1. 前田利家画像
日本大百科全書
安土あづち桃山時代の武将、加賀藩初代藩主。従じゅ二位、権大納言ごんだいなごん。尾張おわり国(愛知県)荒子城主前田利春としはるの次男。幼名犬千代。1551年(天文
2. 前田利家
世界大百科事典
1537-99(天文6-慶長4) 安土桃山時代の武将。加賀藩始祖。犬千代,孫四郎,又左衛門尉,筑前守,加賀大納言と称する。尾張愛知郡荒子に生まれ織田信長に近侍し
3. まえだ‐としいえ【前田利家】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。加賀藩前田家の祖。幼名犬千代、のち羽柴筑前守・加賀大納言などと称した。初め信長に従って桶狭間の戦いなどに武功を挙げた。賤ケ岳の戦いでは柴田勝
4. まえだとしいえ【前田利家】画像
国史大辞典
[参考文献]『寛政重修諸家譜』一一三一、永山近彰編『加賀藩史稿』一、岩沢愿彦『前田利家』(『人物叢書』一三六)、和田文治郎『前田利家公』 (三鬼 清一郎)
5. まえだ-としいえ【前田利家】
日本人名大辞典
1538−1599 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)7年生まれ。前田利昌(としまさ)の4男。加賀金沢藩主前田家の祖。はじめ織田信長につかえる。天正(てんし
6. 前田利家[文献目録]
日本人物文献目録
荒子尋常高等小学校(編刊)『前田利家』岩沢愿彦『前田利家と豊太閤密像』和田文次郎『前田利家の津軽巡検に就て』森林助『前田利家の羽柴姓と当地方の史実について』鈴木
7. 前田利家[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「前田利家画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
8. 前田利家印[図版]画像
国史大辞典
利家長寿 利家 万善 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.
9. 前田利家花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
10. 前田創業記(著作ID:1716490)
新日本古典籍データベース
まえだそうぎょうき 前田利家記 河内山昌実(こうちやままさざね) 雑史 延宝三自序
11. まえだ-としいえの-つま【前田利家妻】
日本人名大辞典
⇒芳春院(ほうしゅんいん)(2)
12. 細川忠興諫二前田利家一 (見出し語:細川忠興)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 277ページ
13. あいかみむら【相神村】石川県:羽咋郡/富来町
日本歴史地名大系
ある。弥伝次は十村役上島家のことで、江戸時代初期に上島弥五郎が前田利家に仕えて一四〇俵を扶持され(天正一〇年一〇月一一日「前田利家宛行状案」能登国古文書)、延宝
14. あいち戦国姫隊[新語流行語]
イミダス 2018
」、信長の側室「吉乃(きつの)」、豊臣秀吉の正室「おね」、徳川家康の生母「於大(おだい)」、前田利家の正室「まつ」の6人。名古屋市で人気を集める「名古屋おもてな
15. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
後の政局を有利に展開し、かつ石田三成一党を挑発することにあったといわれる。家康は豊臣秀頼の傅前田利家が没する(同四年閏三月三日)と大坂城二ノ丸に入り、口実を設け
16. あおじょうあと【阿尾城跡】富山県:氷見市/阿尾村
日本歴史地名大系
天正八年三月一六日には信長より知行安堵の朱印状(菊池家文書)を与えられている。その後佐々成政に属したが、成政が前田利家と戦うと、同一三年ひそかに前田氏に通じ、成
17. あおやま-よしつぐ【青山吉次】
日本人名大辞典
織豊-江戸時代前期の武将。天文(てんぶん)11年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の人。織田信長に,のち前田利家(としいえ)につかえ,各地を転戦。戦功により,1万
18. あかうらむら【赤浦村】石川県:七尾市
日本歴史地名大系
[現]七尾市赤浦町 赤浦潟を挟んで松百村の南西に位置する。天正一二年(一五八四)一一月一八日の前田利家網申付状(浦辺文書)の宛所に「赤浦百姓中」とあり、慶長五年
19. あかくらやま【赤蔵山】石川県:羽咋郡/志雄町/原村
日本歴史地名大系
シ山などでも礎石群が確認されている。天正一〇年(一五八二)五月、検地から寺家屋敷を除くという前田利家の命が赤蔵山に伝えられており(同月三日「高畠定吉書状」遺編類
20. あかざしやかたあと【赤座氏館跡】福井県:南条郡/今庄町/今庄村
日本歴史地名大系
領したことが知られる。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦には西軍に属し、敗戦によって流浪した。しかし翌六年、前田利家に二千石で召抱えられ、永原と姓を改め加賀に移っ
21. あかつちむら【赤土村】石川県:金沢市/旧石川郡地区
日本歴史地名大系
天正一四年(一五八六)佐那武明神社(現大野湊神社)の再興にあたり、尽力すべき村々を書上げた同年正月二二日の前田利家印判状(大野湊神社文書)に村名が載る。正保郷帳
22. あさのがわ【浅野川】石川県:金沢市
日本歴史地名大系
〔架橋と管理〕城下での橋は大橋と小橋の二つがあった。大橋は轟の橋ともよんだと伝える。文禄三年(一五九四)前田利家が犀川大橋とともに町人の架橋願を許したのが史料上
23. 浅野長政
世界大百科事典
)常陸のうちで5万石を与えられた。長政は姻戚出身の奉行として豊臣氏に信任されたが,その立場は前田利家や徳川家康に近く,石田三成や増田長盛らの集権化を志向する吏僚
24. 浅野幸長
世界大百科事典
内で16万石を領知,同年文禄の役で朝鮮に従軍,95年豊臣秀次事件に連座して能登に流されたが,前田利家らの救解で罪を免れ,97年(慶長2)再度朝鮮に従軍,西生浦つ
25. あさのよしなが【浅野幸長】画像
国史大辞典
であったために、嫌疑を受けたとする説の方が事実に近いらしい。また罪が軽微であったのは、かつて前田利家の五女と婚約した関係上、利家と北政所(秀吉室)との尽力があっ
26. あさひやまじょうあと【朝日山城跡】石川県:金沢市/旧河北郡地区/朝日村
日本歴史地名大系
の拠る朝日山城を攻撃し、敵の鉄砲に苦しんでいる様子を家臣の吉江景資に報じている。同一二年八月前田利家は村井長頼・高畠定吉らを派遣、城を修築して越中の佐々成政に備
27. あしくらじあと・ちゅうぐうじあと【芦峅寺跡・中宮寺跡】富山県:中新川郡/立山町/芦峅寺村
日本歴史地名大系
同一六年一一月晦日には
前田利家が
堂に一〇〇俵を寄進、立山仲宮寺の衆徒社人中に寺務・諸堂の修理・勤行の励行を申渡している(「
前田利家寄進状」成巽閣蔵)
28. あしくらじむら【芦峅寺村】富山県:中新川郡/立山町
日本歴史地名大系
復興して寺領を安堵し、衆徒に祈祷などの宗務を精励させた。その後、加賀・能登・越中を支配することとなった
前田利家も天正一六年(一五八八)に
堂に一〇〇俵の地
29. あそだむら【浅生田村】石川県:鳳至郡/門前町
日本歴史地名大系
[現]門前町浅生田 浦上村の西、浦上川支流の谷間山地に立地。天正一〇年(一五八二)一〇月九日の前田利家黒印状(本郷文書)に「櫛比八ケ之内(中略)阿さう田」とみえ
30. あたごじんじゃ【愛宕神社】富山県:小矢部市/今石動町/山畠分
日本歴史地名大系
であった秋葉社を合祀した。上越前町西裏の愛宕寺は、天正一三年石動山天平寺(現石川県鹿島町)と前田利家が和睦した際に、人質の代りに差出された伊須流岐比古神社の本地
31. 安土桃山時代
世界大百科事典
ろを銃撃し,さらに2万人の男女を柵内に押しこめ,ことごとく焼き殺した。76年の越前一揆では,前田利家が多数の門徒に対して磔,釜ゆでなど残虐な処刑を行った。この事
32. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
『錦繍段』成る。足利義昭没(61)1598(慶長3)8月秀吉没(63)1599(慶長4)3月前田利家没(62)1600(慶長5)3月オランダ船リーフデ号、豊後に
33. あなまち【穴町】石川県:金沢市/金沢城下/第五連区
日本歴史地名大系
書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)に「古江伊左衛門上地町 穴町ト云」とみえる。古江伊左衛門は前田利家の時代からの藩臣古江氏の二代目(「加陽諸士本末系譜略記」同文
34. あなみずじょうあと【穴水城跡】石川県:鳳至郡/穴水町/川島村
日本歴史地名大系
支配権が前田利家にゆだねられ、以後当城は利家の管理下に置かれた。同一一年八月二九日には利家が諸橋六郷の百姓中に城普請として竹二〇〇束・板六〇枚および人足の出役を
35. あぼうとうげ【安房峠】長野県:南安曇郡/安曇村/大野川村
日本歴史地名大系
金森長近に攻められて信州へ落ちのびて来た時利用した峠であり、また、慶長三年(一五九八)加賀の前田利家が宿痾を治すために上州草津温泉に湯治に通った峠でもある。安房
36. あらこじょうあと【荒子城跡】愛知県:名古屋市/中川区/荒子村
日本歴史地名大系
今ハ畑ニ成ル」と記される。前田利家の祖父利隆は荒子村を領し、父利昌は荒子城に住し、二千貫文の地を領した。兄利久は利昌を継いで当城に住したという(寛政重修諸家譜)
37. あらやまとりであと【荒山砦跡】富山県:氷見市/小滝村
日本歴史地名大系
率いて越後より軍船で氷見海岸に上陸し、天平寺の僧らと図り荒山砦の築城を行ったという。同年六月二四日の前田利家書状(加越能文庫)によると、温井氏らは越後勢を伴い、
38. あらやまとりであと【荒山砦跡】石川県:鹿島郡/鹿島町/芹川原山分
日本歴史地名大系
契機に能登への入国を促し、前田利家への反乱蜂起を勧めたことに始まるという。温井氏らは六月二三日の夜半に石動山へ上り、衆徒らと謀って荒山に要害を構え始めた。一方そ
39. あらやまむら【荒山村】石川県:金沢市/旧河北郡地区
日本歴史地名大系
領内北部の丘陵にある荒山城跡には九つの平坦面が残る。佐々成政が天正一一―一二年(一五八三―八四)の前田利家との加越国境での争乱の際に用いた砦であるという(三州志
40. あらやむら【荒屋村】石川県:金沢市/旧河北郡地区
日本歴史地名大系
[現]金沢市荒屋町 金市新保村の北に位置。天正一四年(一五八六)前田利家の黒津舟権現(現内灘町)の再建を命じた村々のなかに村名がみえる(同年正月二二日「前田利家
41. あらやむら【荒屋村】石川県:鳳至郡/門前町
日本歴史地名大系
寄進している(永徳二年一〇月「総持寺新寄進田地目録」総持寺文書ほか)。天正一〇年(一五八二)一〇月一〇日の前田利家判物(能登国古文書)によれば、利家は「本郷あら
42. あわがさきむら【粟崎村】石川県:金沢市/旧石川郡地区
日本歴史地名大系
旧記)。天正一四年(一五八六)前田利家は河北郡黒津舟権現(現内灘町)を再興するため、当村のうち二町歩を寄進し、その再興の協力を命じている(同年正月二二日「前田利
43. あわぐらむら【粟蔵村】石川県:輪島市/旧町野町地区
日本歴史地名大系
天正年間(一五七三―九二)長連竜のもとで越後黒滝城主長景連の進攻を阻止したと伝え、同一〇年には前田利家から五〇俵の扶持米を与えられている(貞享二年「加能越里正由
44. 安中[市]
世界大百科事典
中氏の築城後,武田氏,後北条氏が大改修を加えた。1590年(天正18)4月20日,上杉景勝,前田利家らの東山道軍の攻撃の前に,大導寺政繁らの城兵は降伏した。峰岸
45. あんようじむら【安養寺村】石川県:石川郡/鶴来町
日本歴史地名大系
これは当地付近に所在したと思われる通玄寺(現京都市右京区の曇華院)末寺と考えられる。慶長三年(一五九八)の前田利家宛行状(小幡文書)に村名がみえ、一千二八三俵余
46. いいだまち【飯田町】石川県:珠洲市
日本歴史地名大系
天正一一年(一五八三)七月八日に前田利家は、飯田などの四ヵ村の堂宇を破却し、府中(現七尾市)まで漕運するよう穴水・南北(現穴水町)百姓中に命じている(「前田利家
47. いえひさむら【家久村】福井県:武生市/旧丹生郡地区
日本歴史地名大系
[現]武生市家久町 日野川左岸を流れる支流吉野瀬川に沿う。東部を北陸街道が走る。天正九年(一五八一)八月六日付前田利家墨印状(木村家文書)に「大井村」とあるのが
48. いおうじ【医王寺】埼玉県:入間郡/越生町/上野村地図
日本歴史地名大系
吉の小田原北条氏攻めの際、松山城(現吉見町)を攻めていた前田利家から、当寺に対し軍勢による違乱を行わないとの禁制を得ている(「前田利家禁制」寺蔵文書)。慶安二年
49. いおりむら【庵村】石川県:七尾市
日本歴史地名大系
天正一〇年(一五八二)七月三日、前田利家が「いほり村」の高橋氏に石かき(懸)跡職の田地と網の権利を与えており、同日芝草屋五郎左衛門尉跡職の田地を当村惣百姓中の支
50. いかけやま【伊掛山】石川県:七尾市/庵村
日本歴史地名大系
。古くは居掛山・伊影山・木綿懸山・笈掛山・笊籬山・鋳懸山などと記した。天正一〇年(一五八二)前田利家は温井景隆・三宅長盛らと連合した石動山衆徒を打破り、戦禍を避