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日露戦争

ジャパンナレッジで閲覧できる『日露戦争』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

日露戦争
にちろせんそう

1904年(明治37)2月より翌1905年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。

[藤村道生]

国際的背景

三国干渉後、列強の中国分割が進行するなかで、アメリカは中国の門戸開放と領土保全および機会均等を宣言した。これに対しロシアは、シベリア鉄道を軸に東方政策を推進、東清 (とうしん)鉄道敷設、旅順 (りょじゅん)・大連 (だいれん)租借を通じて南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事教官や財政顧問を置き、南岸の馬山 (まさん)浦まで租借を策した。日本は山県 (やまがた)‐ロバノフ協定、西‐ローゼン協定で朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは義和団 (ぎわだん)鎮圧の名目で出兵した兵力を撤兵せず事実上全満州を占領するに至った。イギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を防衛するために日英同盟を提案。小村寿太郎 (じゅたろう)外相は、満韓交換で日露関係調整を唱える伊藤博文 (ひろぶみ)らの日露協商論を抑えて、1902年1月日英同盟を結び露仏同盟に対抗した。こうして満州と朝鮮を挟んで二帝国主義ブロックが対峙 (たいじ)する形勢が生じた。

[藤村道生]

開戦の動因

ロシアは露清 (ろしん)協定による第二次撤兵の期限の1903年4月8日になっても、撤兵を実行せず、逆に増兵し、鴨緑江 (おうりょくこう)南岸に進出して森林伐採を始めた。日本は、朝鮮の安全を脅かすものとして態度を硬化させた。おりしも日清戦後の10年計画による対露軍備拡張案が完成したので、軍も、開戦が必要ならば現在をおいてないと強調した。国民は軍拡による相次ぐ増税にあえいでいたが、不満は国民同盟会などによって強硬外交論に誘導され、『萬朝報 (よろずちょうほう)』に拠 (よ)る内村鑑三 (かんぞう)や幸徳秋水 (こうとくしゅうすい)の非戦論は孤立していった。

 桂 (かつら)太郎内閣は1903年6月、元老を交えて御前会議を開き対露交渉案をまとめ、開戦世論と米英の支持を背景に、8月ロシアに対し奉天 (ほうてん)の開放とロシア軍の満州撤兵を要求、交渉を開始した。日露両国はそれぞれ、相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認めること、相手国がこれに干渉しないことを約束させ、さらに相手国の勢力圏における支配を制限しようとした。日本は日英同盟の存在がロシアに譲歩させると期待したが、ロシア皇帝の側近は日本の満州に関する要求を強硬に拒否する一方、日本が韓国領土を軍事的に使用する権利をも否認した。交渉が難航するなかで日本では、陸・海・外三省の中堅幹部が互いに連絡して早期開戦を策動し、また東京帝大教授戸水寛人 (とみずひろんど)ら七博士は強硬論を唱え、全国を遊説して開戦世論を盛り上げた。『萬朝報』も開戦論支持に転じたため内村らは退社、幸徳や堺利彦 (さかいとしひこ)は『平民新聞』を創刊して非戦論の孤塁を守った。当初戦争に消極的だった実業界も、戦争切迫の情報で市況が沈滞したため、10月には開戦説に移った。政府は12月末の閣議で開戦準備促進を決め、旅順艦隊出動の報を受けた1904年2月4日の御前会議は対露国交断絶と軍事行動開始を決定し、10日日露両国はそれぞれ宣戦を布告した。

[藤村道生]

戦争の経過

国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川 (じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎 (とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋 (あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清 (これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。

 第一軍(司令官黒木為楨 (ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海 (こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東 (りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞 (へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏 (おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫 (のづみちつら))とともに遼陽 (りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞 (ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典 (のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌 (いわお))を置き、児玉源太郎 (こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞 (かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山 (うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折 (ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝 (けんでん)された橘周太 (たちばなしゅうた)中佐以下2万4000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅 (せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。

 ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河 (さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊 (にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌1905年1月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。

[藤村道生]

反戦運動

日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国の民衆は犠牲を強いられた。幸徳、堺らは1904年3月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張した。また片山潜 (せん)は第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席、ロシア社会民主党のプレハーノフと交歓した。与謝野晶子 (よさのあきこ)は「君死に給ふこと勿 (なか)れ」と題する反戦詩を発表、表面の戦争熱と裏腹に戦死者の増加、生活の窮乏は民衆のうちに厭戦 (えんせん)気分を広げていった。ロシアでは1905年1月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大した。革命の火を消すために講和は絶対的要請となった。

[藤村道生]

講和

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎 (じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太 (からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の9月5日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打 (ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。

[藤村道生]

戦争の影響

戦勝で韓国の保護権を獲得した日本は、第二次日英同盟、桂‐タフト協定で韓国支配の承認を受け、逐次韓国の主権を奪い1910年に併合した。満州でも1906年南満州鉄道株式会社を創立、翌年の日露協約で南満州を勢力範囲に収めた。しかし、アメリカの鉄道資本家ハリマンの提案した満鉄の日米共同管理を拒否したことにより、日本は、門戸開放政策をとるアメリカのアジア政策と衝突することとなった。日本の戦勝はアジア民族運動勃興 (ぼっこう)の契機となったが、朝鮮併合は日本への期待を失わせた。一方アジアへの進出を阻まれたロシアがバルカン政策を強化した結果、英仏露協商により対独包囲陣が成立した。こうして第一次世界大戦の戦略配置ができあがったのである。

[藤村道生]



世界大百科事典

日露戦争
にちろせんそう

1904-05年(明治37-38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。

前史

日清戦争が日本の勝利に終わり,日本が講和条約で遼東半島を獲得すると,ロシアは同盟国フランスとロシアの関心がアジアに向けられていることを期待するドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させた。こうして列強による中国分割競争が開始され,1898年のドイツの膠州湾(こうしゆうわん)租借を契機に,ロシアも旅順,大連を租借して満州の一角に進出した。さらにシベリア鉄道の建設に並行して東支鉄道(東清鉄道)の敷設権を獲得し満州への侵略行動を具体化させ,他方,韓国政府内にも日本に代わって影響力を強めた。日本は朝鮮への経済的進出をはかるためにロシアとの交渉を必要とし,1896年の山県=ロバノフ協定,98年の西=ローゼン協定などを締結した。

 1900年義和団の乱が起こると,ロシアは満州における鉄道利権などの保護を名目に大軍を投入し,事実上,この地域を占領,義和団の乱が終息した後も占領状態を続けた。一方,日本は連合軍の一翼を担って大軍を派遣し,義和団の鎮圧により〈極東の憲兵〉としての有効な軍事力たることを実証した。このいわゆる北清事変以後,日本政府内には,東アジアで安定した国際的地位を確立するためイギリスとの接近をはかろうとする日英同盟論と,ロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論とが台頭した。元老山県有朋や外相小村寿太郎らはロシアへの不信から前者を主張し,他方,元老伊藤博文,井上馨らは現実的な解決策として後者を推進しようとした。これ以後,政府が進める日英交渉が進展し,02年1月日英同盟条約が調印された。日本は,日清戦争後の複雑な極東情勢のなかでイギリスとの同盟関係を成立させることで初めてロシアに対抗する地位を確保することができ,他方イギリスは,日本の軍事力を,中国をはじめ東アジア全域における自国の権益を擁護し,同時にロシアの極東進出に対する抑止力として利用しようとしたのである。

開戦外交

日英同盟の成立によってロシアは満州占領政策を修正し,1902年4月露清条約を締結して,同年10月以降,3期に分けて満州から撤兵することを約した。こうして,一時的な平和が維持できる間に日本は,朝鮮,満州での利権を拡大強化しようとしたが,03年4月の第2次撤兵をロシアが実行しなかったため,日本政府は対露交渉の基本方針を決定することが必要になった。それはまず,清,韓両国の独立と領土保全,両国における商工業上の機会均等の原則を掲げ,ロシアが韓国における日本の経済活動の自由のほか,韓国の改革のため日本の助言と援助,さらに内乱勃発の際における日本の軍隊派遣を認め,他方,日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益と内乱勃発時に満州へのロシアの軍隊派遣を認めるというものであった。このいわゆる満韓交換論を基礎にして,日本は7月以降対露交渉を開始した。10月にロシア側の対案がもたらされたが,その内容は日本の韓国への助言・援助を民政だけに限定し,韓国領土内の軍事上の目的での使用や朝鮮海峡の韓国側沿岸に軍事工事を施すことは認めず,さらに北緯39°以北の韓国領土に中立地帯を設けることなどを提案してきた。こうして韓国における日本の活動や施設を制限する一方で,満州は日本の利益範囲外であるとして,この地域への日本の発言権をいっさい認めようとしなかった。

 これに対し日本の第1次修正案は,韓国については第1次提案とほぼ同じ内容であり,ただ満韓国境の両側に幅50kmの中立地帯を設け,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認め,韓国についてはロシアの特殊利益外とすることを提案した。12月のロシア側の第2次修正案は,第1次対案とあまり変わらず,中立地帯案ももとのままで,満州についてはいっさい言及せずして日本側の発言権を認めない立場を堅持した。それに対し日本は,第2次修正案を提出して日本の対韓援助は行政を改革する助言とし,朝鮮海峡の韓国側沿岸での軍事工事は行わず,中立地帯も設けないこととしたが,翌04年1月のロシア側の回答は,韓国領土内での軍事工事をいっさい認めず,中立地帯案はそのままであった。そして,1月の日本側最終提案は,韓国およびその沿岸はロシアの利益外であることをロシア側が承認し,日本は満州におけるロシアの特殊利益を認めるとする相互的な協約にすることを提案した。そしてロシア側に回答期限を照会したが,ロシアはその期限を明示せず,1月下旬には南満州から鴨緑江(おうりよつこう)に軍隊を集中しているとの情報が日本政府に伝えられた。

 一方,ロシアは1900年義和団の乱を契機に対満州政策を積極化させていたが,02年ころから蔵相ウィッテら穏健派の発言力が後退し,代わって退役近衛軍人A.M.ベゾブラーゾフを中心とするグループが実権を握り,03年4月の第2次撤兵を実行しなかったばかりか,7月以後の日露交渉においても強硬路線をとることになった。8月には極東総督府が設置され,強硬派のE.I.アレクセーエフが総督に就任して極東政策全体を統轄し,対日交渉をも担当するにいたった。一方,ウィッテが蔵相を免職となり閑職に退けられたことは,ロシア政府の主導権が主戦派に移ったことを意味し,日露両国の交渉は妥協点を見いだせぬまま推移した。

 この間,ロシアの第2次満州撤兵不履行を契機に陸海軍や外務省の中堅幹部,東京帝国大学教授らのいわゆる七博士などが対露強硬意見を主張して政府首脳に圧力をかけ(七博士建白事件),8月には対露同志会が結成されて開戦世論を煽(あお)った。他方,幸徳秋水,堺利彦ら社会主義者やキリスト者内村鑑三らは非戦論を唱えた。しかし,10月8日のロシアの第3次撤兵不履行を契機に世論は全面的に主戦論に転じ,《万朝報》を拠点に非戦論を展開してきた幸徳,堺,内村らは退社を余儀なくされ,11月幸徳らは《平民新聞》を創刊して非戦と社会主義の立場から政府批判を続けることになった。

戦局の展開

日本の陸海軍は,1903年12月には開戦準備に着手し,翌年1月には慎重な態度をとってきた元老層も開戦を決意した。2月8日連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し,同日陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始してここに日露戦争の戦端が開かれ,さらに10日日本はロシアに宣戦を布告した。陸軍部隊は韓国領内を北上し,5月鴨緑江を渡った最初の戦闘でロシア軍を敗退させ,また南山の戦でも激戦の末に優位を占めた。6月に満州軍総司令部が編成され,総司令官に大山巌,総参謀長に児玉源太郎を任命し,その下に第1軍から第4軍が統轄されることになった。8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。

 この間,連合艦隊は旅順港口を封鎖してロシア艦隊の活動を抑制していたが,ロシアがバルチック艦隊を東航させたため,それとの決戦に備える必要から旅順の早期占領を要請した。1905年5月対馬海峡沖での日本海海戦で,東郷平八郎が率いる連合艦隊は圧倒的な勝利を収め,戦局全体の帰趨を決めることになった。

戦時体制の強化

日露戦争は軍や財政当局の予想をこえる消耗戦となった。20億円近い戦費は大々的な増税と内外の国債とに依存し,その財政負担と100万人近い兵員の動員と大量の軍需品の調達は国力の限度をこえるものであった。開戦とともに各政党は挙国一致のスローガンの下に,巨額の軍事費と関係諸法案を成立させた。非常特別税と呼ばれた各種増税と4億8000余万円の巨額の内国債を負担するため,各行政機関は勤倹貯蓄を奨励し,納税と国債への応募を勧奨した。さらに各市町村は戦時記念事業を奨励し,植林や開墾事業,耕地整理,養魚場・製糸場の設立など,多様な事業の推進を図るとともに,兵事義会,尚武会,青年団,処女会などによる出征兵士の家族や遺家族の援護,傷病兵の慰問,恤兵金(じゆつぺいきん)の募金活動などを推進した。また学校行事などを通じて戦時下における教師・生徒の心得などが説かれ,国民生活は全面的に戦時体制の下に統制され,総力戦的な様相を呈するにいたった。そして戦争の展開とともに政府への批判は弾圧され,政府の国債政策を批判した《二六新報》が廃刊に追い込まれ,非戦論を展開してきた《平民新聞》が発売禁止になり,05年1月には廃刊を余儀なくされた。開戦後も活動を続けてきた社会主義協会も04年11月には結社禁止となった。

 一方,ロシアは開戦前から都市における労働者の運動が活発化しており,農村でも一揆が頻発していた。社会主義政党を中心とする反体制運動も広がっており,反戦運動も活発に展開されていた。開戦後も,相次ぐ敗報に加えて,戦争にともなう生活困窮と労働者や農民に対する軍事動員は,ロシア民衆の中に不満を鬱積(うつせき)させることになり,1904年12月にはバクーの石油労働者がゼネストを引き起こした。翌05年1月の血の日曜日事件を契機にロシア第一革命が勃発し,皇帝やその側近の強気の戦争継続論にもかかわらず,国内の革命運動を抑圧するためには講和の締結が必至となった。

 また,日本の同盟国イギリスとともに日本の外債募集を引き受けてきたアメリカは,これ以上に日本が勝利することを望まず,他方,ロシアの同盟国フランスや巨額の外債を引き受けてきたドイツもロシアの崩壊を危惧して講和の斡旋にのりだした。ここに,日露両国の背後にあった諸列強は,それぞれの思惑から早期講和に意見が一致することになった。

講和

講和問題について日本は早くからその機会をうかがっていたが,1905年3月の奉天会戦以後,アメリカ大統領T.ローズベルトを通じてロシア側の意向打診にのりだした。ロシア側も5月の日本海海戦の決定的敗北を契機にアメリカ大統領の講和勧告に応じるにいたり,7月日本側全権に外相小村寿太郎,駐米公使高平小五郎が,ロシア側全権にウィッテと駐米大使ローゼンが任命された。アメリカのポーツマスで8月10日から講和会議が開かれ,29日まで十数回の会談が続けられた。日本側が要求した賠償金と領土割譲をロシア側は受け入れず,交渉は難航したが,最終段階でロシア側が譲歩して決着がつけられ,9月5日両国全権の間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。その内容は,ロシアが日本の韓国に対するいっさいの指導権を承認し,旅順,大連の租借権と長春以南の鉄道ならびに付属利権を日本に譲渡すること,さらに北緯50°以南の樺太を割譲し,沿海州とカムチャツカにおける日本の漁業権を認めるというものであった。

講和反対論

この講和問題が具体化したころから日本国内ではさまざまな講和論が盛んになり,各地で集会が開かれ,決議や宣言書が政府あてに送られた。7月には講和問題同志連合会が結成され,中途半端な講和に反対し強硬論を唱えて全国的に運動を起こし,9月に入ると各新聞は講和反対の主張を掲げた。調印の日の9月5日東京の日比谷公園で開催された同志連合会主催の国民大会は講和条約の破棄を決議し,大会参加者の一部は街頭に出て,各所で警官隊と衝突,政府系新聞を襲撃し,内務大臣官邸や警察署,交番,電車,教会などをつぎつぎと焼き打ちした。7日にかけて市民による騒擾(そうじよう)は続き,政府は6日東京市と府下5郡に戒厳令をしき,政府批判の新聞・雑誌を発禁や停刊処分とした(日比谷焼打事件)。このほか講和反対の運動は,20日ごろまで全国各地で大会や演説会を開いて決議や宣言を発し,神戸市や横浜市では民衆が暴動化した。

 日露戦争は日露両国のいずれにとっても大きな犠牲をともなう戦争となったが,いちおう日本の勝利という形で講和にこぎつけたため,戦争の第1の目的であった日本の朝鮮支配は英米両国も含めて国際的な承認を受けることになり,これ以後,朝鮮の植民地化が本格的に推し進められることになった(日韓保護条約)。また,満州におけるロシアの利権が日本に譲渡されることによって,日本の勢力がこの地域にも拡大し,その独占的支配が強化された。そのためこの地域の門戸開放へのアメリカの期待が裏切られることになり,日米両国間の対立関係が顕在化するにいたった。そうした新しい国際情勢のなかで,日本はアジアにおける強国の一員に成り上がることが要請され,軍備の増強を中心に日露戦後経営を推進することになった。また,中国における民族運動や朝鮮の独立運動(義兵闘争,愛国啓蒙運動)が展開され,日露戦争後の東アジアにおける国際情勢はいっそう複雑な要因が加わることになった。
[宇野 俊一]

日露戦後経営

日露戦争後の軍事・外交・経済政策を中心とする最高の国策方針をいう。日露戦争後最初の第22議会から第24議会の第1次西園寺公望内閣,第25議会から第27議会の第2次桂太郎内閣にいたる,いわゆる〈桂園時代〉の前半期を日露戦後経営期と呼ぶことができる。日露戦後経営の基本的な内容は,(1)軍備拡張,(2)満州,朝鮮,台湾,樺太などの植民地経営,(3)財政・外債整理,(4)鉄道国有,製鉄所・電話事業の拡張,治水事業の確立などの産業基盤の育成,(5)地方改良運動,戊申詔書,在郷軍人会,教育改革などを中心とする政治的・イデオロギー的国民統合,の五つに要約できる。

 日露戦後経営の基軸は,日清戦後経営と同様に軍備拡張であった。1907年度から12年にいたる陸軍軍備拡張費は約1億7500万円,海軍のそれは約4億3400万円,両者合計では実に6億0900万円の巨額に達した。これにより陸軍の師団編成は,19師団,平時現員約25万人,戦時兵員約200万人にまで大増員された。海軍の軍拡は陸軍のそれをさらに上回り,主力艦隊をすべて艦齢8年未満の戦艦8,巡洋戦艦8を基幹とする八八艦隊の建艦計画が策定された。この大軍拡の背景には,アメリカ,ソ連との対立および植民地朝鮮,満州における民族的抵抗運動の高まりがあった。しかし,この軍備拡張と植民地支配の強化は,日露戦争後の国家財政にとって大きな負担となった。一方で,日露戦争時の外国からの借金=外債を整理しつつ,他方で軍拡を推し進めていくためには,国力の充実を図らなければならない。かくして鉄道国有,八幡製鉄所の拡張,電信電話の拡張,海運・造船の奨励,治水事業,北海道開拓などの産業基盤の整備・拡充が日露戦争後の重点政策となった。それとともに陸海軍の大拡張は,国民生活に深刻な負担を強いることとなった。とくに農村は大量の基幹労働力を兵士として引き抜かれたため,大きな打撃を受けた。この農村の動揺をしずめ,他方で,日本軍国主義を支える〈良民良兵〉を確保するために,国民の軍事的組織化が急速にすすんだ。在郷軍人会の設立,青年団の奨励と官製化,小学校義務教育の6年制への延長および地方改良運動の推進は,いずれも天皇制国家のもとへ国民を政治的・イデオロギー的に統合する役割を担うものであった。こうして,日露戦後経営は,日本社会の帝国主義的編成替えを完了させる画期となった。
[中村 政則]

ロシアにおける日露戦争

西欧を志向していた近代ロシアにとって,19世紀の日本はほとんど関心をひかない小国であった。政府上層部が日本に着目するようになるのは,日清戦争とそれにつづく,いわゆる三国干渉以降のことであり,民衆の多くは戦争が始まってようやく日本という名を知るにいたった。日本・ロシア両帝国主義の極東での対立が戦争となるが,ロシア内部にはベゾブラーゾフAleksandr Mikhailovich Bezobrazov(1855-?)らの強硬派とウィッテらの穏健派の対立を含みながら,日本軽視という点では共通していた。1904年2月8日,仁川,旅順での日本軍の奇襲攻撃で戦争が始まり,ツァーリは開戦の詔勅で,宣戦布告なしの日本軍の攻撃の背信性を強調し,民衆の戦争協力を訴えたが,民衆には遠い極東の国外における知らない国との戦いであり,その正当性には説得力が乏しかった。当初から日露戦争は近代ロシア史上最も不人気な戦争だった。

 ドイツ,オーストリアとの戦争に備えていたロシア軍部には,極東での戦争に備えた,練りあげた作戦計画もなかった。ロシア側は,配備不十分な兵力で戦争をむかえ,退却しながら時をかせぎ,ヨーロッパ・ロシアからの増援部隊の来着を得て,数的に優勢になってから日本軍に反撃するという基本戦略をたてた。そのため,唯一の輸送手段たる長大,単線のシベリア鉄道での輸送に全力をあげた。しかし,ロシア軍の相つぐ敗報は,国内の不満,政府批判をしだいに高め,とくに05年1月の〈血の日曜日事件〉以後,民心の離反は決定的となった。開戦時から戦争に反対していた社会主義者の民衆への影響力は大きくなった。苦境に立った政府には戦勝が必要だったが,3月にムクデン(瀋陽)で敗れ,バルチック艦隊も壊滅し,その直後の御前会議で国内治安の回復が最重要だとして戦争終結の方針がうちだされた。日露戦争は05年のロシア革命の引金となるとともに,日本に対するロシア人のイメージの多くがつくられた戦争でもあった。
[広瀬 健夫]

[索引語]
日露協商論 日英同盟 満韓交換論 ベゾブラーゾフ,A.M. アレクセーエフ,E.I. 南山の戦 大山巌 児玉源太郎 遼陽の戦 乃木希典 旅順攻略 奉天会戦 バルチック艦隊 日本海海戦 東郷平八郎 日露講和条約 ポーツマス条約 講和問題同志連合会 日比谷焼打事件 日露戦後経営 Bezobrazov


国史大辞典

日露戦争
にちろせんそう
明治三十七年(一九〇四)から翌年にかけて、日本とロシアの間で朝鮮・満洲の支配をめぐって戦われた戦争。

〔開戦過程〕

朝鮮半島を支配することは、日清戦争における日本側の目的であったが、戦争の勝利にもかかわらず、この目的を達成することはできず、戦後はむしろロシアの政治的影響力が朝鮮に拡大され、明治三十一年にはロシアとの間に、朝鮮に関する協定(西・ローゼン協定)を締結せざるをえないような状態となった。反面ロシアはこの年、三国干渉によって日本に放棄させた遼東半島をみずから租借して、その先端の旅順を海軍基地とし、また清国より満洲における鉄道敷設権を獲得して、北満を横断してウラジオストックに至る鉄道、ついでその中間哈爾浜(ハルビン)より南下して旅順に至る南支線の建設に着手した。さらに、三十三年の義和団事件(北清事変)に際しては、鉄道権益の保護などの名目のもとに大軍を投入して満洲を占領、事変後にはその軍事力を背景として、清国に対して駐兵権など満洲支配を進めるような新たな権益を要求する姿勢を示した。このような事態の進行を、朝鮮支配をより困難にするものとみた日本政府は、ロシア政府に抗議するとともに、清国政府にもロシアの要求を拒絶するよう強く働きかけたが、同時に、日本の地位を国際的に安定・強化する方策が求められるようになった。そのためには、ロシアの満洲支配を認める代りに、日本の朝鮮支配を認めさせる(当時「満韓交換論」と呼ばれた)形でロシアと交渉し、新しい日露協約を結ぶことが先決だとする説が、元老伊藤博文らによって唱えられたが、桂太郎首相・小村寿太郎外相らは、日本の国際的地位を強化しなければロシアとの交渉もおぼつかないとみて、まず日英同盟を締結すべきだと主張した。三十四年十一月から十二月にかけて、伊藤はみずからロシアを訪問して交渉を始めたが、この時政府の側でもイギリスとの交渉が進められており、結局、日露交渉は打切られて日英同盟が成立した。それは日本がロシアとの戦争に際してロシアの同盟国フランスの参戦を阻止し、イギリス金融市場での外債募集の可能性を獲得したことを意味した。日英同盟調印二ヵ月後の三十五年四月に、ロシアが清国との間で、満洲から六ヵ月ずつ三期に分けて、一年半で撤兵を完了するという満洲還附条約を結んだことは、日英同盟の効果ともみられた。しかしロシアは、第一期撤兵は実行したものの、第二期期限の三十六年四月には、撤兵を実行しないのみでなく、新たな利権要求を清国につきつけてきた。日本政府は英・米をも誘ってこれに抗議したが、さらに五月からロシアが鴨緑江の森林事業に着手すると、参謀本部などからは朝鮮支配のためにロシアと開戦すべしとの声が高まることとなり、政府も六月二十三日には、元老をも加えた御前会議でロシアとの交渉開始を決定した。八月に提示された日本側の協定案は、「韓国ニ於ケル日本ノ優勢ナル利益」と「満洲ニ於ケル鉄道経営ニ就キ露国ノ特殊ナル利益」を相互に承認することを基礎とし、ロシアに「韓国ニ於ケル改革及善政ノ為メ助言及援助(但シ必要ナル軍事上ノ援助ヲ包含スルコト)ヲ与フルハ日本ノ専権ニ属スルコト」を認めさせようとするものであった。これに対してロシア側の修正案は、満洲におけるロシアの行動に日本が介入する根拠はないとし、また日本の朝鮮に対する軍事的支配に反対して、日本の援助を「民政の改良」だけに限定するとともに、「韓国領土の軍事的使用の禁止」「北緯三十九度以北の韓国領土の中立地帯化」などを要求するものであった。日本側は、韓国国境の両側に五〇キロの幅で中立地帯を設けること、日本は満洲を、ロシアは韓国を利益範囲外と認めることなどの新たな条項を用意して、さきの韓国についての要求を認めさせようとしたが、ロシア側の態度を変えさせることはできず、三十七年一月十二日の御前会議では、ロシアから満足すべき回答が得られない場合には開戦することが決定された。二月五日作戦開始命令が下され、二月八日陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始、海軍は旅順のロシア艦隊を攻撃、翌九日、仁川沖でロシア軍艦二隻を撃沈、ついで十日に正式に宣戦が布告された。

〔韓国支配の進展〕

日本政府はロシアとの開戦の場合には、列強の介入を避けるため清国には中立を勧告するが(二月十二日中立宣言)、韓国は実力を以て支配下におくこととした。ソウルを占領すると早速、二月二十三日に日韓議定書に調印させて、軍事上必要な地点を臨機収用できる権限を獲得、三月十一日には、対露戦用とは別に韓国駐箚軍を組織して日常的支配体制をしき、五月三十一日の閣議では、政治上軍事上において保護の実権を収め、経済上における利権の発展を図るとして、戦争下での植民地化方針を決定、八月二十二日の日韓協約により、日本政府推薦の財政・外交顧問を韓国政府に任用させ、さらに翌三十八年二月には、警務・学部顧問を派遣し、四月には、韓国の郵便・電信・電話事業を日本政府に委託する取極め書が調印されている。この時にはすでに日本政府はロシアとの講和を模索し始めていたが、同時に四月八日の閣議では、適当の時機をみて韓国の外交権を奪い保護国化する方針を決定しており(十一月十七日調印の第二次日韓協約で実現)、この戦争の一環として韓国植民地化の基本体制がつくりあげられていった。

〔戦局の推移〕

戦争は当初ロシア軍が攻勢をとらず、日本軍を迎えうつための準備に終始したため、本格的戦闘は、三十七年五月、海軍の旅順口閉塞作戦につづいて、朝鮮を北上した第一軍の鴨緑江渡河作戦、遼東半島の大連北方に上陸した第二軍の南山の戦から始められている。日本側ははじめ、満洲に兵力を集中してロシア軍主力と決戦することに重点をおき、旅順攻勢を重視していなかったが、ロシアがヨーロッパのバルチック艦隊を極東に回航させるという方針を決定したことが明らかになると、その到着以前に陸からの旅順攻略が要求されるようになり、そのために第三軍が編成された。六月には、第一・第二軍と、その中間に上陸・編成された第四軍とは遼陽付近でのロシア軍主力との決戦をめざして北上し、第三軍は旅順攻略のために遼東半島を南下するという体制が整い、それら全軍を統轄するため満洲軍総司令部が置かれた。しかし九月四日に遼陽を占領したものの、ロシア軍主力に決定的打撃を与えることはできず、またこの間、八月下旬の第一回旅順総攻撃も失敗に終っていた。旅順では三回にわたる総攻撃によって、翌三十八年一月二日ロシア軍を降伏させることができたが、遼陽北方に布陣した日本軍は、最大限の兵力の集中をはかり、沙河の会戦(三十七年十月中旬)、黒溝台の会戦(三十八年一月下旬)でロシア軍の反撃を撃退しつつ、旅順からの第三軍の到着を待って、全面的攻勢に出、三十八年三月十日奉天を占領したが、ここでも包囲作戦には失敗し、ロシア軍主力の後退を許した。しかし兵員・物資の補給、財政などの面で日本軍の戦力は限界に達しており、四月からは政府も軍部も講和条件の検討にはいっている。そして五月二十七―二十八日の日本海海戦で圧倒的勝利を収めた機会に、アメリカ大統領ルーズベルトに講和の斡旋を依頼、八月には講和会議の開催にこぎつけているが、この間、七月には講和対策として樺太を占領、これが最後の作戦となった。この戦争を通じての日本軍の損害は戦死者約八万四〇〇〇名、戦傷者約一四万三〇〇〇名にのぼっている。

〔国内体制〕

この戦争にあたっては、『平民新聞』による幸徳秋水・堺利彦らの社会主義者や、キリスト者内村鑑三らによって、公然たる反戦運動が行われたことが特色となっているが、全体としては、三十六年六月の東京帝国大学七博士の対露強硬意見書の発表、八月の国家主義者たちによる対露同志会の結成などにみられる主戦論が世論をリードし、政党勢力も積極的に増税や軍事予算の成立を支持した。しかし、この戦争が当時の国力にとって、非常に大きな負担となったことは、戦前数年の一般会計規模が二億六〇〇〇万~二億九〇〇〇万円であったのにくらべて、戦争の費用が、陸海軍軍事費一七億四六〇〇万円、各省臨時事件費二億三八〇〇万円、計一九億八四〇〇万円にのぼったことからもうかがうことができる。政府はまず非常特別税の名目で各種租税の増徴や専売事業の拡大などを行なったが、それによって確保できたのは二億円余にすぎず、したがって戦費の大部分は公債に頼らざるを得なかった。そのため地方行政機関を動員し、出征軍人家族への労力奉仕などの援護活動とともに、倹約・貯蓄、国債の消化を目的とするさまざまな試みがなされたが、はじめから戦費を国内のみで調達することは困難と考えられ、政府は開戦直後から日本銀行副総裁高橋是清を英米に派遣し、外債募集にあたらせている。この結果、ロンドン・ニューヨークなどの金融市場で四回にわたり、八億円の外債の募集に成功、これによりようやく戦争の遂行が可能になったといえる。

〔戦争の結果〕

明治三十八年八月十日からアメリカのポーツマス軍港で始められた講和会議は、賠償金の支払いと樺太の割譲をめぐって最後まで紛糾したが、戦力が限界に来ている日本も、国内で革命運動が高まっている(「一九〇五年の革命」)ロシアも、戦争の継続を望まず、結局、南樺太の日本への割譲と無賠償で妥協が成立、九月五日に講和条約が調印された。戦力の実情を知らされていない日本の国民の間には、講和への不満が拡がり、日比谷焼打ち事件などが起された。しかし、この講和条約により日本は、朝鮮の支配をロシアに認めさせるという基本目的を達成したうえに、遼東半島租借権と、旅順―長春間の鉄道に関する権益を獲得している。この成果にもとづき、十一月には第二次日韓協約で外交権を接収して韓国を保護国化し、十二月には、清国に対して、ロシアからの権益移譲のみでなく、安奉線の権益や満鉄並行線禁止などの規定をも含む条約を調印させている。この結果、戦後の国内では、外債元利払いの負担の下で不況にあえぎ、減税要求と植民地支配のための軍備拡張要求とが衝突するという政治状況があらわれたが、国外では、戦ったばかりのロシアと逆に握手して、列強の資本輸出と清国の利権回収要求に対抗しようとする方向がとられ、四十年七月三十日調印の第一次日露協約以来、この協約の改訂が重ねられてゆくことになる。そしてそれは、日本が英仏露の三国協商の側に結びつく基礎となり、第一次世界大戦で連合国側に参戦する条件を生み出すものでもあった。

〔思想的影響〕

この戦争における日本の勝利は、ヨーロッパ列強の支配下にあるインド・東南アジアなどの人々からは、アジア人のヨーロッパに対する初めての勝利とうけとられ、それらの地域の独立運動を力づける役割を果たした。しかし同じことは日本の側では、日本がアジアに対する指導的地位を獲得したことと意識され、日本をアジアの盟主とする思想が広まることになった。また戦争で獲得した在満権益については、「二十万の将兵の血(または十万の英霊)と二十億の国費」の結晶といった表現が慣用化され、さらには天皇の名で戦われた戦争という面からは「明治天皇の遺産」という呼び方さえあらわれた。したがってこの在満権益の永続化と拡大をはかることは、対外政策の自明の前提とされ、その再検討を許さない雰囲気が支配的となった。以後の日本人の思想は、この戦争を肯定するという枠から、容易に抜け出せなくなっている。
→鴨緑江の戦(おうりょっこうのたたかい),→関東軍(かんとうぐん),→黒溝台の戦(こっこうだいのたたかい),→沙河の会戦(さかのかいせん),→西・ローゼン協定(にし・ローゼンきょうてい),→日英同盟(にちえいどうめい),→日露協約(にちろきょうやく),→日韓議定書(にっかんぎていしょ),→日韓協約(にっかんきょうやく),→日本海海戦(にほんかいかいせん),→バルチック艦隊,→日比谷焼打ち事件(ひびややきうちじけん),→奉天の会戦(ほうてんのかいせん),→ポーツマス条約,→満韓交換論(まんかんこうかんろん),→遼陽の戦(りょうようのたたかい),→旅順の戦(りょじゅんのたたかい)
[参考文献]
参謀本部編『(明治卅七八年)日露戦史』、沼田多稼蔵『日露陸戦新史』(『岩波新書』赤七八)、谷寿夫『機密日露戦史』、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』、信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』、古屋哲夫『日露戦争』(『中公新書』一一〇)、宇野俊一『日清・日露』(小学館『日本の歴史』二六)、大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』
(古屋 哲夫)
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日露戦争の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 日露戦争画像
日本大百科全書
藤村道生反戦運動日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国
2. 日露戦争
世界大百科事典
され,日露戦争後の東アジアにおける国際情勢はいっそう複雑な要因が加わることになった。宇野 俊一 日露戦後経営 日露戦争後の軍事・外交・経済政策を中心とする最高の
3. にちろ‐せんそう[‥センサウ]【日露戦争】
日本国語大辞典
明治三七~三八年(一九〇四~〇五)満州・朝鮮の支配権をめぐって争われた日本とロシアとの戦争。同三七年二月宣戦布告。日本は同年八月以降の旅順攻撃、翌年三月の奉天会
4. にちろせんそう【日露戦争】 : 蓋平の戦/(二)
国史大辞典
(二)日露戦争  遼陽(リャオヤン)決戦をめざして前進する奥保鞏大将指揮の第二軍五万五千名の行動を遅滞させる目的で、ロシア軍支隊二万五千名が蓋平により抵抗、約
5. にちろせんそう【日露戦争】 : 近代
国史大辞典
日露戦争〕 日本は挫折したが北清事変解決後もロシアは満洲から撤兵しないうえ、朝鮮と満洲を日露の勢力範囲として妥協しようという満韓交換を拒否した。ロシアの満洲
6. にちろせんそう【日露戦争】 : 黄海海戦/(二)
国史大辞典
(二)日露戦争  明治三十七年八月十日、第三軍に攻囲された旅順軍港のロシア太平洋艦隊はウラジオストックの艦隊と合同するため旅順を脱出した。東郷平八郎中将の率い
7. にちろせんそう【日露戦争】
国史大辞典
』、信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』、古屋哲夫『日露戦争』(『中公新書』一一〇)、宇野俊一『日清・日露』(小学館『日本の歴史』二六)、大江志乃夫『日露
8. にちろせんそう【日露戦争】 : 旅順の戦
国史大辞典
日露戦争〕 最初、海軍が旅順の狭い港口に汽船を沈めてロシア艦隊を閉じこめる作戦を考えており、旅順への陸からの進攻は重視されていなかった。しかし明治三十七年二
9. にっしんにちろせんそう【日清・日露戦争】 : 軍事制度
国史大辞典
日清・日露戦争  明治二十七―二十八年の日清戦争は、近代的軍事制度を採用し、均整のとれた陸海軍を整備していた日本が、全体としては封建的軍備の域を出なかった清国
10. 日露戦争関係図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
11. にちろせんそうじっき【日露戦争実記】
国史大辞典
誌の発行を計画、『(自治機関)公民之友』(明治三十六年一月創刊、三十六年十一月まで発行)を『日露戦争実記』と改題し、開戦三日後の二月二十日に第一編を発行した。体
12. 『日露戦争実記』
日本史年表
1904年〈明治37 甲辰〉 2・10 博文館 『日露戦争実記』 刊( 『(自治機関)公民之友』 改題)。
13. 日露戦争史(年表)
日本大百科全書
1895(明治28)4月 三国干渉起こる1896(明治29)6月 山県‐ロバノフ協定1898(明治31)4月 西‐ローゼン協定1899(明治32)3月 義和団事
14. コレキヨ 小説 高橋是清 第111話 日露戦争が残したもの=板谷敏彦
週刊エコノミスト 2020-21
費で消えることになったのだ。思えば日露戦争開戦前、1903年の国家予算はわずか2億7000万円だったのである。    *     *     *  日露戦争を戦
15. ちゅうかん【于沖漢】(Yú Chōnghàn)
世界人名大辞典
1899:明治32],陸軍士官学校,東京外国語学校で中国語を教えるかたわら,ロシア語を習得.日露戦争に際し,従軍通訳を務める[1903].同郷の袁金鎧の紹介で官
16. ちょうちくくん【張竹君】(Zhāng Zhújūn)
世界人名大辞典
で医学を学び2つの医院を開業するとともに,時局を批評して新思想を鼓吹,女性の自立を提唱した.日露戦争後に上海に移り,育賢女学堂や女子中西医学堂,上海医院を創設.
17. せんざん【馬占山】(Mǎ Zhànshān)
世界人名大辞典
29〕 中国の軍人,抗日運動家.祖籍は河北豊潤.奉天懐徳(現,吉林公主嶺)生まれ,馬賊出身.日露戦争後,政府軍に組み込まれ,黒龍江省騎兵総指揮など黒龍江を中心に
18. 愛国啓蒙運動
日本大百科全書
李氏りし朝鮮末期(1897年、国号を大韓帝国と改称)の救国運動。日露戦争終結後の1905年11月、日本はロシア、アメリカ、イギリスの承認のもとに朝鮮に「保護条約
19. 愛国婦人会
世界大百科事典
創立趣意書は下田歌子が起草。機関誌《愛国婦人》を発行し,〈半衿一かけを節約して愛国婦人に〉と呼びかけ,日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張,慰問袋作り,兵士送迎
20. あいこくふじんかい【愛国婦人会】
国史大辞典
機関誌『愛国婦人』を発行した。奥村は軍国主義を国民に拡めようと全国に遊説して会勢を拡大し、同三十七年日露戦争にあたり会員は一挙に増大して、翌年には四十六万三千に
21. 愛国婦人会
日本史年表
1901年〈明治34 辛丑〉 2・24 奥村五百子ら、 愛国婦人会 を結成(兵士慰問・遺族救護を目的とし、日露戦争で組織拡大)。
22. 愛知(県)画像
日本大百科全書
始まり、まず紡績工場(1885)、熱田兵器製造所あつたへいきせいぞうしょ(1904)ができ、日露戦争に向けて盛んに製造されたが、第一次世界大戦中には外国からの注
23. あいはら-ぶんしろう【相原文四郎】
日本人名大辞典
1871*−1926 明治-大正時代の軍人。明治3年12月23日生まれ。28年海軍にはいり,日清(にっしん)・日露戦争で出征。大正8年海軍主計総監。大正15年9
24. あいば-つねぞう【相羽恒三】
日本人名大辞典
?−1918 明治時代の軍人。日露戦争の日本海海戦(明治38年)で駆逐艦漣(さざなみ)の艦長をつとめ,ロシア艦隊司令官ロジェストベンスキー中将が重傷を負ってウラ
25. 青木周蔵自伝 363ページ
東洋文庫
那須高林村青木開墾に私立青木小学校を創立十二月十五日、長女ハソナ、ハッツフェルト伯爵と結婚式・二月、日露戦争はじまる 三九(一九〇六) 四一(一九〇八) 四二(
26. あおきのりずみ【青木宣純】
国史大辞典
北清事変にも出征したが、作戦に関係せず、占領した天津の民政長官に任ぜられた。このような経歴によって、日露戦争には、大佐で出征し、満洲軍総司令部付となっていたが、
27. 赤い笑い
日本大百科全書
ロシアの作家アンドレーエフの短編小説。1904年刊。日露戦争時の戦場を舞台として、血みどろの曠野こうやの心象、幻のような風景を描く。焦げつける太陽の炎熱、流され
28. あかいわらい[あかいわらひ]【赤い笑い】
日本国語大辞典
{ロシア}Krasnyj smjeh )ロシアの作家アンドレーエフの短編小説。一九〇四年発表。日露戦争に題材をとり、戦争の残虐性、非人間性をえぐり出し、戦争に対
29. あかご の =腕(うで)を[=手(て)を]=捻(ねじ)る[=ひねる]
日本国語大辞典
)五人七人は、赤子の腕を捻ぢるも同然」*明治大正見聞史〔1926〕〈生方敏郎〉政府の恐露病と日露戦争・一〇「さういふ愛国的志士はまだ学生でこそあれ私にとって赤子
30. 赤子(あかご)の手(て)を=捻(ひね)る〔=捩(ねじ)る〕
故事俗信ことわざ大辞典
句(1890~91)「赤子の手をねじる」明治大正見聞史(1926)〈生方敏郎〉政府の恐露病と日露戦争・一〇「さういふ愛国的志士はまだ学生でこそあれ私にとって赤子
31. 明石元二郎画像
日本大百科全書
清国しんこくなどに派遣される。1901年(明治34)フランス公使館付き、1902年ロシア公使館付き。日露戦争中は西ヨーロッパからロシア国内の革命派を援助する謀略
32. 明石元二郎
世界大百科事典
卒業。日清戦争に近衛師団参謀として従軍。参謀本部員として,フランスやロシアの公使館付となり,日露戦争中にはストックホルムにあってロシア国内の諜報活動,攪乱工作に
33. あかしもとじろう【明石元二郎】
国史大辞典
三十三年義和団事件に際しては清国に派遣された。三十四年フランス公使館付、三十五年ロシア公使館付となり、日露戦争勃発に際してストックホルムに移り、謀報活動に従いロ
34. あかし-もとじろう【明石元二郎】
日本人名大辞典
1864−1919 明治-大正時代の軍人。元治(げんじ)元年8月1日生まれ。日露戦争ではロシア公使館付としてストックホルムでロシアに対する諜報(ちょうほう)・謀
35. 明石元二郎[文献目録]
日本人物文献目録
2巻2冊』小森徳治『明石将軍』西川虎次郎『類聚伝記大日本史 14』-『探偵将軍明石元二郎 日露戦争諜報秘史』綿貫六助『明石元二郎大将遺稿 落花流水』外務省調査
36. あがり【上】[方言]
日本方言大辞典
)1931~1938 埼玉県北葛飾郡258埼玉県幸手方言集(上野勇)1933 熊本県天草島「日露戦争あがりいが六十銭になったりゃあ」038全国方言資料(日本放送
37. あきやまさだすけ【秋山定輔】
国史大辞典
を逮捕した。秋山は同三十五年と翌年の二度にわたって無所属で衆議院議員に立候補して当選したが、日露戦争下に桂内閣から秋山はロシアのスパイであるというフレーム=アッ
38. 秋山真之画像
日本大百科全書
1897年アメリカ留学、1899年イギリス駐在、1900年(明治33)に帰国、常備艦隊参謀となる。日露戦争では、連合艦隊兼第一艦隊参謀として、黄海こうかい海戦、
39. 秋山真之
世界大百科事典
1896年軍令部諜報課課員となり,アメリカ,イギリスに駐在し,のち軍務局第1課課員,海軍大学校教官を歴任。日露戦争では連合艦隊作戦参謀として各海戦の作戦を指揮し
40. あきやまさねゆき【秋山真之】
国史大辞典
アメリカ海軍の実状を子細に体得した。三十三年八月日本に帰り、常備艦隊少佐参謀を経て、海軍大学校教官となった。日露戦争中は連合艦隊の作戦参謀として、心血と脳漿とを
41. あきやま-さねゆき【秋山真之】画像
日本人名大辞典
秋山好古(よしふる)の弟。日清(にっしん)戦争に従軍後,アメリカに留学。帰国後,常備艦隊参謀となる。日露戦争では連合艦隊作戦参謀として海戦の作戦を指揮。日本海海
42. あきやま-ていすけ【秋山定輔】画像
日本人名大辞典
慶応4年7月7日生まれ。明治26年「二六新報」を創刊,大衆紙として成功させる。35年衆議院議員となったが,日露戦争の際ロシアのスパイの嫌疑をうけ辞職。大正4年4
43. 秋山好古画像
日本大百科全書
業。騎兵少尉に任官。1887~1891年フランスに留学。日清にっしん戦争には騎兵第一大隊長、日露戦争には騎兵第一旅団長として従軍。1916年(大正5)朝鮮駐剳軍
44. あきやまよしふる【秋山好古】
国史大辞典
やがて清国駐屯軍参謀長、ついで駐屯軍司令官となった。三十六年四月、騎兵第一旅団長に転補、この職で日露戦争に出征した。旅団は第二軍に属して、ミシチェンコ中将の大騎
45. あきやま-よしふる【秋山好古】
日本人名大辞典
令官,教育総監などを歴任。大正5年大将。騎兵を育成して戦術・訓練を研究し,日清(にっしん)・日露戦争で名をあげた。昭和5年11月4日死去。72歳。伊予(いよ)(
46. あげ【上】[方言]
日本方言大辞典
愛媛県温泉郡「正月あげから よう来よったが」038全国方言資料(日本放送協会)1966~67 高知県幡多郡「日露戦争あげに(直後に)」038全国方言資料(日本放
47. あさかわ-かんいち【朝河貫一】
日本人名大辞典
生まれ。東京専門学校(現早大)卒業後,アメリカのエール大大学院にまなび,昭和12年同大教授。日露戦争の原因を説明した「日露衝突」,日本の封建制度をはじめて紹介し
48. あさかわ-としやす【浅川敏靖】
日本人名大辞典
1860−1933 明治-大正時代の軍人。万延元年4月生まれ。日清(にっしん)・日露戦争に従軍し,近衛(このえ)騎兵連隊長,陸軍省軍務局騎兵課長,馬政局長官など
49. あさだ-かん【浅田敢】
日本人名大辞典
?−1904 明治時代の軍人。日露戦争に陸軍歩兵中隊長として出征し,南山の激戦で重傷を負いながら隊を指揮。野戦病院で明治37年5月27日死去。没後少佐に昇進。石
50. あさだのぶおき【浅田信興】
国史大辞典
中佐で屯田兵参謀長であったが、屯田兵は臨時師団として東京まで来ただけで、ついに戦場の土を踏まなかった。日露戦争では、近衛歩兵第一旅団長として出征し、師団長長谷川
「日露戦争」の情報だけではなく、「日露戦争」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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太平洋戦争(国史大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
昭和十六年(一九四一)十二月八日から二十年八月十五日まで、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間にたたかわれた戦争。国際的に見れば第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては昭和六年の満洲事変以来の対中国侵略戦争の延長である
日米交渉(国史大辞典)
日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し
ナチス(世界大百科事典)
ドイツの政党。正称は国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)。国家社会主義ドイツ労働者党とも訳す。ナチスという呼称は,国民社会主義者Nationalsozialistの略称ナチNaziの複数形である。
第一次世界大戦(国史大辞典・世界大百科事典)
一九一四年(大正三)七月二十八日オーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まり、一八年十一月十一日ドイツの降伏によって終った戦争。欧州大戦ともいう。発端は、ボスニアの首都サラエボ(現ユーゴスラビア領)で、一四年六月二十八日に突発したセルビアの一青年に
第二次世界大戦(国史大辞典・日本国語大辞典)
第一次世界大戦につぐ二度目の世界戦争。日本・ドイツ・イタリアなど枢軸諸国の侵略によって始まり、これに対抗して結成された反ファシズム連合との間で一九四五年(昭和二十)まで戦われた戦争。地域的にはアジア・太平洋地域の戦争と、ヨーロッパ・北アフリカ
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日独伊三国同盟(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1940年(昭和15)9月27日、ベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの間の軍事同盟。三国同盟締結交渉は、最初、1937年に結ばれた日独伊三国防共協定を強化しようという目的で、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の末期に始まったが、1939年
満州事変(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]▲前史満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
サンフランシスコ講和条約(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル
盧溝橋事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
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