1. 赤穂浪士画像
世界大百科事典
切腹したのは46人である。彼らは世に赤穂浪士,赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており,この事件は全体として赤穂事件と呼びならわされている。 赤穂浪士は死後
2. 赤穂浪士
世界大百科事典
大仏(おさらぎ)次郎の長編小説。1927-28年(昭和2-3),《東京日日新聞》に連載。28-29年,改造社から3巻本として刊行。この小説中の大石良雄は,松の廊
3. あこう‐ろうし[あかほラウシ]【赤穂浪士】
日本国語大辞典
「あこうぎし(赤穂義士)」に同じ。アコーローシ
[ロ]
4. あこうろうし【赤穂浪士】
日本架空伝承人名事典
このとき切腹したのは四六人である。彼らは世に赤穂浪士、赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており、この事件は全体として赤穂事件とよびならわされている。 赤穂浪
5. 赤穂浪士(小説)
日本大百科全書
大仏おさらぎ次郎の代表的な長編小説。1927年(昭和2)5月~1928年11月『東京日日新聞』連載、1928~1929年改造社刊。3巻。不幸な境遇に育った堀田隼
6. 赤穂浪士(日本史)画像
日本大百科全書
。彼らが死刑に処せられたのはそのためであり、単に徒党の禁を犯したなどの事情によるのではない。赤穂浪士の評価にはこの二つの見方ができる。幕府も斬罪ざんざいとはせず
7. 赤穂浪士一件(著作ID:4357876)
新日本古典籍データベース
あこうろうしいっけん
8. 赤穂浪士討入伝(著作ID:4127257)
新日本古典籍データベース
あこうろうしうちいりでん 別所良顕(べっしょよしあき) 実録
9. 赤穂浪士覚書(著作ID:589957)
新日本古典籍データベース
あこうろうしおぼえがき 記録
10. 赤穂浪士の仇討記録(著作ID:763111)
新日本古典籍データベース
あこうろうしのあだうちきろく 記録
11. 赤穂浪士一覧
日本大百科全書
●細川越中守綱利(肥後熊本城主)預け大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしお 45歳。家老、1500石。長子主税ちからとともに参加。変名、池田久右衛門、垣見五郎
12. 義臣伝記(著作ID:290426)
新日本古典籍データベース
ぎしんでんき 赤穂浪士伝 伝記
13. 五美談(著作ID:194183)
新日本古典籍データベース
ごびだん 赤穂浪士評断 雑史
14. 赤穂浪士 : 表-赤穂浪士一覧画像
世界大百科事典
[氏名] [年齢*1] [役職] [《仮名手本忠臣蔵》登場人物名*2] 大石内蔵助良雄 45 家老 大星由良助 大石主税良金(良雄嫡子) 16 大星力弥 片岡源
15. 赤穂[市]
世界大百科事典
雄村が合体,市制。人口5万0523(2010)。市街地は千種(ちくさ)川の三角州上に発達し,赤穂浪士と製塩で知られる。江戸初期に浅野氏が建設した城下町で,製塩も
16. あこう【赤穂】
国史大辞典
昭和二十六年十二月には相生経由の国鉄が乗り入れ、さらに同三十七年九月に国鉄赤穂線が開通した。名所旧跡として、赤穂浪士関係遺跡・花岳寺・大石神社・赤穂城址・御崎の
17. あこう‐ぎし[あかほ‥]【赤穂義士】
日本国語大辞典
襲って、主君浅野長矩(ながのり)の仇を討った旧赤穂藩士四七名のこと。翌年二月、切腹を命じられた。赤穂浪士。四十七士。討ち入りに参加した浪士を義士とする見方は当初
18. あこうぎししりょう【赤穂義士史料】
国史大辞典
また新しく発見されたさまざまの日記・覚書の類や、書翰など、根本史料が厳密な校訂を加えて収められている。特に赤穂浪士の「親類書」などは、纂書も収めえなかったもので
19. あこうぎじんさんしょ【赤穂義人纂書】
国史大辞典
赤穂浪士関係の論説、浪士の伝記・書簡などを集めたもの。磐城平藩藩士鍋田晶山の編したもの。晶山は名を三善といい、別号は静幽堂ともいう。嘉永ごろの成立か。原本は早
20. あこうぎじんろく【赤穂義人録】
国史大辞典
赤穂浪士賞揚の立場から事件を扱った代表的な書。『赤城義人録』『義人録』『赤穂義士録』ともいう。室鳩巣著。二巻一冊。元禄十六年(一七〇三)十月の自序が付けられて
21. あこうじけん【赤穂事件】画像
国史大辞典
)がおきた。この二つの事件を合わせて、赤穂事件という。第一の事件は浅野刃傷事件、第二の事件は赤穂浪士復讐事件などともいわれている。後年『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃
22. 赤穂藩
世界大百科事典
銀=正貨の全面的藩庫吸収に成功した。1701年(元禄14)浅野長矩の江戸城中刃傷事件,翌年の赤穂浪士吉良邸討入りは有名である。浅野氏断絶後,02年永井氏(譜代)
23. あさのたくみのかみ【浅野内匠頭】
日本架空伝承人名事典
切腹・改易の処分をうけた。その遺臣たちが翌年一二月義央を殺害した事件は有名である。[田原 嗣郎] 赤穂浪士の討入りはその後戯曲等に仕組まれ、浅野長矩は『仮名手本
24. 浅野長矩
世界大百科事典
腹・改易の処分をうけた。その遺臣たちが翌年12月義央を殺害した事件は有名である。田原 嗣郎 赤穂浪士の討入りはその後戯曲等に仕組まれ,浅野長矩は《仮名手本忠臣蔵
25. あざぶきたひがくぼちよう【麻布北日下窪町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
寺(東麻布の現瑠璃光寺に合併)、朝日稲荷(別当徳乗院とも)の寺社地を合併。長府藩上屋敷では、赤穂浪士武林唯七・間新六郎ら一〇人が討入り後収容され、元禄一六年切腹
26. あだ‐うち【仇討】
日本国語大辞典
われ、わが国では武家時代盛んになり、建久四年(一一九三)の曾我兄弟、元祿一五年(一七〇二)の赤穂浪士の敵討ちなどは最も有名。以後士風の衰退により農工商にも及んだ
27. 伊賀越道中双六
世界大百科事典
して伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀越の敵討を題材にした作品の総称。曾我兄弟,赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして,近世演劇のみならず小説,講
28. いがごえのかたきうち【伊賀越の敵討】
国史大辞典
又右衛門は甚左衛門のほか一人を斬っただけで、仇方は全部で四人殺されたにすぎない。このことは曾我兄弟・赤穂浪士とともに日本三大仇討の一つといわれている。それは幕府
29. いがごえもの【伊賀越物】
歌舞伎事典
して伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀の仇討を題材にした作品の総称。曾我兄弟、赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして、近世演劇のみならず小説・講談
30. いずしよとう【伊豆諸島】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
島に、元禄一一年幕府の怒りに触れた多賀朝湖(英一蝶)が三宅島、仏師民部が八丈島に、同一五年に赤穂浪士の倅らが大島にそれぞれ流罪になっている。また元禄以降宗教弾圧
31. イラストレーション
世界大百科事典
邦枝完二《お伝地獄》《おせん》の小村雪岱(1887-1940),吉川英治《鳴門秘帖》および大仏次郎《赤穂浪士》の岩田専太郎(1901-74),永井荷風《濹東綺譚
32. うえすぎ-しょうぞう【上杉祥三】
日本人名大辞典
「怪盗乱魔」で初舞台。のち「走れメルス」などに出演。63年プロデュース-チームを結成し野田秀樹作「赤穂浪士」を演出。平成2年「BROKENハムレット」,3年「B
33. うえすぎ-つなのり【上杉綱憲】
日本人名大辞典
ゆるされ,寛文4年出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩主上杉家4代。15万石に半減。吉良邸に討ち入りした赤穂浪士を討とうとしたが老中にとめられた。宝永元年6月2日死去
34. うしだむら【牛田村】愛知県:知立市
日本歴史地名大系
たてて商う」とある。臨済宗妙心寺派の大雄山泉蔵寺に芋掘り地蔵とよばれる地蔵があり、伝説を伝える。境内に赤穂浪士吉田忠左衛門の妻おりんの墓がある。八幡社を鎮守とす
35. うつみ-どうおく【内海道億】
日本人名大辞典
播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩の藩医。藩主浅野家断絶後,京都の寺井玄渓とともに,仇討ちをくわだてる赤穂浪士を医療面や資金面で援助した。
36. えいらくちようにちようめ【永楽町二丁目】東京都:千代田区/旧麹町区地区地図
日本歴史地名大系
を機に鍛冶橋御門内に移転した。南東角は同年に高家吉良家上屋敷となるが、まもなく北本所に移って赤穂浪士の討入りに遭う。同一五年―享保四年(一七〇二―一九)にはいわ
37. 江戸小咄集 1 318ページ
東洋文庫
屋根へ逃げたとは、すまぬ」「サレバサ縁の下は、みな御家中」(一)元禄十五年十二月十四日、本所吉良邸に赤穂浪士四十七人、主君浅野内匠頭の敵を打つ事件あり、それを演
38. 江戸小咄集 2 208ページ
東洋文庫
(…婦女子の手紙の終りの定り文句。雁の飛ぶように早く、手紙が相手に届くようにとの意から (三》手紙のこと (酉赤穂浪士の一人。神崎与五郎とも作られていて、箱根山
39. 江戸小咄集 2 400ページ
東洋文庫
今の広告に映画や芝居やテレビなどのタレントを使うのと同じ考えである。忠臣蔵開帳咄一 枚嘉永四年 元禄十五年赤穂浪士の仇討事件で『忠臣蔵』劇が出来た。たまたま芝居
40. 江戸時代
世界大百科事典
程で少なくとも主君との感情共有が成立しているかのように行動することを強制されることとなった。赤穂浪士の敵討は彼らの言うところによれば吉良を憎いと思う主君の気持ち
41. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
諸役人の役料を制定1697(元禄10)7月 旗本知行制改正(地方直し)1702(元禄15)12月 赤穂浪士大石良雄ら吉良義央を討つ1707(宝永4)10月 幕府
42. 大石良雄
世界大百科事典
率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。田原 嗣郎 大石良雄は赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群の中心人物
43. 大石良雄
日本史年表
1702年〈元禄15 壬午⑧〉 12・15 赤穂浪士 大石良雄 ら、吉良義央を討つ(実紀)。 1703年〈元禄16 癸未〉 2・4 幕府、大石良雄ら46人に切
44. おおいし-りく【大石りく】
日本人名大辞典
江戸時代前期,大石良雄の妻。寛文9年生まれ。貞享(じょうきょう)4年結婚。元禄(げんろく)15年赤穂浪士の吉良(きら)邸討ち入りに先だって離縁され,但馬(たじま
45. 大岡政談 1 220ページ
東洋文庫
長いものであるのに、この一件は逆で、信憑性ある史料の記事の方がより詳細である。恐らく被害者が赤穂浪士の脱落者であったこと、主殺しに対する刑罰が改まり、実際に鋸引
46. 大岡政談 1 226ページ
東洋文庫
五世松本幸四郎がこれを演じ、以後かれの当り役の一つとなった。これは四谷怪談が忠臣蔵と結び付いた筋立であるので、赤穂浪士の脱落者小山田庄左衛門(後の中島隆碩)を殺
47. おおしま【大島】東京都:大島支庁/大島町地図
日本歴史地名大系
坂の敵討ちで知られる奥平源八郎、天和二年(一六八二)に越後騒動の小栗兵庫など、元禄一六年には赤穂浪士の遺児間瀬定八らが流され、また他の諸島と同様に日蓮宗不受不施
48. おおたかげんご【大高源五】
国史大辞典
一六七二―一七〇三 江戸時代中期の播磨国赤穂藩士。赤穂浪士の一人。寛文十二年(一六七二)生まる。名は忠雄(ただたか)。普通、源吾とも書く。俳号を子葉(しよう)
49. 大高源吾
世界大百科事典
12-元禄16) 大石良雄を首領として1702年(元禄15)12月14日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高20石五人扶持で,父忠晴の代に新たに浅野家
50. おおたかげんご【大高源吾】
日本架空伝承人名事典
大石良雄を首領として一七〇二年(元禄一五)一二月一四日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高二〇石五人扶持で、父忠晴の代に新たに浅野家に召し抱えられた。