大野洒竹『与謝蕪村』、乾猷平『蕪村の新研究』、同『蕪村と其周囲』、志田義秀『蕪村一代物語』、加藤紫舟『俳人蕪村全伝』、暉峻康隆『蕪村』、清水孝之『蕪村評伝』、栗山理一『蕪村』(『アテネ文庫』)、大礒義雄『与謝蕪村』(『俳句シリーズ人と作品』二)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
近世中期の俳人、画家。本姓谷口氏。与謝 (よさ/よざ)氏を称するのは丹後 (たんご)から帰洛 (きらく)以後のこと。俳号は初め宰町 (さいちょう)・宰鳥、蕪村号の初出は寛保 (かんぽう)4年(1744)『歳旦帖 (さいたんちょう)』からである。代表的画号は謝長庚 (しゃちょうこう)、謝春星 (しゃしゅんせい)、1778年(安永7)以後は謝寅 (しゃいん)。
享保 (きょうほう)元年摂津国 (せっつのくに)東成 (ひがしなり)郡毛馬 (けま)村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたらしい。少年時代に伊信 (これのぶ)という画生と多少の交流があったが、享保(1716~1736)の末ごろ単身江戸へ下り書画、漢詩、俳諧 (はいかい)などを学んだ。1737年(元文2)以後は京都から江戸に帰った早野巴人 (はじん)(宋阿 (そうあ))の夜半亭 (やはんてい)に入門して江戸俳壇に知られた。1742年(寛保2)恩師宋阿没後江戸を離れ、砂岡雁宕 (いさおかがんとう)を頼って結城 (ゆうき)(茨城県結城市)に行き、やがて松島、象潟 (きさかた)から奥羽一円に及ぶ旅行を試みた。1744年には宇都宮 (うつのみや)で初の歳旦帖を刊行、初めて「蕪村」号を用いた。翌1745年(延享2)結城の早見晋我 (しんが)の死を悼んで『北寿老仙をいたむ』(釈蕪村と署名)を残した。仮名詩(和詩)の流行を批判した清新な自由詩である。結城弘経寺 (ぐぎょうじ)の大玄上人 (しょうにん)に帰依 (きえ)して剃髪 (ていはつ)したと推定され、同寺に多数の襖絵 (ふすまえ)を残した。英一蝶 (はなぶさいっちょう)風の風俗画のみならず、精神の自由を表現しようとする新興文人画への志向が認められる。
1751年(宝暦1)36歳の8月に京都に上る。宋阿の遺弟望月宋屋 (もちづきそうおく)、高井几圭 (たかいきけい)らがいたが、蕪村の目的は彭城百川 (さかきひゃくせん)、池大雅 (いけのたいが)らの活躍する新興文人画研究に存した。1754年には丹後・宮津に赴き3年半の間専心画業に精励し『八種画譜』『芥子園画伝 (かいしえんがでん)』など中国版本の学習を、自然そのものに学ぶことによって修正深化し、専門画家としての実力を身につけた。和画よりもいっそう漢画風に重点を置き、山水図、神仙図などを多く描いた。帰洛後姓を与謝氏と改め、結婚して1女をもうけた。また来舶清人 (しんじん)沈南蘋 (しんなんぴん)の写実的画風を取り入れ、1763年には山水図、野馬図などの屏風 (びょうぶ)大作を描いて京洛画壇に高く評価される。
明和 (めいわ)年間(1764~1772)に入ると画業に脂がのり、屏風講によって続々と大作が制作された。その間1766~1768年(明和3~5)に讃岐 (さぬき)(香川県)へ渡り優れた墨彩に気韻生動を会得し、やがて1771年池大雅とともに『十便十宜画冊 (じゅうべんじゅうぎがさつ)』を競作し近世南画大成者の一人として活躍する。三宅嘯山 (みやけしょうざん)編『俳諧古選』(1763)に炭太祇 (たんたいぎ)とともに江戸下りの俳人として期待された蕪村は、讃岐から帰京すると三菓社の発句会 (ほっくかい)に熱意を傾け、
鮎 (あゆ)くれてよらで過行く夜半 (よは)の門 (もん)
鳥羽殿 (とばどの)へ五六騎いそぐ野分哉 (のわきかな)
など、詩画一致の新風を続々と歌い出した。それらは内外の古典を踏まえて印象的把握と絵画的構成を方法としている。以後は漢詩境の俳諧化を軸に多面的な変化を示す。漢詩人でもあった門人黒柳召波 (くろやなぎしょうは)に「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚 (たふと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」(『春泥句集 (しゅんでいくしゅう)』序)と説き、「詩を語るべし」と勧め、多読による「書巻之気」の上昇を教えた。美意識の向上のもとに理想美を描き出そうという浪漫 (ろうまん)的俳諧観も明和初年には確立されていた。
1770年3月、先輩几圭の息几董 (きとう)を後継者とすることを条件に夜半亭2世を継承、翌年『明和辛卯春 (しんぼうのはる)』を刊行する。温厚忠実な弟子几董は安永(1772~1781)以後、夜半亭の煩雑な事務を的確に処理してゆく。『其雪影 (そのゆきかげ)』(1772)を手始めに『あけ烏』(1773)、『続明鴉 (あけがらす)』(1776)両集は蕪村一派の貞享蕉風 (じょうきょうしょうふう)による復古運動の成果を天下に示した。夜半翁が後見者の立場で撰集 (せんしゅう)を几董任せにしたのは、弟子の自立性を促す意図であり、蕪村自身は南宗画人としての意識が優先していた。俳壇的には金沢の麦水 (ばくすい)・闌更 (らんこう)、伊勢 (いせ)の樗良 (ちょら)、名古屋の暁台 (きょうたい)、大坂の旧国 (ふるくに)(大江丸)・二柳 (じりゅう)らとの交渉が目だち、諸国の中興俳人たちが蕪村・几董師弟を目ざして上洛するという盛況であった。とくに樗良・暁台・麦水との交流は重要である。画業も京都の門人たちのみでなく、俳諧関係の知友らを通じて地方へも販路を広げていった。
1776年(安永5)樋口道立 (ひぐちどうりゅう)の首唱により洛東金福寺 (こんぷくじ)を会場とする、年2回の写経社の結成と一連の芭蕉 (ばしょう)顕彰事業も、隠逸を理想とする一派の復古運動を象徴する。1779年の檀林会 (だんりんかい)は連句修業の俳諧学校、そこから几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』が実を結ぶが、晩年の最高潮期は1777年である。前年末ひとり娘を嫁がせた彼は『夜半楽 (やはんらく)』を編集して郷愁の連作詩「春風馬堤曲 (しゅんぷうばていのきょく)」を発表し文学史上不朽の業績を残した。ついで4月8日から亡母追善の夏行 (げぎょう)として毎日10句ほどの夏発句 (げほっく)を始めるが、娘の離縁問題によって中絶する。それらの句は写実ではなく、理想美を追求する作風の特色をよく示している。
方百里雨雲よせぬぼたむ哉
三井寺や日は午 (ご)にせまる若楓 (わかかへで)
中絶後の空白を、修業時代の回想談によって埋めた独自の俳文とともに句文の二重奏が没後刊行された『新花 (しんはな)つみ』(1797)である。
1777年を頂点として蕪村の文学活動は下降する。1783年(天明3)の維駒 (これこま)編召波十三回忌集『五車反古 (ごしゃほうご)』においても作風に変化をみせることはない。画業では1776年几董あて書簡に「はいかい物の草画」を誇負し、1777~1779年には『野ざらし紀行図巻』『奥の細道図巻』や芭蕉翁像を多く制作して画俳の融合を試みる。1778年からの「謝寅」号やさらに「日本東成 (とうせい)」を加えた落款は、日本的風土に根ざした独自の南画の創造とかかわる。1782年の『四季山水図』『農家飼馬図』には池大雅とは異質の風土性と俳諧味が著しく、年次不明の『竹渓訪隠図』『夜色楼台図』などの傑作は蕪村以外の誰人も描けない独自性と完成度を示している。
最後の俳壇的活動は、1783年春義仲寺 (ぎちゅうじ)と東山を舞台にした暁台主催の芭蕉百回忌取越興行 (とりこしこうぎょう)(実は九十回忌)を、江戸の蓼太 (りょうた)とともに後援したことである。このとき蕪村の示した情熱は、彼の生涯にわたる俳諧活動が、蕉風復古運動そのものの歴史的意義にかかわることを明示する。1783年初冬より病に倒れ12月25日未明68歳の完結した生涯を終わった。終命のありさまは追善集『から檜葉 (ひば)』(1784)巻頭の几董筆「夜半翁終焉記 (しゅうえんき)」に詳しい。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
が辞世句であった。遺命に従って金福寺(京都市左京区一乗寺才形町)芭蕉庵 (あん)のほとりに葬られ、残された妻と娘も几董、月渓 (げっけい)、梅亭や裕福な商人田福 (でんぷく)や百池 (ひゃくち)らの援助を受けた。なお「几董著」とある『蕪村句集』(1784)は従来几董編集と解されてきたが、晩年の「蕪村自筆句帳」(本間美術館蔵)の出現によって、蕪村最晩年の自撰句集であることが判明した。師意を受けた几董は原本を忠実に清書して世に著 (あらわ)したのである。
世界大百科事典
江戸中期の俳人,文人,画家。姓は谷口,のち与謝(よさ)と改める。俳号は落日庵,紫狐庵,夜半亭など,画号も四明,朝滄(ちようそう),長庚,春星など数多い。摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれ,享保(1716-36)の末年に江戸に下った。俳諧を学ぶが,1737年(元文2),京から江戸に戻った夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))の内弟子となり,宰町の号で江戸俳壇に出る一方,絵画にも親しむ。また服部南郭(なんかく)の講義にも列席したらしい。39年には宰鳥と改号,42年(寛保2)恩師宋阿に死別するや俗化した江戸俳壇を見捨てて放浪生活に入り,同門の下総結城の雁宕(がんとう)のもとに身を寄せ,近国や奥羽に旅して約10年を過ごした。この間,44年(延享1)には宇都宮で処女撰集の歳旦帖を出して初めて蕪村の号を用い,翌年には俳友晋我(しんが)を追悼した俳体詩《北寿老仙をいたむ》の名作を成し,絵も諸作を結城,下館に残している。
1751年(宝暦1)宋阿門流の多い京に上ったが,このころは俳諧より画業に心を寄せ,54-57年は丹後宮津に滞在,四明,朝滄の号で多彩な様式を試みた。絵は一説に彭城百川(さかきひやくせん)に学んだとされるが明らかでなく,狩野派・やまと絵系のほか,中国諸家の作品や版本類を研究し,自己の画風を形成したと考えられる。ついで長庚,春星の画号を用い,絵による生活も安定したか,結婚して1女をもうける。63-66年(宝暦13-明和3)には山水を主とした屛風が講組織で盛んに描かれ,66-68年の間の2度にわたる讃岐滞在中の作としては,丸亀妙法寺の《蘇鉄図》などがよく知られる。俳諧にも次第に熱意を示し,すでに嘯山編の《俳諧古選》で〈春の海ひねもすのたりのたりかな〉が〈平淡而逸〉と賞されたが,66年からは太祇,召波ら少数の同志と〈三菓社〉を結んで句会を続け,〈楠(くす)の根を静かにぬらすしぐれ哉〉などの名句を続々と生み出す。
1770年(明和7)衆望に応え夜半亭2世を継承して宗匠の座につき,翌年春には歳旦帖《明和辛卯春》を出す。俳諧の理想境に至る方法を,《芥子園(かいしえん)画伝》などをかりて,詩(漢詩)・画・俳一致の立場で説いた〈離俗論〉の成立もこのころである。画業は大成期に入り,71年には池大雅との合作《十便十宜図》の〈十宜図〉を制作したことは著名。また京都周辺の身近な景観の実感を描いた作品も多い。謝寅(しやいん)の落款(らつかん)を用いるようになった78年以降の晩年期には,色鮮やかな彩色画のほか,水墨画にも独自の深みのある画風を確立した。特に《峨眉露頂画巻》《夜色楼台図》は水墨画史上に残る作品として有名である。また〈俳諧物の草画〉と称して自負する略筆淡彩の俳画も76年ころには完成の域に達し,俳諧も安永年間(1772-81)にもっとも華やかに展開する。弟子の几董(きとう)が72年に《其雪影》を編み,翌年の《あけ烏》で蕉風復興を宣言,76年には《続明烏》を出して一派の活躍を示すが,蕪村はつねに後見して高雅な新風の創成に努めた。俳壇での評価も高まり,大坂の旧国(大江丸),二柳(じりゆう),伊勢の樗良(ちよら),尾張の暁台(きようたい)ら中興期の諸名家が寄り集い,《此ほとり》(1773)などの清新な連句も生まれた。76年には洛東の金福(こんふく)寺に芭蕉庵を再興,道立,几董らと〈写経社〉を結んで句会を持つが,78,79年に集中する芭蕉紀行図巻,屛風の多作とともに,芭蕉追慕の現れである。77年には俳体詩《春風馬堤曲(しゆんぷうばていのきよく)》《澱河歌(でんかのうた)》を収める春興帖《夜半楽》を刊行,4月には《新花摘(はなつみ)》の句日記を成す。79年には蕪村を宗匠,几董を会頭,道立,百池,維駒,月居らを定連とする連句修行の〈壇林会〉が結ばれ,翌年の蕪村・几董両吟の《桃李(ももすもも)》二歌仙はその成果である。83年(没年)も暁台主催の芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行の後援などあったが,9月宇治田原にキノコ狩に行ったのち病に倒れ,〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉の吟を残して12月25日没し,金福寺に葬られた。
上田秋成が〈かな書の詩人〉と呼んだように,その句は,古典の教養による美意識に貫かれて格調高く,浪漫性漂うものが多い。俳壇主流の写実的傾向を充分意識しつつ,俳諧本来の知的な作意と自在な発想を重んじて独自の風を成す。また池大雅と並んで日本の文人画を大成させた画家であり,以後の文人画家に与えた影響は大きい。句作品は《蕪村句集》(1784),《自筆句帳》のほか《蕪村七部集》に残る。
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