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  11. 高杉晋作
国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典
高杉晋作
たかすぎしんさく
一八三九 - 六七
幕末の長州藩士。尊攘倒幕運動における討幕派の中心人物。奇兵隊の結成で知られる。長門国萩菊屋横丁で萩藩大組(八組)士高杉小忠太春樹(高二百石)の嫡子として天保十年(一八三九)八月二十日に生まれ、母は同藩士大西将曹(大組、三百石)の次女道子。諱は春風、字は暢夫、のちに東一、和介と改称、谷梅之助・谷潜蔵とも変名し、東行(とうぎょう)と号した。西海一狂生・東洋一狂生・楠樹小史・些々生・黙生など多くの称を用いた。嘉永元年(一八四八)、数え年十歳で疱瘡にかかり、安政四年(一八五七)、藩校明倫館の入舎生となる。この年、松下村塾に入門、吉田松陰の影響を受け、松陰も晋作の見識を評価し、久坂玄瑞とともに松門の双璧と称せられた。翌五年、昌平黌に入学、六年江戸から萩野山獄中の松陰へ久坂らと書翰を送り、松陰の義挙計画を暴挙と戒しめた。松陰はこれに反論を加え、「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と述べた。同年、佐久間象山と相識るが、藩命で帰国。この晋作の江戸出立直後に松陰は斬刑に処せられた。万延元年(一八六〇)、山口町奉行井上平右衛門(大組、二百五十石)の次女方(まさ、雅子ともいう。当時十五歳)と結婚、軍艦教授所に入学、また、明倫館舎長となり、四月、丙辰丸で江戸に向かう。八月、東北遊歴の途につき、笠間の加藤有隣、信州松代の佐久間象山、越前福井滞留中の横井小楠らに会う。十二月、明倫館都講。文久元年(一八六一)、藩世子毛利定広の小性役となるが、藩主より海外視察の許可を得、翌二年、長崎から幕府の千歳(せんざい)丸に乗船、五月から七月にかけて上海に滞在、太平天国軍の攻撃を体験、また中国の半植民地化の実情を目撃して日本の危機を実感した。この上海で五代才助(友厚、薩摩)・中牟田倉之助(肥前)らと交友し、『遊清五録』にまとめ、帰国後、藩主に報告した。十二月、久坂らと品川御殿山に新築中の英国公使館を襲った。文久三年正月、久坂・伊藤俊輔(博文)らと松陰の遺骨を小塚原から武蔵国荏原郡若林村大夫山(東京都世田谷区若林四丁目、松陰神社)に改葬するが、三月、十年間の暇を藩に願い出、剃髪して東行と称した。風雅の道に生きた西行とは逆の方向を選ぼうとする彼の意志を込めたものである。帰藩して萩松本村に潜居していた際、五月十日の攘夷期限の日の長州藩の外船攻撃を契機に、米・仏艦の反撃で情勢は緊迫、六月六日、藩主より急遽下関(馬関)防御を委任された晋作は、翌七日、身分にかかわらない「有志」による奇兵隊を下関の豪商白石家で結成、この新軍事力は、以後長州討幕派の軍事的基盤としての諸隊の中心的存在となった。下関総奉行手元役、政務座役、奇兵隊総督を経て晋作は、十月、新たに知行百六十石を給せられて奥番頭役になるが、翌元治元年(一八六四)、京都進発をめぐって来島又兵衛と激論して脱藩、その罪で野山獄に投ぜられた。許されて藩命で四国連合艦隊との講和にあたるが、時あたかも藩内の反対派(俗論派)との対立は尖鋭化し、反対派の台頭で北九州へ脱走、野村望東尼を山荘に訪い、再び下関に帰るや、その年十二月から翌慶応元年(一八六五)初頭にかけて伊藤らと馬関に挙兵(功山寺決起)、反対派から藩政を奪取していわゆる正義派(討幕派)に主導権を握らしめ、挙藩軍事態勢をとって第二次征長軍と長州藩を対決せしめた。これは倒幕運動に一時期を画した。四月、晋作は脱藩して伊予へ、さらに讃岐の日柳(くさなぎ)燕石方に一時潜伏したが、九月、桂小五郎(木戸孝允)とともに海軍興隆用掛となり、十月には坂本竜馬らと馬関で第二次征長軍へ対策を協議した。翌二年、海軍総督となって幕艦を周防灘(すおうなだ)で襲い、また長州海軍を率いて小倉領を攻撃・占領し、馬関海陸軍参謀として活躍したが、十月、病気のため辞任、同三年四月十四日、馬関で死去。二十九歳。遺骸は厚狭(あさ)郡吉田村(山口県下関市吉田町)清水山に葬られた。現在ここには多くの奇兵隊士の墓とともに東行庵があり、晋作の遺物や関係文書などが収蔵されている。ちなみに東行庵(明治十七年(一八八四)竣工)は晋作の妾おうの(梅処尼)が晋作没後の菩提をとむらったところである。刊行史料としては『東行先生遺文』がある。『高杉晋作全集』上・下は校訂に厳密さを欠き、使用には注意を要する。→イギリス公使館焼討ち事件
[参考文献]
高杉東行先生百年祭奉賛会編『東行高杉晋作』、村田峰次郎『高杉晋作』、奈良本辰也『高杉晋作』(『中公新書』六〇)、田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(『岩波新書』黄三一七)、中原雅夫『高杉晋作と梅処尼』
(田中 彰)


日本大百科全書(ニッポニカ)
高杉晋作
たかすぎしんさく
[1839―1867]

幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、家禄(かろく)150石高杉丹治(たんじ)の嫡子として出生。少年期、藩校明倫館(めいりんかん)に入学するが、1857年(安政4)19歳のとき松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰(よしだしょういん)の教育を受ける。やがて久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「村下の双璧(そうへき)」と称され、将来を嘱望される。1858年江戸へ出て幕府昌平黌(しょうへいこう)に入学。1859年松陰刑死後は遺骸(いがい)引き取りに奔走する。1860年(万延1)帰国後明倫館に勤務するが、やがて世子元徳(もとのり)付きの小姓(こしょう)となる。1862年(文久2)幕府の使節とともに上海(シャンハイ)に渡り、西洋列強国侵略の実情をみる。このため帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言する。しかし藩府が不採用のため亡命し、攘夷(じょうい)運動を推進する。同年末、江戸御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を同志とともに焼打ちする。1863年剃髪(ていはつ)し東行と号して帰国するが、下関(しものせき)戦争が始まり馬関(ばかん)総奉行(そうぶぎょう)手元役に抜擢(ばってき)される。そこで武士隊の敗北を知り、奇兵隊を創設し総監となる。奇兵隊は士農工商を問わず入隊でき、階級差別のない新しい軍隊であった。この後、下関講和交渉の正使となるが、藩府と意見があわず亡命する。1864年(元治1)下関で諸隊を集め、翌1865年(慶応1)内訌(ないこう)戦に勝利し藩府の主導権を握る。1866年第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)では小倉口(こくらぐち)方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、慶応(けいおう)3年4月14日肺結核のため下関で死去。29歳であった。
[広田暢久]



改訂新版 世界大百科事典
高杉晋作
たかすぎしんさく
1839-67(天保10-慶応3)

幕末期,尊攘・倒幕運動の中心人物の一人。長州藩士。松下村塾の逸材で,奇兵隊を創設したことで有名。萩の菊屋横丁,150石の家に生まれ(父は小忠太,母は道子),名は春風,字は暢夫(ちようふ),通称は晋作,東一または和助ともいう。号は東行(とうぎよう),西海一狂生など。藩校明倫館に学び,入舎生に選ばれたりしたが飽きたらず,吉田松陰の松下村塾に入門,久坂玄瑞と双璧をうたわれた。松陰は久坂の〈才〉に対し,高杉の〈識〉を高く評価した。1858年(安政5),20歳のとき江戸に出,昌平黌(しようへいこう)に学んだ。60年(万延1)には軍艦教授所に入学,また明倫館舎長,同都講を命じられた。この年,井上方(まさ)(山口町奉行井上平右衛門次女,数え年15歳)と結婚したが,以後死ぬまでの7年余は家庭生活とはほど遠く,馬関(下関)には愛妾おうのがいた。各地を歴訪,佐久間象山,横井小楠らと会っている。61年(文久1),藩世子毛利定広の小姓役となったが,翌年,藩命で上海に行った。ここで高杉は,列強資本主義に半植民地化されつつある中国の実情を見,また,その民族的抵抗に触れた。この体験が,帰国後のイギリス公使館(品川御殿山)焼打事件や身分にかかわらない有志による奇兵隊の創設の背後にあったとみてよい。高杉はみずからの行動を〈狂挙〉と呼ぶが,いうところの〈狂挙〉には,歴史変革への鋭い直感と,伝統的枠組みに対する異端的行動の意味を読み取ることができ,また,そこには一見無謀にみえる背後に慎重な配慮もかくされていたといえる。イギリス公使館襲撃の際の退路の準備や,藩の〈正兵〉に対する〈奇兵〉という命名の案出などにそれをみることができる。奇兵隊創設時は,馬関総奉行手元役,政務座役,奇兵隊総監の役職につき,ついで奥番頭役になったが,文久3年8月18日の政変後の情勢下で脱藩。その罪により64年(元治1)投獄されたが,4国連合艦隊の下関砲撃の危機を前にして免され,和議に臨んだりした。しかし,第1次征長下に長州藩の実権は保守派に握られた。これに対し,高杉は,64年末から65年(慶応1)初めにかけて,諸隊の一部を率いて馬関に挙兵,藩の主導権を奪い返し,木戸孝允らと挙藩軍事体制をつくって第2次征長をめざす幕府と対決した(長州征伐)。このとき海軍総督になって活躍したが,肺結核にかかり,67年4月,馬関で死去した。死の枕頭で,親交のあった野村望東尼(もとに)と,〈おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり〉という合作の一首を残した。ここには満27年8ヵ月の波乱の生涯を生きぬいた高杉の人生が凝縮されているといえよう。
[田中 彰]

[索引語]
奇兵隊 高杉東一 高杉和助
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1. 高杉晋作画像
日本大百科全書
幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわ
2. 高杉晋作[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
3. 高杉晋作
世界大百科事典
1839-67(天保10-慶応3) 幕末期,尊攘・倒幕運動の中心人物の一人。長州藩士。松下村塾の逸材で,奇兵隊を創設したことで有名。萩の菊屋横丁,150石の家に
4. たかすぎ‐しんさく【高杉晉作】
日本国語大辞典
幕末の長州藩士。幕末尊攘討幕運動の志士。通称晉作、東一、和助。名は春風、字は暢夫。東行と号した。一九歳のとき、松下村塾に学んで久坂玄瑞とともに松陰門下の双璧と称
5. たかすぎしんさく【高杉晋作】
国史大辞典
』がある。『高杉晋作全集』上・下は校訂に厳密さを欠き、使用には注意を要する。→イギリス公使館焼討ち事件 [参考文献]高杉東行先生百年祭奉賛会編『東行高杉晋作』、
6. たかすぎ-しんさく【高杉晋作】
日本人名大辞典
1839−1867 幕末の武士。天保(てんぽう)10年8月20日生まれ。高杉小忠太の長男。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。松下村塾にまなぶ。文久2年江戸
7. たかすぎしんさく【高杉晋作】
日本架空伝承人名事典
望東も高杉病中の苦心を察し、看護の涙を払ひ、直ちに下句を附添へたり、 すみなすものは心なりけり高杉晋作
8. 高杉晋作[文献目録]
日本人物文献目録
4冊』-『獄中手記』高杉晋作高杉晋作と坂本竜馬』溝口白羊『維新の英傑高杉晋作』野崎秋章, 梅田利一『吉田松陰・高杉晋作』伊藤痴遊『高杉晋作小伝』香川政一『回天
9. あかねたけと【赤根武人】
国史大辞典
連座するや、その救出を策して幕吏に捕えられた。のち許されて国に帰り、文久三年(一八六三)六月高杉晋作らと奇兵隊を組織し、十月その総督となる。元治元年(一八六四)
10. あかね-たけと【赤根武人】
日本人名大辞典
れ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。吉田松陰,梅田雲浜(うんぴん)にまなぶ。文久3年高杉晋作(しんさく)らと奇兵隊を組織し,総督となる。藩内の討幕派と対
11. ありよし-くまじろう【有吉熊次郎】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)13年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。吉田松陰にまなぶ。文久2年高杉晋作らとイギリス公使館焼き討ちに参加。元治(げんじ)元年脱藩
12. アーネスト・サトウ伝 38ページ
東洋文庫
国公使館が一八六三年二月一日に全焼した原因が、事故よりも放火による可能性が高かったとの事実〔高杉晋作らが品川御殿山に建設中の英国公使館を焼く〕からも裏付けられた
13. アーネスト・サトウ伝 2ページ
東洋文庫
147たダーウィン,C. 17大君 34大政奉還 87太平天国の乱 22タウンリー,W.159高杉晋作 38ダヌタン男爵 142ダルトン侍従 112タワー,R.
14. イギリス公使館焼打ち
日本史年表
1862年〈文久2 壬戌⑧〉 12・12( 63・1・31 ) 萩藩士高杉晋作ら、品川御殿山に建築中の イギリス公使館を焼打ち (維新史料綱要)。
15. イギリス公使館焼打事件
日本大百科全書
開始していた。当時、幕政に反抗する諸藩の激派志士らは次々と攘夷事件を起こしていた。長州藩でも、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、志道聞多(しじも
16. イギリス公使館焼打事件
世界大百科事典
1863年1月31日(文久2年12月12日)深夜,長州藩の高杉晋作,久坂玄瑞,志道聞多(井上馨),伊藤俊輔(博文)らが,江戸品川の御殿山に建築中のイギリス公使館
17. イギリスこうしかんやきうちじけん【イギリス公使館焼討ち事件】
国史大辞典
文久二年(一八六二)十二月十二日萩藩士高杉晋作らがイギリス公使館を焼討ちした事件。御殿山事件ともいう。同年十月勅使三条実美・姉小路公知が攘夷の断行を幕府に促す
18. 池宮彰一郎
日本大百科全書
四十七人の刺客』で新田次郎文学賞を受賞、また同作は山本周五郎賞の候補にもあげられた。94年『高杉晋作』「千里の馬」で直木賞候補となるが受賞は逸する。98年『島津
19. 池宮彰一郎[「四十七人の刺客」などで知られる時代小説家、死去]
イミダス 2018
初めて書いた小説「四十七人の刺客」で新田次郎文学賞を受賞。69歳での作家デビューが話題になった。その後、「高杉晋作」「その日の吉良上野介」など、新しい視点を取り
20. 伊藤博文画像
日本大百科全書
士分の最末端に籍を置くことになった。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、のち高杉晋作(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷(じょうい)
21. 伊藤博文
世界大百科事典
治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学
22. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
同四年彼は終生師と仰いだ藩士来原良蔵から深い薫陶を受け、同年萩に帰るや吉田松陰の松下村塾に学んだ。その後高杉晋作・木戸孝允・久坂玄瑞らの影響下に京都・江戸・長崎
23. 井上馨画像
日本大百科全書
り名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに長州藩倒幕派の中心人物として活
24. 井上馨
世界大百科事典
のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び,また蘭学,英学,砲術などを修業し,高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3),藩が馬関(下関)で
25. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
他方では萩藩の尊王攘夷派青年藩士の中心人物の一人として活躍した。文久二年(一八六二)藩論が攘夷に決すると高杉晋作と外国公使襲撃を計画したが失敗。さらに江戸品川御
26. いまうら【今浦】山口県:下関市
日本歴史地名大系
等ニて、且々当日之取渡り仕候者計ニて御座候」と記す。慶応三年(一八六七)四月一四日、高杉晋作が肺結核で死去した林算九郎宅は、この新地にあった。遺骸は吉田村の清水
27. いわみのくに【石見国】島根県
日本歴史地名大系
幕府は一兵も動かすことなく面目を保ち、石見の地も戦塵を免れた。しかし元治元年一二月から翌二年一月にかけての高杉晋作らの馬関挙兵によって情勢は一変し、長州藩の藩論
28. 上野彦馬
日本大百科全書
顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬(さかもとりょうま)、高杉晋作(たかすぎしんさく)をはじめとする数多くの幕
29. 上野彦馬
世界大百科事典
自製,62年長崎に日本最初の営業写真館を開設し,コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し,坂本竜馬,高杉晋作,伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を
30. うえの-ひこま【上野彦馬】画像
日本人名大辞典
化学を,フランス人ロッシュに写真術をまなぶ。文久2年長崎にわが国初の写真館を開業。坂本竜馬,高杉晋作や金星観測,西南戦争などの写真をのこした。明治37年5月22
31. えないむら【榎井村】香川県:仲多度郡/琴平町
日本歴史地名大系
燕石が酒盃に象頭山の影を映して一口に飲みほし、呑象楼と名付けたという。燕石に庇護された長州の高杉晋作や多くの志士たちが、数日、数刻を送った場所であった。国道三二
32. えんどう-ていいちろう【遠藤貞一郎】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)12年6月2日生まれ。周防(すおう)(山口県)徳山藩士。文久2年高杉晋作らのイギリス公使館焼き打ちにくわわる。明治2
33. おうの
日本人名大辞典
1843−1909 幕末-明治時代,高杉晋作(しんさく)の愛人。天保(てんぽう)14年生まれ。もと下関の妓楼堺屋の抱え芸妓(げいぎ)此の糸。文久3年に晋作とであ
34. 大浦慶
日本大百科全書
・交易法を学び、帰国後、日本茶の輸出を実現させた。多くの利益を得たが、坂本龍馬(りょうま)、高杉晋作(しんさく)らの幕末の志士に援助を惜しまなかったことでも知ら
35. おかべ-しげのすけ【岡部繁之助】
日本人名大辞典
安政5年松陰再入牢の罪名を藩に詰問して,兄富太郎とともに蟄居(ちっきょ)となる。元治(げんじ)元年脱藩した高杉晋作(しんさく)の連れ戻しに成功。維新後は工部省に
36. おかもと-さんえもん【岡本三右衛門(1)】
日本人名大辞典
文化6年11月23日生まれ。周防(すおう)(山口県)宮市の綿商。鈴木直道に国学と和歌をまなぶ。高杉晋作ら尊攘(そんじょう)派に資金を援助した。明治10年12月1
37. おくむら-いおこ【奥村五百子】
日本人名大辞典
1845−1907 明治時代の社会運動家。弘化(こうか)2年5月3日生まれ。高杉晋作,野村望東尼とまじわり尊攘(そんじょう)運動に参加。北清事変の際,日本軍を慰
38. おさと【お里】
日本人名大辞典
文久2年土蔵相模に集合し,イギリス公使館焼き打ちにむかった井上,久坂玄瑞(くさか-げんずい),高杉晋作(しんさく)らがおきわすれた火薬を機転をきかして処分したと
39. 尾崎士郎
日本大百科全書
喚起して、一躍花形作家となり、従軍作家として戦地に赴き、『石田三成(みつなり)』(1938)や『高杉晋作(しんさく)』(1941)を新聞に連載した。戦後は、戦時
40. おざきしろう【尾崎士郎】
国史大辞典
柑の皮』『大逆事件』(昭和二十七年)などあり、歴史小説には、戦争中『石田三成』『成吉思汗』『高杉晋作』、関ヶ原の戦を扱った『篝火』(以上同十三―十六年)などに動
41. おだ-かんし【織田完之】
日本人名大辞典
1842−1923 明治時代の官僚,農業史家。天保(てんぽう)13年9月18日生まれ。高杉晋作らとまじわり,尊攘(そんじょう)運動に参加。明治14年内務省から農
42. かたおか-まごごろう【片岡孫五郎】
日本人名大辞典
し旅費を援助するなど,同志の活動をおもに資金面でささえた。のち長門(ながと)(山口県)にいき高杉晋作らとまじわり,帰郷後は有志隊の結成につくした。慶応3年8月1
43. かちしんしゆく【歩行新宿】東京都:品川区地図
日本歴史地名大系
公使館を襲撃した水戸浪士は虎屋に止宿し、翌年御殿山に建設中のイギリス公使館焼打事件を起こした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)らは土蔵相模とよばれる相模屋に泊まっていた
44. かとう-おうろう【加藤桜老】
日本人名大辞典
平田篤胤(あつたね)らにまなぶ。嘉永(かえい)4年隠居し,のち尊攘(そんじょう)運動にくわわり高杉晋作らとまじわる。文久3年長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩
45. かまた【蒲田】
国史大辞典
歌川広重も「名所江戸百景」にその梅林をえがいた。黒船の来航によって志士の往来がはげしくなると、高杉晋作をはじめ十一人がここに集まり外人襲撃の謀議を行なった。明治
46. 河上彦斎
世界大百科事典
を暗殺するなど,〈人斬り彦斎〉とも呼ばれた。禁門の変には長州藩に属して戦って敗れ,長州へ行き高杉晋作を助けて活動。第2次長州征伐時に熊本藩に捕らわれた。維新後も
47. かわかみやいち【河上弥市】
国史大辞典
る。通称は松之助、ついで弥一郎、名は繁義、のちに弥市正義と改めた。文久三年(一八六三)六月、高杉晋作を助けて奇兵隊の編成に尽力し、高杉総管の下に小隊司令をつとめ
48. かわかみ-やいち【河上弥市】
日本人名大辞典
幕末の武士。天保(てんぽう)14年1月生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年高杉晋作の組織した奇兵隊の総管となる。平野国臣らと沢宣嘉(のぶよし
49. かわさき-ただす【河崎董】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)7年大砲6門を鋳造。西洋流銃陣教授方となり,文久3年下関砲台を築造。慶応元年幕長戦争にさきだち,高杉晋作と戦略をねった。のち軍監,軍政管事を歴任。
50. がくしゅういん【学習院】
国史大辞典
文久年間(一八六一―六四)に尊攘激派が擡頭し、国事御用掛などが設けられた際にここが政治的集会場となり、高杉晋作・真木和泉(保臣)らが学習院御用掛となって攘夷決行
「高杉晋作」の情報だけではなく、「高杉晋作」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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王翬(日本大百科全書・世界人名大辞典・世界大百科事典)
中国、清(しん)代初期の画家。王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王原祁(おうげんき)、呉歴(ごれき)、惲格(うんかく)とともにいわゆる四王呉惲(しおうごうん)の一人。字(あざな)は石谷、号は耕煙外史、烏目(うもく)山人
土方歳三(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八三五 - 六九 幕末・維新期の新撰組副長・幹部。歳蔵とも書く。天保六年(一八三五)武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)に出生。生家は石田散薬という家伝薬を副業とする旧家。父義醇、六人兄弟の末子。幼時に父母を失い
新渡戸稲造(日本大百科全書・世界大百科事典)
教育家、農政学者。文久(ぶんきゅう)2年9月1日、盛岡(岩手県盛岡市)に生まれる。東京英語学校を経て、1881年(明治14)札幌農学校卒業。同農学校在学中、内村鑑三らとともに受洗し、キリスト者となる。1883年東京大学に入学するも
中岡慎太郎(日本大百科全書・世界大百科事典)
幕末の討幕派志士。土佐国安芸(あき)郡北川郷(高知県北川村)の大庄屋(おおじょうや)小伝次(こでんじ)の長男。名は道正、初め光次と称し、のち慎太郎と改めた。学問を間崎滄浪(まさきそうろう)に、剣を武市瑞山(たけちずいざん)に学び
高村光雲(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八五二 - 一九三四 明治から昭和時代前期にかけての彫刻家。嘉永五年(一八五二)二月十八日、江戸下谷北清島町(東京都台東区東上野)に生まれる。旧姓は中島、父は兼松。幼名を光蔵といった。文久三年(一八六三)十二歳のとき
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