バラ科(APG分類:バラ科)の落葉高木または低木で、おもに北半球の温帯と暖帯に分布する。サクラ属のうち、スモモ、モモ、ウメ、ニワウメ、ウワミズザクラなどの亜属を除いたサクラ亜属のものを一般にサクラと称し、花の美しいものが多く、日本の花の代表として外国にも知られている。なお、食用のサクランボはカラミザクラ(唐実桜)やセイヨウミザクラ(西洋実桜)などの系統のものである。日本の山野にはヤマザクラなど約10種類を基本にして、変品種をあわせると100種類ほどのサクラが野生しており、また、これらから生まれた200~300の園芸品種が知られている。江戸時代には品種が区別され、天和(てんな)元年(1681)に出た水野元勝(もとかつ)の『花壇綱目(かだんこうもく)』には「桜珍花異名の事」として40品種のサクラが載せてある。近年のものでは『最新園芸大辞典』巻5(1970、誠文堂新光社)が305品種を載せ、『サクラの品種に関する調査研究報告』(1982、日本花の会)には193品種が図説されている。
2020年1月21日
分子系統に基づく分類では、サクラ属(スモモ属)Prunusは、バクチノキ属Laurocerasus、ウワミズザクラ属Padus、スモモ属Prunus、サクラ属Cerasusに再分する考え方がある。一般にサクラとされるものはサクラ属Cerasusである。
2020年1月21日
サクラ属は一般に低木または高木であるが、一部には枝垂(しだれ)性のものや枝がみな上向する品種もある。葉は枝に互生し、単葉で、葉身、葉柄、托葉(たくよう)をもった完全葉である。葉身の縁(へり)に鋸歯(きょし)があり、葉柄または葉身基部に蜜腺(みつせん)が1対または1~5個あって、蜜を分泌し、托葉は落ちる。花は単生することもあるが、多くは散形または散房花序になって咲く。萼(がく)、花弁、雄しべ、雌しべを備えた両性花で、花托は広がって萼筒(がくとう)状になり、5枚の萼片があって、喉部(こうぶ)に5枚の花弁と萼片とが交互の位置につく。その内側に普通は雄しべが30~50本着生し、雌しべは1本で子房は萼筒状の花托の中にあり、子房は中位。子房は1心皮からなる1室で、1個の胚珠(はいしゅ)を入れているが、そのうち1個が成熟する。果実は核果で、外側が肉質になり、内側に内果皮が木質化した核があり、核の中に1個の種子を含む。
2020年1月21日
サクラにはよく知られているヤマザクラ(山桜)やソメイヨシノ(染井吉野)のほかにもいろいろな種類があり、早春から晩春まで各地で咲き乱れ、また四季咲き性のものは初冬にも花がみられる。以下に日本のおもな野生種と園芸種を示す。
2020年1月21日
2018年(平成30)に約100年ぶりに野生種の新種であるクマノザクラが見つかった。ヤマザクラと同所に見られるが開花時期が早い。紀伊半島の熊野川流域に分布する。
2020年1月21日
本州の宮城県から西の日本各地にもっとも普通に自生し、赤茶色に染まった新葉とともに淡白紅色一重咲きの花が散房状になって咲く。各部に毛がなく、葉の裏面は白色を帯びる。ヤマザクラ系には八重咲きのコノハナザクラ(木花桜)やゴシンザクラ(御信桜)などがあり、一重咲きのワカキノザクラ(稚木桜)は二~三年生の幼木で開花する。同じく一重のフダンザクラ(不断桜)や、ヤマザクラとマメザクラ(豆桜)の雑種といわれるフユザクラ(冬桜)のように、花が初冬と春の2回咲く品種もある。
2020年1月21日
中部地方以北の本州、北海道の山地に多く生え、四国の石鎚(いしづち)山脈にも自生する。一重咲きである。ヤマザクラより紅色の強い花をつけるのでベニヤマザクラ(紅山桜)といわれ、また北海道に多いのでエゾヤマザクラ(蝦夷山桜)ともいう。新潟県阿賀(あが)町の極楽寺にはノナカザクラ(野中桜)とよぶ、花が大きく紅色の美しい老木がある。
2020年1月21日
北海道から九州にかけての山地に自生し、葉や花に毛があることからケヤマザクラ(毛山桜)ともよばれているが、ヤマザクラのように葉の裏面が白くはない。ナラノヤエザクラ(奈良八重桜)はカスミザクラの八重咲き品種であり、長野県塩尻(しおじり)市片丘において発見されたカタオカザクラ(片丘桜)は一重咲きの花が二~三年生の幼木で開花する。
2020年1月21日
伊豆七島に自生し、伊豆半島、房総半島のものは植林したものが野生化したものといわれている。薪炭(しんたん)用に植栽するのでタキギザクラ(薪桜)ともよばれる。白色一重咲きのやや大きい花が開葉と同時に咲き、香りがあり、葉の縁の鋸歯は先が芒(のぎ)状に長くとがる。成長が速く、八重咲きもあり、花は変異性に富む。
2020年1月21日
オオシマザクラを主としてヤマザクラ、オオヤマザクラなどの間で繰り返し交雑され、改良選出された品種の一群の総称。一重、八重、菊咲き、花色の濃淡、香りなど変化に富んだ品種が多数ある。ショウゲツ(松月)、イチヨウ(一葉)、カンザン(関山)、フゲンゾウ(普賢象)などは大輪の八重咲きで、葉状に変化した雌しべが1~2本あり、ウコン(鬱金)、ギョイコウ(御衣黄)など黄緑色八重咲きの花が咲く変わったサクラもある。
2020年1月21日
本州、四国、九州の山地に自生し、各地に大木が残っている。アズマヒガン(東彼岸)、ウバヒガン(姥彼岸)ともいう。全体に毛が多く、開葉前にやや小形の一重咲きの花が咲き、萼筒は壺(つぼ)形である。枝の垂れるシダレザクラ(枝垂桜)は寺院などでよく植えられ、エドヒガンの品種で八重咲きのヤエベニシダレ(八重紅枝垂)がある。コヒガン(小彼岸)はヒガンザクラ(彼岸桜)ともいい、エドヒガンとマメザクラの雑種で、エドヒガンより葉が小さい。
2020年1月21日
明治初年ころ、東京・染井(現在の豊島(としま)区巣鴨(すがも)付近)から売り出されたサクラで、いまでは全国各地に広く植栽されている。オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、若枝や葉、花に毛があり、開葉前にエドヒガンより大きい一重咲きの花が木を埋め尽くして美しく咲く。
2020年1月21日
富士山、箱根山に多いのでフジザクラ(富士桜)またはハコネザクラ(箱根桜)ともいい、全体に小形で、開葉前に一重咲きの花が咲く。フジキクザクラ(富士菊桜)はマメザクラの菊咲き品種で、花弁が360枚にもなり、雌しべが多数になった花もある。本州の中部地方以西にはキンキマメザクラ(近畿豆桜)が分布する。
2020年1月21日
本州と九州の一部に自生し、春早くに一重で小形の花が咲く。
2020年1月21日
北海道から九州にかけての深山に生え、花の柄のもとに小さい葉がついている。また別種のミネザクラ(峰桜)は本州の中部地方以北の高山と北海道に生える。ミネザクラはタカネザクラ(高嶺桜)ともいう。
2020年1月21日
ヒカンザクラともいい、中国大陸南部、台湾に分布し、沖縄県のものは自生説と野生化説があり、関東地方以西の暖地に植栽される。開葉前に半開の濃緋紅色一重咲きの花が下垂して咲き、沖縄では2月上旬、東京では3月下旬に咲く。
2020年1月21日
カンヒザクラとオオシマザクラまたはヤマザクラの雑種といわれ、カンザクラの名にふさわしく、静岡県熱海(あたみ)では1月下旬に、東京では2月下旬に淡紅色一重咲きの花が咲き始める。ツバキカンザクラ(椿寒桜)はカンザクラとカラミザクラ(唐実桜)の雑種で、桃色一重の美しい花が東京では3月に咲く。
2020年1月21日
日本の各地にサクラの名所があるなかで、奈良県の吉野山は古くからヤマザクラの名所として知られ、下(しも)千本、中千本、上(かみ)千本、そして奥千本へと1か月余り花が咲き続ける。京都市の嵐山(あらしやま)や醍醐寺(だいごじ)もヤマザクラが多く、茨城県の桜川、東京都の小金井(こがねい)などもかつてはヤマザクラが多数植えられていた名所である。高知県物部(ものべ)村西熊(にしくま)国有林のヤマザクラ林、岐阜県池田町霞間ヶ渓(かまがたに)のヤマザクラやエドヒガンの樹林、新潟県新発田(しばた)市加治川(かじかわ)地区橡平(とちだいら)のオオヤマザクラやカスミザクラなどの樹林が開花したときは壮観である。栃木県の日光中禅寺湖畔、群馬県の榛名(はるな)湖畔ではオオヤマザクラが5月上旬に咲き、北海道日高の旧御料場並木、小樽(おたる)市の小樽苗畑(なえはた)、厚岸(あっけし)町の国泰寺(こくたいじ)などいずれもオオヤマザクラの名所である。サトザクラの品種が多く集められている所としては、京都市御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)、同市上京(かみぎょう)区の平野神社をはじめ、大阪市の造幣局通り抜け、東京都八王子市の森林総合研究所多摩森林科学園サクラ保存林、北海道松前町の松前公園などが著名である。
ソメイヨシノを主とした名所は各地に多数あるが、なかでも東京都の上野公園、村山貯水池、埼玉県の山口貯水池、福島県郡山(こおりやま)市の開成山公園、宮城県大河原(おおがわら)町の白石(しろいし)川堤防、秋田県仙北(せんぼく)市角館(かくのだて)町の檜木内(ひのきない)川堤、青森県弘前(ひろさき)市の弘前公園などの花はすばらしい。
外国ではアメリカのワシントン市ポトマック河畔のサクラが有名である。これは1912年(明治45)に当時の東京市長尾崎行雄が日米親善のため寄贈した、ソメイヨシノのほか9種類3100本の苗木がもとになったものである。
天然記念物として保護されている名木も多く、大島のサクラ株(東京都)、狩宿(かりやど)の下馬(げば)ザクラ(静岡県富士宮市)は特別天然記念物に指定されている。山梨県北杜(ほくと)市武川(むかわ)町の山高神代ザクラはエドヒガンの巨木としては日本一であり、岐阜県本巣(もとす)市の根尾谷淡墨(ねおだにうすずみ)ザクラ、山形県長井市の伊佐沢(いさざわ)の久保ザクラなどいずれも大木である。シダレザクラの大木としては福島県三春(みはる)町の三春滝ザクラがあり、いまなお樹勢が盛んである。また、新潟県阿賀野(あがの)市の梅護(ばいご)寺の珠数掛(じゅずかけ)ザクラ、岐阜県大野町の揖斐(いび)二度ザクラなど変異に富んだ花をつけるものもある。
2020年1月21日
繁殖はおもに接木(つぎき)か実生(みしょう)によるが、挿木のできるものもある。果実を結ばない八重咲きや園芸品種は接木で増殖する。台木は一般にアオハダの挿木苗が使われているが、オオシマザクラの実生苗がよく、エドヒガンなどヒガンザクラ系にはエドヒガンの実生苗を用いる。実生の場合、乾燥した種子は発芽が悪いので、6月、果実ができたころ、種子をとってすぐ播(ま)くか、翌春まで種子を土中に埋めておいて早春に播く。植栽は、排水のよい適潤な肥沃(ひよく)地で、日当りのよい所を選び、過湿地や風当りの強い所は避ける。
俗に「桜伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」のたとえにあるように、サクラは切り口から腐りやすく、また、その部分からの萌芽(ほうが)力が弱いので、剪定(せんてい)はしないほうがよい。やむをえず剪定する場合は切り口に殺菌剤の入った癒合剤を塗布するとよい。てんぐ巣病、穿孔褐斑(せんこうかっぱん)病、がんしゅ病、材質腐朽病などの病気にかかった部分は切除して焼却し、切り口に癒合剤を塗布する。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシ)、アメリカシロヒトリ、モンクロシャチホコには、DEP剤、MEP剤などを散布し、樹皮と材の境を食害するコスカシバにはMEP剤を樹幹被害部に塗布する。ウメシロカイガラムシは冬季に石灰硫黄(いおう)合剤を塗布するか、初夏にMEP剤を散布するとよい。
2020年1月21日
ヤマザクラ、オオヤマザクラなどの材は良質のやや硬い散孔材で、辺材が黄褐色、心材が赤褐色で光沢があり、加工しやすく、ゆがみが少ないので、器具材、家具材、床柱や敷居などの建築材、小細工物、板木、薪炭など用途が広い。樹皮は樺細工(かばざいく)に用い、小箱や鞘(さや)などの張り皮、曲物(まげもの)の綴(つづり)皮とし、また樹皮は去痰(きょたん)剤として薬用にする。塩漬けにしたオオシマザクラの葉は桜餅(もち)を包み、カンザンなど八重桜の花は漬け花にして桜湯にして飲む。
2020年1月21日
花といえばサクラのことをさすほど、サクラは日本の代表的な花木であり、国花ともされている。春の桜狩りは、秋の紅葉(もみじ)狩りと並んで日本の代表的な行楽行事とされており、大和(やまと)の吉野山をはじめとして、サクラの名所とされている所が全国各地にある。花祭も盛んに行われており、京都の平野桜祭(上京区、平野神社)、今宮やすらい祭(北区、今宮神社)などが知られている。また、花見時に婚礼を行うのを嫌ったり、壱岐(いき)島のようにサクラを焚(た)くことを忌む土地もある。「花月(かげつ)正月」といって、3月3日ごろ山野に遊んで花見をし1日を過ごすことは、全国的に春の行事として行われている。しかし農家にとっては、これは農作の忙しい時期に入る前の儀礼の一つであった。サクラの開花によって農作業の時期を知ることが行われ、山形県では「種蒔(たねまき)桜」といって、種播(ま)きの時期をサクラの開花によって判断するという。長野県下伊那(しもいな)郡では「苗代桜」といって、花の開きぐあいによって籾(もみ)播きの時期を知ったり、その期日を定めたという。また、同郡豊丘(とよおか)村の姫宮神社境内にある古桜になにか異常がおこると、凶兆であるという。3月の節供にはサクラの花を神様に供えたり、大枝を桶(おけ)などに入れて庭に飾るが、「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」といって、サクラを伐ると成長しないため、伐るのを嫌う。
サクラについての伝説は多く、なかでも「桜杖(づえ)」の伝説は全国各地で語られている。地に挿した杖が成長して樹木になったというもので、弘法(こうぼう)大師とか西行(さいぎょう)法師などの名僧に付会したものが多い。これには「逆さ桜」というのがあり、根元より上のほうが太いとか、枝が下を向いているとかいう。香川県三豊(みとよ)市財田(さいた)町には、弘法大師がサクラの杖を地面に挿したのが花を咲かせたという「世の中桜」があるが、このサクラの花の多い枝の方角が豊作、少ない枝の方角は不作と伝えられている。
また兵庫県明石(あかし)市の柿本(かきのもと)神社(人丸(ひとまる)神社)には「盲杖桜」というのがある。昔、筑紫(つくし)(福岡県)からきた一人の盲人が人丸の塚に詣(もう)で、「ほのぼのと誠あかしの神ならば、我にも見せよ人丸の塚」と詠むと、たちまち目があき、大いに喜んで、不要となった杖を地に挿したものが成長したという。「駒繋(こまつなぎ)桜」というのも多く、愛知県豊橋(とよはし)市の鞍掛(くらかけ)神社には、源頼朝(よりとも)が馬をつないだという「駒止め桜」がある(現在の木は1976年に植えられたもの)。静岡市熊野神社には、サクラの木の傍らに「桜塚」という小さな祠(ほこら)がある。これは「わんぱこ様」とよばれているが、昔膳椀(ぜんわん)が不足した際、この祠に借用を頼むと翌朝かならず効験があったという。以上のように、サクラも日本に広く行われた樹木崇拝の民俗の一つとして考えられたことがわかる。
古来、サクラの木は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の霊木とされ、伊勢(いせ)神宮の桜宮は殿舎がなく、1本のサクラの木を神体としているといわれる。なお、サクラは日本の象徴のようにいわれているが、サクラの樹齢は比較的短いためか、伊勢の朝熊(あさま)神社のようにこれを神木としている例はあまりみられない。橘三喜(たちばなのみつよし)の『一宮巡詣記(いちのみやじゅんけいき)』には、「諏訪(すわ)大社(長野県)の七木」というものがあり、「桜タタイ木」というのがその一つに数えられている。これは、7年ごとに行われる大祭ののちに廻神(めぐりがみ)といって、村々を回る神使(しんし)が行う神事を湛(たたい)と称したことから、七木はその祭場を示す木と考えられており、その一つにサクラがあったことを示している。
2020年1月21日
日本人とサクラのかかわりを示すもっとも古い記録は、福井県鳥浜貝塚遺跡の縄文時代前期の地層から出土した弓である。弓筈(ゆみはず)(弭(ゆはず)。弓の両端の弦(つる)をかけるところ)の部分をサクラの樹皮で丹念に巻いて補強し、赤い漆を塗ったものが3例発見されている。サクラの樹皮を使った細工物は現代も続いているが、その中心地は秋田県角館(かくのだて)町で、ここの樺(かば)細工は200年ほど前の天明(てんめい)年間(1781~1789)に、佐竹家の藤村彦六(ひころく)が武士の手内職として広めたことに始まるという。なお、ヤマザクラの樹皮を茶筒や文箱などに貼(は)り付けたこの細工は、1975年(昭和50)に伝統的工芸品に指定されている。
サクラが実用面で利用されたものに、さらに農事暦がある。各地に残る「種播桜」「苗代桜」などの名称からうかがえるが、これは古代人の桜観にもつながり、国文学者折口信夫(おりくちしのぶ)は、『万葉集』の藤原広嗣(ひろつぐ)の歌「此(この)花の一弁(ひとよ)の中(うち)に百種(ももくさ)の言(こと)ぞ籠(こも)れるおほろかにすな」の背景には、サクラの開花を1年の生産の前触れとして重んじる習慣があったのではないかと推測した(『古代研究』)。また、サクラの花占いは『古事記』にも片影をみせる。木花開耶姫命の「木花」はサクラをさすという見方が一般的であるが、その姫は身ごもった子が天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子であるかどうかを、自ら産屋に火を放って焼き占う。シカの骨や亀甲(きっこう)を焼いて吉凶を占うことは古くから行われていたが、その際に使った薪(まき)がウワミズザクラであったことは、『古事記』その他に記録されている。木花開耶姫命がサクラの象徴とすれば、サクラが吉凶の占いにかかわっていたことの裏づけとなろう。
こうした予祝とは別に、花を観賞の対象とする習わしは万葉時代からみられる。『万葉集』にはサクラを詠んだ歌が42首載るが、そのうちの4首ははっきりと庭や宿のサクラを詠んでおり、当時すでに観賞用として栽培下にあったことが知れる。
最古の品種はナラノヤエザクラで、聖武(しょうむ)天皇が奈良の三笠(みかさ)山で発見して移植したと伝えられる。「古(いにしえ)の奈良の都の八重桜……」と伊勢大輔(いせのたいふ)に歌われたナラノヤエザクラが各地に広がったのは、接木(つぎき)技術の発達によっており、藤原定家の『明月記(めいげつき)』にその接木の話が載っている。鎌倉・室町時代にはフゲンゾウ(普賢象)、スミゾメ(墨染)、タイザンフクン(泰山府君)など、現在も伝わる品種が登場するが、爆発的に品種が増えるのは江戸中期で、文献には江戸時代を通じて400近い品種が名をとどめている。
2020年1月21日
『古事記』履中(りちゅう)天皇の段や『日本書紀』履中天皇3年(402)11月条などに「磐余(いはれ)の若桜の宮」について書かれているのが早い例であり、『書紀』允恭(いんぎょう)天皇8年(419)2月条では、衣通郎女(そとおりのいらつめ)に天皇が贈った歌にサクラが詠み込まれている。『万葉集』では、140首余りもあるハギ、120首近いウメに比べて、サクラは40首ばかりで、それほど多いとはいえないが、「桜花咲きかも散ると見るまでに誰(たれ)かもここに見えて散り行く」(巻12、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ))、「あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我恋ひめやも」(巻17、大伴家持(おおとものやかもち))などと詠まれている。漢詩では『凌雲集(りょううんしゅう)』にサクラの詩が収められている。『古今集』のサクラの用例は、「桜」「桜花」「山桜」「花桜」「かには(樺)桜」(物名(もののな))を含めて43首、題からサクラと知られる「花」10首もあり、「桜色」も1首加わり、ウメの「梅」「梅の花」24首、題からウメと知られる「花」5首よりかなり多い。「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(春上、在原業平(ありわらのなりひら))、「見渡せば柳(やなぎ)桜をこきまぜて都ぞ春の錦(にしき)なりける」(春上、素性(そせい)法師)、「久方(ひさかた)の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(春下、紀友則(きのとものり))などの歌がある。『枕草子(まくらのそうし)』では、「木の花は」の段に「桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる」のを賞し、また瓶(かめ)にいけられたようすが記されている。『源氏物語』では、「野分(のわき)」で、紫の上の姿を「春の曙(あけぼの)の霞(かすみ)の間(ま)より面白き樺桜(かばざくら)の咲き乱れたるを見る心地(ここち)す」とよそえているのが印象的で、「花宴(はなのえん)」のような華麗な王朝絵巻もある。花に耽溺(たんでき)し、「願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃(ころ)」(『山家集』)と詠んだ西行(さいぎょう)の風狂も有名。近世歌謡集の『松の葉』には「桜づくし」がある。本居宣長(もとおりのりなが)もサクラを愛し、「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花」と詠んだ。芭蕉(ばしょう)には「吉野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠(きがさ)」「奈良七重七堂伽藍八重桜(ならななへしちだうがらんやへざくら)」がある。
王朝貴族にとってサクラの花は春の自然美の代表的な景物であり、咲き散る花の動きの微妙な変化に一喜一憂し、ひたすら花の姿を賞美した。サクラの花の散るのにいさぎよさをみるのは、近代のややゆがんだ受け止め方で、古来、文学の世界ではサクラの花はもっぱら賞美の対象であったのである。
2020年1月21日
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