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ジャパンナレッジで閲覧できる『赤穂浪士』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・日本大百科全書

新版 日本架空伝承人名事典

赤穂浪士
あこうろうし
 一七〇一年(元禄一四)三月一四日に、江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(五万三五〇〇石)浅野内匠頭長矩ながのりが高家肝煎きもいり(旗本)であった吉良上野介義央よしなかに突然斬りかかって傷を負わせた事件があった。この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して、将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずであったが、事件は勅使らの到着直前に起こった。浅野長矩は勅使の御馳走役であったが職務を放擲ほうてきして事を起こしたのである。これらの条件が浅野の罪を重くし、彼は即日切腹の処分をうけ、浅野家は取りつぶされた。吉良義央は儀礼担当の職にありながら浅野に十分な指示を与えず、浅野が恥をかくなどのことがあり、それを遺恨として吉良を殺そうとしたといわれ、浅野家中をはじめ巷間ではそのうわさを信じていたが、その実否は不明であり、幕府は浅野側の正当性はいっさい認めず一方的な犯罪として処理した。それにしてもこの処分は過酷であると世に受け取られた。浅野側ではこの事件をけんかとみ、幕府の処分を片手落ちとする一方、吉良はみずから手は下さなかったが結果的には浅野を破滅に追い込んだ仇敵とみなし、亡君の遺志を継いで吉良を殺し、両成敗を完成させることで、切腹・改易の処分によって失われた浅野家の名誉を回復しようとする者があった。いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに、吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し、幕府に嘆願したが、〇二年七月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流した。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散した。そして一二月一四日に大石以下の浅野家遺臣が本所の吉良邸に乱入し、吉良義央を殺害してその首を泉岳寺の長矩の墓前に献じたのである。この事件は有名になったために、後になって作られた史料が多く、事件の経過や浪士の動静、その処分をめぐっての幕府内部の議論までが伝えられているが、正確な情報は『堀部武庸筆記』や『江赤見聞記』(五巻まで)などわずかな史料から得られるにすぎず、ほとんどは十分な根拠のない虚構に近いものである。幕府では大石以下の行為は「公儀を恐れざるの段、重々不届」であるとして切腹を命じ、〇三年二月四日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは四七人といわれるが、このとき切腹したのは四六人である。彼らは世に赤穂浪士、赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており、この事件は全体として赤穂事件とよびならわされている。
 赤穂浪士は死後、「義人」「義士」としてたたえられた。なかでもその年の秋に室鳩巣きゅうそうが著した『赤穂義人録』が有名である。彼らが亡君の仇讐きゅうしゅうを報じた、または亡君の遺志を継いで吉良を殺したことが家臣・武士としての「義」に当たると考えられたからであり、全員が刑に服したことも世の同情を集めた。大名の家という閉鎖的な社会で主君たる大名のために生命をささげて仕え、主家の名誉のために死を賭けることは「義」といえるであろう。だが、江戸の武士社会は大名‐家臣という主従関係に重なって、将軍‐大名という関係がある。もし大名が将軍=幕府と対立した関係にあるとすれば、家臣の主君への「義」は幕府からみたときには「不義」となる。浅野長矩は吉良の加害者にすぎず、時と所をわきまえない犯罪によって幕府から死刑に処せられたのであるから、吉良は浅野の仇敵ではなく、幕府もそれを認めていない。赤穂浪士の行為は大名の家の観点からは「義」であろうが、幕府の側からみれば犯罪であり、したがって彼らは死刑に処せられた。幕府の立場を是とすれば浪士の行為は不義・不法でなければならない。
 このように二つの立場がある以上、赤穂浪士に対する見方が分かれるのは自然である。この一方の立場から徹底的な批判を加えたのが佐藤直方であり、赤穂浪士は幕府を相手とすべきであるのに、誤って吉良を討ったとの観点から批判したのが太宰春台であった。そしてこの両者の批判をめぐって賛否の議論が、宝永から天保まで一三〇年にもわたって続けられた。赤穂事件には、二重の主従関係に限定される武士の生き方にかかわる深刻な問題が包蔵されていたからである。世論の大勢は浪士を支持し賞賛する側に傾いた。武士にとって大名の家こそが最終的に身を託すべき存在であり、家臣として生きることがもっとも切実であったからであろう。幕府が浪士の処分と同時に吉良家を取りつぶして両成敗と同じ結果にもちこんだことは、幕藩制の構造に基づく武士社会の動向を予見しての結果とみることができる。『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、後世この事件に題材をとった文芸作品は多いが、幕藩制の二重の主従関係における武士の「義」とは何かという、赤穂事件の核心的な問題はほとんど見のがされている。なお赤穂浪士は長矩と同じ芝高輪の泉岳寺に葬られた。
[田原 嗣郎]
 太平の世に四七人もの武士が一団となって、主君のための仇討を極秘裏に計画し、みごとに成功させたという赤穂浪士の事件は、江戸の庶民の注目を大いに集め、これに取材した数多くの作品群、いわゆる「忠臣蔵物」を現代に及ぶまで生み続けてきた。義のために身命をなげうった赤穂浪士たちの行動に、庶民は大いに共感しかっさいをおくり、続々と脚本が書き下ろされ上演され続けたのである。近松門左衛門は『太平記』の世界の話ということでこの討入事件を脚色し、一七一〇年(宝永七)には『碁盤太平記』を上演した。吉良上野介義央を高師直に、浅野内匠頭長矩を塩冶えんや判官に、大石内蔵助くらのすけを大星由良助ゆらのすけとして登場させている。また、討入りから四七年目の一七四八年(寛延一)に義士たちを描いた代表的な人形浄瑠璃が書かれた。竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作による『仮名手本忠臣蔵』である。この作品は、芝居の独参湯どくじんとうと呼ばれ、不入りのときでも『忠臣蔵』を出せば、必ずもちなおすといわれるほど民衆に愛される演劇となっていった。この作品が初演されて以来、江戸時代では、毎年のように上演され、大ヒットを続けたのである。『仮名手本忠臣蔵』は、それまでに書かれた義士劇の集大成であり、その成立までの過程は江戸時代の庶民の生活感情を反映し、演劇としての「忠臣蔵」の庶民化、普遍化への過程であった。この作品の出現により、赤穂浪士の事件そのものをも「忠臣蔵の事件」と呼ばせ、「忠臣蔵物」というジャンルの名称で一括させるほどの普及力があった。江戸後期から明治にかけては、講釈種をとり入れた多くの「義士銘々伝」や「外伝」がつくられた。四十七士に関するいろいろなエピソードを述べた「銘々伝」は、四七人すべてに用意されたわけではないが、勘平(萱野三平)をはじめとして、堀部安兵衛、神崎与五郎、赤垣源蔵、大高源吾、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などがとりあげられ、個性豊かなイメージを庶民に与えていった。またそれは、庶民の赤穂浪士たちへの知識を前提として、ふくらんでいったものでもあり、庶民の義士への夢を満たすものでもあった。「忠臣蔵」にその世界をとった作品は、歌舞伎や浄瑠璃、小説をはじめ、浪曲、講談から、映画、ラジオ、テレビ、軽演劇、さらには漫画にいたるまで、膨大な数にのぼる。それは、日本の庶民が「忠臣蔵」の世界をいかに愛し続けてきたかを物語るものであろう。
[中山 幹雄]
●――赤穂浪士  【表】赤穂浪士一覧
氏名年齢*1役職『仮名手本忠臣蔵』登場人物名*2
大石内蔵助良雄45家老大星由良助
大石主税良金(良雄嫡子)16大星力弥
片岡源五右衛門高房37側用人・児小姓頭
原惣右衛門元辰56足軽頭原郷右衛門
堀部弥兵衛金丸77(元江戸留守居)織部弥次兵衛
堀部安兵衛武庸(金丸養子)34馬廻・使番
近松勘六行重34馬廻
吉田忠左衛門兼亮64足軽頭・郡代
吉田沢右衛門兼貞(兼亮嫡子)29蔵奉行
間瀬久太夫正明63大目付
間瀬孫九郎正辰(正明嫡子)23
潮田又之丞高教35馬廻・絵図奉行
富森助右衛門正因34馬廻・使番富森助右衛門
赤埴源蔵重賢35馬廻
不破数右衛門正種34馬廻(事件後帰参)不破数右衛門
岡野金右衛門包秀24物頭並
小野寺十内秀和61京都留守居
小野寺幸右衛門秀富(秀和養子)28
奥田孫太夫重盛57馬廻・武具奉行
奥田貞右衛門行高(重盛養子)26
大石瀬左衛門信清27馬廻
木村岡右衛門貞行46馬廻・絵図奉行
矢田五郎右衛門助武29馬廻
早水藤左衛門満堯40馬廻
磯貝十郎左衛門正久25物頭・側用人
間喜兵衛光延69勝手方・吟味役
間十次郎光興(光延嫡子)26矢間重太郎
間新六郎光風(光延次子)24
中村勘助正辰45物書役
菅谷半之丞政利45馬廻・郡代
千馬三郎兵衛光忠51馬廻
村松喜兵衛秀直62中小姓・扶持奉行
村松三太夫高直(秀直嫡子)27
岡島八十右衛門常樹38中小姓・札座勘定方
大高源吾忠雄32中小姓・膳番元方・御金・腰物方大鷲文吾
倉橋伝助武幸34中小姓・扶持奉行
矢頭右衛門七教兼18(亡父長助,中小姓・勘定方)
勝田新左衛門武堯24中小姓・札座横目
前原伊助宗房40中小姓・金奉行前原伊助
貝賀弥左衛門友信54中小姓・小赤松番所
武林唯七隆重33中小姓竹森喜多八
杉野十平次房富24中小姓・札座横目
神崎与五郎則休38横目千崎弥五郎
茅野和助常成37横目
横川勘平宗利37勘定方
三村次郎左衛門包常37酒奉行
(寺坂吉右衛門信行)39(吉田兼亮組下足軽)寺岡平右衛門
注  *1年齢は元禄16年(1703)当時の数え年.
*2『仮名手本忠臣蔵』の登場人物名は,人形浄瑠璃と歌舞伎狂言とでは異なる場合がある.


世界大百科事典

赤穂浪士
あこうろうし

1701年(元禄14)3月14日に,江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(5万3500石)浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家肝煎(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件があった。この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して,将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずであったが,事件は勅使らの到着直前に起こった。浅野長矩は勅使の御馳走役であったが職務を放擲(ほうてき)して事を起こしたのである。これらの条件が浅野の罪を重くし,彼は即日切腹の処分をうけ,浅野家は取りつぶされた。吉良義央は儀礼担当の職にありながら浅野に十分な指示を与えず,浅野が恥をかくなどのことがあり,それを遺恨として吉良を殺そうとしたといわれ,浅野家中をはじめ巷間ではそのうわさを信じていたが,その実否は不明であり,幕府は浅野側の正当性はいっさい認めず一方的な犯罪として処理した。それにしてもこの処分は過酷であると世に受け取られた。浅野側ではこの事件をけんかとみ,幕府の処分を片手落ちとする一方,吉良はみずから手は下さなかったが結果的には浅野を破滅に追い込んだ仇敵とみなし,亡君の遺志を継いで吉良を殺し,両成敗を完成させることで,切腹・改易の処分によって失われた浅野家の名誉を回復しようとする者があった。いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに,吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し,幕府に嘆願したが,02年7月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流した。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散した。そして12月14日に大石以下の浅野家遺臣が本所の吉良邸に乱入し,吉良義央を殺害してその首を泉岳寺の長矩の墓前に献じたのである。この事件は有名になったために,後になって作られた史料が多く,事件の経過や浪士の動静,その処分をめぐっての幕府内部の議論までが伝えられているが,正確な情報は《堀部武庸筆記》や《江赤見聞記》(5巻まで)などわずかな史料から得られるにすぎず,ほとんどは十分な根拠のない虚構に近いものである。幕府では大石以下の行為は〈公儀を恐れざるの段,重々不届〉であるとして切腹を命じ,03年2月4日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは47人といわれるが,このとき切腹したのは46人である。彼らは世に赤穂浪士,赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており,この事件は全体として赤穂事件と呼びならわされている。

 赤穂浪士は死後,〈義人〉〈義士〉としてたたえられた。なかでもその年の秋に室鳩巣(きゆうそう)が著した《赤穂義人録》が有名である。彼らが亡君の仇讐(きゆうしゆう)を報じた,または亡君の遺志を継いで吉良を殺したことが家臣・武士としての〈義〉に当たると考えられたからであり,全員が刑に服したことも世の同情を集めた。大名の家という閉鎖的な社会で主君たる大名のために生命をささげて仕え,主家の名誉のために死を賭けることは〈義〉といえるであろう。だが,江戸の武士社会は大名-家臣という主従関係に重なって,将軍-大名という関係がある。もし大名が将軍=幕府と対立した関係にあるとすれば,家臣の主君への〈義〉は幕府からみたときには〈不義〉となる。浅野長矩は吉良の加害者にすぎず,時と所をわきまえない犯罪によって幕府から死刑に処せられたのであるから,吉良は浅野の仇敵ではなく,幕府もそれを認めていない。赤穂浪士の行為は大名の家の観点からは〈義〉であろうが,幕府の側からみれば犯罪であり,したがって彼らは死刑に処せられた。幕府の立場を是とすれば浪士の行為は不義・不法でなければならない。

 このように二つの立場がある以上,赤穂浪士に対する見方が分かれるのは自然である。この一方の立場から徹底的な批判を加えたのが佐藤直方であり,赤穂浪士は幕府を相手とすべきであるのに,誤って吉良を討ったとの観点から批判したのが太宰春台であった。そしてこの両者の批判をめぐって賛否の議論が,宝永から天保まで130年にもわたって続けられた。赤穂事件には,二重の主従関係に限定される武士の生き方にかかわる深刻な問題が包蔵されていたからである。世論の大勢は浪士を支持し賞賛する側に傾いた。武士にとって大名の家こそが最終的に身を託すべき存在であり,家臣として生きることがもっとも切実であったからであろう。幕府が浪士の処分と同時に吉良家を取りつぶして両成敗と同じ結果にもちこんだことは,幕藩制の構造に基づく武士社会の動向を予見しての結果とみることができる。《仮名手本忠臣蔵》をはじめ,後世この事件に題材をとった文芸作品は多いが,幕藩制の二重の主従関係における武士の〈義〉とは何かという,赤穂事件の核心的な問題はほとんど見のがされている。なお赤穂浪士は長矩と同じ芝高輪の泉岳寺に葬られた。
[田原 嗣郎]

演劇における赤穂浪士

太平の世に47人もの武士が一団となって,主君のための仇討を極秘裏に計画し,みごとに成功させたという赤穂浪士の事件は,江戸の庶民の注目を大いに集め,これに取材した数多くの作品群,いわゆる〈忠臣蔵物〉を現代に及ぶまで生み続けてきた。義のために身命をなげうった赤穂浪士たちの行動に,庶民は大いに共感しかっさいをおくり,続々と脚本が書き下ろされ上演され続けたのである。近松門左衛門は《太平記》の世界の話ということでこの討入事件をとりあげ,《兼好法師物見車(ものみぐるま)》に続けて,1710年(宝永7)には《碁盤太平記》を上演した。吉良上野介義央を高師直に,浅野内匠頭長矩を塩冶(えんや)判官に,大石内蔵助(くらのすけ)を大星由良助(ゆらのすけ)として登場させている。また,討入りから47年目の1748年(寛延1)に義士たちを描いた代表的な人形浄瑠璃が書かれた。竹田出雲,並木千柳,三好松洛の合作による《仮名手本忠臣蔵》である。この作品は,芝居の独参湯(どくじんとう)と呼ばれ,不入りのときでも《忠臣蔵》を出せば,必ずもちなおすといわれるほど民衆に愛される演劇となっていった。この作品が初演されて以来,江戸時代では,わずか数年をのぞいて毎年上演され,大ヒットを続けたのである。《仮名手本忠臣蔵》は,それまでに書かれた義士劇の集大成であり,その成立までの過程は江戸時代の庶民の生活感情を反映させ,演劇としての〈忠臣蔵〉の庶民化,普遍化への過程であった。この作品の出現により,赤穂浪士の事件そのものをも〈忠臣蔵の事件〉と呼ばせ,〈忠臣蔵物〉というジャンルの名称で一括させるほどの普及力があった。江戸後期から明治にかけては,講釈種をとり入れた多くの〈義士銘々伝〉や〈外伝〉がつくられた。四十七士に関するいろいろなエピソードを述べた〈銘々伝〉は,47人すべてに用意されたわけではないが,勘平(萱野三平)をはじめとして,堀部安兵衛,神崎与五郎,赤垣源蔵,大高源吾,寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などがとりあげられ,個性豊かなイメージを庶民に与えていった。またそれは,庶民の赤穂浪士たちへの知識を前提として,ふくらんでいったものでもあり,庶民の義士への夢を満たすものでもあった。〈忠臣蔵〉にその世界をとった作品は,歌舞伎や浄瑠璃,小説をはじめ,浪曲,講談から,映画,ラジオ,テレビ,軽演劇,さらには漫画にいたるまで,膨大な数にのぼる。それは,日本の庶民が〈忠臣蔵〉の世界をいかに愛し続けてきたかを物語るものであろう。
→忠臣蔵物
[中山 幹雄]

[索引語]
浅野長矩 吉良義央 大石良雄 浅野大学 赤穂四十七士 赤穂事件 室鳩巣 赤穂義人録 義 佐藤直方 太宰春台 仮名手本忠臣蔵 忠臣蔵物 碁盤太平記 高師直 塩冶(えんや)判官 大石内蔵助 大星由良助 独参湯 四十七士 堀部安兵衛 神崎与五郎 赤埴(垣)源蔵 大高源吾 寺坂吉右衛門


表-赤穂浪士一覧
表-赤穂浪士一覧

<表中テキスト>
[氏名] [年齢*1] [役職] [《仮名手本忠臣蔵》登場人物名*2
 大石内蔵助良雄 45 家老 大星由良助
 大石主税良金(良雄嫡子) 16  大星力弥
 片岡源五右衛門高房 37 側用人・児小姓頭 
 原惣右衛門元辰 56 足軽頭 原郷右衛門
 堀部弥兵衛金丸 77 (元江戸留守居) 織部弥次兵衛
 堀部安兵衛武庸(金丸養子) 34 馬廻・使番 
 近松勘六行重 34 馬廻 
 吉田忠左衛門兼亮 64 足軽頭・郡代 
 吉田沢右衛門兼貞(兼亮嫡子) 29 蔵奉行 
 間瀬久太夫正明 63 大目付 
 間瀬孫九郎正辰(正明嫡子) 23  
 潮田又之丞高教 35 馬廻・絵図奉行 
 富森助右衛門正因 34 馬廻・使番 富森助右衛門
 赤埴源蔵重賢 35 馬廻 
 不破数右衛門正種 34 馬廻(事件後帰参) 不破数右衛門
 岡野金右衛門包秀 24 物頭並 
 小野寺十内秀和 61 京都留守居 
 小野寺幸右衛門秀富(秀和養子) 28  
 奥田孫太夫重盛 57 馬廻・武具奉行 
 奥田貞右衛門行高(重盛養子) 26  
 大石瀬左衛門信清 27 馬廻 
 木村岡右衛門貞行 46 馬廻・絵図奉行 
 矢田五郎右衛門助武 29 馬廻 
 早水藤左衛門満尭 40 馬廻 
 磯貝十郎左衛門正久 25 物頭・側用人 
 間喜兵衛光延 69 勝手方・吟味役 
 間十次郎光興(光延嫡子) 26  矢間重太郎
 間新六郎光風(光延次子) 24  
 中村勘助正辰 45 物書役 
 菅谷半之丞政利 45 馬廻・郡代 
 千馬三郎兵衛光忠 51 馬廻 
 村松喜兵衛秀直 62 中小姓・扶持奉行 
 村松三太夫高直(秀直嫡子) 27  
 岡島八十右衛門常樹 38 中小姓・札座勘定方 
 大高源吾忠雄 32 中小姓・膳番元方・御金・腰物方 大鷲文吾
 倉橋伝助武幸 34 中小姓・扶持奉行 
 矢頭右衛門七教兼 18 (亡父長助,中小姓・勘定方) 
 勝田新左衛門武尭 24 中小姓・札座横目 
 前原伊助宗房 40 中小姓・金奉行 前原伊助
 貝賀弥左衛門友信 54 中小姓・小赤松番所 
 武林唯七隆重 33 中小姓 竹森喜多八
 杉野十平次房富 24 中小姓・札座横目 
 神崎与五郎則休 38 横目 千崎弥五郎
 茅野和助常成 37 横目 
 横川勘平宗利 37 勘定方 
 三村次郎左衛門包常 37 酒奉行 
 (寺坂吉右衛門信行) 39 (吉田兼亮組下足軽) 寺岡平右衛門
注-*1年齢は元禄16年(1703)当時の数え年.*2《仮名手本忠臣蔵》の登場人物名は,人形浄瑠璃と歌舞伎狂言とでは異なる場合がある.


日本大百科全書(ニッポニカ)

赤穂浪士
あこうろうし

江戸中期、主君浅野長矩 (あさのながのり)の仇 (あだ)を報ずると称して吉良義央 (きらよしなか)を討った赤穂浅野家の遺臣をいう。1701年(元禄14)3月14日、幕府の年賀に対する答礼のための勅使が到着する直前に、江戸城本丸松之廊下で勅使接待の役にあった浅野長矩(播磨 (はりま)赤穂城主5万3500石)が、突然吉良義央(旗本、高家肝煎 (こうけきもいり))に斬 (き)りかかって傷を負わせる事件が起きた。幕府は、浅野の行為を時と所をわきまえぬ犯罪とみなし、ただちに切腹を命じて所領を没収した。浅野の動機は不明であるが、吉良が儀礼上の指示を十分与えなかったためであるともいわれ、浅野家中をはじめ巷間 (こうかん)ではそのうわさを信じた。そこで、幕府がこの事件を単純な犯罪とみたのに対して、吉良との間の喧嘩 (けんか)とみ、両成敗の処分を期待した浅野側では、幕府の処分を片落ちとし、吉良を、浅野を破滅に陥れた仇敵 (きゅうてき)とみなした。そして改易 (かいえき)、切腹の処分によって失われた浅野家の名誉は、浅野家が再興され吉良に処分が加えられるか、または亡君の遺志を継いで吉良を殺し両成敗の処分を事実上完成させることで回復されると考えた。前者は家老であった大石良雄 (おおいしよしお)以下多数の考えであり、長矩の弟大学 (だいがく)による浅野家の取り立てを幕府に嘆願した。しかし翌1702年7月に大学は広島の浅野本家に御預けとなってこの計画は挫折 (ざせつ)し、多くの家臣は離散した。後者は堀部武庸 (ほりべたけつね)(安兵衛)らいわゆる急進派の意図であったが、浅野家再興の望みがなくなったのちは大石らもこれに合流。そして12月14日大石以下の浅野家遺臣が江戸・本所 (ほんじょ)にあった吉良邸に乱入し、吉良義央を殺害してその首を高輪 (たかなわ)の泉岳 (せんがく)寺の長矩の墓前に献げ、大目付 (おおめつけ)に自首した。幕府では大石以下の行為は「公儀を恐れざるの段、重々不届き」であるとして切腹を命じ、1703年2月4日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは47人ともいわれるが、このとき死んだのは46人(寺坂信行を除く)である。

 彼らは死後、義士、義人として世にたたえられた。彼らが亡君の遺志を継いで吉良を殺し仇讐 (きゅうしゅう)を報ずることによって、浅野家の名誉を回復したことが、家臣、武士としての「義」にあたると考えられたからである。大名の「家」は江戸時代における政治的単位であり、また閉鎖的な武士の共同体でもあったから、その首長=主君たる大名に生命を捧 (ささ)げ、主家の名誉のために死を賭 (と)することは確かに「義」ではあったろう。だが、もしその主君が幕府=将軍に敵対していたとすれば、同じ行為も幕府からみれば「非義」となる。浅野長矩はその犯罪行為のために幕府から死刑に処せられた。大石以下の者は「主人の讐 (あだ)を報ず」と申し立て吉良を討ったが、幕府の論理では、吉良は単に被害者にすぎず、大石らは幕府の処分を不満とし吉良を殺害することでそれに反抗したものとみるほかはない。彼らが死刑に処せられたのはそのためであり、単に徒党の禁を犯したなどの事情によるのではない。赤穂浪士の評価にはこの二つの見方ができる。幕府も斬罪 (ざんざい)とはせず切腹とし、墓に葬ることを認めたのであるから、その情状は酌量したのである。同時に吉良家も、当主義周 (よしちか)の討入り当日の仕方が「不埒 (ふらち)」であるとの理由で断絶させられた。彼らを「義士」とする者は室鳩巣 (むろきゅうそう)以下多数であり、その行為を「非義」として批判した佐藤直方 (なおかた)、太宰春台 (だざいしゅんだい)らは少数派であったが、家臣たる武士はだれでも四十六士同様この二つの立場にその身を引き裂かれないとも限らなかったから、問題はきわめて深刻であった。それが将軍―大名、大名―家臣という二重の主従制の下に生きる徳川武士の運命であったのである。そのうえで家臣としての「義」がより重視されたことは、幕藩制という制度または組織を考えるうえで注目に値する。近松門左衛門の『碁盤太平記 (ごばんたいへいき)』、竹田出雲 (いずも)らの『仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら)』をはじめとして、後世この事件に題材をとった文芸作品は数多いが、作者が武士身分でなかったためか、大名、家臣間の主従関係のみに目を奪われ、単なる仇討ものになっていて、幕藩制の二重の主従関係の下での武士の「義」ははたして何かという、この事件の核心的な問題はほとんど見逃されてしまっている。

[田原嗣郎]



大石良雄(大石内蔵助)[百科マルチメディア]
大石良雄(大石内蔵助)[百科マルチメディア]

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1. 赤穂浪士画像
世界大百科事典
切腹したのは46人である。彼らは世に赤穂浪士,赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており,この事件は全体として赤穂事件と呼びならわされている。 赤穂浪士は死後
2. 赤穂浪士
世界大百科事典
大仏(おさらぎ)次郎の長編小説。1927-28年(昭和2-3),《東京日日新聞》に連載。28-29年,改造社から3巻本として刊行。この小説中の大石良雄は,松の廊
3. あこう‐ろうし[あかほラウシ]【赤穂浪士】
日本国語大辞典
「あこうぎし(赤穂義士)」に同じ。アコーローシ〓[ロ]
4. あこうろうし【赤穂浪士】
日本架空伝承人名事典
このとき切腹したのは四六人である。彼らは世に赤穂浪士、赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており、この事件は全体として赤穂事件とよびならわされている。 赤穂浪
5. 赤穂浪士(小説)
日本大百科全書
大仏おさらぎ次郎の代表的な長編小説。1927年(昭和2)5月~1928年11月『東京日日新聞』連載、1928~1929年改造社刊。3巻。不幸な境遇に育った堀田隼
6. 赤穂浪士(日本史)画像
日本大百科全書
。彼らが死刑に処せられたのはそのためであり、単に徒党の禁を犯したなどの事情によるのではない。赤穂浪士の評価にはこの二つの見方ができる。幕府も斬罪ざんざいとはせず
7. 赤穂浪士一件(著作ID:4357876)
新日本古典籍データベース
あこうろうしいっけん 
8. 赤穂浪士討入伝(著作ID:4127257)
新日本古典籍データベース
あこうろうしうちいりでん 別所良顕(べっしょよしあき) 実録 
9. 赤穂浪士覚書(著作ID:589957)
新日本古典籍データベース
あこうろうしおぼえがき 記録 
10. 赤穂浪士の仇討記録(著作ID:763111)
新日本古典籍データベース
あこうろうしのあだうちきろく 記録 
11. 赤穂浪士一覧
日本大百科全書
 ●細川越中守綱利(肥後熊本城主)預け大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしお 45歳。家老、1500石。長子主税ちからとともに参加。変名、池田久右衛門、垣見五郎
12. 義臣伝記(著作ID:290426)
新日本古典籍データベース
ぎしんでんき 赤穂浪士伝 伝記 
13. 五美談(著作ID:194183)
新日本古典籍データベース
ごびだん 赤穂浪士評断 雑史 
14. 赤穂浪士 : 表-赤穂浪士一覧画像
世界大百科事典
[氏名] [年齢*1] [役職] [《仮名手本忠臣蔵》登場人物名*2] 大石内蔵助良雄 45 家老 大星由良助 大石主税良金(良雄嫡子) 16 大星力弥 片岡源
15. 赤穂[市]
世界大百科事典
雄村が合体,市制。人口5万0523(2010)。市街地は千種(ちくさ)川の三角州上に発達し,赤穂浪士と製塩で知られる。江戸初期に浅野氏が建設した城下町で,製塩も
16. あこう【赤穂】
国史大辞典
昭和二十六年十二月には相生経由の国鉄が乗り入れ、さらに同三十七年九月に国鉄赤穂線が開通した。名所旧跡として、赤穂浪士関係遺跡・花岳寺・大石神社・赤穂城址・御崎の
17. あこう‐ぎし[あかほ‥]【赤穂義士】
日本国語大辞典
襲って、主君浅野長矩(ながのり)の仇を討った旧赤穂藩士四七名のこと。翌年二月、切腹を命じられた。赤穂浪士。四十七士。討ち入りに参加した浪士を義士とする見方は当初
18. あこうぎししりょう【赤穂義士史料】
国史大辞典
また新しく発見されたさまざまの日記・覚書の類や、書翰など、根本史料が厳密な校訂を加えて収められている。特に赤穂浪士の「親類書」などは、纂書も収めえなかったもので
19. あこうぎじんさんしょ【赤穂義人纂書】
国史大辞典
赤穂浪士関係の論説、浪士の伝記・書簡などを集めたもの。磐城平藩藩士鍋田晶山の編したもの。晶山は名を三善といい、別号は静幽堂ともいう。嘉永ごろの成立か。原本は早
20. あこうぎじんろく【赤穂義人録】
国史大辞典
赤穂浪士賞揚の立場から事件を扱った代表的な書。『赤城義人録』『義人録』『赤穂義士録』ともいう。室鳩巣著。二巻一冊。元禄十六年(一七〇三)十月の自序が付けられて
21. あこうじけん【赤穂事件】画像
国史大辞典
)がおきた。この二つの事件を合わせて、赤穂事件という。第一の事件は浅野刃傷事件、第二の事件は赤穂浪士復讐事件などともいわれている。後年『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃
22. 赤穂藩
世界大百科事典
銀=正貨の全面的藩庫吸収に成功した。1701年(元禄14)浅野長矩の江戸城中刃傷事件,翌年の赤穂浪士吉良邸討入りは有名である。浅野氏断絶後,02年永井氏(譜代)
23. あさのたくみのかみ【浅野内匠頭】
日本架空伝承人名事典
切腹・改易の処分をうけた。その遺臣たちが翌年一二月義央を殺害した事件は有名である。[田原 嗣郎] 赤穂浪士の討入りはその後戯曲等に仕組まれ、浅野長矩は『仮名手本
24. 浅野長矩
世界大百科事典
腹・改易の処分をうけた。その遺臣たちが翌年12月義央を殺害した事件は有名である。田原 嗣郎 赤穂浪士の討入りはその後戯曲等に仕組まれ,浅野長矩は《仮名手本忠臣蔵
25. あざぶきたひがくぼちよう【麻布北日下窪町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
寺(東麻布の現瑠璃光寺に合併)、朝日稲荷(別当徳乗院とも)の寺社地を合併。長府藩上屋敷では、赤穂浪士武林唯七・間新六郎ら一〇人が討入り後収容され、元禄一六年切腹
26. あだ‐うち【仇討】
日本国語大辞典
われ、わが国では武家時代盛んになり、建久四年(一一九三)の曾我兄弟、元祿一五年(一七〇二)の赤穂浪士の敵討ちなどは最も有名。以後士風の衰退により農工商にも及んだ
27. 伊賀越道中双六
世界大百科事典
して伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀越の敵討を題材にした作品の総称。曾我兄弟,赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして,近世演劇のみならず小説,講
28. いがごえのかたきうち【伊賀越の敵討】
国史大辞典
又右衛門は甚左衛門のほか一人を斬っただけで、仇方は全部で四人殺されたにすぎない。このことは曾我兄弟・赤穂浪士とともに日本三大仇討の一つといわれている。それは幕府
29. いがごえもの【伊賀越物】
歌舞伎事典
して伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀の仇討を題材にした作品の総称。曾我兄弟、赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして、近世演劇のみならず小説・講談
30. いずしよとう【伊豆諸島】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
島に、元禄一一年幕府の怒りに触れた多賀朝湖(英一蝶)が三宅島、仏師民部が八丈島に、同一五年に赤穂浪士の倅らが大島にそれぞれ流罪になっている。また元禄以降宗教弾圧
31. イラストレーション
世界大百科事典
邦枝完二《お伝地獄》《おせん》の小村雪岱(1887-1940),吉川英治《鳴門秘帖》および大仏次郎《赤穂浪士》の岩田専太郎(1901-74),永井荷風《濹東綺譚
32. うえすぎ-しょうぞう【上杉祥三】
日本人名大辞典
「怪盗乱魔」で初舞台。のち「走れメルス」などに出演。63年プロデュース-チームを結成し野田秀樹作「赤穂浪士」を演出。平成2年「BROKENハムレット」,3年「B
33. うえすぎ-つなのり【上杉綱憲】
日本人名大辞典
ゆるされ,寛文4年出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩主上杉家4代。15万石に半減。吉良邸に討ち入りした赤穂浪士を討とうとしたが老中にとめられた。宝永元年6月2日死去
34. うしだむら【牛田村】愛知県:知立市
日本歴史地名大系
たてて商う」とある。臨済宗妙心寺派の大雄山泉蔵寺に芋掘り地蔵とよばれる地蔵があり、伝説を伝える。境内に赤穂浪士吉田忠左衛門の妻おりんの墓がある。八幡社を鎮守とす
35. うつみ-どうおく【内海道億】
日本人名大辞典
播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩の藩医。藩主浅野家断絶後,京都の寺井玄渓とともに,仇討ちをくわだてる赤穂浪士を医療面や資金面で援助した。
36. えいらくちようにちようめ【永楽町二丁目】東京都:千代田区/旧麹町区地区地図
日本歴史地名大系
を機に鍛冶橋御門内に移転した。南東角は同年に高家吉良家上屋敷となるが、まもなく北本所に移って赤穂浪士の討入りに遭う。同一五年―享保四年(一七〇二―一九)にはいわ
37. 江戸小咄集 1 318ページ
東洋文庫
屋根へ逃げたとは、すまぬ」「サレバサ縁の下は、みな御家中」(一)元禄十五年十二月十四日、本所吉良邸に赤穂浪士四十七人、主君浅野内匠頭の敵を打つ事件あり、それを演
38. 江戸小咄集 2 208ページ
東洋文庫
(…婦女子の手紙の終りの定り文句。雁の飛ぶように早く、手紙が相手に届くようにとの意から (三》手紙のこと (酉赤穂浪士の一人。神崎与五郎とも作られていて、箱根山
39. 江戸小咄集 2 400ページ
東洋文庫
今の広告に映画や芝居やテレビなどのタレントを使うのと同じ考えである。忠臣蔵開帳咄一 枚嘉永四年 元禄十五年赤穂浪士の仇討事件で『忠臣蔵』劇が出来た。たまたま芝居
40. 江戸時代
世界大百科事典
程で少なくとも主君との感情共有が成立しているかのように行動することを強制されることとなった。赤穂浪士の敵討は彼らの言うところによれば吉良を憎いと思う主君の気持ち
41. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
諸役人の役料を制定1697(元禄10)7月 旗本知行制改正(地方直し)1702(元禄15)12月 赤穂浪士大石良雄ら吉良義央を討つ1707(宝永4)10月 幕府
42. 大石良雄
世界大百科事典
率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。田原 嗣郎 大石良雄は赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群の中心人物
43. 大石良雄
日本史年表
1702年〈元禄15 壬午⑧〉 12・15 赤穂浪士 大石良雄 ら、吉良義央を討つ(実紀)。 1703年〈元禄16 癸未〉 2・4 幕府、大石良雄ら46人に切
44. おおいし-りく【大石りく】
日本人名大辞典
江戸時代前期,大石良雄の妻。寛文9年生まれ。貞享(じょうきょう)4年結婚。元禄(げんろく)15年赤穂浪士の吉良(きら)邸討ち入りに先だって離縁され,但馬(たじま
45. 大岡政談 1 220ページ
東洋文庫
長いものであるのに、この一件は逆で、信憑性ある史料の記事の方がより詳細である。恐らく被害者が赤穂浪士の脱落者であったこと、主殺しに対する刑罰が改まり、実際に鋸引
46. 大岡政談 1 226ページ
東洋文庫
五世松本幸四郎がこれを演じ、以後かれの当り役の一つとなった。これは四谷怪談が忠臣蔵と結び付いた筋立であるので、赤穂浪士の脱落者小山田庄左衛門(後の中島隆碩)を殺
47. おおしま【大島】東京都:大島支庁/大島町地図
日本歴史地名大系
坂の敵討ちで知られる奥平源八郎、天和二年(一六八二)に越後騒動の小栗兵庫など、元禄一六年には赤穂浪士の遺児間瀬定八らが流され、また他の諸島と同様に日蓮宗不受不施
48. おおたかげんご【大高源五】
国史大辞典
一六七二―一七〇三 江戸時代中期の播磨国赤穂藩士。赤穂浪士の一人。寛文十二年(一六七二)生まる。名は忠雄(ただたか)。普通、源吾とも書く。俳号を子葉(しよう)
49. 大高源吾
世界大百科事典
12-元禄16) 大石良雄を首領として1702年(元禄15)12月14日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高20石五人扶持で,父忠晴の代に新たに浅野家
50. おおたかげんご【大高源吾】
日本架空伝承人名事典
大石良雄を首領として一七〇二年(元禄一五)一二月一四日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高二〇石五人扶持で、父忠晴の代に新たに浅野家に召し抱えられた。
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