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  11. 浅井長政

ジャパンナレッジで閲覧できる『浅井長政』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan

国史大辞典
浅井長政
あさいながまさ
一五四五 - 七三
戦国時代の武将。近江国の大名。はじめ賢政、のち長政と改名。通称新九郎、備前守と称した。天文十四年(一五四五)誕生。父久政、母は井口氏。永禄三年(一五六〇)十六歳で家を継いだ。久政隠退は重臣たちの強要によるものと伝えられている。すでに六角氏重臣平井定武の女を離別(または破約)していたが、同年野良田(彦根市稲枝町)の戦に六角義賢を破り、同四年美濃斎藤氏と呼応した佐和山城攻撃も退けると、義賢の偏諱に基づく初名賢政を棄てている。備前守を称するのもこのころである。以後しきりに南進を策し、同六年、六角氏の内訌(観音寺騒動)が起きると反乱諸氏を支援して愛智川まで軍を出し、同九年六角家臣布施公雄の乱に加担して蒲生野に戦い大打撃を与え、同十一年甲賀郡の山中氏の招降をはかっている。その勢力圏は、江北三郡(伊香・浅井・坂田)を中心に犬上・愛智・高島の各郡に及んだようである。このような発展は、父祖以来の江北における領国支配の成熟と表裏をなすもので、京極高広・高慶兄弟の蠢動を封じ、台頭期に利用した守護家との関係を清算できたのは、永禄初年のことであり、支城在番制、同名被官層への直恩給付、与力化など、家臣団編成への新しい志向が認められるのもこの時期である。久政は餅の井・松田井の二堰を造り、高時川流域の用水規定を定めたといわれるが、浅井三代にみられる郷村間の用水相論への裁定は、湖北平野を掌握する上で大きな意義をもつものと思われる。郷村支配の実態は、なお不明の点が多いが、永禄十一年自検断を否定された菅浦の例などからみれば、かなり徹底した面があったようである。菅浦に対する浅井氏の支配に経済的性格が強いことが指摘されているが、流通経済の発展した地域を地盤とする浅井氏には、天文七年・同二十二年に徳政令、永禄九年には長政の撰銭禁令がある。天文二十二年の場合は断定しかねるが、いずれも時期的にみて対六角戦と関連がありそうである。撰銭禁令は、他国商人の精銭持出し、価格違反に対し厳罰を規定しており、流通面での領国支配の進展を示している。そしてこのような領国形成を支えた対外条件として、長期的かつ安定した朝倉氏との同盟関係が挙げられるが、織田信長の西進は、新しい対応を必要とした。永禄十年信長が美濃を平定すると、長政はその妹お市(小谷の方)を室に迎え、友好関係を結んだ。同十一年七月十六日越前から信長のもとへ移る足利義昭を小谷城に饗応、九月信長上洛には高宮(彦根市)で参陣、同年末には高島郡の朽木氏を服属させている。しかし元亀元年(一五七〇)四月信長の越前侵入が始まると、旧敵六角承禎(義賢)とも結んで離反、朝倉義景と夾撃の態勢をとり、信長を狼狽させた。六月義景の援軍とともに、進攻して来た織田・徳川連合軍と姉川に戦ったが大敗、以後小谷城は、横山城の守将木下秀吉の監視下に置かれた。だが三好三人衆、本願寺と相ついで反信長勢力が挙兵すると、九月義景と坂本口に進出、京都を窺うが、やがて反撃をうけ比叡山に包囲された。十二月将軍義昭の斡旋により和議が成立、下山した。しかし同二年朝妻―姉川間の交通を遮断され、佐和山城以下の諸城が信長に降ると、五月江北十ヵ寺を中心とした一向一揆とともに箕浦(坂田郡近江町)に出撃、敗れた。この時期江北門徒は、しばしば浅井勢の先陣をつとめている。九月比叡山焼打ちが行われ、近江における有力な同盟者を失っている。同三年七月信長は江北一円に侵入、一揆と戦いながら刈田・放火を働き、小谷城に対しては、虎御前山から八相山・宮部の砦を経て横山城に至る包囲陣を構築した。一方、長政と来援の義景は、かねて武田信玄と通じ、その西進に呼応して信長を討つ約束であったが、包囲陣が破れず、また十二月三日義景が帰国したため、絶好の戦機を逸している。天正元年(一五七三)策動の中心であった将軍義昭を追放した信長は、八月大挙して小谷城を囲み、義景もまた木之本(伊香郡木之本町)あたりに布陣した。阿閉・浅見ら諸将の内応もあり、本城背後の大岳がまず落とされたが、ここで信長は一旦主力を朝倉勢攻撃に投じ、敗軍を追って越前に侵入、二十日義景を自殺させる。二十六日虎御前山に帰った信長により、小谷本城は猛攻をうけ、二十七日夜京極丸が秀吉に占拠されたのを機に落城、長政は二十八日自殺した。二十九歳。嫡男万福丸は刑死し男系は絶えるが、落城寸前室お市と三人の娘は信長に引き取られ、のち長女茶々は豊臣秀吉側室淀君、三女達子は徳川秀忠室となった。文禄三年(一五九四)二十一回忌にあたり茶々は菩提寺養源院を京都に建立、寛永九年(一六三二)外孫徳川家光の奏請により、従二位権中納言が追贈された。法号は養源院天英宗清のほかに仁如集堯による文英一雄がある。→朝倉義景(あさくらよしかげ),→姉川の戦(あねがわのたたかい),→小谷の方(おたにのかた)
[参考文献]
『浅井三代記』(『(改定)史籍集覧』六)、太田牛一『信長公記』(『角川文庫』)、『東浅井郡志』二、花見朔巳『安土桃山時代』(『綜合日本史大系』八)、小和田哲男「戦国期在地領主の存在形態―大名浅井―国人今井―土豪井戸村―」(『日本史研究』一〇七)
(秋沢 繁)


日本大百科全書(ニッポニカ)
浅井長政
あさいながまさ
[1545―1573]

戦国時代の武将。正しくは「あざい」。北近江(おうみ)の戦国大名で久政(ひさまさ)の子。仮名(けみょう)は新九郎で受領(ずりょう)名を備前守(びぜんのかみ)といった。初め六角義賢(ろっかくよしかた)の偏諱(へんき)を受けて賢政(かたまさ)と名のったが、1561年(永禄4)六角義賢と戦い長政と改めた。1567年(永禄10)末か翌年初めに織田信長の妹(小谷の方(おだにのかた))と結婚して信長と同盟を結び、1568年の信長上洛(じょうらく)のときには、先鋒(せんぽう)として観音寺(かんのんじ)城に六角義賢を破り、近江の大半を領した。1570年(元亀1)信長の朝倉義景(よしかげ)征伐のとき、長政は祖父亮政(すけまさ)以来の旧誼(きゅうぎ)により信長との同盟を破棄し義景を支援したため、同年6月信長の攻撃を受け、近江姉川で浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍との戦いが展開された。戦いは長政側の敗北となったが、その後も本願寺や延暦寺、さらに武田信玄らと結んで信長を苦しめた。しかし、ついに1573年(天正1)8月信長に小谷城を攻められて自刃した。29歳であった。

[小和田哲男]



浅井長政[百科マルチメディア]
浅井長政[百科マルチメディア]

「浅井長政画像 錬甫宗純賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)  ©東京大学史料編纂所


改訂新版 世界大百科事典
浅井長政
あさいながまさ
1545-73(天文14-天正1)

北近江の戦国大名。久政の子。はじめ六角義賢(承禎)の偏諱(へんき)を得て新九郎賢政と称し,1560年(永禄3)家督を継いだ。翌年,賢政を捨てて備前守長政と改名。長政のころ,浅井氏は守護京極氏を完全に圧倒し,六角氏との同盟関係も清算し独立した戦国大名としての地位を確立し,最盛期を迎えた。1560年の野良田合戦で浅井氏は初めて六角氏を破り,以後,しきりに南進を策し,信長の妹お市(小谷方(おだにのかた))をめとり友好関係にあった織田氏とともに68年観音寺城を陥落させて六角義賢父子を走らせ,ついで高島郡の朽木(くつき)氏を服属させて江北の領有を確立した。しかし70年(元亀1)信長の越前侵入が始まると,長らく同盟関係にあった朝倉氏と協調し,信長に離反し抗争するに至ったが,浅井・朝倉連合軍は姉川の戦に大敗した。以後,本願寺,武田信玄,比叡山などと結び挽回を図ったが,ついに73年8月,小谷城は信長の猛攻をうけ落城,長政は父久政とともに自殺した。
[細溝 典彦]

[索引語]
六角義賢


Encyclopedia of Japan
Asai Nagamasa
浅井長政
1545−1573

Sometimes called Azai Nagamasa. Prominent daimyō of the Sengoku period (1467−1568); lord of Odani Castle in northern Ōmi Province (now Kohoku Chō, Shiga Prefecture). Although married to Oda Nobunaga's sister Oichi (Odani no Kata), Nagamasa turned against him in 1570, forcing Nobunaga to break off an invasion of the domains of Asakura Yoshikage. In 1570 the armies of Nagamasa and Yoshikage were defeated in the Battle of Anegawa by Nobunaga and the future shōgun Tokugawa Ieyasu. Nagamasa's strategic domains in northern Ōmi became the scene of three years of warfare as Nobunaga moved from one front to another to frustrate the attempt of a coalition to encircle and eliminate him. After driving the shōgun Ashikaga Yoshiaki, the coalition's presumed leader, out of Kyōto in the summer of 1573, Nobunaga invaded Yoshikage's home territory and destroyed him. Deprived of his ally, and assaulted by one of Nobunaga's armies, Asai Nagamasa committed suicide.

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検索コンテンツ
1. 浅井長政
世界大百科事典
1545-73(天文14-天正1) 北近江の戦国大名。久政の子。はじめ六角義賢(承禎)の偏諱(へんき)を得て新九郎賢政と称し,1560年(永禄3)家督を継いだ。
2. あさい‐ながまさ【浅井長政】
日本国語大辞典
戦国大名。近江小谷城主。織田信長の妹、お市の方と結婚して信長と同盟を結んだが、その後朝倉義景を支援して、織田信長、徳川家康の軍と姉川で戦って敗退。のち、信長に小
3. あさいながまさ【浅井長政】画像
国史大辞典
一五四五―七三 戦国時代の武将。近江国の大名。はじめ賢政、のち長政と改名。通称新九郎、備前守と称した。天文十四年(一五四五)誕生。父久政、母は井口氏。永禄三年
4. あさい-ながまさ【浅井長政】
日本人名大辞典
1545−1573 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)14年生まれ。浅井久政(ひさまさ)の子。淀殿(よどどの)の父。近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城
5. 浅井長政(あさいながまさ)画像
日本大百科全書
戦国時代の武将。正しくは「あざい」。北近江(おうみ)の戦国大名で久政(ひさまさ)の子。仮名(けみょう)は新九郎で受領(ずりょう)名を備前守(びぜんのかみ)といっ
6. 浅井長政[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
浅井長政画像 錬甫宗純賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
7. Asai Nagamasa 【浅井長政】
Encyclopedia of Japan
1545−1573 Sometimes called Azai Nagamasa. Prominent daimyo of the Sengoku period
8. 浅井長政(あざいながまさ)
日本大百科全書
浅井長政
9. 浅井長政花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 浅井長政娶織田信長妹 (見出し語:織田信長)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1090ページ
11. あいち戦国姫隊[新語流行語]
イミダス 2018
に結成した、戦国武将の妻や妹などに扮する女性ユニット。メンバーは織田信長の妹「市(いち)」、浅井長政と市の娘で、2011年NHK大河ドラマの主人公である「江(ご
12. あきづきまち【秋月町】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
宝暦一二年(一七六二)の大火で末次家が衰退すると、遠藤家(甘木屋)がこれに代わった。同家は古くは浅井長政に仕え、浅井家滅亡後は浪人、のち九州に下って甘木町の四日
13. あけちみつひで【明智光秀】画像
国史大辞典
城を始めた。同三年近江滋賀郡の木戸・田中両城を攻め、河内の畠山氏の交野城を攻め、同年七月には浅井長政の籠る小谷城包囲に加わった。天正元年木戸・田中両城を与えられ
14. あさい‐が‐くび[あさゐ‥]【浅井首】
日本国語大辞典
〔名〕(1)(天正元年(一五七三)に織田信長が浅井長政を討ち、その首で髑髏盃(どくろはい)を作ったという故事から)髑髏盃の異称。(2)大杯のこと。*雑俳・川傍柳
15. あさい-すけまさ【浅井亮政】
日本人名大辞典
?−1542 戦国時代の武将。浅井長政の祖父。京極高清につかえ,跡継ぎをめぐる内紛のなかで勢力を拡大し,近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城を居城として北近
16. 朝倉義景画像
日本大百科全書
奉じて上洛(じょうらく)することなく、かえって、1568年義昭を擁して上洛した織田信長の攻撃にさらされる。以後浅井長政(ながまさ)、武田信玄(しんげん)、本願寺
17. 朝倉義景
世界大百科事典
に上洛。以後,信長の天下統一のための最初の攻撃目標となる。本願寺教如に娘を嫁してこれと結び,浅井長政,武田信玄らと反信長勢力を形成。天筒山の合戦,姉川の戦など再
18. あさくら‐よしかげ【朝倉義景】
日本国語大辞典
戦国大名。朝倉孝景〔一〕の子。越前一乗谷城主。法名松雲院大球宗光。浅井長政と結んで織田信長に対抗したが、姉川の戦いで大敗。のち、信長に一乗谷を攻め落とされ、自刃
19. あさくらよしかげ【朝倉義景】画像
国史大辞典
近江に派遣し、浅井長政・六角義賢とともに美濃を攻めようとしたが、時機を失って成功しなかった。陣容を立て直した信長は、近江国小谷城より二里余り南の横山城を囲み、救
20. あさくら-よしかげ【朝倉義景】
日本人名大辞典
生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(孫次郎)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。本願寺と和解し,浅井長政とむすんで織田信長に対抗したが,姉川の戦いに敗れ,天正(てん
21. あさづまじょうあと【朝妻城跡】滋賀県:坂田郡/米原町/朝妻村
日本歴史地名大系
文八年(一五三九)新庄直実の子直昌が城を構えたとする。なお、元亀三年(一五七二)三月一七日の浅井長政宛行状(島記録)には「北走井之事 浅妻也」とみえ、宝徳三年(
22. あさづまのしょう【朝妻庄】滋賀県:坂田郡/米原町/朝妻村
日本歴史地名大系
(五分の一)を納め、債務確認をしている。元亀三年三月、浅井長政は味方に付いた今井小法師に当郷領家方などを与えている(同月一七日「浅井長政宛行状」島記録)。
23. 足利義昭画像
日本大百科全書
規制され、その時点で信玄と盟約。1572年信長に対する包囲網が完成し、翌1573年(天正1)浅井長政(あさいながまさ)、朝倉義景らは敗死するが挙兵。信長のため将
24. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
五月武田信玄との盟約を固くし、七月上杉謙信に信玄と講和するよう命じた。そして石山の本願寺門跡顕如・浅井長政・朝倉義景・信玄ら反信長派を糾合して包囲網をつくる。信
25. あつじ-さだゆき【阿閉貞征】
日本人名大辞典
?−1582 織豊時代の武将。浅井長政の家臣で,近江(おうみ)(滋賀県)の山本山城主。のち子の貞大(さだひろ)とともに織田信長に属したが,本能寺の変後は明智光秀
26. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
睦1570(元亀1)  1月信長、義昭と不和になる。6月信長、近江姉川で浅井長政、朝倉義景を破る。9月本願寺顕如、信長に対抗し石山戦争始まる1571(元亀2) 
27. 姉川の戦
世界大百科事典
原で織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の属将)連合軍を撃破した戦い。同年4月信長は越前の朝倉氏を攻撃したが,近江小谷(おだに)城の妹婿浅井長
28. あねがわ‐の‐たたかい[あねがはのたたかひ]【姉川の戦】
日本国語大辞典
元亀元年(一五七〇)織田信長、徳川家康の連合軍が、浅井長政、朝倉義景の連合軍と近江の姉川の川原で戦い、大勝した。浅井、朝倉両氏の滅亡の端緒となった戦い。姉川の合
29. あねがわのたたかい【姉川の戦】
国史大辞典
織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという諸説があり一定しない)
30. 姉川の戦
日本史年表
1570年〈元亀元(4・23) 庚午〉 6・28 信長・家康,近江姉川に浅井長政・朝倉義景を破る( 姉川の戦 )(津田文書)。
31. 姉川の戦い画像
日本大百科全書
信長が越前(えちぜん)(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を攻めたとき、朝倉氏との旧誼(きゅうぎ)によって浅井長政がそれまで同盟を結んでいた信長に反旗を翻したことに
32. あのうむら【穴太村】滋賀県:大津市/北部地域
日本歴史地名大系
元亀四年(一五七三)二月には織田信長勢を攻撃するため、浅井長政の軍勢が将軍足利義昭の軍とともに滋賀郡に攻め入り、穴太も兵火にかかっている(年欠二月一六日「浅井長
33. あまごごう【尼子郷】滋賀県:犬上郡/甲良町/尼子村
日本歴史地名大系
京極氏・尼子氏の名はみられず、永禄六年(一五六三)には甲良三郷などが浅井長政より勝楽寺に安堵されており(同年一〇月二五日「浅井長政安堵状」勝楽寺文書)、すでに当
34. あまのがわ【天野川】滋賀県:坂田郡
日本歴史地名大系
め、物資集散上の役割も大きかった。一方、洪水を起こすこともまれではなく、年未詳一二月一七日の浅井長政書状(上坂文書)には、弥高川の合流点付近の杉沢(現伊吹町)一
35. いおぎむら【岩脇村】滋賀県:坂田郡/近江町
日本歴史地名大系
)、岩脇市介(市助)も元亀三年(一五七二)閏正月一八日に丹生谷(現米原町)で討死している(「浅井長政感状」妙意物語)。慶長高辻帳に村名がみえ高九〇二石余、うち小
36. いしつくりたまつくりじんじゃ【石作玉作神社】滋賀県:伊香郡/木之本町/千田村
日本歴史地名大系
禁じている(伊香郡志)。元亀三年(一五七二)・延宝五年(一六七七)の棟札も残る。永禄四年(一五六一)の浅井長政禁制(伊香郡志)は「石作八幡東光寺」に宛てられてお
37. いしでらむら【石寺村】滋賀県:彦根市/旧愛知郡・神崎郡地区
日本歴史地名大系
名主沙汰人中」に出されている(曼殊院文書)。元亀三年(一五七二)九月織田信長軍と対峙していた浅井長政は、島若狭入道・島四郎左衛門尉に宛てた書状(島記録)で、石寺
38. いしどうむら【石塔村】滋賀県:蒲生郡/蒲生町
日本歴史地名大系
あったと思われる。永禄一一年(一五六八)二月二七日浅井長政は山中大和守俊好に「石道寺」等を与えることを約して与同するよう誘っている(「浅井長政申談書」山中文書)
39. 石山本願寺一揆
世界大百科事典
進めた武田信玄が,73年4月病没して最大の危機を回避した信長は,攻勢に転じて将軍義昭を追放し,朝倉義景ついで浅井長政を滅ぼした。苦境に追い込まれた本願寺は第2次
40. いしやまほんがんじかっせん【石山本願寺合戦】
国史大辞典
織田信治・森可成をたおし、坂本に陣して京都に迫った。山科・醍醐は放火され、京中の社寺には朝倉義景・浅井長政の禁制が掲げられた。信長は野田・福島の囲みを解き、坂本
41. いぜき-いえひさ【井関家久】
日本人名大辞典
1557−1627* 織豊-江戸時代前期の能面師。弘治(こうじ)3年生まれ。三田村国定の7男。井関宗信の弟。浅井長政の縁戚にあたり,天正(てんしょう)元年織田信
42. いぜき-むねのぶ【井関宗信】
日本人名大辞典
−1573 戦国-織豊時代の能面師。三田村国定の5男。近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城の浅井長政に属し,織田信長の小谷城攻めで兄たちとともに討ち死にした
43. いその-かずまさ【磯野員昌】
日本人名大辞典
?−? 戦国-織豊時代の武将。近江(おうみ)磯野(滋賀県高月町)の国人。浅井長政に属し,永禄(えいろく)4年(1561)佐和山城主となる。元亀(げんき)元年姉川
44. いっきこうぞうのかいたいとてんかびと【一揆構造の解体と天下人】 : 織豊政権
国史大辞典
た。この時点で信長は中央政権の担当者として天下の統治に乗りだした。同年越前の朝倉義景、近江の浅井長政を滅ぼし、天正三年には徳川家康と結んで長篠の戦に武田勝頼を破
45. 井戸村与六
日本大百科全書
賀県米原(まいばら)市)箕浦(みのうら)の土豪。父は井戸村左京亮光慶といって北近江の戦国大名浅井長政の家臣であった。浅井氏滅亡後、兄小二郎秀勝はなおも武士化の道
46. いぬかみぐん【犬上郡】滋賀県
日本歴史地名大系
宛行っている。戦国時代を迎え、京極氏・六角氏は当郡内で角逐を繰返した。永禄六年(一五六三)一〇月には浅井長政が甲良三郷等を勝楽寺(現甲良町)に安堵しているところ
47. いむら【飯村】滋賀県:坂田郡/近江町
日本歴史地名大系
一五五二)頃当地に島又四郎の本所があったとし、弘治元年(一五五五)と推定される一二月一四日の浅井長政書状(同書)には井村普明庵・同庵被官三郎大夫の名がみえ、元亀
48. 上野樹里[2011年NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主演に抜てき]
イミダス 2018
大河ドラマのヒロインとなる江(ごう)は、織田信長の妹で絶世の美女といわれるお市の方と戦国武将・浅井長政との間の三女で、豊臣秀吉の側室・淀の方の妹。波乱の人生を歩
49. 宇佐山城
日本史年表
1570年〈元亀元(4・23) 庚午〉 9・20 浅井長政・朝倉義景と一向一揆,近江国 宇佐山城 を攻めて織田信治・森可成を討つ(言継卿記)。
50. えがしらむら【江頭村】滋賀県:近江八幡市
日本歴史地名大系
点で、近世初頭より町として賑った。永禄一一年(一五六八)二月二七日の浅井長政申談書(山中文書)に「ゑかしら」とみえ、浅井長政は当地などを与えることを約し、山中大
「浅井長政」の情報だけではなく、「浅井長政」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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コルテス(世界大百科事典・日本大百科全書・世界人名大辞典)
スペインのコンキスタドール。イダルゴ(下級貴族)の子としてスペインのエストレマドゥラ地方に生まれ,一時サラマンカ大学に学ぶ。1504年イスパニオラ島へ渡り,11年ディエゴ・ベラスケスとともにキューバ島征服に参加。18年,キューバ総督ベラスケスより
ラファエロ(世界大百科事典・日本大百科全書)
イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエルRaphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けた
ルター(世界大百科事典・日本大百科全書・世界文学大事典)
ドイツの宗教改革者。農民の出で鉱夫であったハンス・ルターHans Lutherの子として中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。のちマンスフェルトに移住し,事業に成功を収めた父の期待を受けて,同地,さらにマクデブルク,アイゼナハの学校を経て
マゼラン(世界大百科事典・日本大百科全書)
最初の世界周航者。マゼランMagellanは英語名で,ポルトガル語ではマガリャンイス。ポルトガルのオポルト付近に生まれたが,その出自などについては不明な点が多い。1505年F.アルメイダの艦隊に参加してインドに向かい,09年にはD.L.セケイラの艦隊
ミケランジェロ(世界大百科事典・日本大百科全書・世界人名大辞典)
イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として
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