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  11. 徳川斉昭

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国史大辞典・世界大百科事典

国史大辞典
徳川斉昭
とくがわなりあき
一八〇〇 - 六〇
江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子(登美宮)。寛政十二年(一八〇〇)三月十一日、江戸に生まれる。兄の斉脩に子がないために、その嗣子に立てられたが、それは、幕府第十一代将軍徳川家斉の子恒之丞(清水家へ養子、のち斉彊(なりかつ))を迎えようとする藩の重臣らに対しての藤田東湖や会沢正志斎ら下級藩士の激しい擁立運動の結果であった。斉脩夫人峯姫(美子)が家斉の女であることから、その弟を藩主に迎えて将軍家との縁を深め、藩財政の危機を救おうとした保守門閥派を抑えた斉昭擁立派は、斉昭の指導による水戸藩の「天保改革」の推進派になるが、この対立は三十~四十年後の元治・慶応期から、明治初年にまで尾を引くことになる。文政十二年(一八二九)十月、襲封直後の斉昭は、藩政改革の基本方針を示すが、門閥派を排除し、領内の民政を重視する立場から郡宰(郡奉行)の編成替えを行うなど、まず下士層の抜擢・登用が目立った。国元へ帰って改革にあたりたいとの意志で、天保四年(一八三三)三月から約一年間水戸に帰国し、領内を巡視、折から天保初年の飢饉の時期に、農村と城下に「育子金」の制を行なって戸口増加をはかり、貯穀奨励、士民への倹約令強化などをすすめた。幡崎鼎(はたざきかなえ)などの蘭学者も登用し、そこからの知識によって沿岸警備体制を強化し、大船建造の必要を説くなど海防策の推進にもみるべきものがあった。江戸に戻ってからも引き続いて藤田東湖・戸田忠敞らを重用し、領内の民政安定、文武奨励、神儒一致思想の鼓吹などを推進する一方、幕府に対しても、酒造制限など各種の飢饉対策、蝦夷地開拓、山陵修補、海防強化などの建言をくり返した。同八年の大塩平八郎の乱、米船モリソン号の浦賀来航をめぐる問題など、国内外の危機的状況を重く見、幕政改革を求めた長文の上書「戊戌封事(ぼじゅつふうじ)」を九年八月にまとめ、翌年将軍徳川家慶に提出したことも注目される。天保期後半の改革の中心は、九年から計画を始め、十年制定の「検地条目」によって、十三年十一月に及んだ水戸藩の天保検地であった。寛永検地以来の大事業で、一間=六尺五寸の竿によったため、全領的に石高減少を見たが、田畑の位付けを細かくして、租税の合理化をはかった。その間十一年正月から再び水戸に帰って長期滞在し、検地施行をじきじきに指導した。その他、毎年一回「追鳥狩」と称する大規模な軍事訓練を実施、幕府の登用した長崎の兵学者高島秋帆の洋式銃陣を藩士に学ばせ、造船の計画を立て、領内各地に郷校を建設して豪農・神官などを教育し、藩校弘道館の開校を準備、他方藩士の家禄の半知借上げを行うなど、厳しい財政改革も推進した。西洋の兵術・武器、および医術の導入には積極的であったが、キリシタンや交易は排斥した。仏教をも排除して、神と儒の二本の柱による思想統一を志す、いわゆる後期水戸学の攘夷=反西欧主義思想は、天保九年三月に発表された『弘道館記』に集約されており、同十二年弘道館の開館とともに、それが石碑に刻まれて、館庭に建てられた。これら一連の「天保改革」は、天保十二年五月から開始された幕府老中水野忠邦による幕政の天保の改革にも大きな影響を与えたが、藩内では、執政藤田貞正らを筆頭とする門閥保守派が根強く反対するなど、対立する動きが絶えなかった。特に、同十三年暮れに行なった、鋳砲の材を得るための寺院梵鐘の強制的供出、その後続いた神仏分離などは、領内寺院の反発と、その本寺にあたる江戸などの大寺院の非難を招いた。十四年四月の将軍家慶の日光社参に随行するため一時江戸に上り、再び水戸に戻っていた斉昭は、弘化元年(一八四四)五月、幕命で江戸に呼び戻され、五月六日退隠を命ぜられ、謹慎処分を受けて、駒込の別邸に幽閉された。家督は十三歳の長子慶篤が継ぎ、支藩の高松藩主松平頼胤ら一族の三連枝藩主が後見役となった。斉昭処分の理由は、寺院に加えた種々の圧迫策、幕府の十分な了解なく進めた軍備改革や、本来定府制である藩主の水戸長期滞在等々であるとされているが、極端な排仏、寺院破却などへの広い反発が最大の因と考えられよう。しかし、これを「甲辰の国難」として、領内各層の士民らは強く反発、藩内の動揺は大きく、江戸へ出て雪冤を訴えようとする集団の出府が相ついだ。斉昭の謹慎はその年十一月に解かれるが、かねてからの藩内の対立は、依然として厳しく、五年後に再び藩政関与が許されたものの、藩主の地位を退いている斉昭は、なお、結城寅寿ら門閥派を抑えるのに腐心しなければならなかった。他方老中阿部正弘に対しては、くり返し海防の強化と攘夷を説く意見書を出し、天下に影響を与えた。嘉永六年(一八五三)六月米国使節ペリー来航後、海防問題の幕政参与に任ぜられ、開国反対派の中心として、「海防愚存」をはじめとする意見書の提出をくり返し、安政二年(一八五五)八月には、政務参与も命ぜられるが、斉昭の主張である、開国要求を穏便に断りながら決定を引き伸ばし、そのうちに武備を強化して攘夷を断行するという「ぶらかし」論は、結果的には採用されず、米国をはじめとする各国との和親条約締結から、通商条約の調印に進んだ。阿部正弘のあとを継いだ開国派の老中首座堀田正睦と対立した斉昭は、同四年七月、海防と政務の参与を辞任した。その間、安政二年十月二日の江戸大地震で、藩政の両腕ともいうべき家老戸田忠敞と側用人藤田東湖を失ったが、那珂湊の反射炉建設、神発流砲術の確立と軍制改革、弘道館の開校、軍船旭日丸の建造、農兵取立てなど、安政の藩政改革に実を挙げた。日米修好通商条約調印にあたっては、かねてからの勅許の必要を強く説いて、堀田老中を窮地に陥れて、あくまでも反対論の先頭に立ち、併せて、十三代将軍家定の継嗣として、一橋家に入っていた斉昭七男慶喜を推す越前福井藩主松平慶永らの諸大名と連携し、幕府主流と決定的に対立した。安政五年四月大老に就任した井伊直弼によって条約の調印が強行され、将軍継嗣が紀伊家の慶福(のちの家茂)に決定されると、一橋派諸大名は一斉に不時登城して直弼を難詰したが、七月五日、斉昭は彼らをそのように指導したとして、尾張藩主徳川慶恕・松平慶永らとともに「急度慎」などの処分を受けた。これに怒った水戸藩士の一部は国元から江戸へ上り、また京都に集って、朝廷・公家に対して幕府批判の運動を働きかけるが、八月八日朝廷が水戸藩に対して、幕府改革の主導権を水戸藩に委ねる勅諚(戊午の密勅)を出したことから国政全体の混乱が深まった。直弼は勅諚の降下をきわめて重大な事態と見て、水戸藩士とそれにつながる反対派の大弾圧を行い、いわゆる安政の大獄が翌六年へと続くが、水戸藩士が中心となって万延元年(一八六〇)三月三日井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)したとき、斉昭はその黒幕かとのうわさが流れたくらいに直弼との対立は決定的であった。しかし、それより先安政六年八月に国許永蟄居となって水戸城にあった斉昭は、万延元年八月十五日に死去した。持病であった脚気からの心筋梗塞と考えられている。六十一歳。墓は常陸太田市の瑞竜山にある。諡号烈公。明治三十六年(一九〇三)六月贈正一位。三十七名の子女のうち、成人した男子の中から、五男が鳥取池田家の慶徳、七男が一橋慶喜(のち第十五代将軍)、八男が川越松平家の直候(なおよし)、九男が岡山池田家の茂政、十七男が土浦土屋家の挙直(しげなお)など、各地有力大名の養子に出され、自身の盛んな言動とともに、開国への幕政転換期の二分した国論に大きな影響を与えた。一方藩政面では、天保から安政にかけての改革指導がそれなりの成果を挙げながらも、反対派との分裂を深める結果となり、その死後も斉昭を神格化するかつての擁立派の系統とその対立派との藩内抗争は、天狗党の乱から明治初年に至る大きな亀裂を生んだ。訓戒的な国政論『明訓一斑抄』『告志篇』、西洋思想排斥の『息距篇』、蝦夷地開拓の『北方未来考』、弘化元年退隠処分への弁明の『不慍録』、阿部正弘との往復書簡の中に攘夷論を説く『新伊勢物語』、佐藤成裕(中陵)らに命じて編述させた博物誌の『山海庶品』等々、政論・学術、そして詩文などの著作はきわめて多い。伝記としては、会沢正志斎・豊田天功ら斉昭派の学者によって、いち早く文久元年(一八六一)に『烈公行実』が編纂されている。
[参考文献]
『茨城県史料』幕末編一、『水戸藩史料』、『水戸市史』中三、瀬谷義彦『水戸の斉昭』
(河内 八郎)


改訂新版 世界大百科事典
徳川斉昭
とくがわなりあき
1800-60(寛政12-万延1)

江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子信。景山と号した。諡(おくりな)は烈公。その生涯は波乱に富み,とくに幕末の政界では将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって幕閣と対立して,激しい政争渦中の人となった。1829年(文政12)斉脩(なりのぶ)の跡を継いで第9代藩主となるや藩政改革に着手した。これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。この改革で注目されるのは第1に文教策で,藩校弘道館の建設がその中心であった。建学の方針を示した《弘道館記》は水戸学の原典とされる。第2は武備の充実であり,第3は土地政策である。保守門閥派の反対を押し切って完了した天保の全領検地の結果は,改革挫折後も変更なく,その土地政策は当時全国的にも類例がなかった。第4は神道興隆を目ざす宗教政策であるが,厳しい寺院整理などは斉昭失脚の一つの原因と考えられている。44年(弘化1)幕府より謹慎を命ぜられる。

 斉昭の失脚は藩内に大きな動揺を与え,改革派士民の間に2,3年激しい斉昭の雪冤復権運動が展開し,藩内には天狗派(改革派)と保守派の対立が表面化した。斉昭の復権はならなかったが,1849年(嘉永2)3月藩政関与が許され,53年ペリーの来航直後,阿部正弘の推挙で幕府の海防参与となり,次いで軍制,幕政にも参与するが,57年(安政4)免ぜられた。この前後,水戸藩の安政改革を指導し,郷校の増設,農兵の設置,反射炉の建設などを進めた。しかし内政外交の面で大老井伊直弼と対立し,58年〈急度慎(きつとつつしみ)〉を命ぜられ,翌59年には水戸に永蟄居(えいちつきよ)となり,その罪が解けぬまま60年(万延1)8月水戸城中で急死した。斉昭には藩内種痘の実施,医学の普及など隠れた業績が少なくない。編著も多く,《告志篇》《北方未来考》《景山奇方集》《景山救痘録》《明倫歌集》《息距編》《不慍録》《景山文集》などがある。
[瀬谷 義彦]

[索引語]
烈公 天保改革
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検索コンテンツ
1. 徳川斉昭画像
日本大百科全書
幕末の水戸みと藩主。治紀はるとしの三男。寛政かんせい12年3月11日、小石川の江戸藩邸に生まれる。虎三郎、のち敬三郎と称す。初名紀教としのり。字あざなは子信。号
2. 徳川斉昭
世界大百科事典
1800-60(寛政12-万延1) 江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子
3. とくがわ‐なりあき【徳川斉昭】
日本国語大辞典
幕末の水戸藩主。水戸藩主徳川治紀の三男。字(あざな)は子信、号は景山。諡号は烈公。文武を奨励し、藤田東湖などを登用して藩制改革を行なう。尊攘的行動が幕府に忌まれ
4. とくがわなりあき【徳川斉昭】
国史大辞典
一八〇〇―六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(な
5. 徳川斉昭
日本史年表
1836年〈天保7 丙申〉 5・7 徳川斉昭 、常陸国助川に砲台を築く(12月完成)(水戸藩史料)。 1838年〈天保9 戊戌④〉 8・1 徳川斉昭 、内憂外
6. とくがわ-なりあき【徳川斉昭】
日本人名大辞典
1800−1860 江戸時代後期の大名。寛政12年3月11日生まれ。徳川治紀(はるとし)の3男。文政12年常陸(ひたち)水戸藩主徳川家9代となる。藤田東湖らの人
7. 徳川斉昭[文献目録]
日本人物文献目録
学教育と常陸大宮郷校富田玄東の業績』矢数道明『徳川斉昭』井野辺茂雄『徳川斉昭 国統を護るもの』松本純郎『徳川斉昭の京都手入』井野辺茂雄『徳川斉昭の攘夷論』朝森要
8. Tokugawa Nariaki 【徳川斉昭】
Encyclopedia of Japan
1800−1860 Daimyo of the Mito domain (now part of Ibaraki Prefecture) and father
9. 德川齊昭上書論政要 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 229ページ
10. 德川齊昭儒葬 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 60ページ
11. 德川齊昭建言光格天皇葬祭之儀於幕府 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 933ページ
12. 德川齊昭整理寺社 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 648ページ
13. 德川齊昭鎔梵鐘砲 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 1117ページ
14. 德川齊昭被蟄居 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 589ページ
15. 德川齊昭誡家臣 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 161ページ
16. 祀德川齊昭於常盤神社 (見出し語:德川齊昭)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1715ページ
17. 徳川斉昭詠草(著作ID:4359065)
新日本古典籍データベース
とくがわなりあきえいそう 徳川斉昭(とくがわなりあき) 詠 和歌 
18. 徳川斉昭上書(著作ID:4334467)
新日本古典籍データベース
とくがわなりあきじょうしょ 記録 
19. 会沢正志斎
日本大百科全書
こくに学び、彰考館しょうこうかん写字生となる。1807年(文化4)、当時5歳であった後の藩主徳川斉昭とくがわなりあきの侍読じどくを務め、1824年(文政7)イギ
20. あいざわせいしさい【会沢正志斎】
国史大辞典
て『大日本史』の編纂に従って以来、実力を認められて昇進し、文化元年(一八〇四)には二十三歳で徳川斉昭ら諸公子の侍読を命ぜられた。文政七年(一八二四)水戸領内大津
21. あいざわ-せいしさい【会沢正志斎】
日本人名大辞典
天明2年5月25日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。藤田幽谷にまなび,「大日本史」編修に従事。徳川斉昭(なりあき)を藩主に擁立して藩政改革につとめ,天保(てんぽう
22. あいざわ‐やすし【会沢安】
日本国語大辞典
江戸後期の水戸藩の学者。号、正志斎(せいしさい)。字は伯民、通称恒蔵。水戸に生まれ、藤田幽谷に学び、徳川斉昭(なりあき)の教育に従い、文政九年(一八二六)、彰考
23. 青地林宗
世界大百科事典
もとに,25年日本最初の物理学書とされる《気海観瀾》を執筆し,27年に出版。32年(天保3)水戸藩主徳川斉昭に招かれ,医官兼西学都講となったが,翌年病没,浅草曹
24. あおやぎむら【青柳村】茨城県:水戸市
日本歴史地名大系
祭神は武甕槌命・経津主命。大掾氏・佐竹氏に崇敬された。江戸時代には徳川光圀が社宝「鮑貝の杯」(現存)を奉献し、徳川斉昭は「青柳夜雨」の碑を境内に建てた。「青柳夜
25. 青山拙斎
日本大百科全書
先だち、その教授頭取(総教)となり、350石を給せられ、藤田幽谷ふじたゆうこくらとともに藩主徳川斉昭とくがわなりあきの藩政改革に尽力した。天保てんぽう14年在職
26. あおやま‐のぶみつ【青山延光】
日本国語大辞典
晩翠(ばんすい)。家学を承けて、詩文・史学に長じ、彰考館の編修、藩校弘道館の教授頭取となり、徳川斉昭の信任が厚く、「大日本史」の校刊と藩政に携わる。著「国史記事
27. あおやまのぶみつ【青山延光】
国史大辞典
再び彰考館に入り『大日本史』の校訂作業に尽力、嘉永二年(一八四九)の紀伝上木に際しては前藩主徳川斉昭の跋文を代作した。同五年小性頭兼教授頭取に戻り、役料二百石を
28. 青山佩弦斎
日本大百科全書
んの教授となる。1843年弘道館教授頭取(総教)となり、350石を給せられる。藩主を追われた徳川斉昭とくがわなりあきの雪冤せつえんに関係して一時罷免されたが、許
29. あかさわむら【赤沢村】茨城県:東茨城郡/桂村
日本歴史地名大系
。深山空谷尤多し」と記される。御前山の南麓には赤沢鉱山があり、天保年間(一八三〇―四四)藩主徳川斉昭が大砲用として砂鉄を製錬したという(桂村郷土誌)。大山村神官
30. あきなりしんでん【秋成新田】茨城県:東茨城郡/常澄村
日本歴史地名大系
郡秋成新田惣人別并馬改書上帳(大場家文書)には家数二四・人別一六七、馬一六とある。村名は藩主徳川斉昭の名にちなんで名付けられた。天保七年斉昭の命で創立した鹿島神
31. あさひまる【旭日丸】
国史大辞典
幕末に造られた西洋型木造軍艦。水戸藩主徳川斉昭は貧弱な海防の実状を憂え、天保九年(一八三八)西洋型軍艦を模倣した長さ二十間(三六・四メートル)、幅六間の大船日
32. あさみけいさい【浅見絅斎】
国史大辞典
論、楠木正成の顕彰である。幕末の志士たちに愛誦せられた長文の「楠公桜井駅訣別の歌」(和文)は徳川斉昭説もあるが、実は絅斎の作であるともいう。その他当時の儒者のシ
33. 安島帯刀
世界大百科事典
諱(いみな)は信立,通称は弥次郎,峨興と号した。1840年(天保11)勘定奉行,ついで小姓頭取。いったん藩主徳川斉昭の雪冤(せつえん)運動に加わり役禄を奪われた
34. あじま‐たてわき【安島帯刀】
日本国語大辞典
江戸末期の水戸藩の側用人(そばようにん)。名は信立。安政の大獄で藩主徳川斉昭の謹慎中、執政として活躍したが、幕府改革の密勅を得た責任を幕府から問われ、自刃。文化
35. あじまたてわき【安島帯刀】
国史大辞典
戸田蓬軒の弟にあたる。文政十二年(一八二九)藩主継嗣の紛議に際し、兄と江戸に出て運動し、ついに徳川斉昭を擁立した。天保年間(一八三〇―四四)、小十人組より郡奉行
36. あじま-たてわき【安島帯刀】
日本人名大辞典
1812−1859 江戸時代後期の武士。文化9年生まれ。戸田忠敞(ただたか)の弟。常陸(ひたち)水戸藩士。徳川斉昭(なりあき)の水戸藩主擁立につとめ,側(そば)
37. あだちせいふう【安達清風】
国史大辞典
した。文久年間(一八六一―六四)に入って藩主池田慶徳の側近となって行動したが、慶徳は水戸藩主徳川斉昭の子であるだけに、尊攘的意見を持っていた。しかし急進尊攘派で
38. アヘン戦争
日本大百科全書
中国を文化の源流であり、また世界の強大国とみなしていた。海防問題に鋭敏だった渡辺崋山かざんや徳川斉昭なりあきのような識者も、イギリスやロシアはまず日本を支配下に
39. 阿部正弘画像
日本大百科全書
開いた。翌1854年(安政1)日米、日英、日露の和親条約を余儀なく締結する一方、水戸みと藩主徳川斉昭なりあきの幕政への登用、島津斉彬なりあきら(薩摩さつま)、松
40. 阿部正弘
世界大百科事典
問して衆議制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとり,従来の幕政
41. あべまさひろ【阿部正弘】
国史大辞典
導入するはじまりとなった。米艦の渡来後、正弘は有力な諸侯との協力に努力した。まず嘉永六年七月、徳川斉昭を海防参与にあげた。その背後には、当時斉昭が諸藩声望の中心
42. あべ-まさひろ【阿部正弘】
日本人名大辞典
。奏者番,寺社奉行をへて,弘化(こうか)2年老中首座にすすむ。ペリーの開国要求などの難局に,徳川斉昭(なりあき),島津斉彬(なりあきら)らと協調して対処。日米和
43. あまこ-ちょうざぶろう【尼子長三郎】
日本人名大辞典
1818−1863 江戸時代後期の武士。文政元年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。天保(てんぽう)15年藩主徳川斉昭(なりあき)が幕府より隠居謹慎処分をうけると,
44. アメリカ彦蔵自伝 1 209ページ
東洋文庫
摂政が任命されても、水戸家はいつも摂政と力を合わせて働いていた。 ところが、この当時、水戸の大名〔前藩主の徳川斉昭〕は野望に燃える人で、何はさておき将軍になりた
45. アメリカ彦蔵自伝 2 61ページ
東洋文庫
役職についている者は、たいてい政府案支持であったが、在野の者はほとんど反対にまわった。反対の方の一人に水戸公〔徳川斉昭〕がいた。彼はすぐ京都に急行し、、・・カド
46. あらい-げんぱちろう【新井源八郎】
日本人名大辞典
1824−1865 幕末の武士。文政7年生まれ。住谷寅之介の弟。常陸(ひたち)水戸藩士。前藩主徳川斉昭(なりあき)が江戸藩邸に謹慎中,小姓頭としてつかえた。元治
47. ありすがわのみやひ-さだこ【有栖川宮妃貞子】
日本人名大辞典
1850−1872 幕末-明治時代,有栖川宮熾仁(たるひと)親王の妃。嘉永(かえい)3年10月27日生まれ。徳川斉昭(なりあき)の11女。慶応3年将軍徳川慶喜(
48. あわさんじょうじんじゃ【阿波山上神社】茨城県:東茨城郡/桂村/大山村
日本歴史地名大系
阿波山・粟・下阿野沢・上阿野沢四ヵ村の鎮守として祀られ、除地六石余を有したが、弘化元年(一八四四)徳川斉昭は特別に一五石に加増した(茨城県神社誌)。当社には嵯峨
49. あわむら【粟村】茨城県:東茨城郡/桂村
日本歴史地名大系
慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田移封の際、兄稲川義忠が常陸に残り、弟義次は秋田に移ったという家伝がある。藩主徳川斉昭は天保九年(一八三八)粟野塗の職人を養成して
50. あんせいのかいかく【安政の改革】
国史大辞典
弘によって行われた幕政改革。米国使節ペリー来航後の嘉永六年(一八五三)七月、正弘は前水戸藩主徳川斉昭を推挙して幕政参与にしたが、幕閣内には松平乗全・松平忠固の反
「徳川斉昭」の情報だけではなく、「徳川斉昭」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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趙之謙(岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書)
中国清の金石家,書画家.紹興(現,浙江紹興)の人.挙人 [1859:咸豊9].紹興の富裕な家に育ったが,少年の頃に家運が翳り,困苦を味わうことが多くなった.30歳の頃に太平天国軍が江南地方をかけめぐり,戦禍がおびただしくなると,知人の丁令威の招きに
以心崇伝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五六九 - 一六三三 江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事した。醍醐の三宝院に学んだこともあるが、のちに南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法をついだ
徳川斉昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一八〇〇 - 六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子
渋沢栄一(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四〇 - 一九三一 近代日本の指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷および仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年五月までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月
徽宗(世界大百科事典)
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策)
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