ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 佐久間象山
国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典
佐久間象山
さくましょうざん
一八一一 - 六四
江戸時代後期の思想家。松代藩士。実名は初め国忠、のちに啓(ひらき)、またの名を大星という。幼名は啓之助、通称は修理(しゅり)、字は初め子迪(してき)、のちに子明、象山はその号である。文化八年(一八一一)二月二十八日に信州松代城下に生まれる。父の国善(通称一学)は五両五人扶持で側右筆、表右筆組頭を勤めたが、卜伝流の剣術の達人で道場を開いており、和漢の学にも通じていた。象山は、幼時、腕白なきかん坊であったが、きわめて利発で、やがて家老鎌原(かんばら)桐山などから経学文章を、町田源左衛門から和算を学ぶ。十八歳で家督を継ぎ、天保四年(一八三三)江戸に出て佐藤一斎に師事するが、朱子学を信ずる彼は、一斎が陽明学を奉ずるのに不満で、文章詩賦しか学ばぬと称していたという。七年初め帰藩したが、十年江戸に再遊、神田阿玉池に塾を開く。同十二年江戸藩邸学問所頭取となるが、この当時までは伝統的な漢学の修得に没頭していた。アヘン戦争の情報に衝撃を受けた象山は、老中で海防掛となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられたことも加わって、俄かに対外的危機に目覚め、以後海防の問題に専心する。天保十三年十一月の藩主宛上書は、西洋列強と戦争になった場合勝目がないとして、オランダより船を購入すると同時に教師を招き、大船・大砲を充実すべきことなどを説いたもので、「海防八策」とよばれる。その九月に西洋砲術を学ぶため江川坦庵(太郎左衛門)に入門していたが、みずから原書を読む必要を痛感して、三十四歳の弘化元年(一八四四)黒川良安に就いてオランダ語を学び始めた。嘉永二年(一八四九)『ドゥーフ=ハルマ』の改訂・出版を企てるが、幕府の許可が下りず中絶した。同四年江戸木挽町に塾を開き、西洋真伝を標榜して砲術を教えたが、弟子には必ず砲術と儒学を兼修させた。門下に勝海舟・吉田松陰・加藤弘之らがいる。この前後に各藩の依頼でたびたび大砲を鋳造し、嘉永五年には易の原理で砲術の理論を説明した『〓卦』を著わす。この間、天保十四年に郡中横目役(弘化四年まで)、翌弘化元年に佐野・湯田中・沓野三ヶ村利用係を命ぜられ、嘉永四年までたびたび藩地に戻り、その地の開発に尽力する。また、天保十四年に佐久間氏の旧禄百石に加増され、嘉永五年四十二歳の折に勝海舟の妹順子を娶っている。嘉永六年のペリー来航とともに、西洋事情探索と国力充実の必要を一層強調したが、翌安政元年(一八五四)四月吉田松陰に密航を慫慂した廉で幕府に捕えられ、九月に松代で蟄居するよう命じられた。『省〓録』はこの獄中の感懐を記したものである。蟄居中、閑寂を楽しみ蘭書の学習に精進するが、知己との情報交換を怠らず、安政五年の日米修好通商条約締結の際には、藩の家老を通して米国との折衝案を幕府要路へ送る一方、京都の梁川星巌へ密使を出し公武融和を働きかけた。文久二年(一八六二)九月には時事を痛論した幕府への上書稿を書き、十二月には攘夷の不可と積極的な貿易・海外進出を説いた意見書を藩主へ提出する。同月末九年ぶりで赦免されるが、この前後になされた高知藩と萩藩、さらに翌三年の朝廷からの招聘は、藩内の反対派からは象山追出しの具とされようとした。元治元年(一八六四)三月幕府の徴命を受けて上洛、海陸御備向手付御雇(四十人扶持十五両)となる。京都では公武合体論と開国進取説に立脚して、一橋慶喜や皇族・公卿の間を奔走したが、七月十一日に三条木屋町筋で尊攘派に斬殺された。禁門の変の七日前であり、変に備え天皇を彦根へ遷すよう画策していたことが、直接の原因であった。時に五十四歳。遺骸は花園妙心寺大法院に葬られる。法名は清光院仁啓守心居士。象山が自己の使命としたのは、対外的危機を克服するため、優越した西洋の科学技術を摂取して国力を充実することであった。その場合、西洋の国力の基礎を自然科学ないし実験的思考にまでさかのぼって捉えた点に、彼の特徴がある。この背後には、格物窮理を重視する彼の朱子学があった。彼は格物窮理の観念を媒介として西洋の科学技術を理解、導入したが、その過程は儒教の格物窮理を自然科学的、実験的方法に読み直していくことであった。大砲の鋳造から硝石や写真器の製作、豚飼育や馬鈴薯栽培の奨励といった行動には、実験的精神の萌芽が認められよう。その反面、社会政治制度の面については、彼の眼は比較的に狭く、幕藩体制の身分秩序を天地自然の秩序とみる朱子学的見方を最後まで保持した。これがその自然科学的思考の一層の展開を妨げると同時に、その西洋理解を科学技術面に限定した。「東洋道徳、西洋芸術」の観念がここから出てくる。たしかに蘭学の習得につれその視野は世界に拡大したが、彼の夷狄観批判は、それが西洋科学技術の摂取と西洋諸国に対する現実的対応とを妨げるという点に根拠があった。彼の対外論は、初期の避戦論から積極的な貿易・海外進出論に発展したが、これは押しつけられた「開国」を、日本が世界を席捲する第一歩へ転じようとするものにほかならなかった。『(増訂)象山全集』全五巻がある。
[参考文献]
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山高野長英佐久間象山横井小楠橋本左内』(『日本思想大系』五五)、宮本仲『佐久間象山』、大平喜間多『佐久間象山』(『人物叢書』二三)、植手通有『日本近代思想の形成』、信夫清三郎『象山と松陰』、丸山真男「幕末における視座の変革―佐久間象山の場合―」(『展望』一九六五年五月号)
(植手 通有)


日本大百科全書(ニッポニカ)
佐久間象山
さくましょうざん
[1811―1864]

幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い。
 1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家(りんけ)の塾頭佐藤一斎(さとういっさい)の門に入った。ただし、すでに純乎(じゅんこ)たる朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。1842年、主君真田幸貫(さなだゆきつら)が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢(ばってき)され、命を受けて、アヘン戦争(1840~1842)で険悪化した海外事情を研究し、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学(らんがく))修業の必要を痛感した象山は、1844年(弘化1)34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得し、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収し、その応用にも心がけた。1851年(嘉永4)江戸に移住して塾を開き、砲術・兵学を教えた。このころから西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰(よしだしょういん)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らの俊才が続々入門した。1853年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十条」を提出する一方、愛弟子(まなでし)吉田松陰に暗に外国行きを勧めた。しかし1854年(安政1)に決行された松陰の海外密航は失敗に帰し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居(ちっきょ)させられた。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。1862年(文久2)蟄居を解かれ、1864年(元治1)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日ついに斬殺(ざんさつ)された。享年54歳。
 象山の知的世界――変革的意識とエリート意識に立脚する政治的世界と照応する――は、人間の内なる理(倫理)を究める「東洋の道徳」と、人間の外なる天地万物の理(物理)を明らかにする「西洋の芸術」によって構成され、「倫理」と「物理」を連続的にとらえることによって天人合一の境地に達しようとする朱子学によって統轄されており、その朱子学は幼年期から熟通していた易道と深く結び付いていた。著書には『省諐録(せいけんろく)』『礮卦(ほうけ)』などがある。
[石毛 忠]2016年5月19日



改訂新版 世界大百科事典
佐久間象山
さくましょうざん
1811-64(文化8-元治1)

幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。儒学を学び朱子学を信奉する。1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840-42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。これを機に蘭書学習に精進する一方,蟄居中にもかかわらず,たびたび意見書を書いて要路に働きかける。63年(文久3)初め赦免,64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り,海陸御備向手付御雇となるが,7月に尊攘派によって暗殺された。禁門の変を前にして,天皇を彦根へ移すよう画策していたことが,その直因である。

 象山が課題としたのは,対外的危機を克服するため,海外の事情を知ると同時に,西洋の科学技術を導入して国力を充実することであった。その場合,西洋砲術の師江川坦庵らとは異なって,みずからオランダ語を学び,武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いたばかりでなく,西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ,それを根本から摂取しようとした点に,彼の特徴がある。こうした態度の基礎には,彼の儒学の素養,とくにものごとの理を究めることを重んずる朱子学的な格物窮理の観念があった。その反面,彼には幕藩体制の階層秩序を天地自然のものと見る朱子学的な社会観が固持されており,これが西洋の文物に対する彼の関心が社会政治制度の面に向かうのを妨げた。〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念がここに生ずる。蘭学の学習とともに,彼の視野は世界に向かって広がっていったが,その夷狄観批判は,夷狄観が西洋の科学技術の導入を妨害するからであって,必ずしも日本と西洋諸国との価値の上における平等を認めるものではなかった。またその開国論は,押しつけられた開国を,日本が世界を席巻するための第一歩に転じようとするものにほかならなかった。著書に《省諐録(せいけんろく)》などがある。
[植手 通有]

[索引語]
東洋道徳・西洋芸術 象山 海防 江川太郎左衛門
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。
佐久間象山の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 330
検索コンテンツ
1. 佐久間象山画像
日本大百科全書
幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般
2. 佐久間象山[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
3. 佐久間象山
世界大百科事典
1811-64(文化8-元治1) 幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。
4. さくま‐しょうざん【佐久間象山】
日本国語大辞典
幕末の学者。開国論者。信州松代藩士。名は啓(ひらき)、大星。通称は修理。象山は号で、一説に「ぞうざん」。佐藤一斎に師事、朱子学を修め、また蘭学・砲学に通じ、西洋
5. さくましょうざん【佐久間象山】画像
国史大辞典
[参考文献]佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山高野長英佐久間象山横井小楠橋本左内』(『日本思想大系』五五)、宮本仲『佐久間象山』、大平喜間多『佐久間象山
6. さくま-しょうざん【佐久間象山】画像
日本人名大辞典
1811−1864 江戸時代後期の武士,思想家。文化8年2月28日生まれ。妻は勝海舟の妹。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,
7. 佐久間象山[文献目録]
日本人物文献目録
佐久間象山』井野辺茂雄『佐久間象山』上山春平『佐久間象山』巌穴生『佐久間象山』神田霜堂『佐久間シャウ山』森銑三『佐久間象山』渡辺修二郎『佐久間象山 危機が生んだ
8. 佐久間象山
日本史年表
4・6( 5・2 ) 幕府、松代藩士 佐久間象山 を松陰に連座して投獄(維新史料綱要)。 1864年〈元治元(2・20) 甲子〉 7・11( 8・12 ) 佐久
9. 佐久間象山上書 (見出し語:佐久間象山)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 258ページ
10. 佐久間象山被蟄居 (見出し語:佐久間象山)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 585ページ
11. 佐久間象山通西洋砲術 (見出し語:佐久間象山)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 895ページ
12. 佐久間象山鑄造大砲 (見出し語:佐久間象山)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 948ページ
13. さくま-ぞうざん【佐久間象山】
日本人名大辞典
⇒さくま-しょうざん
14. 佐久間象山蔵書印[図版]画像
国史大辞典
象山書院 養性斎記 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
15. さくまぞうざんたくあと【佐久間象山宅跡】長野県:長野市/松代地区/松代城下/竹山町・有楽町
日本歴史地名大系
[現]長野市松代町竹山町 象山の東山麓にある。宅跡は象山の曾祖父三左衛門国品が初めて真田家に仕えた時、藩より与えられたものである。西面二八メートル、北面四四メー
16. 佐久間象山逸事(著作ID:974174)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんいつじ 
17. 佐久間象山学政意見書(著作ID:4335119)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんがくせいいけんしょ 佐久間象山(さくましょうざん) 
18. 佐久間象山吟味書(著作ID:848011)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんぎんみしょ 記録 嘉永七
19. 佐久間象山公務日記(著作ID:1003674)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんこうむにっき 公務日記 佐久間象山(さくましょうざん) 記録 元治元
20. 佐久間象山書翰(著作ID:1146696)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんしょかん 佐久間象山(さくましょうざん) 書簡 
21. 佐久間象山大志伝(著作ID:460106)
新日本古典籍データベース
さくましょうざんたいしでん 伝記 明治一五
22. 佐久間修理上書(著作ID:202164)
新日本古典籍データベース
さくましゅりじょうしょ 佐久間啓上書 佐久間修理建白 佐久間修理主家への上書 佐久間象山上書 象山上言 佐久間象山(さくましょうざん) 海防 
23. 会沢正志斎[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:14件 【逐次刊行物】:8件 『近世百傑伝』干河岸貫一『大日本思想全集 17 吉田松陰・佐久間象山集 附会沢正志集・浅見絅斎集』大日本思想全集刊行会(
24. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 260ページ
東洋文庫
自殺説もある。津田真道(真一郎)〔天元-充9一〕法学者。美作津 山藩士。江戸へ出て箕作玩甫、佐久間象山に洋学、 兵学を学び蕃書調所教授手伝並となる。文久二年 (
25. 秋山記行・夜職草 126ページ
東洋文庫
八嶋田彦八湯本に子孫の島田氏(当主は七代国男氏)で、家系は二代彦八、三代彦七となっている。佐久間象山がここを訪れたとき迎えに出たのは彦七と『鞘野旦記』にある。九
26. あ‐こく【亜国】
日本国語大辞典
また、アルゼンチンにあてた「亜米利加」「亜爾然丁」の略)〔一〕アメリカ。アメリカ合衆国。*佐久間象山上書稿‐文久二年〔1862〕九月「亜国へ漂流致候土州漁師の忰
27. 浅見絅斎[文献目録]
日本人物文献目録
『絅斎先生遺著要略 絅斎先生二百年祭紀事』小林正策(編)『大日本思想全集 17 吉田松陰・佐久間象山集 附会沢正志集・浅見絅斎集』大日本思想全集刊行会(編刊)『
28. ア‐じん【亜人】
日本国語大辞典
〔名〕(「亜」は「亜米利加(アメリカ)」)アメリカ人。*佐久間象山上書稿‐文久二年〔1862〕九月「備中守様御帰府之上、亜人へも又々御応接御座候等に至り」*漂流
29. アヘン戦争画像
世界大百科事典
阿片始末》をはじめ,戦争の経緯や清の敗因などを論じた書物が数多く著され,広く読まれている。佐久間象山,吉田松陰をはじめとする幕末の思想家たちの思想形成も,これら
30. いしぐろただのり【石黒忠悳】
国史大辞典
万延元年(一八六〇)越後片貝村に帰り、祖家の石黒姓を継いだ。文久三年(一八六三)信州松代に佐久間象山を訪い、強い影響を受ける。元治元年(一八六四)江戸に出て、柳
31. いちかわ-かねのり【市川兼恭】
日本人名大辞典
江戸後期-明治時代の洋学者。文政元年5月11日生まれ。緒方洪庵(こうあん),杉田成卿(せいけい),佐久間象山にまなぶ。江戸で医師を開業後,砲術をもって越前(えち
32. 伊藤博文[文献目録]
日本人物文献目録
伊藤博文』阿部真之助『故伊東巳代治伯「翠雨荘日記抄二」 博文と巳代治』伊東治正『公爵伊藤博文君』大橋乙羽『佐久間象山・谷重遠・子爵谷干城・本居宣長・公爵伊藤博文
33. いまづあさやまむら【今津朝山村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
行った。始関半左衛門は五大力船十数艘を所持し、江戸間輸送を手広く行っており、嘉永四年(一八五一)佐久間象山が姉崎海岸で試射したカノー砲を江戸から運んだとされる(
34. いわかどむら【岩門村】長野県:上田市/神科地区
日本歴史地名大系
る。文政七年(一八二四)岩門大日堂に寺子屋を開いた活文禅師のもとへ、文政一一年春、一八歳の佐久間象山が入門、松代(現長野市松代町)から地蔵峠(現小県郡真田町)を
35. 印刷電信
世界大百科事典
指示させるものである。日本へはペリー提督が54年(安政1)に幕府に献上したが,その前1849年(嘉永2)に佐久間象山がオランダの本《理学原始Eerste gro
36. うちやまたかすけ【内山隆佐】
国史大辞典
。諱は良隆、字は隆佐、号は貫斎。はじめ医学を大坂で学び、のち朝川善庵に政治経済の学を、また佐久間象山に砲術を学んだ。幕末の越前大野藩は山間の小藩であったことも加
37. うちやま-りゅうすけ【内山隆佐】
日本人名大辞典
幕末の武士。文化10年生まれ。内山七郎右衛門の弟。越前(えちぜん)(福井県)大野藩士。朝川善庵,佐久間象山にまなぶ。兄とともに藩政改革につとめる。安政3年藩の蝦
38. えがわけじゅうたく【江川家住宅】静岡県:田方郡/韮山町/韮山
日本歴史地名大系
で県指定文化財。〔韮山塾〕英龍による高島流砲術(洋式砲術)の教授は天保一三年(一八四二)の佐久間象山の入門に始まる。英龍の出府中は江戸で教授されたが、韮山に在る
39. えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】
国史大辞典
そしてその翌年九月には英竜に西洋砲術の教授を許可した。そのため入門するものは、幕臣川路聖謨・松代藩士佐久間象山はじめ、約一ヵ月の間に百名近くにのぼった。また同じ
40. 江川英龍画像
日本大百科全書
鋭音号令(気ヲ付ケ、前ヘナラエ、捧(ささ)ゲ銃(つつ))の考案、パンの製作などがある。門人には、佐久間象山(しょうざん)、川路聖謨(としあきら)、阿部正弘(まさ
41. えがわ-ひでたつ【江川英竜】
日本人名大辞典
36代太郎左衛門を称し,民政の改革につくす。海防のため高島秋帆(しゅうはん)に砲術をまなび,佐久間象山,木戸孝允(たかよし)らに教授。ペリー来航のとき勘定吟味役
42. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
特産物買上げ反対の騒擾。佐久間象山、幕府の夷狄観を批判。オランダに留学生派遣。『官板バタヒヤ新聞』1863(文久3)10月 長崎・江戸・京都市中に天誅の張紙18
43. 桜賦(著作ID:452471)
新日本古典籍データベース
おうふ 佐久間象山(さくましょうざん) 漢詩文 万延元
44. 桜賦(著作ID:728654)
新日本古典籍データベース
おうふ 佐久間象山(さくましょうざん) 撰 佐久間恪(さくまいそし) 注 漢詩文 
45. おおいしむら【大石村】長野県:小県郡/東部町
日本歴史地名大系
江戸中期の名力士雷電為右衛門は、ここで生れ、寛政八年(一七九六)から西方大関として一七年間在位した。幕末佐久間象山の銘で雷電の碑が建てられたが、雷電の墓や碑の破
46. 大国隆正[文献目録]
日本人物文献目録
の事蹟』大森金五郎『大国隆正先生に就て』五弓安二郎『大国隆正と帰正館』沖本常吉『大国隆正と佐久間象山』金子英二『大国隆正と里井浮丘』緒方梅歌『大国隆正と鈴木重胤
47. おおだにむら【大谷村】鳥取県:米子市
日本歴史地名大系
求馬の甥盤谷は医術のほか儒学・武芸に通じ、とくに絵画に秀でたという。天保八年(一八三七)以降諸国を遍歴、佐久間象山とも親交を結び勤皇運動に加わった。晩年は長野県
48. おおつき-りゅうのしん【大槻竜之進】
日本人名大辞典
享和2年生まれ。大槻俊斎の兄。陸奥(むつ)仙台藩の重臣片倉氏の家臣。砲術を高島秋帆,江川英竜,佐久間象山にまなぶ。安政3年藩の大番士となり,西洋砲術教授として活
49. おがわらむら【小河原村】長野県:須坂市
日本歴史地名大系
取り立てた。近代養蚕盛行に一役買った蚕種家は、高畑に桑園の所有を心掛けた。口碑では、新田の北村菊蔵は佐久間象山から旱魃地に桑が適するとの指示を得て、上州から桑の
50. 荻生徂徠[文献目録]
日本人物文献目録
荻生徂徠』相良亨『経世論者としての荻生徂徠と本多利明』有賀春雄『嵩山房と徂徠先生』頓智二『佐久間象山と蕃山徂徠との関係及其性格』飯島忠夫『庶民と儒学 徂徠学とそ
「佐久間象山」の情報だけではなく、「佐久間象山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

佐久間象山と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「佐久間象山」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
王翬(日本大百科全書・世界人名大辞典・世界大百科事典)
中国、清(しん)代初期の画家。王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王原祁(おうげんき)、呉歴(ごれき)、惲格(うんかく)とともにいわゆる四王呉惲(しおうごうん)の一人。字(あざな)は石谷、号は耕煙外史、烏目(うもく)山人
土方歳三(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八三五 - 六九 幕末・維新期の新撰組副長・幹部。歳蔵とも書く。天保六年(一八三五)武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)に出生。生家は石田散薬という家伝薬を副業とする旧家。父義醇、六人兄弟の末子。幼時に父母を失い
新渡戸稲造(日本大百科全書・世界大百科事典)
教育家、農政学者。文久(ぶんきゅう)2年9月1日、盛岡(岩手県盛岡市)に生まれる。東京英語学校を経て、1881年(明治14)札幌農学校卒業。同農学校在学中、内村鑑三らとともに受洗し、キリスト者となる。1883年東京大学に入学するも
中岡慎太郎(日本大百科全書・世界大百科事典)
幕末の討幕派志士。土佐国安芸(あき)郡北川郷(高知県北川村)の大庄屋(おおじょうや)小伝次(こでんじ)の長男。名は道正、初め光次と称し、のち慎太郎と改めた。学問を間崎滄浪(まさきそうろう)に、剣を武市瑞山(たけちずいざん)に学び
高村光雲(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八五二 - 一九三四 明治から昭和時代前期にかけての彫刻家。嘉永五年(一八五二)二月十八日、江戸下谷北清島町(東京都台東区東上野)に生まれる。旧姓は中島、父は兼松。幼名を光蔵といった。文久三年(一八六三)十二歳のとき
人物に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る