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  11. 宮本武蔵

宮本武蔵

ジャパンナレッジで閲覧できる『宮本武蔵』の世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・Encyclopedia of Japanのサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
宮本武蔵
みやもとむさし
1584-1645(天正12-正保2)

江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流,武蔵流ともいう)剣法の祖。《五輪書》の著者。二天と号した。日本の剣道史上最も著名な剣豪の一人で,小説,舞台,映画などにもなっているが,伝記については必ずしも明らかではない。出生地についても,播磨(兵庫県)の宮本村説と美作(岡山県)吉野郡宮本村説がある。《五輪書》では播州の出生とする。父(養父とも)は新免無二斎。《五輪書》によれば,武蔵は幼少のころから兵法を心がけ,13歳ではじめて試合をして勝ち,28~29歳まで60余度の試合に一度も負けなかったといわれる。最後の試合は1612年(慶長17)武蔵29歳のとき,佐々木小次郎との巌流島の決闘であったらしい。30歳以後は,ひたすら剣理の追究,鍛練を重ね,50歳ころになって兵法の道を体得したという。40年(寛永17)57歳のとき,熊本城主細川忠利に招かれて客分となり,忠利の求めに応じ,二天一流兵法を《兵法三十五箇条》にまとめて呈している。43年10月から死の直前にかけて,岩戸山にこもって《五輪書》を書き上げたといわれる。45年(正保2)5月19日,同地で没した。
[中林 信二] 武蔵は剣のほか書,画,彫刻などにも非凡な才があり,すぐれた作品を残している。とくに水墨画では,師承関係は明らかでないが,気魄のこもった鋭い表現を特色とし,武人画家の最後に位置する画家として着目される。東寺勧智院に武蔵の作と推定される水墨の襖絵が伝存しており,武人の余技を超えた本格的な作品である。代表作に《枯木鳴鵙(めいげき)図》(久保惣記念美術館)などがある。
[鈴木 廣之]

[索引語]
二天一流 円明流 武蔵流 五輪書 巌流島


新版 日本架空伝承人名事典
宮本武蔵
みやもとむさし
1584‐1645(天正12‐正保2)
 江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流、武蔵流ともいう)剣法の祖。『五輪書』の著者。二天と号した。日本の剣道史上最も著名な剣豪の一人で、小説、舞台、映画などにもなっているが、伝記については必ずしも明らかではない。出生地についても、播磨(兵庫県)の宮本村説と美作(岡山県)吉野郡宮本村説がある。『五輪書』では播州の出生とする。父(養父とも)は新免無二斎。『五輪書』によれば、武蔵は幼少のころから兵法を心がけ、一三歳ではじめて試合をして勝ち、二八~二九歳まで六〇余度の試合に一度も負けなかったといわれる。最後の試合は一六一二年(慶長一七)武蔵二九歳のとき、佐々木小次郎との巌流島の決闘であったらしい。三〇歳以後は、ひたすら剣理の追究、鍛練を重ね、五〇歳ころになって兵法の道を体得したという。四〇年(寛永一七)五七歳のとき、熊本城主細川忠利に招かれて客分となり、忠利の求めに応じ、二天一流兵法を『兵法三十五箇条』にまとめて呈している。四三年一〇月から死の直前にかけて、岩戸山にこもって『五輪書』を書き上げたといわれる。四五年(正保二)五月一九日、同地で没した。
[中林 信二]
 武蔵は剣のほか書、画、彫刻などにも非凡な才があり、すぐれた作品を残している。とくに水墨画では、師承関係は明らかでないが、気魄のこもった鋭い表現を特色とし、武人画家の最後に位置する画家として着目される。東寺勧智院に武蔵の作と推定される水墨の襖絵が伝存しており、武人の余技を超えた本格的な作品である。代表作に『枯木鳴鵙めいげき図』(久保惣記念美術館)などがある。
[鈴木 廣之]
 一七三七年(元文二)夏、大坂で大当りをとった歌舞伎『敵討巌流嶋』(藤本斗文作)は、翌年秋江戸市村座で上演されてより、宝暦初年度上演のものまで「信田の世界」に組みこまれている。佐々木巌流を敵討する助太刀として、月本武者之助(=宮本武蔵)が登場するのである。佐々木巌流はまちがえて信田左衛門を討ち、提灯に書置して立ち退く。月本武者之助は仕官の成否を決める御前試合で、巌流に頼まれて勝ちを譲る。巌流を敵とねらう姉妹らをかくまう月本家へ、巌流は上使として来、わが腕前を自慢する。城下で晴れの敵討が行われ、姉妹は武者之助の助太刀で本懐を果たす。浄瑠璃として『花筏巌流嶋はないかだがんりゅうじま』(一七四六年(延享三)上演)、『花襷会稽褐布染はなだすきかいけいかちんぞめ』(一七七四年(安永三)上演、菅専助ら合作)があり、とくに後者は上方で長く行われた。佐崎巌流に暗殺された吉岡民右衛門の妻子が、月本武者之助の助けを得て、苦心の末に敵討の本望を遂げるという内容になっている。
[高橋 則子]
 小説、講談、舞台、映画、テレビなどの主人公としての宮本武蔵は、そのほとんどが剣豪としての現役の時代を対象に描かれている。つまり佐々木小次郎との宿命の対決までの道程が主題で、兵法の道を体得、細川忠邦に招かれてのち『五輪書』を書きあげる晩年の姿には、あまり関心が寄せられていない。青年時代の宮本武蔵伝説の形成に大きな力を貸した吉川英治による長編小説『宮本武蔵』は、一九三五年から三八年にかけて、東京、大阪の両『朝日新聞』に連載され、ただちに全六冊のかたちで上梓されたが、富国強兵政策に傾斜していく社会風潮のなかで、満都をわかせた。太平洋戦争の敗戦によって、軍国主義に対する批判が集中した空気のなかでも、依然多くの読者を獲得したのは、その娯楽性豊かな話の運びに加えて、沢庵、柳生石舟斎、本阿弥光悦らとの出会いによって、人間的に自己を成長させていく生き方が評価されたためである。
 活動写真の時代から、宮本武蔵を主人公にした映画は少なくないが、吉川英治の原作を得てよりは、戦前の嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、戦後の三船敏郎、萬屋錦之介、高橋英樹などのスターによって強烈な男性像をうたいあげることに主眼が置かれている。新国劇など商業演劇の手になる舞台化もさかんで、辰巳柳太郎、萬屋錦之介などが武蔵に扮している。
[矢野 誠一]
 軈て武蔵は充分に支度をして例の二本の木剣を持てでる「これは山内どのとやら、何分未練の某し、どうかお手柔らかにお願ひいたしまする」山内はこれまた肩衣をはねて下緒を十字に綾どり、頭には後鉢巻をしめ、袴の股立ち高くとつて、太やかなる木剣を右手にゝぎり、武蔵の挨拶をきいてニタリと笑つた「これは〓〓異なる御挨拶、何分にも勝敗は時の運、いづれ敵味方とわかれた上は酙酌御無用、どうか充分にお打ちこみをねがひたい」その傲慢なる言葉のうち、なにを青二才と見下したようすが見透かされる、しかし武蔵はすこしも意に止めた様はない、しづかに木剣手にとつて立ちかまへた、(中略)だが相手の山内、武蔵の心の内は知らぬ、たゞ頭から青二才と呑んでかゝつて一と打ちとおもふが、武蔵は弱い様でしかも兎の毛の隙もないから、流石に多少できるだけに迂濶に打ちこむともせず、ジリ〓〓詰めよるのみであつたが、そのうちだん〓〓息がはづんでくるので終に焦つてポンと打ちこんだ、これをみた一同の諸士、おもはずアツと片唾を飲んだとき、はやくも右剣をもつて横にはらつた武蔵、訳なくカチンと受け止めて、相かはらず元の通りに構へた「失敗たツ」とふたゝび剣を取り直した山内、サツと横に払ふたがこれもカチン、つゞいて上から下すのもカチン、とこんな調子で十数合交へてをるうち、次第に弱つた山内は眼眩んでいまは足許も四途路の体、全身汗じみになつて綿のよう、打つ剣さへ乱れ初めた。
 此時まで武蔵の手並に危惧の念を抱いてをつた太守、ようやく其心中を覚られたとゝもに其技の凡ならぬのを感じられ「両人とも待て、いづれも天ツ晴れなる手の内である」と試合を止められ、あらためて盃を賜はつた。
立川文庫宮本武蔵
込ミ合ふと湯汲宮本流を出し
出典:『柳乃小樽』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):4‐9
刊行/開き:1849年(嘉永2)(成立)
「湯汲」は銭湯の流しに控えて上がり湯を出す役の男。混んでくると両手に柄杓を持って汲んでやるさま、二刀流のごとし。
竹光を宮本流に粘屋もち
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):139‐35
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「粘屋」は「糊屋」。「粘。糊ニテツクルナリ、ネバリツクナリ」(『訳文筌蹄』)。姫糊を作るため、両手に持った竹べらで米を摺りつぶすさま。


Encyclopedia of Japan
Miyamoto Musashi
宮本武蔵
1584−1645

Master swordsman and painter of the Edo period (1600−1868). Known also by his artistic sobriquet, Niten. Born in either Mimasaka (now part of Okayama Prefecture) or Harima (now Hyōgo Prefecture). Like many other samurai whose lords had fought on the losing side in the Battle of Sekigahara in 1600, Musashi was a rōnin (masterless samurai). He developed the nitōryū or two-sword style of fencing, and, according to his own account, he was victorious in more than 60 sword fights during his extensive travels throughout Japan. In 1637 he fought for the Tokugawa shogunate (1603−1867) in suppressing the Shimabara Uprising, and in 1640 he became an instructor in swordsmanship for the Hosokawa daimyō family in Kumamoto. The book on swordsmanship Gorin no sho (tr The Book of Five Rings, 1974), which is attributed to Musashi, is considered a classic. Said to have been written in a mountain cave in 1643 and transmitted to a disciple when Musashi was on his deathbed, the book is divided into five sections−earth, water, fire, wind, and void−corresponding to the five elements that make up the Buddhist universe. Each section treats one aspect of the art of the sword; the “water” section, for example, deals with dress, posture, footwork, and other technical details, while the “fire” section presents Musashi's views on the spirit of swordsmanship.

Musashi was also a highly accomplished suiboku painter (see ink painting) and calligrapher. His paintings of eagles, shrikes, Hotei (see Seven Deities of Good Fortune), and Bodhidharma, the Zen Buddhist patriarch, are characterized by bold yet incisive brushwork, reflecting his training in Zen Buddhism. His most famous work, Koboku meigeki zu (The Shrike), may be seen at the Kubosō Memorial Museum of Arts in Ōsaka Prefecture. Musashi's exploits have been celebrated in popular literature, including a kabuki play by Tsuruya Namboku and the novel Miyamoto Musashi (1935−39; tr Musashi, 1981) by Yoshikawa Eiji.

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1. 宮本武蔵
世界大百科事典
1584-1645(天正12-正保2) 江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流,武蔵流ともいう)剣法の祖。《五輪書》の著者。二天と号した。日本の剣道史上最も著名な
2. 宮本武蔵
世界大百科事典
尾崎 秀樹 映画 宮本武蔵を主人公にした映画は,吉川英治の小説が書かれる以前から,すでに数多く作られていた。日本映画の最初のスターである尾上松之助の演じた日活映
3. みやもと‐むさし【宮本武蔵】
日本国語大辞典
江戸初期の剣豪。名は玄信のほか、政名、義恒などが伝わる。二天と号す。平田(新免)無二斎武仁の子。美作国または播磨国の生まれという。若年から諸国を修行し、生涯六〇
4. みやもとむさし【宮本武蔵】
日本国語大辞典
小説。吉川英治作。昭和一〇~一四年(一九三五~三九)発表。故郷をあとにした一七歳の武蔵が、周防国(山口県)船島で佐々木小次郎と対決するまでの波瀾に満ちた半生を描
5. みやもとむさし【宮本武蔵】
国史大辞典
編『剣術』(『日本武道大系』二)、池辺義象『宮本武蔵』、福原浄泉『宮本武蔵』、富永堅吾『史実宮本武蔵』、山田次朗吉『日本剣道史』、森大狂編『宮本武蔵遺墨集』 (
6. 宮本武藏(みやもとむさし)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 39ページ
7. みやもと-むさし【宮本武蔵】
日本人名大辞典
1584−1645 江戸時代前期の剣術家。天正(てんしょう)12年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)または美作(みまさか)(岡山県)の人で,父は一説に新免無二斎。
8. みやもとむさし【宮本武蔵】
日本架空伝承人名事典
書きあげる晩年の姿には、あまり関心が寄せられていない。青年時代の宮本武蔵伝説の形成に大きな力を貸した吉川英治による長編小説『宮本武蔵』は、一九三五年から三八年に
9. 宮本武蔵(剣術家)
日本大百科全書
江戸初期の剣術家。わが剣道史上、異色の存在である二刀流(円明(えんめい)流、二刀一(にとういち)流、二天一(にてんいち)流、武蔵流)の祖。名は玄信、号は二天。伝
10. 宮本武蔵(小説)
日本大百科全書
吉川英治の長編小説。1935年(昭和10)8月~39年7月、東京・大阪『朝日新聞』に連載。36~39年、大日本雄弁会講談社刊。全六巻。美作(みまさか)国(岡山県
11. 宮本武蔵(映画)
日本大百科全書
中村錦之助(なかむらきんのすけ)(萬屋(よろずや)錦之介、1932―1997)を主役に、長編5部作の『宮本武蔵』で再登場した。この作品で内田は、それまでの剣豪武
12. 宮本武蔵[文献目録]
日本人物文献目録
刊)『画人宮本武蔵』添田達嶺『宮本武蔵言行録』森銑三『宮本武蔵五輪書と剣道の精神』-『真伝 宮本武蔵』吉田精顕『二天一流 宮本武蔵』斎藤清衛(監修)『宮本武蔵
13. Miyamoto Musashi 【宮本武蔵】
Encyclopedia of Japan
1584−1645 Master swordsman and painter of the Edo period (1600−1868). Known also
14. Miyamoto Musashi 【宮本武蔵】
Encyclopedia of Japan
Best-selling work of popular fiction by Yoshikawa Eiji (1892−1962); originally p
15. みやもとむさしたくあと【宮本武蔵宅跡】岡山県:英田郡/大原町/宮本村
日本歴史地名大系
[現]大原町宮本 宮本の讃甘神社のすぐ南にあり、伝宮本武蔵宅跡として県の指定史跡になっている。跡地には明治四四年(一九一一)建立の宮本武蔵宅跡碑がある。宮本武蔵
16. 宮本武蔵敵討(著作ID:4382683)
新日本古典籍データベース
みやもとむさしかたきうち 実録 
17. 宮本武蔵政名伝(著作ID:1806708)
新日本古典籍データベース
みやもとむさしまさなでん 伝記 
18. 仕合日記(著作ID:4409389)
新日本古典籍データベース
しあいにっき 佐々木岸柳/宮本武蔵/仕合日記 実録 
19. Manga Impact(マンガインパクト)[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2018
ほかにも日本アニメとして細田守監督の「サマーウォーズ」がグランプリに当たる金豹賞部門に、西久保瑞穂監督の「宮本武蔵―双剣に馳せる夢」が新鋭監督部門にノミネートさ
20. あいだぐん【英田郡】
国史大辞典
倉・西粟倉の二ヵ村からなっている(昭和四十九年四月一日現在)。大原町には杉坂峠の古跡があり、宮本武蔵の誕生地といわれている。英田町には式内社の天石門別(あまのい
21. あおき-じょうえもん【青木城右衛門】
日本人名大辞典
江戸時代前期の剣術家。河内(かわち)(大阪府)の人,また山城(京都府)生まれともいわれる。宮本武蔵(むさし)の門にはいり,二刀流をまなぶ。江戸に出,一派をひら
22. 青空文庫[文芸]
イミダス 2018
一部著作権者の許諾を得たものも含め、無料配信。2013年には、著作権切れにより、吉川英治の「宮本武蔵」や「三国志」、柳田国男の「遠野物語」、室生犀星の「抒情小曲
23. あかさかむら【赤坂村】福岡県:北九州市(旧豊前域)/小倉北区
日本歴史地名大系
手向山は小倉藩家老宮本伊織の拝領山で、宮本山ともいう。山頂に承応三年(一六五四)伊織が建立した宮本武蔵の碑がある。慶長一七年(一六一二)佐々木小次郎と決闘を行っ
24. 明石[市]
世界大百科事典
築いた。城の南,中堀と外堀の間に侍屋敷が作られ,その南に城下町が建設された。姫路藩本多氏の客臣宮本武蔵玄信の町割図に従って,東は京口門から西は姫路口門までの西国
25. あかしじょう【明石城】
国史大辞典
二代将軍徳川秀忠の命をうけて築いたもので、工事の監督には岳父の姫路城主本多忠政があたった。兵法家として名高い宮本武蔵、茶人として有名な小堀遠州も町割・庭園を手伝
26. あかしじょうか【明石城下】兵庫県:明石市
日本歴史地名大系
防備としては、竜谷寺・本立寺・本誓寺・長林寺・岩屋神社など神社仏閣が配置されている。町割図は宮本武蔵が行ったとの伝説もある。町の区画は町並裏行一六間を基準にして
27. あかしはん【明石藩】
国史大辞典
銀千貫目を支出し築城奉行らを派遣した。忠真は築城とともに城下を整備したが、この明石の都市計画は宮本武蔵の設計によったと伝える。東西の本町・魚町・樽屋町・信濃町・
28. あ‐と【阿堵】
日本国語大辞典
*随筆・山中人饒舌〔1813〕下「予蔵〓宮本武蔵画布袋和尚像〓。筆法雋穎、墨色沈酣
29. いおりむら【庵村】兵庫県:佐用郡/佐用町
日本歴史地名大系
の正覚寺の前身とされる正蓮寺を継承するとされる。正蓮寺で美作国宮本村(現岡山県大原町)出自の宮本武蔵が修行したと伝える。
30. 石井鶴三
日本大百科全書
代表作に彫刻『母古稀(こき)像』『俊寛』『藤村先生像』など。また、『大菩薩(だいぼさつ)峠』『宮本武蔵(むさし)』など新聞小説の挿絵でも知られている。三木多聞
31. 石井鶴三
世界大百科事典
つとめ,50年日本芸術院会員。代表作に《母古稀像》《俊寛》《藤村先生像》などの彫刻のほか,《大菩薩峠》《宮本武蔵》など新聞小説の挿絵も有名で,素描力の確かさによ
32. いしい-つるぞう【石井鶴三】画像
日本人名大辞典
なった。昭和19年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。25年芸術院会員。小説「大菩薩峠」「宮本武蔵」などの挿絵も担当した。昭和48年3月17日死去。85歳。東
33. 石川達三[文献目録]
日本人物文献目録
石川達三』筒井芳太郎『人物評論 石川達三』-『ついに私も犠牲者だ』石川達三『文学的人物論 石川達三』-『宮本武蔵になった話』石川達三『渡辺慧と石川達三 永久平和
34. 市川海老蔵[第十一代海老蔵を襲名]
イミダス 2018
歌舞伎になじみのない層にも一気に知名度を広げ、03年NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で主人公の宮本武蔵を演じ話題を集めた。初代市川團十郎の幼名であった「
35. いちかわだんじゅうろう【市川團十郎】[付録]
歌舞伎事典
《勧進帳》の富樫で一〇世市川海老蔵を襲名。昭和51・5放送批評懇談会第三六回期間選奨(フジテレビ《宮本武蔵》の演技)、昭和56・4国立劇場《けいせい浜真砂》の三
36. いちじょう‐じ【一乗寺】
日本国語大辞典
今路越の要所。石川丈山の詩仙堂(丈山寺)、芭蕉が住んだ金福(こんぷく)寺、曼殊院など旧跡が多い。また、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の場所としても有名。イチジョージ
37. 伊藤大輔
日本大百科全書
7)剣豪荒木又右衛門(1938)薩摩飛脚(1938)鷲ノ王峠(1941)鞍馬天狗(1942)宮本武蔵 二刀流開眼(1943)決闘般若坂(1943)国際密輸団(1
38. 稲垣浩
日本大百科全書
9)尊王村塾(1939)宮本武蔵 第一部 草分の人々・第二部 栄達の門(1940)宮本武蔵 剣心一路(1940)海を渡る祭礼(1941)江戸最後の日(1941)
39. 稲垣浩
世界大百科事典
画面の〈律動感〉を見せた。その人間味あふれる時代劇の醍醐味は,戦前から戦中にかけて作られた《宮本武蔵》三部作(1940)から戦後のリメーク三部作(1954-56
40. いながき-ひろし【稲垣浩】画像
日本人名大辞典
はいったが,監督に転向。昭和3年片岡千恵蔵プロの結成に参加し「天下太平記」を監督。29年の「宮本武蔵」はアカデミー賞外国映画賞を受賞。18年の監督作品「無法松の
41. 井上雄彦[漫画「SLAM DUNK」で1億冊突破]
イミダス 2018
90年バスケットボールを題材にした「SLAM DUNK」の連載を開始。同作品で爆発的な人気を獲得した。現在は宮本武蔵ブーム再燃のきっかけを作った「バガボンド」
42. 内田吐夢
日本大百科全書
花の吉原百人斬り(1960)宮本武蔵(1961)恋や恋なすな恋(1962)宮本武蔵 般若坂(はんにゃざか)の決斗(1962)宮本武蔵 二刀流開眼(1963)宮本
43. 内田吐夢
世界大百科事典
ち萬屋錦之介)主演の《宮本武蔵》五部作(1961-65)を中心に,力のこもった多彩な作品活動を続け,そうした果てに晩年の傑作《飢餓海峡》(1964)が生まれた。
44. うちだとむ【内田吐夢】
国史大辞典
後残留していた中国から帰還、翌年「血槍富士」で映画界にカムバック、三十一年以降東映に所属、「宮本武蔵」五部作(三十六―四十年)、「浪花の恋の物語」(三十四年)な
45. うちだ-とむ【内田吐夢】画像
日本人名大辞典
戦前は「生ける人形」「人生劇場―青春篇」「限りなき前進」「土」などを,戦後は東映で「大菩薩峠」「宮本武蔵」「飢餓海峡」などを監督した。昭和45年8月7日死去。7
46. うんがんじ・れいがんどう【雲巌寺・霊巌洞】熊本県:熊本市/岩戸村
日本歴史地名大系
三九)の逆修碑、戦国の武将鹿子木寂心の大永八年(一五二八)の逆修碑が洞の内外に刻まれている。宮本武蔵は寛永二〇年から正保二年(一六四五)まで洞内に籠し、二天一流
47. えき‐えき【奕奕】
日本国語大辞典
」*随筆・山中人饒舌〔1813〕下「予蔵〓宮本武蔵画布袋和尚像〓。筆法雋穎、墨色沈酣
48. 絵本江戸風俗往来 272ページ
東洋文庫
かけないのである。江戸ツ子と女は大道講釈を聞く者一人もない。大道講釈は宮本武蔵・荒木又右衛門・岩見十太郎・金毘羅利生記に限る。そのうち宮本武蔵は年中絶え間がない
49. えんみょう‐りゅう[ヱンミャウリウ]【円明流】
日本国語大辞典
〔名〕剣道の一流派。寛永(一六二四~四四)頃、宮本武蔵がはじめたとされるもので、左右両手に刀をとってたたかう。二刀流。エンミョーリュー
50. 大原(岡山県)
日本大百科全書
原郷(おおはらのごう)、中世の大原保(おおはらのほ)で、これが旧町名となった。旧讃甘村宮本は宮本武蔵(むさし)の生誕地といわれる。農林業が中心で、花木、葉タバコ
「宮本武蔵」の情報だけではなく、「宮本武蔵」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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