NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 竹中半兵衛

竹中半兵衛

ジャパンナレッジで閲覧できる『竹中半兵衛』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
竹中重治
たけなかしげはる
一五四四 - 七九
戦国時代の武将。もとの名は重虎、通称は半兵衛。重元の子。天文十三年(一五四四)生まれる。竹中氏は美濃国(岐阜県)の豪族であり、当初は美濃国守護斎藤竜興の武将として仕えていたが、永禄十年(一五六七)八月、織田信長が斎藤竜興を攻め、稲葉山井口城を奪って美濃国を制圧すると、信長の家臣となった。元亀元年(一五七〇)の近江浅井氏との姉川の戦や、天正三年(一五七五)の長篠の戦などに活躍。やがて信長の命により羽柴秀吉の与力として中国攻めの征服戦に従事し、謀将として活躍した。『信長公記』によれば、天正五年十一月には、小寺官兵衛(黒田孝高)とともに播磨(兵庫県)の福岡野城(福岡城)を攻めている。翌六年には、備前八幡山の城主某を味方にした由を信長に告げ、秀吉とともに褒賞を与えられている。しかし、天正七年六月十三日、播磨攻めの陣中において病没した。三十六歳。
[参考文献]
『岐阜県史』通史編三、『兵庫県史』三
(黒田 日出男)


竹中重治花押
タケナカシゲハルカオウ
竹中重治花押



改訂新版 世界大百科事典
竹中半兵衛
たけなかはんべえ
?-1579(天正7)

戦国時代の武将。岐阜市敬念寺文書によれば半兵衛尉重虎と称した。美濃の斎藤竜興に仕えて知謀の将といわれたが,1564年(永禄7)竜興の稲葉山城を急襲して奪った。ついで返還したものの斎藤家を去って織田信長に仕え,羽柴(豊臣)秀吉の与力となった。秀吉の参謀として中国征伐に幾多の戦果を収めたが,病没した。36~37歳という。画像,着用の具足などが末裔の家に伝存する。
[岩沢 愿彦]



日本大百科全書(ニッポニカ)
竹中半兵衛
たけなかはんべえ
[?―1579]

戦国時代の武将。名は重治 (しげはる)(重虎 (しげとら)とも)。半兵衛は通称。美濃 (みの)(岐阜県)不破 (ふわ)郡岩手菩提 (いわてぼだい)山城主。美濃三人衆の1人安東守就 (あんどうもりなり)の女婿。俗説では領土欲なく、軍師に徹した人物と評される。初め斎藤龍興 (たつおき)に仕える。1564年(永禄7)義父守就とともに龍興の居城稲葉山 (いなばやま)城を奪取したが、すぐ龍興に返した。龍興没落後は織田信長に仕え、豊臣 (とよとみ)秀吉に付属、秀吉麾下 (きか)では智将、謀将として重んじられた。秀吉の諸戦の勝利は半兵衛の策によるところ大であったが、79年(天正7)秀吉の播磨 (はりま)(兵庫県)平定戦に参加した際、三木城攻囲の陣中で6月13日病死した。35歳とも36歳ともいう。子孫はのち竹中流軍学をおこした。

[谷口研語]

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


竹中半兵衛の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 30
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 竹中半兵衛
日本大百科全書
戦国時代の武将。名は重治しげはる(重虎しげとらとも)。半兵衛は通称。美濃みの(岐阜県)不破ふわ郡岩手菩提いわてぼだい山城主。美濃三人衆の1人安東守就あんどうもり
2. 竹中半兵衛
世界大百科事典
?-1579(天正7) 戦国時代の武将。岐阜市敬念寺文書によれば半兵衛尉重虎と称した。美濃の斎藤竜興に仕えて知謀の将といわれたが,1564年(永禄7)竜興の稲葉
3. たけなか‐はんべえ【竹中半兵衛】
日本国語大辞典
戦国時代の武将。名は重治、半兵衛は通称。美濃国(岐阜県)の人。織田信長の家臣となり、秀吉の中国攻めなどに功をたてたが、三木の陣中で病死。天正七年(一五七九)没。
4. たけなか-はんべえ【竹中半兵衛】
日本人名大辞典
⇒竹中重治(たけなか-しげはる)
5. あんぱちぐん【安八郡】岐阜県
日本歴史地名大系
同三人衆の一人稲葉一鉄が築城した曾根城(現大垣市)、飯沼長就が築城したという池尻城(現同上)、竹中半兵衛の従弟竹中重利が初代城主となった長松城(現同上)、不破光
6. いなばやまじょう【稲葉山城】
国史大辞典
って没した。義竜のあとは子の竜興がついだが、永禄七年(一五六四)二月には、不破郡菩提山城主竹中半兵衛重治に、城が一時奪われるということがあり、同十年八月、織田信
7. いわでむら【岩手村】岐阜県:不破郡/垂井町
日本歴史地名大系
上ると岩手峠がある。石手・磐手とも書く。古代の定額寺菩提寺の法灯を継ぐ菩提寺があり、戦国の知将とうたわれた竹中半兵衛重治の居城菩提山城がある。嘉元四年(一三〇六
8. かい‐でん[クヮイ‥]【魁殿】
日本国語大辞典
〔名〕軍陣の先駆けやしんがり。*太閤記〔1625〕一八・竹中半兵衛尉「此人魁殿に在し時は、軍中何となう心を安んじけり」
9. ぎょう‐さつ[ゲウ‥]【暁察】
日本国語大辞典
〔名〕推察しさとること。明白に察すること。*太閤記〔1625〕一八・竹中半兵衛尉「竹中も其心の程を能暁察し」*孔子家語‐三恕「又嘗聞〓君子之言
10. くごうむら【公郷村】岐阜県:揖斐郡/大野町
日本歴史地名大系
ら知られる。地内の公卿八ノ坪に土塁・堀跡を残す平城跡は大御堂城とよばれ、知将として知られる竹中半兵衛重治の父重元が居城していたという。慶長郷帳に久郷村とみえ、高
11. 小梅日記 2 幕末・明治を紀州に生きる 214ページ
東洋文庫
土は御所御守衛役、其勢は容易成事に無之候。凡五六万之人々、外に伏勢多分有之候由。十一日之夜、竹中半兵衛御奮発御進め申候へども、将軍様御用ひ無之候に付、切腹致候事
12. しせきしゅうらん【史籍集覧】
国史大辞典
長野輝伯之事・勢州赤堀城攻之事・勢州細野家之事・本多太郎左衛門事・会津盛高之事・老士雑談・竹中半兵衛事・奥州浅川乱民記事 塵塚(全二冊) 老人雑話(江村専斎)
13. 竹中重治[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:4件 『武将言行録』山鹿高祐(編)『落城私考織田信長岐阜城攻略の時期』郷浩『竹中半兵衛重治 薄命な天才軍略家』郷浩『半兵衛と信長』郷浩『半兵衛の
14. たけなかじんやあと【竹中陣屋跡】岐阜県:不破郡/垂井町/岩手村
日本歴史地名大系
校などと竹中家の敷地になっているが、櫓門(正門)の柱・門扉が創建期のものとして貴重なもの。竹中半兵衛重治の子重門は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の功により米
15. たるい【垂井】
国史大辞典
画にあり県指定史跡。岩手の菩提山城は戦国時代の代表的な山城で、豊臣秀吉の軍師として知られた竹中半兵衛重治の居城。麓には旗本竹中氏の陣屋跡があり、城門・石垣・壕な
16. たるいちょう【垂井町】岐阜県:不破郡
日本歴史地名大系
には一五ヵ村あり、支配領主は旗本竹中氏のほか幕府領・尾張藩領の村が多くみられる。竹中氏の祖竹中半兵衛重治は戦国期の武将として高名。同氏旗本時代の陣屋を含め寺社の
17. とうせいかぶと【当世冑】画像
国史大辞典
好みに任せては華麗に孔雀の引尾などを用いた。『武蔭叢話』には、戦国時代末期の武将の冑の名物を列挙して、竹中半兵衛重治の一の谷の冑、明智左馬介秀俊の二の谷、柴田伊
18. 東洋金鴻 英国留学生への通信 126ページ
東洋文庫
七郷は佐州よりもみゆ。海上へ突出せる地勢なり。繁昌の由に聞けり。十六日 晴、八十九度日本外史をよみ、竹中半兵衛を大〔太〕閤の謀主とせられし年齢をみるに、廿四才な
19. 豊臣秀吉[文献目録]
日本人物文献目録
大東亜建設の先駆』姫島彦伍『太閤記 2巻2冊』小瀬甫庵(著), 桑田忠親(校訂)『太閤記外伝 竹中半兵衛』-『太閤書信』桑田忠親『太閤秀吉』中野正剛『信長・秀吉
20. ながまつじょうあと【長松城跡】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/長松村
日本歴史地名大系
)竹中源助(のち伊勢守)は長松に城を築いて在城し、五千石(三千石ともいう)を領した。源助は竹中半兵衛重治の従兄とされ、豊臣秀吉にも仕えている。「豊鑑」によると、
21. ひらいやまじょうあと【平井山城跡】兵庫県:三木市/平井村
日本歴史地名大系
一八日別所氏との小競合いの後、二六日には六ヵ所に砦を築いている(「信長公記」巻一二)。六月一三日竹中半兵衛重治は平井陣中で病死した(「豊鑑」など)。九月一〇日毛
22. ふくはらじょうあと【福原城跡】兵庫県:佐用郡/佐用町/佐用村
日本歴史地名大系
五日の羽柴秀吉書状(下村文書)に福原城とみえ、城主福原助就が毛利方であったため羽柴秀吉方の竹中半兵衛・小寺官兵衛孝高らに攻められ、同年一一月二七日城下で一戦に及
23. ふわぐん【不破郡】岐阜県
日本歴史地名大系
尾張の織田氏などの周辺戦国大名の侵攻にさらされるが、信長の美濃入国後は豊臣秀吉の下に配された竹中半兵衛重治が支配することになる。中世においても中央公権力、とくに
24. ぼだいやまじょうあと【菩提山城跡】岐阜県:不破郡/垂井町/岩手村
日本歴史地名大系
る。とすれば最初の築城者は竹中氏で、岩手氏滅亡後の築城であろう。重元は永禄三年病没し、跡を竹中半兵衛重治が継いだ。半兵衛は当城に拠り、永禄七年わずか一六人の兵を
25. もりもとむら【森本村】滋賀県:伊香郡/高月町
日本歴史地名大系
惣を基盤に成長した当地の土豪岩坪氏は、豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛尉孝高の子を秀吉の人質として竹中半兵衛を通して預かっている(岩坪文書)。室町時代より幸若舞系と思
26. 爛柯堂棋話 1 昔の碁打ちの物語 141ページ
東洋文庫
       竹中半兵衛、軍旅碁の譬え 天正十年、羽柴筑前守秀吉、信長の命を受けて中国を征伐、備中高松城を水攻めにして、これを落とし、勢い破竹の如し。時に安国寺
27. 爛柯堂棋話 2 昔の碁打ちの物語 301ページ
東洋文庫
(名人の格)を与えたものである。本巻の項目は少なく、六節より成る。 巻之五は、小早川秀秋や竹中半兵衛など、秀吉周辺の人物の逸話に始まり、平安朝に遡って、寛蓮が作
「竹中半兵衛」の情報だけではなく、「竹中半兵衛」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

竹中半兵衛と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「竹中半兵衛」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶