水戸黄門
みとこうもん
1628‐1700(寛永5‐元禄13)
徳川光圀。江戸中期の大名。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として水戸に生まれる。母は頼房の側室谷久子。家臣の屋敷で養われた。幼名は長丸、のち千代松、九歳で元服のとき三代将軍徳川家光の一字を与えられて光国と名のる。のち五〇歳代に国を圀に改めた。字ははじめ徳亮、また観之、のち子竜。号は常山、別号は日新斎、梅里、率然 、隠居して西山、採薇 などを用いた。諡 は義公。六歳のとき世子に決定、江戸の水戸藩邸に移り、一六六一年(寛文一)父の死後、三四歳で第二代藩主となる。一八歳のころ『史記』の伯夷伝を読んで発奮するまでは、三家の世子としてふさわしくない言動が多いとして、周りの人々を困らせたことは、守役の小野言員の残した『小野諫草』に詳しい。一八歳以後は歴史編纂を志し、多くの古書を集め始めた。また長兄頼重(高松藩主となる)をさしおいて世子となったことを恥じ、兄の子を養子とすることを心に決した。第三代綱条 は兄の子である。なお光圀の子頼常は懇請によって頼重の跡を継いだ。九〇年(元禄三)引退、水戸の北西山荘(常陸太田市)に隠棲し七三歳で没した。とくに学問上の業績と宗教行政および文化財保存に尽くした点などは、後世注目されるところとなった。学問上では南朝正統の立場を強調した『大日本史』の編纂がある。この修史事業のために開いた彰考館には全国各地から学派にこだわらず学者を招き、多いときは館員が六〇名を超すこともあった。この学者の間に一つの学風が生まれ、これが天保期(一八三〇‐四四)に大成されて、水戸学となった。宗教行政としては社寺の大整理があるが、一方、神仏分離を推進して名社名刹には特別の保護を加えた。このときの一村一社制は後世長く守られた。文化財については、那須国造碑(栃木県、国宝)の保存や侍塚(栃木県、史跡)の発掘保存、遠く多賀城碑(宮城県)の修復などにも力を入れ、仏像などの保護にも努めた点は、むしろ今日になってその成果が評価されるようになったといえる。後世水戸黄門といえば光圀を指すのは、中納言の唐名黄門の代表的存在とされたからである。
伝承と作品化
光圀が「名君」として広く定着したのは江戸末から明治期で、講談・実録本の流布、演劇化などにより虚構が拡大された。光圀の逸話を多く含む伝記『桃源遺事』(一七〇一)や『久夢日記』などが実録本『水戸黄門仁徳録』(成立年未詳)に与えた影響は大きい。幕末の講釈師桃林亭東玉は、水戸烈公(斉昭)に招かれたと伝えられ、これによって化政期(一八〇四‐三〇)以降、講釈が光圀の顕彰、すなわち虚構化を深化させたと推定される。また当時の庶民間の旅行ブームや十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、光圀の諸国漫遊譚が誕生した。光圀による三回もの蝦夷地渡航や、『大日本史』編纂のため、安積澹泊 (通称覚兵衛。講釈で渥美格之丞。格さん)、佐々十竹 (通称介三郎。講釈で佐々木助三郎。助さん)が全国に史書を探求旅行した史実が核となって、この虚構はふくれあがった。マレビトが窮状の人々の前に現れ、事件を解決して去る民間伝承のパターンを芯とし、全国六〇余州を遍歴する長編物語が形成された。明治初年には『名君膝栗毛』『名君道中記』などの演題で釈場にかけられ、また立川文庫が『諸国漫遊 水戸黄門』として収録。歌舞伎では実録本『護国女太平記』(柳沢騒動)から光圀が家臣藤井紋太夫を手討ちにしたくだりを劇化した『黄門記童幼 講釈』(河竹黙阿弥作、一八七七初演)が著名。岡本綺堂にも『黄門記』(一九二七初演)があり、その他映画、ラジオでも黄門の漫遊記が制作された。テレビでは東野英治郎主演の『水戸黄門』(一九六九年八月初放映)が高視聴率の人気番組となった。
西山公御隠居後、水戸の内、又は御領内御旅行の節、御むかふより参り候者をとめ、或はよけさせ申事、御嫌ひ成され候。世にある者は、高き賤きによらず、用をかゝへあるく者なり。我は世に用なき身にて、往還の人をとめさせよけさせ候事は、道にあらずとの御意なり。尤御旅行の節、寄馬ならびに掃除仕候事、御停止なされ候。
桃源遺事
助「ヤアこれは無礼千万、如何に親切とは申しながら、辞退いたすを刀にかけても貫かんければならぬとは、聞き捨てに相ならん、斯くなる上は此方も刀にかけて受取る事は相ならん、格「此方は刀にかけても水戸の家来にして見せる、助「刀にかけても辞退するぞ」と、双方一刀の柄に手をかけてヂリ詰め寄りました、長屋の者は何事なるかと来て見ると此の有様でございますから、ワイ騒いで居りまする所へ、家主が歩つて来て、事柄を聞き取り、両人を自分の宅へ連れ帰つて十分に馳走いたしまして様子を聞きまするといよいよ感心して、家「さういふ事なら及ばずながら私が宜いやうに取計らひませう、マア暫らくお待ち下されまするやう」と、云つて置いて家主は駕籠を傭ひ、それに乗つてドン小石川の水戸の館へ駈けつけ、附家老の山辺主水正に目通りして二人の争そひを述べますと、主水正も大いに感心して、主「フム、渥美格左衛門は見上げたものだ、相手も二百石は取らない、刀にかけても応じないと云ふのも感ずるに余りあり、宜しい、此方が参つて篤と固めて遣らう」と、附家老山辺主水正が家主と同道して乗り込み、渥美格左衛門を引き取り、尚佐々木助左衛門に向つて段々と話して見ましたが、何うしても渥美から二百石貰ふといふ事に同意いたしません、固より水戸家の船手が内田家へ掛合ひに行つたといふのは表向きではない、主家の威光を笠に着て船手共が勝手に参つたのでございますから、山辺主水正も初めて此の事を聞き、気の毒に思つて立ち帰り、此の事を太守光圀公に上申いたしました、すると光圀公は大いに両人の武士道に感心致されまして、光「左様な義気に厚き武士を何日までも浪人させて置くは惜しき事である、召抱へなば天晴れ物の役に立つであらう」と、思召して、山辺主水正に何か仰せ付けになりました、山辺主水正は佐々木父子三人を自分の屋敷へ一旦引き取り、光圀公へお目通りさせ、承知をさせた上、改めて八百石でお召抱へとなり、渥美格左衛門も仁あり義ある人物であるといふので、これには四百石の上へ加増を申し付け、一千石を与へる事となりました、これより佐々木助左衛門は渥美格左衛門を兄の如くに敬ひ、格左衛門も又助左衛門を弟の如く万事の世話を致しまして、両家はいと睦じく暮し、互ひに忠勤大事と抽んでて居ります、光圀公も大いに喜び給ひ、佐々木助左衛門の子の助三郎、渥美格左衛門の子の格之丞を小姓役に引き上げ、目をかけて召使つて居られました、此の二人が又兄弟の如く交はり、助三郎は文学の側ら神影流の極儀を極め術を学び、渥美格之丞は渋川流の柔術を学び、何れ劣らず修業する、二人は成長するに従ひ、無双の達人となり、両人の父が老年となりますると、光圀公の取成しによつて父の名跡をつぎ、此度は助三郎が年上でありますから兄、格之丞が弟と云ふ有様で交りを結び、改めて光圀公より二人に知行を与へ、助三郎は一千石、格之丞は八百石を頂く事となりました、父同志とは反対の知行を貰つて、両人は一藩の模範と呼ばれ人も羨むばかりでございました
講談助さん格さん漫遊記神田伯山口演
光圀 あゝ斯く下々の難儀をも、厭はせたまふ名君も、
綱吉 その任ならぬ大老へ、天下の政事を任せしゆゑ、
光圀 たゞ犬のみを愛せられ、暗君なりと世の嘲り。
綱吉 それも水府の異見に附き、ほとんと悔悟いたしたり。
光圀 これと申すも日の光り、東を照す御神の、
綱吉 加護とはいへど臣は水、
光圀 君は船なる徳川の、
綱吉 清き流れの源や、
光圀 御家は万歳万々歳、
綱吉 ムヽ、松の栄えを祈るであらう。
黄門記童幼講釈
舜水で耳を洗ツた御名君
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):87‐26
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
一六九二年(元禄五)湊川に楠木正成の碑「嗚呼忠臣楠氏之墓」を建てた。その背面の賛は明の遺臣朱舜水の撰。舜水の名を川の流れに擬し、中国の故事、帝尭が許由に位を譲ろうとしたが、許由は耳のけがれとして穎川 で耳を洗った逸話にかけて、兄頼重との継嗣問題で兄の子を養子に迎えた件を匂わせた句。
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