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  11. 横山大観

横山大観

ジャパンナレッジで閲覧できる『横山大観』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
横山大観
よこやまたいかん
一八六八 - 一九五八
明治から昭和時代にかけての日本画家。明治元年(一八六八)九月十八日、水戸城下三ノ町(水戸市城東二丁目)に酒井捨彦の長男として生まれる。幼名秀蔵、秀磨。のち母方の横山家を継ぐ。明治二十二年新設の東京美術学校に入学。橋本雅邦らに学び、二十六年第一回卒業生であった。岡倉天心によって帝室博物館の嘱託となり古画模写にたずさわる。明治二十九年より母校の助教授となる。ところが三十一年校長天心排斥に際し、天心とともに母校を去り、日本美術院創立に尽力した。第一回展に出品した「屈原」の画風が新技法の朦朧体(もうろうたい)といわれるものであったため悪評を受けた。三十六年インド旅行、翌年アメリカ・ヨーロッパを旅して見聞を広めるとともに東洋画の優れていることをつきとめた。帰国後天心のいる茨城県五浦(いづら、北茨城市大津町)に研究所を移し、新しい日本画の研鑽につとめ、意欲を燃やした。大正二年(一九一三)天心なきあと日本美術院を再興して、文展に対抗し、完全在野画壇として発足した。再興以来第四十回展まで毎回出品し、全能力を日本美術院に傾注した。また画域の広さも驚くべきことで、風景・人物・花鳥の作域に及び多くの名作を残した。「喜撰山」「柿紅葉」「紅葉」「夜桜」「野の花」などの大画面に色彩豊かな画面を展開させた。また大観の作品中水墨画による秀れた作品がある。「生々流転」(重要文化財)、「海山十題」は代表的作品で東洋画の水墨画法に新しい表現法で挑んでいたことがわかる。ついで日本の象徴である富士についても多くの名作を残した。その間昭和六年(一九三一)に帝室技芸員、十年帝国美術院会員、十二年に第一回文化勲章を受章した。三十三年二月二十六日没。八十九歳の長寿を全うしただけに日本画界に尽くした功は大きい。東京都台東区池之端一丁目には横山大観記念館(旧横山大観邸)がある。→日本美術院(にほんびじゅついん),→朦朧体(もうろうたい)
(中村 溪男)


日本大百科全書(ニッポニカ)
横山大観
よこやまたいかん
[1868―1958]

日本画家。本名秀麿。水戸藩士酒井捨彦の長男として9月18日水戸に生まれ、のち母方の横山家を継いだ。1878年(明治11)一家と上京。東京府立中学校、私立東京英語学校を経て、1889年開校した東京美術学校に入学、橋本雅邦(はしもとがほう)の指導を受け、また岡倉天心(おかくらてんしん)に薫陶された。1893年に同校を卒業。『村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)』はその卒業制作。しばらく京都美術工芸学校で教鞭(きょうべん)をとったのち、1896年母校の助教授になった。1898年に美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こると、天心、雅邦らと連袂(れんべい)辞職、日本美術院創立に加わった。第1回展に出品の『屈原(くつげん)』は初期を代表する作。美術院では菱田春草(ひしだしゅんそう)らと日本画の近代化を企図し、大胆な没線描法を試みたが、朦朧派(もうろうは)と悪評されて苦闘を強いられた。

 1903年(明治36)春草とともにインドに赴き、また翌年天心に従って春草らと渡米、1905年ヨーロッパを回って帰国。1906年美術院日本画部の茨城県五浦(いづら)への移転に伴い同地に移った。1907年の第1回文展に審査員として『二百十日』ほかを出品。なお『流燈(りゅうとう)』『山路(やまじ)』『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』などが初期の文展に出品されている。1908年五浦の家が火災にあって上野池之端(いけのはた)に移転。1914年(大正3)同志と日本美術院を再興した。以後美術院の中心として活躍し、再興第1回展に『游刃有余地(ゆうじんよちあり)』、第3回展に『作右衛門の家』、第6回展に『山窓無月(さんそうむげつ)』、第8回展に『老子』、第10回展に『生々流転(せいせいるてん)』などを出品、東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざして画壇に重きをなした。1930年(昭和5)ローマ日本美術展に際し美術使節として渡伊。1931年帝室技芸員、1935年帝国美術院会員にあげられ、1937年第1回の文化勲章を受章した。ほかに『無我(むが)』『五柳先生(ごりゅうせんせい)』『柳蔭(りゅういん)』『野の花』、『或(あ)る日の太平洋』などが著名。昭和33年2月26日東京で没。上野池之端の旧邸は横山大観記念館として公開されている。

[原田 実]



横山大観[百科マルチメディア]
横山大観[百科マルチメディア]

 国立国会図書館所蔵


改訂新版 世界大百科事典
横山大観
よこやまたいかん
1868-1958(明治1-昭和33)

日本画家。水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれる。幼名秀蔵。1878年一家をあげて上京,東京府立中学校を経て87年私立英語学校を卒業。母方の横山家を継ぎ,秀麿と改名。結城正明に絵の手ほどきをうけ,89年新設の東京美術学校に入学。日本画科第1回生として橋本雅邦に学び,とくに校長岡倉天心に信頼され終生その強い感化をうける。93年の卒業制作は,師雅邦を翁に見立て同窓生を村童のモデルにした《村童観猿翁》であった。ここにはすでに,日本画の描法に洋画の空気遠近法を調和させようとした苦心のあとがうかがえる。卒業後,京都市立美術工芸学校教諭となり,かたわら古画模写事業に従事。96年東京美術学校助教授となり,同年日本絵画協会が創立されると,その中堅作家として《無我》などの秀作を出品。このころより大観の号を用いはじめる。

 98年東京美術学校において岡倉校長排斥の内紛がおこり,天心の辞職とともに野に下って日本美術院の創立に参加,その正員となる。第5回絵画共進会(第1回院展)に発表した《屈原》は,校長をやめた天心の心中を表したものであった。またその表現技法は当時の日本画の革新運動の尖端を示すものであったが,没線主彩の新画体は〈朦朧体(もうろうたい)〉の悪評をうけた。1903年菱田春草とともにインドに遊び,翌年天心,春草らとアメリカ,さらにヨーロッパを巡遊して展覧会などを行い,05年に帰国。帰ると院は分裂の危機にあり経済的にも破綻をきたしていたので,天心の要望で茨城県の五浦(いずら)に移住。五浦をして日本のバルビゾンたらしめようと,大観,春草,下村観山らは結束を固めるが,生活はどん底であった。しかし,雄大な自然の中で彼らの理想は華麗な色彩の世界に結実した。《流灯》《山路》《瀟湘八景》などがこの期の作で,07年の文展開設とともにつぎつぎに発表され,大観の声価を決定づけた。13年天心が没すると,その遺志を継いで日本美術院の再興を志し,翌年,観山,安田靫彦,今村紫紅らを集めて再興院展を設立,その後40年余,主宰者として運営にあたり日本画壇の一大勢力に育てあげた。

 大正期以降の作風を代表作にたどると,《游刃有余地》《作右衛門の家》《喜撰山》《柿紅葉》といった色彩の華麗なものから,しだいに水墨風に移り,《山窓無月》《夜》などを経て,23年には水墨画の記念碑的作品である長巻《生生流転》に至る。昭和期に入ると墨画《瀟湘八景》,装飾性を最高度に発揮した屛風《夜桜》《紅葉》,秋の野に大原女を配した《野の花》など,画風は幅広く展開されてゆく。〈芸術は無窮であり,富士は無窮の象徴である〉との信念を持つ大観はまた多くの富士を描いたが,87歳の作《或る日の太平洋》では下絵16幅を費やし新鮮で力強い画面をつくりあげた。大観の芸術は明治における天心の理想主義的な芸術運動の結論を示すものであり,古来の東洋画の特色を生かし,たくみな構図とするどい着想によって近代日本画の一つの典型を具現しているといえるだろう。
[佐々木 直比古]

[索引語]
大観 日本美術院 朦朧体
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の花』、『或(あ)る日の太平洋』などが著名。昭和33年2月26日東京で没。上野池之端の旧邸は横山大観記念館として公開されている。原田 実
2. 横山大観
世界大百科事典
1868-1958(明治1-昭和33) 日本画家。水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれる。幼名秀蔵。1878年一家をあげて上京,東京府立中学校を経て87年
3. よこやま‐たいかん【横山大観】
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八十九歳の長寿を全うしただけに日本画界に尽くした功は大きい。東京都台東区池之端一丁目には横山大観記念館(旧横山大観邸)がある。→日本美術院(にほんびじゅついん)
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1868−1958 明治-昭和時代の日本画家。明治元年9月18日生まれ。橋本雅邦(がほう)にまなぶ。明治29年東京美術学校助教授となるが,31年校長の岡倉天心ら
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29. 官展
世界大百科事典
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今泉雄作、森鴎外、大村西崖、福地復一、川崎小虎、岡倉覚三等が主に執筆していた。 下村観山や菱田春草、横山大観などの日本画壇に送り出されたのはこの二十七八年で、現
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32. きんだい【近代】画像
国史大辞典
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33. 芸苑雑稿他 292ページ
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45. せきやすのすけ【関保之助】画像
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愛好し、歴史画家を志望して、東京美術学校絵画科開設とともに入学。明治二十六年七月十一日卒業。同期に横山大観・下村観山がいたが、乱視のために画業を廃し、歴史画の基
46. 戦争画
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47. 大観
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49. 大正時代
世界大百科事典
た。詩歌の面では,高村光太郎,萩原朔太郎,室生犀星らが口語自由律の新風を吹き込んだ。画壇では横山大観,下村観山らの再興日本美術院,土田麦僊,小野竹喬らの国画創作
50. たいしょうデモクラシー【大正デモクラシー】
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文壇では白樺派が全盛期を迎え、高村光太郎・萩原朔太郎・室生犀星らが口語自由律詩の新風をおこした。画壇では横山大観・下村観山らの日本美術院(再興)、土田麦僊・小野
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