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ジャパンナレッジで閲覧できる『近松門左衛門』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

歌舞伎事典・日本大百科全書

新版 歌舞伎事典
近松門左衛門
ちかまつもんざえもん
 1653‐1724 浄瑠璃作者。歌舞伎作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉、長じて通称平馬。他に平安堂・巣林子そうりんし、不移山人などの号がある。近松は父の杉森信義が越前吉江藩の幼主に仕えて福井に在住していたとき次男として生まれたらしいが、父が浪人したため一五‐一九歳の頃に一家と共に京都に移住し、やがて後水尾帝の弟一条恵観えかんに仕えた。また正親町おうぎまち公通らの公家に仕えたともいう。この間、近松は和漢の古典的教養を身に付けたと思われるが、人形浄瑠璃の世界に接近したのもこの時期であった。当時、公家たちのあいだに人形浄瑠璃の愛好家が少なくなく、近松は正親町公通の使いで宇治加賀掾(寛永一二‐正徳一)のもとに出入りしていたことから浄瑠璃を書き始めたとの伝えもある。もっとも、恵観没(寛文一二年)後の動静はあきらかでなく、近江の近松ごんしょう寺に遊学したともいわれ、近松門左衛門の筆名の由来をそこにみる説もある。いずれにせよ近松の浄瑠璃作者としての活動は加賀掾のもとで始まるが、その加賀掾のために書いた《世継曾我》(天和三年)が、翌貞享一(1684)年大坂道頓堀で旗揚げした竹本義太夫によっても語られて評判になり、作者としての地位を確保する。この頃から元禄初年にかけて加賀掾と同時に義太夫のために作品を書くことになるが、竹本義太夫との出会いは、その後の近松にとって決定的な意味をもつことになる。ちなみに貞享二年、竹本義太夫のために書いた《出世景清》は、古浄瑠璃と当流浄瑠璃とを画す浄瑠璃として評価されている。だが近松は、貞享(1684‐8)の頃すでに歌舞伎作者でもあった。ただし歌舞伎作者として精力的に活躍しだすのは、坂田藤十郎が都万太夫座の座本になり、その座付作者に迎えられた元禄八(1695)年頃からで、《傾城仏の原》(元禄一二年)や《傾城壬生大念仏》(元禄一五年)が書かれ、それを演じた藤十郎は〈古今濡事の開山、けいせい買の元祖〉と評された。その頃、人形浄瑠璃よりも歌舞伎が流行していた。伝統的な語りものから発展してきた人形浄瑠璃に比べて歌舞伎の方が、より近世的、より当世風だったからだろうが、そうした動向のなかで近松が歌舞伎作者として活躍できたのは、藤十郎の協力があったからでもあった。歌舞伎の作劇法は役者本位である。近松といえども歌舞伎作者である以上、その作劇法から自由ではありえないが、それでも藤十郎は近松の書いた狂言の仕組みを役者のわがままをいれて改変するなどということはしなかった。近松はその藤十郎のもとで自分の能力を最大限に発揮できた。当時としては稀な協力関係がそこには成立していた。しかし近松は再び浄瑠璃作者へと移行していく。元禄一四年藤十郎は座本の地位を退いたが、やがて病気がちになって芸も衰えが見えはじめる。近松はよき理解者、よき協力者を失うことになるが、折から、竹本義太夫のために書いた《曾根崎心中》(元禄一六年)が大当りを取る。しかもそれは彼自身の新しい作劇法の成功を物語るものでもあった。すでにその年の四月、曾根崎の心中事件は歌舞伎に仕組まれ、上演されていた。殺しや心中といった生臭い世俗の事件は当世的な歌舞伎によりふさわしい題材であったが、歌舞伎作者でもあった近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み、新しい世話悲劇へと発展させた。一方、《曾根崎心中》の興行的な成功によってそれまでの負債を一挙に返すことのできた義太夫は、それを機会に座本の位置を退き、替って竹田出雲が竹本座の経営に当たることになるが、近松はその座付作者となり、竹本座再発足の旗揚げとして上演された《用明天王職人鑑》(宝永二年)を書いた。この年のはじめ近松は京から大坂に移住しているが、座付作者として執筆に専念できるようになった近松は義太夫・出雲と協力して、これより本格的な作者活動を展開しはじめる。世話浄瑠璃に《堀川波鼓》《五十年忌歌念仏》《丹波与作待夜の小室節》《冥途の飛脚》《夕霧阿波鳴渡》《長町女腹切》、時代浄瑠璃に、《用明天王職人鑑》に続いて《雪女五枚羽子板》《傾城反魂香》《百合若大臣野守鏡》《碁盤太平記》《大職冠》《嫗山姥こもちやまんば》など。また義太夫没(正徳四年)後は、後継者政太夫(二世義太夫)のために、世話では、《大経師昔暦》《鑓の権三重帷子》《山崎与次兵衛寿の門松ねびきのかどまつ》《心中天の網島》《女殺油地獄》《心中宵庚申》を、時代では《国性爺合戦》《平家女護島》《津国女夫池》《信州川中島合戦》などを書く。政太夫は情を細かく語り分ける太夫だったが、政太夫時代の近松の作品は、その語りくちを生かしている。
 時代と世話では作劇法も異なる。しかし両者に一貫した作劇法も指摘できるわけで、それは〈義理〉の作劇法であった。「それがしうれいは義理をもっぱらとす。芸のりくぎが義理につまりてあはれなれば、ふしも文句もきつとしたる程いよいよあはれなるもの也」と近松は言う。ここで義理とは、道徳的な意味の義理ではなく、状況と葛藤を、そうなるしかないように積み重ね追い込んでいくという意味での義理だが、近松はこの作劇法によって〈語りもの〉を〈ドラマとしての語りもの演劇〉へと転換させた。語りのことばをドラマのことばに変革したと言ってもよい。そしてそれは〈正根なき木偶にんぎょう〉に〈じょう〉をもたせるような文句を発明するということでもあった。これら近松の芸論に類するものは浄瑠璃評釈書《難波土産》(元文三年刊)によって知られるが、そこには有名な〈虚実皮膜ひにくの論〉なども書きとめられている。
 近松は作者となったが、それは武士の家に出て、賤視されていた芝居者の世界に身を投じることによってであった。しかもその作者は役者や太夫の背後にかくれた存在であった。二重の意味でそれは、まともな職業ではなかった。近松はすでに貞享年間、作者名を表に出しているが、そのため嘲笑されたりもしている。だが近松にとって作者名を出すということは、作者としての相対的な自立性を主張するということであり、同時に社会的に公認されることのないその職業を自覚的に選びとるということであった。辞世文のなかで近松は自分のことを〈世のまがいもの〉と呼んでいるが、それは既存の秩序・既存の価値体系からはみ出すことによって演劇史の転換期を生きぬいたものの、自嘲めかした自負のことばだったと思われる。
坂田藤十郎竹本義太夫竹本座
[廣末 保]


日本大百科全書(ニッポニカ)
近松門左衛門
ちかまつもんざえもん
[1653―1724]

江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)作者。本名杉森信盛(のぶもり)。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移(ふい)山人。承応(じょうおう)2年越前(えちぜん)吉江藩士杉森信義(のぶよし)の二男として福井に生まれたが、父が浪人となったため、近松15、16歳のころ家族とともに京都に移り、公家(くげ)の一条恵観(えかん)家(正親町(おおぎまち)家、阿野(あの)家とも)に仕えた。20歳のとき主人の死にあったのを機に主家を辞した。その後作者になるまでの消息は明らかでないが、一時近江(おうみ)国(滋賀県)の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。その時期に和漢の古典を学び、仏教に関する知識も習得したものと思われる。そして1677年(延宝5)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となったらしい。武士の出の近松が、賤視(せんし)されていた芸能の世界へ身を投じたのは、当時としては思いきった転身であったが、結果的には幸いした。以来72歳で没するまでの四十数年間に、歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話浄瑠璃24編を書き、日本最大の劇詩人とたたえられる輝かしい業績を残した。その作家活動は、だいたい四つの時期に分けられる。

[山本二郎]

第1期

浄瑠璃作者になってから1692年(元禄5)、近松40歳ごろに至るいわば習作時代である。加賀掾のために書いたと推定される『以呂波(いろは)物語』『赤染衛門栄花物語(あかぞめえもんえいがものがたり)』『世継曽我(よつぎそが)』など十数編の古浄瑠璃、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書いた『出世景清(しゅっせかげきよ)』『天智(てんじ)天皇』『蝉丸(せみまる)』などがある。なかでも1685年(貞享2)の『出世景清』は従来の浄瑠璃に新風を吹き込み、浄瑠璃の歴史を新旧に二分するほどの画期的な作で、それ以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と称するようになった。しかし、このころの近松は、経済的には都万太夫(みやこまんだゆう)座の道具直しや、堺(さかい)で講釈師をして生計をたてるような厳しい生活だった。

[山本二郎]

第2期

1693年41歳から1703年51歳ごろまでの、おもに歌舞伎狂言を書いた時代である。近松は貞享(じょうきょう)(1684~88)初年ごろから京都の都万太夫座で歌舞伎作者の修業をしたと伝えられるが、1693年ごろからおもに名優坂田藤十郎(とうじゅうろう)のために歌舞伎狂言を書いた。『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』『夕霧七年忌』『大名なぐさみ曽我』『一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)』『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などを書き下ろし、元禄(げんろく)歌舞伎隆盛の基礎をつくった。それらはだいたい御家騒動の世界を扱い、神仏の霊験譚(れいげんたん)を取り入れてはいるが、中心は廓(くるわ)の場面におけるやつし事、傾城事の世話的な場景を写実的に描いたものであった。こうした、浄瑠璃よりはるかに現代性の濃い歌舞伎での経験は、世話浄瑠璃を創始するうえに大いに役だった。

[山本二郎]

第3期

世話浄瑠璃中心の時代で、最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を執筆した1703年51歳から、義太夫(筑後掾(ちくごのじょう))が没した14年(正徳4)62歳ごろまで。曽根崎の心中は事件直後ほうぼうの歌舞伎で上演されたが、近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み、世話浄瑠璃のジャンルを創始した。この作の興行は大成功で、竹本座はこれまでの負債を一挙に返済することができた。これを機にやがて筑後掾は座本(ざもと)の位置を竹田出雲(いずも)に譲ったが、引き続き太夫として活躍、近松は竹本座の座付作者となって浄瑠璃に専念することになった。そしてこの期には『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『五十年忌歌念仏(うたねぶつ)』『心中重井筒(かさねいづつ)』『心中万年草(まんねんそう)』『丹波(たんば)与作待夜(まつよ)の小室節(こむろぶし)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『夕霧阿波鳴渡(あわのなると)』などの世話浄瑠璃16編と、『用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』『傾城反魂香(はんごんこう)』『碁盤太平記』『嫗山姥(こもちやまんば)』などの時代浄瑠璃がつくられた。世話浄瑠璃を確立したことは、その後の浄瑠璃を複雑多彩なものにすることになったのでその意義は大きい。

[山本二郎]

第4期

晩年の円熟大成した時代で、竹本政太夫(まさたゆう)(2代目義太夫)をもり立てて健筆を振るった。1714年に筑後掾が没して竹本座は危機を迎えたが、翌年座本出雲の意見を取り入れて書いた『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が、3年越し17か月の大当りをとり、座の経営は安泰した。その後近松はいよいよ円熟した筆で、時代浄瑠璃では『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』『平家女護島(にょごのしま)』『信州川中島合戦』など、世話浄瑠璃では『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』『山崎与次兵衛寿(やまざきよじべえねびき)の門松(かどまつ)』『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』『心中天網島(てんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』『心中宵庚申(よいごうしん)』などの名作を残した。そして24年(享保9)正月に上演された『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』を絶筆として、同年11月22日72歳で没した。尼崎(あまがさき)市の広済寺(こうさいじ)に墓があり、また近松記念館が設けられている。なお、大阪市中央区法妙寺(妻の実家の菩提(ぼだい)寺)跡にも墓だけ残っている。

 近松は古浄瑠璃を当世風に改めて浄瑠璃を大成させたが、時代浄瑠璃では本来の夢幻性のなかに浪漫(ろうまん)的な要素と現実的な要素を巧みに調和させ、世話浄瑠璃では義理と人情との相克のうちに生きる庶民の姿を、生き生きとしかも愛情をもって描き、人々の心を動かした。それらの作の多くは不変の人間性を深く追求しているため、現代的生命をもち続けているものが少なくない。またその構想、趣向、文章が後世の戯曲に大きい影響を与えていることも、彼の偉大さを物語るものであろう。ただ『冥途の飛脚』『心中天網島』など上演度の高い作品は、原作のままの上演は初演だけで、その後は後人の入れ事の多い改作物が舞台に上(あが)っていた。これは近松以後の時代には演劇性に富んだはでな作が多くなり、それに対応して改作が行われたものと思われる。第二次世界大戦後は近松再検討の声がおこって原作による上演が増えてきている。なお、穂積以貫(ほづみこれつら)の『難波土産(なにわみやげ)』にみられる「芸は虚(うそ)と実(じつ)との皮膜(ひにく)の間にあり」という近松の芸術観は、彼の演劇に対する態度を明らかにしたことばとして有名である。

[山本二郎]



『傾城反魂香』[百科マルチメディア]
『傾城反魂香』[百科マルチメディア]

近松門左衛門著国立国会図書館所蔵


『心中天網島』[百科マルチメディア]
『心中天網島』[百科マルチメディア]

近松門左衛門著 1720年(享保5)刊国立国会図書館所蔵
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1. 近松門左衛門画像
日本大百科全書
の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。その
2. 近松門左衛門
世界大百科事典
もっとも,恵観没(1672)後の動静はあきらかでなく,近江の近松(ごんしよう)寺に遊学したともいわれ,近松門左衛門の筆名の由来をそこに見る説もある。いずれにせよ
3. ちかまつ‐もんざえもん【近松門左衛門】
日本国語大辞典
江戸前期の浄瑠璃・歌舞伎作者。本名杉森信盛。越前(福井県)吉江藩士杉森信義の子。別号巣林子(そうりんし)など。はじめは宇治加賀掾座、つぎに、竹本義太夫座のために
4. ちかまつもんざえもん【近松門左衛門】
国史大辞典
十一月二十二日没。七十二歳。 [参考文献]信多純一『近松門左衛門集』解説(『新潮日本古典集成』)、森修・鳥越文蔵・長友千代治『近松門左衛門集』解説(『日本古典文
5. 近松門左衞門(ちかまつもんざえもん)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第2巻 307ページ
6. ちかまつ-もんざえもん【近松門左衛門】
日本人名大辞典
1653−1725* 江戸時代前期-中期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎作者。承応(じょうおう)2年生まれ。京都の宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで修業。竹本義太
7. ちかまつもんざえもん【近松門左衛門】
歌舞伎事典
恵観没(寛文一二年)後の動静はあきらかでなく、近江の近松(ごんしょう)寺に遊学したともいわれ、近松門左衛門の筆名の由来をそこにみる説もある。いずれにせよ近松の浄
8. 近松門左衛門[文献目録]
日本人物文献目録
周太郎『近松門左衛門』小山内薫『近松門左衛門 1‐6』草部了円『近松門左衛門』蜃気楼主人『近松門左衛門』水谷不倒『近松門左衛門』若月保治『近松門左衛門 研究手引
9. ちかまつもんざゑもん【近松門左衛門】
全文全訳古語辞典
[人名]江戸前期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者。一六五三年(承応二)~一七二四年(享保九)。若くして京都へ出て作家となり、竹本義太夫と結んで浄瑠璃を、名優坂田藤十郎の
10. 近松門左衛門(年譜)
日本大百科全書
っせかげきよ)』1686(貞享3)  7月『佐々木大鑑』(初めて「作者近松門左衛門」と署名)。このころ、都万太夫座の道具直しや講釈師の副業で生計をたてる1693
11. 近松門左衞門法名 (見出し語:近松門左衞門)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 306ページ
12. 近松門左衛門集
日本古典文学全集
武士の子として生まれた近松門左衛門が歌舞伎作家、浄瑠璃作家として名声を得たのは30歳を過ぎてから。72歳で没するまで歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話
13. 愛想づかし
日本大百科全書
「縁切り」ともいう。多くは、女が、愛する男の出世や金策、または義理のため心にもなく縁を切ろうとするもので、近松門左衛門の『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)
14. 相対死
日本大百科全書
情死、心中に対する江戸幕府の法制上の用語。近松門左衛門らの世話浄瑠璃(じょうるり)などによって、情死、心中の語が美化され、当時の男女がこれを賛美する傾向さえ生じ
15. 間の山節
世界大百科事典
生み出したのであろう。それは,伊勢信仰に関連する芸能の末流としての零落した芸能者の姿であろう。近松門左衛門の《夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)》や《傾城反魂
16. あいのやまぶし【間の山節】
国史大辞典
これが冥途の友となる」。井原西鶴の『好色一代女』六(貞享三年刊)、『日本永代蔵』四(元禄元年刊)および近松門左衛門作『傾城反魂香』(宝永五年)、『夕霧阿波鳴渡』
17. あおい‐の‐うえ[あふひのうへ]【葵上】
日本国語大辞典
る。〔三〕浄瑠璃。宇治加賀掾正本。天和~元祿三年(一六八一~九〇)ごろ刊か。五段。時代物。近松門左衛門作と推定。謡曲「葵の上」による。〔四〕箏曲。山田流の奥許物
18. 赤間関
世界大百科事典
開発し,北前船が北国筋の物資を大坂へ運送するようになると,赤間関は西廻海運の拠点として大きく発展した。近松門左衛門は《博多小女郎浪枕》で,赤間関を〈西国一の大湊
19. あかまがせき【赤間関】山口県:下関市
日本歴史地名大系
細川幽斎の「九州道の記」、松雲大師の「四溟堂集」、西鶴の「好色一代男」、大淀三千風の「日本行脚文集」、近松門左衛門の「博多小女郎浪枕」、橘守国の「画典通考」、長
20. 赤松満祐
世界大百科事典
素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいは
21. あかまつみつすけ【赤松満祐】
日本架空伝承人名事典
素材とする文芸作品も二、三にとどまらないが、なかでもとくに名高いのは一七〇五年(宝永二)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃『雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいは
22. 秋元松代[「近松心中物語」の劇作家、死去]
イミダス 2018
」で芸術祭賞、「かさぶた式部考」で毎日芸術賞、「七人みさき」で読売文学賞を受賞。79年には近松門左衛門のいくつかの心中物をもとにした「近松心中物語」を執筆、蜷川
23. あこうじけん【赤穂事件】画像
国史大辞典
久しきにわたって、この事件は、さまざまな文学・演劇・大衆芸能の上で、多くの作品として取り扱われてきた。特に近松門左衛門の『碁盤太平記』、紀海音の『鬼鹿毛無佐志鐙
24. 赤穂浪士画像
世界大百科事典
動に,庶民は大いに共感しかっさいをおくり,続々と脚本が書き下ろされ上演され続けたのである。近松門左衛門は《太平記》の世界の話ということでこの討入事件をとりあげ,
25. あこうろうし【赤穂浪士】
日本架空伝承人名事典
動に、庶民は大いに共感しかっさいをおくり、続々と脚本が書き下ろされ上演され続けたのである。近松門左衛門は『太平記』の世界の話ということでこの討入事件を脚色し、一
26. 赤穂浪士(日本史)画像
日本大百科全書
そのうえで家臣としての「義」がより重視されたことは、幕藩制という制度または組織を考えるうえで注目に値する。近松門左衛門の『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』、竹田
27. 阿古屋
世界大百科事典
近松門左衛門作《出世景清》,文耕堂・長谷川千四合作《壇浦兜軍記》などに登場する清水坂の遊女で,景清の愛人。幸若・古浄瑠璃《景清》では〈あこ王〉とある。あこ王は景
28. あこや【阿古屋】
日本国語大辞典
うの飾りにさせる枝見れば遠きあこやの松は物かは」〔三〕平景清の寵を受けた京都五条坂の遊女。近松門左衛門作「出世景清」や文耕堂・長谷川千四合作「壇浦兜軍記(だんの
29. あこや【阿古屋】
日本人名大辞典
きよ)」などに登場する女性。京都清水坂の遊女で,源頼朝をねらう平家の残党平景清の子を生む。近松門左衛門作「出世景清」では,正妻への嫉妬(しっと)から景清をうった
30. あこや【阿古屋】
日本架空伝承人名事典
近松門左衛門作『出世景清』、文耕堂・長谷川千四合作『壇浦兜軍記』などに登場する清水坂の遊女で、景清の愛人。幸若・古浄瑠璃『景清』では「あこ王」とある。あこ王は景
31. 朝比奈義秀
世界大百科事典
ったとするほか,《曾我物語》に曾我兄弟のよき理解者として登場し,五郎との力比べのことが見え近松門左衛門の曾我物に受け継がれ,《太平記》などに大力として和泉小次郎
32. あさひなよしひで【朝比奈義秀】
日本架空伝承人名事典
ったとするほか、『曾我物語』に曾我兄弟のよき理解者として登場し、五郎との力比べのことが見え近松門左衛門の曾我物に受け継がれ、『太平記』などに大力として和泉小次郎
33. 浅間嶽
日本大百科全書
述べるくだりがある。この趣向が評判になり、後世多くの舞踊、音曲に扱われた。同巧異曲のものに近松門左衛門が『傾城反魂香(はんごんこう)』で用いた反魂香の趣向があり
34. 浅間物
世界大百科事典
背景とし,終局に東山開帳の場を配した《けいせい浅間嶽》が京都布袋屋座で上演された。作者は中村七三郎(一説には近松門左衛門とも中村伝七とも)で,その七三郎が主役の
35. あさまもの【浅間物】
歌舞伎事典
終局に〈東山開帳の場〉を配した歌舞伎《傾城浅間嶽》が京・早雲座で上演された。作者は中村七三郎(一説には近松門左衛門とも中村伝七とも)で、その七三郎が主役の小笹巴
36. あずまよじべえもの【吾妻与次兵衛物】
歌舞伎事典
主人公とした一連の作品群。浄瑠璃に脚色したのは、享保三(1718)年一月《山崎与次兵衛寿(ねびき)の門松》(近松門左衛門作)に始まり、享保一〇年一月《昔米万石通
37. 安宅
世界大百科事典
苅神事(につぽんだいいちめかりのしんじ)》(1773年2月,大坂)などがある。浄瑠璃には,近松門左衛門作に《凱陣八島(がいじんやしま)》(1685),《文武五人
38. 吾妻与次兵衛
日本大百科全書
との情話がもとで、「あづま請け出せ山崎与次兵衛……」という流行唄(はやりうた)が生まれた。近松門左衛門は、これをヒントに浄瑠璃(じょうるり)『寿(ねびき)の門松
39. あづま・よじべえ【吾妻・与次兵衛】
日本人名大辞典
遊女吾妻と摂津の金持ち与次右衛門がモデル。「あづまうけだせ山崎与次兵衛……」とうたわれた。近松門左衛門の浄瑠璃(じょうるり)「寿(ねびき)の門松」や竹田出雲らの
40. 吾妻与次兵衛物
世界大百科事典
主人公とした一連の作品群。人形浄瑠璃に脚色したのは,18年(享保3)1月《山崎与次兵衛寿(ねびき)の門松》(近松門左衛門作)に始まり,25年1月《昔米万石通(む
41. あと‐れん【後連】
日本国語大辞典
」*春迺屋漫筆〔1891〕〈坪内逍遙〉梓神子・七「巫の顔色見る見るかはりていふやうは我れは近松門左衛門の霊なるが後連(アトレン)雲霞の如く扣(ひか)へたれば」
42. 海人(士)
世界大百科事典
古くは本調子物であったらしいが,のちに三下り歌い物。(1)の〈玉ノ段〉に基づく。舞地の場合は,前半に近松門左衛門《大職冠(たいしよかん)》による部分が付くが,そ
43. 尼崎(市)画像
日本大百科全書
が開山した本興寺の開山堂、三光堂、方丈などは国指定重要文化財。久々地(くぐち)の広済寺には近松門左衛門と夫人佐登(さと)の墓があり、国の史跡に指定され、隣接して
44. あまがさきし【尼崎市】兵庫県
日本歴史地名大系
長遠寺の本堂・多宝塔・庫裏・客殿・鐘楼、富松神社本殿が破損、西武庫の石造十三重塔が倒壊、久々知広済寺の近松門左衛門の墓も転倒した。
45. あみじま【網島】
日本国語大辞典
けられた。大川(淀川)と寝屋川が合流する所で、大阪一の風景といわれ、別宅や料亭が多かった。近松門左衛門の「心中天の網島」で知られる。*滑稽本・東海道中膝栗毛〔1
46. あみじまちょう【網島町】大阪府:大阪市/都島区地図
日本歴史地名大系
大坂三郷北組に属し、淀川と鯰江川に挟まれ、備前島町から東成郡野田村に深く食込んだ町で、東端に近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」で有名な大長寺があった。網島の地
47. あやつりにんぎょうしばい【操人形芝居】
国史大辞典
掾・宇治加賀掾などもみな機巧を盛んに用いた人形芝居であった。宝永以降、竹田出雲の経営による近松門左衛門と竹本義太夫の活躍によって竹本座全盛時代が現出したが、竹本
48. 有王
世界大百科事典
,有王の後日談がさまざまにみられるのも,当時複数の有王伝承が行われていたことの証左となる。近松門左衛門作《平家女護島(によごのしま)》では,有王丸は俊寛の妻あず
49. ありおう【有王】
日本架空伝承人名事典
、有王の後日談がさまざまにみられるのも、当時複数の有王伝承が行われていたことの証左となる。近松門左衛門作『平家女護嶋(にょごのしま)』では、有王丸は俊寛の妻あず
50. あわたぐちけいじょうあと【粟田口刑場跡】京都市:東山区/粟田口村
日本歴史地名大系
町中御引渡し、粟田口にて」として「磔さん茂兵衛、獄門下女たま」とある。これは後に西鶴の「好色五人女」、近松門左衛門の「大経師昔暦」のモデルとなった事件である。処
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近松門左衛門と同じ歌舞伎・狂言カテゴリの記事
歌舞伎(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
歌舞伎という表記は当て字であるが、歌(音楽)、舞(舞踊)、伎(伎芸)をそれぞれ意味し、日本独自の様式的演劇の特質を巧まずして表現しているため、今日では広く用いられている。かつて江戸時代には「歌舞妓」と書かれるのが普通であったが、もっと古くは「かぶき」と仮名で書かれた
下座音楽(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
歌舞伎の演出に、効果・修飾・背景・伴奏音楽として、原則として黒御簾で演奏される歌舞伎囃子の通称。〈黒御簾音楽〉〈陰囃子〉(略して〈黒御簾〉〈陰〉とも)などの別称がある。ただし〈陰囃子〉は、狭義に、出囃子・出語りについて黒御簾の中で演奏される鳴物を意味することが多い
江戸三座(新版 歌舞伎事典・日本大百科全書)
江戸で公許された中村座、市村座、森田座の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが、正徳四(1714)年、江島生島事件によって山村座が廃絶、以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。中村座は堺町、市村座は葺屋町、森田座は木挽町において興行したが
野郎歌舞伎(新版 歌舞伎事典・国史大辞典)
若衆歌舞伎の禁令以後、前髪を剃って、野郎頭となった男たちの歌舞伎、という意味で、承応一(1652)年ごろから、いわゆる元禄歌舞伎時代まで二十数年間をふつうに野郎歌舞伎時代と呼ぶ。若衆歌舞伎の少年の前髪を剃り落とされたので、以後は成人男子の役者
若衆歌舞伎(新版 歌舞伎事典・国史大辞典)
前髪立ちの美少年の魅力を中心とした歌舞伎。慶長八(1603)年四月に出雲のお国が歌舞伎踊を創始したが、その同じ年の九月には、五歳の童男の歌舞伎が宮中に招かれたという記録があるので、少年の歌舞伎はきわめて早くから行われていたことが知れる。
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道外方(歌舞伎事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
役柄の一つ。歌舞伎の道化(どうけ)の役柄およびその役柄を専門に演じる俳優をいう。〈三枚目〉は後世の通称。日本の芸能の伝統的な展開の一方法である〈もどき〉によって、初期の歌舞伎では道外方が重要な役目を果たしていた。西欧のフールと同じ道化、阿呆、泣男
近松門左衛門(歌舞伎事典・日本大百科全書)
浄瑠璃作者。歌舞伎作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉、長じて通称平馬。他に平安堂・巣林子(そうりんし)、不移山人などの号がある。近松は父の杉森信義が越前吉江藩の幼主に仕えて福井に在住していたとき次男として生まれたらしいが、父が浪人したため一五‐一九歳の頃
市川団十郎(歌舞伎事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
歌舞伎俳優。一二世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した三世・六世を除いて代々名優で、江戸歌舞伎界屈指の名跡である。【初世】1660‐1704 祖先は甲州の武士で、永正年中に北条氏康の家臣となり、のち下総国埴生
役者評判記(歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典)
歌舞伎役者に対する芸評の書。広義には歌舞伎若衆の容色を品評する〈野郎評判記〉をも含めることもあるが、普通はこれと区別して、立役・敵役・若女方などすべての役柄の役者の技芸を批評する書物をいう。〈野郎評判記〉は明暦二(1656)年に始まると伝えられるが
物真似狂言尽(歌舞伎事典・日本国語大辞典)
歌舞伎用語。若衆歌舞伎が禁じられ、承応二(1653)年野郎歌舞伎として再興するに当たり、〈物真似狂言尽〉を演じることを条件の一つとして許可されたという。ただしこの許可条件を証明する同時代記録はなく、後世の資料によっている。当期の用例では単に
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