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  11. 与謝蕪村

与謝蕪村

ジャパンナレッジで閲覧できる『与謝蕪村』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

与謝蕪村
よさぶそん
一七一六 - 八三
江戸時代中期の俳人・画家。本姓谷口氏。与謝氏(「よざ」とも)を称するのは丹後からの帰洛後。俳号ははじめ宰町・宰鳥、蕪村号は寛保四年(延享元、一七四四)の『歳旦帖』から。代表的画号は宝暦十年(一七六〇)ころから謝長庚・謝春星、安永七年(一七七八)秋から謝寅。夜半翁は画俳ともに用いた。享保元年(一七一六)摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたが、母親は丹後(京都府北部)からの季節労働者とも伝えられる。少年時代に桃田伊信という画生と交流があった。享保末年ごろ単身江戸へ下り書画・漢詩文・俳諧などを学ぶ。元文二年(一七三七)以後は京都から江戸へ帰った早野巴人(宋阿)の夜半亭に入門して江戸俳壇に広く知られた。寛保二年宋阿没後、同門砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城に行き弘経(ぐぎょう)寺大玄に帰依して法体となり、松島・象潟から奥羽一円に及ぶ旅行を試み、『寛保四年宇都宮歳旦帖』を刊行、はじめて蕪村号を用いた。翌年結城の早見晋我(しんが)の死を悼んで「北寿老仙をいたむ」(「釈蕪村」と署名)を作った。江戸に流行した各務(かがみ)支考流の仮名詩(「和詩」とも)とは異質の清新な抒情詩である。関東十八檀林の一つ結城の弘経寺には多数の襖絵などを残した。英一蝶ふうの風俗画、新興文人画への志向が認められる。延享・寛延のころは再三江戸へ出た形跡もある。宝暦元年(三十六歳)江戸と訣別して八月京に上る。宋阿の遺弟望月宋屋・高井几圭(几董の父)らがいたが、蕪村の大きな目的は彭城(さかき)百川や池大雅らの活躍する京洛画壇に身をおいて南宗文人画を研究することに存した。同四年には丹後宮津に赴き三年半の間専心画業に精励する。自然そのものに学んで中国画本などによる学習を修正深化し専門画家としての実力を身につけた。和画よりも一層漢画風に重点をおき、多くの山水図・神仙図などを描いた。宝暦七年秋帰洛後は来舶清人沈南蘋(しんなんぴん)の写実的画風を取り入れ、同十三年には六曲屏風山水図(重要文化財)・野馬図など、屏風講組織による大作を描いて生業としての画業を確立した。明和年間(一七六四―七二)になると画業はますます展開し、多彩な画風・画法で屏風講の大作が制作された。その間明和三―五年には讃岐(香川県)に渡り、すぐれた墨彩に気韻生動を会得し、丸亀妙法寺に多くの襖絵などを残した。同八年池大雅と「十便十宜図画冊」(国宝)を競作し近世南画大成者の一人として認められる。讃岐から帰京すると、炭太祇・黒柳召波ら少数同人とともに三菓社の発句会に熱意を傾け、「鮎くれてよらで過行く夜半の門」「夕露や伏見の角力ちりぢりに」など、離俗の新風が続々と発表された。内外の古典を踏まえて印象的把握と絵画的構成に成る、清新な詩情に富む作風である。以後は漢詩境の俳諧化を軸に多面的な変化を追う。漢詩人でもあった門人黒柳召波(明和八年没)に離俗説を教示した(『春泥句集』序)のも明和初年であろう。明和七年三月几董を後継者とする条件で夜半亭二世を継承、翌年春帖『明和辛卯春』を刊行する。温順勤勉な几董は安永以後夜半亭の雑務を的確に処理してゆく。几圭十三回忌集『其雪影』(安永元年)を手始めに、『あけ烏』(同二年)、『続明鴉』(同五年)を蕪村監修のもとに編集、両集は蕪村一派の貞享蕉風による復古運動の成果を天下に示したものである。蕪村自身は画人意識が優先し、また画業に追われていたが、後継者の自立・大成を促す意図もあった。画業は京都の門人たちのみでなく俳諧関係の知友を通じて地方へも鑑賞者層を拡大してゆく。明和年間には遠く仙台の町人が謝春星の山水対幅や伊藤若冲の人物・芭蕉二幅などを収蔵していた(中山高陽『奥游日録』)。安永二年の伊勢の三浦樗良、翌三年の名古屋の加藤暁台一派の上京など、諸国俳人たちが続々と京の蕪村―几董師弟を目ざして上洛する。好敵手池大雅の没する安永五年には樋口道立(どうりゅう)の首唱により、洛東金福(こんぷく)寺を会場とする年二回の写経社会の結成とその後の一連の芭蕉顕彰事業が催される。隠逸を理想とした一派の復古運動を象徴するものである。同八年の檀林会は連句修行の俳諧学校で、几董との両吟歌仙二巻『もゝすもゝ』(安永九年刊)が実を結ぶが、晩年の最高潮期は安永六年度である。前年末一人娘をとつがせた彼は『夜半楽』(同六年刊)を編集して郷愁の詩「春風馬堤曲」「澱河歌」を発表する。ついで四月八日から亡母追善の夏行(げぎょう)として毎日十句ほどの夏発句を始めるが、娘の離縁問題によって中絶、余白を修業時代の回顧談によって埋めた。その理想美を追求する自在な句風と、中世説話文学に学ぶ洒脱な俳文との二重奏が、没後刊行された『新花つみ』(寛政九年(一七九七)刊)である。「三井寺や日は午にせまる若楓」。十宜図の南宗画法を基礎として安永初年には小画面の四季山水図が多く制作され、同三年「四季山水図」(謝春星)には嘱目の風景が俳諧的で平淡な描法で描かれる。安永六年を頂点として以後の文学活動は目立たない。天明三年(一七八三)の召波十三回忌集『五車反古(ごしゃほうぐ)』においても格別作風に変化はみられない。画業では、安永五年几董宛書簡に「はいかい物の草画」を自負し、同六―八年には『野哂紀行』『奥の細道』の図巻(重要文化財)や芭蕉翁像を多く制作して画俳は素材的にも近接する。同七年から使用される謝寅やさらに「日本東成」を冠らせた落款には俳諧的風土に根ざした独自の南宗画の創造を意識している。天明二年の「四季山水図」「農家飼馬図」などには池大雅とは異質の俳諧味が色濃く、年次不明の「竹渓訪隠図」「夜色楼台図」(ともに重要文化財)などの傑作はすぐれた独自性と高い完成度を示している。最後の俳壇的活動は天明二年春義仲寺と東山を舞台に名古屋の暁台が主催した芭蕉百回忌取越興行(実は九十回忌)を後援したことである。蕪村の示した情熱は、その生涯が蕉風復古運動そのものの歴史的意義に深くかかわることを示す。同三年初冬病に倒れ、十二月二十五日未明六十八歳の天寿を完うした。一周忌に際し几董は追善集『から檜葉(ひば)』と『蕪村句集』とを世に著わした。辞世句、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」。全集に、潁原退蔵編『蕪村全集』、勝峯晋風編『蕪村一代集』(『日本俳書大系』八)、大谷篤蔵ら校注『蕪村集』(『古典俳文学大系』一二)などがある。→新花つみ(しんはなつみ),→蕪村句集(ぶそんくしゅう),→夜半楽(やはんらく)
[参考文献]
大野洒竹『与謝蕪村』、乾猷平『蕪村の新研究』、同『蕪村と其周囲』、志田義秀『蕪村一代物語』、加藤紫舟『俳人蕪村全伝』、暉峻康隆『蕪村』、清水孝之『蕪村評伝』、栗山理一『蕪村』(『アテネ文庫』)、大礒義雄『与謝蕪村』(『俳句シリーズ人と作品』二)
(清水 孝之)


日本大百科全書(ニッポニカ)

蕪村
ぶそん
[1716―1783]

近世中期の俳人、画家。本姓谷口氏。与謝 (よさ/よざ)氏を称するのは丹後 (たんご)から帰洛 (きらく)以後のこと。俳号は初め宰町 (さいちょう)・宰鳥、蕪村号の初出は寛保 (かんぽう)4年(1744)『歳旦帖 (さいたんちょう)』からである。代表的画号は謝長庚 (しゃちょうこう)、謝春星 (しゃしゅんせい)、1778年(安永7)以後は謝寅 (しゃいん)。

[清水孝之]

出自と修業時代

享保 (きょうほう)元年摂津国 (せっつのくに)東成 (ひがしなり)郡毛馬 (けま)村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたらしい。少年時代に伊信 (これのぶ)という画生と多少の交流があったが、享保(1716~1736)の末ごろ単身江戸へ下り書画、漢詩、俳諧 (はいかい)などを学んだ。1737年(元文2)以後は京都から江戸に帰った早野巴人 (はじん)(宋阿 (そうあ))の夜半亭 (やはんてい)に入門して江戸俳壇に知られた。1742年(寛保2)恩師宋阿没後江戸を離れ、砂岡雁宕 (いさおかがんとう)を頼って結城 (ゆうき)(茨城県結城市)に行き、やがて松島、象潟 (きさかた)から奥羽一円に及ぶ旅行を試みた。1744年には宇都宮 (うつのみや)で初の歳旦帖を刊行、初めて「蕪村」号を用いた。翌1745年(延享2)結城の早見晋我 (しんが)の死を悼んで『北寿老仙をいたむ』(釈蕪村と署名)を残した。仮名詩(和詩)の流行を批判した清新な自由詩である。結城弘経寺 (ぐぎょうじ)の大玄上人 (しょうにん)に帰依 (きえ)して剃髪 (ていはつ)したと推定され、同寺に多数の襖絵 (ふすまえ)を残した。英一蝶 (はなぶさいっちょう)風の風俗画のみならず、精神の自由を表現しようとする新興文人画への志向が認められる。

[清水孝之]

西帰

1751年(宝暦1)36歳の8月に京都に上る。宋阿の遺弟望月宋屋 (もちづきそうおく)、高井几圭 (たかいきけい)らがいたが、蕪村の目的は彭城百川 (さかきひゃくせん)、池大雅 (いけのたいが)らの活躍する新興文人画研究に存した。1754年には丹後・宮津に赴き3年半の間専心画業に精励し『八種画譜』『芥子園画伝 (かいしえんがでん)』など中国版本の学習を、自然そのものに学ぶことによって修正深化し、専門画家としての実力を身につけた。和画よりもいっそう漢画風に重点を置き、山水図、神仙図などを多く描いた。帰洛後姓を与謝氏と改め、結婚して1女をもうけた。また来舶清人 (しんじん)沈南蘋 (しんなんぴん)の写実的画風を取り入れ、1763年には山水図、野馬図などの屏風 (びょうぶ)大作を描いて京洛画壇に高く評価される。

[清水孝之]

画俳併行時代

明和 (めいわ)年間(1764~1772)に入ると画業に脂がのり、屏風講によって続々と大作が制作された。その間1766~1768年(明和3~5)に讃岐 (さぬき)(香川県)へ渡り優れた墨彩に気韻生動を会得し、やがて1771年池大雅とともに『十便十宜画冊 (じゅうべんじゅうぎがさつ)』を競作し近世南画大成者の一人として活躍する。三宅嘯山 (みやけしょうざん)編『俳諧古選』(1763)に炭太祇 (たんたいぎ)とともに江戸下りの俳人として期待された蕪村は、讃岐から帰京すると三菓社の発句会 (ほっくかい)に熱意を傾け、
 鮎 (あゆ)くれてよらで過行く夜半 (よは)の門 (もん)
 鳥羽殿 (とばどの)へ五六騎いそぐ野分哉 (のわきかな)
など、詩画一致の新風を続々と歌い出した。それらは内外の古典を踏まえて印象的把握と絵画的構成を方法としている。以後は漢詩境の俳諧化を軸に多面的な変化を示す。漢詩人でもあった門人黒柳召波 (くろやなぎしょうは)に「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚 (たふと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」(『春泥句集 (しゅんでいくしゅう)』序)と説き、「詩を語るべし」と勧め、多読による「書巻之気」の上昇を教えた。美意識の向上のもとに理想美を描き出そうという浪漫 (ろうまん)的俳諧観も明和初年には確立されていた。

 1770年3月、先輩几圭の息几董 (きとう)を後継者とすることを条件に夜半亭2世を継承、翌年『明和辛卯春 (しんぼうのはる)』を刊行する。温厚忠実な弟子几董は安永(1772~1781)以後、夜半亭の煩雑な事務を的確に処理してゆく。『其雪影 (そのゆきかげ)』(1772)を手始めに『あけ烏』(1773)、『続明鴉 (あけがらす)』(1776)両集は蕪村一派の貞享蕉風 (じょうきょうしょうふう)による復古運動の成果を天下に示した。夜半翁が後見者の立場で撰集 (せんしゅう)を几董任せにしたのは、弟子の自立性を促す意図であり、蕪村自身は南宗画人としての意識が優先していた。俳壇的には金沢の麦水 (ばくすい)・闌更 (らんこう)、伊勢 (いせ)の樗良 (ちょら)、名古屋の暁台 (きょうたい)、大坂の旧国 (ふるくに)(大江丸)・二柳 (じりゅう)らとの交渉が目だち、諸国の中興俳人たちが蕪村・几董師弟を目ざして上洛するという盛況であった。とくに樗良・暁台・麦水との交流は重要である。画業も京都の門人たちのみでなく、俳諧関係の知友らを通じて地方へも販路を広げていった。

[清水孝之]

画俳融合時代

1776年(安永5)樋口道立 (ひぐちどうりゅう)の首唱により洛東金福寺 (こんぷくじ)を会場とする、年2回の写経社の結成と一連の芭蕉 (ばしょう)顕彰事業も、隠逸を理想とする一派の復古運動を象徴する。1779年の檀林会 (だんりんかい)は連句修業の俳諧学校、そこから几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』が実を結ぶが、晩年の最高潮期は1777年である。前年末ひとり娘を嫁がせた彼は『夜半楽 (やはんらく)』を編集して郷愁の連作詩「春風馬堤曲 (しゅんぷうばていのきょく)」を発表し文学史上不朽の業績を残した。ついで4月8日から亡母追善の夏行 (げぎょう)として毎日10句ほどの夏発句 (げほっく)を始めるが、娘の離縁問題によって中絶する。それらの句は写実ではなく、理想美を追求する作風の特色をよく示している。

 方百里雨雲よせぬぼたむ哉
 三井寺や日は午 (ご)にせまる若楓 (わかかへで)
 中絶後の空白を、修業時代の回想談によって埋めた独自の俳文とともに句文の二重奏が没後刊行された『新花 (しんはな)つみ』(1797)である。

 1777年を頂点として蕪村の文学活動は下降する。1783年(天明3)の維駒 (これこま)編召波十三回忌集『五車反古 (ごしゃほうご)』においても作風に変化をみせることはない。画業では1776年几董あて書簡に「はいかい物の草画」を誇負し、1777~1779年には『野ざらし紀行図巻』『奥の細道図巻』や芭蕉翁像を多く制作して画俳の融合を試みる。1778年からの「謝寅」号やさらに「日本東成 (とうせい)」を加えた落款は、日本的風土に根ざした独自の南画の創造とかかわる。1782年の『四季山水図』『農家飼馬図』には池大雅とは異質の風土性と俳諧味が著しく、年次不明の『竹渓訪隠図』『夜色楼台図』などの傑作は蕪村以外の誰人も描けない独自性と完成度を示している。

[清水孝之]

晩年

最後の俳壇的活動は、1783年春義仲寺 (ぎちゅうじ)と東山を舞台にした暁台主催の芭蕉百回忌取越興行 (とりこしこうぎょう)(実は九十回忌)を、江戸の蓼太 (りょうた)とともに後援したことである。このとき蕪村の示した情熱は、彼の生涯にわたる俳諧活動が、蕉風復古運動そのものの歴史的意義にかかわることを明示する。1783年初冬より病に倒れ12月25日未明68歳の完結した生涯を終わった。終命のありさまは追善集『から檜葉 (ひば)』(1784)巻頭の几董筆「夜半翁終焉記 (しゅうえんき)」に詳しい。

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
が辞世句であった。遺命に従って金福寺(京都市左京区一乗寺才形町)芭蕉庵 (あん)のほとりに葬られ、残された妻と娘も几董、月渓 (げっけい)、梅亭や裕福な商人田福 (でんぷく)や百池 (ひゃくち)らの援助を受けた。なお「几董著」とある『蕪村句集』(1784)は従来几董編集と解されてきたが、晩年の「蕪村自筆句帳」(本間美術館蔵)の出現によって、蕪村最晩年の自撰句集であることが判明した。師意を受けた几董は原本を忠実に清書して世に著 (あらわ)したのである。

[清水孝之]



世界大百科事典

蕪村
ぶそん
1716-83(享保1-天明3)

江戸中期の俳人,文人,画家。姓は谷口,のち与謝(よさ)と改める。俳号は落日庵,紫狐庵,夜半亭など,画号も四明,朝滄(ちようそう),長庚,春星など数多い。摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれ,享保(1716-36)の末年に江戸に下った。俳諧を学ぶが,1737年(元文2),京から江戸に戻った夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))の内弟子となり,宰町の号で江戸俳壇に出る一方,絵画にも親しむ。また服部南郭(なんかく)の講義にも列席したらしい。39年には宰鳥と改号,42年(寛保2)恩師宋阿に死別するや俗化した江戸俳壇を見捨てて放浪生活に入り,同門の下総結城の雁宕(がんとう)のもとに身を寄せ,近国や奥羽に旅して約10年を過ごした。この間,44年(延享1)には宇都宮で処女撰集の歳旦帖を出して初めて蕪村の号を用い,翌年には俳友晋我(しんが)を追悼した俳体詩《北寿老仙をいたむ》の名作を成し,絵も諸作を結城,下館に残している。

 1751年(宝暦1)宋阿門流の多い京に上ったが,このころは俳諧より画業に心を寄せ,54-57年は丹後宮津に滞在,四明,朝滄の号で多彩な様式を試みた。絵は一説に彭城百川(さかきひやくせん)に学んだとされるが明らかでなく,狩野派・やまと絵系のほか,中国諸家の作品や版本類を研究し,自己の画風を形成したと考えられる。ついで長庚,春星の画号を用い,絵による生活も安定したか,結婚して1女をもうける。63-66年(宝暦13-明和3)には山水を主とした屛風が講組織で盛んに描かれ,66-68年の間の2度にわたる讃岐滞在中の作としては,丸亀妙法寺の《蘇鉄図》などがよく知られる。俳諧にも次第に熱意を示し,すでに嘯山編の《俳諧古選》で〈春の海ひねもすのたりのたりかな〉が〈平淡而逸〉と賞されたが,66年からは太祇,召波ら少数の同志と〈三菓社〉を結んで句会を続け,〈楠(くす)の根を静かにぬらすしぐれ哉〉などの名句を続々と生み出す。

 1770年(明和7)衆望に応え夜半亭2世を継承して宗匠の座につき,翌年春には歳旦帖《明和辛卯春》を出す。俳諧の理想境に至る方法を,《芥子園(かいしえん)画伝》などをかりて,詩(漢詩)・画・俳一致の立場で説いた〈離俗論〉の成立もこのころである。画業は大成期に入り,71年には池大雅との合作《十便十宜図》の〈十宜図〉を制作したことは著名。また京都周辺の身近な景観の実感を描いた作品も多い。謝寅(しやいん)の落款(らつかん)を用いるようになった78年以降の晩年期には,色鮮やかな彩色画のほか,水墨画にも独自の深みのある画風を確立した。特に《峨眉露頂画巻》《夜色楼台図》は水墨画史上に残る作品として有名である。また〈俳諧物の草画〉と称して自負する略筆淡彩の俳画も76年ころには完成の域に達し,俳諧も安永年間(1772-81)にもっとも華やかに展開する。弟子の几董(きとう)が72年に《其雪影》を編み,翌年の《あけ烏》で蕉風復興を宣言,76年には《続明烏》を出して一派の活躍を示すが,蕪村はつねに後見して高雅な新風の創成に努めた。俳壇での評価も高まり,大坂の旧国(大江丸),二柳(じりゆう),伊勢の樗良(ちよら),尾張の暁台(きようたい)ら中興期の諸名家が寄り集い,《此ほとり》(1773)などの清新な連句も生まれた。76年には洛東の金福(こんふく)寺に芭蕉庵を再興,道立,几董らと〈写経社〉を結んで句会を持つが,78,79年に集中する芭蕉紀行図巻,屛風の多作とともに,芭蕉追慕の現れである。77年には俳体詩《春風馬堤曲(しゆんぷうばていのきよく)》《澱河歌(でんかのうた)》を収める春興帖《夜半楽》を刊行,4月には《新花摘(はなつみ)》の句日記を成す。79年には蕪村を宗匠,几董を会頭,道立,百池,維駒,月居らを定連とする連句修行の〈壇林会〉が結ばれ,翌年の蕪村・几董両吟の《桃李(ももすもも)》二歌仙はその成果である。83年(没年)も暁台主催の芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行の後援などあったが,9月宇治田原にキノコ狩に行ったのち病に倒れ,〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉の吟を残して12月25日没し,金福寺に葬られた。

 上田秋成が〈かな書の詩人〉と呼んだように,その句は,古典の教養による美意識に貫かれて格調高く,浪漫性漂うものが多い。俳壇主流の写実的傾向を充分意識しつつ,俳諧本来の知的な作意と自在な発想を重んじて独自の風を成す。また池大雅と並んで日本の文人画を大成させた画家であり,以後の文人画家に与えた影響は大きい。句作品は《蕪村句集》(1784),《自筆句帳》のほか《蕪村七部集》に残る。
[田中 道雄+並木 誠士]

[索引語]
三菓社 夜半亭(2世) 離俗論
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検索コンテンツ
1. 与謝蕪村
世界大百科事典
→蕪村
2. よさ‐ぶそん【与謝蕪村】
日本国語大辞典
江戸中期の俳人、画家。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の農家に生まれた。本姓谷口、のち与謝。別号宰鳥、夜半亭二世。画号四明・春星・謝寅など。一七、八歳の
3. よさぶそん【与謝蕪村】
全文全訳古語辞典
[人名]江戸中期の俳人・画家。一七一六年(享保元)~一七八三年(天明三)。摂津毛馬村(=大阪市都島区)の生まれ。江戸に出て絵画・俳諧などを学び、東国を放浪の後、
4. よさぶそん【与謝蕪村】
国史大辞典
→新花つみ(しんはなつみ),→蕪村句集(ぶそんくしゅう),→夜半楽(やはんらく) [参考文献]大野洒竹『与謝蕪村』、乾猷平『蕪村の新研究』、同『蕪村と其周囲』、
5. よさ-ぶそん【与謝蕪村】
日本人名大辞典
1716−1784* 江戸時代中期の俳人,画家。享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東
6. 與謝蕪村俳諧 (見出し語:與謝蕪村)
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 1379ページ
7. 與謝蕪村繪畫 (見出し語:與謝蕪村)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 841ページ
8. 与謝蕪村
日本大百科全書
→蕪村
9. 与謝蕪村[文献目録]
日本人物文献目録
⇒谷口蕪村
10. 近世俳句集
日本古典文学全集
(そら)、向井去来(きょらい)、茶道・千家不白流の祖・川上不白(ふはく)、中興期俳壇の中心・与謝蕪村、画家の酒井抱一(ほういつ)、江戸時代後期の俳人・小林一茶な
11. 近世俳文集
日本古典文学全集
上嶋鬼貫(おにつら)の『独ごと』、200あまりの俳文を載せる横井也有(やゆう)の『鶉衣(うずらごろも)』、与謝蕪村の俳句日記『新花摘』、小林一茶の『おらが春』や
12. 俳諧集
日本古典文学全集
貞門による『哥(うた)いづれの巻』(貞徳翁独吟百韻自註)、井原西鶴による『花にきてやの巻』(西鶴大句数)、与謝蕪村と高井几董(きとう)による『牡丹散ての巻』(も
13. よさぶそんせいたんち【与謝蕪村生誕地】大阪府:大阪市/都島区/毛馬村地図
日本歴史地名大系
[現]都島区毛馬町三丁目 天明俳壇の革新者として、また南宋画の開拓者として知られる与謝蕪村は享保元年(一七一六)毛馬村の農家で生まれた。本姓谷口、のち与謝。一八
14. せいもよう【盛茂燁】(Shèng Màoyè)
世界人名大辞典
容の形態は量感を増し,明末奇想派と共通するものがある.日本にも多くの作品が伝来し,彭城百川,与謝蕪村などに影響を与えた.代表作に〈五百羅漢図, 1594〉(丁雲
15. あさみ-たずき【浅見田鶴樹】
日本人名大辞典
?−1778 江戸時代中期の俳人。松木淡々(たんたん)の門人で,大坂にすんだ。与謝蕪村(よさ-ぶそん)らと交遊があった。安永7年10月5日死去。別号に江霜庵,句
16. 池大雅
日本大百科全書
『瀟湘しょうしょう勝概図屏風』などの障屏画、さらに文人画家の本領を発揮した『十便帖じゅうべんじょう』(与謝蕪村よさぶそんの『十宜帖じゅうぎじょう』とともに国宝)
17. いけのたいが【池大雅】
国史大辞典
東京国立博物館蔵)、「銭塘観潮・西湖春景図」(同)、掛軸では「倣王維漁楽図」(同)、画帖では与謝蕪村との合作による「十便十宜帖」などがあげられる。これらの作品は
18. いけの-たいが【池大雅】
日本人名大辞典
字(あざな)は公敏,貸成。通称は秋平。別号に大雅堂,九霞山樵。代表作に「山亭雅会図」「楼閣山水図」,与謝蕪村(よさ-ぶそん)との合作「十便十宜帖」など。【格言な
19. いさおか-がんとう【砂岡雁宕】
日本人名大辞典
江戸時代中期の俳人。内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり,同門の与謝蕪村(よさ-ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し,「蓼(た
20. いしかわまち【石川町】滋賀県:大津市/大津町
日本歴史地名大系
慶応元年(一八六五)大津宿役を負担した役家数三七軒(大津市志)。町内長寿寺(現浄土真宗本願寺派)の住職竜賀は与謝蕪村について画と俳句を学んだ。浄土宗伝光院は「浄
21. いちおん【一音】
日本人名大辞典
。建部綾足(あやたり)(涼袋)にまなぶ。上野(こうずけ)(群馬県)にすみ,のち諸国をめぐる。与謝蕪村(よさ-ぶそん),加藤暁台(きょうたい),高井几董(きとう)
22. いなつか-たけし【稲束猛】
日本人名大辞典
大正時代の郷土史家。明治22年12月12日生まれ。大阪府池田町(池田市)の人。郷里に縁のある与謝蕪村(よさ-ぶそん),松村月渓や大阪画壇を研究。懐徳堂記念会の吉
23. いのうえしろう【井上士朗】
国史大辞典
信望が集まり、暁台没後の同門はすべて彼に帰した。その名声は諸国にひびき、江戸の鈴木道彦、京の与謝蕪村一派からも長者として遇せられたというが、常に諸国の俳人・文人
24. いわま-おつに【岩間乙二】
日本人名大辞典
江戸で夏目成美(せいび),鈴木道彦らとまじわる。東北,蝦夷(えぞ)地をめぐり,箱館で斧の柄社を結成。与謝蕪村(よさ-ぶそん)に私淑し,最初の注釈書「蕪村発句解」
25. 江戸時代美術画像
世界大百科事典
51-89)のころ京都画壇において従来の面目を一新するような新しい動きがあらわれる。池大雅,与謝蕪村らによる南画(文人画),円山応挙による写生画,伊藤若冲,曾我
26. えもり-げっきょ【江森月居】
日本人名大辞典
1756−1824 江戸時代中期-後期の俳人。宝暦6年生まれ。安永の初め与謝蕪村(よさ-ぶそん)門下となり,同派の句集「続明烏」で注目をあつめる。高井几董(きと
27. おおつし【大津市】滋賀県
日本歴史地名大系
考古学の先駆者といわれる奇石収集家の木内石亭、芭蕉の来訪を契機に著しい興隆をみせた湖南俳壇、与謝蕪村や円山応挙の影響をうけた画業などがあった。大津祭のほかに日吉
28. おおつまち【大津町】滋賀県:大津市
日本歴史地名大系
よくした坂本町の米商岩崎鴎雨のほか、国学者村井三弥、湖南塾を開いた崎門学者の梅田雲浜などがいる。与謝蕪村の系譜に連なる南画家紀楳亭の後継者であった鍵屋町の中村五
29. おおとも-おおえまる【大伴大江丸】
日本人名大辞典
大坂で飛脚問屋をいとなみ,俳諧(はいかい)を笠家旧室,大島蓼太(りょうた)らにまなぶ。70歳で俳諧に専念。与謝蕪村,高井几董(きとう)らとも親交をむすんだ。文化
30. 大野洒竹
日本大百科全書
語した。没後膨大なその蔵書は東大図書館に洒竹文庫として収蔵された。『俳諧史』(1899)、『与謝蕪村よさぶそん』(1902)その他、復刻編著が多い。 荻おぎの風
31. おおの-しゃちく【大野洒竹】
日本人名大辞典
蔵されている。大正2年10月12日死去。42歳。熊本県出身。東京帝大卒。本名は豊太。著作は「与謝蕪村」「俳諧(はいかい)略史」など。
32. おか-ごうん【岡五雲】
日本人名大辞典
江戸の人。炭太祇(たん-たいぎ)の門人。師没後不夜庵2代をつぎ,京都島原の妓楼の主人となる。与謝蕪村(ぶそん)らと交遊。安永2年「石の月」,6年「太祇句選後篇」
33. 芥子園画伝
世界大百科事典
数多くの版本があり,4集本も多い。日本にも早くから入り,1748年(寛延1)以来模刻され,池大雅,与謝蕪村らの南画家や浮世絵版画技術に少なからぬ影響を与えた。梅
34. かぎやまち【鍵屋町】滋賀県:大津市/大津町
日本歴史地名大系
商売を行ったとして、米方取締役銭屋彦兵衛から支障を申付けられている(大津御用米会所要用帳)。与謝蕪村の系譜に連なる画家紀楳亭(享保一九年出生)は近江蕪村と称され
35. かすがじんじゃ【春日神社】大阪府:大阪市/福島区/野田村地図
日本歴史地名大系
のち復興して浪花五景の一つに数えられた(摂陽見聞筆拍子)。「浪花百景」「浪花勝概帖」などにも描かれ、上島鬼貫・与謝蕪村・広瀬旭荘らの文人墨客も作品を残している。
36. 化政文化画像
日本大百科全書
文人画の田能村竹田たのむらちくでんや渡辺崋山わたなべかざんが活躍する。この方面の代表作、池大雅いけのたいが・与謝蕪村よさぶそん合作の『十便十宜図じゅうべんじゅう
37. かとうきょうたい【加藤暁台】
国史大辞典
る。俳壇に広い勢力をもって蕉風復興運動の一中心となった。作風は優美で多彩。安永三年から数年間与謝蕪村とたびたび交遊があった。その時期には特にすぐれた作品が多い。
38. かみのむら【上ノ村】香川県:高松市/旧香川郡地区
日本歴史地名大系
れたという。さらにその北に高丸出水、豪商三倉屋市太夫の別荘があり、宝暦一一年(一七六一)には与謝蕪村が逗留している。「讃岐国名勝図会」に栗林前は「南北往来なり、
39. 加悦画像
日本大百科全書
国指定史跡に前方後円墳の作山つくりやま古墳および蛭子山えびすやま古墳がある。施薬寺せやくじは与謝蕪村よさぶそんゆかりの寺で蕪村の描いた屏風びょうぶ1双を蔵する。
40. かわだ-でんぷく【川田田福】
日本人名大辞典
江戸時代中期の俳人。享保(きょうほう)6年生まれ。京都の呉服商。はじめ貞門系の福田練石,のち与謝蕪村(よさ-ぶそん)の門にはいる。蕪村の高弟として「蕪村句集」の
41. きがく【姫岳】
日本人名大辞典
俳人。宝暦10年生まれ。陸奥(むつ)盛岡の天台宗峰寿院住職。京都聖護院(しょうごいん)にまなぶ。与謝蕪村(よさ-ぶそん)の門人。書画,詩文などにすぐれた。文政6
42. きの-ばいてい【紀梅亭】
日本人名大辞典
1734−1810 江戸時代中期-後期の画家,俳人。享保(きょうほう)19年生まれ。山城(京都府)の人。与謝蕪村(よさ-ぶそん)について画と俳諧(はいかい)をま
43. きょう‐は[キャウ‥]【京派】
日本国語大辞典
〔名〕京都を中心とした漢画の一派。円山応挙や文人画の池大雅、与謝蕪村らをいう。*随筆・山中人饒舌〔1813〕上「又有〓
44. 金谷上人行状記 ある奇僧の半生 38ページ
東洋文庫
あっばれ金谷山上人!と、讃嘆せざるはなかった。 これは天明三年、上人弱冠二十三歳のときである。〔この年の暮に与謝蕪村がなくなっている。われわれの主人公は、その画
45. きんせい【近世】画像
国史大辞典
また俳諧では従来の沈滞した俳壇に「芭蕉復帰」を旗印に、新しい俳人たちの結束が見られ、なかでも与謝蕪村は高度の美的感覚と豊かな教養に支えられて新しい境地を拓き、芭
46. きんせい【近世】 : 近世/〔第三期〕
国史大辞典
また俳諧では従来の沈滞した俳壇に「芭蕉復帰」を旗印に、新しい俳人たちの結束が見られ、なかでも与謝蕪村は高度の美的感覚と豊かな教養に支えられて新しい境地を拓き、芭
47. 近世俳句集 221ページ
日本古典文学全集
いうと同時に、銀世界のすばらしさをも表して、無造作なようで的確な修飾語である。季語は「雪」で冬。与謝蕪村 享保元年(一七一六)~天明三年(八三) 本姓、谷口氏。
48. 近世俳句集 269ページ
日本古典文学全集
趣向だが、その女の姿には、里帰りをしてくるであろう一人娘のおもかげを重ねているにちがいない。与謝蕪村を中国風に記したもの。老人。『礼記』に「六十ヲ耆ト曰ヒ、七十
49. 近世俳文集 525ページ
日本古典文学全集
新花摘蕪村 『新花摘』は与謝蕪村の俳諧文集。寛政九年(一七九七)刊。月渓跋。蕪村が亡母追善のための夏行として、安永六年(一七七七)、彼の六十二歳の年の四月から書
50. くろやなぎ-これこま【黒柳維駒】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代中期-後期の俳人。黒柳召波(しょうは)の子。京都の人。与謝蕪村(よさ-ぶそん)にまなぶ。安永6年父の七回忌に「春泥句集」を出版した。享和3年(1
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