中国の古典。儒教の代表的な経典,四書の第一。孔子の言論を主として,門人その他の人々との問答などを集めた語録で,20編。儒教の開祖孔子(前551-前479)の思想をみる第一の資料で,また儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきた。内容は,社会的人間としての個人のあり方と国家の政治にかかわる道徳思想を主としているが,中心の主張は忠(まごころ)にもとづく人間愛としての仁の強調であって,親への孝行,年長者への悌順などとともに,利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなども述べられている。総じて楽天的な明るさに満ち,断片的な言葉の集積を通して調和を得た孔子の人格や孔子学団のようすがよくうかがえる。
学而(がくじ)篇第一から尭曰(ぎようえつ)篇第二十に至るが,編名は各編の初めの字を取っただけの便宜的なものである。また各編ごとの特色も概して少ない。その成立は,おそらく門人たちの記録に始まり,後からの種々の記録も重なり,やがて整理が施されて書物の形をとることになったもので,漢代では《古論語》21編,《魯論語》20編,《斉論語》22編という3種が伝えられていた。後漢の時代に,張禹がその《魯論語》を中心とした三者の校定本(〈張侯論語〉)を作り,それが今に伝わる《論語》となった。
漢の武帝のとき(前136)儒教が国教となって五経が尊重されると,聖人孔子の像の確立とともに《論語》と《孝経》も五経に準じて尊重され,その後,朝廷の詔勅や上奏文その他に多く引用されるようになった。後漢では都の太学の前に石経として本文が刻まれ(175),また注釈も多く作られるようになった。それらの注釈はほとんど滅びたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解(しつかい)》は漢の孔安国や鄭玄(じようげん)(鄭注とよばれ,敦煌からの発見と近年のアスターナの発見とで約2分の1が残る)など八家の注に自説を加えたもので,古注の代表として今日まで伝わっている。
やがて南宋の朱熹(しゆき)(子)によって朱子学が成立し《論語集注》(新注)が著されると(13世紀),五経に代わって四書が重視され,《論語》はその筆頭として絶対の権威をもつようになった。聖人孔子の人格と結びついて,人々の現実的な実践目標を明示する厳しい倫理的要請の書とされたのである。
元以後,朱子学の盛行とともに《論語》はそうした形でひろく伝播し,政治的な利用もあって庶民のあいだにも大きな影響を及ぼしたが,また朝鮮,日本,安南(ベトナム)などにも広く伝わり,ヨーロッパにも17世紀にイエズス会士の手で翻訳紹介された。日本では,応神天皇16年に百済(くだら)の王仁(わに)が来て《論語》と《千字文》を献上したのが漢籍渡来の初めだとされる。奈良時代,養老令の学令では《論語》は《孝経》と並んで必読の書とされ,すでにすこぶる重視されていた。平安時代では明経博士が世襲的に講学したが,種々の文書類での引用や《論語》の抄写も盛んに行われた。南朝の正平年間に出版された《論語集解》(1364)は現存最古の刊本である。
朱子の新注の渡来は鎌倉時代で,その後五山の学僧のあいだで学ばれた。江戸時代に入ると,朱子学を官学と定めて儒学を秘伝から解放したため,朱子の《集注》はひろく読まれるようになり,江戸後期では藩学はもとより庶民教育の寺子屋にまで浸透した。朱子学に対抗する学派でもやはり《論語》が中心で,それぞれに独自の注釈を著した。伊藤仁斎の《論語古義》や荻生徂徠の《論語徴》は特に有名である。出版もきわめて盛んで,《論語》は,明治の初期までの日本の知識人の思想形成の上で欠かすことができないものとなっていた。
近代になると,中国では,朱子学流の窮屈な倫理的解釈に反発して,《論語》はたびたび批判の対象となった。中国革命の進展のなかで,例えば五・四運動,そして近ごろの文化大革命の中でのような激しい攻撃にもさらされた。
→儒教

(けいへい)の『論語註疏』とがその代表である。前者は中国で滅んで日本に伝承されたもので、江戸時代になって中国へ逆輸出された。宋学では五経よりも四書が尊重され、『論語』はその筆頭として特に重視されたが、朱子は新しい哲学的解釈を加えて『論語集註(しっちゅう)』を作った。これを新註という。元以後、朱子学の盛行とともに科挙と結びついてこの新註が広く読まれた。清朝の考証学の成果としては、古註をふまえた劉宝楠の『論語正義』があり、訓詁は精密になったが、一般にはやはり新註が読まれてその再註釈も多く作られた。日本へは、漢籍渡来のはじめとして『千字文』とともに百済の王仁(和邇吉師)によってもたらされ(『古事記』)、王仁の渡来は応神天皇十六年のこととされる(『日本書紀』)。『十七条憲法』や『日本書紀』にもすでにその影響とみられる語句や話があるが、学令でも必修とされ、清原・中原両博士家も講義をつづけ、その点本が鎌倉時代から室町時代にかけての古鈔本として残っている。これらはほとんど古註の『論語集解』で、南朝の正平十九年(北朝貞治三、一三六四)には堺浦道祐居士による和刻本(正平版)がはじめて出版され、その後も盛んな出版をみて、慶長四年(一五九九)の勅版に代表される古活字本にも数種がある。新註は鎌倉時代に伝来して次第に読まれるようになり、室町時代の清原宣賢らの抄物にも参考されているが、江戸時代に入ると朱子学は幕府の被護を受け、朱子の『四書集註』は林羅山の道春点をはじめ多くの人々によって訓点をつけて出版され、新註の勢いは決定的になった。ただ、元禄のころになると、伊藤仁斎があらわれて『論語』を「最上至極宇宙第一の書」として重んじ、『論語古義』を著わして朱子の哲学的解釈をしりぞけ、前半十篇を上論、後半十篇を下論として、前者をより純粋な資料と考える文献批判的見解をはじめて提示した。また荻生徂徠は『論語徴』を著わして朱子と仁斎に反対し、仁を「長人安民の徳」とする独自の立場から訓詁を正して新解釈を提示した。このほか、多くの注釈が出たが、やがて日本の古写本を利用して校訂を行うことも盛んになり、山井鼎(崑崙)の『七経孟子考文』や吉田篁
の『論語集解考異』などが出て、中国の学者を驚かせた。こうした学者の研究のほか、江戸時代後期では藩校から市井の寺子屋までの教育にも『論語』は広く用いられ、日本人の一般教養に大きな影響を与えてきた。→孔子(こうし)



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