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  11. 塚原卜伝

塚原卜伝

ジャパンナレッジで閲覧できる『塚原卜伝』の日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

塚原卜伝
つかはらぼくでん
[1489―1571]

室町末期の剣豪で、新当 (しんとう)流(鹿島 (かしま)新当流、卜伝流、墳原 (つかはら)卜伝流など)の祖。卜伝の伝記は巷説 (こうせつ)が多く明らかではないが、常陸大掾 (ひたちだいじょう)鹿島家の四宿老 (しゅくろう)の一つで、鹿島社(鹿島神宮)の祠官 (しかん)、卜部 (うらべ)(吉川 (よしかわ))覚賢 (かくけん)の二男に生まれ、初名朝孝 (ともたか)、幼くして塚原(茨城県鹿嶋 (かしま)市)の小領主塚原土佐守 (かみ)安幹 (やすもと)に養われ、長じて新左衛門尉 (しんざえもんのじょう)高幹 (たかもと)といい、のち卜伝斎 (ぼくでんさい)、土佐入道と称した。少年のころから剣を好み、父から家伝の鹿島中古流を、ついで養父から飯篠長威斎 (いいざさちょういさい)の天真正伝神道 (てんしんしょうでんしんとう)流を学び、さらに廻国 (かいこく)修行を重ねて剣名をあげた。1512年(永正9)、このころから鹿島一族の内訌 (ないこう)が激化し、1523年(大永3)卜伝35歳のとき高天原の合戦となり、卜伝も奮戦して高名の首21ほかの戦功をあげた。その後、卜伝はもっぱら剣術の修行に打ち込み、鹿島社に参籠 (さんろう)して兵法の奥儀を開眼し、極意を「一 (ひとつ)の太刀 (たち)」と名づけ(杉本政信の創案とする異説もある)、流名を新当流と唱え、多数の門弟を率いて諸国を歴遊し、もっぱらその弘布 (こうふ)に努めた。『甲陽軍鑑』によれば、一行の総勢、上下80人を召し連れ、大鷹 (たか)三疋 (びき)を据えさせ、馬三頭を引かせて威光を示し、華美にふるまったという。その足跡は西国に及んだが、甲州武田氏の家臣、山本勘介 (かんすけ)らに教授したのをはじめ、伊勢 (いせ)の国司北畠具教 (きたばたけとものり)に一の太刀を伝授し、京都に上っては、将軍足利義輝 (あしかがよしてる)や細川藤孝 (ふじたか)らの大名に刀槍 (とうそう)の術を指南したという。

 晩年は郷里に帰って隠棲 (いんせい)し、1556年(弘治2)養子彦四郎幹秀 (ひこしろうもとひで)を迎え、1571年(元亀2)2月、高弟松岡兵庫助則方 (まつおかひょうごのすけのりかた)の屋敷で、83歳の波瀾 (はらん)に富んだ一生を閉じたという。法号は宝剣高珍居士 (ほうけんこうちんこじ)、墓は旧塚原城に近い梅香寺 (ばいこうじ)跡にある。なお松岡兵庫助は、1603年(慶長8)ころ、徳川家康の招きで江戸に出府し、秘伝の一の太刀を伝授して感賞を受け、新当流の正統を保持すべきの黒印状を与えられた。江戸で松岡の伝を広めた大高弟として、甲頭刑部少輔 (かぶとぎょうぶしょうゆう)と多田右馬助 (うまのすけ)の両名が有名である。

[渡邉一郎]



世界大百科事典

塚原卜伝
つかはらぼくでん
1489-1571(延徳1-元亀2)

戦国時代の剣客。新当流の流祖。字は高幹(たかもと)。常陸国(茨城県)鹿島神宮の祝部(はふりべ)である卜部覚賢(うらべあきたか)の次男として生まれた。その生涯については不明の点も多いが,卜部家には鹿島の太刀の秘伝が伝わり,卜伝が養子となった塚原家は天真正伝神道流が伝えられていたといわれ,卜伝はこの二つの流れを学び,鹿島神宮に参籠して,〈一の太刀〉という極意を感得して新当流を起こした。卜伝は多数の門人を従えて諸国を武者修行し,将軍足利義輝の師として京都に一時滞在したともいわれる。23歳から72歳までの50年間に,戦場への出陣39回,その間真剣勝負19回を数え,一度も敗れなかったといわれる。後代の剣客に比べ豊富な実戦体験をもち,生死を超越したところに〈一つの太刀〉という絶対必勝の位を得たのであろう。卜伝の作といわれる《卜伝百首》に生死を超えた心境がうたわれている。〈一つの太刀〉の秘伝は,門人北畠具教(とものり)を通じて息子彦四郎幹秀に伝わったといわれ,他に松岡兵庫助,真壁道無,天(天道)流を開いた斎藤伝鬼坊などの門人がいる。
[中林 信二]

[索引語]
新当流 一つの太刀 斎藤伝鬼坊


新版 日本架空伝承人名事典

塚原卜伝
つかはらぼくでん
1489‐1571(延徳1‐元亀2)
 戦国時代の剣客。新当流の流祖。字は高幹たかもと。常陸国(茨城県)鹿島神宮の祝部はふりべである卜部覚賢うらべあきたかの次男として生まれた。その生涯については不明の点も多いが、卜部家には鹿島の太刀の秘伝が伝わり、卜伝が養子となった塚原家は天真正伝神道流が伝えられていたといわれ、卜伝はこの二つの流れを学び、鹿島神宮に参籠して、「一の太刀」という極意を感得して新当流を起こした。卜伝は多数の門人を従えて諸国を武者修行し、将軍足利義輝の師として京都に一時滞在したともいわれる。二三歳から七二歳までの五〇年間に、戦場への出陣三九回、その間真剣勝負一九回を数え、一度も敗れなかったといわれる。後代の剣客に比べ豊富な実戦体験をもち、生死を超越したところに「一の太刀」という、絶対必勝の位を得たのであろう。卜伝の作といわれる『卜伝百首』に生死を超えた心境がうたわれている。「一の太刀」の秘伝は、門人の北畠具教とものりを通じて息子彦四郎幹秀に伝わったといわれ、他に松岡兵庫助、真壁道無、天(天道)流を開いた斎藤伝鬼坊などの門人がいる。
[中林 信二]
加藤の臣宮本武蔵にございます (塚)「左様だらう、神免二刀流の術を編み出し天晴あつぱれ名誉のお方と聞き及んで居つた、老人息ある内に一度お目にかゝりたいと存じて居つたが、まづ本意を遂げて喜ばしい、改めて一本手合せを致すから、支度なさい」 武蔵は大いに喜び、忽ち身支度して、右剣左剣をとつて後へ退る、塚原は敷皮の上に着座して (塚)「いざ御遠慮なく何処からでもお打ちなさい、失礼だが拙者は別に支度と申してもない、これで宜しいのだから……」 火箸を持つて、頻りに火を弄つて居ります、武蔵は左剣を正眼に右剣を真甲まつかふに振り被つてやつと身構へました(塚)「成る程いゝ気合ひだ、いや〓〓其所をゆるんでは不可ない、勢ひ込んで来られい」 (宮)「やつ……」と、武蔵の脳天微塵になれとうちこんで来るを、卜伝は、軽くヒラリかはして持つた竹火箸で流れる木剣を軽く払つた、忽ち武蔵は代る〓〓うちこんで来る、丁と左剣の鍔際つばぎはをうつと、武蔵はホロリ左剣をとり落した (宮)「失策しまつた」と、武蔵は隙なく発矢はつしとうちこんで来るを、卜伝は側にあつた鍋蓋をとつてパツと押へつけました (宮)「ウーンー」 とらうとしたがなか〓〓とれません (塚)「あいや武蔵殿、力づくではこれはとれない、術を以ておとんなさい」 武蔵も術を以てとらうと致しまするが、術は相手の方が上だからどうしてもとれません (宮)「ウーンー」 その時卜伝はパツと放すと、ヨロ〓〓ツと二足三足よろけましたが、やつと再び顔を一撫でツルリ、アツと武蔵の顔は汁だらけになりましたが、武蔵はます〓〓屈せず、やつえいつと気合の声勇ましくうちこみますると、卜伝はヒラリ〓〓と体を躱し (塚)「やつ……」と一声気合をかけると、どうしたものか、武蔵は木剣を持つたまんま、ズドンその場にぶつ倒れてしまひました、卜伝はこれを見て(塚)「ヤヨ、お修業者が気を失なつた、水を持つてお出で……」 水をかけて介抱いたしますると (宮)「ウーンー」と、蘇生いたしました(塚)「あいや武蔵殿、貴君はそれだけの腕が出来て居られるのに、何もこの上の修業はしなくてもよささうなものぢや」と、かう称められました時、武蔵政名はホロ〓〓涙を流し (宮)「ハツ……実は私、生みの父吉岡太郎左衛門の当の敵、佐々木岸柳といふ者を討たなければなりませぬ、然るに彼れは貴郎のお弟子で、然も燕返しといふ秘術を持つて居ります、これを破りたいために先生のお太刀筋を学びたく登山致しました」(中略)武蔵はこの山中に四年間止まつて一心不乱に卜伝に就いて学び、遂には軽剣飛切の術、合気の術も会得して、大いに喜び勇んで山を下り間もなく父の仇敵佐々木剣刀斎岸柳を討ちとり、ドツと名声を上げました
講談塚原卜伝
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塚原卜伝の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 塚原卜伝
日本大百科全書
室町末期の剣豪で、新当しんとう流(鹿島かしま新当流、卜伝流、墳原つかはら卜伝流など)の祖。卜伝の伝記は巷説こうせつが多く明らかではないが、常陸大掾ひたちだいじょ
2. 塚原卜伝
世界大百科事典
1489-1571(延徳1-元亀2) 戦国時代の剣客。新当流の流祖。字は高幹(たかもと)。常陸国(茨城県)鹿島神宮の祝部(はふりべ)である卜部覚賢(うらべあきた
3. つかはら‐ぼくでん【塚原卜伝】
日本国語大辞典
室町後期の剣客。諱は高幹。常陸国鹿島神宮の祝部卜部覚賢の子。塚原土佐守安幹の養子。実父から卜部家伝来の剣法、養父から飯篠長威斎の兵法を学んだといわれ、北畠具教ら
4. つかはらぼくでん【〓原卜伝】
国史大辞典
一四八九―一五七一 室町時代後期の剣客。諱は高幹。延徳元年(一四八九)二月常陸国鹿島で鹿島神宮の祝部卜部覚賢(吉川左京)の次男として生まれ、のち塚原(つかばら
5. 塚原卜傳(つかはらぼくでん)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 31ページ
6. つかはら-ぼくでん【塚原卜伝】
日本人名大辞典
1489−1571 戦国時代の剣術家。延徳元年2月生まれ。父卜部(うらべ)(吉川)覚賢から家伝の鹿島中古流を,養父塚原安幹(やすもと)から神道流をまなぶ。一(ひ
7. つかはらぼくでん【塚原卜伝】
日本架空伝承人名事典
大いに喜び勇んで山を下り間もなく父の仇敵佐々木剣刀斎岸柳を討ちとり、ドツと名声を上げました講談塚原卜伝
8. 塚原卜伝[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『正伝塚原卜伝』吉田精顕『草深甚四郎と塚原卜伝』和田文次郎
9. 塚原卜傳
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 58ページ
10. 塚原卜伝伝(著作ID:851092)
新日本古典籍データベース
つかはらぼくでんでん 伝記 
11. 塚原卜伝末後流鑓目録(著作ID:4125671)
新日本古典籍データベース
つかはらぼくでんまつごりゅうやりもくろく 槍術 
12. 卜伝百首(著作ID:57158)
新日本古典籍データベース
ぼくでんひゃくしゅ 塚原卜伝百首 武術 和歌 
13. 足利義輝画像
日本大百科全書
の間は近江朽木くつきに幽居、この間に秀隣院しゅうりんいん庭園(国指定名勝)を造営し、俗説では塚原卜伝ぼくでんに剣術を学んだといわれるが未詳。還京後は単なる長慶の
14. 飯篠長威斎
世界大百科事典
冠したといわれる。刀槍(とうそう)の術を中心とした総合武術として後代の諸武術の源流的存在。直系としては塚原卜伝の新当流が有名で,ほかに剣術の有馬流,示現流,槍術
15. 榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録 30ページ
東洋文庫
ひとり修行している隠遁僧の称。δ 居相撲 すわったままとる相撲。すわりずもう。= 卜伝流の兵法 塚原卜伝は室町後期の剣客。新当流の祖。名は高幹。常陸鹿島神宮の祠
16. 鹿嶋(市)画像
日本大百科全書
の根拠地でカシマサッカースタジアムがあり、周辺は鹿島新当流(卜伝ぼくでん流)の創始者で剣豪の塚原卜伝の名をとった「卜伝の郷さと運動公園」となっている。面積106
17. 鹿島神宮
世界大百科事典
武神であるので武道の場となり塚原土佐守は天真正伝神道流を学び,その孫養子(養子ともいわれる)の塚原卜伝(ぼくでん)は鹿島新当流の祖となった。1595年(文禄4)
18. 甲子夜話三篇 1 297ページ
東洋文庫
伝法なり。御精志と知るべし。又塚原与介幹勝、今考ふべからず。『武芸小伝』云。塚原卜伝者、常州塚原人也。父塚原土佐守、従二飯篠長威斎一得二天真正伝4而其子新左衛門
19. 甲子夜話三篇 1 298ページ
東洋文庫
長意晩得二奥術4秘而不レ伝。名為一二刀珀有一二弟子万能窮二其術4長意奇而授レ之。授受三世、得一塚原卜伝4卜伝常陸人、剣術勝二於先師4与二長意一並称。卜伝脹一皇師
20. 上泉信綱
日本大百科全書
いた。信綱は幼少のころから刀槍とうそうの術を好み、松本備前守政信びぜんのかみまさのぶ(一説に塚原卜伝ぼくでん)について鹿島新当かしましんとう流を、ついで愛洲移香
21. 北畠具教
日本大百科全書
天正てんしょう4年11月25日、信長の命で旧臣らが襲い、一族とともに殺され、北畠氏は滅んだ。和歌をよくし兵法を塚原卜伝ぼくでんに学んだという。石田晴男
22. きたばたけ-とものり【北畠具教】
日本人名大辞典
)城をすてて降伏。信長の次男信雄(のぶお)を長男具房(ともふさ)の養嗣子とし,国司をゆずる。塚原卜伝(ぼくでん)にまなび,剣客としても知られる。天正(てんしょう
23. 草深甚四郎[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『草深甚四郎と塚原卜伝』和田文次郎
24. 剣道画像
日本大百科全書
庫助ちゅうじょうひょうごのすけの中条流の三者である。 ついで戦国末期にかけて、飯篠の系統には塚原卜伝ぼくでん(新当流しんとうりゅう)、有馬大和守ありまやまとのか
25. 講談落語今昔譚 242ページ
東洋文庫
申訳がないと切腹したとの事を伝えるが、真偽が判然せぬ。 尚、同じ潮花の門人に伊東花雲というのがあり、読物は塚原卜伝と西遊記だけしか知らなかったが、当時昼席は一年
26. 講談落語今昔譚 18ページ
東洋文庫
110ちりれんげ(文治)225,226珍説森の雫 18珍重(流俗亭) 138つ津賀太夫(富士松) 315塚原卜伝 242月岡芳年 192,269,298筑紫團右
27. 斎藤伝鬼房
日本大百科全書
天流・天道てんどう流の祖。常陸ひたち(茨城県)の生まれで、主馬助勝秀しゅめのすけかつひでと称した。初め塚原卜伝ぼくでんについて新当しんとう流を学び、1581年(
28. さいとう-でんきぼう【斎藤伝鬼房】
日本人名大辞典
1550−1587 織豊時代の剣術家。天文(てんぶん)19年生まれ。塚原卜伝(ぼくでん)にまなぶ。鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)にこもって秘術をさと
29. さかい-まさと【堺雅人】
日本人名大辞典
」で報知映画賞主演男優賞。25年日本アカデミー賞優秀主演男優賞。宮崎県出身。早大中退。他の主演作品にドラマ「塚原卜伝」,映画「ジャージの二人」「南極料理人」など
30. しせきしゅうらん【史籍集覧】
国史大辞典
夏冬難波深秘録に冬御陣之次第 佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第(田辺半大夫祖父)・瀬尾旧記・塚原卜伝百首・蒲生飛駅守氏卿書状之写(蒲生氏郷)・立花朝鮮記(天野貞
31. しんかげ‐りゅう[‥リウ]【新陰流】
日本国語大辞典
の真陰流(しんかげりゅう・まかげりゅう)などがある。新陰。*随筆・常山紀談〔1739〕二三・塚原卜伝剣術鍛錬の事「上野の上泉伊勢守といふ剣術者あり。上泉は新蔭流
32. 新当流
日本大百科全書
室町時代におこった剣術古流の一つで、流祖は塚原卜伝高幹つかはらぼくでんたかもと(1489―1571)。鹿島かしま新当流、卜伝流ともいう。卜伝は常陸国ひたちのくに
33. しんとう‐りゅう[シンタウリウ]【新当流】
日本国語大辞典
〔名〕(1)剣術の流派の一つ。近世初期、常陸国(茨城県)の塚原卜伝高幹が始めたもの。一説に、上野国(群馬県)の上泉伊勢守秀綱が始めたともいわれる。鹿島新当流。*
34. しんとうりゅう【新当流】画像
国史大辞典
前守幹通らの系統は、いずれも剣術を主として後世に伝わったようである。ことに天文前後に活躍した塚原卜伝は、広く回国修行をし、鹿島新当流の勢力を西国にまで広めた代表
35. しんとうりゅう【新当流】 : 新当流/(一)
国史大辞典
前守幹通らの系統は、いずれも剣術を主として後世に伝わったようである。ことに天文前後に活躍した塚原卜伝は、広く回国修行をし、鹿島新当流の勢力を西国にまで広めた代表
36. 神道流
世界大百科事典
なた,槍,居合などを含む総合武術であった。この伝系には,諸岡一羽(もろおかいちう)の一羽流,塚原卜伝(ぼくでん)の新当流,有馬大和守乾信の有馬流などがある。神道
37. しんとう‐りゅう[シンタウリウ]【神道流】
日本国語大辞典
明年間(一四六九~八七)頃創始した軍法、剣法、薙刀、槍法などの武術の流派の総称。分派が多く、塚原卜伝の新当流、諸岡一羽の一羽流もその一派。*本朝武芸小伝〔171
38. 新当流(一) 系譜[図版]画像
国史大辞典
有馬清七郎勝繁 有馬彦八満英 有馬彦八勝英 竹森源七次忠 (竹森流祖) 塚原土佐守安幹 塚原新左衛門安重 塚原卜伝高幹 (卜伝流祖) 北畠具教 塚原彦四郎幹秀 
39. 新編 落語の落 2 179ページ
東洋文庫
本蔵松切りの絵、「若狭の助は宵からたくんで居た、塩谷判官はへあさのたくみじゃ」。 宮本重三四と塚原卜伝の山中鍋蓋試合の絵に、「がんりゅう島の芝居のうちでこ瓦がへ
40. すかむら【須賀村】茨城県:鹿島郡/鹿島町
日本歴史地名大系
旗本小川氏領一五一石余、山岡・長谷川・伏見三氏領各六四石余、天領二石余。梅光寺跡に戦国期の剣豪塚原卜伝の墓がある。卜伝は鹿島神宮の祀官卜部覚賢の二子で高幹と称し
41. 津本陽
日本大百科全書
基調とした剣戟けんげき場面の凄まじさは圧倒的な迫力をもち、新境地を開拓した。その後、『薩南示現じげん流』『塚原卜伝 ぼくでん十二番勝負』(1983)とこのジャン
42. 貞丈雑記 3 281ページ
東洋文庫
九歳と云う。さあらば、天文五年の生れなり。依りて考うれば、元亀・天正の比は透鍔ありしなり。 『塚原卜伝百首』〈天文・永禄頃の人〉「鍾はただ切ぬきあるを好むべし厚
43. てんしん‐しょうでん[‥シャウデン]【天真正伝】
日本国語大辞典
〔名〕「てんしんしょうでんしんとうりゅう(天真正伝神道流)」の略。*本朝武芸小伝〔1716〕五・刀術「塚原卜伝者常州塚原人也。〈略〉従〓飯篠長威斎
44. 天真正伝神道流
日本大百科全書
剣術では松本備前守びぜんのかみ政信まさのぶや塚原土佐守安幹やすもと(卜伝ぼくでんの養父)らを、また門流には塚原卜伝(鹿島新当流の祖)、松岡兵庫助則方のりかた、有
45. 天道流
日本大百科全書
金平きんぺい、また主馬助しゅめのすけといい、父は北条氏康うじやすに仕えて小番衆であったと伝えられる。初め塚原卜伝ぼくでんの新当流を学んでその妙を得、ついで鎌倉八
46. てん‐りゅう[‥リウ]【天流】
日本国語大辞典
〔名〕剣術の流派の一つ。常陸(茨城県)の人斎藤伝鬼房隆秀(伝輝房勝秀とも)が、塚原卜伝に新当流を学び、鎌倉の鶴岡八幡宮に参籠して夢想によって感得、天正年間(一五
47. 樋口氏[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:4件 『馬庭念流抄』堀口薫治『馬庭念流と塚原卜伝』堀口薫治『馬庭念流と樋口家』堀口薫治『名人達人決死の大試合』青
48. 武芸
日本大百科全書
小具足こぐそく・腰こしの廻まわりを主体とする柔術の竹内たけのうち流、白兵戦の華である剣術には、塚原卜伝ぼくでんの鹿島新当かしましんとう流、上泉信綱かみいずみのぶ
49. 兵法
世界大百科事典
かった。刀術(剣術)では,飯篠長威斎を流祖とする天真正伝神道流,上泉秀綱の神陰流,この門流の塚原卜伝の卜伝流,丸女蔵人の心貫流,柳生宗厳の新陰流,中条流に属する
50. ほそかわふじたか【細川藤孝】画像
国史大辞典
伝統の絶えることを惜しみ、勅命をもって開城の叡旨を伝えさせたことは有名。武芸にも秀で、剣法を塚原卜伝に学び、弓術の印可を波々伯部貞弘から受け、弓馬故実を武田信豊
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大江匡房の『続本朝往生伝』のあとをついで、慶滋保胤の『日本往生極楽記』をふくめ、それまでに遺漏のあった異相往生人の行業を集め、後人への結縁・勧進のために三善為康が撰述した往生伝。『日本拾遺往生伝』ともいう。三巻。巻中・下の序によると、はじめは一巻の
三遊亭円朝(日本架空伝承人名事典・日本近代文学大事典・日本大百科全書)
幕末・明治の落語家。本名出淵(いづぶち)次郎吉。父は落語家橘家円太郎。七歳で小円太を名のり初高座。一時、画工を志し歌川国芳に浮世絵を学ぶものの、再び落語家に戻り、二〇歳で三遊亭円朝となる。画技を生かした道具入り正本芝居咄で人気を博したが、師匠二代目
国定忠次(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸後期の博徒。忠次(治)郎ともいう。上野国佐位郡国定村の出身。中農以上に属する長岡与五左衛門の長男。二一歳のとき博徒の縄張を譲られて以来博徒の親分となり、一八三四年(天保五)縄張争いから同じ博徒の島村の伊三郎を殺害し、有名となる。四二年賭場の最中に
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