1. 朝倉孝景画像
日本大百科全書
戦国大名。初め斯波(しば)氏の重臣、守護代であったが、のち、戦国大名越前(えちぜん)(福井県)朝倉氏の初代となる。教景(のりかげ)、敏景(としかげ)ともいう。応
2. 朝倉孝景
世界大百科事典
→朝倉敏景(あさくらとしかげ)
3. 朝倉孝景
世界大百科事典
1493-1548(明応2-天文17) 戦国時代の武将,越前国の大名。幼名孫次郎,のち弾正左衛門尉に任ず。貞景の嫡子。孝景の治世は政権が最も安定し,近隣諸国さら
4. あさくら‐たかかげ【朝倉孝景】
日本国語大辞典
〔一〕戦国大名。越前守護。貞景の子。弾正左衛門尉。法名大岫宗淳。将軍足利義稙(よしたね)の殊遇を受け、佐々木氏を討った。また、後奈良天皇の即位の大礼を行なう資金
5. あさくらたかかげ【朝倉孝景】画像
国史大辞典
もらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長禄二年(一四五八)十一月朔日に京を出発した
6. 朝倉孝景
日本史年表
1471年〈文明3 辛卯⑧〉 5・21 幕府, 朝倉孝景 を越前守護とする.この頃,東軍優勢(古証文)。 1481年〈文明13 辛丑〉 7・26 没。
7. あさくら-たかかげ【朝倉孝景(1)】
日本人名大辞典
1428−1481 室町時代の武将。応永35年4月19日生まれ。応仁の乱を機に守護斯波(しば)氏にかわって越前(えちぜん)(福井県)を支配。一乗谷を本拠に戦国大
8. あさくら-たかかげ【朝倉孝景(2)】
日本人名大辞典
1493−1548 戦国時代の武将。明応2年11月22日生まれ。朝倉貞景(さだかげ)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。将軍足利義稙(よしたね)をたすけて六角
9. 朝倉孝景(朝倉敏景)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「朝倉敏景画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
10. 朝倉孝景(一)花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
11. 朝倉孝景(二)花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
12. 『朝倉孝景十七箇条』
日本史年表
1481年〈文明13 辛丑〉 7・26 朝倉孝景没.生前,家訓 『朝倉孝景十七箇条』 を制定。
13. あさくらたかかげじゅうしちかじょう【朝倉孝景十七箇条】
国史大辞典
越前守護朝倉孝景が制定した家訓。孝景は、法名を英林宗雄といい、『朝倉始末記』には敏景としている。制定年代は明記されていないが、彼の晩年、文明十一年(一四七九)
14. 朝倉孝景条々
世界大百科事典
戦国武将朝倉孝景(英林)が子の氏景に残したとされる家訓。《朝倉英林壁書》(黒川本),《朝倉英林入道子孫へ一書》(新井白石本),《朝倉敏景十七箇条》(群書類従本)
15. あさくらたかかげ‐じょうじょう[‥デウデウ]【朝倉孝景条条】
日本国語大辞典
あさくらとしかげじゅうしちかじょう(朝倉敏景十七か条)
16. あさいすけまさ【浅井亮政】画像
国史大辞典
進を招き、軍事的にはいずれも敗北を喫している。一方後背地越前とは、大永五年六角氏の進攻に際し朝倉孝景の援軍を得て以来、友好的な状態を維持しており、また本願寺には
17. 朝倉氏
世界大百科事典
仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を領し,一乗谷に城を築く。《朝倉孝景条々》は戦国家法として有名。孫の貞景は一向一揆および同族争い
18. 朝倉英林入道家誡(著作ID:603281)
新日本古典籍データベース
あさくらえいりんにゅうどうかかい 朝倉英林宗滴家訓 朝倉孝景(あさくらたかかげ) 教訓
19. 朝倉英林入道子孫へ一書(著作ID:603292)
新日本古典籍データベース
あさくらえいりんにゅうどうしそんへいっしょ 朝倉孝景(あさくらたかかげ) 教訓
20. 朝倉宗滴話記
世界大百科事典
戦国武将朝倉孝景(英林)の末子教景(宗滴)の雑談を側近の萩原某が筆記したもの。1巻83ヵ条で,成立は弘治・永禄年間(1555-70)と思われる。《宗滴夜話》《宗
21. あさくらたかかげ【朝倉孝景】 : 朝倉孝景/(一)
国史大辞典
もらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長禄二年(一四五八)十一月朔日に京を出発した
22. 朝倉敏景
世界大百科事典
統一し戦国大名に成長。応仁の乱では初め西軍のち東軍に寝返る。家訓《朝倉孝景条々》をのこす。法名英林宗雄。細溝 典彦 朝倉教景 朝倉孝景 朝倉英林
23. あさくらとしかげ【朝倉敏景】
国史大辞典
⇒朝倉孝景(あさくらたかかげ)
24. あさくら-としかげ【朝倉敏景】
日本人名大辞典
⇒朝倉孝景(あさくら-たかかげ)(1)
25. あさくらとしかげ‐じゅうしちかじょう[‥ジフシチカデウ]【朝倉敏景十七か条】
日本国語大辞典
人材登用、領国文化の育成を強調し、他国への警戒を説くなど、家訓でありながら家法的性格を強く持つ。朝倉孝景条々。
26. 朝倉敏景十七箇条
世界大百科事典
→朝倉孝景条々
27. あさくら-のりかげ【朝倉教景(1)】
日本人名大辞典
1380−1463 室町時代の武将。康暦(こうりゃく)2=天授6年生まれ。朝倉孝景(英林宗雄)の祖父。将軍足利義教(よしのり)の命で,永享9年一色義範(いっしき
28. あさくら-のりかげ【朝倉教景(2)】
日本人名大辞典
1474−1555 戦国時代の武将。文明6年生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(英林宗雄)の8男。宗家の朝倉貞景(さだかげ),孝景,義景(よしかげ)3代の後見をつとめ
29. あさくら-のりかげ【朝倉教景(3)】
日本人名大辞典
⇒朝倉孝景(あさくら-たかかげ)(1)
30. あさくら-もとかげ【朝倉元景】
日本人名大辞典
?−1505 室町-戦国時代の武将。朝倉孝景(たかかげ)(英林宗雄)の子。異母弟朝倉教景(のりかげ)(以千宗勝)を殺害して越前(えちぜん)(福井県)をさり,京都
31. あさくら‐よしかげ【朝倉義景】
日本国語大辞典
戦国大名。朝倉孝景〔一〕の子。越前一乗谷城主。法名松雲院大球宗光。浅井長政と結んで織田信長に対抗したが、姉川の戦いで大敗。のち、信長に一乗谷を攻め落とされ、自刃
32. あさくらよしかげ【朝倉義景】画像
国史大辞典
朝倉氏は広景の入国以来十一代二百三十年、孝景が斯波氏の守護代として一国を領有してから一世紀、その間に『朝倉孝景十七箇条』など、領国支配にすぐれた実績を残しながら
33. あさくら-よしかげ【朝倉義景】
日本人名大辞典
1533−1573 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)2年9月24日生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(孫次郎)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。本願寺と和解
34. あすわのみくりや【足羽御厨】福井県:福井市
日本歴史地名大系
、言語道断事也」とあるように、応仁・文明の大乱で朝倉孝景に押領されてしまった。これ以前、代官朝倉広景は斯波高経に従って延元元年(一三三六)但馬国から越前に入り
35. あわたじま【粟田島】福井県:坂井郡/丸岡町
日本歴史地名大系
立図書館蔵)では、文明一三年(一四八一)八月一七日に「粟田嶋落去候テ、国中無事之由」とあり、朝倉孝景が越前を平定する過程で、最後まで抵抗した敵方の拠点となってい
36. あんようじあと【安養寺跡】福井県:福井市/一乗谷地区/新町村
日本歴史地名大系
にあった寺。現存しない。一乗城山の西麓に位置した。浄土宗。寺伝によれば、文明五年(一四七三)朝倉孝景の建立、開山は顕要という。天正三年(一五七五)北庄(現福井市
37. いちおうじあと【一王寺跡】福井県:福井市/旧坂井郡地区/一王寺村
日本歴史地名大系
奉加人数注進状が発見されている。真言宗の寺であったらしい。文明二年(一四七〇)一一月一〇日の朝倉孝景安堵状写(大安寺文書)によれば、一王寺領が坂南郡本郷にあった
38. いちじょうがたに‐じょう[‥ジャウ]【一乗谷城】
日本国語大辞典
福井市の南東、一乗城山中腹にあった朝倉氏の城館。文明三年(一四七一)朝倉孝景が主家斯波氏にかわって越前守護に任ぜられてのちに築城。天正元年(一五七三)織田信長に
39. いちじょうがたにじょう【一乗谷城】
国史大辞典
昭和四十五年(一九七〇)、特別史跡として約三〇〇ヘクタールが指定された。文明三年(一四七一)五月、朝倉孝景が西軍から東軍に転じ、黒丸城からここに移ったとされてい
40. 一乗谷画像
日本大百科全書
トル、足羽川に注ぐ一乗谷川の一小谷。戦国時代末期、越前(えちぜん)国(福井県)の守護となった朝倉孝景(たかかげ)(敏景(としかげ))ゆかりの地。昭和初期、館(や
41. いちじょうだに【一乗谷】福井県:福井市/一乗谷地区
日本歴史地名大系
陽寺および安波賀の西山光照寺跡が国の史跡に指定され、昭和四二年さらに南陽寺跡の一部と英林塚(朝倉孝景墓)・山城跡・上下両城戸の部分が追加指定を受けた。同四六年指
42. 一休和尚年譜 1 176ページ
東洋文庫
経景は越前守護朝倉孝景の弟である。 この像について興味深い史料がある。コ休宗純帯刀像由来記録」一紙の記事である。 「後小松院第一王子一休大和尚御帯刀之尊像一幅、
43. 一休和尚年譜 2 138ページ
東洋文庫
足利義政は斯波義敏を斯波家の惣領と認めて諸将に援助を命じ、斯波義廉は山名持豊(宗全)・細川勝元・朝倉孝景らに支持された。九月六日、山名・細川・朝倉らが、義視の失
44. 一休和尚年譜 2 141ページ
東洋文庫
ごろから東軍有利に転じたが、その原因は、この頃斯波義廉の被官で甲斐氏に替わって越前を支配した朝倉孝景が東軍に帰降して、京都西軍の糧道を絶ち、山陰地方に領国を持つ
45. 一休和尚年譜 2 178ページ
東洋文庫
嘉吉二年(一四四二)条、長禄三年(一四五九)条、寛正六年(一四六五)条に述べた。また文明十三年条に述べる。越前朝倉孝景の弟、経景の子で、文明十四年(一四八二)に
46. いっぱく【一栢】
国史大辞典
(一五〇九)ごろには和泉にあり、ついで同十一年以前、京に住し、易を学徒に授けた。時の越前守護朝倉孝景は同十七年以前、一栢を招いて一乗谷に住せしめ、天文五年(一五
47. いっぱく【一栢】
日本人名大辞典
戦国時代の僧。儒学,医学,暦学,陰陽(おんよう)学に通じる。越前(えちぜん)(福井県)の守護朝倉孝景(たかかげ)にまねかれ,一乗谷(福井市)に滞在。享禄(きょう
48. うち‐わ[‥は]【団扇・団】画像
日本国語大辞典
使ふ時は」(2)武将が軍勢を指揮するのに用いた具。また、相撲の行司が勝負の決定を示すのに用いる具。軍配団扇。*朝倉孝景条々〔1471~81〕英林壁書・二条「代々
49. うつろ【洞】
日本国語大辞典
云
洞(ウツロ)又宇(ウツロ)」*
朝倉孝景条々〔1471~81〕子孫へ一書・一七条「諸事うつろをきんこうに沙汰致し候へば、他国の悪党等
50. うつろ【洞】
国史大辞典
輩ヲサシテ洞中ト云フ、尚一家中ト云フニ同ジ」と説明が記されている。この語は『結城氏新法度』『朝倉孝景条々』『塵芥集』などの分国法や、永正年間(一五〇四―二一)か