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ジャパンナレッジで閲覧できる『市川団十郎』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

歌舞伎事典・日本大百科全書・世界大百科事典

新版 歌舞伎事典
市川団十郎
いちかわだんじゅうろう
 歌舞伎俳優。一二世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升みます。早世した三世・六世を除いて代々名優で、江戸歌舞伎界屈指の名跡である。
【初世】1660‐1704 祖先は甲州の武士で、永正年中に北条氏康の家臣となり、のち下総国埴生はにゅう幡谷はたがや村に移住して郷士となり、堀越姓を称したと伝える。出身については、奥州の市川村ともいい、また葛飾郡市川村とする説もある。初世の父重蔵は江戸に出て侠客と交わり、〈こもの重蔵〉と呼ばれた人。通説に従うと、延宝一(1673)年江戸・中村座の《四天王稚立してんのうおさなだち》に一四歳で初舞台。この時坂田金時の役で、全身を紅で塗りつぶし、紅と墨で顔にくまを取り、童子格子の衣裳に丸ぐけ帯、大太刀を佩き、斧をひっさげて登場、豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。ただし、右の事実はもう少し遅れる貞享二(1685)年の《金平六条通ひ》の坂田金平役の時が最初とする説がある。初世は芸の幅が広く、どんな役もこなして名声を得たが、とくに荒事に傑出した才能を示し、当時の江戸人の気風に合ったため、格別の人気を集めた。俳名才牛さいぎゅう。自身劇作も兼ね、《参会名護屋さんかいなごや》《兵根元曾我つわものこんげんそが》《源平雷伝記げんペいなるかみでんき》《成田山分身不動なりたさんふんじんふどう》などを自作自演した。狂言作者としては、三升屋兵庫みますやひょうごの筆名を併せ用いた。元禄一七(1704)年二月江戸・市村座の《わたまし十二段》に出演中、役者の生島半六に刺殺された。
【二世】1688‐1758 初世の長男。初名九蔵。若くして父と死別、一六歳で団十郎を襲名した。容貌も体格も父に似ており、芸熱心だったので、めきめきと腕を上げ、名声を高め、江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。俳名を三升さんじょう、才牛、栢莚はくえんといい、俳諧や狂句をたしなみ、文人との交際が広かった。《老のたのしみ》《栢莚狂句集》などの著がある。助六、鳴神、毛抜、矢の根、曾我五郎、和藤内、外郎売ういろううりなどを当り芸とする。荒事芸を様式化し洗練したのに加え、和事にも天分があった。たとえば、近松の《曾根崎心中》の徳兵衛や、《心中天の網島》の治兵衛を江戸で歌舞伎化して好演した。《助六》に和事味を加え、今日見るスタイルの原型を完成させたのも二世である。
【三世】1721‐1742 二世の養子。享保二〇(1735)年に一五歳で団十郎をつぎ、将来を期待されたが、数年にして病死した。二二歳。
【四世】1711‐1778 初世松本幸四郎の養子。実は二世団十郎の子ともいう。宝暦四(1754)年、二世幸四郎から襲名。はじめは実悪の役者だったが、団十郎を名のってからは実事を得意にして好演した。《菅原伝授手習鑑》の松王丸は一代の当り役であり、その演出を現代にまで伝えた。安永五(1776)年七月引退ののちは、深川木場の自宅に五世団十郎、四世幸四郎、初世中村仲蔵らを集め、〈修行講〉という演技研究会を開いた。親分肌で、人の世話をよくみたので、〈木場の親玉〉の名で慕われた。
【五世】1741‐1806 四世の子。明和七(1770)年、三世松本幸四郎から襲名。荒事の役々を好演しただけでなく、岩藤、かさねなどの女方もよくし、安永・天明期(1772‐1789)の江戸歌舞伎全盛時代における江戸っ子の美学を代表する名優であった。寛政三(1791)年に市川鰕蔵と改名をしたが、寛政八年には舞台を退き、向島の反古庵ほごあんに隠居、芭蕉の風雅をしのぶ閑雅な生活を営んだ。俳名を白猿、狂歌名を花道のつらねと称した。立川焉馬、大田蜀山人ら当代第一流の文人と親交があり、《友なし猿》《徒然吾妻詞つれづれあずまことば》《市川白猿集》などの著作もある。「こがらしに雨もつ雲の行衛かな」の辞世の句を残す。
【六世】1778‐1799 五世の養子。寛政三年に、一四歳で団十郎をついだが、二二歳で早世した。
【七世】1791‐1859 五世の孫。俳名は三升、白猿、夜雨庵、二九亭、寿海老人、子福長者など。寛政一二年一〇歳で団十郎を襲名。文化・文政期から幕末の安政に至るまで活躍した名優。小柄ながら多才多能の役者で、眼が大きく、口跡にすぐれていた。荒事・実事・実悪・和事・色悪など実に広い役柄を自由にこなし、四世鶴屋南北作の生世話や所作事をもよくした。天保一三(1842)年、改革令に触れて江戸十里四方を追放となり、上方の芝居に出たりしていたが、嘉永二(1849)年に許されて江戸に帰った。天保三年三月長男に八世をつがせ、自分は再び、前名の海老蔵(五世)となる。この時、初世以来の荒事の当り役を調べて〈歌舞伎十八番〉を選定し、公表した。天保一一年三月《勧進帳》初演に当たって、能様式の演出を大胆に採り入れたのは当時画期的な出来事であった。狂歌・俳句をよくし、文筆に親しんだ七世は、《遠く見ます》《遊行やまざる》などの著述や、洒脱な人柄をうかがわせる多くの書簡・書画を残している。
【八世】1823‐1854 七世の長男。天保三年三月、一〇歳で団十郎を襲名した。若くして天才的な技芸を見せ、かつ格別の美貌が幕末期の頽廃的な気分に合い、江戸人の熱狂的な支持を受けたが、大坂の旅宿で謎の自殺を遂げた。三二歳の若さだった。天性の花やかさと美貌を生かした児雷也や切られ与三郎などの当り芸を残した。
【九世】1838‐1903 七世の五男。八世の弟。生まれてすぐ六世河原崎権之助の養子となったが、明治七(1874)年実家に戻り、九世団十郎を襲名した。俳名三升、団洲、寿海、夜雨庵など。明治期の劇界の第一人者で、〈劇聖〉と仰がれた名優であった。容貌、風姿、音調、弁舌にすぐれ、立役・女方・敵役のいずれにもよく、時代・世話・所作事の何を演じても卓越した技芸を示した。演劇改良運動に意欲を燃やし、その中心となって活躍、忠実に史実を写そうと志す〈活歴かつれき〉と呼ぶ史劇を創始したことは演劇史上に特筆される。また、登場人物の性格・心理を研究し、これを内攻的に表現する〈肚芸はらげい〉という演技術を開拓するなど、近代歌舞伎に与えた影響はきわめて大きい。《高時》《紅葉狩》《大森彦七》《鏡獅子》などを含む〈新歌舞伎十八番〉を制定。
【一〇世】1882‐1956 九世の女婿。堀越福三郎から市川三升となり、没後に一〇世団十郎の名を追贈された。七世の選定した〈歌舞伎十八番〉のうち、長く演出の絶えていた《解脱》《不破》《象引》《押戻》《嫐》《七つ面》《蛇柳》を、古い台帳によったわけではないが、復活を試みた功績がある。
【一一世】1909‐1965 本名堀越治雄。七世松本幸四郎の長男。市川三升の養子になり、昭和一五(1940)年に九世市川海老蔵をついだ。海老蔵時代は、天性の美貌と花のある芸風が幅広い層の人気を集め、〈海老サマ〉の愛称で親しまれた。待望久しくして、昭和三七年一一世団十郎を襲名し、人気はいよいよ高まったが、わずか三年ののち没した。古典の時代物・世話物・荒事のいずれにもすぐれ、新作を意欲的に演じて、文字どおり戦後歌舞伎の花形俳優であった。
【一二世】1946‐ 本名堀越夏雄。一一世団十郎の長男。昭和六〇(1985)年一二世を襲名。
荒事歌舞伎十八番
[服部 幸雄]


日本大百科全書(ニッポニカ)
市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号成田屋。

初世(1660―1704)武門の出身で姓は堀越。江戸生まれで、父は「菰(こも)の重蔵」とよばれた人。通説によれば14歳のとき初舞台。市川家の「家の芸」として今日まで伝承されている荒事(あらごと)芸の創始者とされ、元禄(げんろく)期(1688~1704)の江戸の歌舞伎界を代表する名優であった。劇作も兼ね、市川団十郎または三升屋兵庫(みますやひょうご)の署名のある狂言本十数編を残す。怨恨(えんこん)のため、俳優生島(いくしま)半六に舞台で刺殺された。

2世(1688―1758)初世の長男。父の死後16歳で2世を襲名。容貌(ようぼう)、体格とも父に似て、たいへんな芸熱心であったので、江戸劇壇における市川家の確固たる地位を築いた。俳諧(はいかい)や狂歌をたしなみ、文人との交際も広かった。『助六』に和事(わごと)味を加え、今日みるスタイルの原型を創造した。1735年(享保20)海老蔵(えびぞう)と改め、以後長く舞台を勤めた。

3世(1721―1742)2世の養子。1735年(享保20)3世を襲名したが、数年にして没した。

4世(1711―1778)初世松本幸四郎の養子。父は芝居茶屋和泉屋(いずみや)勘十郎と伝えるが、実は2世団十郎ともいう。1754年(宝暦4)2世幸四郎から4世を襲名。初め実悪(じつあく)の俳優であったが、晩年は実事(じつごと)をも得意とした。1775年(安永4)に引退後、5世団十郎や初世中村仲蔵らを木場の自宅に招き、修行講と称する演技研究会を開き、「木場の親玉」の名で慕われた。

5世(1741―1806)4世の子。1770年(明和7)3世松本幸四郎から5世を襲名。これまでの団十郎が勤めなかった役柄を広く演じた実力者で、岩藤や累(かさね)などの女方(おんながた)も演じた。1796年(寛政8)舞台を退いて向島の反古庵(ほごあん)に隠居し、成田屋七左衛門と名のって閑雅な生活を送った。狂歌名は花道のつらね。立川焉馬(たてかわえんば)や蜀山人(しょくさんじん)ら当時一流の文化人と交際が広かった。

6世(1778―1799)5世の養子。1791年(寛政3)に6世を襲名したが、早世。

7世(1791―1859)5世の孫。1800年(寛政12)10歳で7世を襲名。文化・文政期(1804~1830)から安政(あんせい)(1854~1860)に至るまで活躍した名優で、荒事、実事、実悪、和事、色悪(いろあく)などの広い役柄をこなし、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作の生世話(きぜわ)にも所作事(しょさごと)にも優れていた。1842年(天保13)6月、改革令に触れて江戸十里四方追放に処せられ、上方(かみがた)の芝居に出ていたが、1849年(嘉永2)赦免となって江戸に帰った。1832年(天保3)に長男に8世を継がせ、自身は5世海老蔵を名のった。『勧進帳』を初演し、また、「歌舞伎十八番」を制定、公表した。

8世(1823―1854)7世の長男。1832年(天保3)に6世海老蔵から8世を襲名。若くして技芸優れ、美貌(びぼう)であったため江戸人の熱狂的支持を受けたが、32歳の若さで大坂で自殺。『切られ与三(よさ)』が当り芸であった。

9世(1838―1903)7世の五男。生まれてすぐに6世河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の養子になったが、のち実家に帰り、1874年(明治7)河原崎三升(さんしょう)から9世を襲名した。明治期劇界の第一人者。のちに「劇聖」と崇(あが)められた名優で、とくに演劇改良運動の中心人物となって活躍、「活歴(かつれき)」とよぶ史劇を始めたことが特筆に価する。また登場人物の性格や心理を研究して、内向的に表現する「肚芸(はらげい)」とよぶ演技術を開拓するなど、近代歌舞伎に与えた影響は非常に大きい。明治36年9月13日没。長女翠扇(すいせん)(2世)の婿が10世団十郎、次女旭梅(きょくばい)の婿が5世市川新之助で、新派女優3世市川翠扇(前名紅梅、1913―1974)はその子、すなわち9世の孫。

10世(1882―1956)9世の女婿。堀越福三郎から5世市川三升(さんしょう)となり、没後に10世を追贈。

11世(1909―1965)本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。10世の養子となり、9世海老蔵から1962年(昭和37)に11世を襲名した。海老蔵時代には「海老さま」の愛称でよばれ、天性の美貌と花のある芸風が広く人気を集めた。待望久しくして11世団十郎を襲名し、人気はいよいよ高まったが、襲名後わずか3年、昭和40年11月10日に没した。

12世(1946―2013)本名堀越夏雄。11世の長男。1953年(昭和28)市川夏雄を名のり初舞台。6世新之助(1958)、10世海老蔵(1969)を経て、1985年4月、12世を襲名した。美貌と明るい芸風で、平成歌舞伎を代表する立役(たちやく)として活躍した。長男が11世市川海老蔵(1977― )である。

[服部幸雄]



市川団十郎(8世)[百科マルチメディア]
市川団十郎(8世)[百科マルチメディア]

歌川国貞(3世豊国)画『東海道五十三次之内 戸塚駅』 「早野勘平(はやのかんぺい)」国立国会図書館所蔵


市川団十郎(9世)[百科マルチメディア]
市川団十郎(9世)[百科マルチメディア]

国立国会図書館所蔵


市川団十郎(9世)〔役者絵〕[百科マルチメディア]
市川団十郎(9世)〔役者絵〕[百科マルチメディア]

豊原国周(くにちか)画『歌舞伎十八番之内 勧進帳(かんじんちょう)』 「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)」 三枚続の一 1890年(明治23)国立国会図書館所蔵


改訂新版 世界大百科事典
市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎俳優。12世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した3世,6世を除いて代々名優で,江戸歌舞伎界屈指の名跡である。(1)初世(1660-1704・万治3-宝永1)祖先は甲州の武士で,永正年中に北条氏康の家臣となり,のち下総国埴生(はにゆう)郡幡谷(はたがや)村に移住して郷士となり,堀越姓を称したと伝える。出身については,奥州の市川村ともいい,また葛飾郡市川村とする説もある。初世の父重蔵は江戸に出て俠客と交わり,〈菰(こも)の重蔵〉と呼ばれた人。通説に従うと1673年(延宝1)江戸中村座の《四天王稚立(してんのうおさなだち)》に,14歳で初舞台。この時坂田金時の役で,全身を紅で塗りつぶし,紅と墨で顔に隈(くま)を取り,童子格子の衣装に丸ぐけ帯,大太刀をはき,斧をひっさげて登場,豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。ただし,上の事実はもう少し遅れる85年(貞享2)の《金平六条通ひ》の坂田金平役の時が最初とする説がある。初世は芸の幅が広く,どんな役もこなして名声を得たが,とくに荒事に傑出した才能を示し,当時の江戸人の気風に合ったため,格別の人気を集めた。俳名才牛(さいぎゆう)。自身劇作も兼ね,《参会名護屋(さんかいなごや)》《兵根元曾我(つわものこんげんそが)》《源平雷伝記(げんぺいなるかみでんき)》《成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)》などを自作自演した。狂言作者としては,三升屋兵庫(みますやひようご)の筆名を併せ用いた。1704年(元禄17)2月江戸市村座の《わたまし十二段》に出演中,役者の生島半六に刺殺された。(2)2世(1688-1758・元禄1-宝暦8)初世の長男。初名九蔵。幼くして父と死別,16歳で団十郎を襲名した。容貌も体格も父に似ており,芸熱心だったので,めきめきと腕を上げ,名声を高め,江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。1735年(享保20)11月2世市川海老蔵を襲名。俳名を三升(さんじよう),才牛,栢莚(はくえん)といい,俳諧や狂句をたしなみ,文人との交際が広かった。《老のたのしみ》《栢莚狂句集》などの著がある。助六,鳴神,毛抜,矢の根,曾我五郎,和藤内,外郎売(ういろううり)などを当り芸とする。荒事芸を様式化し洗練したのに加え,和事にも天分があった。たとえば,近松の《曾根崎心中》の徳兵衛や,《心中天の網島》の治兵衛を江戸で歌舞伎化して好演した。《助六》に和事味を加え,今日見るスタイルの原型を完成させたのも2世である。(3)3世(1721-42・享保6-寛保2)2世の養子。35年(享保20)に15歳で団十郎をつぎ,将来を期待されたが,数年にして病死した。22歳。(4)4世(1711-78・正徳1-安永7)初世松本幸四郎の養子。実は2世団十郎の子ともいう。54年(宝暦4),2世幸四郎から襲名。はじめは実悪の役者だったが,団十郎を名のってからは実事(じつごと)を得意にして好演した。《菅原伝授手習鑑》の松王丸は一代の当り役であり,その演出を現代にまで伝えた。76年(安永5)7月引退ののちは,深川木場の自宅に5世団十郎,4世幸四郎,初世中村仲蔵らを集め,〈修行講〉という演技研究会を開いた。親分肌で,人の世話をよくみたので,〈木場の親玉〉の名で慕われた。(5)5世(1741-1806・寛保1-文化3)4世の子。70年(明和7),3世松本幸四郎から襲名。荒事の役々を好演しただけでなく,岩藤,累(かさね)などの女方もよくし,安永・天明期(1772-89)の江戸歌舞伎全盛時代における江戸っ子の美学を代表する名優であった。91年(寛政3)11月市川鰕蔵(えびぞう)と改名。96年に舞台を退き,向島の反古庵(ほごあん)に隠居,芭蕉の風雅をしのぶ閑雅な生活を営んだ。俳名を白猿,狂歌名を花道のつらねと称した。立川焉馬,大田蜀山人ら当代第一流の文人と親交があり,《友なし猿》《徒然吾妻詞(つれづれあずまことば)》《市川白猿集》などの著作もある。1806年10月,66歳で没した。〈凩(こがらし)に雨もつ雲の行衛かな〉の辞世を残す。(6)6世(1778-99・安永7-寛政11)5世の養子。1791(寛政3)年に,鰕蔵襲名にともない14歳で団十郎をついだが,22歳で早世した。

 (7)7世(1791-1859・寛政3-安政6) 5世の孫。俳名は三升,白猿,夜雨庵,二九亭,寿海老人,子福長者など。1800年10歳で団十郎を襲名。文化・文政期から幕末の安政に至るまで活躍した名優。小柄ながら多才多能の役者で,眼が大きく,口跡にすぐれていた。荒事,実事,実悪,和事,色悪など実に広い役柄を自由にこなし,4世鶴屋南北作の生世話や所作事をもよくした。42年(天保13),改革令に触れて江戸十里四方を追放されて諸国を流浪,上方の芝居に出たりしていたが,49年(嘉永2)に許されて江戸に帰った。1832年3月長男に8世をつがせ,自分は前名の5世海老蔵を再度名のった。この時,初世以来の荒事の当り役を調べて〈歌舞伎十八番〉を選定し,公表した。40年3月《勧進帳》初演に当たって,能様式の演出を大胆に採り入れたのは当時画期的な出来事であった。狂歌・俳句をよくし,文筆に親しんだ7世は,《遠く見ます》《遊行やまざる》などの著述や,洒脱な人柄をうかがわせる多くの書簡・書画を残している。(8)8世(1823-54・文政6-安政1) 7世の長男。1832年3月,10歳で6世海老蔵から団十郎を襲名した。若くして天才的な技芸を見せ,かつ格別の美貌が幕末期の退廃的な気分に合い,江戸人の熱狂的な支持を受けたが,大坂の旅宿で謎の自殺を遂げた。32歳の若さだった。天性の花やかさと美貌を生かした児雷也や切られ与三郎などの当り芸を残した。(9)9世(1838-1903・天保9-明治36) 7世の五男。8世の弟。生まれてすぐ6世河原崎権之助の養子となったが,74年実家に戻り,9世団十郎を襲名した。俳名三升,団洲,寿海,夜雨庵など。明治期の劇界の第一人者で,〈劇聖〉と仰がれた名優であった。容貌,風姿,音調,弁舌にすぐれ,立役,女方,敵役のいずれにもよく,時代,世話,所作事の何を演じても卓越した技芸を示した。演劇改良運動に意欲を燃やし,その中心となって活躍,忠実に史実を写そうと志す〈活歴(かつれき)〉と呼ぶ史劇を創始したことは演劇史上に特筆される。また,登場人物の性格・心理を研究し,これを内攻的に表現する〈肚芸(はらげい)〉という演技術を開拓するなど,近代歌舞伎に与えた影響はきわめて大きい。《高時》《紅葉狩》《大森彦七》《鏡獅子》などを含む〈新歌舞伎十八番〉を制定。(10)10世(1880-1956・明治13-昭和31) 9世の女婿。堀越福三郎から市川三升となり,没後に10世団十郎の名を追贈された。7世の選定した〈歌舞伎十八番〉のうち,長く演出の絶えていた《解脱》《不破》《象引》《押戻》《嫐(うわなり)》《七つ面》《蛇柳》を,古い台帳によったわけではないが,復活を試みた功績がある。(11)11世(1909-65・明治42-昭和40) 本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。市川三升の養子になり,1940年に9世市川海老蔵をついだ。海老蔵時代は,天性の美貌と花のある芸風が幅広い層の人気を集め,〈海老サマ〉の愛称で親しまれた。待望久しくして,62年11世団十郎を襲名し,人気はいよいよ高まったが,わずか3年ののち没した。古典の時代物・世話物・荒事のいずれにもすぐれ,新作を意欲的に演じて,文字どおり戦後歌舞伎の花形俳優であった。(12)12世(1946-2013・(昭和21-平成25) 本名堀越夏雄。11世の長男。58年に6世市川新之助,69年に10世海老蔵を襲名して,85年4月12世団十郎を襲名。
[服部 幸雄]

[索引語]
成田屋 荒事 三升屋兵庫 生島半六 団十郎(演劇) 市川海老蔵 助六 修行講 市川鰕蔵 活歴 肚(腹)芸
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1. 市川団十郎画像
日本大百科全書
元禄(げんろく)期(1688~1704)の江戸の歌舞伎界を代表する名優であった。劇作も兼ね、市川団十郎または三升屋兵庫(みますやひょうご)の署名のある狂言本十数
2. 市川団十郎画像
世界大百科事典
容貌も体格も父に似ており,芸熱心だったので,めきめきと腕を上げ,名声を高め,江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。1735年(享保20)11月2
3. いちかわ‐だんじゅうろう【市川団十郎】
日本国語大辞典
歌舞伎俳優。屋号成田屋。定紋三升(みます)。〔一〕初世。本姓堀越。俳名才牛。幼名海老蔵。江戸の人。荒事(あらごと)の創始者。元祿年間(一六八八~一七〇四)の江戸
4. いちかわだんじゅうろう【市川団十郎】
国史大辞典
ろにあるといえよう。歴代の墓は東京都港区の青山墓地にある。 [参考文献]伊原敏郎『市川団十郎』、同『市川団十郎の代々』、同『日本演劇史』、同『近世日本演劇史』、
5. 市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第2巻 179ページ
6. 市川團十郎[演劇]
イミダス 2018
歌舞伎俳優の名跡。屋号は成田屋。初代(1660~1704)は、荒事を創始して江戸歌舞伎のスタイルを確立。それをさらに様式化して「助六」「毛抜」「鳴神」などを作
7. 市川團十郎[市川宗家として歌舞伎界を牽引してきた歌舞伎役者、死去]
イミダス 2018
ールの大きな「荒事」の演目などで活躍した12代目市川團十郎さんが、肺炎のため死去。66歳。 1946年8月6日、東京都生まれ。11代目市川團十郎の長男。53年1
8. 市川團十郎[パリ、オペラ座で、初歌舞伎公演]
イミダス 2018
本名、堀越夏雄。歌舞伎役者。 2007年3月23日から30日までパリ、オペラ座ガルニエで、市川團十郎が初の歌舞伎公演を行う。 1946年、東京都生まれ。11代目
9. いちかわだんじゅうろう【市川団十郎】
日本架空伝承人名事典
その前後に段十郎から団十郎に改めたとされる。 ところで、団十郎の出自と少年時代に関しては判然としない。『市川團十郎家家譜』(立川焉馬)によれば、先祖は甲州武士だ
10. いちかわだんじゅうろう【市川団十郎】
歌舞伎事典
容貌も体格も父に似ており、芸熱心だったので、めきめきと腕を上げ、名声を高め、江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。俳名を三升(さんじょう)、才牛
11. いちかわだんじゅうろう【市川團十郎】[付録]
歌舞伎事典
12世 成田屋 三升、杏葉牡丹 堀越夏雄 俳名=柏莚 昭和21。一一世市川團十郎の長男。東京都 昭和28・10市川夏雄を名のり、歌舞伎座《大徳寺》の三法師公で初
12. 市川団十郎〔初代〕
日本史年表
1673年〈延宝元(9・21) 癸丑〉 この年 初代市川団十郎 、江戸で荒事を演じる(歌舞伎年表)。 1704年〈宝永元(3・13) 甲申〉 2・19 没。
13. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(初代)】
日本人名大辞典
1660−1704 江戸時代前期の歌舞伎役者。万治(まんじ)3年5月生まれ。延宝元年江戸中村座の初舞台で顔を隈取(くまど)りし,荒事(あらごと)を創案した。元禄
14. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(2代)】
日本人名大辞典
1688−1758 江戸時代中期の歌舞伎役者。元禄(げんろく)元年10月11日生まれ。初代市川団十郎の長男。宝永元年2代を襲名。父の荒事(あらごと)を継承し,和
15. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(3代)】
日本人名大辞典
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保(きょうほう)6年生まれ。初代三升屋(みますや)助十郎の子。2代市川団十郎の養子となり,享保12年江戸で初舞台。20年3代を襲名し
16. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(4代)】
日本人名大辞典
1711−1778 江戸時代中期の歌舞伎役者。正徳(しょうとく)元年生まれ。2代市川団十郎の子という。初代松本幸四郎の養子となり,享保(きょうほう)20年2代を
17. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(5代)】
日本人名大辞典
1741−1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。寛保(かんぽう)元年8月生まれ。4代市川団十郎の子。明和7年5代を襲名。若衆方,実悪(じつあく),実事(じつ
18. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(6代)】
日本人名大辞典
1778−1799 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。安永7年生まれ。5代市川団十郎の子。父の従弟和泉屋勘十郎の養子となるが,天明元年あらためて5代の養子にはいる
19. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(7代)】
日本人名大辞典
1791−1859 江戸時代後期の歌舞伎役者。寛政3年4月生まれ。5代市川団十郎の外孫。寛政12年7代を襲名。家芸の荒事(あらごと)のほか,4代鶴屋南北の生世話
20. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(8代)】
日本人名大辞典
1823−1854 江戸時代後期の歌舞伎役者。文政6年10月5日生まれ。7代市川団十郎の長男。天保(てんぽう)3年10歳で8代を襲名。美貌(びぼう)と親孝行で弘
21. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(9代)】画像
日本人名大辞典
1838−1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。天保(てんぽう)9年10月13日生まれ。7代市川団十郎の5男。6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもど
22. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(10代)】
日本人名大辞典
1882−1956 明治-昭和時代の歌舞伎役者。明治15年10月31日生まれ。はじめ銀行員。明治34年9代団十郎の長女堀越実子(のち2代市川翠扇)と結婚。43年
23. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(11代)】画像
日本人名大辞典
1909−1965 大正-昭和時代の歌舞伎役者。明治42年1月6日生まれ。7代松本幸四郎の長男。大正4年初舞台。昭和4年9代市川高麗蔵(こまぞう)を,15年5代
24. いちかわ-だんじゅうろう【市川団十郎(12代)】
日本人名大辞典
1946−2013 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。昭和21年8月6日生まれ。11代市川団十郎の長男。昭和28年初舞台。60年12代市川団十郎を襲名,家の芸であ
25. 市川団十郎(諸世)[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:4件 『市川家秘伝隈取図巻』川上邦基(編)『市川団十郎の代々 2巻2冊』伊原青々園(編)『団十郎の芝居』伊原青々園『市川団十郎』金沢康隆『市川宗
26. 市川団十郎(初世)[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:3件 『初世市川団十郎年譜』諏訪春雄『市川団十郎』西山松之助『金平と元祖団十郎の荒事』水谷不倒『元禄劇団の二雄 市川団十郎と坂田藤十郎』高野辰之
27. 市川団十郎(二世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:4件 『市川団十郎の成立』西山松之助『歌舞伎あれこれ 二世・四世の団十郎』河竹繁俊『破笠と団十郎』杉浦冷石『目黒
28. 市川団十郎(三世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『八日目の花 三代目市川団十郎追善集』木村捨三
29. 市川団十郎(四世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『歌舞伎あれこれ 二世・四世の団十郎』河竹繁俊『四世団十郎の死と黄表紙に於けるその追善記』高木好次
30. 市川団十郎(五世)[文献目録]
日本人物文献目録
『市川三升と松本錦考の和解に就き』高木蟻堂『市川白猿の劇評』談洲楼燕枝『歌舞伎あれこれ 五代目市川団十郎』河竹繁俊『五代目市川白猿』不知庵主人『初代豊国と団十郎
31. 市川団十郎(七世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:4件 『七世市川団十郎』市川九蔵『江戸追放以後の市川海老蔵』山本修二『天保芝居風俗 七代目市川団十郎の手紙を中心
32. 市川団十郎(八世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『八世団十郎の死』大西利夫『奉納団十郎燭台』浅海行夫
33. 市川団十郎(九世)[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:28件 『市川団十郎』伊原青々園『桜痴居士と市川団十郎』榎本虎彦『第九代市川団十郎略伝』福地源一郎(著刊)『団洲百話』松居玄真(編)『優人として
34. 市川団十郎(一〇世)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『市川三升を悼む』-『十代目市川団十郎追悼』遠藤為春等
35. 市川団十郎(一一世)[文献目録]
日本人物文献目録
豊『海老蔵さんをスケッチする』須田剋太『市川団十郎』遠藤為春『オム二バス俳優論 市川海老蔵』草壁久四郎『高麗屋三兄弟』戸部銀作『五分間伝記 市川団十郎』沙東丸伍
36. 市川団十郎(9世)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
37. 市川団十郎(8世)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
歌川国貞(3世豊国)画『東海道五十三次之内 戸塚駅』 「早野勘平はやのかんぺい」国立国会図書館所蔵
38. 市川団十郎(9世)〔役者絵〕[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
豊原国周くにちか画『歌舞伎十八番之内 勧進帳かんじんちょう』 「武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい」 三枚続の一 1890年(明治23)国立国会図書館所蔵
39. 市川団十郎/評判図会(著作ID:94893)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろう/ひょうばんずえ 江戸/市川評判図会 江戸花名人図会 寿亭豊丸(じゅていとよまる) 咄本 寛政一一刊
40. 市川団十郎一代記(著作ID:3582932)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろういちだいき 烏亭焉馬一世(うていえんば1せい) 述 
41. 市川団十郎かるたづくしほめことば(著作ID:4358329)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろうかるたづくしほめことば 演劇 
42. 市川団十郎極楽実記(著作ID:94882)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろうごくらくじっき 柏満多山人(はくまたさんじん) 作 寿亭豊丸(じゅていとよまる) 画 雑記 
43. 市川団十郎書簡(著作ID:4404055)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろうしょかん 市川団十郎七世(いちかわだんじゅうろう7せい) 書簡 
44. 市川団十郎短冊(著作ID:4363965)
新日本古典籍データベース
いちかわだんじゅうろうたんざく 
45. 河原崎長十郎
日本大百科全書
歌舞伎(かぶき)俳優。服部幸雄初世9世市川団十郎の前名。出生と同時に6世河原崎権之助(ごんのすけ)の養子になり、長十郎と名づけられた。服部幸雄2世(1902―8
46. 松本幸四郎画像
日本大百科全書
武道事(ぶどうごと)が得意で、2世市川団十郎と並ぶ名優とたたえられた。服部幸雄2018年8月21日2世4世市川団十郎の前名。服部幸雄2018年8月21日3世5世
47. 市川団十郎 : 図-市川団十郎家とその門系画像
世界大百科事典
48. ああ つがもない
日本国語大辞典
江戸時代の流行語。ああ馬鹿らしい、くだらない、などの意。代々の市川団十郎が、荒事の中で見得をきるときの決まり文句から流行した。*歌舞伎・助六廓夜桜〔1779〕「
49. 青砥稿花紅彩画
世界大百科事典
もに屈指の名場面としてよく上演される。初演は19歳の5世菊五郎の出世芸となり,近年は11世市川団十郎,7世尾上梅幸,17世中村勘三郎,7世尾上菊五郎らが得意とす
50. あおとぞうしはなのにしきえ【青砥稿花紅彩画】
歌舞伎事典
もに屈指の名場面としてよく上演される。初演は一九歳の五世菊五郎の出世芸となり、戦後は一一世市川団十郎、七世尾上梅幸、一七世中村勘三郎、七世尾上菊五郎らが上演。E
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歌舞伎(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
歌舞伎という表記は当て字であるが、歌(音楽)、舞(舞踊)、伎(伎芸)をそれぞれ意味し、日本独自の様式的演劇の特質を巧まずして表現しているため、今日では広く用いられている。かつて江戸時代には「歌舞妓」と書かれるのが普通であったが、もっと古くは「かぶき」と仮名で書かれた
下座音楽(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
歌舞伎の演出に、効果・修飾・背景・伴奏音楽として、原則として黒御簾で演奏される歌舞伎囃子の通称。〈黒御簾音楽〉〈陰囃子〉(略して〈黒御簾〉〈陰〉とも)などの別称がある。ただし〈陰囃子〉は、狭義に、出囃子・出語りについて黒御簾の中で演奏される鳴物を意味することが多い
江戸三座(新版 歌舞伎事典・日本大百科全書)
江戸で公許された中村座、市村座、森田座の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが、正徳四(1714)年、江島生島事件によって山村座が廃絶、以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。中村座は堺町、市村座は葺屋町、森田座は木挽町において興行したが
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役柄の一つ。歌舞伎の道化(どうけ)の役柄およびその役柄を専門に演じる俳優をいう。〈三枚目〉は後世の通称。日本の芸能の伝統的な展開の一方法である〈もどき〉によって、初期の歌舞伎では道外方が重要な役目を果たしていた。西欧のフールと同じ道化、阿呆、泣男
近松門左衛門(歌舞伎事典・日本大百科全書)
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歌舞伎俳優。一二世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した三世・六世を除いて代々名優で、江戸歌舞伎界屈指の名跡である。【初世】1660‐1704 祖先は甲州の武士で、永正年中に北条氏康の家臣となり、のち下総国埴生
役者評判記(歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典)
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物真似狂言尽(歌舞伎事典・日本国語大辞典)
歌舞伎用語。若衆歌舞伎が禁じられ、承応二(1653)年野郎歌舞伎として再興するに当たり、〈物真似狂言尽〉を演じることを条件の一つとして許可されたという。ただしこの許可条件を証明する同時代記録はなく、後世の資料によっている。当期の用例では単に
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