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日本架空伝承人名事典・世界大百科事典

新版 日本架空伝承人名事典

弁慶
べんけい
 源義経の郎従。武蔵坊と称する。没年は衣川の合戦で義経に殉じたとする伝承にもとづいて一一八九年(文治五)とされる。『吾妻鏡』や『平家物語』にその名が見えるので、実在の人物と考えられているが、詳しくは不明。その説話や伝承は、『義経記』をはじめ室町時代の物語草子、謡曲、幸若舞などに見え、各地の口碑伝説としても伝えられている。江戸時代になると、歌舞伎、浄瑠璃などの登場人物となってさまざまに脚色され、明治以後も唱歌に歌われるなど、弁慶ほど人々から親しまれた英雄豪傑も少ない。弁慶がやや具体的に描かれはじめるのは『源平盛衰記』だが、『義経記』になると、その出生から死に至るまでの物語が詳しく記されるようになる。
『義経記』の弁慶
 『義経記』によると、弁慶は、紀伊の熊野の別当「弁せう」が二位大納言の姫君を強奪して生ませた子とされる。母の胎内に一八ヵ月いて、生まれたときには二~三歳の子どものようで、髪は肩をおおうほど伸び、奥歯も前歯も大きく生えていた。父は鬼神だと考えて殺そうとするが、母の哀願で助けられ、父の妹が鬼若と名づけて京都で養育する。六歳のとき、疱瘡ほうそうにかかり色が黒くなり、髪も生まれたときの垂髪のままで伸びず、元服もさせられずに比叡山西塔の桜本の僧正「くわん慶」にあずけられるが、たびたび乱行を働き放逐される。山を下りるにあたって、みずから剃髪して、父の「弁」と師の「慶」とをとって弁慶と名乗る(自剃じぞり弁慶伝説)。その後、諸国修行に出て四国の霊山をめぐり、播磨の書写山に身を寄せるが、ここでも事を起こして放逐される。京都に出て千本の太刀を奪う悲願を立て、あと一本というとき、五条天神で義経にあい、翌夜、清水観音(清水寺)境内で義経の太刀を奪おうとするが、逆に義経に屈して君臣の契約を結ぶ(場所が五条橋となって、橋弁慶伝説)。それ以後、弁慶は義経の忠実な部下として活躍する。なかでも、義経西国落ちのとき、海上に現れた平家の怨霊を祈り鎮め(船弁慶伝説)、北国落ちには渡しや関所(安宅あたかの関がとりたてられて、安宅伝説)で義経を無事に落とすため知謀をめぐらし、衣川の合戦では敵の矢を満身に受けながら、立ったまま死ぬ(立往生伝説)などの説話が注目される。
熊野、五条天神、鞍馬寺
 『義経記』以外でも『武蔵坊弁慶絵巻』『弁慶物語』、御伽草子の『自剃弁慶』『橋弁慶』があって、これらでも弁慶の父を熊野別当、その生地を熊野としている。『武蔵坊弁慶由来』(静嘉堂文庫)所引の『弁慶願書』(以下『願書』という)では、生地を出雲とし、父を山伏姿の天狗、母を紀伊の田那部の誕象の娘としている。誕象は源平合戦のころ田辺たなべにいた熊野別当湛増のことと考えられるから、出雲系の弁慶誕生譚でも弁慶の出自を熊野と結びつけていることになる。熊野には御伽草子『熊野本地』のような山中誕生譚が別にあって、熊野の山伏や巫女みこたちが熊野信仰宣伝のために利用していたと考えられている。弁慶の誕生譚も同根の山中誕生譚で、『義経記』でも愛発あらち山のことや亀割かめわり山での義経の若君の誕生のことなど、くりかえし山中誕生譚が現れるのも、熊野との関係を暗示しているもののようである。ほかにも熊野との関係を暗示するものがたくさんあって、これらから推して弁慶の物語は、熊野の山伏や巫女の間で成立し、彼らによって全国にひろめられた物語ではないかと考えられている。
 なかでも、『義経記』は、弁慶の母が五条天神に参籠し、辰巳(南東)の風にあたって病気となり、熊野権現に願をかけて平癒したとしていて、義経と弁慶が初めてあうのが五条天神であり、鬼一法眼きいちほうげん伝説にかかわりながら五条天神が出てくるなど、五条天神との関係が密接である。これらから、熊野に奉仕する巫覡ふげきの徒は五条天神と交流を持っていて、熊野で成立した弁慶の物語が五条天神を介して流入したのが『義経記』の弁慶譚ではないかと考えられている。
 また、熊野新宮地方の伝説には弁慶の母を鍛冶屋の娘とするものがあり、『願書』では弁慶の母がつわりに鉄を食したので、弁慶は色が黒く、全身が鉄でできているが、一ヵ所だけが人肉であるなどとされているなど、弁慶の物語の成立には、山伏とも関係の深い鍛冶の集団もかかわったのではないかと推測されている。『弁慶物語』などでも、弁慶は太刀、飾りの黄金細工、よろいなどを五条吉内左衛門、七条堀河の四郎左衛門、三条の小鍛冶に作らせていて、炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。
 鍛冶の集団は毘沙門天びしゃもんてんを信仰していたから、『義経記』の中で鞍馬くらま寺が大きな比重を占めるのも、鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が『義経記』の中に流れ込んだためとも考えられる。また、山伏と鍛冶との交流も考えられるが、問題はそれらの個々の伝承者を離れて、弁慶が典型的な民間の英雄として、その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。
鬼子、捨子、童子
 弁慶の誕生譚に関するほとんどの伝承は、鬼子おにごとして生まれ、山中に捨てられたとするモティーフを備えている。鬼子は、『台記』や『日葡辞書』にも見られるように、長い髪の毛、つまり童髪わらわがみをし、歯が大きく、または二重に生えている者のことをいうが、他の説話や伝説でも、鬼子は殺されるか捨てられるかするのが普通である。『義経記』でも父の「弁せう」が生まれたばかりの弁慶を「さては鬼神ござんなれ」と言っているように、鬼子は神の子であり、まがまがしい鬼神と考えられ、その邪悪を避けるために、流したり殺したり捨てたりなどするわけである。『願書』では島に流されることになっている。生まれた子が鬼神と考えられたところから、母の胎内に長期間いたという異常誕生や山中誕生のモティーフを伴い、捨てられた子が山中で狐狼野干やかんなどの動物に養育されたというモティーフを伴うことにもなる。このことが現実的あるいは歴史的文脈の中で、鬼の子孫と考えられていた童子のイメージを与えられたり、山伏のイメージを与えられたりする。その出自が神であるところから、天狗とか天児屋あめのこやね命の末裔とか熊野別当の子というように、ある種の貴種とされる。弁慶は比叡山や書写山でもいさかいを好む者とされ、橋弁慶伝説のように悪を好む者とされるのも、鬼神の邪悪の説話的な表現であろう。以上の諸点は捨子すてご童子がその語源といわれる酒呑しゅてん童子や伊吹童子、茨木童子、坂田金時と同じ種類の想像力で作り上げられているといえる。
巨人伝説、七つ道具
 『願書』では、流された島(松江市の中海の弁慶島といわれる)から海を埋めて道を作り陸に帰って来たと伝えられるが、また比叡山をはじめ諸国には釣鐘を弁慶が運んだとする伝説や、弁慶の足跡石の伝説がある。また奈良県には、天神山、畝傍うねび山は弁慶が棒でかついでいた「もっこ」の土が落ちてできたとする伝説がある。この伝説は地方によっては百合若ゆりわか大臣、酒呑童子、だいだらぼっちが作ったとされているので、弁慶伝説の中には巨人伝説の要素も隠されているといえる。すなわち、荒ぶる神の子が山や国土を作る話が、弁慶に仮託されて伝説化されたものと理解できる。
 俗説では弁慶は七つ道具を持つとされ、弁慶像でも七つ道具を持つものがある。『義経記』では、弁慶の持ち物として大刀、刀、まさかり薙鎌ないがま、熊手、いちいの木を鉄伏せにした棒(撮棒さいぼう)、幸若舞『高館たかだち』では、箙刀えびらがたな、首掻き刀、小反刃こそりはなどがあげられている。『太平記』には七つ道具の語があり、『狂言記』には朝比奈の七つ道具が出てくるが、弁慶の七つ道具という語が文献に出てくるのは江戸時代になってからのようで、その種類も一定しない。『鬼一法眼三略巻』では弁慶の七つ道具は熊手、薙鎌、鉄の棒、木槌、鋸、鉞、刺股さすまたとなっており、川柳では大工道具だったとされ、歌舞伎で盗人の道具とする作品もあり、国生みをする巨人という点から考えると、七つ道具は本来農耕を基本とする村落生活に必要な道具を集めたものではないかと思われる。それが鍛冶集団との関係でその集団の製作物と解されたり、山伏との関係で特に鉞が、また鬼一法眼のような陰陽師的な者との関係で撮棒が強調されるようになったものと考えられる。
神と傅
 弁慶像を作り上げている想像力は善悪両面を持つ両義的な荒ぶる神のイメージに媒介されているが、その悪の面は弁慶の誕生から修行時代、太刀奪いの伝説などに現れており、義経に臣従してからは善の面が強調され、新しい御子神としての義経に対して弁慶の役割を果たしていると理解できる。橋弁慶伝説はふつう弁慶が千本の太刀を奪う願を立てることになっているが、『武蔵坊弁慶絵巻』などは義経の千人斬りとなり、為手してと受け手とが逆転しており、鬼一法眼の一党や熊坂長範、由利太郎らの盗賊を退治し、みささぎの館を焼き払うなどの中にも、義経が荒ぶる若神のイメージで作られていることがわかる。
黒の弁慶
 『源平盛衰記』には弁慶とびのようなやせ法師と形容していて、ここでもその伝承に山伏が介在しているらしいことがわかるが、弁慶が黒装束をつけているだけでなく膚色も黒かったらしいことがうかがえる。他の伝承では、弁慶が黒くなった理由を疱瘡にかかったためとも、母がつわりに鉄を食したためとも合理化されている。日本における色彩のシンボリズムはまだ十分にわかっていないが、さまざまな弁慶のイメージは黒のシンボリズムの中に包摂されるようで、常軌を逸した者、まがまがしい者、力のある者といったトリックスター的なところがあり、すべてのものを始源に戻すような力を持っているらしい。江戸時代になるとこのような民間信仰の神の観念と結びつくような民俗的想像力が後退して、封建的倫理を背景とした忠臣としての弁慶のイメージが強調され、弁慶が単に勇猛、武勇、知謀、忠義などを表す言葉ともなった。「弁慶の泣き所」の弁慶は勇猛な者の意で用いられて、ふつうは向う脛むこうずねをさし、「弁慶縞」の弁慶は荒々しさを意味している。進退きわまることを「弁慶の立往生」というが、これはいわゆる立往生伝説によったもので、勇猛の意味で用いられている。
源義経
[山本 吉左右]
 別当この子の遅く生まるゝ事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るゝ程に生いて、奥歯も向歯も殊に大きに生いてぞ生まれけれ。(中略)
 鬼若五つにては、世の人十二三程に見えける。六歳の時疱瘡といふものをして、いとゞ色も黒く、髪は生まれたるまゝなれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて
義経記巻三「弁慶生まるゝ事」
「持ち給へる太刀の真実欲しく候に、それ賜び候へ」と申しければ「是は重代の太刀にて叶ふまじ」「さ候はば、いざさせ給へ。武芸につけて、勝負次第に給はり候はん」と申しければ、「それならば参りあふべし」との給へば、弁慶やがて太刀を抜く。御曹司も抜きあはせ、散散に打ち合ふ。(中略)他人言ひけるは、「そもそも児が勝るか、法師が勝るか」「いや児こそ勝るよ。法師は物にてもなきぞ。早弱りて見ゆるぞ」と申しければ、弁慶これを聞きて、「さては早我は下になるごさんなれ」とて、心細く思ひける。御曹司も思ひきり給ふ。弁慶も思ひきつてぞ討ち合ひける。弁慶少し討ちはづすところを御曹司走りかゝつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむところを太刀の脊にて、散々に討ちひしぎ、東枕に打伏して上に打乗り居て、「さて従ふや否や」と仰せられければ、「これも前世の事にてこそ候らん。さらば従ひ参らせん」と申しければ、著たる腹巻を御曹司重ねて著給ひ、二振の太刀を取り、弁慶を先に立てて、その夜の中に山科へ具しておはしまし、傷を癒して、其後連れて京へおはして、弁慶と二人して平家を狙ひ給ひける。
義経記巻三「弁慶義経に君臣の契約申す事」
弁慶今は一人なり。長刀の柄一尺踏折りてがはと捨て、「あはれ中々よき物や、ゑせ片人の足手にまぎれて、わろかりつるに」とて、きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらり〓〓と切りつけ、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落し、脊にて叩きおろしなどして狂う程に、一人に斬り立てられて、面を向くる者ぞなき。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け〓〓したりければ、簑を逆様に著たる様にぞありける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるゝに異ならず。八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者ども申しけるは、「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり如何に狂へ共、死なぬは不思議なり。音に聞えしにも勝りたり。我等が手にこそかけずとも、鎮守大明神立寄りて蹴殺し給へ」と呪ひけるこそ痴がましけれ。武蔵は敵を打払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、二王立に立ちにけり。ひとへに力士りきしゆのごとくなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、我らを討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。然る者申しけるは、「剛の者は立ちながら死する事あると云ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しければ、「われあたらん」と言ふ者もなし。或武者馬にて辺を馳せければ、くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。長刀をにぎりすくみてあれば、倒れ様に先へ打越す様に見えければ、「すはすは又狂うは」とて馳せ退き〓〓控へたり。され共倒れたるまゝにて動かず。その時我も〓〓と寄りけるこそ痴がましく見えたりけれ。立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよ〓〓感じけり。
義経記巻八「衣河合戦の事」

弁慶 もういくら程、今の山伏は行つたらうな。
出羽 大方三里も行つたであらう。
弁慶 そんなら、もう好い加減だわい。
出羽 好い加減とは、なんの事だ。
弁慶 好い加減とは、後から行く事だ。
出羽 そんならわりやア。
弁慶 武蔵坊弁慶だワ。
皆々 イヤア。
弁慶 我が君を落し参らせ、後から追ツかくる忠義の一つ。そこ押ツ開いて通すまいか。
出羽 弁慶と聞いちやア通されぬ。ソレ、やるな。
皆々 やらぬワ。
弁慶 いで物見せん。
皆々 どつこい。
トこれより太鼓の合ひ方になり、弁慶、気味のよきタテあつて、トヾ残らず首を抜き、天水桶の中へ打込む。これを出羽、ふるへながら手伝つて運ぶ。それより出羽が首を引き抜き、キツと思ひ入れする所へ、以前の山伏残らず出て来る。此うち、義経ばかり出ず。皆々取つて帰し、弁慶を見て
山皆 出来た〓〓
弁慶 やかましい。
弁慶、金剛杖を二本取つて、首を芋のやうに、天水桶に立てゝ洗ふと、片シヤギリにて、幕引く。
御摂勧進帳(通称「芋あらい勧進帳」)
(富樫)「近頃殊勝の御覚悟、先に承り候へば、南都東大寺の勧進と仰せありしが、勧進帳御所持なきことはあらじ、勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞仕らん」(弁慶)「なんと、勧進帳を読めと仰せ候な」(富樫)「如何にも」(弁慶)「ムヽ心得て候」〓元より勧進帳のあらばこそ、笈の内より往来の巻物一巻取出だし、勧進帳と名附けつゝ、高らかにこそ読み上げけれ。(弁慶)「それ、つらつらおもん見れば大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。ここに中頃、帝おはします御名を聖武皇帝と申し奉り、最愛の夫人に別れ追慕やみ難く涕泣、眼にあらく、涙玉を貫く、思ひを先路に飜へし上求菩提の為、盧遮那仏を建立仕給ふ。然るに去んじ治承の頃焼亡し畢んぬ。かほどの霊場絶えなんことを歎き、俊乗坊重源勅命を蒙つて、無常の観門に涙を落し、上下の真俗を勧めて、彼の霊場を再建せんと諸国に勧進す。一紙半銭奉財の輩は、現世にては無比の楽に誇り、当来にては数千蓮華の上に坐せん。帰命稽首、敬つて白す」〓天も響けと読み上げたり(富樫)「勧進帳聴聞の上は、疑ひはあるべからず。さりながら、事のついでに問ひ申さん。世に仏徒の姿、さまざまあり、中に山伏は、いかめしき姿にて、仏門修行は訝かしゝ、これにも謂れあるや如何に」(弁慶)「おゝ、その来由いと易し。それ修験の法といつぱ、胎蔵、金剛の両部を旨とし、嶮山悪所を踏み開き、世に害をなす、悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍を垂れ、或ひは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下泰平の祈祷を修す。かるが故に、内には慈悲の徳を納め、表に降魔の相を顕はし、悪鬼外道を威服せり。これ神仏の両部にして、百八の珠数に仏道の利益を顕はす」(中略)(富樫)「かゝる尊き客僧を、暫しも疑ひ申せしは眼あつて無きが如き我が不念、今よりそれがし勧進の施主につかん。番卒ども、布施物持て」(番卒三人)「はあ」〓士卒が運ぶ広台に、白綾袴一重ね、加賀絹あまた取揃へ、御前へこそは直しけれ。(富樫)「近頃些少には候へども、南都東大寺の勧進、即ち布施物、御受納下さらば、それがしが功徳、偏へに願ひ奉る」(弁慶)「あら、有難の大檀那。現当二世安楽ぞ。なんの疑ひかあるべからず重ねて申すことの候。猶我々は近国を勧進し、卯月半ばに上るべし。それまでは、嵩高の品々、お預け申す。さらばいづれも御通り候へ」(四人)「心得て候」(弁慶)「いで〓〓、急ぎ申すべし」(四人)「心得申して候」〓こは嬉しやと山伏も、しづ〓〓立つて歩まれけり。(富樫)「如何にそれなる強力、止まれとこそ」〓すはや我が君怪しむるは、一期の浮沈爰なりと、各々後へ立帰る。(弁慶)「慌てゝ事を仕損ずな。こな強力め、何とて通り居らぬぞ」(富樫)「それは此方より留め申した」(弁慶)「それは何ゆゑお留め候ぞ」(富樫)「その強力が、ちと人に似たりと申す者の候ほどに、さてこそ只今留めたり」(弁慶)「何、人が人に似たりとは珍らしからぬ仰せにこそ、さて、誰に似て候ぞ」(富樫)「判官どのに、似たりと申す者の候ほどに、落居の間留め申す」(弁慶)「なに、判官どのに似たる強力めは、一期の思ひ出な、腹立ちや、日高くば、能登の国まで、越さうずらうと思ひをるに、僅かの笈一つ背負うて後に下がればこそ、人も怪しむれ、総じてこの程より、やゝもすれば、判官どのよと怪しめらるゝは、おのれが業の拙きゆゑなり、思へば憎し、憎し〓〓、いで物見せん。〓金剛杖をおつ取つて、さん〓〓に打擲す。通れ」〓通れとこそは罵りぬ。(富樫)「如何やうに陳ずるとも、通すこと」(番卒三人)「まかりならぬ」(弁慶)「やあ、笈に目をかけ給ふは、盗人ざふな。これ」〓方々は何ゆゑに、かほど賤しき強力に、太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞、臆病の至りかと、皆山伏は打刀を抜きかけて、勇みかゝれる有様は、如何なる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えにける。(弁慶)「まだこの上にも御疑ひの候はゞ、あの強力め、荷物の布施物諸共、お預け申す。如何やうにも糺明あれ。但し、これにて打ち殺し見せ申さんや」(富樫)「こは先達の荒けなし」(弁慶)「然らば、只今疑ひありしは如何に」(富樫)「士卒の者が我れへの訴へ」(弁慶)「御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さん」(富樫)「早まり給ふな、番卒どものよしなき僻目より、判官どのにもなき人を、疑へばこそ、斯く折檻も仕給ふなれ。今は疑ひ晴れ申した。とく〓〓誘ひ通られよ」(弁慶)「大檀那の仰せなくんば、打ち殺いて捨てんずもの、命冥加に叶ひし奴、以後をきつと、慎み居らう」(富樫)「我れはこれより、猶も厳しく警固の役、方々来れ」(番卒三人)「はあゝ」〓士卒を引き連れ関守は、門の内へぞ入りにける。(義経)「如何に弁慶、さても今日の気転、更に凡慮の及ぶ所にあらず、兎角の是非を争はずして、たゞ下人の如くさん〓〓に、我れを打つて助けしは、正に、天の加護、弓矢正八幡の神慮と思へば、忝く思ふぞよ」(常陸)「この常陸坊を初めとして、随ふ者ども関守に呼びとめられしその時は、ここぞ君の御大事と思ひしに」(駿河)「誠に正八幡の我君を、守らせ給ふ御しるし、陸奥下向は速かなるべし」(片岡)「これ全く武蔵坊が智謀にあらずんば、免がれ難し」(亀井)「なかなか以て我々が及ぶべき所にあらず」(常陸)「ほほ、驚き」(皆々)「入つて候」(弁慶)「それ、世は末世に及ぶといへども、日月いまだ地に落ち給はぬ御高運、はゝ有難し、有難し。計略とは申しながら、正しき主君を打擲、天罰そら恐ろしく、千鈞を上ぐるそれがし、腕も痺るゝ如く覚え候。あら、勿体なや〓〓〓つひに泣かぬ弁慶も、一期の涙ぞ殊勝なる。
勧進帳
弁慶石町 在〓三条通京極西〓古此所ニ有〓律寺〓。(中略)号〓京極寺〓弁慶石在〓此寺〓。和漢合運曰。享徳三年奥州弁慶石。入〓洛京極律寺〓。云云伝云此石弁慶愛セシ石也。慶ガ死後奥州高舘ノ辺ニアリ。発〓声鳴動シ。三条京極ニユカントイフ。然シテ其在所熱病ヲナスコト太シ。土人為〓恐怖〓此所ニ送リ来ルト。
山州名跡志巻之十七
いかる時くりむめになるむさし坊
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):智‐4
刊行/開き:1763(宝暦13年)(開き)
むさし坊あつたら事に上ミ言葉
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):4‐39
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、「栗梅」は紫みがかった栗色。第二句、坂東言葉がふさわしいのに上方弁とは。
弁慶と小町は馬鹿だなアかゝア
編者/評者:柄井川柳(著)、幸丸(編)
出典:『洞観集』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):1
義経はお好き弁慶きらいなり
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):50‐20
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
弁慶は俗に「一生一交」であったと伝えられ、艶福家であった義経と好対照。第一句はおそらく万人の抱く感慨。
此枝がほしくばゆびを壱本ヅヽ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):14‐33
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
須磨寺の梅樹に「此花、江南ノ所無也、一枝折盗ノ輩ニオイテハ天永紅葉ノタメシニ任セ、一枝ヲ伐ラバ一指ヲ剪ルベシ」の弁慶自筆の制札を立て、梅樹を庇護したと伝える。
つりがねにものをいわせるむさし坊
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):仁‐6
刊行/開き:1779(安永8年)(開き)
三井の園城寺と叡山の延暦寺とが戒壇のことで戦になり、延暦寺側が勝ったため、三井寺の釣鐘を奪い去った。ところがこの鐘はつくたびに「三井寺へ帰ろう」と鳴るので、叡山にいた弁慶が鐘を担ぎ山頂よりなげたという伝説。
むさし坊水車程しよつて出る
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):3‐12
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
弁慶が七つ道具を背負った形容。「武さし坊とかく支度に手間がとれ」(宝九宮2)の句もある。
弁慶は行儀たゞしくじやくめつし
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):義‐5
刊行/開き:1764年(明和1)(開き)
衣川での立往生。「寂滅」は死ぬこと。


世界大百科事典

弁慶
べんけい

源義経の郎従。武蔵坊と称する。没年は衣川の合戦で義経に殉じたとする伝承にもとづいて1189年(文治5)とされる。《吾妻鏡》や《平家物語》にその名が見えるので,実在の人物と考えられているが,詳しくは不明。その説話や伝承は,《義経記》をはじめ室町時代の物語草子,謡曲,幸若舞などに見え,各地の口碑伝説としても伝えられている。江戸時代になると,歌舞伎,浄瑠璃などの登場人物となってさまざまに脚色され,明治以後も唱歌に歌われるなど,弁慶ほど人々から親しまれた英雄豪傑も少ない。弁慶がやや具体的に描かれはじめるのは《源平盛衰記》だが,《義経記》(ぎけいき)になると,その出生から死に至るまでの物語が詳しく記されるようになる。

《義経記》の弁慶

《義経記》によると,弁慶は,紀伊の熊野の別当〈弁せう〉が二位大納言の姫君を強奪して生ませた子とされる。母の胎内に18ヵ月いて,生まれたときには2~3歳の子どものようで,髪は肩をおおうほど伸び,奥歯も前歯も大きく生えていた。父は鬼神だと考えて殺そうとするが,母の哀願で助けられ,父の妹が鬼若と名づけて京都で養育する。6歳のとき,疱瘡(ほうそう)にかかり色が黒くなり,髪も生まれたときの垂髪のままで伸びず,元服もさせられずに比叡山西塔の桜本の僧正〈くわん慶〉にあずけられるが,たびたび乱行を働き放逐される。山を下りるにあたって,みずから剃髪して,父の〈弁〉と師の〈慶〉とをとって弁慶と名乗る(自剃(じぞり)弁慶伝説)。その後,諸国修行に出て四国の霊山をめぐり,播磨の書写山に身を寄せるが,ここでも事を起こして放逐される。京都に出て千本の太刀を奪う悲願を立て,あと一本というとき,五条天神で義経にあい,翌夜,清水観音境内で義経の太刀を奪おうとするが,逆に義経に屈して君臣の契約を結ぶ(場所が五条橋となって,橋弁慶伝説)。それ以後,弁慶は義経の忠実な部下として活躍する。なかでも,義経西国落ちのとき,海上に現れた平家の怨霊を祈り鎮め(船弁慶伝説),北国落ちには渡しや関所(安宅(あたか)の関がとりたてられて,安宅伝説)で義経を無事に落とすため知謀をめぐらし,衣川の合戦では敵の矢を満身に受けながら,立ったまま死ぬ(立往生伝説)などの説話が注目される。

熊野,五条天神,鞍馬寺

《義経記》以外でも《武蔵坊弁慶絵巻》《弁慶物語》,御伽草子の《自剃弁慶》《橋弁慶》があって,これらでも弁慶の父を熊野別当,その生地を熊野としている。《武蔵坊弁慶由来》(静嘉堂文庫)所引の《弁慶願書》(以下《願書》という)では,生地を出雲とし,父を山伏姿の天狗,母を紀伊の田那部の誕象の娘としている。誕象は源平合戦のころ田辺(たなべ)にいた熊野別当湛増のことと考えられるから,出雲系の弁慶誕生譚でも弁慶の出自を熊野と結びつけていることになる。熊野には御伽草子《熊野本地》のような山中誕生譚が別にあって,熊野の山伏や巫女(みこ)たちが熊野信仰宣伝のために利用していたと考えられている。弁慶の誕生譚も同根の山中誕生譚で,《義経記》でも愛発(あらち)山のことや亀割(かめわり)山での義経の若君の誕生のことなど,くりかえし山中誕生譚が現れるのも,熊野との関係を暗示しているもののようである。ほかにも熊野との関係を暗示するものがたくさんあって,これらから推して弁慶の物語は,熊野の山伏や巫女の間で成立し,彼らによって全国にひろめられた物語ではないかと考えられている。

 なかでも《義経記》は,弁慶の母が五条天神に参籠し,辰巳(南東)の風にあたって病気となり,熊野権現に願をかけて平癒したとしていて,義経と弁慶が初めてあうのが五条天神であり,鬼一法眼(きいちほうげん)伝説にかかわりながら五条天神が出てくるなど,五条天神との関係が密接である。これらから,熊野に奉仕する巫覡(ふげき)の徒は五条天神と交流を持っていて,熊野で成立した弁慶の物語が五条天神を介して流入したのが《義経記》の弁慶譚ではないかと考えられている。

 また,熊野新宮地方の伝説には弁慶の母を鍛冶屋の娘とするものがあり,《願書》では弁慶の母がつわりに鉄を食したので,弁慶は色が黒く,全身が鉄でできているが,一ヵ所だけが人肉であるなどとされているなど,弁慶の物語の成立には,山伏とも関係の深い鍛冶の集団もかかわったのではないかと推測されている。《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。

 鍛冶の集団は毘沙門天(びしやもんてん)を信仰していたから,《義経記》の中で鞍馬(くらま)寺が大きな比重を占めるのも,鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が《義経記》の中に流れ込んだためとも考えられる。また,山伏と鍛冶との交流も考えられるが,問題はそれらの個々の伝承者を離れて,弁慶が典型的な民間の英雄として,その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。

鬼子,捨子,童子

弁慶の誕生譚に関するほとんどの伝承は,鬼子(おにご)として生まれ,山中に捨てられたとするモティーフを備えている。鬼子は,《台記》や《日葡辞書》にも見られるように,長い髪の毛,つまり童髪(わらわがみ)をし,歯が大きく,または二重に生えている者のことをいうが,他の説話や伝説でも,鬼子は殺されるか捨てられるかするのが普通である。《義経記》でも父の〈弁せう〉が生まれたばかりの弁慶を〈さては鬼神ござんなれ〉と言っているように,鬼子は神の子であり,まがまがしい鬼神と考えられ,その邪悪を避けるために,流したり殺したり捨てたりなどするわけである。《願書》では島に流されることになっている。生まれた子が鬼神と考えられたところから,母の胎内に長期間いたという異常誕生や山中誕生のモティーフを伴い,捨てられた子が山中で狐狼野干(やかん)などの動物に養育されたというモティーフを伴うことにもなる。このことが現実的あるいは歴史的文脈の中で,鬼の子孫と考えられていた童子のイメージを与えられたり,山伏のイメージを与えられたりする。その出自が神であるところから,天狗とか天児屋(あめのこやね)命の末裔とか熊野別当の子というように,ある種の貴種とされる。弁慶は比叡山や書写山でもいさかいを好む者とされ,橋弁慶伝説のように悪を好む者とされるのも,鬼神の邪悪の説話的な表現であろう。以上の諸点は捨子(すてご)童子がその語源といわれる酒呑(しゆてん)童子や伊吹童子,茨木童子,坂田金時と同じ種類の想像力で作り上げられているといえる。

巨人伝説,七つ道具

《願書》では,流された島(松江市の中海の弁慶島といわれる)から海を埋めて道を作り陸に帰って来たと伝えられるが,また比叡山をはじめ諸国には釣鐘を弁慶が運んだとする伝説や,弁慶の足跡石の伝説がある。また奈良県には,天神山,畝傍(うねび)山は弁慶が棒でかついでいた〈もっこ〉の土が落ちてできたとする伝説がある。この伝説は地方によっては百合若(ゆりわか)大臣,酒呑童子,だいだらぼっちが作ったとされているので,弁慶伝説の中には巨人伝説の要素も隠されているといえる。すなわち,荒ぶる神の子が山や国土を作る話が,弁慶に仮託されて伝説化されたものと理解できる。

 俗説では弁慶は七つ道具を持つとされ,弁慶像でも七つ道具を持つものがある。《義経記》では,弁慶の持ち物として大刀,刀,鉞(まさかり),薙鎌(ないがま),熊手,櫟(いちい)の木を鉄伏せにした棒(撮棒(さいぼう)),幸若舞《高館(たかだち)》では,箙刀(えびらがたな),首搔き刀,小反刃(こそりは)などがあげられている。《太平記》には七つ道具の語があり,《狂言記》には朝比奈の七つ道具が出てくるが,弁慶の七つ道具という語が文献に出てくるのは江戸時代になってからのようで,その種類も一定しない。《鬼一法眼三略巻》では弁慶の七つ道具は熊手,薙鎌,鉄の棒,木槌,鋸,鉞,刺股(さすまた)となっており,川柳では大工道具だったとされ,歌舞伎で盗人の道具とする作品もあり,国生みをする巨人という点から考えると,七つ道具は本来農耕を基本とする村落生活に必要な道具を集めたものではないかと思われる。それが鍛冶集団との関係でその集団の製作物と解されたり,山伏との関係で特に鉞が,また鬼一法眼のような陰陽師的な者との関係で撮棒が強調されるようになったものと考えられる。

神と傅

弁慶像を作り上げている想像力は善悪両面を持つ両義的な荒ぶる神のイメージに媒介されているが,その悪の面は弁慶の誕生から修行時代,太刀奪いの伝説などに現れており,義経に臣従してからは善の面が強調され,新しい御子神としての義経に対して弁慶は傅(ふ)の役割を果たしていると理解できる。橋弁慶伝説はふつう弁慶が千本の太刀を奪う願を立てることになっているが,《武蔵坊弁慶絵巻》などは義経の千人斬りとなり,為手(して)と受け手とが逆転しており,鬼一法眼の一党や熊坂長範,由利太郎らの盗賊を退治し,陵(みささぎ)の館を焼き払うなどの中にも,義経が荒ぶる若神のイメージで作られていることがわかる。

黒の弁慶

《源平盛衰記》には弁慶を鳶(とび)のようなやせ法師と形容していて,ここでもその伝承に山伏が介在しているらしいことがわかるが,弁慶が黒装束をつけているだけでなく膚色も黒かったらしいことがうかがえる。他の伝承では,弁慶が黒くなった理由を疱瘡にかかったためとも,母がつわりに鉄を食したためとも合理化されている。日本における色彩のシンボリズムはまだ十分にわかっていないが,さまざまな弁慶のイメージは黒のシンボリズムの中に包摂されるようで,常軌を逸した者,まがまがしい者,力のある者といったトリックスター的なところがあり,すべてのものを始源に戻すような力を持っているらしい。江戸時代になるとこのような民間信仰の神の観念と結びつくような民俗的想像力が後退して,封建的倫理を背景とした忠臣としての弁慶のイメージが強調され,弁慶が単に勇猛,武勇,知謀,忠義などを表す言葉ともなった。〈弁慶の泣き所〉の弁慶は勇猛な者の意で用いられて,ふつうは向う脛(むこうずね)をさし,〈弁慶縞〉の弁慶は荒々しさを意味している。進退きわまることを〈弁慶の立往生〉というが,これはいわゆる立往生伝説によったもので,勇猛の意味で用いられている。
[山本 吉左右]

[索引語]
武蔵坊弁慶 義経記 鬼若 自剃(じぞり)弁慶伝説 橋弁慶伝説 船弁慶伝説 安宅伝説 立往生伝説 熊野 五条天神 鞍馬寺 山中誕生譚 山伏 鍛冶屋 金売吉次 毘沙門天 鬼子 捨子 童子 異常誕生 巨人伝説 七つ道具 弁慶弁慶の七つ道具 弁慶の泣き所 弁慶弁慶の立往生
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検索コンテンツ
1. 弁慶
日本大百科全書
89年(文治5)自害するが、このとき弁慶は立往生を遂げたといわれる。謡曲『船ふな弁慶』『橋弁慶』『安宅あたか』、歌舞伎かぶき『勧進帳かんじんちょう』『弁慶上使じ
2. 弁慶
世界大百科事典
《義経記》以外でも《武蔵坊弁慶絵巻》《弁慶物語》,御伽草子の《自剃弁慶》《橋弁慶》があって,これらでも弁慶の父を熊野別当,その生地を熊野としている。《武蔵坊弁慶
3. べんけい【弁慶・辨慶】
日本国語大辞典
保存されている。【二】〔名〕(1)強い者、強がる者のたとえ。内弁慶、陰弁慶、炬燵弁慶など。*雑俳・柳多留‐三八〔1807〕「弁慶も陰と炬燵は今にあり」(2)(【
4. べんけい【弁慶】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
弁慶(べんけい)から暑寒(しょかん)を遣(つか)う・弁慶(べんけい)ぎなた式(しき)・弁慶(べんけい)に唐辛子(とうがらし)・弁慶(べんけい)に薙刀(なぎなた)
5. べんけい【弁慶】
国史大辞典
たて、文治五年(一一八九)衣川の戦いで義経に殉じたと伝える。『吾妻鏡』に弁慶の名はみえるが、『平家物語』をはじめ『義経記』『弁慶物語』などの文学書によって英雄化
6. 辨慶(べんけい)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 290ページ
7. べんけい【弁慶】
日本人名大辞典
4月30日衣(ころも)川の戦いで全身に矢をうけ,たったまま死んだという。「義経(ぎけい)記」「弁慶物語」などによって豪傑として伝説化された。幼名は鬼若丸。号は武
8. べんけい【弁慶】
日本架空伝承人名事典
『義経記』以外でも『武蔵坊弁慶絵巻』『弁慶物語』、御伽草子の『自剃弁慶』『橋弁慶』があって、これらでも弁慶の父を熊野別当、その生地を熊野としている。『武蔵坊弁慶
9. 弁慶[文献目録]
日本人物文献目録
『日本百傑伝 第三編』松井広吉(編)『弁慶の謎』菊村紀彦『弁慶』藤沢衛彦『弁慶の七道具』屋代弘賢『弁慶の物語 義経記巻三を中心として』市古貞次『遊僧としての弁慶
10. べんけー【弁慶】[方言]
日本方言大辞典
の三枚葉さんまいば→べんけーなかせ【弁慶泣】べんけー の泣なき所どころぼんのくぼ。 群馬県伊勢崎市040現地採録、または報告によるものべんけー の涙零なみだこぼ
11. べんけい‐あめ【弁慶飴】
日本国語大辞典
店頭に甲冑(かっちゅう)姿の弁慶の木像が飾られていたところからの名。*雑俳・拾ひ栗〔1831〕「ぶらさげて弁慶飴の坊主坊」*歌舞伎・四千両小判梅葉〔1885〕序
12. べんけい‐いし【弁慶石】
日本国語大辞典
〔名〕弁慶にまつわる伝説をもつ石。*臥雲日件録‐享徳元年〔1452〕一一月六日「自〓山階
13. べんけいいし【弁慶石】京都市:中京区/生祥学区/弁慶石町地図
日本歴史地名大系
[現]中京区弁慶石町 もと町中にあったと伝えられる巨石で、町名の由来ともなった。伝説には二説あり、その一は昔鞍馬口(現北区)に武蔵坊弁慶が常に腰掛けて休んだ大石
14. べんけいいしちょう【弁慶石町】京都市:中京区/生祥学区地図
日本歴史地名大系
ことは「太平記」にみえる。町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「弁慶石丁」とあり、「都すゞめ案内者」「京町鑑」にも「弁慶石町」と変化なく一貫している。この町
15. べんけい‐いしゃ【弁慶医者】
日本国語大辞典
する医者。*雑俳・後の栞〔1816〕「二ツ三ツ・物真似もある弁慶医者」*浄瑠璃・生写朝顔話〔1832〕真葛が原の段「判官ごのみの辨慶医者」
16. べんけい‐いわ[‥いは]【弁慶岩】
日本国語大辞典
〔名〕巨人伝説の一つ。弁慶が運んできたなどの伝承をもつ巨岩。また、その伝説。ベンケ〓イワ
17. べんけい から 暑寒(しょかん)を遣(つか)う
日本国語大辞典
*洒落本・通仁枕言葉〔1781〕幾よし屋の坐舗「お客のほうを貰たの、あすの仕めへをへんげへたの、辨慶から暑寒を遣ふ、切っても切れねへあまじゃアねへか」
18. 弁慶(べんけい)から暑寒(しょかん)を遣(つか)う
故事俗信ことわざ大辞典
強い弁慶のほうから暑中・寒中見舞いをしてくる。強い者が弱い者のきげんをとる。物事があべこべのたとえ。「暑寒」は、時候のあいさつ。寒暑。 洒落本・通仁枕言葉(17
19. 弁慶ヶ穴古墳
日本大百科全書
熊本県山鹿やまが市熊入くまいり、熊入温泉街の背後に横たわる台地の南端にある円墳。直径15メートル、高さ5.7メートルを有する。内部に総奥行9.8メートル、幅2.
20. べんけいがあなこふん【弁慶ヶ穴古墳】
国史大辞典
、色彩画と彫刻画とが併用されていることでも重要である。国史跡。 [参考文献]原口長之『弁慶ガ穴古墳調査報告』 (斎藤 忠)
21. べんけいがあなこふん【弁慶ヶ穴古墳】熊本県:山鹿市/熊入村
日本歴史地名大系
城北地区における代表的装飾古墳として知られる。国指定史跡。巨石をもって構築されているためか、地元では「弁慶ヶ穴」の愛称をもつ。地区の墓所の中に位置するため墳裾を
22. ベンケイガイ
日本大百科全書
軟体動物門二枚貝綱タマキガイ科の二枚貝。房総半島から九州までに分布し、水深5~20メートルの砂底にすむ。殻長85ミリ、殻高70ミリ、殻幅40ミリに達する大形種で
23. ベンケイガニ
日本大百科全書
節足動物門甲殻綱十脚じっきゃく目イワガニ科に属するカニ。河口域から陸上へと生息域を広げているカニ類の代表種。アカテガニと混同されることが多いが、本種は一様に橙赤
24. べんけい‐がに【弁慶蟹】
日本国語大辞典
*随筆・嬉遊笑覧〔1830〕一二下「小蟹の色赤きを辨慶がにと呼で弄ふ」*自然と人生〔1900〕〈徳富蘆花〉湘南雑筆・涼しき夕「螯(はさみ)をあげて迫り来る辨慶
25. べんけい ぎなた式(しき)
日本国語大辞典
弁慶は、なぎなたを持って」を、「弁慶はな、ぎなたを持って」と誤読するような、句切りを間違えた読み方。
26. 弁慶(べんけい)ぎなた式(しき)
故事俗信ことわざ大辞典
弁慶は、なぎなたを持って」を、「弁慶はな、ぎなたを持って」と誤読するような、句切りをまちがえた読み方。 日本俚諺大全(1906~08)「弁慶(ベンケイ)がな、
27. 弁慶号
日本大百科全書
ため、現在は後継施設「鉄道博物館」(2007年10月開館・さいたま市)で展示されている。なお、弁慶号は鉄道記念物に指定されている。松澤正二
28. べんけい‐ごうし[‥ガウシ]【弁慶格子】
日本国語大辞典
〔名〕「べんけいじま(弁慶縞)」に同じ。*別れた妻に送る手紙〔1910〕〈近松秋江〉「茶と小豆の辨慶格子の〈略〉短い縮緬の下じめ」*百鬼園随筆〔1933〕〈内田
29. べんけい‐じま【弁慶縞】画像
日本国語大辞典
格子形に織ったもの。弁慶格子。弁慶。*雑俳・和歌みどり〔1723〕「つきつきと・弁慶島によろいおり」*随筆・守貞漫稿〔1837~53〕一七「辨慶島 白紺或は紺茶
30. 辨慶縞(べんけいじま)
古事類苑
産業部 洋巻 第2巻 27ページ
31. べんけい‐じょうし[‥ジャウシ]【弁慶上使】
日本国語大辞典
〔名〕人参と牛蒡(ごぼう)の煮付をいう、盗人仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕
32. べんけい‐せんべい【弁慶煎餠】
日本国語大辞典
〔名〕菓子の一つ。弁慶生誕の地であるという伝説から製された、和歌山県田辺市特産の煎餠。ベンケ〓センベ
33. べんけい‐そう[‥サウ]【弁慶草】画像
日本国語大辞典
学名はHylotelephium erythrostictum 《季・秋》*花壇地錦抄〔1695〕四、五「弁慶(ベンケイ)草〈略〉花黒紫色、小りん、葉はかんひの
34. 辨慶草(べんけいそう)
古事類苑
植物部 洋巻 第2巻 85ページ
35. べんけいそう‐か[ベンケイサウクヮ]【弁慶草科】
日本国語大辞典
〔名〕双子葉植物の科名。主に南アフリカを中心に三五属一五〇〇余種があり、岩石地や乾燥地に生える。多年草。日本には、ツメレンゲ、メノマンネングサなど四属三〇余種知
36. べんけい‐ちゅう【弁慶柱】
日本国語大辞典
〔名〕サボテン科北米ハシラサボテンの一種。アメリカ南西部、メキシコの乾燥地に生える。茎は柱状で、高さ一〇メートルにもなる。ソガロス。学名はCarnegiea g
37. べんけいどう【弁慶洞】北海道:十勝支庁/本別町
日本歴史地名大系
サマイクルカムイサンテを義経の居館、弁慶洞をカムイチャチャポルとよんで弁慶以下七名の住居という伝承を残している。この地一帯の観光開発は大正末期に始まり、弁慶洞の
38. べんけい‐どひょう[‥ドヘウ]【弁慶土俵】
日本国語大辞典
る、ごろた石を詰め込んだ俵。*徳川実紀‐有徳院附録〔1751〕九「相模国酒匂川の水害の時〈略〉辨慶土俵といへるものをこしらへ、俵の中に五郎太石をいれ」ベンケ
39. 辨慶土俵(べんけいどひょう)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1138ページ
40. べんけい‐なかせ【弁慶泣】
日本国語大辞典
《べんけいきらず》静岡県008 三重県宇治山田市591 《べんけいのなみだこぼし〔弁慶涙零〕》千葉県安房郡036 《べんけいのさんまいば〔弁慶三枚葉〕》愛知県知
41. 弁慶(べんけい)に唐辛子(とうがらし)
故事俗信ことわざ大辞典
赤いもののとりあわせ。弁慶は赤ら顔であったとされていた。 日本俚諺大全(1906~08)「弁慶(ベンケイ)に蕃椒(タウガラシ)」
42. 弁慶(べんけい)に薙刀(なぎなた)
故事俗信ことわざ大辞典
強い弁慶に最も得意とする薙刀を持たせる。鬼に金棒(かなぼう)。 滑稽本・浮世床(1813~23)二「サア来い、これからは鬼に鉄棒弁慶(ベンケイ)に薙刀(ナギナタ
43. べんけいのいわやこふん【弁慶の岩屋古墳】徳島県:小松島市/芝生村
日本歴史地名大系
[現]小松島市芝生町 大嶽 東西に延びる四国山地の最も東寄りの山裾に所在する後期古墳。県指定史跡。一帯に破壊された横穴式石室墳(義経の岩屋古墳)や箱式石棺などの
44. べんけい の 立往生(たちおうじょう)
日本国語大辞典
(衣川の合戦で、弁慶が大なぎなたを杖にして、橋の中央に立ったまま死んだというところから)進退きわまることのたとえ。*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕四・上「股
45. 弁慶(べんけい)の立(た)ち往生(おうじょう)
故事俗信ことわざ大辞典
上「股へ雪がはさまって、ソレ辨慶立往生と来るは」俗諺辞林(1901)「弁慶(ベンケイ)立往生(タチワウジャウ)」明暗(1916)〈夏目漱石〉一七〇「こんな所で辨
46. べんけい の 泣(な)き所(どころ)
日本国語大辞典
(1)(弁慶ほどの豪傑でも、痛がって泣く急所の意で)向こうずね。(2)転じて、最も弱いところ。弱点。アキレスけん。*今年竹〔1919~27〕〈里見
47. 弁慶(べんけい)の泣(な)き所(どころ)
故事俗信ことわざ大辞典
弁慶ほどの豪傑でも、痛がって泣く急所。向こうずねをいう。転じて、最も弱いところ。弱点。アキレスけん。 日本俚諺大全(1906~08)「弁慶(ベンケイ)の泣所
48. 弁慶(べんけい)の七(なな)つ道具(どうぐ)
故事俗信ことわざ大辞典
弁慶が戦場で武器として用いたという鎌・鋸(のこぎり)・槌・斧などの七種の道具。転じて、一組にして携帯する小道具一式。また仕事の割に大げさな道具類を持参すること。
49. 弁慶(べんけい)は一度(いちど)ぎりで諦(あきら)めた
故事俗信ことわざ大辞典
弁慶は色欲に執着がなかったといわれるところからいう。〔諺語大辞典(1910)〕
50. べんけい‐はだ【弁慶肌】
日本国語大辞典
〔名〕幇間(ほうかん)風な気質。*洒落本・箱まくら〔1822〕下「土地のものや、町でも弁慶(ベンケイ)はだにて、なに事にもゆきわたった人をば引をけば」
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五世紀末から六世紀前半へかけての大和朝廷の有力者。武烈・継体・安閑・宣化朝の大連。大伴談(かたり)の子。磐・咋・狭手彦の父。仁賢天皇の死後、権勢強大な平群氏を滅ぼし、武烈天皇を即位させた。武烈の死後、あとをつぐ皇族がないため、金村は群臣とはかって
十返舎一九(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸後期の洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、滑稽本(こっけいぼん)、合巻(ごうかん)作者。本名重田貞一(しげたさだかず)、通称与七。十返舎は香道の十返(とがえ)しにちなみ、一九は幼名市九による。酔斎、十偏舎、十偏斎などとも号す。前半生の伝記
曲亭馬琴(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸後期の小説家。姓は滝沢、名は興邦(おきくに)、のち解(とく)と改める。字(あざな)は子翼、瑣吉(さきち)。通称は清右衛門、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)。別号は大栄山人(だいえいさんじん)、著作堂(ちょさどう)主人、飯台陳人、乾坤(けんこん)
小野小町(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代前期の女流歌人。生没年不詳。六歌仙、三十六歌仙の一人。出羽国の郡司良真の女。篁(たかむら)の孫、美材(よしき)、好古(よしふる)らの従妹とされる。系図については諸説があるが、確かなことは不明。小町の名についても、宮中の局町に住んだことによると
弁慶(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
源義経の郎従。武蔵坊と称する。没年は衣川の合戦で義経に殉じたとする伝承にもとづいて一一八九年(文治五)とされる。『吾妻鏡』や『平家物語』にその名が見えるので、実在の人物と考えられているが、詳しくは不明。その説話や伝承は、『義経記』をはじめ室町時代の
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