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  11. 長宗我部元親

ジャパンナレッジで閲覧できる『長宗我部元親』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書

国史大辞典
長宗我部元親
ちょうそがべもとちか
一五三八 - 九九
戦国時代の武将。土佐国の大名。幼名弥三郎、のち宮内少輔、羽柴土佐侍従。長宗我部国親の長男として天文七年(一五三八)長岡郡岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。幼少時は姫若子といわれた柔和な性格で国親は心痛していたという。永禄三年(一五六〇)五月長浜戸の本の戦で父国親に従って初陣し戦功をたて土佐の出来人といわれるようになった。同年六月国親の死後家督をつぐ。以後弟親貞・親泰をはじめ重臣久武内蔵助らの協力で本山・吉良・安芸・津野らの諸豪族を従え、天正二年(一五七四)家臣に追放された一条兼定の所領の幡多郡を手中におさめ、兼定の子内政を長岡郡大津城に移して娘を配し、同三年安芸郡東部の土豪を打倒して土佐を統一した。弟島弥九郎親益が謀殺されたことを理由に天正三年末ころ阿波に出兵し、同四年には南伊予、同六年には讃岐へ侵攻した。その後同九年ころまでに阿波の三好、伊予の西園寺・宇都宮、讃岐の香川・羽床らの諸氏を降した。その間天正六年には次男親和に香川家をつがせ、同九年には一条内政を伊予へ追放して土佐一条家を滅ぼした。同十年織田信長と対決することとなったが本能寺の変で危機を脱し、大兵を阿波に入れて十河(三好)存保を中富川に破り、勝瑞城を攻略して阿波を制圧した。つづいて東讃岐へ侵攻して十河城を囲み、同十二年これを陥れて讃岐を統一し、同十三年春には伊予湯築城主の河野通直を降して四国を制覇した。賤ヶ岳の戦で柴田勝家と、小牧・長久手の戦では織田信雄・徳川家康と結び、豊臣秀吉を挾撃しようとしたため、同十三年六月から七月にかけて秀吉の四国征伐にあい、降伏して土佐一国の領有を許された。同十四年秀吉の命で長男信親と九州に出兵し、島津勢と豊後の戸次川に戦って敗れ信親は戦死した。同十五年九月より検地を始め、同十六年岡豊より大高坂(高知市)に居城を移し、後嗣を四男盛親と定め、反対した一族の吉良親実・比江山親興に切腹を命じた。同十八年秀吉の小田原征伐に従軍し、帰国後浦戸城(高知市)に移った。文禄の役に従軍して従四位下少将となる。慶長元年(一五九六)サン=フェリペ号漂着の処理を行い、同二年三月掟書を定め、慶長の役に出兵し同三年三月帰国した。同四年三月三男津野親忠を香美郡岩村に幽閉し、四月上洛したが同年五月十九日伏見で没した。六十二歳。法号を雪蹊恕三大禅定門といい、吾川郡長浜村(高知市長浜)天甫寺山に葬る(墓は県史跡)。元親は軍事活動のみならず領国経営に手腕を発揮した。秀吉より土佐一国を安堵されてからは、公儀優先を考え、家臣団を再編して久武・桑名・中内の三氏を中心に家老たち重臣と馬廻クラスに施政方針を徹底させ、月六度の会議により諸政策を定め、中部五郡と安芸・幡多の東西二郡にそれぞれ諸奉行を任命し、山間部や郷分・浦分の下級役人を監督させた。また在地の農民的武士である一領具足をそれぞれの地域の衆として組織し、軍事や労役に従事させた。城下町経営にも熱心で商工人を中心とする市町を岡豊・大高坂・浦戸などにつくったが居城移転や除封で未完成に終った。軍事・経済上の理由から山林資源を重視し竹木の伐採に規制を加えた。元親のこうした政策は『長宗我部地検帳』、掟書、『秦氏政事記』などの史料によって知ることができる。元親は一面において文化人であった。仏教・儒学に関心をよせ、南学を奨励し、和歌・連歌・茶道にも心得があった。現存する国分寺金堂・土佐神社・豊楽寺薬師堂は元親の修復したものである。→四国征伐(しこくせいばつ)
[参考文献]
中島鹿吉『長宗我部元親伝』、山本大『長宗我部元親』(『人物叢書』五七)、同『土佐長宗我部氏』(『戦国史叢書』八)、平尾道雄『長宗我部元親
(山本 大)


長宗我部元親花押
チョウソガベモトチカカオウ
長宗我部元親花押



長宗我部元親印
チョウソガベモトチカイン
長宗我部元親印



改訂新版 世界大百科事典
長宗我部元親
ちょうそがべもとちか
1539-99(天文8-慶長4)

戦国・織豊期の大名。初名弥三郎。宮内少輔。国親の子。1560年(永禄3)家を継ぎ長岡郡岡豊(おこう)城を根拠とし,国内の有力国人本山,津野,安芸氏などを従えて領地を拡大,70年(元亀1)にはほぼ土佐6郡を領するに至る。ついで74年(天正2)残る幡多郡の土佐国司一条兼定を豊後に追い,兼定の子内政を擁立,これを岡豊に近い大津城に移し,娘を配した。翌年には安芸郡東部を征して土佐一国の統一をなし遂げた。この間,永禄末より元亀にわたる土佐一宮神社再建事業は土佐中央部を制圧した戦国大名としての宣言とみてよい。以後,阿波の三好,伊予の西園寺・宇都宮,讃岐の香川・羽床などの諸氏を下し,四国併呑の勢いを示した。そこでこれを非とする織田信長の先鋒軍を82年阿波へ迎えるが,本能寺の変で危機を脱し,以後,豊臣秀吉と敵対しながら四国統一戦争を展開,85年,四国全土を統一する。しかし同年,秀吉の四国征伐を受けて降伏,土佐一国7万8000石を安堵され,翌年九州に出陣,豊後戸次(へつぎ)川の戦で長男信親を失う。侍従土佐守,羽柴の姓を受ける。87年より一国惣検地を始め,88年には岡豊より大高坂(おおだかさ)に移城,四男盛親を後嗣と定めた。90年小田原出陣,帰国後浦戸に移城。文禄・慶長の役に従軍し,従四位下,少将に任ぜられる。その間サン・フェリペ号事件を処理し,96年(慶長1)《長宗我部元親百箇条》を定めている。伏見で死去。
[下村 效]



日本大百科全書(ニッポニカ)
長宗我部元親
ちょうそがべもとちか
[1539―1599]

戦国時代の大名。国親 (くにちか)の子として土佐国長岡郡岡豊 (おこう)(高知県南国 (なんこく)市)に生まれる。幼名弥三郎。宮内少輔 (くないのしょう)、羽柴 (はしば)土佐侍従、従四位下 (じゅしいのげ)少将。1560年(永禄3)家督相続後土佐の豪族を従え、1574年(天正2)一条兼定 (いちじょうかねさだ)を追い、翌年7月土佐を統一した。同年末ごろ阿波 (あわ)(徳島県)に出兵、ついで伊予 (いよ)(愛媛県)、讃岐 (さぬき)(香川県)へ侵入した。1582年の織田信長との対戦は本能寺 (ほんのうじ)の変で危機を免れ、8月十河存保 (そごうまさやす)を中富川 (なかとみがわ)に破り阿波を制圧し、ついで讃岐の十河城を陥れ、1585年の春伊予の河野通直 (こうのみちなお)を降 (くだ)して四国を制覇した。だが同年夏豊臣秀吉 (とよとみひでよし)に敗れ、土佐一国を安堵 (あんど)された。1586年冬九州に出兵し島津の軍と豊後 (ぶんご)(大分県)戸次川 (へつぎがわ)で戦って敗れ、長男信親 (のぶちか)は戦死した。そのため以後の元親の性格は一変した。

 1587年9月より検地を始め、1588年冬居城を大高坂 (おおたかさ)(高知市)に移し後嗣 (こうし)を四男盛親 (もりちか)と定め、反対者を処刑した。1590年小田原征伐に参加し、翌年浦戸城 (うらどじょう)(高知市)に移転した。文禄 (ぶんろく)・慶長 (けいちょう)の役に出兵し、1596年(慶長1)にはサン・フェリペ号の処理を行い、1597年3月掟書 (おきてがき)(百箇条)を定め発布した。1599年3月三男親忠 (ちかただ)を幽閉したのち上洛 (じょうらく)したが、5月19日伏見 (ふしみ)で死去。遺骨は吾川 (あがわ)郡長浜村天甫寺 (てんぽじ)山(高知市)に葬られた。法号は雪蹊恕三 (せっけいにょさん)大禅定門。元親は政治、軍事上の活動だけでなく、仏教、儒学を重んじ和歌、連歌、茶道の心得もあった。国分寺金堂、土佐神社、豊楽寺 (ぶらくじ)薬師堂は元親の修築したもので、現存の長宗我部地検帳は文化遺産として有名である。

[山本 大]



長宗我部元親[百科マルチメディア]
長宗我部元親[百科マルチメディア]

「長曽我部元親画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所

長宗我部元親の四国統一[百科マルチメディア]
長宗我部元親の四国統一[百科マルチメディア]

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検索コンテンツ
1. ちょうそかべ‐もとちか【長宗我部元親】
日本国語大辞典
秀吉に伊・讚二国の献上を拒否して戦い、降伏。土佐の領有を許される。九州平定、文祿・慶長の役に出兵。「長宗我部元親百箇条」は、戦国大名分国法として有名。天文七~慶
2. ちょうそかべ-もとちか【長宗我部元親】
日本人名大辞典
秀吉の九州攻め,小田原攻め,文禄(ぶんろく)・慶長の役にも出陣。領内では惣検地をおこない,「長宗我部元親百箇条」をさだめた。慶長4年5月19日死去。62歳。通称
3. 長宗我部元親[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:8件 『長宗我部元親』青木義正『長宗我部元親伝』中島鹿吉『長宗我部元親』中島鹿吉『長宗我部元親』山本大『長宗我部元親』平尾道雄『長宗我部元親』福
4. 長宗我部元親画像
日本大百科全書
戦国時代の大名。国親くにちかの子として土佐国長岡郡岡豊おこう(高知県南国なんこく市)に生まれる。幼名弥三郎。宮内少輔くないのしょう、羽柴はしば土佐侍従、従四位下
5. 長宗我部元親
世界大百科事典
文禄・慶長の役に従軍し,従四位下,少将に任ぜられる。その間サン・フェリペ号事件を処理し,96年(慶長1)《長宗我部元親百箇条》を定めている。伏見で死去。下村 效
6. ちょうそがべもとちか【長宗我部元親】画像
国史大辞典
いばつ) [参考文献]中島鹿吉『長宗我部元親伝』、山本大『長宗我部元親』(『人物叢書』五七)、同『土佐長宗我部氏』(『戦国史叢書』八)、平尾道雄『長宗我部元親
7. 長宗我部元親[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「長曽我部元親画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
8. 長宗我部元親印[図版]画像
国史大辞典
元親 長元親 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 長宗我部元親花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. ちょうそがべもとちかき【長宗我部元親記】
国史大辞典
土佐の戦国大名長宗我部元親の伝記。『元親記』と略称される。元親の家臣高島孫右衛門正重(重漸)の著。上・中・下の三巻から成る。寛永八年(一六三一)五月十九日、元
11. 長宗我部元親の四国統一[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
12. ちょうそがべもとちかのはか【長宗我部元親墓】高知県:高知市/長浜村
日本歴史地名大系
法号は雪蹊恕三大禅定門。墓は家督を継いだ四男盛親の建立という。現在、苔むした宝篋印塔が建つ。〔長宗我部元親百箇条〕長宗我部元親・盛親父子は、土佐国の政権掌握者と
13. 長宗我部元親百箇条
日本大百科全書
安土あづち桃山時代、土佐長宗我部氏の代表法令。「長宗我部掟書おきてがき」ほか標題が多い。制定年次も1596年(文禄5)11月15日、97年(慶長2)3月24日と
14. 長宗我部元親百箇条
世界大百科事典
長宗我部元親・盛親父子が領国支配のため制定した分国法。《長宗我部氏掟書》ともいう。1596年(慶長1)11月15日に撰定,翌年3月24日発布された。同年6月の朝
15. ちょうそがべもとちかひゃっかじょう【長宗我部元親百箇条】
国史大辞典
もともと「掟」とのみ記されていたものが、便宜的に呼称をつけてよぶようになったものであろうが、一般には『長宗我部元親百箇条』といわれている。制定年次も明治大学本・
16. 『長宗我部元親記』
日本史年表
1631年〈寛永8 辛未⑩〉 5・19 高島孫右衛門正重(重漸) 『長宗我部元親記』 成る。
17. 藍住[町]
世界大百科事典
務めた細川氏の本拠地で,町の東部に同氏の居城勝瑞(しようずい)城が築かれ,1582年(天正10)に長宗我部元親に攻め落とされるまで,阿波国の政治・文化の中心とし
18. あおきじょうあと【青木城跡】徳島県:麻植郡/山川町/瀬詰村
日本歴史地名大系
櫟原石見守としている。戦国時代には市原造酒正が城主であった(城跡記)。造酒正は天正七年(一五七九)に土佐の長宗我部元親の軍勢追撃のために脇城(現脇町)城下までき
19. あかおむら【赤尾村】愛媛県:周桑郡/小松町
日本歴史地名大系
諸役有間敷候、恐々謹言(中略)東岡東柏公床下と山中織部の興雲寺への土地寄進のことがみえる。戦国時代末に長宗我部元親が侵入、次いで小早川隆景らの所領を経て、寛永一
20. あがわぐん【吾川郡】
国史大辞典
通じて港として栄え、天正十九年(一五九一)より慶長五年(一六〇〇)まで長宗我部氏の居城となった。長浜は長宗我部元親初陣の地で、菩提寺の雪蹊寺がある。郡南の弘岡に
21. あがわぐん【吾川郡】高知県
日本歴史地名大系
こうして本山氏は長浜・浦戸(現高知市)方面にも進出し、長宗我部氏とその支配権をめぐって戦うこととなる。長宗我部元親は永禄三年(一五六〇)五月、吾川郡長浜の戸ノ本
22. 安芸(市)画像
日本大百科全書
土佐国東部安芸郡の中心地であった。戦国時代には、土居に居城する安芸氏の拠点であったが、国虎くにとらのとき、長宗我部元親ちょうそがべもとちかの支配下に入り、近世土
23. あきぐん【安芸郡】
国史大辞典
応仁の乱後細川氏が衰えるに及び、安芸国虎が台頭し、長宗我部氏と拮抗した。しかし永禄十二年(一五六九)長宗我部元親のために安芸氏は滅ぼされ、元親の弟の香宗我部親泰
24. あきぐん【安芸郡】 : 安芸郡/(二)
国史大辞典
応仁の乱後細川氏が衰えるに及び、安芸国虎が台頭し、長宗我部氏と拮抗した。しかし永禄十二年(一五六九)長宗我部元親のために安芸氏は滅ぼされ、元親の弟の香宗我部親泰
25. あきぐん【安芸郡】高知県
日本歴史地名大系
郡名は「続日本紀」神護景雲元年(七六七)六月二二日条に「土左国安芸郡少領」とみえるのが早い。戦国時代末期、長宗我部元親が安芸郡を掌握した時、表記を「安喜」に改め
26. あきさぶろうざえもん【安芸三郎左衛門】
国史大辞典
れ、実名は家友。安芸氏没落後阿波に潜伏していたが、のち土佐に帰国して波川清宗の後室養甫尼(長宗我部元親の妹)に依頼、土佐郡成山(高知県吾川郡伊野町)に住み、伊予
27. あきし【安芸市】高知県
日本歴史地名大系
永禄六年(一五六三)安芸国虎は長宗我部氏の居城岡豊城(現南国市)を攻撃するが敗退。同一二年には長宗我部元親の攻撃を受け、浄貞寺で自殺した。安芸城には元親の弟香宗
28. あきじょうあと【安芸城跡】高知県:安芸市/土居村
日本歴史地名大系
国虎は黒鳥村の菩提寺浄貞寺に入り自殺(土佐物語)。城は長宗我部元親の弟で香宗我部を名乗った親泰が入り安芸守を称した。香宗我部親泰が長宗我部の阿波攻撃に出陣の後は
29. あきづきじょうあと【秋月城跡】徳島県:板野郡/土成町/秋月村
日本歴史地名大系
が居住したと伝え、「古城諸将記」には秋月中務大輔一五〇貫とある。天正期(一五七三―九二)に長宗我部元親の阿波侵入に伴い廃城になったとされる(城跡記)。〔遺構〕現
30. あきやまじょうあと【秋山城跡】高知県:吾川郡/春野町/秋山村
日本歴史地名大系
氏に、弘治三年(一五五七)に本山氏に降った(編年紀事略など)。さらに永禄三年(一五六〇)に長宗我部元親に降るが、本山氏は秋山・芳原・森山の地を奪回すべく、翌年ま
31. あさくらじょうあと【朝倉城跡】高知県:高知市/朝倉村
日本歴史地名大系
弘治二年(一五五六)長宗我部国親は本山氏支配下の秦泉寺を攻撃、永禄三年(一五六〇)支城潮江城が落ち、同年長宗我部元親によって長浜城も落された。同五年、本山氏と長
32. あさくらむら【朝倉村】高知県:高知市
日本歴史地名大系
大檀那八木実茂」とみえる。八木実茂は本山梅慶の父という。梅慶は当地に城を築き、永禄五年(一五六二)には長宗我部元親と梅慶の子茂辰との間に朝倉合戦が起こり、当地は
33. あさじょうあと【麻城跡】香川県:三豊郡/高瀬町/上麻村
日本歴史地名大系
領したところから麻殿とよばれたらしい。天正五年(一五七七)阿波国大西城(現徳島県三好郡池田町)の大西覚養は長宗我部元親に攻められ、讃岐に逃れて当城の国久を頼った
34. あしろじょうあと【足代城跡】徳島県:三好郡/三好町/足代村
日本歴史地名大系
の落城とするが、白地城(現池田町)や重清城(現美馬町)などの落城時期からみて、同六年頃には長宗我部元親に奪われたとも考えられる。当城は段丘上の小高い突起に築かれ
35. あっこう【悪口】
国史大辞典
『御成敗式目』ではこれを「闘殺之基」であるとして、重きは流罪、軽きは召籠(めしこめ)とし、分国法でも、『長宗我部元親百箇条』に制裁規定がある。(二)鎌倉幕府の裁
36. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
家康と尾張長久手で戦う1585(天正13)3月秀吉、根来、雑賀の一揆を鎮定。7月秀吉、関白となる。長宗我部元親、秀吉に降伏1586(天正14)5月家康、秀吉の妹
37. あなんし【阿南市】徳島県
日本歴史地名大系
開遠江守道善が知られる。道善は和泉国久米田寺(現大阪府岸和田市)での合戦にも従軍しており、長宗我部元親の進攻に際しても戦うが、天正一〇年(一五八二)丈六寺(現徳
38. あまがもりじょうあと【尼森城跡】高知県:香美郡/夜須町/夜須村
日本歴史地名大系
「南路志」は「古城記」などによって、尼森城には吉田右近重年がおり、二本松城・釣鐘森城は吉田備後守重俊が長宗我部元親の命を受けてこれを監したと記す。安芸氏に代わっ
39. あめたきじょうあと【雨滝城跡】香川県:大川郡/大川町
日本歴史地名大系
盛定は虎丸城(現大内町)に入り、雨滝城は支城六車城にいた家臣六車宗湛に守らせた。天正一一年(一五八三)長宗我部元親が東讃に侵入、田面に陣を布き、雨滝・虎丸両城に
40. あやうたぐん【綾歌郡】香川県
日本歴史地名大系
が、天文(一五三二―五五)頃には篠原氏が代官として管轄した。天正六年(一五七八)から土佐の長宗我部元親が侵攻、同一三年羽柴秀吉の四国平定以後仙石秀久の統治となっ
41. あやぐん【阿野郡】香川県:讃岐国
日本歴史地名大系
上)、香川民部少輔の西庄城(現坂出市)などがある。天正六年(一五七八)讃岐に侵入した土佐の長宗我部元親は、香川之景と和して西讃を支配下に入れ、翌七年中讃に進撃し
42. あらくらじんじゃ【荒倉神社】高知県:吾川郡/春野町/弘岡中ノ村
日本歴史地名大系
銘によれば、茂宗の子茂辰も永禄二年(一五五九)に当社を造営、その後天正四年(一五七六)には長宗我部元親の弟吉良親貞が、同一八年には元親の四男吉良千熊丸(長宗我部
43. あわぐん【阿波郡】徳島県
日本歴史地名大系
張って夜襲、伊沢氏を討ったと伝え、これを「阿州ノ井沢乱」と称するという(十河物語)。同七年長宗我部元親の軍勢が脇城(現脇町)まで進軍してきたとき、飛騨守は岩倉城
44. 阿波国画像
日本大百科全書
国の一円支配を目ざした。しかしたびたびの畿内への出兵で戦力を消耗し、そのすきをついて土佐の長宗我部元親ちょうそがべもとちかは阿波に進攻し、1582年(天正10)
45. 阿波国
世界大百科事典
が結ばれる熊野信仰も,室町時代には阿波一国に広範に広がっている。1575年(天正3)土佐の長宗我部元親は海部郡に侵入し,82年には勝瑞城を攻略し,三好氏は3代に
46. あわのくに【阿波国】画像
国史大辞典
難をさけて阿波に入り、その子孫は那賀郡平島にいて平島公方と称した。天正三年(一五七五)土佐の長宗我部元親は海部郡から阿波に侵入し、同十年に至って十河存保の勝瑞城
47. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
しかし広大な版図を有した三好氏も長慶没後は織田信長の畿内進出によって急速に勢力が衰えた。〔土佐長宗我部元親の阿波侵攻と羽柴秀吉の四国進出〕阿波でも義賢の子長治(
48. あわのくにてんしょうじゅうさんねんにゅうほうはんたいいっき【阿波国天正十三年入封反対一揆】
国史大辞典
蜂須賀家政が天正十三年(一五八五)四月長宗我部元親を攻略した軍功により、同年六月豊臣秀吉から十八万石を与えられ、播磨国竜野から阿波国に転封・入国した時、長宗我
49. いけだじょうあと【池田城跡】徳島県:三好郡/池田町/池田村
日本歴史地名大系
の支配下に入ったという(阿波志・城跡記)。天正四年(一五七六)大西覚養(覚用とも)は土佐の長宗我部元親に降伏したが、その後心変りし、翌五年に再び元親に攻められた
50. いけだむら【池田村】愛媛県:周桑郡/丹原町
日本歴史地名大系
河野氏と細川氏らとの勢力圏の接点として紛争に巻き込まれることが多かったと考えられるが、戦国時代末期に長宗我部元親の支配を受け、そののち小早川隆景らの大領主時代を
「長宗我部元親」の情報だけではなく、「長宗我部元親」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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趙之謙(岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書)
中国清の金石家,書画家.紹興(現,浙江紹興)の人.挙人 [1859:咸豊9].紹興の富裕な家に育ったが,少年の頃に家運が翳り,困苦を味わうことが多くなった.30歳の頃に太平天国軍が江南地方をかけめぐり,戦禍がおびただしくなると,知人の丁令威の招きに
以心崇伝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五六九 - 一六三三 江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事した。醍醐の三宝院に学んだこともあるが、のちに南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法をついだ
徳川斉昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一八〇〇 - 六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子
渋沢栄一(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四〇 - 一九三一 近代日本の指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷および仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年五月までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月
徽宗(世界大百科事典)
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策)
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