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  11. 北条義時

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条義時』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典

北条義時
ほうじょうよしとき
一一六三 - 一二二四
鎌倉時代前期の第二代執権(一二〇五―二四)。相模守・陸奥守・右京権大夫を歴任、また駿河・伊豆・若狭・越後・大隅・信濃の守護となる。長寛元年(一一六三)北条時政の第二子として生まれる。母は伊東入道女。幼名は江馬四郎・江馬小四郎。のちに徳宗と号す。治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵に父時政・兄宗時とともに参加、石橋山の戦で宗時が戦死したため、嫡子の地位を得た。以後父とともに頼朝の側近としてその鎌倉入りに協力。養和元年(一一八一)四月、頼朝の祗候衆となり、頼朝の最も信頼する少壮御家人の一人となった。元暦元年(一一八四)、源範頼の平家追討軍に従い、翌年正月、豊後国に渡り、葦屋浦合戦に武功を立てた。文治五年(一一八九)七月、奥州征伐軍に加わり、常に頼朝の側近に侍し、軍略・軍政的資質をみせ始めた。ついで建久元年(一一九〇)十一月の頼朝上洛に際し、先陣の随兵に加わったが、そのころから義時に対する頼朝の信頼は特に厚くなり、「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時をもって家臣の最となす」と称賛した。頼朝の死後、宿老御家人十三名の合議制が生まれたとき、義時は三十七歳の若さでこれに加わった。建仁三年(一二〇三)、比企氏の乱に際し、義時は時政の命により、将軍源頼家の子一幡の館に拠った比企一族を破り、一幡を殺した。またこの事件に関連して、仁田忠常一族が尼将軍政子の住む大御所を襲ったとき、義時は御家人たちを指揮して、彼らを討ち取った。ついで将軍頼家の追放・幽閉、実朝将軍の実現、元久元年(一二〇四)七月の頼家殺害など、義時の主導とみられている。この時期、北条氏による有力御家人排除の動きは積極化したが、元久二年六月に畠山重忠追討が行われ、この時義時は父時政と意見が対立し、畠山擁護の態度を示したものの、結局は時政の命に従って追討の大軍を率いて鎌倉を進発、武蔵国二俣川に重忠を討滅した。しかしこの畠山氏追討の原因となった重忠への嫌疑が無実であることが明白となり、かえってその裏に牧の方(時政の後妻)やその女婿平賀朝雅の陰謀があり、時政もこれに加担している情勢がみえてきた。義時はまず重忠讒言の張本として稲毛重成・榛谷重朝を誅し、また時政に対する警戒を強めたが、やがて牧の方らによる将軍実朝謀殺計画が発覚、義時は政子と協力して実朝を自邸に迎え、多くの御家人を集めて公然と時政に対抗したため、この陰謀は未然に防止され、時政は失脚・引退した。義時は政所別当の地位につき、幕政の最高責任者として権力を集中するに至ったが、そのころから彼の地位は執権と呼ばれるようになり、彼は次第に独裁的政治を展開し、執権政治の基礎を固める方向に進む。義時は執権体制強化の障害となる有力御家人に対する抑圧策を積極化し、承元三年(一二〇九)に諸国守護人の終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、これは諸豪族御家人らの反対により断念した。しかしこの諸豪族抑圧策がやがて義時と和田義盛との正面衝突を招き、建保元年(一二一三)の和田氏の乱となる。義時の挑発によって起ったこの事件は、約二日間の激戦ののち和田氏の壊滅によって義時の勝利に終り、それまで義盛が占めていた侍所別当の地位も義時の手中に入った。こうして幕府内部での義時の独裁的権力はいよいよ強化されるが、彼の官位も次第に昇進し、乱の三年後の建保四年には従四位下に叙し、翌年五月右京権大夫に任じ、十二月には陸奥守を兼ねた。この官位は従五位下遠江守の時政を越え、鎌倉武士としては異例の高さであった。承久元年(一二一九)正月、鶴岡八幡宮社頭で将軍実朝暗殺事件が起ったが、この時実朝の御剣奉持の役にあった義時が途中でにわかに病気となり、その役を中原仲章に譲り、小町の自邸に帰ったため難を逃れた。このため義時が未然に暗殺計画を知っていたとの憶測も生まれ、さらには爾後の収拾策などとも関連して、暗殺事件そのものが義時の陰謀であったとの解釈が有力である。しかしこれには異論もあり、真相は必ずしも明らかでない。この実朝の死により源氏の正統が絶えたため、鎌倉武家社会内部では動揺をかくせず、将軍の地位をねらおうとする動きもみられた。源氏の一族阿野時元が駿河に挙兵したのもその一つであるが、義時は金窪行親に命じてこれを討伐させた。また義時は源氏の血縁者で将軍職継承の策動をする可能性のあるものを一掃しようとつとめたらしく、翌承久二年四月には、京都で頼家の遺子の一人、禅暁を殺している。このとき義時は、皇族将軍を迎えることを考え、その実現のために策動したが成功せず、結局九条家から二歳の幼児三寅(のちの藤原頼経)を迎えて鎌倉の主とすることになった。三寅が幼少の間は政子が代わって政治を聴き、義時が将軍家のことを奉行するという体制をとった。しかしそのころ京都の後鳥羽院政権と鎌倉武家政権との間の緊張が高まり、相互の関係は尖鋭化しつつあった。そのため義時は、承久元年二月に、伊賀光季を京都守護として特派し、京都の治安維持と院当局の監視にあたらせていたが、さらに大江親広をも京都守護として上洛させた。一方後鳥羽上皇のもとでは倒幕計画が着々と進められ、ついに承久三年五月、上皇は畿内近国の武士や諸寺の僧兵を召集するとともに、伊賀光季を討ち、北条義時追討の宣旨を発して、討幕の行動をおこした。いわゆる承久の乱である。生涯で最大の難局に直面した義時は、御家人たちの向背を最も心配したが、三浦義村以下有力御家人のほとんどが幕府への忠誠を誓い、幕府側は一致団結して反撃態勢を整えることができた。義時は嫡子泰時・第二子朝時、弟の時房を大将軍とする十九万の大軍を、東海・東山・北陸の三道から京都に進めた。五月二十一日に鎌倉を発した幕府軍は、尾張(木曾)川・宇治川などで京方軍の防禦線を突破し、早くも六月十五日には京都を制圧してしまった。幕府軍の完勝であり、義時は乱の主謀たる後鳥羽上皇以下に対しきわめて厳しい態度をとり、乱後の処置にも完璧を期した。この勝利により義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定したのみならず、義時の主導する鎌倉政権が、公家政権に対し支配的位置を保つという関係が確立した。そして公家政権の監視を主たる目的とする幕府の出先機関として、六波羅探題が置かれたのもこのときである。こうして新たに展開された執権義時の政治は、全国的政権としての新しい方向をとることとなる。義時はこの新たな政治目的のための諸計画を実現すべく努力したであろうが、その志を果たすことなく、元仁元年(一二二四)六月十三日落飾出家し、同日六十二年の生涯を終えた。『諸家系図纂』には「号安養寺」とある。法華堂(神奈川県鎌倉市西御門)の東ノ山に葬られたというが現在は不詳。→執権政治(しっけんせいじ)
[参考文献]
『大日本史料』五ノ二 元仁元年六月十三日条、安田元久『北条義時』(『人物叢書』八二)
(安田 元久)


日本大百科全書(ニッポニカ)

北条義時
ほうじょうよしとき
[1163―1224]

鎌倉幕府第2代執権。時政 (ときまさ)の子。北条小四郎 (こしろう)、江間 (えま)四郎などと称した。相模守 (さがみのかみ)、右京権大夫 (うきょうごんのだいぶ)、陸奥 (むつ)守を歴任。源頼朝 (よりとも)の挙兵以来、父に従って活躍。頼家 (よりいえ)のときも、元老重臣による合議制の一員として重要な政務にあずかった。1203年(建仁3)比企 (ひき)氏が滅び、父時政が幕府の実権を握ると、翌04年(元久1)義時は相模守に任ぜられた。05年、実朝 (さねとも)を廃そうと謀った父を、姉政子 (まさこ)とともに幕府から追放した。幕府内における北条氏勢力の確立をねらう義時は、あなどりがたい勢力をもつ侍所別当 (さむらいどころべっとう)和田義盛 (よしもり)一族を13年(建保1)に滅ぼし、政所 (まんどころ)と侍所の別当を兼ねて政務を独占した。ここに北条氏の幕府指導者としての地位がほぼ確立した。19年(承久1)には将軍実朝を暗殺して源家の血統を断ち、京都から九条道家 (くじょうみちいえ)の子頼経 (よりつね)を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握した。後鳥羽 (ごとば)上皇の討幕計画を察知した義時は、21年子泰時 (やすとき)を大将として軍を上洛 (じょうらく)させ京都を占領、上皇を隠岐 (おき)に流し、泰時らを六波羅 (ろくはら)に留め置いた(承久 (じょうきゅう)の乱)。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人 (ごけにん)武士を地頭 (じとう)として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大した。事変後3年にして病を得、貞応 (じょうおう)3年6月13日出家、同日急死した。

[田辺久子]



世界大百科事典

北条義時
ほうじょうよしとき
1163-1224(長寛1-元仁1)

鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助け,相模の石橋山の戦などに加わった。84年(元暦1)から85年(文治1)源範頼(のりより)に従い平氏討伐のため西国に出陣,豊後国などで転戦した。99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられている。頼家や比企氏と北条氏との対立は激化し,1203年(建仁3)ついに時政は比企氏を滅ぼし,将軍頼家を廃し,その弟実朝を将軍に擁立,執権(政所別当)となって,幕府の実権を握った。このとき義時は,政子の命を受け,比企一族が頼家の子一幡を擁して小御所にこもったのを攻撃し,のち一幡を殺害した。05年(元久2)継母の牧の方は時政に畠山重忠を讒言(ざんげん)し,時政は義時に命じて重忠を討たせた。義時はやむをえず武蔵の二股川で重忠を討ったものの,重忠の無実を信じており,彼には不本意な事件であった。この年,時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍にしようとした。義時は政子の命を受け,時政邸にいた実朝を自邸に移して保護し,さらに時政を出家させ,伊豆に幽閉した(牧氏の変)。義時は父にかわって執権となり,幕府政治の実権を握った。

 1213年(建保1)には侍所別当和田義盛を滅ぼし,政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになり,いよいよ権勢を強めた。19年(承久1)実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁(くぎよう)に殺され,公暁も三浦義村に殺され,源氏の正統は絶えた。従来公暁をそそのかして実朝を殺させたのは義時だとされてきたが,その確証はない。義時や政子がこれまで一貫して実朝を支持してきたことからみて,ありえないことであり,公暁をそそのかしたのは三浦義村だとする説も有力である。実朝が殺されたので,幕府は京都の摂関家から九条道家の子頼経を迎えて鎌倉の主とした。しかし実際に鎌倉の主として御家人を統率したのは政子であり,幕府官僚機構の頂点にある執権義時はこれを助けた。21年後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ,承久の乱がおこった。義時は子の泰時,弟の時房らを大将軍とする大軍を送り,京都を占領し,上皇を隠岐に流し,泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ,朝廷との交渉,京都の警備,西国の政務などに当たらせた。また上皇方についた貴族・武士の所領3000余ヵ所を没収し,戦功のあった武士をそれらの土地の地頭に任命した。乱の結果,幕府の勢力は西国にも伸び,その支配はいっそう徹底するようになった。乱後3年たって,24年義時は急死した。病死とされているが,死因には不審がもたれ,近習に刺殺されたとか,妻伊賀氏に毒殺されたとかの説もある。
[上横手 雅敬]

[索引語]
北条時政 北条政子 畠山重忠 牧氏の変 公暁 承久の乱 六波羅探題
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1. 北条義時
日本大百科全書
鎌倉幕府第2代執権。時政ときまさの子。北条小四郎こしろう、江間えま四郎などと称した。相模守さがみのかみ、右京権大夫うきょうごんのだいぶ、陸奥むつ守を歴任。源頼朝
2. 北条義時
世界大百科事典
1163-1224(長寛1-元仁1) 鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助
3. ほうじょう‐よしとき【北条義時】
日本国語大辞典
鎌倉幕府第二代執権。時政の子。通称江間小四郎。頼朝挙兵のときから父と共に各地に転戦して戦功を挙げ、頼朝の信任が厚かった。時政失脚後、執権となり、さらに和田義盛を
4. ほうじょうよしとき【北条義時】画像
国史大辞典
れ、ついに承久三年五月、上皇は畿内近国の武士や諸寺の僧兵を召集するとともに、伊賀光季を討ち、北条義時追討の宣旨を発して、討幕の行動をおこした。いわゆる承久の乱で
5. 北条義時
日本史年表
1205年〈元久2 乙丑⑦〉 閏7・20 北条義時 ,執権となる(吾)。 1213年〈建保元(12・6) 癸酉⑨〉 5・5 北条義時 ,侍所別当を兼任(吾)。
6. ほうじょう-よしとき【北条義時】
日本人名大辞典
1163−1224 鎌倉時代の武将。長寛元年生まれ。北条時政の子。父とともに源頼朝の挙兵にしたがう。元久2年2代執権となり,建暦(けんりゃく)3年和田義盛をほろ
7. 北条義時[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:2件 『北条義時』安田元久『北条義時と政子 承久記』村上光徳『北条義時の墓』藤田明
8. 北條義時建温室 (見出し語:北條義時)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 702ページ
9. 北條義時爲執權 (見出し語:北條義時)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 681ページ
10. 北条義時花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 北条義時論(著作ID:4385767)
新日本古典籍データベース
ほうじょうよしときろん 伝記 
12. 愛甲氏
世界大百科事典
野巻狩では,頼家に鹿を射止めさせる功をあげた。さらに1205年(元久2)の畠山重忠の乱では,北条義時の軍に属して重忠を射止め愛甲の名を高めたが,そのわずか8年後
13. あかはしし【赤橋氏】
国史大辞典
桓武平氏。北条氏の一族。北条義時の子重時は、鶴岡八幡宮の前、若宮大路の東角の邸に住んだので、鶴岡の池にかけられた赤橋にちなみ、重時の子長時から赤橋と号したと考
14. あさまじんじゃ【浅間神社】
国史大辞典
に思われたり、さらには行者も集まってさまざまな要素が加わった。一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この
15. あさまじんじゃ【浅間神社】 : 浅間神社/(一)
国史大辞典
に思われたり、さらには行者も集まってさまざまな要素が加わった。一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この
16. あさまじんじゃ【浅間神社】 : 浅間神社/(三)
国史大辞典
祖神社がある。これら三社の合祀は、元仁元年(一二二四)駿河国総社と富士新宮が焼失した際に執権北条義時が再建したときという。江戸時代には徳川氏の崇敬厚く、神領は三
17. 足利直義
世界大百科事典
たかもしれない。幕府発足にあたって制定された建武式目は,政権所在地としての鎌倉への強い執着や北条義時・泰時を範とする政治理念など,直義政道の色が濃いが,後醍醐天
18. あしかがただよし【足利直義】
日本架空伝承人名事典
たかもしれない。幕府発足にあたって制定された建武式目は、政権所在地としての鎌倉への強い執着や北条義時・泰時を範とする政治理念など、直義政道の色が濃いが、後醍醐天
19. あしがらのせき【足柄関】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
詠じており(明日香井集)、この頃には関も廃絶していたらしい。しかし同年の承久の乱では、五月に北条義時追討の宣旨が出ると幕府内に「所詮固
20. あそのしょう【阿蘇庄】熊本県:阿蘇郡
日本歴史地名大系
ずるものであった。阿蘇家文書にみられる北条時政の預所代の補任、大宮司補任と朔幣上分稲の指示、北条義時の公郷南郷所当米寄進、社務等新儀停止の成敗などは、地頭職の権
21. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
管領しようと企てていると報じた。将軍源実朝が公暁に殺された日の十数日後のことである。尼将軍北条政子は執権北条義時に命じて金窪行親以下の御家人を駿河に遣わした。同
22. あの-ときもと【阿野時元】
日本人名大辞典
うけて関東を支配することをくわだてる。兵を駿河(するが)(静岡県)にあつめたが,北条政子が執権北条義時(よしとき)に命じて派遣した御家人金窪行親(かなくぼ-ゆき
23. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
入って海東氏を名乗っている(「元弘三年内蔵寮領目録」書陵部蔵)。富田庄は承元五年(一二一一)北条義時が地頭として入っている(円覚寺文書)。建久八年、富田庄の西に
24. ありたのしょう【在田庄】兵庫県:加西市
日本歴史地名大系
返還したという。頼盛は領家職に復帰したものと思われる。貞応元年(一二二二)と推定される五月二日の北条義時書状(朽木文書)によれば、以前は頼盛の外孫平保教(藤原保
25. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
る浦があった。淡路中央部東海岸の要地で現津名港の前身とみられる浦があった志筑庄は、承久の乱後北条義時の弟時房が地頭となった。時房は乱後伊勢国でも一六ヵ所の所領を
26. あんどう-ただいえ【安東忠家】
日本人名大辞典
?−1221 鎌倉時代の武士。駿河(するが)(静岡県)の御家人。北条義時につかえ,和田氏の乱の誘因となった泉親衡(ちかひら)の乱では,奉行人として謀反人追捕(つ
27. アーネスト・サトウ 神道論 50ページ
東洋文庫
表している。ゆえに天皇の行いに疑問を持つことなく、絶対服従することが義務となる。中世において、北条義時、北条泰時、足利尊氏などがこの義務(「道」)をはずれ、天皇
28. いえのこ【家子】
国史大辞典
が家子と呼ばれた。源頼朝が幕府を開くと、近国の有力御家人をも源氏の一族に準じて家子侍と定め、北条義時はその専一であったという(『吾妻鏡』)。本来、家子は従者では
29. いからし-こぶんじ【五十嵐小豊治】
日本人名大辞典
いからしのほ)(新潟県下田(しただ)村)の豪族。源頼朝,ついで北条氏につかえる。和田氏の乱で北条義時のもとでたたかい,建暦(けんりゃく)3年5月戦死。通称は小豊
30. 伊賀氏
日本大百科全書
して上洛したが、1221年承久の乱で後鳥羽上皇方の軍に攻められ自刃。朝光の女むすめは幕府執権北条義時の後室となったが、義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執
31. 伊賀氏
世界大百科事典
は政所執事に就任。しかし21年光季は後鳥羽上皇軍の襲撃を受け戦死。24年(元仁1)光宗は妹(北条義時後室)と謀り,一条実雅を将軍に,北条政村を執権に擁立しようと
32. いがし【伊賀氏】画像
国史大辞典
ら子孫伊賀氏を称した。朝光、或いは二階堂行政の子ともいい、鎌倉幕府の宿老として活躍。女は執権北条義時の室で元久二年(一二〇五)政村を出産。子の光季は承久三年(一
33. 伊賀氏 系図[図版]画像
国史大辞典
光政 兼光 光綱 光泰 頼泰 光貞 光資 光長 朝行 盛光 光政 光隆 光重 貞長 女子 (北条義時室) (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
34. 伊賀氏の変
世界大百科事典
1224年(元仁1)鎌倉幕府の実権争奪をめぐっておこった執権北条氏の内紛。この年6月執権北条義時の死後,義時の後妻伊賀氏(伊賀守藤原朝光女)は,兄弟の政所執事伊
35. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
元仁元年(一二二四)、鎌倉幕府の執権北条義時の急死後、執権の後任、ひいては幕府の実権の争奪をめぐって起った紛争。この年六月、義時の急死後、義時の後妻であった伊
36. いが-ともみつの-むすめ【伊賀朝光女】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の女性。北条義時(よしとき)の後妻となり,朝時(ともとき),重時,政村(まさむら)らを生む。貞応(じょうおう)3年(1224)義時の死後,兄の伊
37. 伊賀光季
日本大百科全書
鎌倉幕府宿老の伊賀守いがのかみ藤原朝光ともみつの長子、母は幕府吏僚二階堂行政の女むすめ。幕府執権北条義時の後室伊賀方の実兄。義時の義兄として幕府政治で重きをなし
38. 伊賀光季
世界大百科事典
?-1221(承久3) 鎌倉前期の武将,官僚。伊賀守藤原朝光の長子。光宗,北条義時室の兄。早くから幕府に重用され,将軍源実朝横死(1219年1月)の翌月上洛し,
39. いがみつすえ【伊賀光季】
国史大辞典
兵衛尉、左衛門尉、検非違使、従五位下。伊賀守藤原朝光の長子。母は二階堂行政女。光宗の兄。妹は北条義時室、政村母。幕府の宿老朝光の長子として、かつ北条氏縁戚の御家
40. いがみつすえていあと【伊賀光季邸跡】京都市:下京区/開智学区/蓮池町地図
日本歴史地名大系
高辻子面は土門にて小門也」と記される。光季は伊賀守藤原朝光の長男で左衛門尉。その妹は二代執権北条義時の妻となり政村を産む。光季は建保七年(一二一九)二月、京都守
41. 伊賀光宗
日本大百科全書
つの子。承久じょうきゅうの乱(1221)勃発ぼっぱつ当時の京都守護伊賀光季みつすえの弟。妹は北条義時よしときの後妻。北条氏との関係から重用され、1219年(承久
42. 伊賀光宗
世界大百科事典
早くから幕府に重用され,1218年(建保6)侍所所司に,19年政所執事に就任。24年(元仁1)北条義時の急死後,義時後室である妹とともに,一条実雅を将軍に,北条
43. いがみつむね【伊賀光宗】画像
国史大辞典
年(一一七八)の生まれ。二郎。左衛門尉、式部丞、従五位下。父は伊賀守藤原朝光、兄は光季、妹は北条義時室、政村母。北条氏との姻戚関係から早くより重用され、ことに祭
44. いが-みつむね【伊賀光宗】
日本人名大辞典
さ)の娘。承久(じょうきゅう)元年政所(まんどころ)執事。貞応(じょうおう)3年(1224)北条義時の急死後,その継室の妹とはかり,妹の娘婿藤原実雅(さねまさ)
45. いけだごう【池田郷】大阪府:和泉市/池田下村
日本歴史地名大系
の結び付き、利害の一致のうえに立庄されたことが推測される。なお貞応二年(一二二三)三月一六日北条義時は高野山大塔修補料として下池田郷を寄進しているが(高野春秋)
46. 伊豆国
世界大百科事典
朝の横死と相次ぐ中で,沼津の阿野全成父子,仁田氏の没落等伊豆の武士の興亡もみられた。この間,北条義時は伊豆の武士を確実に統制し,以来北条得宗(とくそう)が伊豆国
47. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
なっていた(吾妻鏡)。源平争乱期の伊豆出身者の活躍は目ざましく、頼朝は弟範頼の指揮下にあった北条義時・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美助茂・天野遠景・新田忠常らに、軍
48. いずみのしょう【泉庄】福井県:大野市
日本歴史地名大系
書)にも「越前国小山泉庄事、地頭義時朝臣可遣代官之由令下知候了」とあり、小山・泉両庄がともに北条義時を地頭としていたことがわかる。小山庄はこの頃すでに安楽寿院領
49. いなばのくに【因幡国】鳥取県
日本歴史地名大系
同氏とは対照的に、佐治郷の郷司職を相伝した開発領主佐治氏は、建暦三年(一二一三)五月和田義盛の乱の際北条義時方について勲功を立てたことにより、郷司職を幕府から佐
50. いわだてむら【岩館村】青森県:南津軽郡/平賀町
日本歴史地名大系
庶流のみの史料が残る。承久四年(一二二二)三月一五日の北条義時下知状(斎藤文書)に「津軽平賀郡内平賀郷」とあり、平賀郷の初見である。翌貞応二年(一二二三)八月六
「北条義時」の情報だけではなく、「北条義時」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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北条義時と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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梶原景時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一二〇〇 鎌倉時代前期の武将。相模国住人五郎景清の子。通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義仲追討をはじめ、平家追討に功があった。文治元年(一一八五)屋島攻撃の際、源義経と逆櫓の策を争い
大庭景親(世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書)
平安時代末期の武士。通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家に臣従した。1180年5月の源頼政挙兵時には京都にあって平家軍に属し,東下後の同年8月源頼朝が挙兵すると,平家方の総大将として石橋山でこれを破った
源義仲(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一五四-八四 平安時代後期の武将。木曾義仲・木曾冠者・旭将軍と称される。久寿元年(一一五四)に生まれる。父は春宮帯刀長源義賢、母は遊女と伝える。寿永二年(一一八三)の入洛以前は根本資料を欠き、延慶本・盛衰記・長門本など語り系の『平家物語』によらざるを
源頼家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一八二-一二〇四 鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は
北条義時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一六三-一二二四 鎌倉時代前期の第二代執権(一二〇五―二四)。相模守・陸奥守・右京権大夫を歴任、また駿河・伊豆・若狭・越後・大隅・信濃の守護となる。長寛元年(一一六三)北条時政の第二子として生まれる。母は伊東入道女。幼名は江馬四郎・江馬小四郎
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