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服部半蔵

ジャパンナレッジで閲覧できる『服部半蔵』の世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本大百科全書のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
服部半蔵
はっとりはんぞう
1542-96(天文11-慶長1)

徳川氏の部将。半三とも書く。石見守,名は正成(まさなり)。父保長(石見守),子の正就(まさなり)(石見守)・正重(伊豆守)兄弟も半蔵(半三)を通称とする。服部氏は伊賀を本国とし,保長のときに三河国に至り徳川(松平)氏の家臣となった。正成は家康に仕え,16歳の初陣以来終始部将として出陣し戦功があった。8000石を知行し,1590年(天正18)徳川氏の関東入国ののち,与力30騎,伊賀同心200人を支配した。江戸麴町の安養寺(のち西念寺と改名し四谷に移る)に葬られる。法名は西念。ちなみに江戸城半蔵門の名は,ここに半蔵の屋敷があったことに由来するという。服部氏は正就のときに失脚し,配下の士は鉄砲百人組4組の中の伊賀組となり,あるいは先手の諸隊の同心となった。
→伊賀者
[北原 章男]

[索引語]
半蔵門


新版 日本架空伝承人名事典
服部半蔵
はっとりはんぞう
1542‐96(天文11‐慶長1)
 戦国時代から江戸初期の徳川氏の武将。名は正成まさなり。徳川家康と同年で、伊賀国の上忍の家柄の出身という。徳川十六将の一人に数えられる。父の半蔵保長は早くに郷里を出て、三河国岡崎の松平家に仕えた。半蔵の兄弟の多くは戦いで死に、六男半蔵も各地の戦いに出陣している。半蔵の初陣は、一五五七年(弘治三)の三河宇土城攻めで、伊賀者六十余名を率いて城内に忍び込み、火を放って勝利のきっかけをつくり、松平元信(のちの徳川家康)から恩賞の槍を与えられたという。その後も近江の姉川や遠江の三方ヶ原などの合戦で戦功を立て、隠密頭となった。なお、伊賀国が織田信長に攻められ、大きな打撃を受けたのちは、生き残った忍者の多くが半蔵の配下に入っている。
 八二年(天正一〇)に本能寺の変が起きた時、家康は信長から上方見物に招かれており、少ない供とともに泉州堺に滞在していた。この一行に半蔵がおり、案内に立って、伊賀・甲賀の郷士多数が家康を護衛し、脱出に成功したといわれるが、これは後世の脚色らしい。その後、半蔵配下の伊賀者は家康の命で八五年の信州上田城攻め、九〇年の小田原攻め、九二年(文禄一)の朝鮮出兵、一六〇〇年(慶長五)の関ヶ原の戦、一四年の大坂冬の陣、一五年の大坂夏の陣などに出陣しており、こうした働きによって、のちに半蔵が伊賀忍者の頭目として大活躍したという話を生むことになる。しかし、半蔵は徳川氏の知行八千石の武将であり、伊賀者は情報収集や探索を行う家臣の一部に過ぎなかった。半蔵の墓は新宿区若葉二丁目の西念寺にあり、同寺には半蔵が介錯した家康の長男信康の供養塔もある。
 江戸幕府の体制が確立されると、伊賀者は完全に組織の中に包み込まれていき、半蔵正成の子である半蔵正就は配下の統率ができず、失脚している。なお、現在皇居の西側吹上御苑の通用門となっている半蔵門には、かつて門内に半蔵の屋敷があったことにその名の由来があるとの説もある。
[田辺 貞夫]
勇士の名くゞると糀町へ出る
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):19‐22
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
武勇するどく御門まで名を残し
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):43‐13
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
両句ともに半蔵門。半蔵門は服部半蔵の組屋敷が「糀(麹)町」にあり(『紫のひともと』)、半蔵口と称えたところから。服部半蔵は鬼半蔵と呼ばれ、別人に槍半蔵と呼ばれた渡辺半蔵があるが、第二句の「するどく」で槍を利かせ、両人を混同したもの。


日本大百科全書(ニッポニカ)
服部半蔵
はっとりはんぞう
[1542―1596]

徳川家康の部将。名は正成(まさなり)、石見守(いわみのかみ)。伊賀者(いがもの)を統率して活躍し、鬼半蔵(おにはんぞう)の異名で恐れられた。父の保長(やすなが)は伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡服部郷(はっとりごう)の出身で、初め将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕えたが、のち三河国(愛知県)に来(きた)り、松平清康(きよやす)・広忠(ひろただ)(家康の父)・家康に歴仕し、三河で没した。半蔵正成は保長の五男で三河に生まれ、16歳のとき三河の宇土(うど)城の夜討ちに初陣し、伊賀の忍びの者60~70人を率いて城内に潜入し、武功をたて家康の持槍(もちやり)(長さ7寸8分)を拝賜したのをはじめ、姉川(あねがわ)、高天神(たかてんじん)、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いなど、諸所において目覚ましい働きをみせた。とくに1582年(天正10)本能寺の変に際しては、おりから泉州堺(せんしゅうさかい)に滞在中の家康を護衛して、伊賀の加太(かぶと)峠越えに、無事三河へ帰還させた。これらの功によって物頭(ものがしら)に進み、遠州(静岡県)に8000石を領し、家康の関東入国後は、江戸城麹町口(こうじまちぐち)門(俗に半蔵門とよぶ)外に組屋敷(くみやしき)を拝領した。

[渡邉一郎]

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1. 服部半蔵
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徳川家康の部将。名は正成(まさなり)、石見守(いわみのかみ)。伊賀者(いがもの)を統率して活躍し、鬼半蔵(おにはんぞう)の異名で恐れられた。父の保長(やすなが)
2. 服部半蔵
世界大百科事典
1542-96(天文11-慶長1) 徳川氏の部将。半三とも書く。石見守,名は正成(まさなり)。父保長(石見守),子の正就(まさなり)(石見守)・正重(伊豆守)兄
3. はっとり-はんぞう【服部半蔵】
日本人名大辞典
1542−1596 織豊時代の武将。天文(てんぶん)11年生まれ。父服部保長の跡をつぎ,徳川家康につかえる。本能寺の変のときには堺から家康を無事に三河(愛知県)
4. はっとりはんぞう【服部半蔵】
日本架空伝承人名事典
和2~天保11)(刊)両句ともに半蔵門。半蔵門は服部半蔵の組屋敷が「糀(麹)町」にあり(『紫のひともと』)、半蔵口と称えたところから。服部半蔵は鬼半蔵と呼ばれ、
5. いが‐ぐみ【伊賀組】
日本国語大辞典
〔名〕伊賀者をもって組織した、江戸幕府鉄砲組。→伊賀者。*東職紀聞‐二(古事類苑・官位六九)「服部半蔵正成、以〓伊賀組二百人
6. いがの-かげまる【伊賀の影丸】
日本人名大辞典
横山光輝の同名の漫画の主人公。幕府隠密取締役服部半蔵配下の忍者。木の葉隠れを得意術とする。仲間とともに,敵対する甲賀忍者群などとスピード感あふれる術の競い合いを
7. いがのかげまる【伊賀の影丸】
日本架空伝承人名事典
まる。表向きは平和でも、隠れて幕府に反旗を翻す藩は後を絶たなかった。伊賀組の頭領である五代目服部半蔵は、配下の忍びに命じ、人知れずこうした暗躍を阻んでいた。その
8. 伊賀者
世界大百科事典
直参に取り立てられ,鹿伏兎越(かぶとごえ)(伊賀越)まで供奉して途中から帰国した者200人は服部半蔵正成に預けられて伊賀同心と称し,のち百人組4組のうちの伊賀組
9. いが‐もの【伊賀者】
日本国語大辞典
の際、徳川家康を警護して無事に浜松に帰還させた伊賀国の郷士を、家康は同心に取り立て、それらを服部半蔵に付属した。のちに江戸に召し出して食祿を与えたのに始まり、江
10. いがもの【伊賀者】
国史大辞典
した者はのち直参に取り立て、途中鹿伏兎越までで引き返した者二百人は、十七日尾張鳴海で召し出し同心に取り立て、服部半蔵に付属した(伊賀同心の起源)。以後元和元年(
11. 伊賀流
日本大百科全書
心に採用され、隠密頭(おんみつがしら)服部半蔵正成のもとで、長久手、関ヶ原、大坂の陣などで活躍し、伊賀流の名を高めた。なお、伊賀流の伝書としては、服部半蔵からの
12. いが‐りゅう[‥リウ]【伊賀流】
日本国語大辞典
恵美押勝(藤原仲麻呂)から分かれた伊賀の覚法をその祖としており、伊賀流服部覚の「忍法秘巻」には服部半蔵の祖の伊賀平田左衛門家良を流祖としている。イ
13. 伊賀流手裏剣打選手権大会[イミダス編 文化・スポーツ]
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服部半蔵をはじめとした伊賀忍者の里として知られる三重県伊賀市で、2009年10月に、(社)伊賀上野観光協会創立50周年記念事業の一つとして初めて開催される、手
14. 江戸城 19[別刷図版]画像
国史大辞典
半蔵門 麹町筋から吹上に入る門で、寛永のころ門前近くに服部半蔵の屋敷があったところからこの名がある。明暦大火後は、防火上の見地から吹上はほとんど広大な庭園だけに
15. おかざきじょうか【岡崎城下】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
れている。これによると、本丸を中心にした後の内郭内に屋敷をもつものは、酒井雅楽頭・平岩主計・服部半蔵・酒井左衛門・石川伯耆・本多平八郎・鳥井彦右衛門らで、その外
16. おんみつ【隠密】
国史大辞典
伊賀・甲賀の忍者が最も有名。天正十年(一五八二)六月、本能寺の変が勃発して危機に瀕した徳川家康を、服部半蔵を頭分とする伊賀者二百人が、伊賀路から伊勢の白子まで案
17. 甲子夜話三篇 2 267ページ
東洋文庫
、天正六年〔戊寅〕十月、大久保忠世命を奉じて、遠州二俣城に於て信康君生害、検使天方山城、介錯服部半蔵、故に御母堂築山殿も、天正七年〔己卯〕八月、遠州浜松城に於て
18. 甲子夜話三篇 6 101ページ
東洋文庫
、勝頼と一所にならせ、野心にて候と申上げれぱ、神君聞召て、親に弓を引事は類すくなき次第とて、服部半蔵に仰付失ひ給ひける。三郎殿仰置こそ憐れなり。親に弓を引事は、
19. 甲子夜話三篇 6 102ページ
東洋文庫
疑くはがの誤〕後生の事どもは、大樹寺を頼奉る。善に供養有べしとて、念仏十遍計唱宛、腹十文字にかき切で、服部半蔵かいしゃくと有ければ、三代さう恩の主君になにとて太
20. かつやまじょうあと【勝山城跡】山梨県:東八代郡/中道町/上曾根村
日本歴史地名大系
。天正一〇年(一五八二)の徳川家康と小田原の北条氏との対峙の際に、家康は勝山の旧塁を修築して服部半蔵に伊賀組を添えて守らせた(甲斐国志)。同年一〇月二九日の和議
21. 共古随筆 223ページ
東洋文庫
支那製の観音や文昌星が鬼子母となりしも面白し。 (五十一) 服部半蔵と大久保彦左衛門 現今も出せど板は維新前よりあるものなる四谷西念寺の開山、服部半蔵の像影は、
22. 共古随筆 314ページ
東洋文庫
日向延岡生目八幡の景清、肥後本妙寺の加藤清正、甲斐国大泉寺の武田勝頼、下総岩澄山の将門、四谷西念寺の服部半蔵、白金立行寺の大久保彦左衛門、八丈嶋の為朝などは此の
23. 共古随筆 343ページ
東洋文庫
歌の号は春野山兵衛である。山中家は家康伊賀山越を先導した伊賀衆につらなる幕臣である。西念寺は服部半蔵開基で、伊賀衆の組屋敷は麹町の半蔵門外から寛永年間に四谷に移
24. ししくじょうあと【獅子吼城跡】山梨県:北巨摩郡/須玉町/江草村
日本歴史地名大系
当城のことであろう。天正一〇年(一五八二)徳川家康と北条氏直が対陣したとき北条勢が入ったが、九月に服部半蔵によって落城したという。城の南西麓には江戸時代に甲府か
25. 忍びの者
世界大百科事典
軽快に見せるほか,第1作で敵対する二つの忍者集団の頭領2人を巧みに演じわけた伊藤雄之助,第2作の服部半蔵役の天知茂,第3作の淀君役の若尾文子,第2作,第3作の豊
26. 新可笑記(井原西鶴集) 602ページ
日本古典文学全集
によるか。家老は主君に、正道による軍法を説き、忍びの者の登用をやめよと諫言する。徳川家康は、服部半蔵を通して忍者組織を最もよく活用した武将として著名であった。本
27. 東都歳事記 1 181ページ
東洋文庫
千代田区麹町)を入れているが、不審。二西念寺専称山安養院西念寺。地中二院。浄土宗。浅草西福寺末。服部半蔵の開山。境内古跡拝領地二七八六坪余。本尊の阿弥陀如来は木
28. 徳川家康画像
日本大百科全書
)市)に急行し海路岡崎城に帰った。この帰路の家康を守ったのが伊賀(三重県)の土豪たちで、後年服部半蔵(はっとりはんぞう)など伊賀者が幕府に取り立てられたのは、こ
29. とべ-しんじゅうろう【戸部新十郎】
日本人名大辞典
おおくの時代小説を執筆。平成15年8月13日死去。77歳。石川県出身。早大中退。作品に「日本剣豪譚」「服部半蔵」「前田利家」「秘剣」シリーズなど。
30. 忍術
日本大百科全書
表的な忍書としては、1655年(承応4)服部美濃守清信(みののかみきよのぶ)が、伊賀者の統領服部半蔵家に伝わる数々の伝承と忍具を中心にまとめた『忍秘伝(にんぴで
31. 忍術
世界大百科事典
忍術をよく理解し,また最も活用したのは徳川家康であった。家康は譜代の臣,服部半三保長・半蔵(服部半蔵)父子を通じて忍家を味方に引き入れ,徳川政権を確立するにあた
32. 服部氏
世界大百科事典
室町時代には,これが母体となって伊賀一国を支配した惣国一揆が結成された。織田信長の伊賀侵攻の後,服部半蔵正成を統領とする服部一族は徳川家康の麾下に属し,その子孫
33. はっとり-まさなり【服部正成】
日本人名大辞典
服部半蔵(はっとり-はんぞう)
34. はんぞうごもんあと【半蔵御門跡】東京都:千代田区/旧麹町区地区/麹町紀尾井町地図
日本歴史地名大系
[現]千代田区千代田 半蔵堀と桜田堀の境に設けられた江戸城内郭門。伊賀忍者の頭領服部半蔵正成がこの辺りに屋敷を与えられ、表向きはこの城門の警備に当たったことから
35. 半蔵門画像
日本大百科全書
州街道の入口にあたり、麹町御門(こうじまちごもん)ともいわれたが、伊賀衆組頭(くみがしら)の服部半蔵(はっとりはんぞう)の組屋敷があったのが名の由来。半蔵門の北
36. はんぞう‐もん[ハンザウ‥]【半蔵門】
日本国語大辞典
(門外に伊賀衆組頭の服部半蔵の屋敷があったところから)江戸城六門の一つ。東京都千代田区麹町一丁目東側にある。甲州街道への入り口。麹町御門。ハンゾーモン
37. 夢酔独言他 179ページ
東洋文庫
三十俵二人扶持、四谷北伊賀町(のち箪笥町)に邸があった。行蔵から六代前の平山清左衛門は、幕府の隠密頭服部半蔵の部下であったと伝えられる。いわゆる忍者の
38. 夢酔独言他 180ページ
東洋文庫
そこから船で三州大浜に渡り、ようやく岡崎城に帰ることができた。家康はこの時の抜群のはたらきを賞して、服部半蔵を頭とする伊賀衆を榊原小平の組に編入し、江戸入府のの
39. 紫の一本(近世随想集) 33ページ
日本古典文学全集
足に任せて歩く。糀丁見付の御門をば、半蔵口の御門と云ふ。これは江戸御取り立ての時、今の糀丁に、服部半蔵といひし者頭の屋 御城廻り  いかなる心をもかまへよ、おも
40. 紫の一本(近世随想集) 34ページ
日本古典文学全集
居らるる所は、右の半蔵が屋敷とぞ。赤坂の見付の近所、今の井伊掃部の中屋敷を半蔵山といひしも、服部半蔵が山ゆゑなり。糀丁の御門より松原小路にさしかかり、南を見れば
41. 明治日本旅行案内 東京近郊編 38ページ
東洋文庫
濠のこの部分は弁慶濠と呼ばれる。 この先の丘を登り、左手の麴町通りと、右手の半蔵御門の間を通り抜ける。半蔵とは服部半蔵〔織豊時代の武将。伊賀忍者を率いて武功を挙
42. 遊歴雑記初編 1 266ページ
東洋文庫
高木主水入道性順。大久保次右衛門忠佐。本多中務太輔忠勝。鳥居彦右衛門元忠。内藤四郎左衛門正成。服部半蔵則安。酒井左衛門尉忠次。井伊兵部少輔直政。平岩主計頭親吉。
43. よのむら【予野村】三重県:上野市
日本歴史地名大系
菩提樹院跡は前出の大和へ出る道の北側にある。その東の上出の千賀地谷に城館を構えた千賀地半蔵(服部半蔵)家は、紀州保田庄の豪族の出で、保田則直が当地の服部家を継ぎ
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