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  11. 清水次郎長

ジャパンナレッジで閲覧できる『清水次郎長』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・国史大辞典

新版 日本架空伝承人名事典
清水次郎長
しみずのじろちょう
1820‐93(文政3‐明治26)
 江戸後期・維新期の侠客。駿河国有渡郡清水湊の海運業三右衛門の三男として生まれ、のち母の弟である米屋山本次郎八の養子となる。山本長五郎が本名で次郎長は通称。幼年期より粗暴の性質であった。一八三五年(天保六)に養父が死去し、家業を相続した。四一年に博徒の仲間に入り侠名をあげ、多数の子分を従えた。縄張争いのため、尾張八尾ヶ獄の久六、甲州黒駒の勝蔵、伊勢の安濃徳らとたびたび抗争した。六八年(明治一)に倒幕のため東上した東海道総督府より、道中探索方を命ぜられ、帯刀を許された。同年秋幕府の脱出兵が咸臨丸で清水湊に停泊、船内残留者が官軍の兵艦に襲われ、死体が海中に投ぜられた。次郎長はこれを収容し、巴川畔の向島の地に埋葬、山岡鉄舟の書になる「壮士墓」の碑を建てた。のち囚人を使役して、富士の裾野の開墾に従事するなど明治政府の施策に協力した。墓は清水市の梅蔭寺。
[吉原 健一郎]
人物像
 講談、浪曲の題材としての清水次郎長を定着させたのは、講釈師の三代目神田伯山であるが、この伯山の講談をアレンジした浪曲師二代目広沢虎造のラジオ放送やレコードによって昭和初期の大衆にとって英雄的存在にまで高められた。『清水次郎長伝』の原典とされている伯山の講談は、主として天田愚庵の『東海遊侠伝』によっている。天田愚庵は、清水次郎長一家に寄宿したことのある歌人であるが、『東海遊侠伝』は、次郎長の存命中に、しかもその釈放運動に益するために書かれた気味もあり、もっぱら次郎長の功績をたたえることに終始している。それだけに、講談や浪曲に描かれた清水次郎長の人間像には、正統的な史実によっているとはいいかねる部分が多分にある。清水一家を組織して、抗争を重ねながら海道一の親分になりあがっていく過程が、義理と人情をふまえた人間的な魅力の一面だけでとらえられ、権力志向者としての側面に目をつぶっているのである。
森の石松
[矢野 誠一]
 清水の次郎長といふ人は駿州清水港の出生うまれでございます。清水港に過ぎたるものは次郎長に稲荷さんに三津ケ浜、と三つの名物の一つに数へられました位。尤も次郎長といふのが本名ではない、本姓は山本長五郎、坂本屋次郎八といふ米問屋の悴、小さい中は誠に悪戯な子でございました。『彼所あすこで悪戯をしてゐるのは何所の子だ』『あれは坂本屋次郎八の悴の長五郎だ』『あゝさうか、悪戯だな、併し悧巧者だ、次郎八の悴の長五郎だな、次郎八の長だ』といつたのが、何時か八といふ字が抜けて了つて、次郎長々々と人が呼ぶ様になりました。
講談清水次郎長(神田伯山口演)
 ここで次郎長をはじめ十一人、追分へ乗り込んでまいりました。青木屋の主人とも次郎長は知り合いの仲、わけを話して百五十両の金をやって、家内でどんなことをしても苦情のないということにいたして、女子供を残らず外へ出してしまった。そういうこととは知らない都鳥の吉兵衛一家十一人。
 吉「やいやいどうしたんだ、一人もいなくなっちまやあがった、どんどん酒を持って来い」
 ぽんぽんと手を打つと追分の三五郎大きな声で、
 三「へーい、ただ今持ってまいりまーす」
 吉「ほほっ、おそろしく威勢のいい声じゃあねえか、だれだだれだ」
 次「清水の次郎長だ」 吉「ええっ」
 次「それ戸障子唐紙をぶっ放せっ」というと、ガラガラガラガラガラっ。どぎどぎするような脇差どすを引き抜いて十一人が、ドカドカッと飛び込んで来て、ずらりとそれへならんだから都鳥の吉兵衛をはじめ十一人びっくりして、酒の酔いも一時にさめてしまった。次郎長はずいと前へ出て、
 次「やいこいつらあ、騒ぐにゃあ及ばねえ。清水港の山本長五郎こと清水の次郎長だ、よくもてめえたちは石松を欺しに掛けて殺しゃあがったな、そっちも十一人ならこっちも十一人だ、さあ尋常に勝負をしろ。いまさら頭を下げても勘弁しねえぞ、無え命とあきらめて、支度をする間待ってやるから、早く支度をしてかかって来い」
 火を吐くような次郎長の声。このへんが次郎長のえらいところで、さきの支度をする間ちゃんと待ってやった。
 都鳥一家も進退ここにきわまった、こういうことなら来るんじゃなかったと、後悔しても追っ付かない。そのうちに本座村の為五郎は気の勝った男、一番先に突っ立って、
 為「おい都鳥、おれが先へ斬って出るから、早く支度をしねえ。やい次郎長、河豚よりこわい遠州名物太刀の魚を一本味わってくたばりゃがれ」
 抜き討ちに次郎長目がけて斬ってかかった。次郎長にっこり笑って、さっと体をかわしたから空を斬って為五郎、ひょろひょろっと前へのめっていって、足を踏みはずしたから、沓脱ぎの石のところへ横っ倒しにぶっ倒れた、そいつを法印の大五郎が、ばっさり肩口へ斬り込んだ。「きゃっ……」というとそのまま死んでしまった。続いて吉兵衛が飛び出したのを、七五郎が引き受けてチャリンチャリーンと斬り合っている。うしろへ回った大政が、横に引っ払ったから、吉兵衛の脇腹へぐさりっ。「うわーっ」と仰向けに反るところを、
 七「石松の敵だっ」
 七五郎が肩口から斬り下げたから、ばったりと倒れてそのまま絶命。大将滅びて残兵全からず、後の九人、バッタバタバタ斬り倒され、ここに十一人、残らず斬られてしまいました。
講談清水次郎長


日本大百科全書(ニッポニカ)
清水次郎長
しみずのじろちょう
[1820―1893]

江戸後期の博徒。本名は山本長五郎。駿河国 (するがのくに)有渡 (うど)郡清水港美濃輪 (しみずみなとみのわ)(現、静岡市清水区美濃輪町)の船持船頭高木三寿郎の子として生まれる。生後まもなく叔父の米穀商「甲田屋」山本次郎八の養子となる。通称次郎長は次郎八方 (かた)の長五郎で、相続人の意。幼くして悪党の評があり、家業のかたわら博奕 (ばくち)に手を出し、賭場 (とば)に出入りするようになる。1842年(天保13)賭場のもつれから博徒に重傷を負わせて他国に逃げ、無宿渡世 (むしゅくとせい)に入る。以後清水に戻ったのちも、喧嘩 (けんか)、博奕で次郎長一家の名をあげ、黒駒勝蔵 (くろごまのかつぞう)、江尻熊五郎 (えじりのくまごろう)らを抑えて400人余りの博徒の盟主になったと伝えられる。後代仁侠 (にんきょう)の徒として神田伯山 (かんだはくざん)、広沢虎造 (ひろさわとらぞう)らにより講談・浪曲の世界でもてはやされたのは、次郎長の養子天田五郎 (あまだごろう)(愚庵 (ぐあん))が『東海遊侠伝』(1884)を刊行してからである。もっとも、1868年(明治1)東海道総督府判事、伏谷如水 (ふせやじょすい)から旧悪を許され帯刀の特権を得、新政府の東海道探索方を命じられてからは、囚人を使役して富士の裾野 (すその)を開墾したり、汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり、その社会活動は精力的でみるべきものが多い。明治26年病死、葬式には1000人前後の子分が参列したという。静岡市の梅蔭寺 (ばいいんじ)に墓がある。

[藤野泰造]



清水次郎長[百科マルチメディア]
清水次郎長[百科マルチメディア]

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国史大辞典
清水次郎長
しみずのじろちょう
一八二〇 - 九三
幕末・明治初期の侠客。本名山本長五郎、通称清水次郎長という。父は駿河国清水湊(静岡県清水市)船持船頭雲不見(くもみず)三右衛門で、その三男。文政三年(一八二〇)正月一日に生まれ、元日生まれは賢才か極悪かといわれたため、母の弟である米問屋甲田屋山本次郎八の家へ養子にやられた。七、八歳のころから悪童として名をなし、寺子屋より追放され、禅叢寺に託されたが、なかなかなおりきらず、十五歳のとき改心する。次郎長の通称は「次郎八の長五郎」にちなんだものである。天保六年(一八三五)養父は実子でないことをつげ凶暴をいましめたが、養母は資産を淫奔に消費し、情夫とにげてしまった。次郎長は養父の死後、甲田屋の生業に精励し、資産四、五千両をつくる。天保八年には妻を迎え、米商につとめ、のち清水湊の無宿となり、博徒の親分として勇名をはせた。その性格は侠気にとみ、再びその凶暴性を発揮し、甲州の黒駒の勝蔵(池田勝馬)、尾北穂北の久六、桑名の穴生(安濃)徳とあらそい、富士川や海上交通の縄張りあらそいをする。そして次第にそれを拡大し、慶応二年(一八六六)には伊勢荒神山(三重県鈴鹿市高塚町)大祭の日に、三州吉良の仁吉が勝蔵党と闘い敗死すると、その復讎の鬼と化し、これと闘った。その後、維新のとき東征総督府より道中探索方を命じられている。明治元年(一八六八)九月十八日には幕府方より脱走した咸臨丸が清水湊へ漂着すると、新政府軍の総攻撃を受けて死者多数を出していたので、これを義侠心で収容し、清水の向島に弔慰した。この事実をしった山岡鉄舟と榎本武揚らは感激して、その知己となる。明治七年山岡や静岡県権令大迫貞清は次郎長を後援して、正業につくようすすめた。ここにおいて模範囚を連れて県下万野ヶ原や有度山開墾につとめ、富士裾野に数十町の開墾をした。その後、清水湊を整備し、清水―横浜間の蒸気船定期航路を開き、船会社静隆社を設立した。一方、英語の教師を招聘して外国語修得の必要を説いているが、これは清水湊の発展のために外国人との接触にそなえたものである。彼の経済的後援者には清水湊の船問屋松本屋平右衛門がおり、松本屋の没後は回漕屋播磨屋こと鈴木与平と魚問屋の芝野金七らがいた。ところが明治十七年二月二十四日、松方デフレの不景気の中で、次郎長は江尻警察署に逮捕されている。その罪状は、表の商売が農間薪炭商でありながら、家宅捜索の結果武器と賭博用具が発見されたことである。かくして懲役七年・過料四百円に処せられ、静岡井之宮監獄に収監されたが、翌年山岡らの奔走で仮出獄している。明治二十六年六月十二日、七十四歳で死去。清水の梅蔭寺に葬られた。法名碩量軒雄山義海居士。
[参考文献]
村松梢風『正伝清水の次郎長』、戸羽山瀚『清水次郎長正伝』、天田愚庵『東海遊侠伝』(『愚庵全集』)、田村栄太郎『一揆・雲助・博徒』、小笠原長生『大豪清水次郎長』、望月茂「次郎長遺聞」(『伝記』六ノ九)
(芳賀 登)
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検索コンテンツ
1. しみず‐の‐じろちょう[しみづのジロチャウ]【清水次郎長】
日本国語大辞典
幕末から明治初期の侠客。駿河(静岡県)の人。本名山本長五郎。米商から博徒となり、東海地方を縄張りとした。明治元年(一八六八)東海道総督判事伏谷又左衛門によって名
2. 清水次郎長画像
日本大百科全書
江戸後期の博徒。本名は山本長五郎。駿河国するがのくに有渡うど郡清水港美濃輪しみずみなとみのわ(現、静岡市清水区美濃輪町)の船持船頭高木三寿郎の子として生まれる。
3. 清水次郎長
世界大百科事典
にとって英雄の存在にまで高められた。《清水次郎長伝》の原典とされている伯山の講談は,主として天田愚庵の《東海遊俠伝》によっている。天田愚庵は,清水次郎長一家に寄
4. しみずのじろちょう【清水次郎長】
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[参考文献]村松梢風『正伝清水の次郎長』、戸羽山瀚『清水次郎長正伝』、天田愚庵『東海遊侠伝』(『愚庵全集』)、田村栄太郎『一揆・雲助・博徒』、小笠原長生『大豪清
5. しみずの-じろちょう【清水次郎長】画像
日本人名大辞典
1820−1893 幕末-明治時代の侠客(きょうかく)。文政3年1月1日生まれ。駿河(するが)(静岡県)清水の船頭雲不見(くもみず)三右衛門の3男。母方の叔父の
6. しみずのじろちょう【清水次郎長】
日本架空伝承人名事典
にとって英雄的存在にまで高められた。『清水次郎長伝』の原典とされている伯山の講談は、主として天田愚庵の『東海遊侠伝』によっている。天田愚庵は、清水次郎長一家に寄
7. 清水次郎長[文献目録]
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一名次郎長物語』天田鉄眼『俠骨次郎長』清風楼主人『大豪清水次郎長』小笠原長生『実説次郎長物語』河原井喜久雄『次郎長巷談』村本喜代作『清水次郎長』戸羽山瀚(編)『
8. 清水次郎長[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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9. あいづのこてつ【会津小鉄】
国史大辞典
ふるった。明治十八年(一八八五)三月十九日、洛外白川村にて没す。四十一歳。江戸の新門辰五郎、東海の清水次郎長、関西の小鉄を世に三侠客と並び称している。 [参考文
10. あいづの-こてつ【会津小鉄】
日本人名大辞典
県)藩主松平容保(かたもり)の下で,会津方軍夫を指揮。維新後は京都,大阪に大勢力をきずき,清水次郎長(しみずの-じろちょう)らとならび称された。明治18年3月1
11. あまだぐあん【天田愚庵】
国史大辞典
得た。最初政治活動にふけり、次に写真師となり、また明治十五年(一八八二)から約三年山本長五郎(清水次郎長)の養子ともなった。同二十年大阪内外新報社幹事から転じて
12. あまだ-ぐあん【天田愚庵】
日本人名大辞典
戊辰(ぼしん)戦争で行方不明となった両親と妹をさがしもとめて各地を放浪。山岡鉄舟の紹介で一時,清水次郎長の養子になり,「東海遊侠伝」をまとめる。明治20年由利滴
13. 天田愚庵(あまだぐあん)
日本大百科全書
母と妹の所在を求めて諸国を流浪し、その間写真屋をしたり、山岡鉄舟の門に入ったりした。一時、清水次郎長しみずのじろちょうの養子になって山本五郎といったが、復姓して
14. あんどう-ぶんきち【安東文吉】
日本人名大辞典
1808−1871 江戸時代後期の侠客(きょうかく)。文化5年生まれ。駿河(するが)安東村(静岡市)の人。清水次郎長を支援し,「博徒は素人(しろうと)衆に道をゆ
15. 大木実[善人から悪役まで幅広く演じた元二枚目俳優、死去]
イミダス 2018
オオキ・ミノル。本名、池田実。俳優。 2009年3月30日、映画「黒蜥蜴」の明智小五郎役やドラマ「清水次郎長」の大政役など、映画、テレビで活躍した俳優の大木実さ
16. おおまさ【大政】
日本人名大辞典
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17. おとこだて【男達】画像
国史大辞典
一歩も引かないという侠的精神を発揮した。これが世評を高めるにいたった。関西における会津小鉄、東海の清水次郎長、上州の大前田英五郎、江戸の新門辰五郎らがその代表的
18. おもな講談の演目
日本大百科全書
赤穂あこう義士を読んだ講談で、「本伝」「銘々伝」「外伝」よりなる大長編。清水次郎長伝しみずのじろちょうでん 三尺物。街道一の大親分清水次郎長こと山本長五郎(18
19. おもな浪花節の演目
日本大百科全書
題材に「木っ葉売り三次」を、戦後は東家浦太郎が得意とした。森の石松もりのいしまつ もとは講談『清水次郎長伝』の外伝の部分で、子分森の石松が、親分次郎長のかわりに
20. かしおむら【柏尾村】静岡県:清水市/旧庵原郡地区
日本歴史地名大系
同年間から明治初年まで寺子屋を開き、明治一一年(一八七八)には河東報徳社の設立に加わっている。清水次郎長の富士山麓開墾は宜和が次郎長に茶園開墾を説いたためとされ
21. 神田伯山
世界大百科事典
博し,〈八丁荒し〉の異名を取った。とくに天田愚庵(あまだぐあん)の《東海遊俠伝》に取材した《清水次郎長》が評判となり,のちにこれは広沢虎造の浪花節に伝わり一世を
22. かんだ‐はくざん【神田伯山】
日本国語大辞典
一九二〇)〔三〕三代。本名岸田福松。前名、松山(しょうざん)・小伯山。二代の門にはいり、「清水次郎長伝」などの侠客物に評判を得た。明治五~昭和七年(一八七二~一
23. かんだはくざん【神田伯山】
国史大辞典
七十九歳。 (三)三代目 一八七二―一九三二 東京の生まれ。二代目の門人。本名岸田福松。「清水次郎長伝」で売り出した。昭和七年(一九三二)一月没。六十一歳。墓
24. かんだ-はくざん【神田伯山(3代)】画像
日本人名大辞典
明治5年7月20日生まれ。2代神田伯山(初代神田松鯉)に入門し,小伯山をへて明治37年3代伯山を襲名。「清水次郎長伝」を得意とした。高座にあがると他席ががらあき
25. きらのにきち【吉良の仁吉】
日本架空伝承人名事典
いで、安濃徳のやとった土地の猟人の鉄砲で撃たれたところを、角井門之助に斬られて命を落とす。清水次郎長一家の加勢とともに二九人で四三〇人を相手に戦った男気と神戸の
26. きらの-にきち【吉良仁吉】
日本人名大辞典
に勢力をはる。荒神山の喧嘩(けんか)のとき,義兄弟の神戸長吉(かんべの-ながきち)に加勢。清水次郎長一家の応援をえて穴太徳(あのうとく)勢になぐりこんだが傷つき
27. くろこま‐の‐かつぞう[‥かつザウ]【黒駒勝蔵】
日本国語大辞典
江戸末期の侠客。甲斐国黒駒(山梨県御坂町)の人。駿河の清水次郎長と抗争を繰り返した。
28. くろこまのかつぞう【黒駒の勝蔵】
日本架空伝承人名事典
て頭角を現す。甲斐ばかりでなく、信濃、駿府などにも顔をきかせたが、縄ばり争いから、一方の雄清水次郎長と対立するところとなり、荒神山事件の後は急速にその勢力を失っ
29. くろこまの-かつぞう【黒駒勝蔵】
日本人名大辞典
生家は甲斐(かい)(山梨県)上黒駒村の名主。安政3年博徒となる。甲斐を代表する親分となったが,清水次郎長との縄張り争いにやぶれる。慶応4年赤報隊に池田勝馬の変名
30. 黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)
日本大百科全書
子分は90人余に及んだという。1861年(文久1)以降他派と確執・闘争を繰り返したが、駿河するが(静岡県)の清水次郎長しみずのじろちょうとの抗争は有名。賭博とば
31. 講談画像
日本大百科全書
講釈種の浪花節はもてはやされたものの、講談自体は映画やレビューなどに圧倒され続けた。とはいえ、『清水次郎長伝』を売り物にした3代神田伯山、ことに世話物を得意とし
32. こうだん【講談】画像
国史大辞典
しかし明治三十年代より衰勢を示し、関東大震災で釈場の大半を失い、ますます衰微した。とはいえ、「清水次郎長伝」の三代目神田伯山、世話物の三代目錦城斎典山、軽い読み
33. 小金井蘆洲
世界大百科事典
返上し,小金井桜洲(おうしゆう)を名乗った。6代(本名岩間虎雄。1926-2003)は,さびのある声で《清水次郎長》《国定忠治》《天保水滸伝》などの俠客ものを得
34. こがねい-ろしゅう【小金井芦洲(6代)】
日本人名大辞典
昭和17年4代小金井芦洲に入門。靖洲,若洲をへて真打となり,5代西尾麟慶を名のる。40年6代を襲名。「清水次郎長」「国定忠治」などの仁侠物や世話物で知られ,立川
35. こまさ【小政】
日本人名大辞典
きょうかく)。天保(てんぽう)12年生まれ。遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松の魚屋の次男。清水次郎長の子分となり,居合術を修業する。大政とおなじ山本政五郎を名の
36. こまつむら-おその【小松村おその】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の女性。文政6年生まれ。遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀(よこすか)の博徒小松村七五郎の妻。清水次郎長(じろちょう)の子分,森の石松をかくまった
37. さんだいめ【三代目】 : 神田伯山/(三)
国史大辞典
(三)三代目 一八七二―一九三二 東京の生まれ。二代目の門人。本名岸田福松。「清水次郎長伝」で売り出した。昭和七年(一九三二)一月没。六十一歳。墓は港区三田
38. 静岡[市]
世界大百科事典
地区のイチゴなど。古墳時代中期の三池平古墳,日本武尊伝説を伝える草薙(くさなぎ)神社,俠客清水次郎長の墓がある梅蔭寺,山岡鉄舟が再興した鉄舟寺,清見寺(庭園は名
39. 清水(静岡市)
日本大百科全書
物館・同自然史博物館がある。また海水浴、キャンプも楽しめる。そのほか、名刹めいさつも多く、清水次郎長の墓のある梅蔭寺ばいいんじ、国指定名勝の庭園をもつ清見寺せい
40. しみずちょううけしんでん【清水町受新田】静岡県:清水市/旧有渡郡地区
日本歴史地名大系
双方より大砲打掛、死人凡四、五拾人、手負数しらす」とみえる。放置され、海面に漂ったままであった死体を清水次郎長(山本長五郎)が密かに引上げ向島の一画に埋葬、墓を
41. しもしみずむら【下清水村】静岡県:清水市/旧有渡郡地区
日本歴史地名大系
門のみが残されたという(烈祖殿址之碑)。跡地は現在清水教会の敷地で、碑は下清水八幡社境内に建つ。梅蔭禅寺には清水次郎長の墓がある。
42. しんもんたつごろう【新門辰五郎】
国史大辞典
さらに慶喜が水戸に退き、あるいは駿府に移されるに際しても身辺護衛の任を果たした。世に江戸の新門辰五郎、東海の清水次郎長、関西の会津小鉄を三侠客と呼んでいる。明治
43. 時代劇映画
世界大百科事典
生み出すことになる。 まず,松竹が1922年,伊藤大輔脚本,野村芳亭監督,勝見庸太郎主演《清水次郎長》を〈純映画化されたる旧劇〉と宣伝して公開し,翌23年,同じ
44. たけいのどもやす【竹居の吃安】
日本架空伝承人名事典
俗にいう「大利根河原の決闘」の遠因とされる一八四二年(天保一三)の「十一屋の花会」に、国定忠治や清水次郎長などと参加していたといわれるが、この花会の存在自体が疑
45. 伝統と革新【2020】[【巻頭インタビュー】講談師 神田松之丞【2020】]画像
現代用語の基礎知識
われわれは目撃することになる。 「歴代の伯山が得意とした読み物、『徳川天一坊』であったり『清水次郎長伝』に敬意を表しつつ、自分なりの伯山像をつくり上げていきたい
46. 浪花節
世界大百科事典
佐渡情話》の寿々木米若(すずきよねわか),《天保水滸伝(すいこでん)》の2代玉川勝太郎,《清水次郎長伝》の2代広沢虎造,《紀伊国屋(きのくにや)文左衛門》の梅中
47. のむら-ほうてい【野村芳亭】
日本人名大辞典
明治13年11月13日生まれ。大正9年松竹キネマにはいる。蒲田(かまた)撮影所初代所長兼監督となり,「清水次郎長」「女と海賊」「女殺油地獄」などの娯楽作品を発表
48. 馬鹿(ばか)は死(し)ななきゃ治(なお)らない
故事俗信ことわざ大辞典
馬鹿は死ななきゃなおらない」二代広沢虎造の浪曲「清水次郎長外伝・石松三十石船」によって、広く知られるようになった。ラジオ放送の影響もあって、昭和一二年
49. 博徒
世界大百科事典
織され,なわばり(寺銭を徴収できる勢力範囲)の拡大に努めた。博徒の親分としては,国定忠次,清水次郎長らが有名であるが,芝居や講談によって,実像とは著しく異なる博
50. 広沢虎造
世界大百科事典
関西の2代広沢虎吉門下。23歳で真打になって帰京し,題材に3代神田伯山(はくざん)の講談《清水次郎長》《夕立勘五郎》などを選び,節(ふし)は2代鼈甲斎虎丸(べつ
「清水次郎長」の情報だけではなく、「清水次郎長」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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武田耕雲斎(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一八〇四 - 六五 幕末尊攘派の水戸藩士。文化元年(一八〇四)同藩士跡部正続の嫡男として生まれる。正続の兄正房の養子となり本家を継いだが、のち跡部の旧姓武田に復す。名は正生。通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。字は伯道。号は如雲、致仕後に耕雲斎。文化十四年
高島秋帆(世界大百科事典・国史大辞典)
幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年
菅義偉(日本大百科全書)
政治家。秋田県の生まれ。秋田県立湯沢高等学校を卒業後、上京し就職するがほどなくして帰郷。二浪して法政大学法学部政治学科に進学する。空手道部に4年間在籍し空手道二段。1973年(昭和48)3月同大学卒業。1975年政治家を志し大学OBで自由民主党
石川丈山(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸初期の漢詩人。名は凹 (おう)。丈山は字 (あざな)。六六山人、四明山人、凹凸窠 (おうとつか)などと号した。代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩 (せいか)に入門
清水次郎長(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期・維新期の侠客。駿河国有渡郡清水湊の海運業三右衛門の三男として生まれ、のち母の弟である米屋山本次郎八の養子となる。山本長五郎が本名で次郎長は通称。幼年期より粗暴の性質であった。一八三五年(天保六)に養父が死去し、家業を相続した。四一年に博徒
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