1. 沖縄戦画像
日本大百科全書
れた。「平和の礎」は沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑。激戦地となった南部の摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、ま
2. 沖縄戦画像
世界大百科事典
ある。 沖縄戦は国体護持の捨石作戦でしかなかった。小磯国昭・鈴木貫太郎両内閣は敗戦を必至とみて,すでに和平工作に踏み切っていたし,その有利な条件づくりの一つの賭
3. おきなわ‐せん[おきなは‥]【沖縄戦】
日本国語大辞典
第二次世界大戦末期、沖縄本島およびその周辺で行なわれた日本軍とアメリカ軍の戦闘。昭和二〇年(一九四五)四月のアメリカ軍本島上陸から約三カ月にわたる。激しい地上戦
4. 沖縄戦[イミダス編 日本政治]
イミダス 2018
アメリカ軍の掃討戦により多くの死傷者が出た。9月7日、正式に降伏調印式が行われ、沖縄戦が最終的に終結。76年3月の沖縄県援護課の発表によれば、沖縄戦による死亡者
5. 沖縄戦跡国定公園画像
日本大百科全書
陸域面積31.27平方キロメートル、海域面積19.33平方キロメートル。この公園内にある戦跡は、沖縄戦最大の激戦および終焉しゅうえんの地である。1945年5月の
6. おきなわせんせき‐こくていこうえん[おきなはセンセキコクテイコウヱン]【沖縄戦跡国定公園】
日本国語大辞典
沖縄県、沖縄本島南部にある国定公園。糸満市、具志頭(ぐしかみ)村にまたがる。第二次大戦中の沖縄戦最大の激戦および終焉の地。健児之塔、平和祈念資料館などのある摩文
7. おきなわせんせきこくていこうえん【沖縄戦跡国定公園】沖縄県:沖縄島南部
日本歴史地名大系
の丘の上には、国立沖縄戦没者墓苑、各県ごとの慰霊の塔など多くの慰霊碑が建立されている。また丘の海側崖下には、健児の塔をはじめいくつかの慰霊碑がある。平和祈念資料
8. 沖縄戦における沖縄本島中南部の日本軍配備および米軍進出[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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9. 沖縄戦 : 表-沖縄戦戦没者数画像
世界大百科事典
10. 60年【2021】[【KEY NUMBER 数字で読む2020】【2021】]
現代用語の基礎知識
提供する義務を定める。条約が発効したのは6月23日。この日は太平洋戦争末期に米軍との地上戦が展開された沖縄戦の終結から75年の慰霊の日でもあった。沖縄では県民の
11. あいち【愛知】沖縄県:沖縄島中部/宜野湾市/宜野湾村
日本歴史地名大系
一九三九年(昭和一四年)宜野湾から愛知原・胡麻川原、神山から東原・墾良増原を分離して行政区愛知が設置された。沖縄戦後、四七年に戦前の居住地である現国道三三〇号の
12. あかさちむら【赤崎村】沖縄県:沖縄島中部/石川市
日本歴史地名大系
あるいは康熙五年(一六六六)の美里間切新設の際に廃止されたのであろうか(南島風土記)。赤崎原には沖縄戦前まで屋取が数軒あり、塩焚をしていたという。赤崎原の地先は
13. あかふいらむら【赤平村】沖縄県:那覇市/首里
日本歴史地名大系
竈屋に関しては「球陽」尚敬王一七年(一七二九)条に赤平邑上橋辺りにあった嘉真栄宅を売却したとある。井戸は沖縄戦で消滅してしまったが、ミンジャー井戸とよばれた水量
14. あかみち【赤道】沖縄県:沖縄島中部/宜野湾市/神山村
日本歴史地名大系
原・総喜呂原・半田原、喜友名から上原、新城から仲毛原の一部を分離して行政区赤道が設置された。沖縄戦後、西部は米軍の普天間飛行場建設で収用された。
15. あかんみむら【赤嶺村】沖縄県:那覇市/旧島尻郡地区
日本歴史地名大系
現収高米一石(のろくもい役俸)。同年の県統計概表では戸数六八・人口三八三。一九〇三年安次嶺村に合併。沖縄戦後全域が米軍に接収され村民は分散した。現在国道三三一号
16. あぐにじま【粟国島】沖縄県:久米島・渡名喜島・粟国島/粟国村
日本歴史地名大系
艦砲射撃と艦載機の機銃掃射を行い上陸を決行した。全機動部隊の約四万人が上陸、島を占拠した。この沖縄戦による島民の犠牲者は二九九名。ほかに兵役による戦死者は軍人・
17. あぐにそん【粟国村】沖縄県:久米島・渡名喜島・粟国島
日本歴史地名大系
者が逮捕された。一九四五年(昭和二〇年)には米軍による空襲、その後部隊の上陸占拠が行われた。沖縄戦では多数の犠牲者が出た。現在島の主産業はサトウキビ栽培を中心と
18. あさとうむら【安里村】沖縄県:那覇市/旧島尻郡地区
日本歴史地名大系
の円覚寺修理用の材木として松の苗一万株を植えさせ、碑を建立させた(「サシカエシ松尾之碑文」。沖縄戦で消滅)。この一帯は首里と那覇を結ぶ通りに面し、見事な松並木が
19. あさとばし【安里橋】沖縄県:那覇市/旧島尻郡地区/安里村
日本歴史地名大系
ル)、石橋としては真玉橋(六〇間余)に次ぐ規模である(県統計概表)。一九四五年(昭和二〇年)沖縄戦により橋は破壊され、六四年旧来の位置より五〇メートルほど上流に
20. あしんみむら【安次嶺村】沖縄県:那覇市/旧島尻郡地区
日本歴史地名大系
近代もとくに野菜生産と養蚕業が盛んで、二八年(昭和三年)県立蚕業試験場が県農業試験場から独立して設立された。沖縄戦後米軍基地に全域接収され、近年国道三三一号の南
21. あせりむら【安勢理村】沖縄県:沖縄島中部/与那城町
日本歴史地名大系
うち田一反余・畑二二町七反余・宅地一町二反余・山林一町六反余・原野一反余・池沼雑種地三畝余(県統計書)。沖縄戦後、集落全体が米軍の土地収容などで離散し、饒辺など
22. 阿波根昌鴻[沖縄の反戦・反基地運動の先駆的な平和運動家、死去]
イミダス 2018
1901年、沖縄本島本部町出身。キューバ、ペルーに移民後、34年に沖縄に戻り、伊江島に移住。沖縄戦で一人息子を失う。55年、アメリカ軍の強制土地収用に反対して、
23. あらぐしくむら【新城村】沖縄県:沖縄島南部/具志頭村
日本歴史地名大系
新城ノロの単独の崇所であったが、現在新城ノロは存在しない。集落の四隅には火返し魔除けの石獅子があったが、一基は沖縄戦で紛失した。一八八〇年(明治一三年)の戸口は
24. あらぐしくむら【新城村】沖縄県:沖縄島中部/宜野湾市
日本歴史地名大系
」に登場する。当地出身の佐喜真興英が一九二五年(大正一四年)に記した「シマの話」などが著名。沖縄戦によって灰燼に帰し、戦後も旧集落全域が米軍のキャンプ瑞慶覧およ
25. あらぐすくじま【新城島】沖縄県:八重山諸島/竹富町
日本歴史地名大系
年にかけて県の南風見開墾事業により仲間川河口右岸に多くの島民が入植し、大原集落が形成された。沖縄戦において島民は西表島への疎開を命じられ、大原に避難した。しかし
26. あらさき【荒崎】沖縄県:沖縄島南部/糸満市/上里村
日本歴史地名大系
海岸線の形状および経緯度から判断して荒崎であると考えられる。同海岸は沖縄戦末期の激戦地となった場所で、現在ひめゆり隊最後の地の碑などがあり、沖縄戦跡国定公園の一
27. あらさき-もりてる【新崎盛暉】
日本人名大辞典
昭和後期-平成時代の日本史学者。昭和11年1月27日生まれ。中野好夫主宰の沖縄資料センター研究員として沖縄戦後史を研究。昭和49年沖縄大助教授となり,58年から
28. あわせつうしんしせつ【泡瀬通信施設】沖縄県:沖縄島中部/沖縄市/満喜世村
日本歴史地名大系
米軍の軍事占領と同時に区域内に日本本土での戦闘に備えて泡瀬飛行場が建設され、使用開始された。沖縄戦後も引続き使用され、五〇年頃に海軍・空軍が各々通信施設を建設し
29. あんこくさん【安国山】沖縄県:那覇市/首里/町端村
日本歴史地名大系
帯は樹木が鬱蒼と茂って描かれている。明治期に安国山の西側を割いて首里第二小学校が建設された。沖縄戦では第三二軍司令部壕がこの地に造営されたため、一帯は砲撃で著し
30. あんこくじ【安国寺】沖縄県:那覇市/首里/寒水川村
日本歴史地名大系
行う場所としても利用されていたようで、嘉慶二四年(一八一九)に魏学源が講師となっている(魏姓楚南家家譜)。沖縄戦で本堂・宝物などすべて焼失した。戦後再建され、一
31. 暗視装置
世界大百科事典
翌年に東部戦線で使用された。アメリカが開発した小銃用夜間照準具,スナイパースコープは45年に沖縄戦線で初めて使用された。初期のものは赤外線で対象物を照らし,赤外
32. あんなむら【安仁屋村】沖縄県:沖縄島中部/宜野湾市
日本歴史地名大系
九五年には男二名・女二名(科料六四銭二厘)、九六年には男二名・女一名(科料六五銭二厘)であった(南島村内法)。沖縄戦によって全域が灰燼に帰し、戦後全域がキャンプ
33. あーしじま【泡瀬島】沖縄県:沖縄島中部/沖縄市/満喜世村
日本歴史地名大系
・自転車屋・派出所などが立並び、中北部東海岸の一大商業・工業地として賑いをみせていた。一帯は沖縄戦中、米軍によって飛行場が建設され、戦後は通信基地として利用され
34. アーニー=パイル
日本人名大辞典
1900−1945 アメリカのジャーナリスト。1900年8月3日生まれ。沖縄戦を取材した米軍従軍記者。コラムニストとして知られる。昭和20年4月1日沖縄本島に上
35. あーにー・ぱいるきねんひ【アーニー・パイル記念碑】沖縄県:沖縄島北部/伊江村
日本歴史地名大系
アフリカ、太平洋の各戦線で活動する。戦場から送られた人間味あふれるコラムは読者を感動させたという。沖縄戦でパイルは読谷村に上陸、その後取材で伊江島に上陸し、日本
36. 伊江(村)画像
日本大百科全書
本部町渡久地とぐち新港からカーフェリーで30分。伊江島空港と那覇空港の間はチャーター便がある。沖縄戦の激戦地。島の3分の1がいまもアメリカ軍の軍用地。産業は農業
37. いえ‐じま【伊江島】
日本国語大辞典
沖縄県、沖縄本島の本部(もとぶ)半島西方海上にある島。沖縄戦の激戦地。面積二二・五五平方キロメートル。
38. いえじま【伊江島】沖縄県:沖縄島北部/伊江村
日本歴史地名大系
千九八七石余)・下々畠六六町余(高一九八石余)であった。またこの検地に伊江島々図が作製され(沖縄戦の戦火で失われた)、島図には民家の位置・屋号・家族数・牛馬数な
39. いきんどー【伊金堂】沖縄県:沖縄島中部/嘉手納町/屋良村
日本歴史地名大系
屋良から分離して屋宜・野理原との三屋取で行政字東を形成、三九年に分離し行政字伊金堂となった。沖縄戦後米軍基地用地(嘉手納飛行場)として強制収用され、住民は町内外
40. いけみやぐすく-しゅうい【池宮城秀意】
日本人名大辞典
昭和時代のジャーナリスト。明治40年1月7日生まれ。「沖縄日報」記者から沖縄県立図書館司書。第二次大戦の沖縄戦に召集される。昭和21年うるま新報社(のち琉球新報
41. いさむら【伊佐村】沖縄県:沖縄島中部/宜野湾市
日本歴史地名大系
町二反余・山林二町六反余・原野三町五反余・池沼雑種地二反余(県統計書)。屋取に伊佐浜がある。沖縄戦によって灰燼に帰した後、野嵩収容所などから住民が帰り、一九四七
42. 石川
日本大百科全書
南北に貫く国道329号が通り、また沖縄自動車道が通じ、中南部と北部とを結ぶ交通の要地。第二次世界大戦の沖縄戦中、アメリカ軍が避難民収容所を設置したことから、戦前
43. いしかわし【石川市】沖縄県:沖縄島中部
日本歴史地名大系
属。一九〇八年の沖縄県及島嶼町村制により、美里間切から美里村となる。一九四五年(昭和二〇年)沖縄戦により難民収容地となった石川地区は他の難民収容所と同様に軍任命
44. いしがきこう【石垣港】沖縄県:八重山諸島/石垣市
日本歴史地名大系
再建は石垣町に移管された。石垣町は国・県の補助を受けて三六年に幅五間・長さ七〇間のコンクリート桟橋を築造した。沖縄戦で先端部は破壊されたものの戦後の復興予算で補
45. いしがきし【石垣市】沖縄県:八重山諸島
日本歴史地名大系
一四年には崎枝・桃里、一六年には名蔵、一七年には盛山、沖縄戦中には桴海の集落が廃絶している。一方、三五年には名蔵に台湾農民が入植し、嵩田でパイナップル缶詰製造を
46. いしがきじま【石垣島】沖縄県:八重山諸島/石垣市
日本歴史地名大系
間・安良・平久保の一〇ヵ村がいずれ廃村になると予測(南嶋探験)、ほとんどが的中した。〔民俗〕沖縄戦後のマラリア撲滅政策が功を奏し、長年人々を苦しめたマラリアは姿
47. いしの-けいいちろう【石野径一郎】
日本人名大辞典
大正15年に上京し,小学校教師,編集者などをつとめる。昭和17年歴史小説「南島経営」を発表。25年沖縄戦の惨禍をえがいた「ひめゆりの塔」を刊行,のち映画化される
48. いずんざちばし【泉崎橋】沖縄県:那覇市/那覇/泉崎村
日本歴史地名大系
に花卉数十種を生け、いくつも並べて路供(道の飾)としていた(中山伝信録)。橋は沖縄戦で破壊され、一九五八年(昭和三三年)コンクリート橋が架けられた。〔漢詩・琉歌
49. いぜなそん【伊是名村】沖縄県:伊是名島・伊平屋島
日本歴史地名大系
小河川・湧水・溜池を利用する稲作も盛んであったが、サトウキビ畑への転換が進み、水田は著しく減少した。沖縄戦ではアメリカ軍機による攻撃を受けた程度で、上陸作戦の対
50. いそぐすく【伊祖グスク】沖縄県:沖縄島中部/浦添市/伊祖村
日本歴史地名大系
が残る。一方、一之郭跡北側の最も高い見張所と、その外側の断崖上の石垣は野面積みとなっている。沖縄戦前まで見張所の岩石には旗竿を立てるための穴があったといい、俗に