中世末から近世にかけて行われた語り物芸能。操(あやつり)人形と提携して小屋掛けで興行されることもある。
単に〈説経〉でこの芸能をさすこともある。古くは〈せつきやう〉と仮名書きが多く,説経とも説教とも書かれるが,今日では説経と書くのがふつう。説経はまたこの芸能を行う者を意味することがあり,この意味では〈説経の者〉〈説経説き〉ともいう。門付(かどづけ)をするものを門説経,簓(ささら)を伴奏とするものを簓説経,哀調をおび歌謡風のものを歌(うた)説経,操人形と提携したものを説経操りなどということがあり,本来,別系統の芸能である浄瑠璃の影響を受けたものを説経浄瑠璃という。
僧などが仏教経典を講説することも説経と呼ばれ,古く奈良時代から行われたが,平安末から鎌倉時代には専門の説経師があらわれた。説経節もこの説経の系統をひくものと考えられているが,詳しくは不明。近世に街頭で行われた説経節に簓を伴奏とするものがあったが,これを伴奏とする歌や語りは鎌倉時代より行われていたらしく,《天狗草子》(1296成立)に見える自然居士(じねんこじ)や,《融通念仏縁起絵巻》(清凉寺本,1414成立)に見えるぼろをまとった乞食が簓をすっており,《撰集抄》巻五には簓乞食の説話が見える。これらの簓乞食は,後の能の《自然居士》から考えても,舞い歌う芸能者であったらしい。《諸国遊里好色由来揃》(1692)などに伊勢乞食が簓をすりながら語り歩いたのが門説経であると伝え,ロドリゲスの《日本大文典》(1604-08)に〈七乞食〉の一つとしてSasara xecquiǒ(簓説経)をあげて,〈喜捨を乞うために,感動させる事をうたうものの一種〉と説明しているところからすると,説経節は乞食芸能であったと考えられる。《北野社家日記》慶長4年(1599)1月24日の記事に,説経説きが北野の経王堂の脇で説経を申したい旨を北野社に申し入れたことが見える。《洛中洛外図》(八坂神社本)や《采女歌舞伎草子》(徳川美術館)に筵(むしろ)の上に立ち,長い柄の大傘をかざし,簓をすりながら語っている説経説きの姿が描かれている。《洛中洛外図》(西村家本)や《人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)》(1690)に門付のさまが描かれ,後者では3人の説経説きが編笠と羽織をつけ,1人は簓,1人は胡弓,1人は三味線を伴奏に語っている。このように説経節は本来,大道芸や門付芸であったが,その中から三味線を伴奏とし,人形をとり入れて操り芝居を興行するものがあらわれた。
《色道大鏡》(1678成立)巻八に〈説経の操は,大坂与七郎といふ者よりはじまる〉とあって,大坂では,伊勢出身というこの与七郎(説経与七郎)が寛永(1624-44)ころ,生玉神社境内で操りを興行したと伝え,明暦~寛文(1655-73)ころには説経七太夫も興行を行ったと伝える。この七太夫が江戸の佐渡七太夫の前身であろうとする説がある。京都では日暮林清(ひぐらしりんせい)らの鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが,この一派の日暮八太夫,日暮小太夫が寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝え,正本(しようほん)の刊行などから推して寛文ころが最盛期であったらしく,小太夫は1664年(寛文4)に説経操りを法皇の叡覧に入れている(《葉室頼業記》)。小太夫の名跡は宝暦(1751-64)ころまで続いたようである。江戸は三都の中でも説経節が最も盛んで,正保(1644-48)ころから佐渡七太夫が堺町で興行し,万治(1658-61)ころには天満(てんま)八太夫が禰宜町で興行を行った。この八太夫は1661年に受領して石見掾藤原重信を名のった。七太夫は2代目が天和(1681-84)ころに活躍し,次の代の佐渡七太夫豊孝は正本を盛んに刊行した。元禄(1688-1704)ころには天満重太夫,武蔵権太夫,吾妻新四郎,結城孫三郎らが出たが,享保(1716-36)ころ,2世石見掾藤原守信あたりを最後として,江戸の説経座(劇団)は衰えたらしい。なお,江戸では寛政(1789-1801)ころ,祭文(さいもん)と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり,享和(1801-04)ころには,この系統から薩摩若太夫が出て説経芝居を再興したが,すぐに衰え,その遺流がわずかに伝えられて,明治期に入って若松若太夫が出た。前者の流れを薩摩派といい,後者の流れを若松派という。なお,幕末に名古屋の岡本美根太夫が新内節に説経祭文を加えて新曲をおこしたが,これは説経源氏節,または単に源氏節と称される。
説経節の代表作を〈五説経(ごせつきよう)〉といい,この呼び名はすでに寛文(1661-73)ころに見えるが,何をさしたか不明。後には《苅萱(かるかや)》《山荘太夫(さんしようだゆう)》《愛護若(あいごのわか)》《梅若》《信田妻》(《浄瑠璃通鑑綱目》)とも,《苅萱》《山荘太夫》《小栗判官》《信徳丸》《法蔵比丘》(水谷不倒説)ともいわれる。現存する正本では1631年(寛永8)刊の《せつきやうかるかや》(太夫不明)が最古で,明暦(1655-58)までに刊行された正本に与七郎の《山荘太夫》,佐渡七太夫の《せつきやうしんとく丸》《さんせう太夫》がある。これ以後の正本は古浄瑠璃の影響を受けて,説経浄瑠璃とも呼ばれるような変質を示し始める。本来の説経節の特徴や魅力をうかがわせるのは,明暦以前の正本である。
明暦以前の説経節をかりに古説経と呼ぶなら,それらの作品の冒頭には,〈国を申さば丹後国,金焼(かなやき)地蔵の御本地(ごほんじ)を,あらあら説きたてひろめ申すに〉(《山荘太夫》)といった本地語りがある。この詞章を見ると,七五調またはその変形を単位として語られることがわかり,丹後を信濃に,金焼地蔵を親子地蔵に変化させると《苅萱》の本地語りにも転用できることがわかる。語られる場面に決まってあらわれ,ほぼ七五調でできている一連の語句を決まり文句と呼ぶなら,この本地語りの詞章も決まり文句によってできているといえるが,古説経の詞章を分析してみると,きわめて多くの決まり文句が析出される。例えばほかにも,〈〇〇これをご覧じて〉〈〇〇げにもと思ぼしめし〉〈あらいたはしや〇〇〉といった決まり文句があって,この〇〇の部分に登場人物名を挿入すると,さまざまな作品の詞章となり得る。現在行われている瞽女(ごぜ)歌やイタコの祭文などの語り方と比較すると,古説経の詞章の特徴は口承文芸として語られた結果であったことがわかる。すなわち,語り手は,暗記した詞章を語るのではなくて,多くの決まり文句を蓄えていて,聴衆を前にしてそれらを取捨選択しその場で自由に物語を構成しながら語ったのであり,その演出の一回一回がオリジナルなものであったのである。パリーM.ParryとロードA.B.Lordはユーゴスラビアの叙事詩の研究を通して,無文字の社会では口承文芸はこのような方法で語られることを明らかにし,この方法をオーラル・コンポジションと呼んだ。文字に書きとめられる以前の説経節はこのような口承文芸であったことを,古説経の正本を通してうかがうことができる。明暦以後の正本になると,新たに古浄瑠璃風の序があらわれるなど,文字によって書かれた作品に近づく。
古説経の内容は神仏が人間であったときの苦難の生を語るという本地物の構造を備えている。これを逆にいうと,人間があらゆる苦しみや試練に打ち克って神仏に転生する過程を語ることでもあった。説経節を聴きに集まる人びとは,それが神仏への転生の物語であることを知っており,その枠組みに身を任せながら,個々の場面がどのように人間的な情念に満たされて語られるかに関心を寄せたのであろう。
《色道大鏡》巻八に,当時,説経節は田舎の傾城が語ることがあっても,都ではなくなったとし,《江戸根元集》に延享(1744-48)のころには江戸や田舎の祭礼にまれに見られると述べているが,このころ説経節は都市の中心から姿を消し,その周辺や田舎でほそぼそと行われた。《風俗陀羅尼》の冠付(かむりづけ)〈あらいたはしや浮世のすみの天満節(てんまぶし)〉は,天満八太夫の説経節を句にしたものだが,〈あらいたはしや〉と説経節の決まり文句の一部を用いて,その節が〈哀みて傷(やぶ)る〉(太宰春台《独語(ひとりごと)》)といった哀調をおびた語りであったことを示している。同時にまた古代からの輝かしい伝統をになった口承文芸が文化の周縁に押しやられ,零落した姿で語る哀れな説経説きの姿をもほうふつとさせる。説経節の衰退は,都市を中心とした民衆の文化が,口頭的文化を脱して文字的文化に突入したことを示し,文化史上の大きな変化をも物語っている。今日でも説経節と同材の語りが東北のイタコの祭文や越後の瞽女歌として行われ,近年まで壱岐ではイチジョーと呼ぶ巫女が〈百合若説経〉を語っていた。しかしそれらは口承文芸ではあっても,内容的に衰弱したものといわざるを得ない。古説経は口承文芸史の上でも,高度に花開いた作品群であり,ある意味では口承文芸の最後の光輝であったともいえよう。今日必要なことは口承文芸のひとつの頂点として,それに固有な詩学poeticsを明らかにすることであろう。
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