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  11. 源頼家

源頼家

ジャパンナレッジで閲覧できる『源頼家』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典

源頼家
みなもとのよりいえ
一一八二 - 一二〇四
鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は諸将に命じて若宮大路の段葛を築造させたという。頼朝の嫡子として武技に優れた青年武将として成長し、建久八年(一一九七)に従五位上左近衛少将に叙任した。正治元年(一一九九)正月、父の死後家督を継ぎ、鎌倉殿の地位を得、朝廷からは頼朝の遺領継承を認める宣旨を与えられるとともに、左近衛中将に転じ、翌年には従三位左衛門督となる。建仁二年(一二〇二)正月、正三位、同七月従二位征夷大将軍。鎌倉殿継承直後、北条氏によって訴訟の親裁を停止され、幕政の実権を北条時政以下十三名の宿老会議に奪われた。その後小笠原長経・比企時員・中野能成以下近侍五人を重用し、彼らの特別待遇を下知したが、さらに梶原景時事件の際はこの股肱の重臣をみすてて族滅に追いやり、また御家人所領のうち五百町を越える分を収公しようと計画したことなどを考えあわせると、彼は幕初以来の大豪族を抑圧しようとの姿勢を持ったものと思われる。安達景盛の妾を奪い、景盛追討を謀って政子に諫められたとの乱行の逸話を残すが、これも有力御家人排斥のあらわれともいえる。また境相論に際し絵図面に線を引き、「広狭は運による」といったとの話も残り、近習以外の御家人を遠ざけ、蹴鞠に熱中したとも伝えられるが、これは実権を失った頼家の欲求不満の結果の所業ともとれるものの、その態度は実際には御家人の信望を裏切るものであった。能員の女若狭局との間に一幡が生まれ、比企氏が将軍外戚の地位に立ったため、時政がこれを警戒し、建仁三年八月、頼家の急病に際し、頼家死後に一幡と、頼朝の第二子千幡(実朝)とに諸国地頭職を分譲する案(権力の分轄)を出し、両者の対立を激化させた。その年の九月、比企一族は北条氏に攻められ、一幡とともに族滅したが、このことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に告知し、忠常は時政によって誅殺された。孤立した頼家は出家落飾を強いられ、同月二十九日に伊豆修禅寺(静岡県田方郡修善寺町)に幽閉されたが、翌元久元年(一二〇四)七月十八日、北条氏の討手により殺された。二十三歳。墓所は修禅寺境内の指月ケ丘にある。法名は法華院殿金吾大禅閤。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ八 元久元年七月十八日条
(安田 元久)


日本大百科全書(ニッポニカ)

源頼家
みなもとのよりいえ
[1182―1204]

鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝 (よりとも)の長子。母は北条政子 (ほうじょうまさこ)。幼名万寿 (まんじゅ)、十万 (じゅうまん)。1199年(正治1)父頼朝の死後家督を継ぎ、1202年(建仁2)将軍に就任した。頼家は、妻の父である有力御家人 (ごけにん)比企能員 (ひきよしかず)を登用して、頼朝死後の幕府の体制を立て直そうとしたが、比企氏の勢力が強大となることを恐れた北条氏は、頼家の母政子と結んで、北条時政 (ときまさ)、大江広元 (おおえのひろもと)、梶原景時 (かじわらかげとき)、和田義盛 (わだよしもり)ら13人の有力御家人の合議制によって政治を進めることにし、頼家の独裁を抑えようとした。その後、有力御家人間の主導権をめぐる権力闘争が激化し、北条氏が着々と勢力を伸張するなかで、頼家の将軍としての実権はしだいに有名無実化していった。そこで頼家は比企氏と結んで権力の回復を意図したが、かえって有力御家人の離反を招く結果となった。1203年8月、北条氏は頼家が病気となったのを口実として権限を奪い、総地頭職 (そうじとうしき)・総守護職を頼家の子一幡 (いちまん)と弟の千幡 (せんまん)(実朝 (さねとも))に分割支配させようとした。頼家は比企氏と図って北条氏を排除しようとしたが、逆に比企氏は誅伐 (ちゅうばつ)され、この計画に加わっていたことを理由に頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺 (しゅぜんじ)に幽閉され、翌1204年(元久1)7月18日、北条氏による刺客によって殺された。墓は静岡県伊豆市修禅寺門前にある。

[瀬野精一郎]



世界大百科事典

源頼家
みなもとのよりいえ
1182-1204(寿永1-元久1)

鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。1199年(正治1)父の死後17歳で家督を継ぎ,1202年(建仁2)征夷大将軍。北条氏のはからいで有力御家人13人による合議制がしかれたため独裁することができず,また03年には66ヵ国地頭職および惣守護職を子の一幡(いちまん)と弟の千幡(後の実朝)へ分譲決定を余儀なくされた。同年9月舅比企能員(ひきよしかず)と謀って北条氏討伐を企てたが失敗し,比企氏は滅び頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,翌年7月18日同寺で刺殺された。

 頼家は幼少より才気煥発で独断専行が多く,そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったといわれる。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり,使者,手兵,遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放,討滅されたのも,彼が頼家に最も近い側近で,後見でもあったためといわれる。景時没後も頼家は近習だけを重んじ,彼らを実名で呼び捨てて親密さを示し,一時は近習を通さなければ諸人の申し出は受け付けないと宣言したほどである。このような頼家に対し,北条氏は弟実朝の擁立を図り,それを果たした。幽閉中,頼家は近習の参入を懇願したがついに許されなかった。一説では近習の一人中野能成が北条氏のスパイであったともいう。

 修禅寺幽閉後の頼家を題材とした戯曲に岡本綺堂作《修禅寺物語》がある。
[飯田 悠紀子]

[索引語]
梶原景時


新版 日本架空伝承人名事典

源頼家
みなもとのよりいえ
1182‐1204(寿永1‐元久1)
 鎌倉幕府第二代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。一一九九年(正治一)父の死後一七歳で家督を継ぎ、一二〇二年(建仁二)征夷大将軍。北条氏のはからいで有力御家人一三人による合議制がしかれたため独裁することができず、また〇三年には六六ヵ国地頭職および惣守護職を子の一幡いちまんと弟の千幡(後の実朝)へ分譲決定を余儀なくされた。同年九月舅比企能員ひきよしかずと謀って北条氏討伐を企てたが失敗し、比企氏は滅び頼家は伊豆修禅寺に幽閉、翌年七月一八日同寺で刺殺された。頼家は幼少より才気煥発で独断専行が多く、そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったという。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり、使者、手兵、遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放、討滅されたのも、彼が頼家に最も近い側近で、後見でもあったためといわれる。景時没後も頼家は近習だけを重んじ、彼らを実名で呼び捨てて親密さを示し、一時は近習を通さなければ諸人の申し出は受け付けないと宣言したほどである。このような頼家に対し、北条氏は弟実朝の擁立を図り、それを果たした。幽閉中、頼家は近習の参入を懇願したがついに許されなかった。一説では近習の一人中野能成が北条氏のスパイであったともいう。頼家を題材とした戯曲に岡本綺堂作『修禅寺物語』がある。
[飯田 悠紀子]
頼家のはたは笹と三ツうろこ
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):礼‐3
刊行/開き:1765年(明和2)(開き)
江戸期、端午の節供に立てる幟には、父方と母方の紋を両方染めぬく慣習があった。頼家の幟は、源氏の笹竜胆ささりんどう紋とともに、母政子の北条氏の三鱗紋がつけられたことだろうという想像。のち北条氏討伐に失敗、殺される運命であるとは、前句に「おしひ事かなおしひ事かな」。
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1. 源頼家
日本大百科全書
鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝よりともの長子。母は北条政子ほうじょうまさこ。幼名万寿まんじゅ、十万じゅうまん。1199年(正治1)父頼朝の死後家督を継ぎ、1202年
2. 源頼家
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1182-1204(寿永1-元久1) 鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。1199年(正治1)父の死後17歳で家督を継ぎ,1202年(建仁2)征夷大
3. みなもと‐の‐よりいえ【源頼家】
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〔一〕平安時代の歌人。清和源氏。頼光の子。備中・越中・筑前守を歴任。従四位下。和歌六人党の一人。「後拾遺集」以下の勅撰集に九首入集。生没年未詳。〔二〕鎌倉幕府二
4. みなもとのよりいえ【源頼家】画像
国史大辞典
一一八二―一二〇四 鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十
5. 源頼家
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1200年〈正治2 庚申②〉 5・12 源頼家 ,念仏を禁じ,念仏僧の袈裟を焼く(吾)。 1202年〈建仁2 壬戌⑩〉 7・23 源頼家 を征夷大将軍に補任(
6. みなもとのよりいえ【源頼家】
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鎌倉幕府第二代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。一一九九年(正治一)父の死後一七歳で家督を継ぎ、一二〇二年(建仁二)征夷大将軍。北条氏のはからいで有力御家人一三
7. 源賴家建建仁寺 (見出し語:源賴家)
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8. 源賴家爲征夷大將軍 (見出し語:源賴家)
古事類苑
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10. みなもとの-よりいえ【源頼家(2)】
日本人名大辞典
1182−1204 鎌倉幕府2代将軍。在職1202-03。寿永元年8月12日生まれ。源頼朝の長男。母は北条政子。正治(しょうじ)元年(1199)家督をつぐが,北
11. 源頼家花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
12. 源頼家鞠始(著作ID:1745353)
新日本古典籍データベース
みなもとのよりいえまりはじめ 浄瑠璃 
13. 源頼家にこたふる文(著作ID:4380388)
新日本古典籍データベース
みなもとよりいえにこたうるふみ 文覚(もんがく) 
14. 平政子誡源賴家 (見出し語:平政子)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 170ページ
15. 文覺上源賴家書 (見出し語:文覺)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 222ページ
16. 文覺上源賴家書 (見出し語:文覺)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 234ページ
17. 愛甲氏
世界大百科事典
季隆は弓の名人として重用された。季隆は射手として幕府の重要な儀式に参加するとともに,2代将軍源頼家幼少時代の弓の師でもあり,曾我兄弟の仇討があったことで知られる
18. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
。この後も藍沢原での狩は行われ、「吾妻鏡」によれば、正治二年(一二〇〇)閏二月八日、二代将軍源頼家が「伊豆国藍沢原」で狩猟を行い、嘉禎三年(一二三七)七月二五日
19. あい‐ながや[あひ‥]【相長屋】
日本国語大辞典
*俳諧・信徳十百韻〔1675〕「相長屋非番の武士の集りに 百ものがたりいさぎよかりき」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「ハテ夫(そ)れが相(あイ)
20. あお・つ[あふつ]【煽】
日本国語大辞典
起こすかのように、物がばたばたする。*雑俳・銀土器〔1716~36〕「風にゆらゆらあふつ暖簾」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「百間に余る高塀、屏
21. あか ぬ
日本国語大辞典
*浄瑠璃・役行者大峯桜〔1751〕二「愚図愚図と明かぬ事云ふ手間で、板お神酒でも出せ出せ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「まだまだと明かぬ評定聞
22. あき【飽・厭】
日本国語大辞典
あまだれの、石を穿てることを思ひ出で」(2)十分みちたりること。また、興味を失うこと。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「長々お世話になった御近所の
23. あき‐じろ【空城・明城】
日本国語大辞典
31〕五「国府の台の合戦には、此城の者共、残らず、下総へ行て、明城にて置きければ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「我々東国へ向ひし跡此坂本は明(
24. あきつ‐くに【秋津国】
日本国語大辞典
0頃〕三〇「島のほかも波をさまれるあきつくにに道ある君の恵みをぞ知る〈藤原為相〉」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「踏(ふみ)塊(かため)たる秋津
25. あき‐や【空家・空屋・明家】
日本国語大辞典
詫人に似合たる宿なれば」*俳諧・曠野〔1689〕二・初春「立臼に若草見たる明屋哉〈亀助〉」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「明家同然の坂本の城。責
26. あけ た 儘(まま)なる雑言(ぞうごん)
日本国語大辞典
言いたい放題の口をきくこと。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「四方を睨でつっ立たり。ヤア明た儘(ママ)なる佐々木が雑言(ザウゴン)。討とめて手柄に
27. 開けた儘なる雑言
故事俗信ことわざ大辞典
言いたい放題に口をきく。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)九「四方を睨でつっ立たり。ヤア明た儘(ママ)なる佐々木が雑言(ザウゴン)。討とめて手柄にせん
28. あさいなよしひで【朝比奈義秀】
国史大辞典
よくしたという。現在、鎌倉市と横浜市の境にある朝比奈切通は、義秀が一夜で切り開いたという伝説や将軍源頼家が相模国小坪の浜(逗子市)に遊んだとき、義秀は三匹の鮫を
29. 朝比奈義秀
世界大百科事典
。安房国朝夷(あさい)郡で育ち,朝比奈三郎と称す。膂力(りよりよく)無双で水泳にも長じ,将軍源頼家の前でサメ3尾を手捕りにしてみせたという。1213年(建保1)
30. あさひな-よしひで【朝比奈義秀】
日本人名大辞典
建暦(けんりゃく)3年(1213)の和田氏の乱で北条氏に敗れ,安房にのがれたという。水泳にすぐれ,将軍源頼家(よりいえ)の前で鎌倉の海にはいりサメ3匹を素手で捕
31. あさひなよしひで【朝比奈義秀】
日本架空伝承人名事典
。安房国朝夷(あさい)郡で育ち、朝比奈三郎と称す。膂力(りょりょく)無双で水泳にも長じ、将軍源頼家の前でサメ三尾を手捕りにしてみせたという。一二一三年(建保一)
32. あさりごう【浅利郷】山梨県:東八代郡/豊富村/浅利村
日本歴史地名大系
元年六月二九日条)などと記されるが、遠矢の名手として「平家物語」巻一一に登場、勇婦坂額を将軍源頼家から賜っている(「吾妻鏡」前掲条)。墓所は大鳥居の大福寺にあり
33. あさり-よいち【浅利与一】
日本人名大辞典
また城資盛(じょう-すけもり)を攻めたときにはその叔母で勇婦といわれた板額(はんがく)を捕らえ,のちに将軍源頼家の許しをえて妻とした。承久(じょうきゅう)3年死
34. あざ が 倒(こ)け込(こ)む
日本国語大辞典
めくりカルタで、思いがけなく強い有利な札のあざが自分の手にころげ込む。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕六「雑兵組の頭となし、物の具させよと土民が手柄
35. あざが倒け込む
故事俗信ことわざ大辞典
めくりカルタで、思いがけなく強い運、有利なことが自分にころげ込んでくる。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)六「雑兵組の頭となし、物の具させよと土民が手
36. あしかが‐よう[‥ヤウ]【足利様】
日本国語大辞典
一「かのこのむかばきくくりさげ、あしかがやうのそめたづな、むちに取そへくりかけし」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「素袍袴も足利様(アシカガヤウ)
37. あしわけ‐ぶね【葦分舟】
日本国語大辞典
・まつら長者〔1661〕四「あしわけ舟にさをさして、はらにはしほやの夕けふりたつ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕五「直には行ぬ蘆分船(アシわけぶね
38. あすかいまさつね【飛鳥井雅経】
国史大辞典
で文治五年(一一八九)伊豆に配流され、兄宗長も解官されたが、雅経は鎌倉に在って、蹴鞠を好んだ源頼家のもとで厚遇され、大江広元の女を妻とした。建久八年(一一九七)
39. あすかい-まさつね【飛鳥井雅経】
日本人名大辞典
飛鳥井家の祖。蹴鞠(けまり)にすぐれる。父は源義経にくみし流罪となるが,雅経は蹴鞠をこのむ将軍源頼家(よりいえ)に厚遇された。のち後鳥羽天皇の近習となり,従三位
40. あだち-もりなが【安達盛長】
日本人名大辞典
頼朝の伊豆(いず)配流のときからの側近で,上野(こうずけ)奉行人,三河守護を歴任した。頼朝の死後出家するが,源頼家が将軍につき,重臣合議制ができると重臣のひとり
41. あと‐ぞなえ[‥ぞなへ]【後備】
日本国語大辞典
品・三「御出陣にをひては、御跡備(アトソナヘ)をくろめ申べき覚悟にて、所望申処に」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「佐々木高綱三浦の助御乗物の前後
42. あと の 月(つき)の富(とみ)の札(ふだ)を買(か)うよう
日本国語大辞典
(先月すでに当否の決まってしまった富くじを買うようなものの意)ばかばかしい、むだなことのたとえ。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「何ぼかはいがらし
43. 後の月の富の札を買うよう
故事俗信ことわざ大辞典
買うようだ。やっても手遅れでかいのないこと、無駄なこと、ばかばかしいことのたとえ。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)七「何ぼかはいがらしゃっても、首の
44. あと へ 寄(よ)る
日本国語大辞典
(腹の皮が後へ寄るの意から)空腹になる。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「水辛(みづから)や梅干で酒がいけるものかいの。そしてきつう跡へ寄った」
45. あの・あののしょう【阿野・阿野庄】静岡県:沼津市/旧駿東郡地区
日本歴史地名大系
に応じて東下、のち当地に住して阿野全成と名乗った。全成は建仁三年(一二〇三)謀反の嫌疑で将軍源頼家に討たれた。全成の子阿野冠者時元も同じく陰謀のかどで、建保七年
46. あのぜんじょう【阿野全成】
国史大辞典
北条時政の女を娶り、その間に時元をもうけた。建仁三年(一二〇三)五月謀叛の噂が鎌倉に聞え、将軍源頼家は武田信光に命じて捕えさせて常陸に流した。同六月二十三日八田
47. 阿野全成
日本史年表
1203年〈建仁3 癸亥〉 5・19 源頼家,源頼朝の弟 阿野全成 を謀反の疑いで捕える(吾)。 1203年〈建仁3 癸亥〉 5・25 頼家,阿野全成を常陸国
48. あぶら【油】[方言]
日本方言大辞典
(宮良当壮)1930(2)追従ついしょう。おべっか。 大阪※116浪花聞書 1820頃浄瑠璃源頼家源実朝鎌倉三代記七「口先でちょっぽ草津から取寄せましたと油半分
49. あぶら【油・脂・膏】
日本国語大辞典
だてること。おせじ。へつらい。追従(ついしょう)。→あぶらを言う・あぶらを掛ける。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「口先でちょっぽ草津から取寄まし
50. あぶら‐はんぶん【油半分】
日本国語大辞典
〔名〕(形動)うそ半分。口前うまく、おせじ半分に並べ立てること。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「やいのと念比(ねんごろ)ぶり口先でちょっぽ草津か
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山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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