生物の生活に関する科学のこと.最初E.H.Haeckel(1866,1869)により,動物に関して「非生物的および生物的環境(独 Umgebung)との間の全ての関係,すなわち生物の家計(独 Haushalt)に関する科学,いいかえればC.Darwinが生存をめぐる闘争における諸種の条件と呼んだ複雑な相互関係の全てについて研究する学」として定義された.五島清太郎(1894)はこれを生計学と訳したが,植物についてBiologie(自然誌)を訳した三好学(1895)の生態学なる語が定着している.その後,「生物個体全体(器官などではなく)についての一般生理学」(K.Semper,1881),「群集に関する科学」(F.E.Clements,1922),「科学的な自然誌,すなわち生物に関する経済学と社会学」(C.S.Elton,1927),「生態系ないし自然の構造に関する科学」(E.P.Odum,1953,1962)などと定義されたこともある.生態学は通常,概念的に個生態学と群生態学に分けられるが,関心の方向あるいは方法に応じて,個体群生態学・生産生態学・社会生物学・行動生態学・進化生態学・群集生態学・植物社会学・生態系生態学・システム生態学・数理生態学などの分野に細分され,また地質時代の生態学として古生態学という分野もある.なお,対象とする生物によって,植物生態学・動物生態学・微生物生態学などに,対象とする場所によって都市生態学・極地生態学など,あるいは森林生態学・草原生態学のように分けることもある.
エコロジーともいう。生物学の一分野であるが,どのような範囲を指すかは研究者によって異なり,定義は一定しない。このことばを最もすなおに受け取れば,生物の生態を対象とする分野ということになるが,この生態ということばそのものがかなり多義的であるうえに,一方では生態に含めるのがふつうな内容(例えば行動や習性)を生態学に含めない場合がしばしばあるのに対し,一方では生態にふつうは含めないような内容(例えば生態系の物質循環)がかなりの研究者によって生態学に含められているからである。
そもそも生態ということばはそれ自体が生態学ということばと同時に造られたもののように思われる。生態学ということばは1895年に東京大学理科大学教授三好学(1861-1939)によって造られた。その年ドイツ留学から帰って教授に任じられたばかりの三好は,当時のヨーロッパの植物学を紹介する小冊子を著し,その中で植物学には植物生理学,植物形態学,植物分類学,植物生態学の4区分があるとし,Pflanzenbiologieの訳語として植物生態学なることばを造ったと記した。ここでの原語がBiologieであることは興味深い。当時Biologieの内容がどう考えられていたかは,1893年に理科大学動物学科大学院学生だった五島清太郎(1867-1935。後に東京帝国大学教授)が著した動物学の教科書に,Biologieは〈動物の習性および動物と外界または他の生物との関係を論ずる学〉とあるところから理解できよう。彼はBiologieを生計学と訳していたが,この訳語はその後使われていない(もちろん三好も五島もBiologieが別に生物学という意味で使われていたことはよく知っていた)。
当時ドイツではこの意味のBiologieとほぼ同じ意味に使われていたことばがもう一つあった。それはE.H.ヘッケルが1866年に造ったÖkologieであった。彼はC.ダーウィンの影響の下に動物学の体系化を企てたが,その中において,従来の生理学や形態学その他の分野のほかに,〈動物の無機環境に対する関係および他の生物に対する関係,とくに同所に住む動物や植物に対する友好的または敵対的な関係〉を研究する分野を認める必要があることを述べ,その分野にÖkologieと命名した。このことばを英語化したものがecologyである。このヘッケルの定義には,五島のBiologie(狭義の)の定義の最初にある〈動物の習性〉が欠けており,雌雄・親子の関係はÖkologieには含まれないという意味をもっていたようである。なおこのうえに,そのころ,Biologieとひじょうに近い意味をもち,それよりもっと〈習性〉に近い意味のことばとして,1859年にフランスのI.ジョフロア・サン・ティレール(1805-61)が用いたéthologieがあった。
かくして,19世紀末から20世紀初頭にかけて,新しい生物の分野を指す三つのことばがあったわけであるが,それらは互いに混同されていた。そして,それをもとにして作られた邦訳語にも混乱があったのは当然であった。現在ではbiologyは生物学で,ethologyは動物行動学という用法が,英語でも日本語でもほぼ定着したかに見え,したがってecologyは生態学ということになってきた。ただし,今日でもecologyとbiologyは(フランスではéthologieも)生態の意味に用いられることがよくある。
ところで,このようなことばが使われるようになった背景には,19世紀までの生物学の主流であった形態学,生理学,博物学(分類学)におさまりきれない研究領域が台頭してきたという事実があった。ヘッケルは,このような分野を生態学と名付けたのである。だから,Ökologieはいわば〈雑領域〉であって,ヘッケルのその定義には苦しまぎれのへ理屈という面がある。ヘッケルの視野にあったのは,生理現象が無機環境によってどう影響されるかという研究(彼はこれが生理学に入るとは考えなかった)と,C.ダーウィンが《種の起原》のとくに第3章で生存闘争を論じたときにまとめた博物学的研究の二つがおもな研究対象であり,彼はこの二つを〈関係〉ということばでうまくつなげて定義したのであった。
19世紀後半から20世紀前半にかけてこの〈雑領域〉は大きく発展し,その間に,この領域に含められていた動物行動学や動物社会学が別の系譜を経て,ある意味では独立した。また,ヘッケルの視野になかった新しい研究分野も次々に生まれた。そのうち,19世紀後半の最も大きな発展は群集(生物群集)概念の形成であったが,それは二つのルーツをもっていた。一つは同一地域に住んでいる多種の動物の間の,また動物と植物の間の相互関係の研究であって,その背景には自然界の調和という古くからの観念があり,C.ダーウィンが〈自然の理法〉とか〈生命の網目〉とかいうことばで表現していた博物学の知見があった。もう一つは植物の示す景観が地域によって異なることの認識から始まった植物群落についての,19世紀末に急速に発展した研究であった。群集とは何かという点については今でも論議がたえないが,多種の動植物が複雑な関係をもちつつ同一地域に住んでいることと,それが地域によって異なることとは,そのころからはっきりと認識されるようになってきた。この認識は生物についてそれまでは漠然としか考えられていなかったまったく新しい見方をもたらした。それまでは個々の種またはその代表としての個体しか見ていなかったといえるからである。植物群落については,その後まもなく,群落の自律的な時間的変化が注目され,この現象は遷移と呼ばれて新しい研究対象となった。そして群落を個体に対比して,群落の構造,群落の機能,群落の分類が研究されるべきであるとされ,群集生態学が提唱された。やがて,このような分野をヘッケルの定義した生態学と同じと見ることについて異論が出はじめ,生態学を〈生物集団を対象とする科学〉として定義し直した研究者もあったが,広く受け入れられるに至らなかった。
20世紀前半は比較的沈滞した時代であったが,その中で20世紀後半の隆盛を準備する概念が徐々に形成されていった。群集についてはもっぱら植物群落の分類と遷移の研究が行われていたが,C.S.エルトンは動物群集内の相互関係を食物関係を中心に分析し,食物連鎖,食物網,基幹産業動物,生態的地位,個体数ピラミッドといった概念を用いて,群集の構造と機能とでもいえるものをみごとに具体化してみせた(1927)。その影響は大きかったが,直接の効果はただちには生じなかった。エルトンの分析には,二つの側面があった。(1)群集を構成する要素は種であって個体ではないことを明らかにして,種個体群の追求に目を向けさせたこと,(2)種を類型化することによって大小の生活型グループとして把握し,群集の理解を容易にしたことである。この2側面はそれぞれの後継ぎを思いがけないところに見いだした。
湖沼学(のちに陸水学となる)はすでに19世紀に成立していたが,そこでは湖沼中の物質循環の問題と湖沼生物の生態の追求が並行して進められていた。その中から有機化合物や無機塩類の循環における生物の役割が注目され,湖沼生物を生産者,消費者,分解者(還元者)に類型化することが20世紀初めころから行われた。これをエルトンの(2)の側面と結びつけ,物質とエネルギーの流れを群集の機能と見る立場が1940年代に入って成立する。湖沼という閉鎖的な環境では,そこの生物群集を一つのまとまりをもった系と見ることは容易であり,水中の物質との連関も初めから意識されていて,そこには遷移についての論議から生まれていた生態系という概念をより具体的に示すものとして受け入れる素地が十分にできていた。そして1950年代に入ってから生態系はおおいにもてはやされることになる。そして陸上群集へも逆輸入され,群集は物質系としての生態系の生物部分であるとする見方へと発展するが,これは地球上の物質循環を主題とする地球化学にむしろ近いものである。なお,この湖沼学などから,有機物生産を指標として,生物の生態を明らかにしようとする生産生態学も1950年ころから生じたが,これは生態系の研究とはまったく別のアプローチである。
エルトンの(1)の側面は,これも19世紀からすでに存在していた人口学,害虫学,水産学での個体数の研究に引き継がれることになったが,その発展は1920年代に始まり,群集の研究とはまったく別個に進んだ。そこでは,害虫の抑圧または有用魚の増殖という課題からして,初めから個々の種の個体数が対象であった。その発展のきっかけはA.J.ロトカ(1925)とV.ボルテラ(1926)の数理モデルの提出とG.F.ガウゼ(1934)の実験的研究で,そのころからこれは個体群生態学と呼ばれるようになった。動物の個体数は生まれれば増え死ねば減る。それが変化せずに維持されたり,大きく増減したりするのはどうしてだろう。この問題は,種の地理分布の問題とともに,最初は動物体と無機環境との関係で主として追究され,次いで食物と敵との関係で考察された。それは,この限りでは,動物と環境および他の生物との関係の研究というヘッケルの定義に合致するものであって,おそらく,それ故に生態学の名で呼ばれるようになったのであろう。しかし,個体数が対象であれば,気温が上がりすぎると死ぬとか,寒くなると繁殖しないとかではなく,死亡率,出生率が問題であり,また餌動物の個体数や捕食動物の個体数との関係が問題である。したがってここでは,ヘッケルの定義の〈動物〉を個体と個体群(または種)の二重の意味にとるか,定義を書き換えるかする必要がある。この個体群生態学はその後,捕食者と被捕食者の関係(捕食関係)と生活資源をめぐっての競合関係とを中心として1940年前後から急速に発展するが,この二つの関係も個体間の関係ではなくて,個体群間(種間)の関係である。そしてそれは,個体数の科学ではなくて,個体数を指標とした種の維持と種間の相互関係の科学とでもいえる性格を強くもつようになってきた。この種間の相互関係を生態的地位の概念を中心として考察していく研究が1960年ころから生まれてきたが,それはエルトンの群集研究に連なるものでもあって,したがって,そこには群集の科学とでもいえる性格もあることになる(こうなってくると,ヘッケルの定義はますます適用しにくくなる)。
ところで,個体数の増加は出生の問題であり種内の問題であるし,捕食による死亡の問題は種間の問題であるが,その下には繁殖習性や繁殖行動,食性,摂食行動,対敵行動などの習性や行動の問題がある。それらは種によってそれぞれに異なっている。だからこそ,群集の中に複雑な種間の相互関係があるのだと一方ではいえるが,一方ではそれぞれの種はなぜそれぞれに異なっているのだろうということも問題である。この問題も1960年ころから主として個体群生態学の延長上に追求されるようになり,進化生態学とか行動生態学とか呼ばれてきた。このアプローチを社会行動にまでさらに延長したのが社会生物学であるといえよう。これはもう生態学ではなくて,生態学と行動学と進化学の境界に生まれた新しい科学だというべきかもしれない。それとも,一時は生態の研究でなくなった生態学が,ここで本来の生態の学に戻ったというべきなのかもしれない。またこれは,分類学とともに種の科学と呼ばれるべきなのかもしれない。なぜなら,生態学の中心は,生物個体が必ずなんらかの種に属するものであり,種は必ず地域的な生物群集の中にあるという認識を獲得してきたことにあるし,そのうえに生物のあり方を考察することにあるからである。
1970年代からエコロジーということばはもう一つ違った意味にも使われ始めた。それはフランスを中心に起こったエコロジー運動という社会運動または政治運動に関してである。そこでの理念の基礎に生態学,ことに生態系の概念がかかわっていることは確かだが,学問としての生態学とは別のものである。
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