江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)作者。本名杉森信盛(のぶもり)。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移(ふい)山人。承応(じょうおう)2年越前(えちぜん)吉江藩士杉森信義(のぶよし)の二男として福井に生まれたが、父が浪人となったため、近松15、16歳のころ家族とともに京都に移り、公家(くげ)の一条恵観(えかん)家(正親町(おおぎまち)家、阿野(あの)家とも)に仕えた。20歳のとき主人の死にあったのを機に主家を辞した。その後作者になるまでの消息は明らかでないが、一時近江(おうみ)国(滋賀県)の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。その時期に和漢の古典を学び、仏教に関する知識も習得したものと思われる。そして1677年(延宝5)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となったらしい。武士の出の近松が、賤視(せんし)されていた芸能の世界へ身を投じたのは、当時としては思いきった転身であったが、結果的には幸いした。以来72歳で没するまでの四十数年間に、歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話浄瑠璃24編を書き、日本最大の劇詩人とたたえられる輝かしい業績を残した。その作家活動は、だいたい四つの時期に分けられる。
浄瑠璃作者になってから1692年(元禄5)、近松40歳ごろに至るいわば習作時代である。加賀掾のために書いたと推定される『以呂波(いろは)物語』『赤染衛門栄花物語(あかぞめえもんえいがものがたり)』『世継曽我(よつぎそが)』など十数編の古浄瑠璃、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書いた『出世景清(しゅっせかげきよ)』『天智(てんじ)天皇』『蝉丸(せみまる)』などがある。なかでも1685年(貞享2)の『出世景清』は従来の浄瑠璃に新風を吹き込み、浄瑠璃の歴史を新旧に二分するほどの画期的な作で、それ以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と称するようになった。しかし、このころの近松は、経済的には都万太夫(みやこまんだゆう)座の道具直しや、堺(さかい)で講釈師をして生計をたてるような厳しい生活だった。
1693年41歳から1703年51歳ごろまでの、おもに歌舞伎狂言を書いた時代である。近松は貞享(じょうきょう)(1684~88)初年ごろから京都の都万太夫座で歌舞伎作者の修業をしたと伝えられるが、1693年ごろからおもに名優坂田藤十郎(とうじゅうろう)のために歌舞伎狂言を書いた。『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』『夕霧七年忌』『大名なぐさみ曽我』『一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)』『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などを書き下ろし、元禄(げんろく)歌舞伎隆盛の基礎をつくった。それらはだいたい御家騒動の世界を扱い、神仏の霊験譚(れいげんたん)を取り入れてはいるが、中心は廓(くるわ)の場面におけるやつし事、傾城事の世話的な場景を写実的に描いたものであった。こうした、浄瑠璃よりはるかに現代性の濃い歌舞伎での経験は、世話浄瑠璃を創始するうえに大いに役だった。
世話浄瑠璃中心の時代で、最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を執筆した1703年51歳から、義太夫(筑後掾(ちくごのじょう))が没した14年(正徳4)62歳ごろまで。曽根崎の心中は事件直後ほうぼうの歌舞伎で上演されたが、近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み、世話浄瑠璃のジャンルを創始した。この作の興行は大成功で、竹本座はこれまでの負債を一挙に返済することができた。これを機にやがて筑後掾は座本(ざもと)の位置を竹田出雲(いずも)に譲ったが、引き続き太夫として活躍、近松は竹本座の座付作者となって浄瑠璃に専念することになった。そしてこの期には『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『五十年忌歌念仏(うたねぶつ)』『心中重井筒(かさねいづつ)』『心中万年草(まんねんそう)』『丹波(たんば)与作待夜(まつよ)の小室節(こむろぶし)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『夕霧阿波鳴渡(あわのなると)』などの世話浄瑠璃16編と、『用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』『傾城反魂香(はんごんこう)』『碁盤太平記』『嫗山姥(こもちやまんば)』などの時代浄瑠璃がつくられた。世話浄瑠璃を確立したことは、その後の浄瑠璃を複雑多彩なものにすることになったのでその意義は大きい。
晩年の円熟大成した時代で、竹本政太夫(まさたゆう)(2代目義太夫)をもり立てて健筆を振るった。1714年に筑後掾が没して竹本座は危機を迎えたが、翌年座本出雲の意見を取り入れて書いた『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が、3年越し17か月の大当りをとり、座の経営は安泰した。その後近松はいよいよ円熟した筆で、時代浄瑠璃では『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』『平家女護島(にょごのしま)』『信州川中島合戦』など、世話浄瑠璃では『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』『山崎与次兵衛寿(やまざきよじべえねびき)の門松(かどまつ)』『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』『心中天網島(てんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』『心中宵庚申(よいごうしん)』などの名作を残した。そして24年(享保9)正月に上演された『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』を絶筆として、同年11月22日72歳で没した。尼崎(あまがさき)市の広済寺(こうさいじ)に墓があり、また近松記念館が設けられている。なお、大阪市中央区法妙寺(妻の実家の菩提(ぼだい)寺)跡にも墓だけ残っている。
近松は古浄瑠璃を当世風に改めて浄瑠璃を大成させたが、時代浄瑠璃では本来の夢幻性のなかに浪漫(ろうまん)的な要素と現実的な要素を巧みに調和させ、世話浄瑠璃では義理と人情との相克のうちに生きる庶民の姿を、生き生きとしかも愛情をもって描き、人々の心を動かした。それらの作の多くは不変の人間性を深く追求しているため、現代的生命をもち続けているものが少なくない。またその構想、趣向、文章が後世の戯曲に大きい影響を与えていることも、彼の偉大さを物語るものであろう。ただ『冥途の飛脚』『心中天網島』など上演度の高い作品は、原作のままの上演は初演だけで、その後は後人の入れ事の多い改作物が舞台に上(あが)っていた。これは近松以後の時代には演劇性に富んだはでな作が多くなり、それに対応して改作が行われたものと思われる。第二次世界大戦後は近松再検討の声がおこって原作による上演が増えてきている。なお、穂積以貫(ほづみこれつら)の『難波土産(なにわみやげ)』にみられる「芸は虚(うそ)と実(じつ)との皮膜(ひにく)の間にあり」という近松の芸術観は、彼の演劇に対する態度を明らかにしたことばとして有名である。
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