(富樫)「近頃殊勝の御覚悟、先に承り候へば、南都東大寺の勧進と仰せありしが、勧進帳御所持なきことはあらじ、勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞仕らん」(
弁慶)「なんと、勧進帳を読めと仰せ候な」(富樫)「如何にも」(
弁慶)「ムヽ心得て候」
元より勧進帳のあらばこそ、笈の内より往来の巻物一巻取出だし、勧進帳と名附けつゝ、高らかにこそ読み上げけれ。(
弁慶)「それ、つらつらおもん見れば大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。
爰に中頃、帝おはします御名を聖武皇帝と申し奉り、最愛の夫人に別れ追慕やみ難く涕泣、眼にあらく、涙玉を貫く、思ひを先路に飜へし上求菩提の為、盧遮那仏を建立仕給ふ。然るに去んじ治承の頃焼亡し畢んぬ。かほどの霊場絶えなんことを歎き、俊乗坊重源勅命を蒙つて、無常の観門に涙を落し、上下の真俗を勧めて、彼の霊場を再建せんと諸国に勧進す。一紙半銭奉財の輩は、現世にては無比の楽に誇り、当来にては数千蓮華の上に坐せん。帰命稽首、敬つて白す」
天も響けと読み上げたり(富樫)「勧進帳聴聞の上は、疑ひはあるべからず。さりながら、事のついでに問ひ申さん。世に仏徒の姿、さまざまあり、中に山伏は、いかめしき姿にて、仏門修行は訝かしゝ、これにも謂れあるや如何に」(
弁慶)「おゝ、その来由いと易し。それ修験の法といつぱ、胎蔵、金剛の両部を旨とし、嶮山悪所を踏み開き、世に害をなす、悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍を垂れ、或ひは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下泰平の祈祷を修す。かるが故に、内には慈悲の徳を納め、表に降魔の相を顕はし、悪鬼外道を威服せり。これ神仏の両部にして、百八の珠数に仏道の利益を顕はす」(中略)(富樫)「かゝる尊き客僧を、暫しも疑ひ申せしは眼あつて無きが如き我が不念、今よりそれがし勧進の施主につかん。番卒ども、布施物持て」(番卒三人)「はあ」
士卒が運ぶ広台に、白綾袴一重ね、加賀絹あまた取揃へ、御前へこそは直しけれ。(富樫)「近頃些少には候へども、南都東大寺の勧進、即ち布施物、御受納下さらば、それがしが功徳、偏へに願ひ奉る」(
弁慶)「あら、有難の大檀那。現当二世安楽ぞ。なんの疑ひかあるべからず重ねて申すことの候。猶我々は近国を勧進し、卯月半ばに上るべし。それまでは、嵩高の品々、お預け申す。さらばいづれも御通り候へ」(四人)「心得て候」(
弁慶)「いで
、急ぎ申すべし」(四人)「心得申して候」
こは嬉しやと山伏も、しづ
立つて歩まれけり。(富樫)「如何にそれなる強力、止まれとこそ」
すはや我が君怪しむるは、一期の浮沈爰なりと、各々後へ立帰る。(
弁慶)「慌てゝ事を仕損ずな。こな強力め、何とて通り居らぬぞ」(富樫)「それは此方より留め申した」(
弁慶)「それは何ゆゑお留め候ぞ」(富樫)「その強力が、ちと人に似たりと申す者の候ほどに、さてこそ只今留めたり」(
弁慶)「何、人が人に似たりとは珍らしからぬ仰せにこそ、さて、誰に似て候ぞ」(富樫)「判官どのに、似たりと申す者の候ほどに、落居の間留め申す」(
弁慶)「なに、判官どのに似たる強力めは、一期の思ひ出な、腹立ちや、日高くば、能登の国まで、越さうずらうと思ひをるに、僅かの笈一つ背負うて後に下がればこそ、人も怪しむれ、総じてこの程より、やゝもすれば、判官どのよと怪しめらるゝは、おのれが業の拙きゆゑなり、思へば憎し、憎し
、いで物見せん。
金剛杖をおつ取つて、さん
に打擲す。通れ」
通れとこそは罵りぬ。(富樫)「如何やうに陳ずるとも、通すこと」(番卒三人)「まかりならぬ」(
弁慶)「やあ、笈に目をかけ給ふは、盗人ざふな。これ」
方々は何ゆゑに、かほど賤しき強力に、太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞、臆病の至りかと、皆山伏は打刀を抜きかけて、勇みかゝれる有様は、如何なる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えにける。(
弁慶)「まだこの上にも御疑ひの候はゞ、あの強力め、荷物の布施物諸共、お預け申す。如何やうにも糺明あれ。但し、これにて打ち殺し見せ申さんや」(富樫)「こは先達の荒けなし」(
弁慶)「然らば、只今疑ひありしは如何に」(富樫)「士卒の者が我れへの訴へ」(
弁慶)「御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さん」(富樫)「早まり給ふな、番卒どものよしなき僻目より、判官どのにもなき人を、疑へばこそ、斯く折檻も仕給ふなれ。今は疑ひ晴れ申した。とく
誘ひ通られよ」(
弁慶)「大檀那の仰せなくんば、打ち殺いて捨てんずもの、命冥加に叶ひし奴、以後をきつと、慎み居らう」(富樫)「我れはこれより、猶も厳しく警固の役、方々来れ」(番卒三人)「はあゝ」
士卒を引き連れ関守は、門の内へぞ入りにける。(義経)「如何に
弁慶、さても今日の気転、更に凡慮の及ぶ所にあらず、兎角の是非を争はずして、たゞ下人の如くさん
に、我れを打つて助けしは、正に、天の加護、弓矢正八幡の神慮と思へば、忝く思ふぞよ」(常陸)「この常陸坊を初めとして、随ふ者ども関守に呼びとめられしその時は、ここぞ君の御大事と思ひしに」(駿河)「誠に正八幡の我君を、守らせ給ふ御しるし、陸奥下向は速かなるべし」(片岡)「これ全く武蔵坊が智謀にあらずんば、免がれ難し」(亀井)「なかなか以て我々が及ぶべき所にあらず」(常陸)「ほほ、驚き」(皆々)「入つて候」(
弁慶)「それ、世は末世に及ぶといへども、日月いまだ地に落ち給はぬ御高運、はゝ有難し、有難し。計略とは申しながら、正しき主君を打擲、天罰そら恐ろしく、千鈞を上ぐるそれがし、腕も痺るゝ如く覚え候。あら、勿体なや
」
つひに泣かぬ
弁慶も、一期の涙ぞ殊勝なる。