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  11. 島津義弘

島津義弘

ジャパンナレッジで閲覧できる『島津義弘』の日本大百科全書のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
島津義弘
しまづよしひろ
[1535―1619]

戦国時代~江戸初期の武将。天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。父は島津貴久(たかひさ)。義久(よしひさ)の弟。1554年(天文23)蒲生(かもう)氏との合戦に初陣し軍功、大隅(おおすみ)岩剣(いわつるぎ)城の城番となり、続いて日向(ひゅうが)飫肥(おび)城、飯野(いいの)城と前線の城番をした。三山(さんのやま)城攻め、馬越(まごし)城攻め、本地原(ほんちばる)合戦、1572年(元亀3)の木崎原(きざきばる)合戦などで活躍し、九州征覇の合戦でも高(たか)城で大友軍を壊滅させ(耳川の戦い)、水俣(みなまた)城、岡(おか)城、堀切城攻めで連戦連勝したが、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉に敗れ、降伏し大隅国を安堵(あんど)された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で泗川(しせん)合戦の軍功があり、関ヶ原の戦いでは西軍にくみし敗れたが、敵陣縦断突破で知られている。1587年に兄義久の後を受け家督を継いだとされているが、史料では家督を継いでいない。敵味方戦没者の六地蔵塔の建設、朝鮮からの陶工の招来、千利休(せんのりきゅう)からの茶道伝授でも有名。生涯52回の軍功という猛将。元和(げんな)5年7月21日没。85歳。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。

[三木 靖]

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1. 島津義弘
日本大百科全書
戦国時代~江戸初期の武将。天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。父は島津貴久(たかひさ)。義久(よしひさ)の弟。1554年(天文23)蒲生(かもう)氏との合戦に
2. 島津義弘
世界大百科事典
1535-1619(天文4-元和5) 戦国時代の武将。戦国大名島津貴久の次男。初め忠平,号は惟新。法名松齢。1554年(天文23)大隅岩剣(いわつるぎ)城攻めの
3. しまづ‐よしひろ【島津義弘】
日本国語大辞典
安土桃山・江戸初期の武将。貴久(たかひさ)の二男。初名は忠平。号は惟新。兄義久をたすけて、九州全域をその勢威下においたが、豊臣秀吉に降伏。文祿・慶長の役に従軍し
4. しまづよしひろ【島津義弘】画像
国史大辞典
一五三五―一六一九 戦国から江戸時代前期にかけての武将。島津貴久の第二子。母は入来院弾正忠重聡の女。幼名又四郎、初名忠平、兵庫頭を称した。天文四年(一五三五)
5. 島津義弘
日本史年表
1597年〈慶長2 丁酉〉 島津義弘 ,朝鮮人陶工らを捕え,薩摩に連行(沈寿官氏所蔵文書)。 1598年〈慶長3 戊戌〉 11・20 島津義弘 ら,巨済島より
6. しまづ-よしひろ【島津義弘】
日本人名大辞典
1535−1619 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。島津貴久(たかひさ)の次男。島津氏17代。兄義久とともに九州をほぼ平定。天正(て
7. 島津義弘[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:3件 【逐次刊行物】:0件 『軍神島津義弘公』有川天涙『島津義弘公記』義弘公三百年記念会(編)『義弘公と加治木』-
8. Shimazu Yoshihiro 【島津義弘】
Encyclopedia of Japan
1535−1619 Daimyo of the Azuchi-Momoyama period (1568−1600). Yoshihiro's father,
9. 島津義弘印[図版]画像
国史大辞典
惟新 惟新 惟 惟新 藤原惟新 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 島津義弘花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 姶良[市]
世界大百科事典
鎌倉~室町中期は帖佐氏,平山氏が支配し,1454年(享徳3)以降,島津氏の所領となり,江戸時代に及ぶ。島津義弘は文禄の役で朝鮮から連れてきた陶工金海に命じて宇都
12. 姶良(市)画像
日本大百科全書
鹿児島藩家老の島津久通(ひさみち)が奨励したことに始まるという。加治木町地区の竜門司焼き(りゅうもんじやき)は島津義弘(よしひろ)が朝鮮半島から連れ帰った陶工た
13. あいらちょう【姶良町】鹿児島県:姶良郡
日本歴史地名大系
査により土塁や空堀などの遺構が検出され、青磁・白磁などの遺物が出土した。文禄四年(一五九五)島津義弘は鍋倉に宇都御屋地を築いて居館としたが、慶長一一年(一六〇六
14. あきづきまち【秋月町】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
一二月二一日、朝鮮出兵の準備のため豊臣秀吉によばれた島津義弘は帖佐(現鹿児島県姶良町)を立ち、「秋月金屋市中」で年を越している(「島津義弘公譜」など)。慶長元年
15. あくねみなと【阿久根湊】鹿児島県:阿久根市/波留村
日本歴史地名大系
っている(上井覚兼日記)。慶長四年(一五九九)七月、スペイン船(ルソン船)二隻が甑島に漂着、島津義弘は徳川家康の命でこの船を抑留、一隻は当湊(倉津か)に曳航し、
16. アクーニャ(Acuña, Pedro Bravo de)
世界人名大辞典
,これにより豊臣秀吉の時代に緊張した日本とマニラ関係の友好化が図られた.寺沢広高[02]や,島津義弘[06]とも書簡を往復した.一方でマニラの軍事力を増強,在留
17. あじろむら【網代村】長崎県:上県郡/上対馬町
日本歴史地名大系
二六日「細泊」につき、二七日「白賀」、二八日鴨瀬(現美津島町)と海路をとっているが(「島津家久譜」「島津義弘譜」旧記雑録)、この「細泊」は当地と推定される。朝鮮
18. あたぐん【阿多郡】鹿児島県:薩摩国
日本歴史地名大系
月二九日の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)によれば、阿多郡のうち伊作の村五千二一三石余が島津義弘蔵入分となっている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では村数
19. あなんのしょう【阿南庄】大分県:大分郡
日本歴史地名大系
礼城に籠った。同一四年冬島津氏の豊後侵入が敢行された。大分郡への侵攻は直入郡朽網に本陣を置く島津義弘によってなされ、一二月七日以降庄内の松ヶ尾城・船ヶ尾城・辻ノ
20. あやごう【綾郷】宮崎県:東諸県郡/綾町
日本歴史地名大系
地頭系図)、綾外城の設置もこの頃であろうか。同一五年島津氏は豊臣秀吉に帰順。翌一六年八月五日島津義弘に与えられた日向国知行方目録には、綾は八〇町とある。天正年間
21. あやじょうあと【綾城跡】宮崎県:東諸県郡/綾町/北俣村
日本歴史地名大系
日向国内の所領回復を意図して綾、野尻(現野尻町)方面に島津氏を押出している(日向記)。翌一六年綾は島津義弘領として確定した(天正一六年八月五日日向国知行方目録)
22. あやちょう【綾町】宮崎県:東諸県郡
日本歴史地名大系
どに、伊東方は当地奪回を試みている。天正一五年島津氏が豊臣秀吉へ帰順し、翌一六年八月五日綾は島津義弘領として確定した(日向国知行方目録)。以後幕末まで鹿児島藩領
23. あらかわむら【荒川村】鹿児島県:串木野市
日本歴史地名大系
争っていたが、その頃には、当地は薩州家の支配が及んでいたためであろう。慶長四年(一五九九)の島津義弘宛行状(旧記雑録)に村名がみえ、高三五二石余。寛文四年(一六
24. あらきむら【荒木村】大分県:大分郡/湯布院町
日本歴史地名大系
明治八年光永村・石武村と合併して川北村となる。字荒木に藤ヶ城があった。天正一四年(一五八六)一〇月島津義弘の軍勢二万五千のうちの一隊は由布院にも乱入し付近を蹂躙
25. あらしだむら【嵐田村】宮崎県:東諸県郡/国富町
日本歴史地名大系
月二六日、嵐田の蓮尭坊は酒を持って覚兼の元を訪れている(上井覚兼日記)。天正一六年豊臣秀吉は島津義弘に「あらし田」四〇町、秋月種長に「けいたとい松」一五町を宛行
26. あらたむら【荒田村】鹿児島県:伊佐郡/菱刈町
日本歴史地名大系
祈って建立したものという(三国名勝図会)。曹源寺・大林寺ともに明治初年廃寺となった。下荒田地区には島津義弘が永禄年中(一五五八―七〇)の菱刈攻めの際に陣を置いた
27. あんこつほ【安骨浦】
国史大辞典
統制使元均は釜山襲撃の計を以て、六月十九日まずこの地を衝いたが、立花宗茂の守兵に阻まれ、さらに島津義弘・高橋統増の軍と加徳島に戦い敗退した。 [参考文献]『朝鮮
28. あんとくじょうあと【安徳城跡】長崎県:島原市/安徳村
日本歴史地名大系
に龍造寺氏に付いていたため(島津家記)、その居城を島津氏の軍勢に激しく攻撃された。天正一〇年島津義弘は有馬に在陣する川上久隅らに対して深江(現深江町)および「安
29. あんよういんあと【安養院跡】鹿児島県:鹿児島市/鹿児島城下/上方限/清水馬場町
日本歴史地名大系
原の戦のとき阿多長寿院盛淳は家老兼当寺の住職であった。長寿院は石田三成にその才能を認められ、島津義弘に登用されたという。長寿院は関ヶ原に駆けつけ、義弘の身代りと
30. あん‐り【案利】
日本国語大辞典
自之理を持せられ候事、御案利無別儀之由候つ」*島津家文書‐(慶長五年)〔1600〕四月一一日・島津義弘書状(大日本古文書二・一一四九)「仍庄内諸城無
31. いいだむら【飯田村】宮崎県:東諸県郡/高岡町
日本歴史地名大系
同年七月の島津氏の筑前出兵に飯田衆も参陣している(同書同月二六日条など)。天正一六年八月五日、豊臣秀吉が島津義弘に安堵した諸県郡内一千四〇四町のうちに「い井田」
32. いいなおまさ【井伊直政】画像
国史大辞典
た。同五年関ヶ原の戦には本多忠勝とともに東海道方面諸軍の監軍となり、関ヶ原の戦場では退却する島津義弘軍を追撃してその子豊久を討ち取ったがその時鉄砲で負傷した。し
33. いいの・いいのごう【飯野・飯野郷】宮崎県:えびの市
日本歴史地名大系
拠る所となった。飯野地頭には同年一一月より川上忠智、天正(一五七三―九二)初年には有川貞真(島津義弘家老)、文禄(一五九二―九六)末頃には新納忠元、慶長(一五九
34. いいのじょうあと【飯野城跡】宮崎県:えびの市/原田村
日本歴史地名大系
して真幸院を守護領とし、翌七年同院を弟忠平(義弘)に与え、一一月一七日忠平は当城に入った(「島津義弘譜」旧記雑録など)。以後当城は伊東氏に備える島津氏の最前線の
35. いえしま【家島】兵庫県:飾磨郡/家島町
日本歴史地名大系
兵庫まで一八里であった。さらに天正一六年(一五八八)薩摩から和泉堺へ向かう島津義弘一行は家島付近を経由して兵庫に到着した(六月六日「島津義弘書状」島津家文書)。
36. いおうじま【硫黄島】鹿児島県:鹿児島郡/三島村
日本歴史地名大系
成経・平康頼・俊寛らが紀州熊野社を勧請したものと伝える(三国名勝図会)。慶長四年(一五九九)島津義弘・家久が鎧・太刀を寄進したという(三島村誌)。社司の長浜氏は
37. いしだみつなり【石田三成】画像
国史大辞典
諸大名に呼びかけた。三成の誘いに応じて挙兵した諸大名は、毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・宇喜多秀家・島津義弘・鍋島勝茂・伊東祐兵・立花宗茂・長宗我部盛親・小西行
38. 伊集院画像
日本大百科全書
り(みょうえんじまいり)は、関ヶ原の戦いでの島津軍の奮戦の故事にちなみ毎年10月第4土・日に島津義弘(よしひろ)を祀(まつ)る徳重神社(とくしげじんじゃ)で行わ
39. いじゅういんごう【伊集院郷】鹿児島県:日置郡/伊集院町
日本歴史地名大系
文禄三年(一五九四)から島津氏領の薩摩・大隅・日向三国の太閤検地が行われ、伊集院村の高一万四千三二一石余は島津義弘に与えられた(同四年六月二九日「豊臣秀吉朱印知
40. いじゅういんちょう【伊集院町】鹿児島県:日置郡
日本歴史地名大系
、二月七日と七月七日の二度の市は藩内に知られていた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦における島津義弘の敵中突破の苦戦をしのび、菩提寺に参拝する妙円寺詣は、現在は
41. いずみぐん【出水郡】鹿児島県
日本歴史地名大系
秀吉は同月長島に三ヵ条からなる定書を発している。旧領である当郡を安堵された忠辰は文禄の役に際して島津義弘の部将として出水の将兵約六〇〇を率いて朝鮮に渡った。しか
42. いずみごう【出水郷】鹿児島県:出水市
日本歴史地名大系
同地区は面積約六〇ヘクタール、一五〇戸の屋敷群からなり(出水の史跡と文化財)、仮屋門(現出水小学校校門)は島津義弘が帖佐の居城の門を出水に移したものと伝える。ま
43. 伊丹屋助四郎
日本史年表
1601年〈慶長6 辛丑⑪〉 5・‐ 島津義弘、明派遣の商船を襲撃した和泉国堺の 伊丹屋助四郎 を磔刑にする(旧記雑録後編)。
44. いちきごう【市来郷】鹿児島県:日置郡/東市来町
日本歴史地名大系
慶長一八年(一六一三)には湊町に存在した(「軍役賦帳」旧記雑録)。地頭は江戸時代初頭頃には新納休閑斎旅庵(島津義弘家老)、寛永九年頃には吉利下野守忠張であった(
45. いとうし【伊東氏】画像
国史大辞典
日向・大隅・薩摩に多くの所領を恩給され、室町時代末期の義祐の時代には日向地方に大いに発展した。その子祐兵は島津義弘と戦い、敗れて京都に逃れたが、豊臣秀吉に従って
46. いなりじんじゃ【稲荷神社】鹿児島県:日置郡/東市来町/湯田村
日本歴史地名大系
承久三年(一二二一)に稲荷大明神を勧請したという。往古は保食神を主神として三座を祀っていたが、島津義弘の朝鮮出兵の際、二狐が出現して勝利を得たので、帰国後二狐を
47. いぶすきぐん【揖宿郡】鹿児島県
日本歴史地名大系
→松尾城跡)。〔近世〕文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)に島津義弘の蔵入地としてみえる「ゆふすき郡指宿村」一万六千八五七石余は
48. いぶすきごう【指宿郷】鹿児島県:指宿市
日本歴史地名大系
挟んだ反対側の地にあったという。戦国末期の頴娃氏に代わって、天正一八年(一五九〇)以降揖宿郡は島津義弘の直轄領となり、文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉朱
49. いまい-どうよ【今井道与】
日本人名大辞典
堺の薬種問屋。茶の湯をたしなみ,大名家などに出入りした。慶長5年薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津義弘(よしひろ)が関ケ原の戦いに敗れ薩摩にもどる途中,義弘をかく
50. いりのむら【入野村】宮崎県:東諸県郡/綾町
日本歴史地名大系
同一七日祖母危篤の報により入野行を取止めている(以上「上井覚兼日記」)。島津氏が豊臣秀吉に帰順したのち島津義弘に与えられた天正一六年八月五日の日向国知行方目録で
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