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  11. 佐々木小次郎

佐々木小次郎

ジャパンナレッジで閲覧できる『佐々木小次郎』の日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
佐々木小次郎
ささきこじろう
?‐1612(慶長17)
 安土桃山時代から江戸初期の剣豪。幼名は九三郎といわれ、巌流とも称した。出身は越前国とも、周防国ともいわれる。幼い頃から富田流剣法の中興の祖である富田勢源に剣法を学び、長じて諸国を武者修行の末、「物干し竿」といわれる長太刀で「燕返し」という秘剣を編み出した。女性の舞い姿にヒントを得たともいわれる剣で、刃先を反転させて、燕の尾のように振り抜き、一瞬に相手の首を切るというものであった。一六一二年四月一三日に巌流島(船島)で宮本武蔵と立ち合った時、小次郎は一八歳から二〇歳の青年だったといわれるが、諸説がある。武蔵との決闘の原因は、小次郎が以前に播磨国で新免無二斎と争い、無二斎を討って出奔、その子である新免(宮本)武蔵と闘ったと伝えられる。また、武蔵の挑戦には、当時仕えていた豊前小倉藩主の細川忠興の許しを得て闘ったともいわれる。講談の世界では、当時の小次郎は白髪頭の七〇歳の老人だったという講釈もあり、近年には武蔵が去った後に小次郎が蘇生したが、武蔵の弟子たちに殺されたという説も出されている。
 一九四九年(昭和二四)に『朝日新聞』夕刊で連載が始まった村上元三の『佐々木小次郎』は、戦後初めて新聞に連載された時代小説であった。そこで村上が造影した小次郎像は、ストイックな求道者吉川英治が描いた宮本武蔵像に対し、戦後派の活気を体現したエピキュリアン的な美貌の青年剣士であった。戦後の占領体制化において、時代小説は封建制礼讃の書とされたが、『佐々木小次郎』はその緩和期に生れ、時代小説の楽しさを再認識させたのである。北九州市小倉の手向山の山頂にある小次郎碑には、「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」という村上元三の一句が、深く刻まれている。
宮本武蔵
[田辺 貞夫]


改訂新版 世界大百科事典
佐々木小次郎
ささきこじろう

剣客。生没年不詳。小説や映画で宮本武蔵と決闘することで有名であるが,実像には不明な点が多い。流名が〈巌流(がんりゆう)〉であるところから,小次郎のことを巌流とも呼ぶ。越前国浄教寺(一説に周防(すおう)国岩田)の生れで,中条流の名人富田勢源(とだせいげん)の高弟というのが通説である。中条流は小太刀を使うので,勢源は1尺5寸の小太刀を使ったが,小次郎には3尺余りの大太刀を持たせて訓練した。そのため小次郎は〈物干ざお〉と異名をとる大太刀を使うようになったという。その後勢源のもとを退き,一流を立てて巌流と号し,諸国武者修行の旅に出た。豊前の小倉藩で剣術教授にあたっていたが,1612年(慶長17)4月,宮本武蔵と巌流島で闘い敗れたとされる。江戸時代の講談や芝居では,武蔵の敵役として老年剣客であったり,武蔵が父の敵として小次郎を討つ物語となっていたが,吉川英治の《宮本武蔵》や村上元三の《佐々木小次郎》以来,長剣〈物干ざお〉を背負い,〈燕返し〉の秘剣を使う,さっそうとした青年美剣士となっている。
[中林 信二]

[索引語]
宮本武蔵 巌流


日本大百科全書(ニッポニカ)
佐々木小次郎
ささきこじろう
[?―1612]

近世初期の剣客。その伝は明らかではないが、越前 (えちぜん)朝倉氏の本拠一乗谷 (いちじょうだに)に近い浄教寺 (じょうきょうじ)村の出身と伝え、幼少より剣を好み、中条 (ちゅうじょう)流の富田勢源 (とだせいげん)、あるいは勢源の弟子鐘捲自斎 (かねまきじさい)の門に学んだという。のち諸国を歴遊し、いわゆる燕 (つばめ)返しの秘剣を案出して一流をたて、巌流 (がんりゅう)を称し、小倉 (こくら)藩主細川忠興 (ただおき)に仕えた。1612年(慶長17)関門海峡にある船島(俗に巌流島)で、3尺余の太刀 (たち)を振るって宮本武蔵 (むさし)(29歳)と勝負を争い、敗死したと伝えられている。なおこの一件の背景なども不分明で、疑問の多い人物ではある。

[渡邉一郎]

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