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  11. 松平容保

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国史大辞典・日本大百科全書

国史大辞典
松平容保
まつだいらかたもり
一八三五 - 九三
江戸時代後期の京都守護職。陸奥国会津藩主。諱は容保、通称は〓之允、叙爵して若狭守・肥後守、号は祐堂・芳山。天保六年(一八三五)十二月二十九日江戸に生まれる。美濃国高須藩主松平義建の六男。母は古森氏。弘化三年(一八四六)四月会津藩主容敬の養子となり、嘉永五年(一八五二)閏二月養父の死により会津藩二十三万石を襲封した。翌六年ペリーの来航に際し、国防が不備の故に開国もやむをえぬと幕府に答申したが、会津藩は弘化四年二月以来房総警備の任にあり、その経験によるものと思われる。房総警備は嘉永六年十一月に二番台場の警守換えとなり、安政六年(一八五九)九月これを免ぜられ、蝦夷地(網走地方を除き、東は西別より西は沢木に至る海岸およそ九十里)を分与されて開拓を命ぜられた。同年八月前水戸藩主徳川斉昭が安政の大獄で処罰されて藩士が動揺した時、会津藩は府内の警備にあたり、万延元年(一八六〇)三月桜田門外の変に際し、容保は幕命により出府して幕府と水戸藩の調停に尽力した。文久二年(一八六二)五月幕政参与となり、勅使待遇の改善に尽力し、閏八月新設の京都守護職に任命された。就任には容保をはじめ藩の重職も反対したが、松平慶永の説得で翻意したもので、以後所司代の上に立って京都における幕府勢力を代表してその治安に任じ、激化する尊攘運動に対処したが、新撰組を配下に置いて尊攘派から敵視され、後年悲劇を生む一因となった。容保は就任にあたり、開港問題は三港のほかは開港を拒絶し、彼が承服しなければ攘夷の叡慮を遵奉し、公武一和の処置を講ずることを幕府に建言した。同年十二月入京して金戒光明寺を宿館とし、翌三年正月はじめて参内して衵(あこめ)を賜わったが、これは幕府への建言と勅使待遇の改善によるものといわれ、以来孝明天皇の絶大な信任を蒙った。同年三月将軍徳川家茂の上洛を迎え、攘夷期限の奏上などで公武間に周旋し、生麦事件の償金支払には反対の態度をとった。ついで七月建春門外で会津藩の、八月には鳥取・徳島・米沢・岡山四藩と合同の軍隊調練を天覧に供したが、この天覧の馬揃こそ、公武合体派諸藩の尊攘派に対する示威運動であった。長州藩を中心とする尊攘派が攘夷親征・大和行幸を企てると、会津藩は薩摩藩と結んで中川宮(朝彦親王)を動かし、八月十八日の政変を起し、長州藩の勢力を京都から駆逐し、九月容保は天皇から京都守護の功を賞され、十月には宸筆の御製を賜わった。同年十二月公武合体派諸侯の一橋慶喜・松平慶永・山内豊信・伊達宗城(翌月島津久光も)と参予を命ぜられ、朝政に参与して攘夷と長州藩処分を議したが、意見が一致せず、参予会議は二ヵ月余りで解体した。元治元年(一八六四)二月幕府より五万石加増され、同月長州征討のために軍事総裁職に転じたが、天皇の要望で四月京都守護職に復職し、また弟の桑名藩主松平定敬が所司代に任命されて、兄弟で京都の治安の維持に努めた。同年六月新撰組の池田屋襲撃(池田屋事件)が契機となって、七月に禁門の変が起り、会津藩兵は蛤(はまぐり)門の激戦で薩摩・桑名藩兵の来援によって長州勢を撃退した。第一次征長の役は長州藩の恭順で落着したが、慶応元年(一八六五)長州藩処分問題では終始強硬論を唱え、九月長州再征勅許の降下に斡旋し、翌二年六月開戦となり、八月幕軍の敗退で慶喜が休戦に持ち込んだことを非難し、また慶喜の解兵公布の御沙汰書降下の依頼を辞した。この間、将軍家茂が大坂城で病死し、慶喜の宗家相続、将軍就職に尽力した。同年十二月徳川斉昭の十九子、余九麿(喜徳)を嗣子とした。同月孝明天皇が没して大きな痛手を受けた。翌三年十月慶喜の大政奉還を不満としたが、十二月王政復古で京都守護職を免ぜられ、慶喜に従って大坂城に下った。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の開戦で官位を奪われ、江戸帰着後も慶喜に再挙を進言したが、謹慎すべきを諭され、二月致仕し、謝罪状を松平慶永らに託して会津若松に帰った。同年八月政府軍が進攻し、容保は孝明天皇下賜の御製を錦の小袋に入れて背負い、戦場を馳駆したが、籠城一ヵ月、九月降伏し、十二月容保は鳥取藩(翌二年十二月和歌山藩に預替)に、喜徳は久留米藩にそれぞれ永預となったが、四年三月父子は謹慎となり、五年正月謹慎も免ぜられた(六年八月喜徳は離縁となる)。なお二年九月実子容大(明治二年六月生)に家名再興が許され、十一月陸奥国三万石を与えられ、斗南(となみ)藩と称した。容保は十三年二月日光東照宮宮司となり、二十六年十二月五日没した。年五十九。諡号、忠誠霊神。墓は福島県会津若松市東山町院内の松平家廟所にある。
[参考文献]
山川浩『京都守護職始末』、手代木勝任・柴太一郎『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』一)、佐治次太郎『盤錯録』(同六)
(吉田 常吉)


日本大百科全書(ニッポニカ)
松平容保
まつだいらかたもり
[1835―1893]

幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。

[井上勝生]



松平容保[百科マルチメディア]
松平容保[百科マルチメディア]

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1. 松平容保画像
日本大百科全書
幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(
2. 松平容保
世界大百科事典
1835-93(天保6-明治26) 江戸末期の大名。会津藩主。美濃高須藩松平義建の子。会津藩主松平容敬の養子となり,1852年(嘉永5)襲封。62年(文久2)京
3. まつだいら‐かたもり【松平容保】
日本国語大辞典
幕末の大名。会津藩主。桜田門外の変後、江戸に出て幕政参与。京都守護職となって公武合体を推進。禁門の変には長州藩兵を撃退。大政奉還後、徳川慶喜とともに大坂に下り、
4. まつだいらかたもり【松平容保】
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東山町院内の松平家廟所にある。 [参考文献]山川浩『京都守護職始末』、手代木勝任・柴太一郎『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』一)、佐治次太郎『盤錯録』(同六)
5. まつだいら-かたもり【松平容保】画像
日本人名大辞典
1836*−1893 幕末の大名。天保(てんぽう)6年12月29日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)高須藩主松平義建(よしたつ)の6男。松平容敬(かたたか)の養子と
6. 松平容保[文献目録]
日本人物文献目録
(著刊)『松平容保公伝』手代木勝任, 柴太一郎(述)『会津公と慶喜公』山川健次郎『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会(編), 飯沼関弥『島津家訪問録 故松平容保
7. 松平容保[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
・高八万七千二九四石余。旧高旧領取調帳では村数三〇九・高八万八千二二一石余。幕末には会津藩主松平容保は京都守護職となり動乱に巻込まれた。明治元年(一八六八)九月
9. 会津戦争画像
日本大百科全書
戦いののち、維新政府は徳川慶喜(よしのぶ)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)らを朝敵として追討令を下した。松平容保は京都守護職として反
10. 会津戦争
世界大百科事典
1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命
11. あいづ‐せんそう[あひづセンサウ]【会津戦争】
日本国語大辞典
戊辰(ぼしん)戦争の一部をなす戦い。明治元年(一八六八)恭順の意を示していた会津藩主松平容保(かたもり)に対し、薩長から強硬な追討命令が出され、反発した東北三十
12. あいづのこてつ【会津小鉄】
国史大辞典
幕末・明治時代前期の関西の侠客。本名上坂仙吉。素生は明らかでない。文久二年(一八六二)会津侯松平容保が京都守護職に任ぜられてから、会津部屋に奉公し、会津の小鉄と
13. あいづの-こてつ【会津小鉄】
日本人名大辞典
く)。弘化(こうか)2年生まれ。京都守護職となった陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩主松平容保(かたもり)の下で,会津方軍夫を指揮。維新後は京都,大阪に大
14. 会津藩画像
日本大百科全書
その後会津藩は全国を襲った天保(てんぽう)の大飢饉をも乗り切ることができた。 最後の藩主となった9代松平容保(かたもり)は、佐幕派の最雄藩として1862年(文久
15. 会津藩
世界大百科事典
倹約令,物価引下令が出され,株仲間の解散と再興も行われた。美濃国高須から養子として迎えられていた松平容保(かたもり)は,52年(嘉永5)襲封,62年(文久2)に
16. あいづはんちょうきろく【会津藩庁記録】
国史大辞典
旧藩主松平家所蔵の原本によって、大正七年(一九一八)―十五年にかけて日本史籍協会が刊行した。全六巻。藩主松平容保が京都守護職を勤めていた当時、京都―江戸―会津間
17. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
親藩意識は両者ともにあった。この上に成立した尊王にして敬幕の政治路線も討幕路線がひかれ、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬が慶勝の実弟であってみれば、名古屋藩自
18. 秋月韋軒
日本大百科全書
へいこう)に入学、足掛け12年、程朱学(ていしゅがく)を学ぶ。1862年(文久2)京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)のもとで京都にて活躍。1865年(慶応
19. あきづき-いけん【秋月韋軒】画像
日本人名大辞典
れ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。江戸の昌平黌(しょうへいこう)にまなぶ。藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任にしたがい京都で公武合体策を推進
20. あしかがしもくぞうきょうしゅじけん【足利氏木像梟首事件】
国史大辞典
述べている。この「天誅」は歴史的裁きの型をとったため多くの人々の関心を呼んでいる。その結果京都守護職の松平容保は態度を硬化させ、犯人逮捕に全力をつくした。その下
21. アメリカ彦蔵自伝 2 23ページ
東洋文庫
一大政変の幕は切って落とされたのである。 中川宮をはじめ、公卿たちはつぎつぎに参内し、京都守護職の松平容保(会津藩主)らを召して、宮門の閉鎖を命ずる。薩摩の藩兵
22. 飯盛山
世界大百科事典
どがあり,その上手に白虎隊士の墓,イタリア首相ムッソリーニ寄贈碑,ドイツ武官碑,藩主であった松平容保(かたもり)の追悼歌碑などがある。大澤 貞一郎 弁天山 白虎
23. いいもりやま【飯盛山】福島県:会津若松市/旧一箕村地区/滝沢村
日本歴史地名大系
この山の中腹に至り、城が火炎に包まれたように見えたため、悲憤の涙を払いつつ自刃した。没後十七年忌に詠んだ旧藩主松平容保の「幾人の涙はいしにそそぐともその名は世々
24. 池田屋事件
世界大百科事典
勢力挽回を意図した尊攘派は,熊本藩の宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保の暗殺を企てた。志士たちは京都に潜入して画策するが,
25. いけだやじけん【池田屋事件】
国史大辞典
ことが判明し、さらに拷問の結果、六月二十日前後に市中に放火し、その混乱に乗じ中川宮・会津藩主松平容保などを襲い、天皇を萩藩へ動かす計画があることを白状させた。他
26. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
備を命じ、土浦藩土屋氏も文久二年(一八六二)淡輪陣屋を構築している。この間、京都守護職会津藩松平容保の所領(役知)が南・日根両郡に設けられ、明治三年(一八七〇)
27. いなばまさくに【稲葉正邦】
国史大辞典
はじめ長門守、のち美濃守と称す。文久三年(一八六三)六月から翌年四月まで京都所司代として京都守護職松平容保に協力し、特に八月十八日の政変に際して尊攘急進派をおさ
28. いなば-まさくに【稲葉正邦】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)元年山城(京都府)淀(よど)藩主稲葉家12代となる。文久3年京都所司代に就任,京都守護職松平容保(かたもり)とともに尊攘(そんじょう)派に対した。
29. うやまむら【宇山村】大阪府:枚方市地図
日本歴史地名大系
島村に同じ。以後元禄六年(一六九三)までの変遷は下島村に同じ。文久二年(一八六二)京都守護職松平容保領(役知)と変化し幕末に至る。正保郷帳の写とみられる河内国一
30. えい‐おあずけ[‥おあづけ]【永御預】
日本国語大辞典
永牢 右年数相立候とも、赦免之儀申上間敷」*近世紀聞〔1875~81〕〈染崎延房〉一一・一「松平容保には池田中将へ永御預(エイオアヅ)け息男松平喜徳には有馬中将
31. 奥羽越列藩同盟
日本大百科全書
関白太政(だじょう)大臣、仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)を権征夷(ごんせいい)大将軍、会津藩主松平容保(かたもり)を副将軍とする東国政権の構想があったという。
32. おおば-きょうへい【大庭恭平】
日本人名大辞典
幕末の武士。文政13年生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。京都守護職となった藩主松平容保(かたもり)の先発として京にはいる。文久3年同志と等持院
33. おおまきむら【大牧村】埼玉県:浦和市地図
日本歴史地名大系
基の庚申塔がある。見性院の墓(県指定旧跡)があり、現在の墓塔は安政五年(一八五八)に会津藩主松平容保によって建立されたもの。なお会津松平家の祖保科正之は見性院に
34. おざきむら【尾崎村】大阪府:泉南郡/阪南町地図
日本歴史地名大系
領となり、同二年幕府領にもどった(名倉家文書)。慶応元年(一八六五)陸奥会津藩主で京都守護職松平容保領(役知)となり、幕末に至った。元禄初年の「泉州志補遺」によ
35. おの-ごんのじょう【小野権之丞】
日本人名大辞典
文化15年4月9日生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。文久2年京都守護職となった藩主松平容保(かたもり)にしたがい,京都で公用人として公武間の折
36. かきざわ-ゆうき【柿沢勇記】
日本人名大辞典
島県)藩士。藩校日新館にはいり,山本覚馬とともに蘭学をまなぶ。のち江戸で洋学をおさめる。藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任に際し,公用吏となる。慶応4年大
37. かさいぐん【加西郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
幕末には幕府領の一部が陸奥国会津藩主松平容保の京都守護職就任に伴って守護職役知となる。天保郷帳によると一二三村・高三万九千七八石余。慶応四年(一八六八)幕府領の
38. かしょうじむら【嘉祥寺村】大阪府:泉南郡/田尻町地図
日本歴史地名大系
なったため収公された。なお旧高旧領取調帳では岸和田藩領一千二二六石余と京都守護職で陸奥会津藩松平容保領(役知)五六石余となっている。江戸時代初期の岸和田藩松井氏
39. 加波山事件 民権派激挙の記録 88ページ
東洋文庫
ときはこれ幕府の末年、千代田城頭月色黒く、大樹寒く、覇権まさに地に墜ちんとするの時において、会津城の主、松平容保公の卓然として起ち、毅然として動かず、よく禁裏守
40. 加波山事件 民権派激挙の記録 89ページ
東洋文庫
清河と意見を異にする芹沢鴨・近藤勇・土方歳三ら十三人は東帰を拒んで「新選組」を結成、やがて京都守護職松平容保の隷下に入って、勤皇の志士の取締りに当たり、かれらを
41. 加波山事件 民権派激挙の記録 104ページ
東洋文庫
とo維新の際奥羽の 慶応四年(一八六八)三月二十六日、奥羽鎮撫総督九条道孝は、かねて会津藩主松平容保から出されていた恭順の意を退け、会津藩討伐の令を仙台藩に下し
42. かまんざとおり【釜座通】京都市:中京区
日本歴史地名大系
「かうやくの辻子」の名称は、すでに「京雀」にみえる。幕末の状況を「坊目誌」は「文久二年京都守護職松平容保の役邸を設置するに際し、下長者町丸太町間を閉塞す。明治四
43. かみきたぐん【上北郡】青森県
日本歴史地名大系
あたる。なお三本木原開拓に功のあった新渡戸伝は同藩の家老、大参事を勤めた。斗南藩は旧会津藩主松平容保が明治二年九月に赦免され、一一月容大に対して陸奥国の北郡・三
44. きたのむら【北野村】大阪府:泉南市地図
日本歴史地名大系
藩久世広周領、同二年幕府領となり(和田家文書)、慶応元年(一八六五)陸奥会津藩主で京都守護職松平容保領(役知)となり幕末に至る(続徳川実紀)。当村は米作のほか麦
45. きたはら-まさなが【北原雅長】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)14年12月24日生まれ。会津(あいづ)藩家老神保利孝の次男。北原家の養子。藩主松平容保(かたもり)につかえ,戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に捕ら
46. 京都守護職
日本大百科全書
彦根藩の地位が低下した。一方京都の政情不安が増大すると、幕府は京都守護職を制度化し、会津藩主松平容保(かたもり)を62年(文久2)これに任じた。朝廷や諸大名の監
47. 京都守護職
世界大百科事典
職務とする幕府官職。1862年(文久2)閏8月会津藩主松平容保(かたもり)が就任,一時前福井藩主松平慶永が職に就いたが,数ヵ月後再び松平容保に移り,大政奉還まで
48. きょうとしゅごしょく【京都守護職】
国史大辞典
文久二年(一八六二)閏八月一日設置され慶応三年(一八六七)十二月九日廃絶。一時期をのぞいて、会津藩主松平容保がこの職にあった。したがって、この職は京における会津
49. 京都守護職始末
日本大百科全書
記録、1冊。1862年(文久2)会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職についてから鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いまでを史料を引用しつつ叙述したもの。著者は
50. きょうとしゅごしょくしまつ【京都守護職始末】
国史大辞典
明治四十四年(一九一一)刊行。京都守護職が設置された文久二年(一八六二)より鳥羽・伏見の戦に至る六年間を、松平容保を中心にすえて編年史的に叙述したもの。山川浩は
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横山大観(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八六八 - 一九五八 明治から昭和時代にかけての日本画家。明治元年(一八六八)九月十八日、水戸城下三ノ町(水戸市城東二丁目)に酒井捨彦の長男として生まれる。幼名秀蔵、秀磨。のち母方の横山家を継ぐ。明治二十二年新設の東京美術学校に入学
山県有朋(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八三八 - 一九二二 明治・大正時代の政治的、軍事的最高指導者の一人。号、含雪。天保九年(一八三八)閏四月二十二日長州萩城下川島村(山口県萩市川島)の下級武士の家に生まれる。父は有稔、母は松子。幼名は辰之助、小助、小輔。少年期から槍術に励んだ
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