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  11. 小栗忠順

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日本大百科全書・世界大百科事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

小栗忠順
おぐりただまさ
[1827―1868]

幕末の幕臣。慶応 (けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守 (ぶんごのかみ)、さらに上野介 (こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准書交換のため新見正興 (しんみまさおき)、村垣範正 (むらがきのりまさ)に従って渡米、帰朝後外国奉行 (ぶぎょう)となる。1861年(文久1)のロシア軍艦による対馬 (つしま)事件に際してはその折衝にあたり、1862年勘定 (かんじょう)奉行勝手方、さらに勘定奉行、歩兵奉行兼任、1863年陸軍奉行となり、この間、文久 (ぶんきゅう)期(1861~64)に幕府の三兵(歩・騎・砲)軍事改革を行った。1864年(元治1)には軍艦奉行、翌1865年(慶応1)にはふたたび勘定奉行勝手方、1866年海軍奉行、ついで翌年陸軍奉行を兼任し、慶応期の幕政改革を親仏派として栗本鋤雲 (くりもとじょうん)とともに担い、横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事の各分野で改革を推進しようとした。薩長 (さっちょう)に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽 (とば)・伏見 (ふしみ)の戦いに敗れるや上州(群馬県)へ隠退、新政府軍に捕らえられて慶応 (けいおう)4年閏 (うるう)4月5日斬 (ざん)に処せられた。

[田中 彰]



世界大百科事典

小栗忠順
おぐりただまさ
1827-68(文政10-明治1)

江戸末期の幕臣。上野介と称す。1859年(安政6)目付となり,60年(万延1)日米修好通商条約批准交換の使節として,正使新見正興,副使村垣範正とともに渡米した。帰国後,外国奉行となる。61年(文久1)ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に滞泊する事件が起きた際,忠順は対馬に赴き退去を要求したが,目的を達することができずに江戸へ帰った。以後,小姓組番頭,勘定奉行,町奉行,歩兵奉行,軍艦奉行,陸軍奉行並,海軍奉行並などの諸役を歴任。この間,フランス公使ロッシュに交渉し,65年,フランスから240万ドルを借款して,横須賀に製鉄所,造船所,修船場の建設を開始した。これは,のちに横須賀工厰に発展した。さらに翌66年には600万ドルの借款契約を結び,フランスからの軍艦,銃砲の購入費や陸軍教官の招請費にあてることにしていたが,幕府の倒壊で大部分は実現しなかった。戊辰戦争では徳川慶喜に抗戦を進言したが入れられず,上州群馬郡権田村に引退したが,68年4月,新政府軍に逮捕され斬刑に処せられた。
[小野 正雄]

[索引語]
小栗上野介 横須賀工厰
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検索コンテンツ
1. 小栗忠順画像
日本大百科全書
幕末の幕臣。慶応けいおう期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守ぶんごのかみ、さらに上野介こうずけのす
2. 小栗忠順
世界大百科事典
1827-68(文政10-明治1) 江戸末期の幕臣。上野介と称す。1859年(安政6)目付となり,60年(万延1)日米修好通商条約批准交換の使節として,正使新見
3. おぐり‐ただまさ【小栗忠順】
日本国語大辞典
江戸末期の幕臣。上野介(こうずけのすけ)。日米修好通商条約批准書交換のため渡米。帰国後、外国奉行など要職を歴任。のち官軍に捕えられ殺された。文政一〇~明治元年(
4. おぐりただまさ【小栗忠順】
国史大辞典
庵遺稿』、蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』、同『(開国の先覚者)小栗上野介』、石井孝「小栗忠順」(北島正元編『江戸幕府』下所収)、戸川残花「小栗上野介」(
5. おぐり-ただまさ【小栗忠順】画像
日本人名大辞典
1827−1868 幕末の武士。文政10年生まれ。小栗忠高の子。幕臣。万延元年日米修好通商条約批准書交換の使節監察として渡米。外国,勘定,軍艦などの各奉行をつと
6. 小栗忠順[文献目録]
日本人物文献目録
真民『小栗上野介忠順公を憶ふ』市川亭三郎『海軍の先駆者小栗上野介正伝』阿部道山『開国の先覚者小栗忠順』蜷川新『権田における小栗さん 仁義併存碑ものがたり』大坪元
7. 小栗忠順[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
8. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 253ページ
東洋文庫
明治二十年職を辞し、大 阪に緒方病院を設立、院長となる。また翌年同志 と大阪慈恵病院を創設したQ小栗忠順(豊後守・上野介)〔天毛裏八〕幕臣。万 延元年(一八六〇
9. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 255ページ
東洋文庫
牧羊、病 院を経営、文久三年(天六三)江戸に帰り、学間所 頭取、軍艦奉行、外国奉行等を歴任、小栗忠順を たすけて幕権回復に努力。慶応三年(天六七)渡仏 し向山隼
10. いたくら-かつまさ【板倉勝殷】
日本人名大辞典
安政4年上野(こうずけ)(群馬県)安中藩主板倉家第2次6代となる。皇女和宮(かずのみや)の通行の警備,小栗忠順(おぐり-ただまさ)の追討などにあたった。明治6年
11. いなばむら【稲葉村】千葉県:山武郡/芝山町地図
日本歴史地名大系
うち高一五〇石は無反別で、田高一三三石余・畑高一六石余。高二石余・反別一反余は文久元年(一八六一)加増。小栗忠順は高二千五〇〇石取であったが、万延元年(一八六〇
12. いわせただなり【岩瀬忠震】画像
国史大辞典
四十四歳。江戸小石川白山蓮華寺に葬られたが、のち東京都豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬された。水野忠徳・小栗忠順とともに幕末三傑と称せられる。大正四年(一九一五)贈正
13. えどけいおうにねんうちこわし・そうどう【江戸慶応二年打毀・騒動】
国史大辞典
投石・追撃し、護衛の別手組と乱闘した。また十九日に上野広小路に会して物価騰貴の元凶、勘定奉行小栗忠順を殺して「諸人之為に難儀を救ひ怨を返し、日本中江戸ツ子之名を
14. おおこうち-てるな【大河内輝声】
日本人名大辞典
とりいれ,農兵をつのり強心隊を編成。慶応3年幕府の陸軍奉行並となるが,翌年新政府軍にしたがい小栗忠順(ただまさ)を追討。維新後,東京に英学校を設立した。明治15
15. 小栗上野介
日本大百科全書
小栗忠順
16. おぐり‐こうずけのすけ【小栗上野介】
日本国語大辞典
〓おぐりただまさ(小栗忠順
17. おぐりこうずけのすけ【小栗上野介】
国史大辞典
小栗忠順(おぐりただまさ)
18. おぐり-こうずけのすけ【小栗上野介】
日本人名大辞典
小栗忠順(おぐり-ただまさ)
19. おぐり-さだお【小栗貞雄】
日本人名大辞典
1861−1935 明治時代の政治家。文久元年11月28日生まれ。矢野竜渓の弟。大隈重信の勧めで小栗忠順(ただまさ)の家をつぐ。明治4年ヨーロッパに留学。帰国後
20. かつかいしゅう【勝海舟】画像
国史大辞典
上坂して第二次長州征伐をめぐる薩摩と幕府側との紛争を調停、また九月には宮島で長州と停戦交渉をした。このころ小栗忠順らの幕府中心の統一国家構想に反対して幕府が政権
21. きむら-てつた【木村鉄太】
日本人名大辞典
肥後熊本藩士。安積艮斎(あさか-ごんさい)に漢学,手塚律蔵に蘭学をまなび,航海術を習得。万延元年小栗忠順(おぐり-ただまさ)の従者として幕府の遣米使節団にくわわ
22. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 270ページ
東洋文庫
奪おうとして放火したとか、大奥の女中が薩州藩士に通じて放火したとかの噂が流れた。旧幕府内では、勘定奉行小栗忠順(上野介)ら強硬派は、薩州藩邸を攻撃して、策動の根
23. クーレ
日本史年表
1866年〈慶応2 丙寅〉 8・20( 9・28 ) 勘定奉行小栗忠順、フランス経済使節 クーレ と600万ドルの借款契約を締結(石井孝『増訂明治維新の国際的
24. 軍艦奉行
日本大百科全書
そのなかには水野忠徳ただのり・井上清直きよなお、木村喜毅よしたけ(芥舟かいしゅう)、勝義邦よしくに(海舟)、小栗忠順おぐりただまさらの名をみいだすことができる。
25. ぐんかんぶぎょう【軍艦奉行】
国史大辞典
開明的な幕臣の俊才が多く任命された。その主たる人名は永井尚志・水野忠徳・井上清直・木村喜毅・勝海舟・小栗忠順などである。 [参考文献]勝海舟編『海軍歴史』(『海
26. 上野国画像
日本大百科全書
抱え、幕府への去就に苦しんだが、1867年(慶応3)東山道総督の東下に服し、戊辰ぼしんの年には小栗忠順おぐりただまさの処刑、三国、戸倉での対会津戦などの悲劇があ
27. 上野国画像
世界大百科事典
たどったが,館林藩は長州藩との縁もあって勤王に積極的であった。戊辰の年には幕府の勘定奉行を辞した小栗忠順(ただまさ)が,群馬郡権田の隠棲地で処刑され,前橋藩以下
28. こうずけのくにてんりょうほかけいおうよねんいっき【上野国天領他慶応四年一揆】
国史大辞典
沿いに群馬郡室田(榛名町)―三の倉から権田村(倉淵村)へ達した。ここは幕府抗戦論に破れた幕臣小栗忠順の知行所であり、折から土着のため移住してきた小栗の手勢に撃退
29. ごんだむら【権田村】群馬県:群馬郡/倉淵村
日本歴史地名大系
焼けでは当村でも飢死者多数がでた(「浅間山砂降書留写」神沢文書)。幕末期当地一帯を領した旗本小栗忠順は、万延元年(一八六〇)安政条約の批准使節に加わり、当村名主
30. 書物と旅 東西往還 前嶋信次著作選 4 480ページ
東洋文庫
『随筆北 京』④248;『北京留学』④248- 51小栗忠順[上野介]④138尾崎秀真③398尾崎康④191-92小沢重男④363オスマーン →ウスマー
31. 新見正興
日本大百科全書
条約批准の特使派遣を提議してハリス米総領事を驚かせたという。副使村垣範正むらがきのりまさおよび目付小栗忠順おぐりただまさとともに、正使として条約批准のためアメリ
32. しんみまさおき【新見正興】
国史大辞典
を仰せ付けられ、幕府最初の遣外使節の重責を担った。万延元年(一八六〇)正月副使村垣範正・監察小栗忠順以下属吏・従臣七十余人を従え、米艦ポーハタン号で神奈川を出帆
33. しんみ-まさおき【新見正興】画像
日本人名大辞典
神奈川奉行を兼務。日米修好通商条約批准の遣米使節正使となり,万延元年(1860)村垣範正(のりまさ),小栗忠順(おぐり-ただまさ)ら七十余名と渡米。帰国後は外国
34. するがだいきたこうがちよう【駿河台北甲賀町】東京都:千代田区/旧神田区地区地図
日本歴史地名大系
)は浅羽孫三郎などの武家地。文久元年(一八六一)は小栗豊後守など二〇軒の武家地。小栗豊後守は小栗忠順のことで、上野介の受領名で知られる。万延元年(一八六〇)遣米
35. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 8ページ
東洋文庫
幕医喜多村家の出身。幕府奥詰医官をへて箱館で牧羊・病院を経営。のち学問所頭取,箱館奉行,勘定奉行を歴任,小栗忠順を助け幕権回復と近代化に尽力した。維新後はジャー
36. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 6ページ
東洋文庫
与。そのため61(文久元)年攘夷派に襲撃された。のち外国奉行,大目付となった。  ただまさ 小栗忠順 1827-68幕臣。通称又一。豊後守,のち上野介。1860
37. 高崎[市]
世界大百科事典
の生産高を誇り,コンニャクも産する。過疎地域に指定されている。東善寺に末期の徳川幕府を支えた小栗忠順(ただまさ)の墓と小栗公遺品館がある。 群馬 高崎市北部の旧
38. 高崎藩
日本大百科全書
の焦点となり、幕末には銚子ちょうし沿岸警備、西上する水戸みと浪士との下仁田しもにた戦争、幕臣小栗忠順おぐりただまさの処刑、さらに1869年(明治2)には年貢減免
39. 高崎藩
世界大百科事典
じかた)凡例録》を編纂させた。幕末には水戸天狗党との下仁田戦争,銚子の沿岸警備,世直し一揆,小栗忠順(ただまさ)の処刑,戊辰の出兵など難局が相次ぎ,1869年(
40. たかさきはん【高崎藩】
国史大辞典
た)で戦い敗れた。明治元年(一八六八)三月、東征軍に服したのちも、続発する世直し一揆の鎮圧、小栗忠順の処刑、さらに上越国境会津軍への出兵など難局が相ついだ。また
41. 徳川慶喜公伝 4 170ページ
東洋文庫
薩邸の焼討 小栗忠順の 討伐論朝比奈昌広等の平和論佐土原藩の発砲包囲攻撃翔鳳丸の逸走人を追討せしむ、亦同類の暴行なるべし(続徳川実紀)。暴挙の源泉薩邸に出づるこ
42. 徳川慶喜公伝 2 105ページ
東洋文庫
変松説平 慶 永 の奉撰問夷題の 勅 談 遵の松入平説慶 永 へ慶永が破約撰夷の意見有司の反対小栗忠順の説松平容保の説活気を帯び(浦靱負日記)、中にも越前の君臣
43. 日記
世界大百科事典
社奉行),水野忠精(ただきよ)(老中),村垣範正(外国奉行),堀田正睦(まさよし)(老中),小栗忠順(ただまさ)(外国奉行,海軍奉行)など中後期のものが多数残さ
44. 幕府衰亡論 115ページ
東洋文庫
新見正興(外国奉行兼神奈川奉行)・    村垣範正(外国奉行兼神奈川奉行、箱館奉行)・    小栗忠順(目付)以下八十余名が、米艦ポーハタ    ソ号に乗り、渡
45. 幕府衰亡論 253ページ
東洋文庫
政権返上の後も将軍慶喜が国家の実権を掌 握し、そのもとに公議輿論政治を施くことを主張 し、勘定奉行の小栗忠順なども、幕府の存続を願 うことを強く望んでいたといわ
46. 幕府衰亡論 265ページ
東洋文庫
実現された徳川慶喜による政権返上は大きな衝撃を与えた。福地はただちに、当時、幕閣主流派の一人であった勘定奉行の小栗忠順に上書して、大政奉還後も幕府中心の合議政体
47. 幕府衰亡論 276ページ
東洋文庫
象にとりあげた「幕末政治家」は、水戸斉昭・松平慶永を始めとして、井伊直弼・阿部正弘・堀田正睦、また小栗忠順や水野忠徳らの幕閣に限られ、『幕府衰亡論』に登場する幕
48. 幕末外交談 1 179ページ
東洋文庫
土人とも争いを生じ、土人の中には生命を失うものもあった。        これは捨ておけぬと、幕府はそ 小栗忠順派遣        の年の四月に外国奉行小栗豊後守
49. 幕末外交談 2 240ページ
東洋文庫
この万延二分金の鋳造は、わが金貨の海外流出を防ぐため、また一方幕府の財庫をうるおすために、当時の勘定奉行小栗忠順の献策によったもので、小栗二分金ともいった。一五
50. 幕末外交談 2 5ページ
東洋文庫
飽庵。幕府奥詰医官をへて箱館で牧羊,病院を経営,のち学問所頭取,箱館奉行,勘定奉行などを歴任。小栗忠順を助け幕権回復と近代化に尽した。67(慶応3)年渡仏。維新
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