巻がある。幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い。
1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家(りんけ)の塾頭佐藤一斎(さとういっさい)の門に入った。ただし、すでに純乎(じゅんこ)たる朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。1842年、主君真田幸貫(さなだゆきつら)が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢(ばってき)され、命を受けて、アヘン戦争(1840~1842)で険悪化した海外事情を研究し、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学(らんがく))修業の必要を痛感した象山は、1844年(弘化1)34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得し、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収し、その応用にも心がけた。1851年(嘉永4)江戸に移住して塾を開き、砲術・兵学を教えた。このころから西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰(よしだしょういん)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らの俊才が続々入門した。1853年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十条」を提出する一方、愛弟子(まなでし)吉田松陰に暗に外国行きを勧めた。しかし1854年(安政1)に決行された松陰の海外密航は失敗に帰し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居(ちっきょ)させられた。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。1862年(文久2)蟄居を解かれ、1864年(元治1)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日ついに斬殺(ざんさつ)された。享年54歳。
象山の知的世界――変革的意識とエリート意識に立脚する政治的世界と照応する――は、人間の内なる理(倫理)を究める「東洋の道徳」と、人間の外なる天地万物の理(物理)を明らかにする「西洋の芸術」によって構成され、「倫理」と「物理」を連続的にとらえることによって天人合一の境地に達しようとする朱子学によって統轄されており、その朱子学は幼年期から熟通していた易道と深く結び付いていた。著書には『省諐録(せいけんろく)』『礮卦(ほうけ)』などがある。
2016年5月19日
幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。儒学を学び朱子学を信奉する。1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840-42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。これを機に蘭書学習に精進する一方,蟄居中にもかかわらず,たびたび意見書を書いて要路に働きかける。63年(文久3)初め赦免,64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り,海陸御備向手付御雇となるが,7月に尊攘派によって暗殺された。禁門の変を前にして,天皇を彦根へ移すよう画策していたことが,その直因である。
象山が課題としたのは,対外的危機を克服するため,海外の事情を知ると同時に,西洋の科学技術を導入して国力を充実することであった。その場合,西洋砲術の師江川坦庵らとは異なって,みずからオランダ語を学び,武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いたばかりでなく,西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ,それを根本から摂取しようとした点に,彼の特徴がある。こうした態度の基礎には,彼の儒学の素養,とくにものごとの理を究めることを重んずる朱子学的な格物窮理の観念があった。その反面,彼には幕藩体制の階層秩序を天地自然のものと見る朱子学的な社会観が固持されており,これが西洋の文物に対する彼の関心が社会政治制度の面に向かうのを妨げた。〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念がここに生ずる。蘭学の学習とともに,彼の視野は世界に向かって広がっていったが,その夷狄観批判は,夷狄観が西洋の科学技術の導入を妨害するからであって,必ずしも日本と西洋諸国との価値の上における平等を認めるものではなかった。またその開国論は,押しつけられた開国を,日本が世界を席巻するための第一歩に転じようとするものにほかならなかった。著書に《省諐録(せいけんろく)》などがある。
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