1. 北条義時
日本大百科全書
鎌倉幕府第2代執権。時政ときまさの子。北条小四郎こしろう、江間えま四郎などと称した。相模守さがみのかみ、右京権大夫うきょうごんのだいぶ、陸奥むつ守を歴任。源頼朝
2. 北条義時
世界大百科事典
1163-1224(長寛1-元仁1) 鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助
3. ほうじょう‐よしとき【北条義時】
日本国語大辞典
鎌倉幕府第二代執権。時政の子。通称江間小四郎。頼朝挙兵のときから父と共に各地に転戦して戦功を挙げ、頼朝の信任が厚かった。時政失脚後、執権となり、さらに和田義盛を
4. ほうじょうよしとき【北条義時】画像
国史大辞典
れ、ついに承久三年五月、上皇は畿内近国の武士や諸寺の僧兵を召集するとともに、伊賀光季を討ち、北条義時追討の宣旨を発して、討幕の行動をおこした。いわゆる承久の乱で
5. 北条義時
日本史年表
1205年〈元久2 乙丑⑦〉 閏7・20 北条義時 ,執権となる(吾)。 1213年〈建保元(12・6) 癸酉⑨〉 5・5 北条義時 ,侍所別当を兼任(吾)。
6. ほうじょう-よしとき【北条義時】
日本人名大辞典
1163−1224 鎌倉時代の武将。長寛元年生まれ。北条時政の子。父とともに源頼朝の挙兵にしたがう。元久2年2代執権となり,建暦(けんりゃく)3年和田義盛をほろ
7. 北条義時[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:2件 『北条義時』安田元久『北条義時と政子 承久記』村上光徳『北条義時の墓』藤田明
8. 北條義時建二温室一 (見出し語:北條義時)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 702ページ
9. 北條義時爲二執權一 (見出し語:北條義時)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 681ページ
10. 北条義時花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
11. 北条義時論(著作ID:4385767)
新日本古典籍データベース
ほうじょうよしときろん 伝記
12. 愛甲氏
世界大百科事典
野巻狩では,頼家に鹿を射止めさせる功をあげた。さらに1205年(元久2)の畠山重忠の乱では,北条義時の軍に属して重忠を射止め愛甲の名を高めたが,そのわずか8年後
13. あかはしし【赤橋氏】
国史大辞典
桓武平氏。北条氏の一族。北条義時の子重時は、鶴岡八幡宮の前、若宮大路の東角の邸に住んだので、鶴岡の池にかけられた赤橋にちなみ、重時の子長時から赤橋と号したと考
14. あさまじんじゃ【浅間神社】
国史大辞典
に思われたり、さらには行者も集まってさまざまな要素が加わった。一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この
15. あさまじんじゃ【浅間神社】 : 浅間神社/(一)
国史大辞典
に思われたり、さらには行者も集まってさまざまな要素が加わった。一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この
16. あさまじんじゃ【浅間神社】 : 浅間神社/(三)
国史大辞典
祖神社がある。これら三社の合祀は、元仁元年(一二二四)駿河国総社と富士新宮が焼失した際に執権北条義時が再建したときという。江戸時代には徳川氏の崇敬厚く、神領は三
17. 足利直義
世界大百科事典
たかもしれない。幕府発足にあたって制定された建武式目は,政権所在地としての鎌倉への強い執着や北条義時・泰時を範とする政治理念など,直義政道の色が濃いが,後醍醐天
18. あしかがただよし【足利直義】
日本架空伝承人名事典
たかもしれない。幕府発足にあたって制定された建武式目は、政権所在地としての鎌倉への強い執着や北条義時・泰時を範とする政治理念など、直義政道の色が濃いが、後醍醐天
19. あしがらのせき【足柄関】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
詠じており(明日香井集)、この頃には関も廃絶していたらしい。しかし同年の承久の乱では、五月に北条義時追討の宣旨が出ると幕府内に「所詮固
20. あそのしょう【阿蘇庄】熊本県:阿蘇郡
日本歴史地名大系
ずるものであった。阿蘇家文書にみられる北条時政の預所代の補任、大宮司補任と朔幣上分稲の指示、北条義時の公郷南郷所当米寄進、社務等新儀停止の成敗などは、地頭職の権
21. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
管領しようと企てていると報じた。将軍源実朝が公暁に殺された日の十数日後のことである。尼将軍北条政子は執権北条義時に命じて金窪行親以下の御家人を駿河に遣わした。同
22. あの-ときもと【阿野時元】
日本人名大辞典
うけて関東を支配することをくわだてる。兵を駿河(するが)(静岡県)にあつめたが,北条政子が執権北条義時(よしとき)に命じて派遣した御家人金窪行親(かなくぼ-ゆき
23. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
入って海東氏を名乗っている(「元弘三年内蔵寮領目録」書陵部蔵)。富田庄は承元五年(一二一一)北条義時が地頭として入っている(円覚寺文書)。建久八年、富田庄の西に
24. ありたのしょう【在田庄】兵庫県:加西市
日本歴史地名大系
返還したという。頼盛は領家職に復帰したものと思われる。貞応元年(一二二二)と推定される五月二日の北条義時書状(朽木文書)によれば、以前は頼盛の外孫平保教(藤原保
25. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
る浦があった。淡路中央部東海岸の要地で現津名港の前身とみられる浦があった志筑庄は、承久の乱後北条義時の弟時房が地頭となった。時房は乱後伊勢国でも一六ヵ所の所領を
26. あんどう-ただいえ【安東忠家】
日本人名大辞典
?−1221 鎌倉時代の武士。駿河(するが)(静岡県)の御家人。北条義時につかえ,和田氏の乱の誘因となった泉親衡(ちかひら)の乱では,奉行人として謀反人追捕(つ
27. アーネスト・サトウ 神道論 50ページ
東洋文庫
表している。ゆえに天皇の行いに疑問を持つことなく、絶対服従することが義務となる。中世において、北条義時、北条泰時、足利尊氏などがこの義務(「道」)をはずれ、天皇
28. いえのこ【家子】
国史大辞典
が家子と呼ばれた。源頼朝が幕府を開くと、近国の有力御家人をも源氏の一族に準じて家子侍と定め、北条義時はその専一であったという(『吾妻鏡』)。本来、家子は従者では
29. いからし-こぶんじ【五十嵐小豊治】
日本人名大辞典
いからしのほ)(新潟県下田(しただ)村)の豪族。源頼朝,ついで北条氏につかえる。和田氏の乱で北条義時のもとでたたかい,建暦(けんりゃく)3年5月戦死。通称は小豊
30. 伊賀氏
日本大百科全書
して上洛したが、1221年承久の乱で後鳥羽上皇方の軍に攻められ自刃。朝光の女むすめは幕府執権北条義時の後室となったが、義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執
31. 伊賀氏
世界大百科事典
は政所執事に就任。しかし21年光季は後鳥羽上皇軍の襲撃を受け戦死。24年(元仁1)光宗は妹(北条義時後室)と謀り,一条実雅を将軍に,北条政村を執権に擁立しようと
32. いがし【伊賀氏】画像
国史大辞典
ら子孫伊賀氏を称した。朝光、或いは二階堂行政の子ともいい、鎌倉幕府の宿老として活躍。女は執権北条義時の室で元久二年(一二〇五)政村を出産。子の光季は承久三年(一
33. 伊賀氏 系図[図版]画像
国史大辞典
光政 兼光 光綱 光泰 頼泰 光貞 光資 光長 朝行 盛光 光政 光隆 光重 貞長 女子 (北条義時室) (c)Yoshikawa kobunkan Inc.
34. 伊賀氏の変
世界大百科事典
1224年(元仁1)鎌倉幕府の実権争奪をめぐっておこった執権北条氏の内紛。この年6月執権北条義時の死後,義時の後妻伊賀氏(伊賀守藤原朝光女)は,兄弟の政所執事伊
35. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
元仁元年(一二二四)、鎌倉幕府の執権北条義時の急死後、執権の後任、ひいては幕府の実権の争奪をめぐって起った紛争。この年六月、義時の急死後、義時の後妻であった伊
36. いが-ともみつの-むすめ【伊賀朝光女】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の女性。北条義時(よしとき)の後妻となり,朝時(ともとき),重時,政村(まさむら)らを生む。貞応(じょうおう)3年(1224)義時の死後,兄の伊
37. 伊賀光季
日本大百科全書
鎌倉幕府宿老の伊賀守いがのかみ藤原朝光ともみつの長子、母は幕府吏僚二階堂行政の女むすめ。幕府執権北条義時の後室伊賀方の実兄。義時の義兄として幕府政治で重きをなし
38. 伊賀光季
世界大百科事典
?-1221(承久3) 鎌倉前期の武将,官僚。伊賀守藤原朝光の長子。光宗,北条義時室の兄。早くから幕府に重用され,将軍源実朝横死(1219年1月)の翌月上洛し,
39. いがみつすえ【伊賀光季】
国史大辞典
兵衛尉、左衛門尉、検非違使、従五位下。伊賀守藤原朝光の長子。母は二階堂行政女。光宗の兄。妹は北条義時室、政村母。幕府の宿老朝光の長子として、かつ北条氏縁戚の御家
40. いがみつすえていあと【伊賀光季邸跡】京都市:下京区/開智学区/蓮池町地図
日本歴史地名大系
高辻子面は土門にて小門也」と記される。光季は伊賀守藤原朝光の長男で左衛門尉。その妹は二代執権北条義時の妻となり政村を産む。光季は建保七年(一二一九)二月、京都守
41. 伊賀光宗
日本大百科全書
つの子。承久じょうきゅうの乱(1221)勃発ぼっぱつ当時の京都守護伊賀光季みつすえの弟。妹は北条義時よしときの後妻。北条氏との関係から重用され、1219年(承久
42. 伊賀光宗
世界大百科事典
早くから幕府に重用され,1218年(建保6)侍所所司に,19年政所執事に就任。24年(元仁1)北条義時の急死後,義時後室である妹とともに,一条実雅を将軍に,北条
43. いがみつむね【伊賀光宗】画像
国史大辞典
年(一一七八)の生まれ。二郎。左衛門尉、式部丞、従五位下。父は伊賀守藤原朝光、兄は光季、妹は北条義時室、政村母。北条氏との姻戚関係から早くより重用され、ことに祭
44. いが-みつむね【伊賀光宗】
日本人名大辞典
さ)の娘。承久(じょうきゅう)元年政所(まんどころ)執事。貞応(じょうおう)3年(1224)北条義時の急死後,その継室の妹とはかり,妹の娘婿藤原実雅(さねまさ)
45. いけだごう【池田郷】大阪府:和泉市/池田下村
日本歴史地名大系
の結び付き、利害の一致のうえに立庄されたことが推測される。なお貞応二年(一二二三)三月一六日北条義時は高野山大塔修補料として下池田郷を寄進しているが(高野春秋)
46. 伊豆国
世界大百科事典
朝の横死と相次ぐ中で,沼津の阿野全成父子,仁田氏の没落等伊豆の武士の興亡もみられた。この間,北条義時は伊豆の武士を確実に統制し,以来北条得宗(とくそう)が伊豆国
47. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
なっていた(吾妻鏡)。源平争乱期の伊豆出身者の活躍は目ざましく、頼朝は弟範頼の指揮下にあった北条義時・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美助茂・天野遠景・新田忠常らに、軍
48. いずみのしょう【泉庄】福井県:大野市
日本歴史地名大系
書)にも「越前国小山泉庄事、地頭義時朝臣可遣代官之由令下知候了」とあり、小山・泉両庄がともに北条義時を地頭としていたことがわかる。小山庄はこの頃すでに安楽寿院領
49. いなばのくに【因幡国】鳥取県
日本歴史地名大系
同氏とは対照的に、佐治郷の郷司職を相伝した開発領主佐治氏は、建暦三年(一二一三)五月和田義盛の乱の際北条義時方について勲功を立てたことにより、郷司職を幕府から佐
50. いわだてむら【岩館村】青森県:南津軽郡/平賀町
日本歴史地名大系
庶流のみの史料が残る。承久四年(一二二二)三月一五日の北条義時下知状(斎藤文書)に「津軽平賀郡内平賀郷」とあり、平賀郷の初見である。翌貞応二年(一二二三)八月六