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説経節

ジャパンナレッジで閲覧できる『説経節』の東洋文庫・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

東洋文庫
説経節 山椒太夫・小栗判官他
せっきょうぶしさんしょうだゆう・おぐりはんがんほか
東洋文庫243
荒木繁・山本吉左右編注
中世末の民衆の間に育った芸能,説経節のなかから,とくに著名な「山椒太夫」「苅萱」「信徳丸」「愛護若」「小栗判官」を選んでその語り口をそのままに伝え,「信田妻」を付載した。
1973年11月刊

説経節 山椒太夫・小栗判官他

【上記の拡大画像】
説経節 山椒太夫・小栗判官他 拡大

表紙
(扉)
山椒太夫
苅萱
信徳丸
愛護若
小栗判官
付 信太妻
解説・解題(荒木繁)
説経節の語りと構造(山本吉左右)
裏表紙


改訂新版 世界大百科事典
説経節
せっきょうぶし

中世末から近世にかけて行われた語り物芸能。操(あやつり)人形と提携して小屋掛けで興行されることもある。

名称

単に〈説経〉でこの芸能をさすこともある。古くは〈せつきやう〉と仮名書きが多く,説経とも説教とも書かれるが,今日では説経と書くのがふつう。説経はまたこの芸能を行う者を意味することがあり,この意味では〈説経の者〉〈説経説き〉ともいう。門付(かどづけ)をするものを門説経,簓(ささら)を伴奏とするものを簓説経,哀調をおび歌謡風のものを歌(うた)説経,操人形と提携したものを説経操りなどということがあり,本来,別系統の芸能である浄瑠璃の影響を受けたものを説経浄瑠璃という。

起源

僧などが仏教経典を講説することも説経と呼ばれ,古く奈良時代から行われたが,平安末から鎌倉時代には専門の説経師があらわれた。説経節もこの説経の系統をひくものと考えられているが,詳しくは不明。近世に街頭で行われた説経節に簓を伴奏とするものがあったが,これを伴奏とする歌や語りは鎌倉時代より行われていたらしく,《天狗草子》(1296成立)に見える自然居士(じねんこじ)や,《融通念仏縁起絵巻》(清凉寺本,1414成立)に見えるぼろをまとった乞食が簓をすっており,《撰集抄》巻五には簓乞食の説話が見える。これらの簓乞食は,後の能の《自然居士》から考えても,舞い歌う芸能者であったらしい。《諸国遊里好色由来揃》(1692)などに伊勢乞食が簓をすりながら語り歩いたのが門説経であると伝え,ロドリゲスの《日本大文典》(1604-08)に〈七乞食〉の一つとしてSasara xecquiǒ(簓説経)をあげて,〈喜捨を乞うために,感動させる事をうたうものの一種〉と説明しているところからすると,説経節は乞食芸能であったと考えられる。《北野社家日記》慶長4年(1599)1月24日の記事に,説経説きが北野の経王堂の脇で説経を申したい旨を北野社に申し入れたことが見える。《洛中洛外図》(八坂神社本)や《采女歌舞伎草子》(徳川美術館)に筵(むしろ)の上に立ち,長い柄の大傘をかざし,簓をすりながら語っている説経説きの姿が描かれている。《洛中洛外図》(西村家本)や《人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)》(1690)に門付のさまが描かれ,後者では3人の説経説きが編笠と羽織をつけ,1人は簓,1人は胡弓,1人は三味線を伴奏に語っている。このように説経節は本来,大道芸や門付芸であったが,その中から三味線を伴奏とし,人形をとり入れて操り芝居を興行するものがあらわれた。

操り興行

《色道大鏡》(1678成立)巻八に〈説経の操は,大坂与七郎といふ者よりはじまる〉とあって,大坂では,伊勢出身というこの与七郎(説経与七郎)が寛永(1624-44)ころ,生玉神社境内で操りを興行したと伝え,明暦~寛文(1655-73)ころには説経七太夫も興行を行ったと伝える。この七太夫が江戸の佐渡七太夫の前身であろうとする説がある。京都では日暮林清(ひぐらしりんせい)らの鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが,この一派の日暮八太夫,日暮小太夫が寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝え,正本(しようほん)の刊行などから推して寛文ころが最盛期であったらしく,小太夫は1664年(寛文4)に説経操りを法皇の叡覧に入れている(《葉室頼業記》)。小太夫の名跡は宝暦(1751-64)ころまで続いたようである。江戸は三都の中でも説経節が最も盛んで,正保(1644-48)ころから佐渡七太夫が堺町で興行し,万治(1658-61)ころには天満(てんま)八太夫が禰宜町で興行を行った。この八太夫は1661年に受領して石見掾藤原重信を名のった。七太夫は2代目が天和(1681-84)ころに活躍し,次の代の佐渡七太夫豊孝は正本を盛んに刊行した。元禄(1688-1704)ころには天満重太夫,武蔵権太夫,吾妻新四郎,結城孫三郎らが出たが,享保(1716-36)ころ,2世石見掾藤原守信あたりを最後として,江戸の説経座(劇団)は衰えたらしい。なお,江戸では寛政(1789-1801)ころ,祭文(さいもん)と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり,享和(1801-04)ころには,この系統から薩摩若太夫が出て説経芝居を再興したが,すぐに衰え,その遺流がわずかに伝えられて,明治期に入って若松若太夫が出た。前者の流れを薩摩派といい,後者の流れを若松派という。なお,幕末に名古屋の岡本美根太夫が新内節に説経祭文を加えて新曲をおこしたが,これは説経源氏節,または単に源氏節と称される。

演目と正本

説経節の代表作を〈五説経(ごせつきよう)〉といい,この呼び名はすでに寛文(1661-73)ころに見えるが,何をさしたか不明。後には《苅萱(かるかや)》《山荘太夫(さんしようだゆう)》《愛護若(あいごのわか)》《梅若》《信田妻》(《浄瑠璃通鑑綱目》)とも,《苅萱》《山荘太夫》《小栗判官》《信徳丸》《法蔵比丘》(水谷不倒説)ともいわれる。現存する正本では1631年(寛永8)刊の《せつきやうかるかや》(太夫不明)が最古で,明暦(1655-58)までに刊行された正本に与七郎の《山荘太夫》,佐渡七太夫の《せつきやうしんとく丸》《さんせう太夫》がある。これ以後の正本は古浄瑠璃の影響を受けて,説経浄瑠璃とも呼ばれるような変質を示し始める。本来の説経節の特徴や魅力をうかがわせるのは,明暦以前の正本である。

詞章と特徴

明暦以前の説経節をかりに古説経と呼ぶなら,それらの作品の冒頭には,〈国を申さば丹後国,金焼(かなやき)地蔵の御本地(ごほんじ)を,あらあら説きたてひろめ申すに〉(《山荘太夫》)といった本地語りがある。この詞章を見ると,七五調またはその変形を単位として語られることがわかり,丹後を信濃に,金焼地蔵を親子地蔵に変化させると《苅萱》の本地語りにも転用できることがわかる。語られる場面に決まってあらわれ,ほぼ七五調でできている一連の語句を決まり文句と呼ぶなら,この本地語りの詞章も決まり文句によってできているといえるが,古説経の詞章を分析してみると,きわめて多くの決まり文句が析出される。例えばほかにも,〈〇〇これをご覧じて〉〈〇〇げにもと思ぼしめし〉〈あらいたはしや〇〇〉といった決まり文句があって,この〇〇の部分に登場人物名を挿入すると,さまざまな作品の詞章となり得る。現在行われている瞽女(ごぜ)歌やイタコの祭文などの語り方と比較すると,古説経の詞章の特徴は口承文芸として語られた結果であったことがわかる。すなわち,語り手は,暗記した詞章を語るのではなくて,多くの決まり文句を蓄えていて,聴衆を前にしてそれらを取捨選択しその場で自由に物語を構成しながら語ったのであり,その演出の一回一回がオリジナルなものであったのである。パリーM.ParryとロードA.B.Lordはユーゴスラビアの叙事詩の研究を通して,無文字の社会では口承文芸はこのような方法で語られることを明らかにし,この方法をオーラル・コンポジションと呼んだ。文字に書きとめられる以前の説経節はこのような口承文芸であったことを,古説経の正本を通してうかがうことができる。明暦以後の正本になると,新たに古浄瑠璃風の序があらわれるなど,文字によって書かれた作品に近づく。

内容と聴衆

古説経の内容は神仏が人間であったときの苦難の生を語るという本地物の構造を備えている。これを逆にいうと,人間があらゆる苦しみや試練に打ち克って神仏に転生する過程を語ることでもあった。説経節を聴きに集まる人びとは,それが神仏への転生の物語であることを知っており,その枠組みに身を任せながら,個々の場面がどのように人間的な情念に満たされて語られるかに関心を寄せたのであろう。

文化史的な意味

《色道大鏡》巻八に,当時,説経節は田舎の傾城が語ることがあっても,都ではなくなったとし,《江戸根元集》に延享(1744-48)のころには江戸や田舎の祭礼にまれに見られると述べているが,このころ説経節は都市の中心から姿を消し,その周辺や田舎でほそぼそと行われた。《風俗陀羅尼》の冠付(かむりづけ)〈あらいたはしや浮世のすみの天満節(てんまぶし)〉は,天満八太夫の説経節を句にしたものだが,〈あらいたはしや〉と説経節の決まり文句の一部を用いて,その節が〈哀みて傷(やぶ)る〉(太宰春台《独語(ひとりごと)》)といった哀調をおびた語りであったことを示している。同時にまた古代からの輝かしい伝統をになった口承文芸が文化の周縁に押しやられ,零落した姿で語る哀れな説経説きの姿をもほうふつとさせる。説経節の衰退は,都市を中心とした民衆の文化が,口頭的文化を脱して文字的文化に突入したことを示し,文化史上の大きな変化をも物語っている。今日でも説経節と同材の語りが東北のイタコの祭文や越後の瞽女歌として行われ,近年まで壱岐ではイチジョーと呼ぶ巫女が〈百合若説経〉を語っていた。しかしそれらは口承文芸ではあっても,内容的に衰弱したものといわざるを得ない。古説経は口承文芸史の上でも,高度に花開いた作品群であり,ある意味では口承文芸の最後の光輝であったともいえよう。今日必要なことは口承文芸のひとつの頂点として,それに固有な詩学poeticsを明らかにすることであろう。
[岩崎 武夫+山本 吉左右]

[索引語]
説経 門説経 簓説経 歌(うた)説経 説経操り 簓乞食 大坂与七郎 与七郎 説経七太夫 佐渡七太夫 日暮林清 日暮小太夫 天満(てんま)八太夫 説経祭文 薩摩若太夫 薩摩派 若松派 岡本美根太夫 説教(経)源氏節 源氏節 五説経 本地語り オーラル・コンポジション イチジョー


国史大辞典
説経
せっきょう
説教とも書き、説経節・説経浄瑠璃ともいう。中世末期・近世初期に盛んであった語り物で、語り手を説経説き・説経者、あるいは説経ともいう。その代表作は『苅萱』、『さんせう太夫』、『しんとく丸』、『小栗(おぐり)』(『小栗判官』)をはじめ、『愛護の若』、『松浦(まつら)長者』、『熊野の本地』(『熊野之権現記ごすいでん』)、『目蓮記』、『梵天国』などである。説経らしい説経として、中世の詞章を残しているのは、前の四作品の古い写本および版本であって、段分けがない。特に寛永八年(一六三一)四月刊行の『せつきやうかるかや』は、説経の版本のうち現存最古のもので、寛永末年に刊行された『さんせう太夫』とともに、説経与七郎の正本(しょうほん)であろう。与七郎は大坂ではじめて説経を操りにかけた人で(『色道大鏡』『好色由来揃』)、伊勢の出身らしい。それまでの説経は、京の三十三間堂・北野天満宮、大津の三井寺、江戸の増上寺などの境内、その他人の多く集まる所で演ずる街頭芸人であった。ござ様の物を敷き、長柄の大からかさを肩に寄せてかざし、両手でささらを擦りながら語るので、ささら乞食(こじき)ともいわれ(『ロドリゲス大文典』)、門付けもした。寛永初年ごろ劇場に出るようになってから、先輩の浄瑠璃に倣って、三味線を使うとか、六段に分けて語るとか、操り向きの戦闘の場を作るとか、説経浄瑠璃の名にふさわしく、次第に浄瑠璃化した。与七郎に続いて佐渡七太夫・日暮小太夫・天満八太夫(石見掾(いわみのじょう))らが著名であるが、優れた新作も出ず、次第に衰微する。その当時の人は「其の声も只悲しきのみなれば、婦女これをきゝては、そゞろに涙を流して泣くばかりにて(中略)甚しき淫声にはあらず、言はゞ哀(かなし)みて傷(やぶ)るといふ声なり」(『独語』)と聞いている。登場するのは、領主・公家・長者といった貴族の出身であるが、それは表面にすぎず、実は奴隷・乞食、あるいはそれに類する下層民の物語である。彼らは行動的で、一度決意すると、頑固に貫きとおし、献身をもいとわない。悲劇の要点はそこにあって、他の文芸とは異なる特色を持っている。またその文体に独自のものがあり、たとえば『さんせう太夫』(寛永版)の冒頭は「ただ今語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼(かなやき)地蔵のご本地を、あらあら説きたて広め申すに、これも一たびは人間にておはします、人間にてのご本地を尋ね申すに、国を申さば奥州日の本の将軍、いわきの判官正氏殿にて、諸事の哀れをとどめたり」と、本地物の形式をとっている。説経の人々は近世初期では蝉丸の宮(大津市蝉丸神社)を信仰し、その配下にいた。正徳年間(一七一一―一六)以降三井寺の末寺近松寺が蝉丸の宮を管理し、説経から離れた説経者の多くを支配した。中世の説経については明らかでないが、謡曲『自然居士(じねんこじ)』『東岸居士』などの雑芸に堪能な説経者の系譜につながるであろう。自然居士は永仁四年(一二九六)成立の絵巻『天狗草紙』に、ささらを擦る芸人として登場している。
[参考文献]
角田一郎編『古浄瑠璃続集』(『天理図書館善本叢書』和書之部五〇)、室木弥太郎・阪口弘之編『関蝉丸神社文書』(『金沢大学教養部論集』人文科学篇一七―二〇)、横山重編『説経正本集』一―三、荒木繁・山本吉左右編注『説経節』(『東洋文庫』二四三)、室木弥太郎校注『説経集』(『新潮日本古典集成』)、和辻哲郎『歌舞伎と操り浄瑠璃』(『和辻哲郎全集』一六)、岩崎武夫『さんせう太夫考』(『平凡社選書』二三)、同『続さんせう太夫考』(同五三)、室木弥太郎『(増訂)語り物(舞・説経・古浄瑠璃)の研究』、肥留川嘉子『説経の文学的研究』、永積安明「「幸若と説経」序論」(『文学』三五ノ一〇)
(室木 弥太郎)
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新選漢和辞典Web版
《国》近世音曲(おんぎょく)の一つ。説経浄瑠璃(せっきょうじょうるり)ともいう。
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語物。正しくは説経浄瑠璃(じょうるり)、説経節ともいう。鎌倉末から室町初期のころ仏教界の節付(ふしづけ)説教(節談(ふしだん)説教)から派生した民間芸能。もとも
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10. あいごのわか【愛護若】
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11. あいごのわか【愛護若】
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12. あいそうな‐げ[アイサウな‥]【愛想無気】
日本国語大辞典
*幸若・屋嶋軍〔室町末~近世初〕「此法師においては、いさしらぬざうとあいそうなげにこたうる」*説経節・おぐり判官〔1675〕三「女をやうしとは、思ひよらず。太夫
13. あい‐ろ[あひ‥]【相櫓】
日本国語大辞典
〔名〕船の主たる櫓に対して、もう一方の櫓。*説経節・をくり(御物絵巻)〔17C中〕九「それ、やうしごなんどと申するは、山へゆきては、きをこり、はまへゆきては、た
14. あお‐じ[あをヂ]【青地】
日本国語大辞典
青地(アヲヂ)の錦の直垂(ひたたれ)に、赤威(あかをどし)の肩白の冑(よろひ)の、裾金物打ったるを著て」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕下「は
15. あお‐の・ける[あふ‥]【仰─】
日本国語大辞典
〔14C前〕二二・衣笠合戦事「家忠、甲(かぶと)振り仰(アヲノケ)、弓杖(ゆんづゑ)突き」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕「まつのきゆふねをあ
16. あおはかしゅく【青墓宿】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青墓村
日本歴史地名大系
大江匡房の「傀儡子記」に登場する美濃の傀儡は、おそらく青墓宿を拠点としたものであろう。室町時代に成立した説経節「小栗判官」には、人買いの手を経て青墓宿の「君の長
17. あおり‐うま[あふり‥]【煽馬】
日本国語大辞典
〔名〕気性の荒々しい馬。暴れ馬。*説経節・おぐり判官〔1675〕二「馬やのだし口しとと打てかけ、あをり馬にしらあははませ、とくとくとのり出し給ふ」
18. あかつき‐がた【暁方】
日本国語大辞典
かつきがたになりにければ、法花三昧行ふ堂の、懺法の声、山おろしにつきて聞えくる、いと尊く」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕上「よなよなあふてち
19. あか ぬ= 別(わか)れ[=暇(いとま)]
日本国語大辞典
集〔1205〕恋三・一一九一「待つ宵にふけ行く鐘の声きけばあかぬ別の鳥は物かは〈小侍従〉」*説経節・説経さんせう太夫(佐渡七太夫正本)〔1656〕「女ばうきいて
20. 飽(あ)かぬ別(わか)れ
故事俗信ことわざ大辞典
古今(1205)恋三・一一九一「待つ宵にふけ行く鐘の声きけばあかぬ別の鳥は物かは〈小侍従〉」説経節・説経さんせう太夫(佐渡七太夫正本)(1656)「女ばうきいて
21. あがま・える[あがまへる]【崇】
日本国語大辞典
あがま・ふ〔他ハ下二〕「あがめる(崇)」に同じ。*説経節・説経さんせう太夫(佐渡七太夫正本)〔1656〕下「それかしをみしったか、なかなか都のこくしと
22. 悪事(あくじ)千里(せんり)を走(はし)る
故事俗信ことわざ大辞典
1514頃)「深くかくすと思へども、好事門をいでず、悪事千里をゆけ共、子をば忘れぬ親なるに」説経節・説経刈萱(1631)下「いしとうまるはきこしめし、あくし千り
23. あけ‐すけ
日本国語大辞典
隠しのないこと。遠慮のないこと。あけっぱなしで露骨なさま。ざっくばらん。副詞的にも用いる。*説経節・をくり(御物絵巻)〔17C中〕一〇「ひるは、あはのとりをおい
24. あこが・れる【憧】
日本国語大辞典
「あらけなきつはもの御てにすがり海へいれんとす。龍女はいとどあこかれて〈略〉とかきくどく」*説経節・あいごの若(山本九兵衛板)〔1661〕四「みだひいよいよあこ
25. あさ‐えびす【朝恵(ヱ)比須】
日本国語大辞典
〔名〕(1)朝早く恵比須の社に参詣すること。*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕上「けさあさゑびすをいわゐそこない、かいまけたるだにもはらのたつに
26. あした の 露(つゆ)
日本国語大辞典
」*米沢本沙石集〔1283〕七・九「夕の煙とのぼり朝の露と消て、父母を見ずしてややみなん」*説経節・をくり(御物絵巻)〔17C中〕八「御としつもり、をぐり、あけ
27. 朝(あした)の露(つゆ)
故事俗信ことわざ大辞典
むさぼる身の祈りにか」米沢本沙石集(1283)七・九「夕の煙とのぼり朝の露と消て、父母を見ずしてややみなん」説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)八「御としつも
28. あし の 湯(ゆ)
日本国語大辞典
足を洗うための湯。*説経節・をくり(御物絵巻)〔17C中〕一〇「百人のまこともの、あしのゆちゃうず、はんのようい、つかまつれ」*浮世草子・世間胸算用〔1692〕
29. あしわけ‐ぶね【葦分舟】
日本国語大辞典
王集〔1182~1202頃〕「葉すゑよりこぼるる露の心地してあしわけぶねにほたる飛びかふ」*説経節・まつら長者〔1661〕四「あしわけ舟にさをさして、はらにはし
30. あじゃり【阿闍梨】
日本国語大辞典
ば、阿闍梨にまうでくる人も候はぬを」(3)一般に弟子を教え、その師範となる高徳の僧の尊称。*説経節・あいごの若(山本九兵衛板)〔1661〕四「是よりひゑいざんさ
31. あす の 日(ひ)
日本国語大辞典
四三「安須能比(アスノヒ)の布勢の浦みの藤なみにけだし来鳴かず散らしてむかも〈大伴家持〉」*説経節・説経苅萱〔1631〕下「あけ三十をいちことし、あすのひをまち
32. あずけ‐お・く[あづけ‥]【預置】
日本国語大辞典
バ チカウ ツカワルル ニニンノ コシャウニ azzuqevocare (アヅケヲカレ)」*説経節・説経苅萱〔1631〕上「三月たつて、みもふたつになるならは、
33. あたらし・い【新】
日本国語大辞典
*平家物語〔13C前〕五・福原院宣「手水(てうづ)うがひをし、あたらしき烏帽子、浄衣きて」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕下「あれにつったるか
34. あっ
日本国語大辞典
が一言物を云へばあっと云てあをのけにそったぞ」*説経節・説経苅萱〔1631〕中「くうかい御らんじて、あつかいたりとうしかな、それがしかひてみせんとて
35. あっ‐こ[アク‥]【悪虎】
日本国語大辞典
*謡曲・放下僧〔1464頃〕「母を悪虎にとられ、其の敵をとらんとて、百日虎伏す野べに出でて狙ふ」*説経節・越前国永平寺開山記〔1689〕四「いつく共なく、あっこ
36. あつ・い【厚・篤】
日本国語大辞典
ひとりしづかに立ち去りしが」(ハ)物事・行為に対して、熱心である。本気である。誠心誠意とりくんでいる。*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕中「此し
37. あつま・る【集・聚】
日本国語大辞典
まれば」*徒然草〔1331頃〕七四「蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕下「朱雀七村のわらん
38. あと【後】
日本国語大辞典
彦七事「跡にさがりたる者共、大刀(たち)長刀(なぎなた)の鞘(さや)を放(はっ)し走寄て」*説経節・説経さんせう太夫(佐渡七太夫正本)〔1656〕中「あらいたは
39. あと を 慕(した)う
日本国語大辞典
(アトヲ シタウ)〈訳〉ある人に随行してゆく。比喩として、人に追随する。または人の真似をする」*説経節・説経苅萱〔1631〕中「くうかいはあとをしたいてをまいり
40. あど‐な・い
日本国語大辞典
(アドナイ) ヒト〈訳〉あることを、不注意にも容易に信じたり大きな声で言ったりする、単純な人」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕下「さてもあどな
41. あな【穴・孔】
日本国語大辞典
語集〔1120頃か〕一一・一「此、幸也。我が死なむ日は穴を同くして共に可埋(うづむべ)し」*説経節・説経さんせう太夫(佐渡七太夫正本)〔1656〕下「こくぶんじ
42. あびらうんけん【阿毘羅吽剣・阿味羅〓欠】
日本国語大辞典
筑波集〔1532頃〕春「手をにぎりてもあひらうんけん なまゆてのわらひはかめとこひめきて」*説経節・説経苅萱〔1631〕中「いてかいてみせんとて、とふくもに、あ
43. あ‐ぶみ【鐙】画像
日本国語大辞典
脚具也」*日葡辞書〔1603~04〕「Abumiuo (アブミヲ) カクル」*説経節・をくり(御物絵巻)〔17C中〕六「くら、あふみと、おこいある」(2)「むさ
44. あま‐おぶね[‥をぶね]【海人小舟】
日本国語大辞典
はららに浮きて〈大伴家持〉」*無名抄〔1211頃〕「夕なぎに由良のと渡るあまをふね霞の内に漕ぎぞ入りぬる」*説経節・まつら長者〔1661〕四「はまなのはしの入し
45. あまっ‐さえ[‥さへ]【剰─】
日本国語大辞典
*土井本周易抄〔1477〕一「剰(アマッ)さへ負る耳(のみ)ならず、尸(し)をのせてかへらうぞ」*説経節・あいごの若(山本九兵衛板)〔1661〕「君の御きしょく
46. あま‐びと【海人】
日本国語大辞典
風ぬるく霞渡れり」*栄花物語〔1028~92頃〕岩蔭「釣に年経るあま人も船流したる年月も」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕上「けふのしほをはゑ
47. あまり【余】
日本国語大辞典
(アマリナ)、または、Amarino (アマリノ)〈略〉Amarino (アマリノ) コトニ」*説経節・説経苅萱〔1631〕下「あまりになげくものならば、あのい
48. 阿弥陀胸割
世界大百科事典
説経節の曲名。《三壺聞書(さんとうききがき)》の慶長18年(1613)の条に上(浄)瑠璃として上演された記録があるが,古浄瑠璃の正本に慶安4年(1651)板《む
49. あら‐おのこ[‥をのこ]【荒男子】
日本国語大辞典
*浄瑠璃・酒顛童子付頼光山入〔1678〕「したながけれ共我々迄。あらおのこのりきしやといわれしもの共が」*説経節・天智天皇〔1692〕二「くっきゃうの、あらおの
50. あらけ‐な・い【荒気─】
日本国語大辞典
622〕一・三「それを今は武具をしたためて、あらけなき姿にてさわらば、ひやせひやせと云ぞ」*説経節・あいごの若(山本九兵衛板)〔1661〕三「こはもったいなき仰
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じょう‐るり[ジャウ‥]【浄瑠璃】(日本国語大辞典)
(1)仏語。清浄、透明な瑠璃。また 清浄なもののたとえ。(2)平曲・謡曲などを源流とする音曲語り物の一つ。室町時代の末に、広く民衆に迎えられた琵琶や扇拍子を用いた新音曲の中、牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を内容とする「浄瑠璃物語(十二段草子)」が流行したところから
古浄瑠璃(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
竹本義太夫と近松門左衛門の提携による新しい浄瑠璃に対して、それ以前の浄瑠璃をいう。従来、貞享二年(一六八五)竹本座二の替り興行の『出世景清』(近松作)を新浄瑠璃のはじめとする説(『外題年鑑』など)が多く行われた。浄瑠璃史の上ではそのころから完成期に入り
竹本義太夫(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
義太夫節の開祖で、竹本座の創設者。大坂・天王寺村の農家に生まれ、幼名を五郎兵衛という。早くから井上播磨掾の浄瑠璃にあこがれ、播磨の門弟清水理兵衛が『上東門院』を興行した際、そのワキを勤めた。1677年(延宝5)京都四条河原の宇治座『西行物語』に出演して嘉太夫
太夫(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
ある種の芸能人、神職、遊女などの称号または敬称。大夫とも書く。元来は中国の官制に倣った官位の一種で、五位の称である。古代に、五位の者が儀式およびそれに伴う芸能をつかさどったことから、転じて、神事芸能を奉仕する神職や芸能人の称となった。神事舞太夫、猿楽の太夫
仮名手本忠臣蔵(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典)
第一 鶴岡の饗応(兜改め) 〔一〕御馳走があっても食べてみないとそのうまさが味わえないということは、国が平和に治っている時は立派な武士の忠義も武勇も隠れているのに例えられ、それは星が昼には見えないで夜はきらめいて現れるようなものである。その例をここに
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豊後国風土記(日本古典文学全集)
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豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
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