明治・大正期の政治家、元老。陸軍大将、元帥。天保(てんぽう)9年6月14日、長州藩(ちょうしゅうはん)下級士族山県有稔(ありとし)の長男として萩(はぎ)城下に生まれる。幼名辰之助(たつのすけ)、のち小輔(こすけ)、狂介(きょうすけ)と改称、維新後有朋と称した。含雪(がんせつ)と号す。早くから尊王攘夷(そんのうじょうい)思想の影響を受け、松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、奇兵隊軍監として活躍。戊辰戦争(ぼしんせんそう)では北陸道鎮撫総督(ほくりくどうちんぶそうとく)兼会津征討総督の参謀として越後(えちご)、奥羽に転戦。維新後の1869年(明治2)渡欧、各国軍制を視察し翌1870年帰国。兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)、ついで同大輔(たいふ)となる。西郷隆盛(さいごうたかもり)と諮って御親兵(ごしんぺい)を組織し、廃藩置県に尽力。また大村益次郎(おおむらますじろう)の志を継ぎ徴兵制を主張し、1873年これを実現、近代軍制の基礎を築いた。同年陸軍省設置により陸軍卿(きょう)となり参議を兼任。相次ぐ農民一揆(のうみんいっき)、士族反乱の鎮圧に努め、西南戦争後の1878年にはドイツに倣って参謀本部を設置し軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長の任にあたった。1878年軍人訓誡(ぐんじんくんかい)を頒布、1882年には軍人勅諭を起案、頒布し、天皇制軍隊の精神的基礎を固めた。この間、自由民権運動に対抗して漸進的な立憲制への移行を主張し、1881年(明治14)政変では、伊藤博文(いとうひろぶみ)、岩倉具視(いわくらともみ)らと謀って大隈重信(おおくましげのぶ)一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定した。1882年参事院議長、翌1883年には内務卿に就任して自由民権運動を弾圧するとともに、地主=名望家の地方支配を意図した地方制度創出に努力し、1888年に市制・町村制、1890年には府県制・郡制を制定した。この間、1884年華族令の制定により伯爵を授けられ、1890年には陸軍大将に昇進した。
1889年第一次山県内閣を組織、1890年の第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立、自由党土佐派を切り崩して、からくも切り抜けた。1891年内閣総辞職、元勲優遇の勅語を受け、伊藤博文、黒田清隆(くろだきよたか)らとともに元老として大きな政治力を発揮した。日清戦争では第一軍司令官として出征したが、病気で帰国。戦後は列強の中国分割激化のなかで軍備拡張を主張した。1898年元帥。この時期、戦後経営をめぐる藩閥政府と政党の妥協提携に強い不満をもち、藩閥官僚、貴族院の勢力を結集し、巨大な山県閥を形成するに至った。また伊藤の政党結成論に対しては三党鼎立(ていりつ)論(二大政党間に少数官僚派議員を掌握してキャスティング・ボートを握り政党を操縦する)をもって対抗した。1898年、第一次大隈内閣瓦解(がかい)の後を受けて第二次山県内閣を組織し、憲政党と提携して軍拡財源確保のために地租増徴を断行、このあと政党勢力の官僚機構への進出を阻むため文官任用令改正、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制を制定して官僚制を強化した。また治安警察法を制定して労働・農民運動の台頭に備えた。対外的には1900年(明治33)の義和団事件(北清事変(ほくしんじへん))に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固めた。1900年9月伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職した。1901年第一次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させた。日露戦争では参謀総長、兵站(へいたん)総督として大本営に列し、1907年にはその功により公爵に陞叙(しょうじょ)された。戦後は軍部の巨頭として1907年「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努めた。1909年伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮した。しかし大正期に入り民衆運動が高揚し、政党の力が強まるにつれてその影響力も徐々に弱まり、1918年(大正7)の米騒動では大きな衝撃を受け、ついに政友会総裁原敬(はらたかし)を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至った。1921年の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、翌大正11年2月1日失意のうちに没し、国葬が行われた。官僚政治家として絶大な権力を駆使したが、性格は慎重、陰険で、生涯強い権力欲で一貫した。和歌をよくし、築庭・造園に趣味をもち、その邸宅として、京都無隣庵(きょうとむりんあん)、小田原古稀庵(おだわらこきあん)、目白椿山荘(めじろちんざんそう)などが有名である。
明治・大正時代の代表的な藩閥政治家。元老,陸軍の最長老として軍や官政界に強大な勢力を振るった。幼名辰之助,のち小輔,さらに狂介と名のる。長州藩の蔵元付仲間という軽輩の家に生まれ,少年のころから槍術の修行に努め,長じて吉田松陰の松下村塾に学んだ。やがて高杉晋作や伊藤博文らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)奇兵隊の軍監となり,翌年には英・米・仏・蘭4国連合艦隊と交戦して敗れ,彼自身も負傷した。さらに第1次長州征伐を迎えて藩首脳が恭順屈服の態度をとったのに憤激して高杉らと挙兵し,俗論党を圧倒して藩政の主導権を握った。66年(慶応2)の第2次長州征伐に際しては小倉方面の戦闘で奮戦した。68年(明治1)戊辰戦争には北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀となり,長岡城の攻略戦で苦戦の末にこれを占領,会津若松城の攻囲戦にも参加した。
1869年渡欧して軍制の調査・研究に従い,翌年帰国後,兵部少輔となり,大村益次郎横死後の兵部省にあって兵制改革を担当,72年陸軍大輔,陸軍中将となり,徴兵令の制定に努めた。73年には陸軍卿,翌年勃発した佐賀の乱には征討参軍として鎮圧に当たり,この年参議となって明治政府の中枢に席を占めた。西南戦争にも征討参軍として出征,徴兵による新しい軍隊を率いて士族中心の西郷軍と対決,これを鎮圧した。翌78年には新設の参謀本部長,80年〈隣邦兵備略〉を上奏して対清戦争を想定した軍備の充実を説き,他方,〈軍人訓戒〉を起草して軍人に忠勇と従順の精神を喚起することに努めた。82年に伊藤が憲法調査のため渡欧したあとをうけて参事院議長,翌年には内務卿に転じて自由民権運動を弾圧し,内相としては87年保安条例を公布して三大事件建白運動を抑えた。さらに議会開設に備えて地方制度の再編に着手し,市制・町村制,府県制・郡制を制定して地域の有力者支配を制度化するとともに官治的性格の強い地方自治制を採用した。
1889年,第1次山県内閣を組織。〈教育勅語〉を渙発して国民教化のための基本理念を定め,90年から開かれた最初の帝国議会では民党による予算案の大削減に直面しながら妥協の道を探り,土佐派議員との提携に成功して解散を回避した。これ以後も,第2次伊藤内閣の法相,枢密院議長などを歴任し,日清戦争には第1軍を率いて出征した。また,96年にはロシア皇帝の戴冠式に特派され,外相ロバノフとの間で山県=ロバノフ協定を締結して行詰り状態にあった朝鮮問題に打開の道を開いた。98年には創設された元帥府に列し,元帥の称号を与えられ,これ以後,〈陸軍の大御所〉として同じ長州藩出身の桂太郎,児玉源太郎,寺内正毅らを陸軍省,参謀本部の要職に配置し,絶大な発言力を保持した。
1898年11月に日本最初の政党内閣である隈板内閣(第1次大隈重信内閣)のあとをうけて第2次内閣を組織すると,憲政党と提携して懸案の地租増徴法案を成立させて日清戦後経営の財政的基礎を強化する一方,翌年には文官任用令を改正して政党員の就官の道をせばめ,さらに1900年には軍部大臣現役武官制の規定を設けて軍部内への政党の影響力排除を図った。このような彼の〈政党嫌い〉は政党への不信感にもとづくものであり,その姿勢は終生変わらなかった。同年義和団事件の収拾を終え退陣して以後は,元老として首相の選任や重要政策の決定に参画することになり,日英同盟の締結を推進し,日露戦争に際しては参謀総長として作戦指導に当たった。とくに09年伊藤博文がハルビンで暗殺されて以後は,陸軍部内をはじめ,官界,貴族院,枢密院や宮中にも山県直系の人物を配置して元老中で最も大きな発言力を有した。日韓併合や辛亥革命後の対中国政策などでは強硬論を唱え,また,第2次西園寺公望内閣の末期に二個師団増設問題で陸相が辞任すると後任陸相の推薦を拒否して内閣を倒壊させ,あるいは第2次大隈内閣に対しても不信任を表明して退陣を促すなど,内閣の死命を制した。しかし,山県直系の桂太郎はしだいに山県の影響力から離脱し,寺内正毅も政権担当に当たって必ずしも山県の意向どおりに動かず,その勢威もようやく衰えを示すことになり,また,米騒動の激発や労働運動の高まりに対する処方策に苦慮した。18年の米騒動直後に政友会総裁の原敬を首相に推し,原の内外政策を基本的に支持するにいたったことは新しい時代に対応するために選ばざるをえない保身策でもあった。20年に表面化したいわゆる宮中某重大事件では,内定をみていた皇太子妃に色盲の血統があることを理由に婚約解消論を主張して右翼や一部政治家の攻撃をうけ,枢密院議長の辞任を申し出るという不測の事態を招き,その威信も大きく動揺した。83歳で没し国葬となったが,参会者は意外に少なく,それは長く権勢をほしいままにした老政治家の晩年の孤影を象徴するものであった。
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