君主に代わって万機を執り行う者,または執り行うことをいう。君主が未成年の間,あるいは君主に事故があった場合などに置かれる。
摂政はその出自より大別して,皇族摂政と人臣摂政に分けられる。《日本書紀》に仲哀天皇没後神功皇后が摂政になったとあるのを摂政の初例とするが,これは摂政というより称制というのにふさわしく,また伝説的要素も多く,信をおきがたい。古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。これに対し人臣摂政は,866年(貞観8)清和天皇の外祖父藤原良房が補任されたのに始まる。ついで陽成天皇が9歳で践祚すると良房の嗣子基経が摂政に補任され,天皇在位中その任にあった。その後,宇多天皇が践祚すると,基経が関白に補任され,ここに摂政・関白の制が定まった。しかし基経が没するや宇多天皇や醍醐天皇は摂政・関白を置かなかったが,朱雀天皇が930年(延長8)8歳で践祚すると直ちに藤原忠平を摂政とし,ついで天皇の元服後の941年(天慶4)に関白に補任されるに及び,天皇幼少の間は摂政を,成人の後は関白を置くのが例となった。以後,明治維新に当たって摂政・関白等が廃止されるまで,良房以来1000年にわたり延べ60人,実人員46名の人臣摂政を数えた。
摂政の補任は,古くは皇太子であるから,皇太子であるのを摂政の資格としたごとくであるが,人臣摂政の場合は(1)天皇の外戚,(2)藤原氏北家一流,(3)大臣またはその経験者であるのを資格とした。しかし平安時代末の鳥羽天皇のとき,藤原忠実が天皇と外戚関係なく摂政になって以来,(1)は必ずしも摂政の資格ではなくなり,(2)(3)が全時代を通じての摂政の資格である。なお摂政は当初は必ず大臣の兼摂する職であったが,986年(寛和2)6月摂政となった藤原兼家が翌7月右大臣を辞任して摂政専任の例を開いて以来,摂政は正官のごとくにみなされ,摂政はその在任中に大臣を辞任する例も少なくない。かくして以後,前大臣も摂政に補任されることになった。摂政の補任は,譲位践祚においては先帝の譲位の宣命において,先帝の没による践祚の場合は太上天皇の詔旨を載せる宣命で,その他在位中の場合は詔書をもって補任された。明治以降における摂政の補任も詔書が公布された。また摂政の解任は,天皇の没・譲位および摂政が没した場合のほか,天皇の成長やさらに政治的原因によった場合もある。
摂政は天皇に代わって万機を摂行するが,詔書等に加える宸筆の代書,官奏を見,奏下一切の文書の内覧,摂政の直廬(ちよくろ)において叙位・除目(じもく)を行うほか,天皇の元服に当たっては加冠を行うなどの職掌がある。また摂政は,一座宣旨(いちざのせんじ)を賜って大臣の上に列するほか,身辺の護衛や儀仗のために随身兵仗を賜り,牛車で宮中に出入りを許されるほか,藤原氏長者の宣旨を下されているが,これらの待遇は平安時代の中期から後期に至って定制となった。
→摂関政治
1889年に公布された大日本帝国憲法は摂政の制度を定め(17条),旧皇室典範は天皇が未成年の場合と,病気など久しきにわたる故障によって親政が不可能な場合に摂政を置くものとしていた。1921年天皇の病に際し,皇太子裕仁親王が摂政に補任されたのがその実際例である。
日本国憲法(1946公布)においても,この,天皇の法定代理機関たる摂政の制度は定められている(5条)。どんな場合に摂政が設けられるかは皇室典範に任されているが,現在は,天皇が未成年(18歳未満)のときと,精神もしくは身体の重患または重大な事故のために国事に関する行為をみずからすることができないと皇室会議が認めたときに設置される。海外旅行のときや摂政を置くほどではない一時的な故障の場合は,大日本帝国憲法の下では定めがなかったが,第2次大戦後の日本国憲法の下では〈国事行為の臨時代行に関する法律〉(1964公布)があり,委任による臨時代行が行われている。摂政になる資格,順序,更迭についても皇室典範に定めがあるが,女性を含む成年皇族が一定の順序で就任する。天皇が成年に達したとき,または故障がなくなったときには摂政は終了する。摂政は天皇の名で国事行為を行い,当然に国政権能はもたない。また通常,天皇とは異なり日本国および日本国民統合の象徴とは考えられていない。摂政には,その在任中刑事訴追されない特典がある。
君主に代わって政治を行った最初といえば,周の成王が幼くして父武王の死にあい,天子の位についたが,叔父の周公(旦)がこれをたすけて政を摂(と)ったという故事であろう。もっとも《史記》五帝本紀は,尭が舜を挙げ,舜に政を摂らしめたということを記すが,尭舜伝説より周公摂政の方がはるかに儒教伝説として重要であり,孔子の尊崇した聖人周公のことであるから直接関係が深い。漢の昭帝が幼かったので霍光(かくこう)が武帝の遺詔により政を摂ったのが外戚摂政の実例であろう。また漢の高祖の死後恵帝の時代に呂太后が政治の実権を握り,太后称制といって,皇帝の母親が後見としていわゆる垂簾の政を行った(皇太后)。また唐の玄宗は即位の前年から睿宗の皇太子として太子監国となり,六品以下の除官と徒罪以下の判決を行ったが,《唐六典》の春宮の官制の中に皇太子が国事を監した場合が予想された記述があり,これも摂政の一形態といえる。
フランスでは摂政の制度を明記した法律はなく,随時,母后・王妃・叔父・姉・近縁者などが摂政になっている。バロア朝ではシャルル8世の未成年期に姉アンヌ・ド・ボージューが摂政を務めた(1483-84)。ブルボン朝になってからは,アンリ4世が出征に際し王妃を摂政に任じたことがあり,ルイ13世,ルイ14世,ルイ15世はいずれも摂政時代を経験している。すなわち,ルイ13世幼時の母后マリー・ド・メディシス(1610-14),ルイ14世幼年期の母后アンヌ・ドートリシュ(1643-51),ルイ15世治世初期のオルレアン公フィリップ3世(ルイ14世の甥。1715-23)がそれである。ただしフランス史で〈摂政時代Régence〉といえばルイ15世初期の時代を指し,〈摂政Régent〉とはフィリップ・ドルレアンPhilippe d'Orléans(1674-1723)のことである。この時代は,長期にわたったルイ14世の治世に対する反動期で自由奔放な気風にあふれ,社会風俗が乱れたことで知られる。政治外交面では枢機卿にもなった宰相デュボアが実権を握り,イギリス,オランダと同盟してスペインに対抗する政策をとった。経済面ではスコットランドの実業家ジョン・ローが財務長官になり植民地経営,銀行設立を推進したが,結局失敗して財政破綻をきたした。美術の面でも独特な装飾様式を生み出し,新思想も芽生えたので,フランス革命の淵源・萌芽の時代と見られることもある。
イギリスでもノルマン朝のころから王の不在中に大司法官が摂政を務めた例は多く,近世ではもっぱら議会の法令によって決定された。しかしイギリス史で〈摂政時代Regency〉というと,ジョージ3世が脳病を患い皇太子(のちのジョージ4世)が摂政となった時期(1811-20)を指す。ナポレオン戦争の末期で,ラッダイト運動,ピータールーの虐殺事件などが起こった時代である。
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