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  11. 源義仲

源義仲

ジャパンナレッジで閲覧できる『源義仲』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

源義仲
みなもとのよしなか
一一五四 - 八四
平安時代後期の武将。木曾義仲・木曾冠者・旭将軍と称される。久寿元年(一一五四)に生まれる。父は春宮帯刀長源義賢、母は遊女と伝える。寿永二年(一一八三)の入洛以前は根本資料を欠き、延慶本・盛衰記・長門本など語り系の『平家物語』によらざるをえないところ多く、生年にも異伝がある。久寿二年八月、父義賢が武蔵大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)で討たれたため、幼児の義仲は信濃国木曾に逃れ、乳母の夫中原兼遠の許で成人した。治承四年(一一八〇)四月、以仁王の令旨が届けられると義仲は、信濃国の武士に回状を廻して九月に挙兵、平家方人小笠原頼直を越後国に走らせ、父の地盤であった上野国に進出したが、源頼朝勢力との衝突を避けて信濃国に帰った。翌養和元年(一一八一)六月、越後国の城長茂(資永・助職とも伝える)を千曲川畔の横田河原(長野市篠ノ井横田)に破り、九月には義仲追討に下向した平通盛らの軍を越前国水津(すいづ、福井県敦賀市)で破り、北陸道をほぼ平定する。二年にわたる西国の飢饉を脱した寿永二年四月、平家は維盛・通盛ら十万の大軍を北陸道に派遣するが、源行家の去就と絡んで頼朝は義仲と対立、関東勢は上野国から信濃国に侵入する。平家との決戦をひかえた義仲は、嫡子清水冠者義高を鎌倉に送って頼朝と和睦、五月に平家の大軍を越中国倶利加羅谷(富山県小矢部市石坂)で破り、七月に叡山大衆との提携を実現、行家とともに入京し、平家追討・洛中警護の院宣を受けた。後白河法皇は義仲を伊予守に任ずるが、頼朝を勲功第一として上洛を促して義仲を牽制、さらに大軍の京都駐留・兵糧徴収問題や、安徳天皇後の皇位に義仲が以仁王の皇子北陸宮を強く推したことなどもあって、両者の間隙は急速に拡大した。一方、頼朝はこの機に乗じて京都政界への接近をはかり、寿永二年十月宣旨によって東海・東山両道の沙汰権を公認される。入洛した源軍は各地勢力の寄せ集めであって義仲の統制がきかず、また早くから京下の官人・僧侶などを結集して御家人間の紛争処理や京都との折衝にあてた頼朝と比較すると、義仲の周囲にある者は大夫房覚明のみで政治性が低かったのである。かくて義仲が平家との水島(岡山県倉敷市)・室山(兵庫県揖保(いぼ)郡御津(みつ)町)などの合戦救援に離京した隙に、十一月、院近臣平知康らが院御所法住寺殿に拠って反義仲の兵を挙げる。この法住寺合戦は義仲の帰京によって簡単に終るが、焼討ちの中で天台座主明雲や円恵法親王も倒れ、法皇は捕えられて五条内裏(近衛基通邸)に押しこめられた。義仲はまた、摂政近衛基通・内大臣徳大寺実定らを罷免、前関白松殿基房の子師家を内大臣・摂政・氏長者とし、みずからは院厩別当となり基通の家領八十余所を獲得、院近臣四十余人を解官した。しかしこのクーデターにより義仲の孤立化はいっそう深まり、西の平氏、東の頼朝のほか、山門大衆も反義仲勢力に追いやった。義仲は頼朝との決戦に備えて平氏と内々の和平をはかり、また法皇を奉じて北陸に下ろうともしたが果たせず、翌寿永三年正月、源範頼・源義経ら関東の大軍に破られ、二十日に近江国の粟津(大津市粟津町)で討たれた。三十一歳。墓は大津市馬場一丁目の義仲寺にある。→倶利伽羅峠の戦(くりからとうげのたたかい),→治承・寿永の乱(ちしょう・じゅえいのらん)
[参考文献]
『大日本史』列伝五、下出積與「木曾義仲」(『人物探訪日本の歴史』三所収)
(福田 美也子)


日本大百科全書(ニッポニカ)

源義仲
みなもとのよしなか
[1154―1184]

平安後期の武将。通称を木曽冠者 (きそかんじゃ)、木曽義仲という。清和 (せいわ)源氏の嫡流源為義 (ためよし)の次子義賢 (よしかた)の次男として1154年(久寿1)東国に生まれた。『尊卑分脈 (そんぴぶんみゃく)』によれば母は遊女。翌年、義賢は兄義朝 (よしとも)の長子義平 (よしひら)に武蔵 (むさし)国比企 (ひき)郡の大倉 (おおくら)館に襲われて討ち死にし、義仲は孤児となったが、斎藤別当実盛 (べっとうさねもり)らの計らいで義仲の乳母 (めのと)の夫である信濃 (しなの)の土豪中原兼遠 (かねとお)にかくまわれた。木曽の山中で成人した義仲は、27歳の80年(治承4)以仁 (もちひと)王の令旨 (りょうじ)を受け、源頼朝 (よりとも)の約1か月のち平氏討伐の旗を木曽谷にあげた。年内に信濃を手中にして亡父の故地上野 (こうずけ)まで進出、翌81年(養和1)平氏側の越後 (えちご)の城助茂 (じょうすけもち)の大軍を千曲 (ちくま)川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れた。その後、東国を支配下に置いた頼朝と対立したが、83年(寿永2)3月長子義高 (よしたか)を鎌倉に送って頼朝と和睦 (わぼく)、5月に北陸道を進攻してきた平維盛 (これもり)らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅 (くりから)峠に夜襲をかけて大破し、続く安宅 (あたか)・篠原 (しのはら)の戦いにも連勝、北陸を支配下に収め、7月には比叡 (ひえい)山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛 (じょうらく)を果たした。後白河 (ごしらかわ)法皇はただちに義仲を無位無冠から従 (じゅ)五位下左馬頭 (さまのかみ)兼越後守 (えちごのかみ)ついで伊予守に任じたが、上洛軍の軍紀の乱れと、彼の公家 (くげ)社会への無知や有能な顧問がいなかったことからくる政治力の欠如によって、入京後の義仲の評価は下がり、頼朝の上洛を望む空気が院中に強まった。西下した平氏を追討する戦いも10月に備中水島 (びっちゅうみずしま)で敗れ、帰洛してから院の反義仲色は露骨となり、ついに義仲はクーデターで院の近臣を追放して独裁権を握り、84年(元暦1)正月に従四位下征夷 (せいい)大将軍となり「旭 (あさひ)将軍」と称された。しかしそれもつかのまで、前年末に頼朝の代官として鎌倉を進発していた源範頼 (のりより)・義経 (よしつね)の軍に敗れ、1月20日北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津 (あわづ)で31歳で討ち死にした。

 東国のように源氏の地盤でない木曽谷で兵をあげ、小武士団からなる北陸を勢力圏としていたにもかかわらず、全盛を誇っていた平氏政権をわずか3年足らずで打倒した武略は、義仲が第一流の武将であったことを示す。しかし乳兄弟の今井兼平 (かねひら)・樋口兼光 (ひぐちかねみつ)のような勇武な部将はいたが、大夫房覚明 (たゆうぼうかくみょう)以外に有能な政治顧問のいなかったのが致命的弱点であった。その覚明も入京後は義仲から離れ、信州武士の習いを公家社会で通そうとしたのみならず、安徳 (あんとく)天皇西下後の皇位継承に、以仁王の皇子北陸宮 (ほくろくのみや)を強引に推したのが、公家を決定的に反義仲に追いやった。情に厚い武将であったが、武士社会のなかに強い地盤を築く余裕もなく没落していかざるをえなかったのである。

[下出積與]



世界大百科事典

源義仲
みなもとのよしなか
1154-84(久寿1-元暦1)

平安末期の武将。源為義の次男義賢(よしかた)の次男。母は遊女。通称〈木曾冠者〉。生誕の翌年父が甥の源義平と武蔵で戦って殺され,以後義仲の乳母の夫信濃の中原兼遠のもとで養育された。1180年(治承4)9月,以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けて木曾に挙兵,小笠原頼直を討ってさらに上野に進出し,翌81年(養和1)には信濃に攻め入った越後の城助職(じようすけもと)を破って越後に進んだ。反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか,源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。83年(寿永2)3月,義仲は長子源義高(11歳)を人質として鎌倉の頼朝のもとに送る。こうして東方との紛争を避けたうえ北陸道の経略に専念し,5月には越中・加賀国境砺波(となみ)山の俱利伽羅(くりから)峠の戦で平氏軍を大破して近江に入った。伊賀から大和に出て北上する行家軍と呼応しながら7月28日に勢多(せた)から平氏西走後の京へ入った。直ちに後白河法皇より平氏追討の命を受け,無位無官から従五位下左馬頭(さまのかみ)越後守,ついで伊予守になった。しかし兵粮の不足と軍兵の無秩序から人心を失い,行家とも対立して,閏10月には備中水島で平氏に敗れて帰京。その間に法皇は〈寿永2年10月宣旨〉を頼朝に与え頼朝との接近を図っている。孤立した義仲は11月クーデタを敢行,翌年1月みずから従四位下征夷大将軍となって〈旭将軍〉と称したが,頼朝代官として上洛した源義経・範頼の軍に敗れ,1月20日北陸に落ちる途中近江粟津(あわづ)で敗死した。鎌倉にいた長子義高も4月26日に討たれている。
[飯田 悠紀子]

人物像と伝承

〈木曾義仲〉の名で広く知られる義仲の人物像は,都の公家と対比される武士像の一典型として,《平家物語》や《源平盛衰記》などに,鮮やかに伝えられている。信濃から北陸道を経て京都に進撃する義仲は,めざましい武勲の人として描かれる。平家軍を追って砥浪(となみ)山の羽丹生(はにう)に布陣した際,近くに八幡の神祠があるのを知って,書記の大夫坊覚明に願文を作らせて戦勝を祈ったが,このとき白鳩が旗竿の上をかけたという。また俱利伽羅峠では,夜陰に乗じて四方から太鼓,法螺貝(ほらがい)を鳴らし,松明(たいまつ)を角につけた多数の牛を使って攻めたので,山谷は一時に鳴動し,混乱して墜落した平家の人馬が谷を埋めつくしたという。義仲が京都に入ると,兵は民家を略奪して治安を乱し,また都人と山中育ちの者との風俗や習慣の違いなどによって,京都の人心は義仲から離れたとされる。《平家物語》巻八の〈猫間(ねこま)〉や〈鼓判官(つづみほうがん)〉には,義仲のふるまいや物言いが武骨で野卑であったことが語られている。さらに,源義経らの軍に敗れて都を逃れた義仲の最期の場面は,《平家物語》の白眉である。義仲は乳母子(めのとご)の今井兼平と打出の浜で行き会い,奮戦ののち,最愛の巴御前を無理に去らせる。兼平と主従2人になった義仲が〈日来(ひごろ)は何ともおぼえぬ鎧が,今日は重うなったるぞや〉と告げると,兼平は自害を勧め,その間敵を防ごうという。これに対して義仲は,これまで逃れきたったのは兼平と同じ所で死のうと思ったからだ,いっしょに討死をしようという。この死に臨んでの2人のやりとりは,乳母子とのきずなの強さを示すとともに,この主従の関係が友情とも呼べるようなつながりの側面ももっていたことをうかがわせている。
→義仲寺(ぎちゅうじ)
[山内 若亡] 義仲の事跡は,信濃善光寺聖(ひじり)によって語り伝えられ,《平家物語》に書きとどめられた。《平家物語》の伝える,以仁王の令旨を受けての挙兵後に平家との戦闘のあった横田河原は,善光寺の近くであった。さらに北陸に進出した義仲は越中・加賀国境の俱利伽羅峠や加賀の安宅,篠原で平家方を破ったが,そうした北陸合戦の実情もまた,京都と善光寺を結ぶコースである北陸道を遊行(ゆぎよう)していた聖によって語り伝えられた。また,京都や西国における義仲の動向を語り伝えたのは,安芸厳島と信濃善光寺の間を遊行していた聖であった。
[金井 清光]

[索引語]
木曾冠者 源行家 源義高 旭将軍 木曾義仲 乳母子 今井兼平 善光寺聖
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検索コンテンツ
1. 源義仲
日本大百科全書
平安後期の武将。通称を木曽冠者きそかんじゃ、木曽義仲という。清和せいわ源氏の嫡流源為義ためよしの次子義賢よしかたの次男として1154年(久寿1)東国に生まれた。
2. 源義仲
世界大百科事典
1154-84(久寿1-元暦1) 平安末期の武将。源為義の次男義賢(よしかた)の次男。母は遊女。通称〈木曾冠者〉。生誕の翌年父が甥の源義平と武蔵で戦って殺され,
3. みなもと‐の‐よしなか【源義仲】
日本国語大辞典
平安末期・鎌倉初期の武将。義賢の二男。父が源義平に殺され、乳母の夫中原兼遠によって木曾山中で成長したので、木曾義仲とも呼ばれた。以仁王(もちひとおう)の令旨で挙
4. みなもとのよしなか【源義仲】
全文全訳古語辞典
[人名]⇒木曽義仲
5. みなもとのよしなか【源義仲】画像
国史大辞典
一一五四―八四 平安時代後期の武将。木曾義仲・木曾冠者・旭将軍と称される。久寿元年(一一五四)に生まれる。父は春宮帯刀長源義賢、母は遊女と伝える。寿永二年(一
6. みなもとの-よしなか【源義仲】
日本人名大辞典
1154−1184 平安時代後期の武将。久寿元年生まれ。源義賢(よしかた)の次男。信濃(しなの)(長野県)木曾で,乳母の夫中原兼遠(かねとお)にそだてられた。治
7. 源義仲[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:4件 【逐次刊行物】:11件 『歴史と人物』三浦周行『木曽義仲』春日賢一『日本武将評伝 1』高柳光寿『木曽義仲』下出積与『朝日将軍伝説
8. 源義仲・木曾義仲
日本史年表
閏10・15 義仲 ,帰京(玉葉)。 1184年〈元暦元(4・16)(寿永3) 甲辰〉 1・10 源義仲 ,征夷大将軍となる(吾)。 1184年〈元暦元(4・1
9. 梟源義仲 (見出し語:源義仲)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 250ページ
10. 源義仲驕慢 (見出し語:源義仲)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 633ページ
11. みなもとのよしなか【源義仲】
日本架空伝承人名事典
→木曾義仲
12. 源義仲花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 源義仲願書 (見出し語:願文)
古事類苑
神祇部 洋巻 第1巻 713ページ
14. 源義仲願書 (見出し語:願文)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 963ページ
15. 源義仲四天王 (見出し語:四天王)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 313ページ
16. 朝日将軍源義仲公記(著作ID:1558492)
新日本古典籍データベース
あさひしょうぐんみなもとよしなかこうき 義仲公記 伝記 
17. あさひ‐しょうぐん[‥シャウグン]【朝日将軍】
日本国語大辞典
「みなもとのよしなか(源義仲)」の別称。
18. あさひ の 将軍(しょうぐん)
日本国語大辞典
「あさひしょうぐん(朝日将軍)」に同じ。*平家物語〔13C前〕九・木曾最期「左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや」
19. 足利氏画像
世界大百科事典
足利義康は鳥羽院に仕え,保元の乱に源義朝や平清盛と並ぶ部将として出陣する。その子どもたちのうち,義清は源義仲に従って水島で平氏に討たれるが,義兼は早くから頼朝の
20. あしかが-よしきよ【足利義清】
日本人名大辞典
?−1183 平安時代後期の武将。足利義康の子。源義家の曾孫。源義仲の挙兵に応じ,寿永2年丹波をへて京都にはいる。のち讃岐(さぬき)(香川県)屋島の平氏を攻めよ
21. あじきごう【葦敷郷】岐阜県:岐阜市/旧方県郡・本巣郡地区/蘆敷村
日本歴史地名大系
府奉行人連署奉書案」同文書)。なお治承の内乱期には、源頼朝に与同した葦敷三郎重義(吾妻鏡)や源義仲に与同した葦敷太郎重隆(吉記)、源重宗の曾孫の葦敷二郎重頼(尊
22. あわづ【粟津】滋賀県:大津市/中部地域
日本歴史地名大系
しほをたれてけるかな」などと詠まれる。〔粟津合戦〕源平争乱の際、寿永二年(一一八三)四月木曾源義仲追討の大軍は「粟津原、勢多の橋」を通っている(「源平盛衰記」巻
23. いけだのしょう【池田庄】福井県:今立郡/池田町
日本歴史地名大系
「法住寺仙洞」とは後白河法皇の院御所法住寺殿(跡地は現京都市東山区)のことで、寿永二年(一一八三)一一月に源義仲により法住寺殿南殿が焼討されているから(玉葉)、
24. 石川(県)画像
日本大百科全書
もかなりの衆徒をもち、加賀では白山宮が強く、京都へ神輿みこしを担ぎ強訴もした。矢ヶ崎孝雄中世源義仲よしなかの北陸進出、平家の敗退に伴い、富樫氏その他の加賀武士も
25. いしだ-ためひさ【石田為久】
日本人名大辞典
平安時代後期の武将。相模(さがみ)(神奈川県)の豪族三浦氏の一族。寿永3年(1184)源義経にしたがい源義仲を近江(おうみ)粟津(あわづ)(滋賀県大津市)に追撃
26. いたくらむら【板倉村】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区
日本歴史地名大系
、板倉郷として油四〇〇石を紀親恒が進上している。板倉川では寿永二年(一一八三)に合戦があり、源義仲の軍勢を迎え撃った妹尾兼康が敗れた(「平家物語」巻八)。近世に
27. いちじょう-ただより【一条忠頼】
日本人名大辞典
治承(じしょう)4年甲斐(かい)(山梨県)武田氏の一族とともに反平家の兵をあげる。のち源頼朝軍に合流。源義仲の追討に功があったが,忠頼の勢威をおそれた頼朝の命で
28. いちじょうよしやす【一条能保】
国史大辞典
この関係から能保は京都にあって洛中の状勢を頼朝に通報し、その耳目ともいうべき役割を果たした。源義仲滅亡直後の元暦元年(一一八四)三月左馬頭に任ぜられて以後、頼朝
29. いとう-すけきよ【伊東祐清】
日本人名大辞典
を殺そうとしたとき,頼朝をすくう。祐親の死後,頼朝の誘いをことわり平家軍に合流する。寿永2年源義仲と加賀篠原(石川県江沼郡)でたたかい,討ち死にした。通称は九郎
30. いまい-かねひら【今井兼平】
日本人名大辞典
1152−1184 平安時代後期の武将。仁平(にんびょう)2年生まれ。中原兼遠の子。源義仲の家臣で乳兄弟。木曾四天王のひとり。治承(じしょう)4年の義仲の挙兵に
31. いるまがわ【入間川】埼玉県:総論地図
日本歴史地名大系
流れることから生じたとみられる。呼称がみえる早い例は「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)四月二六日条で、源義仲の嫡男志水(清水)冠者義高が源頼朝の放った追手により「入
32. いんし【院司】
国史大辞典
も関係する要職とみなされ、後三条院のころから公卿を御厩別当に補するようになり、さらに平忠盛・源義仲・同義経らの武士が御厩預や別当に補され、ついで鎌倉時代には当時
33. いんのちょう【院庁】
国史大辞典
宣旨を下すに先立ち、院庁より使者を大宰府管内に遣わして下知させ、また寿永二年(一一八三)には源義仲に平家追討の、藤原秀衡に源頼朝追討の院庁下文を発するなど(『吉
34. 上田[市]
世界大百科事典
人口2万4541(2005)。千曲川支流の依田川と内村川の流域に東西に細長く広がる。中世に依田荘があり,源義仲挙兵の地ともいわれる。東部の依田川沿いの沖積地を除
35. うじがわ の 戦(たたか)い
日本国語大辞典
京都の南東の防衛線である宇治川をはさんでの戦い。宇治川の合戦。(1)寿永三年(一一八四)源範頼、義経の軍が源義仲軍を破った戦い。佐々木高綱と梶原景季の先陣争いで
36. うんの-ゆきうじ【海野幸氏】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の武将。海野幸広の子(一説に弟)。源義仲の家人。源頼朝の人質となった義仲の子義高にしたがい,鎌倉にいく。のち頼朝,北条氏につかえ,信濃(しなの)
37. うんの-ゆきひろ【海野幸広】
日本人名大辞典
兄)。滋野(しげの)氏の一族で,信濃(しなの)(長野県)小県郡(ちいさがたぐん)海野にすむ。源義仲の侍大将として,寿永2年10月平氏を追討した備中(びっちゅう)
38. えちごの-ちゅうた【越後中太】
日本人名大辞典
?−1184 平安時代後期の武士。源義仲の家人。寿永3年(1184)1月源範頼(のりより)・義経軍の鎌倉方が京都に攻めこんできたとき,義仲が六条高倉の女性をたず
39. 越前国
世界大百科事典
中世 平安末の治承・寿永の乱では,北陸道の関門にあたる越前は,木曾から越中,加賀を経て攻め上る源義仲軍とこれを迎撃する平家軍との交戦の舞台となった。鎌倉期に入る
40. えちぜんのくに【越前国】福井県
日本歴史地名大系
られる。中世〔鎌倉時代〕北陸の入口にあたる越前は、治承・寿永の乱で京都から派遣される平氏軍と源義仲軍との交戦の場となった。敗戦続きの平氏は寿永二年(一一八三)四
41. 越中国
世界大百科事典
れ多くの参詣者がここを訪れた。鎌田 元一 中世 鎌倉時代 1180年(治承4)信濃に挙兵した源義仲が翌年平氏方の越後の城氏を破ると,宮崎党や石黒党など越中の有力
42. えぼしがたじょうあと【烏帽子形城跡】大阪府:河内長野市/喜多村地図
日本歴史地名大系
ある。高野街道を扼する交通の要地に位置する。寿永三年(一一八四)正月、源行家は長野城にあって源義仲に叛した(「平家物語」巻八「室山合戦事」)が、この長野城は当城
43. えんけいほうしんのう【円恵法親王】
日本人名大辞典
ちひと)王・源頼政の反平氏の挙兵にかかわり,四天王寺検校職を停止される。寿永2年11月19日源義仲が後白河法皇の法住寺殿をおそったとき殺された。32歳。通称は八
44. おおひめ【大姫(1)】
日本人名大辞典
平安後期-鎌倉時代,源頼朝(よりとも)の娘。治承(じしょう)2/3年生まれ。母は北条政子。源義仲の長男義高の許嫁(いいなずけ)であったが,元暦(げんりゃく)元
45. おさえ‐おこな・う[おさへおこなふ]【押行】
日本国語大辞典
〔他ハ四〕自分の思いの通りに支配し、政治を行なう。*神皇正統記〔1339~43〕下・後鳥羽「源義仲と云物、まづ京都に入、兵威をもて世の中のことをおさへをこなひけ
46. かげきよ【景清】
日本架空伝承人名事典
悪七兵衛景清と称された平家の侍大将。一一八〇年(治承四)の源頼政との戦いをはじめ、源平争乱のなかで源義仲・行家との合戦、一ノ谷、備前児島の合戦など各地を転戦。壇
47. かしまじんぐう【鹿島神宮】茨城県:鹿島郡/鹿島町/宮中村
日本歴史地名大系
)八月一一日、頼朝は妻政子の頼家出産に際して奉幣、元暦元年(一一八四)一月二三日には鹿島神が源義仲・平氏追討のために上京したとの神異を聞いて遥拝した(同書)。惣
48. かじわらかげすえ【梶原景季】
国史大辞典
応保二年(一一六二)景時の長子として生まれる。通称源太。父とともに源頼朝に属し、元暦元年(一一八四)源義仲追討の時、佐々木高綱と宇治川に先陣を争い、平家追討の戦
49. かじわら-かげすえ【梶原景季】
日本人名大辞典
1162−1200 平安後期-鎌倉時代の武将。応保2年生まれ。梶原景時の長男。源頼朝につかえ,源義仲追討の宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣をあらそう。平氏との生田
50. かじわらかげとき【梶原景時】画像
国史大辞典
通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義仲追討をはじめ、平家追討に功があった。文治元年(一一八五)屋
「源義仲」の情報だけではなく、「源義仲」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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