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  11. 黒田孝高

黒田孝高

ジャパンナレッジで閲覧できる『黒田孝高』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
黒田孝高
くろだよしたか
一五四六 - 一六〇四
安土桃山時代の武将。初名孝隆、のち孝高、致仕後政成に改む。幼名万吉、長じて官兵衛、勘解由と称し、剃髪して如水軒円清居士と号した。はじめ小寺氏を称したが、のち黒田姓に復した。天文十五年(一五四六)十一月二十九日、播磨国飾東郡姫路(兵庫県姫路市)に生まれる。父は職隆、母は明石宗和の娘、小寺政職の養女として職隆に嫁す。父職隆のとき、赤松氏の一族で御着城の城主であった小寺藤兵衛政職に属し、小寺姓を与えられて姫路城を預かった。織田信長が台頭すると、父職隆とともに政職にすすめて信長に通じ、天正五年(一五七七)には中国征伐のため播磨に入った秀吉を姫路城に迎え入れ、秀吉に従って佐用・上月の両城を攻めた。同六年荒木村重が信長に背くと、その居城摂津国有岡城に赴き村重を説得しようとしたが、かえって捕えられて城中に抑留され、七年信長が有岡城を降したとき家臣によって救出された。八年秀吉は別所長治を三木城に攻めて滅ぼし、ここを居城に定めようとした。孝高は、三木は播磨のはずれにあり居城とするには適さないと説き、姫路城を秀吉に譲って、みずからは飾東郡国府山城に移り、同年秀吉から揖東郡のうちに一万石を与えられた。このころ小寺姓をもとの黒田姓に改めている。十年秀吉が備中の諸城を攻め、高松城を攻めたときには水ぜめを献策し、蜂須賀正勝とともに毛利氏との講和交渉にあたった。同年六月本能寺において信長が討たれると、秀吉は直ちに高松を発したが、孝高はその殿(しんがり)をつとめて毛利氏の追撃に備え、山崎の戦に従って功をたてた。十一年賤ヶ岳の戦に従い、揖東郡に千石の加増を受け、十二年には宍粟郡を与えられて山崎城に移った。十三年の四国征伐に際しては羽柴秀長に従い、蜂須賀正勝とともに検使として讃岐屋島に渡り、阿波に進んで諸城を攻めた。戦後は伊予に派遣され、知行の配分にあたった。十四年には秀吉に先立って軍奉行として九州に下り、四国・中国の兵を率いて豊前の諸城を攻め、秀吉が九州に入ったのちは羽柴秀長に属して豊後から日向に進んだ。十五年七月その功によって豊前国京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐六郡を与えられた。はじめ京都郡馬ヶ岳城に入ったが、のち下毛郡中津に城を築いて移った。同年九月、肥後で国人一揆が起ると、直ちに出兵し、一揆鎮定後は戦後の処理にあたった。この間、豊前においても孝高の肥後出兵を機に、宇都宮鎮房を中心として黒田氏の支配に反撥する国人一揆が発生したが、翌十六年には鎮房を滅ぼして平定した。同年五月従五位下勘解由次官に叙任。十七年五月、孝高は致仕して家督を嫡子の長政に譲ったが、その後も秀吉に従って軍師として活躍、小田原征伐のときには北条氏直の降伏に力をつくした。十九年朝鮮出兵のため秀吉が諸大名に命じて肥前名護屋に城を築かせたときにはその縄張を担当し、翌文禄元年(一五九二)には朝鮮に渡って軍務にあたった。しかし病のため、秋にはいったん帰国、翌年浅野長政とともに再び朝鮮に渡って秀吉の命を諸将に伝えた。同年和議がなり、帰国後は剃髪して如水軒円清居士と号した。慶長二年(一五九七)朝鮮再出兵の際も朝鮮に渡り、慶尚道梁山城を守ったが、翌三年秀吉の死によって帰国した。石田三成とはすでに朝鮮在陣中から不仲であったが、慶長五年関ヶ原の戦に際しては徳川家康に与し、豊後国石垣原の戦において大友義統の豊後奪回を阻止し、さらに豊前小倉の毛利勝信を攻め、筑後に入って久留米・柳川の両城を受け取り、加藤清正・鍋島直茂らと合流して島津氏を討つため肥後水俣に進んだ。しかし十一月家康の命によって水俣で兵を止め、豊前に帰った。同年、長政が戦功によって筑前一国を与えられたため、豊前から筑前に移った。慶長九年三月二十日京都伏見で没した。博多で没したとの説もあるが、誤り。五十九歳。法号竜光院如水円清。筑前国那珂郡博多松原(福岡市博多区千代)の崇福寺に葬る。現在墓はまた京都大徳寺竜光院にもある。孝高は豊臣政権の伸張とともに成長した典型的な豊臣取立て大名で、石田三成らとは異なり、内政よりも軍事に長じ、もっぱら軍師としてすぐれた能力を発揮した。はじめ孝高は、茶の湯を武士に不似合な遊戯として嫌悪、嘲笑していたが、秀吉に茶会に招かれてもっぱら軍事を相談することがあり、秀吉からだれにも怪しまれず軍事の相談ができるのも茶の効用の一つと教えられて、茶の稽古を始めたという。のちにはみずから茶法を定めてこれを茶室に掲げたが、このことからも孝高の武人としての性格がうかがえる。孝高がキリシタンであったことは、黒田家の文書・記録には記されていないが、フロイスの書簡には天正十一年に高山右近に導かれて洗礼を受け、シメオンと称したとあり、孝高が十字の周囲にSimeon Josuiと刻したローマ字印を使用していたことや、福岡県朝倉郡杷木町志波の円清寺にある孝高の画像の讃に、「一旦入南蛮宗門、聞法談雖有年」とあることは、それを証明している。九州征伐中多くの将兵にすすめて信者となし、朝鮮出兵には小西行長とはかってセスペデスを従軍させ、関ヶ原の戦によって小西行長らキリシタン大名が滅びると、その旧臣であったキリシタン武士を多く召し抱えた。没後、遺言によって博多の教会に一〇〇〇エクスを寄付させたといわれる。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ二 慶長九年三月二十日条、『寛政重修諸家譜』四二五、貝原篤信『黒田家譜』(『益軒全集』五)、金子堅太郎『黒田如水伝』
(柴多 一雄)


改訂新版 世界大百科事典
黒田孝高
くろだよしたか
1546-1604(天文15-慶長9)

織豊政権期の武将。名は官兵衛。勘解由次官,如水円清などを称す。一族は,播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え,初め小寺姓を名のった。織田信長の中国進出にくみし,羽柴秀吉の参謀として軍略家の名をはせた。1578年(天正6)荒木村重が信長に背いたとき,説得に赴いたが失敗した。80年,播磨揖東郡内1万石を与えられたのを始めとして,数々の戦功により,九州征伐後の87年には,豊前6郡を領した。89年,剃髪して家を子長政に譲り,秀吉に近侍し,小田原征伐,文禄・慶長の役などおもに軍事面で活躍した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では,子長政とともに徳川家康にくみし,豊後で大友吉統(よしむね)と戦い捕虜とした。その功で,黒田家は筑前一国を領した。熱心なキリスト教徒で,洗礼名をドン・シメオンと称し,そのキリシタン名を印文にした印判状を発給した。遺言により博多の教会堂に葬られた。
[高木 傭太郎]

[索引語]
黒田官兵衛 黒田如水 小寺孝高
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検索ヒット数 237
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検索コンテンツ
1. 黒田孝高画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。職隆(もとたか)の子。天文(てんぶん)15年11月29日、播磨(はりま)国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路に生まれる。幼名万吉。官
2. 黒田孝高
世界大百科事典
1546-1604(天文15-慶長9) 織豊政権期の武将。名は官兵衛。勘解由次官,如水円清などを称す。一族は,播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え,初め小寺姓を名のった
3. くろだ‐よしたか【黒田孝高】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。職高(もとたか)の子。初姓小寺。幼名万吉、のち祐隆、孝隆。通称官兵衛、勘解由(かげゆ)。道号如水(じょすい)。洗礼名シメオン
4. くろだよしたか【黒田孝高】画像
国史大辞典
一五四六―一六〇四 安土桃山時代の武将。初名孝隆、のち孝高、致仕後政成に改む。幼名万吉、長じて官兵衛、勘解由と称し、剃髪して如水軒円清居士と号した。はじめ小寺
5. くろだ-よしたか【黒田孝高】
日本人名大辞典
1546−1604 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)15年11月29日生まれ。黒田職隆(もとたか)の子。織田信長につかえ,のち豊臣秀吉の軍師として中国,四
6. 黒田孝高[文献目録]
日本人物文献目録
清水駿太郎『黒田如水の刑法観』福本日南『黒田如水の死因』金関丈夫『黒田如水の茶室』川上帚木『黒田孝高入道』長谷川伸『三川雑記抄 2 軍人立志篇』富村登『晩年の黒
7. 黒田孝高[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
黒田孝高画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
8. Kuroda Yoshitaka 【黒田孝高】
Encyclopedia of Japan
1546−1604 Also known as Kuroda Josui; Christian name, Simeao. Daimyo of the Azuc
9. 黒田孝高印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 黒田孝高花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. ローマ字印[図版]画像
国史大辞典
toxi」 細川忠利印 「tada uoqui」 細川忠興印 「Simeon Josui」 黒田孝高印 「Curo NGMS」 黒田長政印 「T.S.T.D.」
12. 黒田孝高計策 (見出し語:黒田如水)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1261ページ
13. 北條氏直贈家寳於黒田孝高 (見出し語:北條氏直)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 710ページ
14. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
生没年不詳 安土桃山時代の武将。左近。与四郎。則実・実則とも称す。播磨明石の出身。仙恵の子。黒田孝高の従弟で、天正八年(一五八〇)孝高を通じて豊臣秀吉に属したと
15. あかし-もととも【明石元知】
日本人名大辞典
?−1595 織豊時代の武将。黒田孝高(よしたか)の従弟。豊臣秀吉につかえ,小牧・長久手の戦いなどで功をたてる。但馬(たじま)(兵庫県)豊岡亀城主。文禄(ぶんろ
16. あきはん【安岐藩】
国史大辞典
直陳は田原親宏の安岐城を修築して城代を置いたが、関ヶ原の戦に西軍について敗れ、城代熊谷外記も黒田孝高に降参開城し自殺した。爾後藩は廃され、領地は杵築藩に付され、
17. あじむまち【安心院町】大分県:宇佐郡
日本歴史地名大系
飯田城による飯田氏、青山城や赤井城に拠る佐田氏などが一帯に勢力を振るっていた。天正一五年(一五八七)黒田孝高が豊前に入部すると同氏の支配下に置かれる。慶長五年(
18. あそうのしよう【麻生庄】福岡県:北九州市(旧筑前域)
日本歴史地名大系
と、麻生家氏らは帆柱山城(現八幡西区)、香春岳城(現香春町)などの攻撃を命じられ(一〇月四日黒田孝高等連署書状写)、島津方の秋月氏らと戦っている(一〇月一六日羽
19. あそむら【阿曾村】兵庫県:揖保郡/太子町
日本歴史地名大系
高一〇六石余が浅野長政に与えられている。同一一年一〇月二日の羽柴秀吉判物(黒田文書)では当村の高六〇〇石が黒田孝高に、文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知
20. あまべぐん【海部郡】大分県:豊後国
日本歴史地名大系
軍の岡城(現竹田市)城主中川氏に臼杵城下を攻撃されて伊予国に去った。また佐賀関辺りでも東軍の黒田孝高軍と太田勢との攻防が展開されている。同戦後、臼杵城には美濃国
21. あらきむら【荒木村】大分県:宇佐市/旧四日市町地区
日本歴史地名大系
 役職之内」とみえ、当地の屋敷の下作職などが吉村哉勝に与えられている。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩(のち豊前小倉藩)領、寛永九年
22. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
持されており、同九年六月、毛利勢は改めて岩屋を占拠した。折から因幡鳥取城を包囲中の羽柴秀吉は黒田孝高をまず淡路に上陸させ、鳥取落城後の一一月、秀吉自ら池田元助ら
23. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
流し、土佐泊(現鳴門市)に上陸した。いっぽう讃岐方面からは宇喜多秀家、蜂須賀正勝・家政父子、黒田孝高が二万余の軍を率いて阿波をめざした(森古伝記・黒田家譜)。長
24. いくた-きやのすけ【生田木屋之介】
日本人名大辞典
織豊時代の武士。同輩を殺して日向(ひゅうが)(宮崎県)を出奔し,播磨(はりま)(兵庫県)姫路の黒田孝高(よしたか)の家臣井上九郎右衛門につかえる。摂津生田(いく
25. いけながじょうあと【池永城跡】大分県:中津市/池永村
日本歴史地名大系
、池永近江守は大内氏の被官であったが上意に背いて没落した。天正一六年(一五八八)宇都宮鎮房が黒田孝高の中津築城手伝いを拒否して籠城すると、池永氏も国中の一揆に与
26. 石垣原
世界大百科事典
大分自動車道が扇状地の中央部を貫通し,付近の住宅地化が著しい。この地は1600年(慶長5)大友義統が黒田孝高に敗北し,大友氏が滅亡することになった古戦場としても
27. いたのぐん【板野郡】徳島県
日本歴史地名大系
岐に流された際にも利用されたとみられる。また天正一三年の羽柴秀吉の四国進攻の際、宇喜多秀家・黒田孝高・蜂須賀正勝などの軍が大坂峠を通って阿波に侵入したという。中
28. いっとうぐん【揖東郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
柴秀吉は領国播磨の支配を完成し、配下の諸将や有力寺社に知行地を相前後して宛行った。当郡内には黒田孝高の岩見庄など一万石(同八年九月一日「羽柴秀吉判物」黒田文書)
29. いとうすけたか【伊東祐兵】
国史大辞典
人扶持、同十一年河内国丹南郡半田村(大阪府南河内郡)にて五百石、秀吉西征に際して案内者として黒田孝高の手に属した。同十五年五月曾井・臼杵・宮崎・清武・諸県などを
30. いぬまるじょうあと【犬丸城跡】大分県:中津市/犬丸村
日本歴史地名大系
した野仲鎮兼に従ったが、同一〇年には大友方として籠城している。同一五年一〇月黒田孝高に従わず籠城したため、黒田孝高は福島城・大畑城を攻略したあと、「直に結城越中
31. いまいむら【今井村】大分県:宇佐市/旧四日市町地区
日本歴史地名大系
門尉弘義なる者が当地に塁を築いて住し、今井を名乗ることもあったという。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
32. いわみのしょう【岩見庄】兵庫県:揖保郡/御津町/片村
日本歴史地名大系
三分一地頭職を宛行われている。天正八年(一五八〇)九月一日の羽柴秀吉領知判物(黒田文書)では黒田孝高に岩見庄二千七〇〇石などが宛行われているが、当庄は福井庄(現
33. 印章 30[別刷図版]画像
国史大辞典
大友義鎮 「FRCO」 大友義鎮 「IHS FRCO」 バリニァーノ 「IHS」 黒田孝高(如水) 黒田孝高 「Simeon Josui 黒田長政 黒田長政 「
34. うさぐん【宇佐郡】
国史大辞典
て地頭三十六人衆を編成自衛したが、弘治二年(一五五六)大友宗麟に服し、天正十五年(一五八七)黒田孝高は宇佐郡など豊前六郡を豊臣秀吉より受領し、中津城に入った。以
35. うさぐん【宇佐郡】大分県
日本歴史地名大系
島津氏が無視したため黒田孝高・毛利輝元などを九州に派兵、一〇月に時枝氏・宮成氏はいち早く人質を出して帰順している。〔近世〕天正一五年九州平定をなしとげた豊臣秀吉
36. うさし【宇佐市】大分県
日本歴史地名大系
〔近世〕天正一五年七月豊臣秀吉は九州平定の論功行賞を筑前博多で行い、市域は宇佐郡をはじめ豊前六郡を領した黒田孝高の領所となり、宇佐宮領はすべて没収された。黒田氏
37. 宇佐神宮
世界大百科事典
は中絶していたが,1418年(応永25)に足利義持が社殿を造営し,以後は大内義興,足利義晴,黒田孝高,細川忠興らによって造営が行われた。 神事・宝物 中世には大
38. うさじんぐう【宇佐神宮】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区/宇佐村
日本歴史地名大系
神領〕天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州平定によって宇佐宮寺領はすべて没収される。同年黒田孝高が豊前東六郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)を得て入部
39. うさむら【宇佐村】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区
日本歴史地名大系
ら戦国期すでに宇佐宮前には町場が形成され、市も開かれていたと思われる。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
40. うまがたけじようあと【馬ヶ岳城跡】福岡県:京都郡/犀川町/花熊村
日本歴史地名大系
前に二日間当城に逗留した(三月晦日「豊臣秀吉朱印状」小早川家文書/大日本古文書一一―一)。同年七月黒田孝高が当城に居を置いたが、翌年下毛郡中津に中津城を築いて移
41. うるづむら【宇留津村】福岡県:築上郡/椎田町
日本歴史地名大系
羽柴秀吉軍の黒田孝高以下毛利・小早川・吉川ら中国勢、および長野・宗像らの現地軍二万八千余の大軍が攻撃し、城主以下一千余人の首をはね、そのほかの男女を残らず磔に処
42. えんせいじ【円清寺】福岡県:鞍手郡/鞍手町/中山村
日本歴史地名大系
初代藩主黒田高政の重臣吉田壱岐守重成の知行地とされ、重成は同村内に別宅を設けた(吉田家伝録)。重成は当寺に黒田孝高の位牌を安置、孝高の法号円清をとって寺号とした
43. 大分[県]画像
世界大百科事典
山国川下流の中津地方は,県の最北部に位置し,中津平野の中心である。中津は1587年(天正15),黒田孝高(よしたか)が山国川の河口丸山に築城したのに始まり,17
44. 大分(県)画像
日本大百科全書
竹中(高田)らの諸大名を分封した。なお豊前は、九州征伐のとき検地し、中津に1587年(天正15)黒田孝高(よしたか)が封ぜられている。これらは関ヶ原の戦いの結果
45. おおた-かずよし【太田一吉】
日本人名大辞典
,慶長2年豊後(ぶんご)(大分県)臼杵(うすき)城主となる。関ケ原の戦いでは西軍についたが,黒田孝高(よしたか)の尽力で知行没収にとどまった。元和(げんな)3年
46. おおつかむら【大塚村】大分県:宇佐市/旧駅川町地区
日本歴史地名大系
月三日の宮成公基所領坪付(宮成文書)に「当時令進止村」の一として「大塚」がみえる。天正一五年黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇
47. おおともよしむね【大友義統】画像
国史大辞典
毛利輝元に預けられて山口に幽閉、翌年水戸佐竹義宣に預けられた。慶長五年(一六〇〇)豊後速見郡石垣原で黒田孝高に敗れて降参、出羽秋田の秋田実季に預けられて幽閉。同
48. おおはたじょうあと【大畑城跡】大分県:中津市/加来村
日本歴史地名大系
度攻めたが落城しなかったとある。下毛郡における大友方の拠点となっていた。しかし天正一六年三月黒田孝高の下知に応ぜず籠城して一族滅び去った(両豊記)。統直は秣村(
49. おぐらじょうあと【小倉城跡】大分県:宇佐市/旧四日市町地区/四日市村
日本歴史地名大系
役などを永代免許しており、渡辺氏一族が商人として活躍していた様子もうかがわれる。同一五年七月黒田孝高が豊前六郡に入部し、まもなく豊前一揆が勃発、一揆鎮圧後廃城と
50. おだわらせいばつ【小田原征伐】画像
国史大辞典
与える約束で内応が働きかけられた。韮山で休戦した氏規は、みずから城中に入って和睦をすすめ、家康・黒田孝高・滝川雄利らの和議の努力もあったので、七月五日、北条氏直
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