1889年2月11日発布され,90年11月29日より施行され,形式的には1947年5月2日まで存続した憲法典で,〈明治憲法〉あるいは〈旧憲法〉とも呼ばれる。
明治維新にあたり政府は五ヵ条の誓文,政体書を出し政府組織を整えるとともに,版籍奉還,廃藩置県,身分制の廃止,徴兵令,地租改正等によって近代国家としての体裁を形成していった。しかし,西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるためには,富国強兵政策を推進する一方で,文明国にふさわしい近代法典を整備する必要があった。法典の中心をなす近代憲法制定の動きは1874年の民撰議院設立建白書に触発されたが,政府は急速な憲法制定を望まず漸進主義をとった。翌年設立された元老院がこの方針の下で憲法案の作成にあたり,ベルギー憲法,プロイセン憲法に範をとった〈日本国憲按〉が78年にできたが,その立憲的傾向は岩倉具視などのいれるところではなかった。
他方,明治10年代に活発化した自由民権運動の中からは,イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな憲法私案(私擬憲法)が発表されたが,もとより政府の採るところではなく,自由民権運動自体がやがて抑圧されていった。
しかし,〈明治14年の政変〉により〈国会開設の詔〉が出され,これによって1890年を期して国会が開設されることになり,それまでに憲法も制定されることになった。そこで伊藤博文が渡欧し,主としてドイツ,オーストリアでグナイスト,シュタインについて憲法制度の取調べを行った。帰国後,伊藤はレースラーの意見を参考にしつつ,井上毅,伊東巳代治らとともに憲法案を起草し,その成案は1888年に設置された枢密院の諮詢を経て,89年2月11日,大日本帝国憲法として公布された。しかし,公布に至るまでその内容は国民にはまったく秘匿されていた。
(1)基本的特色 大日本帝国憲法は,西欧諸国の近代憲法の体裁を一応とっていたが,君主権の強いドイツ型立憲君主制を範とし,それに日本独自の天皇中心の国家観を加味したものであっただけに,絶対主義的色彩を強く帯びていた。このため旧憲法は,議会を設けるなどの立憲的要素と絶対主義的要素の両要素からなっており,しかも後者が顕著なので〈外見的立憲主義〉との評価が与えられている。旧憲法は上喩と7章76条からなる簡潔なものであるが,天皇が制定した欽定憲法であり,その改正発案権は天皇のみにあり,発布の際の勅語では永遠に不滅な〈不磨の大典〉として位置づけられていた。実際,日本国憲法制定まで一度も改正されることがなかった。なお,皇室に関する事項については,皇位の継承等を含めて,別に皇室典範が制定され,宮務法の最高法規とされており,政務法の最高法規とされた旧憲法とともに二元的法体系がとられていた。
(2)天皇 第1章が天皇であり,それは17ヵ条という比較的多くの規定で構成されていることに示されるように,天皇は旧憲法の中核であった。〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉(大日本帝国憲法1条)とされて天皇は主権者であるとともに,元首として統治権を総攬した(4条)。この天皇の地位は天孫降臨の神勅によって根拠づけられていたので,〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉(3条)との規定から文字どおり天皇を現人神(あらひとがみ)とみる解釈を生む一方で,国家に対して強い宗教性を与え,神道の国家宗教化をもたらした。天皇は憲法の条規により統治権を行使したが,立法権は議会の協賛によって,また広範な大権は原則的に国務各大臣の輔弼(ほひつ)によって天皇がこれを行い,司法権は天皇の名によって独立の裁判所がこれを行った。他方,天皇は皇室の長として皇室事務を統裁した。
(3)統治構造 天皇の下で統治権の行使に関与する機関は帝国議会,国務大臣,裁判所の3機関分離制をとっていた。立法に協賛する機関として帝国議会が存在したことは旧憲法の立憲的側面の最たるものであるが,天皇に議会が関与しえない独立命令権(9条)などの副立法権が認められていたことや,公選による衆議院と基本的に対等なものとして皇族,華族,勅任議員などからなる貴族院が設置され国民の意見を抑制していたことなどに非立憲的側面が表れている。大権・行政権を輔弼する国務各大臣は天皇によって任命され,天皇に対してのみ責任を負うものとされており,内閣総理大臣は同輩中の首席にすぎず,その権限は弱かった。また,統帥大権や栄誉大権などには国務大臣の輔弼が及ばないなど,その権能には限界があった。他方,財政権については議会の責任追及を免れうるよう配慮されており(63,67,71条),非立憲的要素が加重されている。司法権の独立は大津事件(1891)などをとおして一応守られていたが,軍法会議といった特別裁判所や,行政事件を終審として扱う行政裁判所(行政裁判)が設置されていた。
以上の立憲的な機関のほかに,天皇の諮詢にこたえて重要な国務を審議する枢密院が設けられていたが,枢密顧問官は勅任であり,国民の統制は及ばなかった。また,憲法外の機関として,天皇を常時輔弼する内大臣や,次期内閣総理大臣を天皇に推薦した元老などがあり,事実上政治に関与した。軍は慣習法的に認められていた〈統帥権の独立〉によって天皇以外の何ものにも制約されない立場にあった。このように,旧憲法下には非立憲的機関が複雑に存在し,天皇以外にこれらを統括するものはなく,各機関が各個に無責任になりがちであった。
(4)権利 旧憲法は一応表現の自由などの権利を認めていたが,それは西洋の近代憲法における基本的人権のような自然権的・前国家的な権利ではなく,天皇が恩恵的に〈臣民〉に与えた後国家的権利にすぎなかった。実際に,信教の自由を除いて,いずれも法律によって制限できるか,法律の範囲内において認められる権利であった(〈法律の留保〉)。〈法律の留保〉のない信教の自由についても〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限〉(28条)において認められる権利であったから,現人神たる天皇ひいては国家神道(靖国神社,伊勢神宮)を礼拝することが臣民に強制されることになった。
なお,非常時には,天皇はこれらの権利を全面的に停止することができた(非常大権)。また,皇族・華族などの特権身分を設けたので,平等原則に関する一般的な規定はない。
絶対主義的・立憲的の両面をもつ旧憲法の解釈において,天皇大権を強調する方向で理解しようとする穂積八束,上杉慎吉ら(神権学派)と,立憲的側面を中心に理解しようとする美濃部達吉ら(立憲学派)との対立があった。両者は,〈国体〉概念を憲法上認めるか,天皇は統治権の主体であるか,天皇を神格化するか,大権行使に議会の参与は許されるか,輔弼は大権行使の要件であるかなどの点で鋭く対立した。この結果,神権学派によると,神格化された天皇が具体的決断を行い,他の機関は天皇の決断を助ける存在でしかないことになるが,立憲学派は,国家の最高機関である天皇とともに議会を直接機関として位置づけることによって天皇の地位・権能を相対化し,憲政の議院内閣制的運用を期待した。また,後者では国務大臣の輔弼に実質的拘束力が期待されていたので,現実の政治は議会の信任に基礎をおく内閣によって行われ,天皇はその上部に権威として存在することが構想されていた。
旧憲法の実際の運用において,大正デモクラシーの時期から立憲学派的理解が有力となり,議会主義に重点をおく政党内閣制の時代が実現した。しかし,昭和に入り軍部の勢力が強まると政党内閣制は崩壊し,立憲学派的理解も批判の的となり,1935年の〈天皇機関説事件〉を契機に政治的・物理的に圧殺された。また,立憲学派でも肯定されていた〈統帥権の独立〉によって内閣等が軍令事項に口をはさめない一方で,陸・海軍大臣は武官でなければならないという〈陸海軍大臣武官制〉(軍部)によって軍は公然と政治に口をはさめるばかりか内閣の進退をも左右できたので,昭和になっての軍部の独走を制度的にも許すことになった。しかも,陸軍・海軍を唯一人統括できる天皇が軍令機関の輔弼に対して消極的に対応する状況の下では,各軍の独走を制約するものは何もなく,結局は歯止めのないまま全面戦争に突入することになったのである。権利についても,治安維持法や治安警察法などの権利制約立法が乱立し,実態的に権利はなきに等しい状況があった。そして,法律規制事項を大幅に命令規制事項にした1938年の国家総動員法によって旧憲法の立憲的要素は実質的に払拭された。
→天皇
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.