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  11. 柴田勝家

柴田勝家

ジャパンナレッジで閲覧できる『柴田勝家』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
柴田勝家
しばたかついえ
 - 一五八三
安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡に生まれる。織田信行(信長の弟)に属して信長と敵対したが、のち許されて信長の家臣となる。元亀元年(一五七〇)六角承禎・義治父子と戦って近江長光寺に籠城した際、飲料水を貯えた水甕を叩き割って決死の覚悟を示したことから「甕破(わ)り柴田」の異名をとったという伝説がある。信長の奉行人として畿内・近国における戦闘に参加し、また水論などの裁定を行なっている。天正元年(一五七三)信長の浅井・朝倉攻撃にも活躍し、同三年北陸の一向一揆との対決では、門徒農民を高田派・三門徒派に転宗させ、本願寺の支配から離脱させる工作を行なっている。そののち信長から越前の支配を委ねられ北ノ庄(福井市)に移ったが、同時に、府中三人衆といわれる前田利家・佐々成政・不破光治が目付として配置され、相互監視の体制がとられた。このとき勝家は越前一国の公的支配権が与えられたように理解されているが、実際に支配が及んだのは丹生・吉田・坂井・足羽の四郡で、府中三人衆は今立・南条二郡が与えられ、残る大野・敦賀の二郡は金森長近らに支給されている。同四年三月勝家は領内に掟書を出して百姓の還住を命じ、新儀の主取りを禁止し、人夫を召使うときは自己の印判を用いることなどを規定している。新田開発につとめ、検地を施行し、北国街道から近江柳ヶ瀬に通ずる道路の開鑿を行うなど、民政にも力を入れている。一揆に加わった門徒農民から没収した武器を農具に打ち直し、または九頭竜川の舟橋をつなぐ鎖にしたという逸話も残され、豊臣秀吉の刀狩令の先駆という評価もうけている。天正八年勝家は加賀の一向一揆を事実上平定したが、その後も信長の北国征服戦争の中心となり、越後の上杉氏と対峙した。翌九年二月盛大に行われた信長の馬揃には上洛して参加したが、十年六月本能寺の変の際には居城の越前北ノ庄城の守りを固めた。そのため明智光秀追討におくれをとり、秀吉に主導権を奪われる結果となった。同月二十七日清洲会議の結果、勝家は秀吉の旧領である近江長浜が与えられたが、信長の後継者として信長の三子信孝の擁立に失敗し、政権の座から遠のけられた。十月十五日大徳寺で催された信長の葬儀にも出席できないよう仕向けられ、秀吉との対立関係は深まった。勝家は上杉景勝らと連絡をとりつつ秀吉に対抗しようとしたが、頼みとする景勝はすでに秀吉と盟約関係に入っており、さらに孤立していった。逆に秀吉は、越前が冬期は雪のため自由に行動できないことを見てとり、同年十二月勝家の属城である近江長浜城に柴田勝豊(勝家の養子)を攻め、これを降した。秀吉はさらに美濃に進攻し、岐阜城の信孝に圧力を加え、信孝も降伏させた。翌天正十一年四月、勝家は秀吉と全面対決することとなったが、戦局の判断の失敗から同二十一日近江賤ヶ岳の戦で敗れ、北国街道をのがれて居城の北ノ庄城へのがれたが、追撃した秀吉軍に攻囲され、二十四日夫人小谷の方(信長の妹)とともに自殺した。没年齢は不詳。
[参考文献]
『大日本史料』一一ノ四 天正十一年四月二十四日条、『福井県史』一、牧野信之助「柴田勝家と民政」(史学地理学同攷会『歴史と地理』一ノ三)、松浦義則「柴田勝家の越前検地と村落」(『史学研究』一六〇)
(三鬼 清一郎)


柴田勝家花押
シバタカツイエカオウ
柴田勝家花押



柴田勝家印
シバタカツイエイン
柴田勝家印



改訂新版 世界大百科事典
柴田勝家
しばたかついえ
?-1583(天正11)

安土桃山時代の武将。織田信長の部将,越前北ノ庄城将。通称権六,修理亮。初め織田信行の宿老として信長に反抗したが,のち信長に仕え,美濃・近江・伊勢の征服戦に参加,奈良・京都の軍政にも当たり,1575年(天正3)越前一国を与えられて与力を付属され,北陸の経略に従った。このとき信長が下付した越前国掟は信長の分国統治方針を明示するものであり,一国支配の勝家と府中三人衆とによる相互監察の態勢は織田氏の大名支配の構造を示すものであった。勝家は80年加賀の一向一揆を平定し,ついで上杉氏分国への侵略を開始したが,本能寺の変が起こったため北ノ庄に撤収し,政権の継承をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と対立した。しかし北ノ庄が雪深い北陸に位置したため有利に政局を展開することができず,83年賤ヶ岳の戦に敗れ,4月24日夫人のお市方(小谷方,織田氏)とともに自殺した。武将であるとともにすぐれた民政家であったことがその施政からうかがわれ,秀吉と政権を争うのにふさわしい人物であったことが知られる。
[岩沢 愿彦]

[索引語]
柴田権六


日本大百科全書(ニッポニカ)
柴田勝家
しばたかついえ
[1522―1583]

戦国時代から安土 (あづち)桃山時代の武将。権六 (ごんろく)、修理亮 (しゅりのすけ)。織田氏の宿老 (しゅくろう)。初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。1570年(元亀1)6月、近江 (おうみ)(滋賀県)長光寺 (ちょうこうじ)城を守っているとき、六角承禎 (ろっかくしょうてい)のため飲料水攻めになるが、水瓶 (みずがめ)を破り出撃して勝ち、瓶割り柴田の勇名を得たという。75年(天正3)9月、信長は越前 (えちぜん)を平定すると、勝家にこれを与え、北庄 (きたのしょう)(福井市)に置き、北陸の総管とした。勝家は80年に加賀を平定し、越中 (えっちゅう)に進出するが、佐々成政 (さっさなりまさ)、前田利家 (としいえ)らを組下とし、82年には上杉景勝 (かげかつ)と対戦。本能寺の変では景勝の追撃を警戒し、上洛 (じょうらく)できなかった。信長の後継者をめぐり、信長の三子神戸信孝 (かんべのぶたか)をたてようとし、羽柴 (はしば)(豊臣 (とよとみ))秀吉が推す三法師 (さんほうし)(信長の嫡孫秀信 (ひでのぶ))に対抗した。また秀吉、惟住長秀 (これずみながひで)、池田信輝 (いけだのぶてる)の3人と交代して庶政をみることになった。これらの動きに対し、同じ不満をもった信孝と結び、83年に滝川一益 (たきがわかずます)らも味方にして挙兵した。秀吉は信孝を岐阜城に攻めて降伏させ、一益を伊勢 (いせ)長島城に攻めた。やがて勝家が出撃したため、再征中の大垣城から引き返し、近江賤ヶ岳 (しずがたけ)で決戦した。ここで敗戦した勝家は急追され、4月24日妻お市の方(小谷 (おだに)の方)とともに北庄城で自殺。享年57、58、62など異説がある。浅井氏滅亡ののち勝家と秀吉との間に小谷の方をめぐって争奪がおこり、これが両人不和の原因になったという俗説もある。

[奥野高広]

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検索ヒット数 538
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検索コンテンツ
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戦国時代から安土あづち桃山時代の武将。権六ごんろく、修理亮しゅりのすけ。織田氏の宿老しゅくろう。初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰
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?-1583(天正11) 安土桃山時代の武将。織田信長の部将,越前北ノ庄城将。通称権六,修理亮。初め織田信行の宿老として信長に反抗したが,のち信長に仕え,美濃・
3. しばた‐かついえ【柴田勝家】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。尾張国の人。初名権六、のち修理亮(すりのすけ)と称す。妻は織田信長の妹。はじめ信長の弟信行に仕え、信長を除こうとして失敗、許されて信長に仕え
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四 天正十一年四月二十四日条、『福井県史』一、牧野信之助「柴田勝家と民政」(史学地理学同攷会『歴史と地理』一ノ三)、松浦義則「柴田勝家の越前検地と村落」(『史学
5. しばた-かついえ【柴田勝家】
日本人名大辞典
1522−1583 戦国-織豊時代の武将。大永(たいえい)2年生まれ。はじめ織田信行,ついで信長につかえて戦功をたて,越前(えちぜん)(福井県)北庄(きたのしょ
6. 柴田勝家[文献目録]
日本人物文献目録
軍人立志篇』富村登『賤ヶ岳に於ける羽柴・柴田両氏の外交』渡辺世祐『柴田勝家と民政』牧野信之助『柴田勝家の産業治国』山下与平『豊臣秀吉と柴田勝家』青葉散史
7. 柴田勝家印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 柴田勝家花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 柴田勝家書状(著作ID:4401703)
新日本古典籍データベース
しばたかついえしょじょう 柴田勝家(しばたかついえ) 書簡 
10. あおむら【粟生村】石川県:能美郡/寺井町
日本歴史地名大系
「粟」は粟生であるかもしれない。竹松隼人覚書(富樫観智物語)によれば、天正八年(一五八〇)織田信長勢の柴田勝家が加賀へ侵攻したとき、一向一揆勢は「水島・粟生野」
11. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
同九年秋阿波に作戦。同十年九月二十五日秀吉から播磨明石郡内で千石を加増。同十一年二月から三月にかけて秀吉の柴田勝家攻撃に参陣。同十二年三月紀伊根来・雑賀一揆の和
12. 足利義昭
世界大百科事典
圧迫されるようになった。しかし本能寺の変で信長が倒れたため,義昭は再び京都復帰を図って秀吉,柴田勝家,徳川家康らを説得し,竜造寺政家や島津義久に援助を依頼したが
13. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
同十年六月本能寺の変で信長が倒れると、義昭は重ねて、毛利輝元に奔走を命じ、また同十一年の羽柴秀吉と柴田勝家との争いにも、毛利氏を利用しようとしたが、成功しなかっ
14. あすわぐん【足羽郡】画像
国史大辞典
ここは天正元年(一五七三)義景が織田信長に滅ぼされるまで百年に及ぶ朝倉氏の本拠となった。その後信長の部将柴田勝家が北庄城に在城したが、同十一年豊臣秀吉に滅ぼされ
15. あたか【安宅】
国史大辞典
寿永二年(一一八三)五月、倶利伽羅峠の戦に敗れた平維盛がひとまずこの城に拠ったのをはじめ、天正七年(一五七九)柴田勝家がこれを焼くまで、しばしば戦場となった記録
16. あたか【安宅】石川県:小松市/旧能美郡地区/安宅町
日本歴史地名大系
梯川左岸(南岸)に対峙したが、一揆勢の防衛線の堅固ぶりをみて退却している。「信長公記」によれば、織田信長軍の柴田勝家が天正五年(一五七七)八月と同七年八月の二度
17. あたごじんじゃ【愛宕神社】福井県:福井市/福井城下/足羽山/足羽神社
日本歴史地名大系
井市)に山城国愛宕山(現京都市右京区)より勝軍地蔵を勧請したのに始まり、天正四年(一五七六)柴田勝家によって足羽山に移された。別当は天台宗遊楽寺松玄院(権現社東
18. あつみぐん【厚見郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
推進した。同一〇年の本能寺の変後、信長の三男信孝が岐阜城に居城したが、反秀吉のために手を結んだ柴田勝家が滅びると、自害した。その後池田氏などを経て織田秀信が岐阜
19. あづちじょうあと【安土城跡】滋賀県:蒲生郡/安土町/安土城下
日本歴史地名大系
東海・北陸・近畿の接点にあたり、戦略的にも政治的にも重要な位置にあった。当時、信長は明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・木下藤吉郎・磯野員昌の有力武将に近
20. 安土桃山時代
日本大百科全書
山崎の戦いで光秀を討ち、信長の後継者としての第一歩を踏み出した。ついで秀吉は、競争者としてもっとも有力な柴田勝家しばたかついえを賤ヶ岳しずがたけの戦いで破り、後
21. 安土桃山時代
世界大百科事典
相続人に定め,みずからは単独で信長の法要を営むなど後継者としての地歩を固めた。翌83年には宿老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦に滅ぼし,織田信孝を尾張で自殺させた。この年
22. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
受け本能寺に自刃。秀吉、山崎の戦いで光秀を破る。清洲会議1583(天正11)4月秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。8月秀吉、新たに領国を諸将士に給付1584(
23. あなみずじょうあと【穴水城跡】石川県:鳳至郡/穴水町/川島村
日本歴史地名大系
その後も戦闘が続き、同年九月二一日には穴水籠城を続ける好連に、織田方の柴田勝家が来春援軍に赴くまで耐えるよう報じている(前掲柴田勝家書状など)。この間、川島の永
24. あねがわのたたかい【姉川の戦】
国史大辞典
朝倉軍は三田村に布陣して黎明を待った。一方戦機を察した信長は軍を二隊に分かち一隊は徳川家康・柴田勝家・明智光秀・稲葉一鉄、他の一隊は坂井政尚・池田恒興・旗本の順
25. あまだんむら【天谷村】福井県:丹生郡/朝日町
日本歴史地名大系
どによいとして来訪者が多い。村内には御立藪があった。また野村家は天正三年(一五七五)九月日付柴田勝家下知状・寛文一三年(一六七三)一〇月五日付年貢達書写などを蔵
26. あらいむら【荒井村】福井県:坂井郡/坂井町
日本歴史地名大系
荒居郷の一村で、古くは奈良興福寺領河口庄に含まれていたと思われる。川端村の名は、天正三年(一五七五)柴田勝家が荒居郷内三ヵ村に与えた禁制(同文書)にみえる。正保
27. あわたべむら【粟田部村】福井県:今立郡/今立町
日本歴史地名大系
また大町・仲町・岡本は「かち(鍛冶)村」と称した職人町で、天正一〇年(一五八二)羽柴秀吉は、柴田勝家誅伐の際功のあった鍛冶屋・大工六人に宛て禁制状を交付している
28. あんらくごえ【安楽越】三重県:亀山市/安楽村
日本歴史地名大系
往昔の関塞跡と伝える(五鈴遺響)。「勢州軍記」によれば、天正一一年(一五八三)豊臣秀吉は賤ヶ岳で柴田勝家を破ったあと、急いで近江から安楽越を経て、軍勢の一手を伊
29. いかぐん【伊香郡】
国史大辞典
三)織田信長の軍によって滅ぼされた。信長が本能寺の変で倒れたあと、同十一年に羽柴秀吉は越前の柴田勝家と本郡の賤ヶ岳付近で決戦して勝利をおさめた。秀吉の時代には山
30. いかぐん【伊香郡】滋賀県
日本歴史地名大系
天正元年(一五七三)小谷城は落城し滅亡。遺領は羽柴秀吉に与えられた。〔近世〕天正一一年秀吉と越前の柴田勝家軍が戦った賤ヶ岳の戦は現余呉町・木之本町一帯を中心に戦
31. いがいっき【伊賀一揆】
国史大辞典
殺され、伊賀一宮はじめ多くの社寺が焼き払われて多数の重宝が失われた。伊賀国人衆は信長の死後、柴田勝家と結んで在地勢力を恢復しようとし、同十一年五月に筒井順慶の伊
32. 伊賀惣国一揆
世界大百科事典
国人の多くが殺され,惣国の寺社も多く焼き払われた。生き残った伊賀国人たちは,織田信長の死後,柴田勝家と結んで勢力回復を企て,83年に筒井順慶の伊賀陣所を夜襲した
33. いきみてんまんぐう【生身天満宮】京都府:船井郡/園部町/園部村
日本歴史地名大系
日右京太夫源朝臣(花押)右京太夫は管領・丹波守護細川高国で、天正三年のものには久左衛門尉とあり、柴田勝家と考えられる。江戸時代には藩主の祈願所となり、社領の寄進
34. いけじりじょうあと【池尻城跡】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区/池尻村
日本歴史地名大系
撰美濃志)。天正一〇年(一五八二)六月、織田信長が本能寺(現京都市中京区)に倒れ、織田信孝が柴田勝家や滝川一益と一味して羽柴秀吉に反抗したとき、長継は秀吉に同意
35. 池田恒興
日本大百科全書
摂津国内10万石を与えられ大坂城に在城。翌1583年の賤ヶ岳しずがたけの戦いには、秀吉に属し柴田勝家を破り、美濃国13万石を与えられる。1584年織田信雄おだの
36. いけだつねおき【池田恒興】画像
国史大辞典
その功により同国有岡の地を与えられた。同十年本能寺の変がおこると、羽柴秀吉とともに山城に明智光秀を討ち、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに宿老に列し、諸将へ
37. いけはらむら【池原村】滋賀県:伊香郡/余呉町
日本歴史地名大系
西へは集福寺村(現西浅井町)へ至る集福寺坂越が通る。池原山には天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で柴田勝家方が築いた砦跡がある。行市山より東に延びる別所山・中谷山
38. 石川(県)画像
日本大百科全書
その本拠は尾山御坊おやまごぼうで、金沢城はこれを受け継いだ。織田信長の命によって前田利家としいえは能登を治め、柴田勝家しばたかついえは北陸攻めを行い、一向一揆は
39. いしかわ-かずみつ【石川一光】
日本人名大辞典
川家光の3男。羽柴(豊臣)秀吉につかえる。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで一番槍(やり)となって柴田勝家軍に突入し,天正(てんしょう)11年4月戦死。賤ケ岳七本槍と
40. いしかわぐん【石川郡】石川県
日本歴史地名大系
侵攻に対し、本願寺と講和した上杉謙信が湊川(手取川)で信長勢と対峙している。同八年に信長方の柴田勝家が北加賀へ侵攻、四月ついに金沢御堂は陥落。その後も手取谷周辺
41. いしばまち【石場町】福井県:福井市/福井城下
日本歴史地名大系
橘七屋敷の一つ正玄屋敷があるが、「越藩拾遺録」は「神宮寺町廻リ角、正源ト云町人ノ前ニ在ル石ハ柴田勝家入国ノ時、此石ニ腰懸テ所ノ者ニ謁見アリシトテ今以テ動カス事ナ
42. 石山本願寺一揆
世界大百科事典
の景気〉(《続々歌舞伎年代記》)となった。配役は顕如・楠正具・鈴木孫市=右団次,鈴木飛驒守・柴田勝家=実川八百蔵,織田信長・孫市母紀の路=市川鰕十郎など。ほかに
43. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
避けている。近世〔豊臣政権下の和泉国〕本能寺の変で織田信長が死んで、権力の座をめぐる豊臣秀吉と柴田勝家の戦いが北国で繰広げられた時、沼間・松浦・寺田・真鍋・淡輪
44. いちじょうまち【一乗町】福井県:福井市/福井城下
日本歴史地名大系
北は長者町、南は魚町。天正年間(一五七三―九二)柴田勝家の城下町建設にあたり、朝倉氏の居城の地一乗谷より家屋を移して成立した町。天正六年一二月二〇日付の柴田勝家
45. 一休和尚年譜 1 209ページ
東洋文庫
永正六年(一五〇九)八月には深岳寺で一休三十三回忌を営んでいる。越前宇坂三万谷福松にあり、戦国期まで柴田勝家が二十石、同勝政が十五石を寄進するなどして維持された
46. 一向一揆〔加賀〕
日本史年表
加賀一向一揆 ,足利義秋の調停で和睦(多聞院日記)。 1580年〈天正8 庚辰③〉 11・‐ 柴田勝家, 加賀一向一揆 を平定(信長公記)。
47. 一向一揆史(年表)
日本大百科全書
天正5)紀伊雑賀衆、信長に屈服1580(天正8)顕如、信長と和議し、石山戦争終結。加賀一揆、柴田勝家に平定される
48. いのうはらこせんじょう【稲生原古戦場】愛知県:名古屋市/西区/名塚村
日本歴史地名大系
弘治二年(一五五六)に、織田信長の軍とその家臣林通勝・弟光春・柴田勝家らの軍が戦った。通勝は信長に背き、荒子(現中川区)・米野(現中村区)の城主と組んで兵を挙げ
49. いぶりはしむら【動橋村】石川県:加賀市
日本歴史地名大系
沼郡を占領した織田信長軍に対して能美・江沼両郡が一党し、不忍橋に陣取って大聖寺城を攻めたが、柴田勝家・佐久間盛政の来援によって撃退され、佐久間氏は以後も「大正持
50. いまいちむら【今市村】滋賀県:伊香郡/余呉町
日本歴史地名大系
南流する余呉川に沿って北国街道が通る。東方山麓の狐塚とよばれる小丘は、天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で柴田勝家が佐久間盛政の大岩山攻めに呼応して内中尾山本陣か
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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