1. 黒田孝高画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。職隆(もとたか)の子。天文(てんぶん)15年11月29日、播磨(はりま)国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路に生まれる。幼名万吉。官
2. 黒田孝高
世界大百科事典
1546-1604(天文15-慶長9) 織豊政権期の武将。名は官兵衛。勘解由次官,如水円清などを称す。一族は,播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え,初め小寺姓を名のった
3. くろだ‐よしたか【黒田孝高】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。職高(もとたか)の子。初姓小寺。幼名万吉、のち祐隆、孝隆。通称官兵衛、勘解由(かげゆ)。道号如水(じょすい)。洗礼名シメオン
4. くろだよしたか【黒田孝高】画像
国史大辞典
一五四六―一六〇四 安土桃山時代の武将。初名孝隆、のち孝高、致仕後政成に改む。幼名万吉、長じて官兵衛、勘解由と称し、剃髪して如水軒円清居士と号した。はじめ小寺
5. くろだ-よしたか【黒田孝高】
日本人名大辞典
1546−1604 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)15年11月29日生まれ。黒田職隆(もとたか)の子。織田信長につかえ,のち豊臣秀吉の軍師として中国,四
6. 黒田孝高[文献目録]
日本人物文献目録
清水駿太郎『黒田如水の刑法観』福本日南『黒田如水の死因』金関丈夫『黒田如水の茶室』川上帚木『黒田孝高入道』長谷川伸『三川雑記抄 2 軍人立志篇』富村登『晩年の黒
7. 黒田孝高[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「黒田孝高画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
8. Kuroda Yoshitaka 【黒田孝高】
Encyclopedia of Japan
1546−1604 Also known as Kuroda Josui; Christian name, Simeao. Daimyo of the Azuc
9. 黒田孝高印[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
10. 黒田孝高花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
11. ローマ字印[図版]画像
国史大辞典
toxi」 細川忠利印 「tada uoqui」 細川忠興印 「Simeon Josui」 黒田孝高印 「Curo NGMS」 黒田長政印 「T.S.T.D.」
12. 黒田孝高計策 (見出し語:黒田如水)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1261ページ
13. 北條氏直贈二家寳於黒田孝高 (見出し語:北條氏直)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 710ページ
14. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
生没年不詳 安土桃山時代の武将。左近。与四郎。則実・実則とも称す。播磨明石の出身。仙恵の子。黒田孝高の従弟で、天正八年(一五八〇)孝高を通じて豊臣秀吉に属したと
15. あかし-もととも【明石元知】
日本人名大辞典
?−1595 織豊時代の武将。黒田孝高(よしたか)の従弟。豊臣秀吉につかえ,小牧・長久手の戦いなどで功をたてる。但馬(たじま)(兵庫県)豊岡亀城主。文禄(ぶんろ
16. あきはん【安岐藩】
国史大辞典
直陳は田原親宏の安岐城を修築して城代を置いたが、関ヶ原の戦に西軍について敗れ、城代熊谷外記も黒田孝高に降参開城し自殺した。爾後藩は廃され、領地は杵築藩に付され、
17. あじむまち【安心院町】大分県:宇佐郡
日本歴史地名大系
飯田城による飯田氏、青山城や赤井城に拠る佐田氏などが一帯に勢力を振るっていた。天正一五年(一五八七)黒田孝高が豊前に入部すると同氏の支配下に置かれる。慶長五年(
18. あそうのしよう【麻生庄】福岡県:北九州市(旧筑前域)
日本歴史地名大系
と、麻生家氏らは帆柱山城(現八幡西区)、香春岳城(現香春町)などの攻撃を命じられ(一〇月四日黒田孝高等連署書状写)、島津方の秋月氏らと戦っている(一〇月一六日羽
19. あそむら【阿曾村】兵庫県:揖保郡/太子町
日本歴史地名大系
高一〇六石余が浅野長政に与えられている。同一一年一〇月二日の羽柴秀吉判物(黒田文書)では当村の高六〇〇石が黒田孝高に、文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知
20. あまべぐん【海部郡】大分県:豊後国
日本歴史地名大系
軍の岡城(現竹田市)城主中川氏に臼杵城下を攻撃されて伊予国に去った。また佐賀関辺りでも東軍の黒田孝高軍と太田勢との攻防が展開されている。同戦後、臼杵城には美濃国
21. あらきむら【荒木村】大分県:宇佐市/旧四日市町地区
日本歴史地名大系
役職之内」とみえ、当地の屋敷の下作職などが吉村哉勝に与えられている。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩(のち豊前小倉藩)領、寛永九年
22. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
持されており、同九年六月、毛利勢は改めて岩屋を占拠した。折から因幡鳥取城を包囲中の羽柴秀吉は黒田孝高をまず淡路に上陸させ、鳥取落城後の一一月、秀吉自ら池田元助ら
23. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
流し、土佐泊(現鳴門市)に上陸した。いっぽう讃岐方面からは宇喜多秀家、蜂須賀正勝・家政父子、黒田孝高が二万余の軍を率いて阿波をめざした(森古伝記・黒田家譜)。長
24. いくた-きやのすけ【生田木屋之介】
日本人名大辞典
織豊時代の武士。同輩を殺して日向(ひゅうが)(宮崎県)を出奔し,播磨(はりま)(兵庫県)姫路の黒田孝高(よしたか)の家臣井上九郎右衛門につかえる。摂津生田(いく
25. いけながじょうあと【池永城跡】大分県:中津市/池永村
日本歴史地名大系
、池永近江守は大内氏の被官であったが上意に背いて没落した。天正一六年(一五八八)宇都宮鎮房が黒田孝高の中津築城手伝いを拒否して籠城すると、池永氏も国中の一揆に与
26. 石垣原
世界大百科事典
大分自動車道が扇状地の中央部を貫通し,付近の住宅地化が著しい。この地は1600年(慶長5)大友義統が黒田孝高に敗北し,大友氏が滅亡することになった古戦場としても
27. いたのぐん【板野郡】徳島県
日本歴史地名大系
岐に流された際にも利用されたとみられる。また天正一三年の羽柴秀吉の四国進攻の際、宇喜多秀家・黒田孝高・蜂須賀正勝などの軍が大坂峠を通って阿波に侵入したという。中
28. いっとうぐん【揖東郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
柴秀吉は領国播磨の支配を完成し、配下の諸将や有力寺社に知行地を相前後して宛行った。当郡内には黒田孝高の岩見庄など一万石(同八年九月一日「羽柴秀吉判物」黒田文書)
29. いとうすけたか【伊東祐兵】
国史大辞典
人扶持、同十一年河内国丹南郡半田村(大阪府南河内郡)にて五百石、秀吉西征に際して案内者として黒田孝高の手に属した。同十五年五月曾井・臼杵・宮崎・清武・諸県などを
30. いぬまるじょうあと【犬丸城跡】大分県:中津市/犬丸村
日本歴史地名大系
した野仲鎮兼に従ったが、同一〇年には大友方として籠城している。同一五年一〇月黒田孝高に従わず籠城したため、黒田孝高は福島城・大畑城を攻略したあと、「直に結城越中
31. いまいむら【今井村】大分県:宇佐市/旧四日市町地区
日本歴史地名大系
門尉弘義なる者が当地に塁を築いて住し、今井を名乗ることもあったという。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
32. いわみのしょう【岩見庄】兵庫県:揖保郡/御津町/片村
日本歴史地名大系
三分一地頭職を宛行われている。天正八年(一五八〇)九月一日の羽柴秀吉領知判物(黒田文書)では黒田孝高に岩見庄二千七〇〇石などが宛行われているが、当庄は福井庄(現
33. 印章 30[別刷図版]画像
国史大辞典
大友義鎮 「FRCO」 大友義鎮 「IHS FRCO」 バリニァーノ 「IHS」 黒田孝高(如水) 黒田孝高 「Simeon Josui 黒田長政 黒田長政 「
34. うさぐん【宇佐郡】
国史大辞典
て地頭三十六人衆を編成自衛したが、弘治二年(一五五六)大友宗麟に服し、天正十五年(一五八七)黒田孝高は宇佐郡など豊前六郡を豊臣秀吉より受領し、中津城に入った。以
35. うさぐん【宇佐郡】大分県
日本歴史地名大系
島津氏が無視したため黒田孝高・毛利輝元などを九州に派兵、一〇月に時枝氏・宮成氏はいち早く人質を出して帰順している。〔近世〕天正一五年九州平定をなしとげた豊臣秀吉
36. うさし【宇佐市】大分県
日本歴史地名大系
〔近世〕天正一五年七月豊臣秀吉は九州平定の論功行賞を筑前博多で行い、市域は宇佐郡をはじめ豊前六郡を領した黒田孝高の領所となり、宇佐宮領はすべて没収された。黒田氏
37. 宇佐神宮
世界大百科事典
は中絶していたが,1418年(応永25)に足利義持が社殿を造営し,以後は大内義興,足利義晴,黒田孝高,細川忠興らによって造営が行われた。 神事・宝物 中世には大
38. うさじんぐう【宇佐神宮】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区/宇佐村
日本歴史地名大系
神領〕天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州平定によって宇佐宮寺領はすべて没収される。同年黒田孝高が豊前東六郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)を得て入部
39. うさむら【宇佐村】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区
日本歴史地名大系
ら戦国期すでに宇佐宮前には町場が形成され、市も開かれていたと思われる。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
40. うまがたけじようあと【馬ヶ岳城跡】福岡県:京都郡/犀川町/花熊村
日本歴史地名大系
前に二日間当城に逗留した(三月晦日「豊臣秀吉朱印状」小早川家文書/大日本古文書一一―一)。同年七月黒田孝高が当城に居を置いたが、翌年下毛郡中津に中津城を築いて移
41. うるづむら【宇留津村】福岡県:築上郡/椎田町
日本歴史地名大系
羽柴秀吉軍の黒田孝高以下毛利・小早川・吉川ら中国勢、および長野・宗像らの現地軍二万八千余の大軍が攻撃し、城主以下一千余人の首をはね、そのほかの男女を残らず磔に処
42. えんせいじ【円清寺】福岡県:鞍手郡/鞍手町/中山村
日本歴史地名大系
初代藩主黒田高政の重臣吉田壱岐守重成の知行地とされ、重成は同村内に別宅を設けた(吉田家伝録)。重成は当寺に黒田孝高の位牌を安置、孝高の法号円清をとって寺号とした
43. 大分[県]画像
世界大百科事典
山国川下流の中津地方は,県の最北部に位置し,中津平野の中心である。中津は1587年(天正15),黒田孝高(よしたか)が山国川の河口丸山に築城したのに始まり,17
44. 大分(県)画像
日本大百科全書
竹中(高田)らの諸大名を分封した。なお豊前は、九州征伐のとき検地し、中津に1587年(天正15)黒田孝高(よしたか)が封ぜられている。これらは関ヶ原の戦いの結果
45. おおた-かずよし【太田一吉】
日本人名大辞典
,慶長2年豊後(ぶんご)(大分県)臼杵(うすき)城主となる。関ケ原の戦いでは西軍についたが,黒田孝高(よしたか)の尽力で知行没収にとどまった。元和(げんな)3年
46. おおつかむら【大塚村】大分県:宇佐市/旧駅川町地区
日本歴史地名大系
月三日の宮成公基所領坪付(宮成文書)に「当時令進止村」の一として「大塚」がみえる。天正一五年黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
47. おおともよしむね【大友義統】画像
国史大辞典
毛利輝元に預けられて山口に幽閉、翌年水戸佐竹義宣に預けられた。慶長五年(一六〇〇)豊後速見郡石垣原で黒田孝高に敗れて降参、出羽秋田の秋田実季に預けられて幽閉。同
48. おおはたじょうあと【大畑城跡】大分県:中津市/加来村
日本歴史地名大系
度攻めたが落城しなかったとある。下毛郡における大友方の拠点となっていた。しかし天正一六年三月黒田孝高の下知に応ぜず籠城して一族滅び去った(両豊記)。統直は秣村(
49. おぐらじょうあと【小倉城跡】大分県:宇佐市/旧四日市町地区/四日市村
日本歴史地名大系
役などを永代免許しており、渡辺氏一族が商人として活躍していた様子もうかがわれる。同一五年七月黒田孝高が豊前六郡に入部し、まもなく豊前一揆が勃発、一揆鎮圧後廃城と
50. おだわらせいばつ【小田原征伐】画像
国史大辞典
与える約束で内応が働きかけられた。韮山で休戦した氏規は、みずから城中に入って和睦をすすめ、家康・黒田孝高・滝川雄利らの和議の努力もあったので、七月五日、北条氏直