歌舞伎の演出に,効果,修飾,背景,伴奏音楽として,原則として舞台下手の板囲いをし上部の窓に黒いすだれをさげた〈黒御簾(くろみす)〉で演奏される歌舞伎囃子の通称。〈黒御簾音楽〉〈陰囃子〉(略して〈黒御簾〉〈陰〉とも)などの別称がある。ただし〈陰囃子〉は,狭義に,出囃子,出語りについて黒御簾の中で演奏される鳴物を意味することが多い。〈下座音楽〉は,昭和の初めごろから〈下座の音楽〉を熟語化していわれるようになったもので,これを職分とする〈囃子方〉は,ふつう〈下座音楽〉とはいわない。〈下座〉は〈外座〉とも記し,本来,舞台上手の役者の出入口〈臆病口〉の前の一角を指し,享保(1716-36)末期に上方も江戸もそこが囃子の演奏場所となり,そこで演奏される囃子を〈下座〉とも称するようになったところから〈下座の音楽〉〈下座音楽〉といわれるようになったもの。上手の下座が演奏場所となる以前は,初期歌舞伎以来,舞台正面奥に囃子方が居並んで演奏するのが通例であった。演奏場所が上手から下手の奥に移されたのは,江戸では文政(1818-30)から天保(1830-44)の間で,下手奥に移された後も,その場所を〈下座〉と呼んでいたという。さらに現行のような黒御簾の位置と形式になったのは安政(1854-60)ごろからである。一方,上方では,明治末期まで上手側舞台ばな寄りに設けられた結界(けつかい)の内側で演奏されており,その場所を〈下座〉とは称していなかった。したがって,〈下座音楽〉という呼称は,創始期以来の歌舞伎の囃子全般を指すには,必ずしも適切な用語ではない。
歌舞伎囃子の歴史は,歌舞伎と軌を一にして400年に近いが,今日の下座音楽のようにせりふ劇の演出にかかわる囃子は,野郎歌舞伎以後せりふ劇の発達にともない形成されたもの。元禄期(1688-1704)には囃子の用法もかなり進んでいたが,現行の〈下座音楽〉と本質的には変わらない曲種や用法がととのえられたのは享保末期で,めざましい発展をみるのは,江戸長唄の隆盛をみた宝暦(1751-64)以後である。そのころ囃子方が劇場に専属して創意工夫を加え,著しい進展を示し,化政期(1804-30)の音楽劇としての大成を経て,幕末から明治にかけての黙阿弥劇において,洗練された下座音楽の完成を見るに至った。現行の下座音楽は,黙阿弥時代の音楽演出を伝承したものである。
下座音楽は,大まかに,唄,合方(上方では〈相方〉),鳴物の三つの曲種に大別される。唄は囃子方の長唄連中の唄方,合方は同じく三味線方,鳴物は同じく鳴物の社中(狭義の囃子方)の職分である。また,下座音楽の演出プランを立てることを〈附け〉といい,これを担当するのはベテランの囃子方で,これを〈附師〉という。附師は,演出プランを記帳した〈附帳〉を作成して芝居の稽古に臨む。また,黒御簾で演奏する際の指揮者に相当する立三味線を〈舞台師〉という。
三味線,四拍子(しびようし)(大小鼓,締太鼓,能管),大太鼓,竹笛(篠笛)を主奏楽器とし,このほか,胡弓,箏,尺八が用いられることもあり,また,〈鳴物〉の名称で総称される寺院・神社の宗教楽器,あるいは祭礼囃子や民俗芸能の楽器を採り入れた各種の打楽器や管楽器が広く用いられ,その種類は,樽,みくじ箱,ビービー笛のような雑楽器を合わせると数十種類に及ぶ。
現行曲目は,唄,合方,鳴物を合わせると,優に800曲をこえる。そのうち,東京(江戸)の曲が約6割,上方の曲が約4割で,それぞれの特色が認められるのは,東西の歌舞伎が,相互の交流や影響関係をもちながらも,それぞれ独自な歴史を踏んできたことや,その背景である風土の違いによるものである。こうした下座音楽の曲目の分類は必ずしも容易ではない。〈唄〉は,〈素唄(すうた)〉の場合もあるがふつうは三味線の伴奏を伴う。特殊な演出効果をねらう〈独吟〉〈両吟〉の〈めりやす〉と,数人でうたわれる〈雑用唄(ぞうようた)〉に分けられる。地歌,長唄,端唄などの既存曲の一部をとったものが多いが,芝居のために作られた曲も多い。〈合方〉は,唄のない三味線曲で,これに唄が入る場合は〈唄入り〉という。合方は,地歌,長唄,端唄,義太夫などの一部の三味線の手をとったものと独自に作曲されたものに大別される。唄も合方も,用法によって各種の鳴物が加えられることが多い。〈鳴物〉は,楽器を単独または2種以上の組合せによって演奏される。一定のリズムで構成された曲目と,効果・描写音楽として見計らいで演奏される曲とに分けられる。前者はさらに,四拍子による能囃子を模したもの,祭礼囃子を模したもの,芝居独自に作調されたもの,演出に関係のない劇場習俗としての囃子などに分けられ,後者は,たとえば大太鼓による風や雨の音などである。下座音楽は,以上のような分類のほかに,演劇的機能・用法の面からの分類も考えられるが,単一の基準による類別は困難で,唄,合方は,一応主として用いられる演目が時代物か世話物かによって二大別し(実際は双方に用いられる曲が多い),さらに,場面,人物の動き,髪梳きなどの特殊な演出,音楽性などによって細かく分けてみることができる。〈歌舞伎〉の項目の用語集に若干の代表的な曲目例を挙げた。
演劇的機能・用法はきわめて複雑である。下座音楽は,各演目の幕明き,人物の出入り,居直り,人物のせりふ・立回り,特殊な演出(髪梳き,物着,濡れ場,殺し,縁切,セリ上げ,だんまりなど),場面転換,幕切れなどに演奏されるが,これを演出にかかわる基本的性格についてみると,幕明き,場面転換,幕切れでは,場面の情景や雰囲気を表し,人物の出入りやせりふでは,人物(役柄,俳優の格,個々の演技)本位につけられ,立回りその他の演出では,その演出全体に対して舞踊の地の音楽に類した性格でかかわり歌舞伎独特の様式美を強調する。こうした下座音楽の効用は,全般的に修飾音楽,効果音楽としての効用が中心となるが,照明の発達が見られなかった江戸時代には,観客の聴覚に訴えることにより,視覚的・心象的イメージを補う効果をあげていたことも考えられる。また,修飾音楽,効果音楽としてばかりでなく,伴奏音楽として技術的にかかわる面のある点にも注意しなければならない。動作につく囃子は,動き方,テンポに対して技術的にかかわり,せりふにつく合方は,せりふの内容に適合した旋律,音色,強弱,リズムが要求されるほか,声の調子やテンポに対して技術的に関連している。
〈儀礼囃子〉〈儀式音楽〉ともいい,演出には関係なく劇場の興行上の習俗として行われてきたものがある。現今ではかなり簡略化されてはいるが,序幕出演の俳優全員が楽屋入りしたことを知らせる〈着到シャギリ〉,芝居が一幕終わるごとに打ち囃される〈幕切れシャギリ〉,一日の終演を告げる〈打出し〉が打ち囃されている。
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