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  11. 松尾芭蕉

ジャパンナレッジで閲覧できる『松尾芭蕉』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・世界大百科事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

芭蕉
ばしょう
[1644―1694]

江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄 (げんろく)期(1688~1704)に活躍した井原西鶴 (いはらさいかく)、近松門左衛門 (ちかまつもんざえもん)、芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃 (じょうるり)、俳諧 (はいかい)の分野を代表する三大文豪として評価されている。さらに詩歌部門に限っていえば、和歌文学の頂上に位置する万葉の柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ)に対して、俳諧文学の頂上として芭蕉が対峙 (たいじ)し、中間の新古今時代を西行 (さいぎょう)と藤原定家 (ていか)とが世の評価を二分している。しかも芭蕉自身は、己がつながる伝統を先人のうえに数え上げて、「西行の和歌における、宗祇 (そうぎ)の連歌 (れんが)における、雪舟の絵における、利休が茶における、其 (その)貫道する物は一 (いつ)なり」(『笈の小文 (おいのこぶみ)』)といいきり、文学のみならず、絵や茶も視野のうちにとらえて、風雅全般の伝統の継承者として、自分を任じていた。

[山本健吉]

生い立ち・故郷

芭蕉は寛永 (かんえい)21年伊賀上野 (いがうえの)の赤坂農人町(三重県伊賀市上野赤坂町)に、松尾与左衛門の子として生まれた。兄半左衛門のほかに、4人の姉妹があり、家格は無足人 (むそくにん)級(一種の郷士・地侍級の農民)であった。藤堂 (とうどう)藩の侍大将であった、食禄5000石の藤堂新七郎良精 (よしきよ)の嗣子 (しし)、良忠 (よしただ)に子小姓として出仕、時に19歳。2歳年長の良忠(俳号蝉吟 (せんぎん))とともに、貞門の北村季吟 (きぎん)系の俳諧を学び、宗房 (むねふさ)の名のりを音読して号に用いたらしい。作品の初出は1662年(寛文2)だが、まだいうに足りない。66年4月、良忠は病没、やがて致仕して兄の家に戻った。

 漂泊の詩人といわれた芭蕉が、いつも帰ろうと思えば迎えてくれる母郷の家をもっていたことを重視したい。芭蕉の帰郷は生涯10回にも及んでいて、滞在はおおかた2~3か月の長期にわたり、旅のついでに立ち寄ったという程度をはるかに超えている。これは「郷愁の詩人」(萩原朔太郎 (はぎわらさくたろう))といわれた蕪村 (ぶそん)の郷愁が、慈母の懐袍 (ふところ)のように、いまは存在しない毛馬 (けま)村の生まれ故郷を恋うた、浪漫 (ろうまん)的なものでしかなかったのと、まるで違う。芭蕉における故郷は現在に存在する故郷であり、彼は意外に土着的発想が強い。彼が故郷をいうとき、山家・山中・山里などといつも山ということを強調するが、芭蕉にとっては上野そのものが「山家ノケシキ」であり、とくに半左衛門の家をさすことが多い。懐かしいとともに貧しく寒々として悲しい故郷の様相ということだった。

[山本健吉]

江戸へ赴く

1672年正月、宗房の名で伊賀上野の産土 (うぶすな)神、天満宮に、三十番句合 (くあわせ)を編んで奉納(『貝おほひ』の題で翌年刊)。菅公 (かんこう)七百七十年忌にあたり、発句 (ほっく)の作者はすべて伊賀の住人、芭蕉の生涯での唯一の著述である。そのころ行われていた小唄 (こうた)や奴詞 (やっこことば)(六方詞)や流行語などを縦横に駆使した判詞が珍しく、あたかも胎動期にあった談林 (だんりん)流の無頼ぶりに一歩先んじている。この年の春、「雲とへだつ友かや雁 (かり)のいきわかれ」の留別吟を残して、江戸へ赴いた。落ち着き先は日本橋界隈 (かいわい)で、卜尺 (ぼくせき)あるいは杉風 (さんぷう)方。おりから東下した宗因 (そういん)が談林の新風の気勢をあげたのに呼応する形で、同じ志の素堂 (そどう)と、自分は桃青 (とうせい)と号して、新風合流の意図をあらわにした「両吟二百韻」を興行した。大名俳人内藤風虎 (ふうこ)らの後援を得、東下した言水 (ごんすい)、才麿 (さいまろ)、信徳 (しんとく)らとも交流し、門弟にも杉風らのほか、其角 (きかく)、嵐雪 (らんせつ)のような若い俊秀が集まり、独吟歌仙や句合を催し、立机披露 (りっきひろう)の万句興行もやったらしい。神田 (かんだ)川上水の普請に水役として、生活の資も得ていた。

 1679年(延宝7)ごろから芭蕉は老荘思想や、杜甫 (とほ)、蘇東坡 (そとうば)、黄山谷 (こうさんこく)、白楽天、寒山などの漢詩風に関心をみせ始め、作風も晦渋奇矯 (かいじゅうききょう)な句風に転換しだした。それも談林風の雑駁 (ざっぱく)を脱する一時の方途であり、80年冬には芭蕉は市井雑踏の地を離れ、閑寂の地を求めて、深川六間堀の魚商杉風の生け簀 (いけす)の番小屋に移り、門下から一株の芭蕉を贈られて芭蕉庵 (あん)とよび、芭蕉翁と尊称され、しばしば「はせを」と自署した。漢詩調はしだいに格調の高さを増し、其角撰 (せん)の『虚栗 (みなしぐり)』で頂点に達する。「芭蕉野分して盥 (たらひ)に雨を聞く夜かな」「枯枝に烏 (からす)のとまりたるや秋の暮」「世 (よ)にふるはさらに宗祇のやどり哉 (かな)」など、延宝 (えんぽう)末から天和 (てんな)にかけ、徐々に純化の度は深まってゆく。

[山本健吉]

漂泊時代・蕉風確立

1684年(貞享1)の『野ざらし紀行』の旅から、本格的な漂泊時代が始まる。ときに芭蕉41歳、生涯余すところわずか11年にすぎない。だがこのわずかの期間が、芭蕉を同時代の言水、才麿、来山 (らいざん)、鬼貫 (おにつら)らを決定的に超えさせる。「野ざらしを心に風のしむ身哉」の一句に旅への決意を秘めながら、名古屋では待ち受けていた荷兮 (かけい)、野水 (やすい)、杜国 (とこく)らの面々と打てば響くような五歌仙を巻いて、それが荷兮の手で刊行され、「芭蕉七部集」の第一冊『冬の日』となる。続いて86年、同じ尾張 (おわり)の連衆によって『春の日』が出され、その三歌仙に芭蕉は加わっていないが、発句「古池や蛙 (かはづ)飛こむ水のをと」がみえ、七部集第二冊とされる。87年の旅には、3年前の悲壮な決意と違って「旅人と我 (わが)名よばれん初しぐれ」との留別吟に心の余裕がみられる。この紀行は『笈の小文』と称されるが、やはり荷兮によってこのときの収穫をも含めて、七部集第三集『阿羅野 (あらの)』が89年(元禄2)に刊行される。だが、芭蕉の遊意は一刻も止 (や)まず、その年3月末には門弟曽良 (そら)を伴って『おくのほそ道』の旅に出立する。芭蕉の紀行文の傑作であり、その定稿が完成したのは93、4年かと推定される。曽良は忠実に『随行日記』『俳諧書留』をつけていて、紀行の本文との間にいくつかの虚実がみられ、芭蕉が文に打ち込んだ志のほどをほのみせている。この旅は、西行、能因 (のういん)の跡を訪 (と)いながらの、歌枕 (うたまくら)巡りの観をも呈したが、裏日本へ越えてから歌枕的意識は薄まり、直截 (ちょくせつ)の感動が句中に打ち出されるようになる。「閑 (しづか)さや岩にしみ入 (いる)蝉 (せみ)の声」「さみだれを集て早し最上 (もがみ)川」「荒海や佐渡によこたふ天河 (あまのがは)」など。旅中の昂揚 (こうよう)した詩心がそのまま上方 (かみがた)滞在中に持ち越され、90年には珍碩 (ちんせき)(洒堂 (しゃどう))ら湖南連衆を相手に『ひさご』刊、七部集第四冊となり、91年には京の去来、凡兆 (ぼんちょう)を直接指導して『猿蓑 (さるみの)』刊、七部集第五冊として、華実兼備の蕉風 (しょうふう)俳諧の頂点に位置した。そのことは「初しぐれ猿も小蓑 (こみの)をほしげ也 (なり)」以下の発句についていえるが、去来、凡兆らを相手に心を込めて捌 (さば)いた歌仙についても妥当する。「発句は門人にも作者あり。附合 (つけあい)は老吟のほね」(『三冊子 (さんぞうし)』)とは、芭蕉の強い自負であった。

[山本健吉]

軽み・最後の旅

「不易流行」や「さび、しをり、細み」など俳諧常住の心構えは、「ほそ道」の旅中に胚胎 (はいたい)し、上方滞在中、門人との問答のうちに漏らされたもので、『去来抄』『三冊子』など、そのような意味で芭蕉の俳論の精髄であった。それだけに、支考 (しこう)、許六 (きょりく)らがあげつらったこちたき議論より、よほど含意が深く、読む者によって受け取り方も多岐に分かれやすい。1691年冬、江戸へ帰還後は、旅中の心労その他が重なって、老衰を意識し、門戸を閉じて保養に努めたが、やがて野坡 (やば)ら町人俳人を相手に「軽み」の新風を唱導し、「浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽き」(『別座鋪 (べつざしき)』序)を志向した。心の粘りや甘みや渋滞を去って、三尺の童子の無私の態度に倣おうとした。いわば大自然に身をゆだねる随順の態度だが、それは「軽み」の具現とされる七部集第六冊『炭俵 (すみだわら)』の撰者野坡たちにも、平板な庶民性、通俗性と受け取られる傾きがあった。

 1694年5月、最後の旅へ出、その終わりに近く、芭蕉自身「軽み」の神髄ともいうべき作風に到達する。「此 (この)道や行人 (ゆくひと)なしに秋の暮」「此秋は何で年よる雲に鳥」「秋深き隣は何をする人ぞ」など、芭蕉の理念の昇華して至った句境であろう。10月12日、大坂の旅舎花屋で生涯を閉じた。病中吟、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻 (めぐ)る」。粟津(滋賀県大津市)義仲寺に葬られた。七部集最後の『続猿蓑』は98年に刊行された。伊賀市に芭蕉翁記念館がある。

[山本健吉]



世界大百科事典

芭蕉
ばしょう
1644-94(正保1-元禄7)

江戸前期の俳人。姓名は松尾宗房。俳号は,はじめ宗房を用い,江戸に下って桃青(とうせい)と号した。別号は,立机(りつき)後に坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃夭(かとうよう),華桃園など,深川退隠後に泊船堂,芭蕉翁,芭蕉洞,芭蕉庵,風羅坊など。好んで,はせを,芭蕉とも署名した。伊賀上野(現,三重県上野市)の城東,赤坂の農人町に生まれ,元禄7年10月12日に大坂で客死,遺言によって近江の粟津義仲寺に葬られた。

係累

父与左衛門は伊賀阿拝郡柘植(つげ)郷の人で上野に世帯をかまえた。その本家は平家末流の土豪の一支族で無足人(むそくにん)級の家柄。母は伊賀名張(なばり)の人と伝える。兄半左衛門のほかに1姉3妹がある。妻子はなかったが,〈猶子(ゆうし)〉桃印(とういん)(1661-93)を江戸に引き取り,その没後は〈若き時の妾〉と伝える寿貞の子二郎兵衛を最後まで身辺に置いた。

閲歴

10代末から俳諧に手をそめ,最初の入集は1664年(寛文4)。当時,藤堂藩伊賀付士大将家の嫡男藤堂蟬吟(せんぎん)(1642-66)の連衆として季吟系の貞門俳諧に遊んだが,蟬吟の死で出仕の望みを失い,俳諧師を志し,72年宗房判の三十番句合《貝おほひ》を携えて江戸に下った。ただし,江戸に定住して活躍を始めたのは,74年(延宝2)に上京して北村季吟から《埋木(うもれぎ)》の伝授を受けた後と推定される。はじめ高野幽山の執筆(しゆひつ)となって磐城平藩主内藤風虎の江戸邸に出入りし,常連の信章(素堂)らを知り,風虎の招きで江戸に下った宗因と一座し,以後,宗因風の新進俳人として頭角をあらわした。78年に立机,日本橋小田原町で点業を始め,《桃青三百韻附両吟二百韻》(1678),《桃青門弟独吟二十歌仙》(1680),桃青判《田舎之句合》《常盤屋之句合》によって一門を確立したが,80年冬点業を廃止し,深川村に草庵をかまえて俳隠者となった。

 この前後,宗因風の衰退するなかで《荘子》に心酔し,擬漢詩体の新風を率先して《次韻(じいん)》(1681)を刊行したが,82年(天和2)冬の大火で芭蕉庵を焼失し,以後,一所不住を志して行脚と庵住をくりかえしながら蕉風を樹立した。

 《甲子吟行(かつしぎんこう)》によって知られる第1次行脚(1684年秋~85年夏)は,名古屋連衆との出逢いで《冬の日》(1684)の成果を生み,以後の吟行に擬連歌体の俳言(はいごん)のない発句が目だつ。旅の四季句集的性格をもつ《甲子吟行》と対をなすのが,第2次芭蕉庵の四季句集《あつめ句》(1687成)である。擬漢詩体,擬連歌体の表現をへて,和漢の伝統を混然とし,しかも〈擬〉意識を払拭した様式に到達しており,〈古池や蛙飛びこむ水の音〉もその一句。第2次行脚は,《笈の小文(おいのこぶみ)》(1709)によって知られる歌枕行脚(1687年冬~88年秋)から《おくのほそ道》(1702)によって知られる奥羽加越の行脚(1689年春~秋)へと続き,その体験をとおして,芭蕉は蕉風の思想と表現に開眼した。〈誠〉に基づく人生観と芸術観の統一的自覚であり,景と情の統一的表現である。その思索を深め,成果を世に問うために,伊賀,近江,京の各地になお2年の漂泊を続けた。《幻住庵記》や《嵯峨日記》を執筆し,近江連衆を後見して《ひさご》(1690),京連衆を後見して《猿蓑(さるみの)》(1691)を刊行したのは,その間のことである。江戸に帰ったのは91年(元禄4)冬。翌年夏,第3次芭蕉庵の新築が成り,ここでの2年間は,新しい自覚に基づく《おくのほそ道》の執筆と,新風を期待できる新しい連衆の育成に費やされ,彼らを相手に〈軽み〉を唱導した。景情融合の理想が,実際には景に情を託そうとはかる作為的な句作りにおちやすいのを懸念しての指導で,《炭俵》(1694)や《続猿蓑》(1698)がそうした指導の下に成った。

 その成果を上方に及ぼすため最後の行脚に出たのは94年夏。前年50歳を迎えた芭蕉には老の自覚があった。健康の衰えもあり,桃印の死以来,心労も重なった。また俳壇の大衆化に棹さす業俳(職業俳人)に背を向けて,孤高を持する芭蕉に追随する者は蕉門でも多くなかった。俳風の変遷に遅れた古参の連衆の中には離反者も出,各地に軋轢(あつれき)も生じていた。〈かるみ〉の指導も伊賀で難渋した。そして,同門の不和をとりもつために訪れた大坂で病に倒れ,病中吟〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉を最後に,門人にみとられながら世を去った。その間の経緯は,随行の門人支考の《芭蕉翁追善之日記》や一門を代表する其角の追善集《枯尾花(かれおばな)》(1694)に詳しい。命日を時雨忌という。

編著

上述のごとく《次韻》以後は《俳諧七部集》の各集を後見したのみで,一冊の撰集も刊行していない。また《猿蓑》所収の《幻住庵記》のほかは,生前に一編の文章も公表していない。俳文,紀行,日記のすべては没後刊行。今日知られる発句は約1000,一座する連句は歌仙形式以上のもの約160巻,それに約200通の書簡が伝存する。
→蕉風俳諧
[白石 悌三]

[索引語]
桃青 藤堂蟬吟 貝おほひ 次韻(じいん) あつめ句 時雨忌
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検索ヒット数 730
検索コンテンツ
1. 松尾芭蕉
世界大百科事典
→芭蕉
2. まつお‐ばしょう【松尾芭蕉】
日本国語大辞典
江戸前期の俳人。俳諧の革新を大成した蕉風の祖。名は宗房。幼名金作。通称甚七郎など。俳号ははじめ宗房、のち桃青・芭蕉。別号釣月軒・泊船堂・風羅坊など。伊賀国(三重
3. まつおばしょう【松尾芭蕉】
国史大辞典
一六四四―九四 江戸時代前期の俳諧師。俳号は、はじめ宗房という名乗りを音読して用いたが、江戸に下って桃青と号した。別号は、立机後に坐興庵・栩々斎(くくさい)・
4. 松尾芭蕉(まつおばしょう)
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 1345ページ
5. まつお-ばしょう【松尾芭蕉】
日本人名大辞典
1644−1694 江戸時代前期の俳人。正保(しょうほ)元年生まれ。京都で北村季吟(きぎん)にまなぶ。江戸にでて宗匠となり,延宝8年深川に芭蕉庵をむすぶ。貞享(
6. 松尾芭蕉[文献目録]
日本人物文献目録
蕉』篠田太郎『松尾芭蕉』野口米次郎『松尾芭蕉』能勢朝次『松尾芭蕉 彼をめぐる女性』栗山理一『松尾芭蕉の伊勢参宮』浅野晃『松尾芭蕉の逸話』長尾大学『松尾芭蕉の思想
7. 松尾芭蕉
日本史年表
1689年〈元禄2 己巳①〉 3・‐ 松尾芭蕉 、『おくのほそ道』の旅に出立。 1694年〈元禄7 甲戌⑤〉 10・12 没。
8. まつをばせう【松尾芭蕉】
全文全訳古語辞典
[人名]江戸前期の俳人。一六四四年(寛永二十一)~一六九四年(元禄七)。本名は宗房、別号桃青など。伊賀上野(=三重県上野市)の人。藤堂藩に仕えながら俳諧に親しみ
9. 松尾芭蕉
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 1187ページ
10. 芭蕉翁碑 (見出し語:松尾芭蕉)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1182ページ
11. 松尾芭蕉
日本大百科全書
→芭蕉
12. まつおばしょう【松尾芭蕉】
日本架空伝承人名事典
→芭蕉
13. 松尾芭蕉集
日本古典文学全集
俳人・松尾芭蕉ははじめ談林風を学んだが、のちに「さび」や「軽み」、「不易流行」などを特徴とする蕉風を確立。のちに俳聖と称えられた。51歳で没するまで、各地を行脚
14. あかさかちょう【赤坂町】三重県:上野市/上野城下
日本歴史地名大系
享保(一七一六―三六)頃の城下絵図(沖森直三郎氏蔵)には東坂が描かれている。当町は町人町に属するが、俳人松尾芭蕉が「正保元申子年此国城東赤坂の街に生る」(芭蕉翁
15. あきのぼう【秋の坊】
日本人名大辞典
?−1718 江戸時代前期-中期の俳人。加賀金沢藩士であったが出家。松尾芭蕉(ばしょう)が奥の細道の旅で金沢に来遊したときに入門した加賀の蕉門のひとり。作品は「
16. あきやま-ぶんちょう【秋山文鳥】
日本人名大辞典
江戸時代中期の俳人。宮崎荊口(けいこう)の3男。宮崎此筋(しきん)の弟。秋山氏をつぐ。父,兄とともに松尾芭蕉(ばしょう)の一門。句は「勧進牒」や「伽陀箱(かだば
17. あさい-ふうすい【浅井風睡】
日本人名大辞典
?−1701 江戸時代前期の俳人。伊勢(いせ)津藩士。松尾芭蕉(ばしょう)の門下で,句は「有磯海(ありそうみ)」などにある。元禄(げんろく)14年9月23日死去
18. あざぶほんむらちよう【麻布本村町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
古くウグイスの名所で禰くるミ村ともいう。また巣立野という場所もあり、小出主水屋敷仕添地になっている。松尾芭蕉の「鶯を尋ね尋ねて阿左婦まで」、榎本其角の「竹のべを
19. あしくぼむら【足久保村】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
活したことを記念した天明八年(一七八八)頃の碑文が刻まれており(美和郷土誌・静岡県茶業史)、松尾芭蕉の「駿河路や花たちばなも茶の匂ひ」の句が彫られている(駿河記
20. あずま-きょくさい【東旭斎】
日本人名大辞典
1822−1897 江戸後期-明治時代の俳人。文政5年生まれ。江戸の大江由誓の門人。松尾芭蕉(ばしょう)の足跡をたどって,奥羽,北陸,畿内,東海道と吟遊の旅をか
21. あつかしやま【厚樫山】福島県:伊達郡/国見町
日本歴史地名大系
さらに上った所、字長坂には国見峠長坂跡がある。ここからの眺めはよく、その周辺から山頂にかけて元禄二年五月、松尾芭蕉が「路縦横に踏で伊達の大木戸をこす」と記した文
22. あまの-とうりん【天野桃隣】
日本人名大辞典
?−1720* 江戸時代前期-中期の俳人。松尾芭蕉の従弟(いとこ)とも,朋友(ほうゆう)ともいわれる。元禄(げんろく)4年芭蕉にしたがって江戸にでて点者(判者)
23. あらまき-じょねん【荒巻助然】
日本人名大辞典
?−1737 江戸時代中期の俳人。筑前(ちくぜん)(福岡県)の人。松尾芭蕉(ばしょう)の門人。父の西竹をはじめ子の助嶺,苔路,仙之らもみな俳人。没後,志太野坡(
24. あらまち【荒町】山形県:鶴岡市/鶴ヶ岡城下
日本歴史地名大系
橋ともよばれた(鶴岡昔雑談)。橋畔、内川北岸には酒田方面へ貨客を運ぶ酒田船の船着場があった。松尾芭蕉は元禄二年「おくのほそ道」行の途中、当町東長山小路の長山重行
25. ありわらでらあと【在原寺跡】奈良県:天理市/櫟本地区/市ノ本村
日本歴史地名大系
詣記」に在原寺の記事がみえる。江戸幕府は慶長七年(一六〇二)八月六日に寺領五石を与えている。松尾芭蕉は元禄元年(一六八八)「笈の小文」の旅で当地に立寄っている。
26. 粟津画像
日本大百科全書
かつての近江おうみ八景の一つ「粟津の晴嵐せいらん」のおもかげはみられない。義仲寺ぎちゅうじには義仲や松尾芭蕉ばしょうの墓がある。高橋誠一
27. あわづ【粟津】
国史大辞典
正月木曾義仲は粟津で源義経の軍の追撃をうけて死んだ。義仲の墓は義仲(ぎちゅう)寺にある。なお松尾芭蕉は遺言によって義仲寺境内に葬られた。粟津には粟津御厨があり、
28. 安東次男[芭蕉などの古典詩歌を斬新に解釈した詩人、文芸評論家「アンツグ」死去]
イミダス 2018
アンドウ・ツグオ。詩人、俳人、文芸評論家。 4月9日、詩人、俳人で、松尾芭蕉などの評釈でも知られる安東次男さんが、呼吸不全のため死去。82歳。 1919年、岡
29. 飯坂温泉
日本大百科全書
福島県北部、福島市にある温泉。鎌倉時代にすでに利用されていたとみられ、松尾芭蕉ばしょうや白河しらかわ藩主松平定信さだのぶらも入湯したという。摺上川すりかみがわの
30. いいざかおんせん【飯坂温泉】福島県:福島市/旧飯坂町地区/上飯坂村
日本歴史地名大系
旅籠屋渡世の者は以前から飯盛女を置いていた(「白河領伊達郡村々申送書」福島県史)。元禄二年五月松尾芭蕉は当地に宿泊し、「其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿
31. いいづかむら【飯塚村】福島県:福島市/旧飯坂町地区
日本歴史地名大系
免三ツ一分)が給され、残り一五四石余は御蔵入であった(福島市史)。元禄二年(一六八九)五月、松尾芭蕉が当地を通過したとみられ、「おくのほそ道」に「飯塚の里鯖野と
32. いいの-てつじ【飯野哲二】
日本人名大辞典
明治24年3月9日生まれ。熊本女子師範,宮城女子専門学校などでおしえ,昭和24年東北大教授。松尾芭蕉(ばしょう)を研究し,「おくのほそ道」の跡を踏査した。昭和4
33. いおうじ【医王寺】福島県:福島市/旧飯坂町地区/佐場野村
日本歴史地名大系
興、寺領三六石余が寄進されたと伝えられる。元禄二年(一六八九)五月、大鳥城の次に当寺を訪れた松尾芭蕉は佐藤一族の哀史に思いを馳せ、「おくのほそ道」に「かたはらの
34. いおうじ【医王寺】石川県:江沼郡/山中町/山中村
日本歴史地名大系
く、江戸時代には十三日講(薬師講)を営んでいた(田向文書)。元禄二年(一六八九)七月二八日、松尾芭蕉一行が薬師堂を訪ねたことが「曾良旅日記」にみえる。かつては共
35. 伊賀画像
日本大百科全書
この街道に沿って名阪国道が走り、農業と畜産を主とする農村に工場やゴルフ場の立地をもたらした。松尾芭蕉ばしょう生誕地説があり、碑が立てられている。万寿寺の地蔵菩薩
36. 伊賀[市]
世界大百科事典
進めるとともに,工場誘致を行い,農業規模拡大と工業開発を進めている。また肉牛の生産も多い。伊賀流忍者や松尾芭蕉とゆかりが深く,福地城跡は芭蕉公園となっている。町
37. 伊賀(市)画像
日本大百科全書
伊賀焼は国の伝統的工芸品に指定される。名阪国道の開通による繊維、電気などの工場進出もめざましい。 俳人松尾芭蕉は当地の出身で、関連する史跡も多い。上野公園(上野
38. 伊賀国画像
日本大百科全書
封した。かくて上野は、津藩伊賀10万石の城下町として人口約1万2000を数えるに至った。俳人松尾芭蕉ばしょうは伊賀上野の郷士で、上野には芭蕉ゆかりの五庵あんがあ
39. いがのくに【伊賀国】画像
国史大辞典
家並改によると、戸数一万六一五九戸、延享元年(一七四四)の人口は、九万三六五三人である。俳人松尾芭蕉は正保元年(一六四四)伊賀に生まれ、藩校崇広堂は文政四年(一
40. いけだ-りぎゅう【池田利牛】
日本人名大辞典
頭とも)。元禄(げんろく)7年(1694)志太野坡(しだ-やば),小泉孤屋(こおく)とともに松尾芭蕉(ばしょう)の監修で江戸蕉門の撰集「炭俵」を編集,刊行した。
41. いけにしごんすい【池西言水】
国史大辞典
極めた談林風のもとで活発な俳壇活動をして名を挙げた。その間、延宝末年の談林崩壊の転換期に際会するや、松尾芭蕉・椎本才麿らと連繋して新風樹立を計り、やがて蕉風類似
42. いけにし-ごんすい【池西言水】
日本人名大辞典
1650−1722 江戸時代前期-中期の俳人。慶安3年生まれ。江戸で松尾芭蕉(ばしょう),椎本才麿(しいのもと-さいまろ)らと交遊。談林全盛期に名をあげ,のち蕉
43. いしこ-せきすい【石河積翠】
日本人名大辞典
。元文3年生まれ。幕臣。東燕志(あずま-えんし),のち切部桃隣(きりべ-とうりん)にまなぶ。松尾芭蕉(ばしょう)に傾倒し,「芭蕉句選年考」などをあらわした。享和
44. いしのまきかいどう【石巻街道】宮城県:石巻市
日本歴史地名大系
矢本宿が寛文期に成立しているので、この時に変わったものとみられる。元禄二年(一六八九)「おくのほそ道」の途次、松尾芭蕉は矢本で「矢本新田ト云町ニ而咽乾、家毎ニ湯
45. いしやまでら【石山寺】滋賀県:大津市/南部地域/寺辺村
日本歴史地名大系
や「六十余州名所図会」に描いた。京に上る文人たちは多く当寺に詣でるが、元禄三年(一六九〇)の松尾芭蕉のほか、享和元年(一八〇一)本居宣長などが知られる。参詣には
46. いずもざき【出雲崎】
国史大辞典
伝えた名門橘屋は滅びたが、そこに生まれた良寛は著名である。元禄二年(一六八九)奥の細道に遊んだ松尾芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を遺した。明治元年(一
47. いたみし【伊丹市】兵庫県
日本歴史地名大系
も展開される。酒造で蓄積された富は高い在郷町文化を生み出した。なかでも俳諧は上島鬼貫が活躍し松尾芭蕉と並び称された。〔近現代〕明治七年(一八七四)伊丹郷町を形成
48. いちかわし【市川市】千葉県地図
日本歴史地名大系
などへの参詣客が利用した。当地は江戸近郊の観光地として文人たちも多く訪れ、「江戸名所図会」、松尾芭蕉の「鹿島紀行」、渡辺崋山の「四州真景図巻」、加藤千蔭の「香取
49. いちのせきじょうか【一関城下】岩手県:一関市
日本歴史地名大系
土記)。検断は甚右衛門(千葉姓)が勤めていた(一関村安永風土記)。元禄二年六月一二日の夕刻、松尾芭蕉は金沢から雨の中山坂三里の道を越えて一関に入り、当地に一泊、
50. いちののむら【市野々村】山形県:尾花沢市
日本歴史地名大系
町)城主細川氏攻撃のため、同峠を越えて向町盆地へと下っている。元禄二年(一六八九)五月一七日松尾芭蕉一行は堺田(現最上町)から山刀伐峠を越えて尾花沢の鈴木清風宅
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徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
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