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  11. 朝倉孝景

朝倉孝景

ジャパンナレッジで閲覧できる『朝倉孝景』の国史大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
朝倉孝景
あさくらたかかげ

(一)

一四二八 - 八一
室町時代の武将。越前国守護代。正長元年(一四二八)四月十九日、家景の嫡子として生まれる。幼名小太郎。孫右衛門尉、のち弾正左衛門尉と称し、教景のち繁景、そののち孝景を名乗る。敏景とするものは『朝倉始末記』系統のものである。永享十一年(一四三九)から幼少の斯波千代徳丸が越前守護であったが、文安四年(一四四七)ごろ一族の治部大輔義廉と修理大夫持種およびその子右兵衛佐義敏とが争っていた。宝徳三年(一四五一)十一月、千代徳丸は元服して義武と名乗るが間もなく病死、義敏が守護となった。敏景はこの義敏の一字をもらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長禄二年(一四五八)十一月朔日に京を出発した孝景は、翌三年五月にかけて敦賀郡で二十一度の合戦をし、六月朔日北庄に着いた。敗れた義敏は西国の大内氏を頼り、義廉が守護となり、堀江氏の所領を奪った孝景は河口・坪江両荘に地歩を固めた。これから寛正元年(一四六〇)二月の阿波賀城戸口合戦、同年八月の和田合戦、三年八月の鯖江・新庄合戦、五年八月の檜山・蓮ヶ浦合戦、六年正月の杣山合戦、同年五月の殿下・桶田合戦、同年五月の波着・岡保の合戦、文正元年(一四六六)七月の大野・井野合戦などで、千福・増沢・二宮の諸氏を圧倒し、越前の統一を進めた。応仁の乱がおこると義廉を擁して京都の西軍の主力として活躍し、応仁元年(一四六七)十一月義廉を越前に迎え、翌二年七月本郷と清水山に、八月には志原で戦った。しかし文明三年(一四七一)五月、甲斐が義敏と結びかけたので、孝景は東軍につき、一乗谷を本拠として甲斐一党と戦い、次第にこれを圧倒して一国を掌握した。このころ吉崎にいた蓮如と結び、加賀の西軍と一向宗徒を戦わせている。心月寺・固山寺を建立。文明十三年七月二十六日、一乗谷で病死。五十四歳。法名英林宗雄。かれの死を聞いた甘露寺親長は、「為〓惣別珍重〓歟、天下悪事始行張本也」といっている。墓(英林塚)は新御殿の背後の上段にある。いわゆる『朝倉孝景十七箇条』は、氏景のために残したといわれるが、朝倉家の家訓として受けつがれた。なおこの人物を教景(宗滴)と混同してはならない。→斯波義廉(しばよしかど),→斯波義敏(しばよしとし)
[参考文献]
『大日本史料』八ノ一三 文明十三年七月二十六日条、『大乗院寺社雑事記』、井上鋭夫編『北国庄園史料』、井上鋭夫『一向一揆の研究』、笠原一男・井上鋭夫校注『蓮如一向一揆』(『日本思想大系』一七)

(二)

一四九三 - 一五四八
戦国時代の武将。越前国の大名。はじめ孫次郎、のち弾正左衛門尉。明応二年(一四九三)十一月二十二日、貞景の嫡子として生まれる。永正十年(一五一三)将軍足利義稙が佐々木氏綱と戦って敗れ、甲賀に逃げたとき、孝景は近江に出兵、氏綱を伊勢に追って義稙を帰京させた。この功によって同十三年、白傘袋・毛氈鞍覆を許された。同十五年には細川高国の仲介で加賀一向一揆と和睦し、加賀に対する海陸の封鎖を解いた。これは北国の寺社公家領の荘園の貢租を京都に運ばせるためである。大永七年(一五二七)十一月、高国と三好一党が将軍足利義晴にそむいたときは、義晴方として桂川合戦に勝利を得、翌享禄元年(一五二八)五月、御相伴衆に加えられ、上使大館晴光から鬼切太刀などを拝領。同四年、加賀一向衆が超勝寺・本覚寺方と三ヵ寺方とに分裂抗争したときは、三ヵ寺方を援けて本願寺方と争ったが、手取川で敗れて兵を引いた。天文四年(一五三五)四月には後奈良天皇の即位式費用一万疋を献上したので、塗輿を幕府から許され、同九年には皇居修理料として百貫文を献上している。このころ加賀一揆と越前朝倉氏との和議および北陸道の開通が公家・社寺から要望され、浅井亮政・六角定頼が本願寺の同意と経費一万貫を求めたが、本願寺から拒絶された。しかし孝景は政治情勢を考慮して、同十年九月、本願寺に末代まで門下になり、越前の三郡を進上し、毎年三万疋を進めることを申し出た。本願寺の証如は和議だけを承知し、門徒化や三郡進上などは拒否した。孝景の最大の課題は一向宗対策であったといえる。孝景自身は曹洞禅の宏智(わんし)派と関係が深く、英林寺・子春寺・天沢寺・遊楽寺を創建し、火災にあった弘祥寺・心月寺を再興した。また五千余巻の毘盧蔵を建て法雲堂と号した。天文十七年三月二十二日没。五十六歳。法名大岫宗淳。
[参考文献]
『朝倉始末記』(『日本思想大系』一七)、笠原一男『一向一揆の研究』
(井上 鋭夫)


朝倉孝景(一)花押
アサクラタカカゲ01カオウ
朝倉孝景(一)花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


朝倉孝景(二)花押
アサクラタカカゲ02カオウ
朝倉孝景(二)花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
朝倉孝景
あさくらたかかげ
[1428―1481]

戦国大名。初め斯波(しば)氏の重臣、守護代であったが、のち、戦国大名越前(えちぜん)(福井県)朝倉氏の初代となる。教景(のりかげ)、敏景(としかげ)ともいう。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のとき、当初西軍斯波義廉(よしかど)に従い、東軍の斯波義敏(よしとし)を攻めるなど西軍の猛将として活躍したが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)、管領(かんれい)細川勝元(かつもと)の誘いに応じ東軍に寝返り、1471年(文明3)主家斯波氏から越前の支配権を奪取した。福井市心月(しんげつ)寺に伝わるその画像(国指定重要文化財)は、一代の英雄のおもかげをよく伝えている。また「朝倉敏景十七箇条」(孝景条々)は、台頭する戦国大名の合理的なものの考え方を示し、戦国家法として著名である。文明(ぶんめい)13年7月26日没。法名英林宗雄。

[水藤 真]



朝倉孝景(朝倉敏景)[百科マルチメディア]
朝倉孝景(朝倉敏景)[百科マルチメディア]

「朝倉敏景画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所
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朝倉孝景の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 187
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検索コンテンツ
1. 朝倉孝景画像
日本大百科全書
戦国大名。初め斯波(しば)氏の重臣、守護代であったが、のち、戦国大名越前(えちぜん)(福井県)朝倉氏の初代となる。教景(のりかげ)、敏景(としかげ)ともいう。応
2. 朝倉孝景
世界大百科事典
→朝倉敏景(あさくらとしかげ)
3. 朝倉孝景
世界大百科事典
1493-1548(明応2-天文17) 戦国時代の武将,越前国の大名。幼名孫次郎,のち弾正左衛門尉に任ず。貞景の嫡子。孝景の治世は政権が最も安定し,近隣諸国さら
4. あさくら‐たかかげ【朝倉孝景】
日本国語大辞典
〔一〕戦国大名。越前守護。貞景の子。弾正左衛門尉。法名大岫宗淳。将軍足利義稙(よしたね)の殊遇を受け、佐々木氏を討った。また、後奈良天皇の即位の大礼を行なう資金
5. あさくらたかかげ【朝倉孝景】画像
国史大辞典
もらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長禄二年(一四五八)十一月朔日に京を出発した
6. 朝倉孝景
日本史年表
1471年〈文明3 辛卯⑧〉 5・21 幕府, 朝倉孝景 を越前守護とする.この頃,東軍優勢(古証文)。 1481年〈文明13 辛丑〉 7・26 没。
7. あさくら-たかかげ【朝倉孝景(1)】
日本人名大辞典
1428−1481 室町時代の武将。応永35年4月19日生まれ。応仁の乱を機に守護斯波(しば)氏にかわって越前(えちぜん)(福井県)を支配。一乗谷を本拠に戦国大
8. あさくら-たかかげ【朝倉孝景(2)】
日本人名大辞典
1493−1548 戦国時代の武将。明応2年11月22日生まれ。朝倉貞景(さだかげ)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。将軍足利義稙(よしたね)をたすけて六角
9. 朝倉孝景(朝倉敏景)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「朝倉敏景画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
10. 朝倉孝景(一)花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 朝倉孝景(二)花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
12. 『朝倉孝景十七箇条』
日本史年表
1481年〈文明13 辛丑〉 7・26 朝倉孝景没.生前,家訓 『朝倉孝景十七箇条』 を制定。
13. あさくらたかかげじゅうしちかじょう【朝倉孝景十七箇条】
国史大辞典
越前守護朝倉孝景が制定した家訓。孝景は、法名を英林宗雄といい、『朝倉始末記』には敏景としている。制定年代は明記されていないが、彼の晩年、文明十一年(一四七九)
14. 朝倉孝景条々
世界大百科事典
戦国武将朝倉孝景(英林)が子の氏景に残したとされる家訓。《朝倉英林壁書》(黒川本),《朝倉英林入道子孫へ一書》(新井白石本),《朝倉敏景十七箇条》(群書類従本)
15. あさくらたかかげ‐じょうじょう[‥デウデウ]【朝倉孝景条条】
日本国語大辞典
〓あさくらとしかげじゅうしちかじょう(朝倉敏景十七か条)
16. あさいすけまさ【浅井亮政】画像
国史大辞典
進を招き、軍事的にはいずれも敗北を喫している。一方後背地越前とは、大永五年六角氏の進攻に際し朝倉孝景の援軍を得て以来、友好的な状態を維持しており、また本願寺には
17. 朝倉氏
世界大百科事典
仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を領し,一乗谷に城を築く。《朝倉孝景条々》は戦国家法として有名。孫の貞景は一向一揆および同族争い
18. 朝倉英林入道家誡(著作ID:603281)
新日本古典籍データベース
あさくらえいりんにゅうどうかかい 朝倉英林宗滴家訓 朝倉孝景(あさくらたかかげ) 教訓 
19. 朝倉英林入道子孫へ一書(著作ID:603292)
新日本古典籍データベース
あさくらえいりんにゅうどうしそんへいっしょ 朝倉孝景(あさくらたかかげ) 教訓 
20. 朝倉宗滴話記
世界大百科事典
戦国武将朝倉孝景(英林)の末子教景(宗滴)の雑談を側近の萩原某が筆記したもの。1巻83ヵ条で,成立は弘治・永禄年間(1555-70)と思われる。《宗滴夜話》《宗
21. あさくらたかかげ【朝倉孝景】 : 朝倉孝景/(一)
国史大辞典
もらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長禄二年(一四五八)十一月朔日に京を出発した
22. 朝倉敏景
世界大百科事典
統一し戦国大名に成長。応仁の乱では初め西軍のち東軍に寝返る。家訓《朝倉孝景条々》をのこす。法名英林宗雄。細溝 典彦 朝倉教景 朝倉孝景 朝倉英林
23. あさくらとしかげ【朝倉敏景】
国史大辞典
朝倉孝景(あさくらたかかげ)
24. あさくら-としかげ【朝倉敏景】
日本人名大辞典
朝倉孝景(あさくら-たかかげ)(1)
25. あさくらとしかげ‐じゅうしちかじょう[‥ジフシチカデウ]【朝倉敏景十七か条】
日本国語大辞典
人材登用、領国文化の育成を強調し、他国への警戒を説くなど、家訓でありながら家法的性格を強く持つ。朝倉孝景条々。
26. 朝倉敏景十七箇条
世界大百科事典
朝倉孝景条々
27. あさくら-のりかげ【朝倉教景(1)】
日本人名大辞典
1380−1463 室町時代の武将。康暦(こうりゃく)2=天授6年生まれ。朝倉孝景(英林宗雄)の祖父。将軍足利義教(よしのり)の命で,永享9年一色義範(いっしき
28. あさくら-のりかげ【朝倉教景(2)】
日本人名大辞典
1474−1555 戦国時代の武将。文明6年生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(英林宗雄)の8男。宗家の朝倉貞景(さだかげ),孝景,義景(よしかげ)3代の後見をつとめ
29. あさくら-のりかげ【朝倉教景(3)】
日本人名大辞典
朝倉孝景(あさくら-たかかげ)(1)
30. あさくら-もとかげ【朝倉元景】
日本人名大辞典
?−1505 室町-戦国時代の武将。朝倉孝景(たかかげ)(英林宗雄)の子。異母弟朝倉教景(のりかげ)(以千宗勝)を殺害して越前(えちぜん)(福井県)をさり,京都
31. あさくら‐よしかげ【朝倉義景】
日本国語大辞典
戦国大名。朝倉孝景〔一〕の子。越前一乗谷城主。法名松雲院大球宗光。浅井長政と結んで織田信長に対抗したが、姉川の戦いで大敗。のち、信長に一乗谷を攻め落とされ、自刃
32. あさくらよしかげ【朝倉義景】画像
国史大辞典
朝倉氏は広景の入国以来十一代二百三十年、孝景が斯波氏の守護代として一国を領有してから一世紀、その間に『朝倉孝景十七箇条』など、領国支配にすぐれた実績を残しながら
33. あさくら-よしかげ【朝倉義景】
日本人名大辞典
1533−1573 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)2年9月24日生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(孫次郎)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。本願寺と和解
34. あすわのみくりや【足羽御厨】福井県:福井市
日本歴史地名大系
、言語道断事也」とあるように、応仁・文明の大乱で朝倉孝景に押領されてしまった。これ以前、代官朝倉広景は斯波高経に従って延元元年(一三三六)但馬国から越前に入り
35. あわたじま【粟田島】福井県:坂井郡/丸岡町
日本歴史地名大系
立図書館蔵)では、文明一三年(一四八一)八月一七日に「粟田嶋落去候テ、国中無事之由」とあり、朝倉孝景が越前を平定する過程で、最後まで抵抗した敵方の拠点となってい
36. あんようじあと【安養寺跡】福井県:福井市/一乗谷地区/新町村
日本歴史地名大系
にあった寺。現存しない。一乗城山の西麓に位置した。浄土宗。寺伝によれば、文明五年(一四七三)朝倉孝景の建立、開山は顕要という。天正三年(一五七五)北庄(現福井市
37. いちおうじあと【一王寺跡】福井県:福井市/旧坂井郡地区/一王寺村
日本歴史地名大系
奉加人数注進状が発見されている。真言宗の寺であったらしい。文明二年(一四七〇)一一月一〇日の朝倉孝景安堵状写(大安寺文書)によれば、一王寺領が坂南郡本郷にあった
38. いちじょうがたに‐じょう[‥ジャウ]【一乗谷城】
日本国語大辞典
福井市の南東、一乗城山中腹にあった朝倉氏の城館。文明三年(一四七一)朝倉孝景が主家斯波氏にかわって越前守護に任ぜられてのちに築城。天正元年(一五七三)織田信長に
39. いちじょうがたにじょう【一乗谷城】
国史大辞典
昭和四十五年(一九七〇)、特別史跡として約三〇〇ヘクタールが指定された。文明三年(一四七一)五月、朝倉孝景が西軍から東軍に転じ、黒丸城からここに移ったとされてい
40. 一乗谷画像
日本大百科全書
トル、足羽川に注ぐ一乗谷川の一小谷。戦国時代末期、越前(えちぜん)国(福井県)の守護となった朝倉孝景(たかかげ)(敏景(としかげ))ゆかりの地。昭和初期、館(や
41. いちじょうだに【一乗谷】福井県:福井市/一乗谷地区
日本歴史地名大系
陽寺および安波賀の西山光照寺跡が国の史跡に指定され、昭和四二年さらに南陽寺跡の一部と英林塚(朝倉孝景墓)・山城跡・上下両城戸の部分が追加指定を受けた。同四六年指
42. 一休和尚年譜 1 176ページ
東洋文庫
経景は越前守護朝倉孝景の弟である。 この像について興味深い史料がある。コ休宗純帯刀像由来記録」一紙の記事である。 「後小松院第一王子一休大和尚御帯刀之尊像一幅、
43. 一休和尚年譜 2 138ページ
東洋文庫
足利義政は斯波義敏を斯波家の惣領と認めて諸将に援助を命じ、斯波義廉は山名持豊(宗全)・細川勝元・朝倉孝景らに支持された。九月六日、山名・細川・朝倉らが、義視の失
44. 一休和尚年譜 2 141ページ
東洋文庫
ごろから東軍有利に転じたが、その原因は、この頃斯波義廉の被官で甲斐氏に替わって越前を支配した朝倉孝景が東軍に帰降して、京都西軍の糧道を絶ち、山陰地方に領国を持つ
45. 一休和尚年譜 2 178ページ
東洋文庫
嘉吉二年(一四四二)条、長禄三年(一四五九)条、寛正六年(一四六五)条に述べた。また文明十三年条に述べる。越前朝倉孝景の弟、経景の子で、文明十四年(一四八二)に
46. いっぱく【一栢】
国史大辞典
(一五〇九)ごろには和泉にあり、ついで同十一年以前、京に住し、易を学徒に授けた。時の越前守護朝倉孝景は同十七年以前、一栢を招いて一乗谷に住せしめ、天文五年(一五
47. いっぱく【一栢】
日本人名大辞典
戦国時代の僧。儒学,医学,暦学,陰陽(おんよう)学に通じる。越前(えちぜん)(福井県)の守護朝倉孝景(たかかげ)にまねかれ,一乗谷(福井市)に滞在。享禄(きょう
48. うち‐わ[‥は]【団扇・団】画像
日本国語大辞典
使ふ時は」(2)武将が軍勢を指揮するのに用いた具。また、相撲の行司が勝負の決定を示すのに用いる具。軍配団扇。*朝倉孝景条々〔1471~81〕英林壁書・二条「代々
49. うつろ【洞】
日本国語大辞典
〓洞(ウツロ)又宇(ウツロ)」*朝倉孝景条々〔1471~81〕子孫へ一書・一七条「諸事うつろをきんこうに沙汰致し候へば、他国の悪党等
50. うつろ【洞】
国史大辞典
輩ヲサシテ洞中ト云フ、尚一家中ト云フニ同ジ」と説明が記されている。この語は『結城氏新法度』『朝倉孝景条々』『塵芥集』などの分国法や、永正年間(一五〇四―二一)か
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