『大日本史』列伝五、下出積與「木曾義仲」(『人物探訪日本の歴史』三所収)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
平安後期の武将。通称を木曽冠者 (きそかんじゃ)、木曽義仲という。清和 (せいわ)源氏の嫡流源為義 (ためよし)の次子義賢 (よしかた)の次男として1154年(久寿1)東国に生まれた。『尊卑分脈 (そんぴぶんみゃく)』によれば母は遊女。翌年、義賢は兄義朝 (よしとも)の長子義平 (よしひら)に武蔵 (むさし)国比企 (ひき)郡の大倉 (おおくら)館に襲われて討ち死にし、義仲は孤児となったが、斎藤別当実盛 (べっとうさねもり)らの計らいで義仲の乳母 (めのと)の夫である信濃 (しなの)の土豪中原兼遠 (かねとお)にかくまわれた。木曽の山中で成人した義仲は、27歳の80年(治承4)以仁 (もちひと)王の令旨 (りょうじ)を受け、源頼朝 (よりとも)の約1か月のち平氏討伐の旗を木曽谷にあげた。年内に信濃を手中にして亡父の故地上野 (こうずけ)まで進出、翌81年(養和1)平氏側の越後 (えちご)の城助茂 (じょうすけもち)の大軍を千曲 (ちくま)川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れた。その後、東国を支配下に置いた頼朝と対立したが、83年(寿永2)3月長子義高 (よしたか)を鎌倉に送って頼朝と和睦 (わぼく)、5月に北陸道を進攻してきた平維盛 (これもり)らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅 (くりから)峠に夜襲をかけて大破し、続く安宅 (あたか)・篠原 (しのはら)の戦いにも連勝、北陸を支配下に収め、7月には比叡 (ひえい)山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛 (じょうらく)を果たした。後白河 (ごしらかわ)法皇はただちに義仲を無位無冠から従 (じゅ)五位下左馬頭 (さまのかみ)兼越後守 (えちごのかみ)ついで伊予守に任じたが、上洛軍の軍紀の乱れと、彼の公家 (くげ)社会への無知や有能な顧問がいなかったことからくる政治力の欠如によって、入京後の義仲の評価は下がり、頼朝の上洛を望む空気が院中に強まった。西下した平氏を追討する戦いも10月に備中水島 (びっちゅうみずしま)で敗れ、帰洛してから院の反義仲色は露骨となり、ついに義仲はクーデターで院の近臣を追放して独裁権を握り、84年(元暦1)正月に従四位下征夷 (せいい)大将軍となり「旭 (あさひ)将軍」と称された。しかしそれもつかのまで、前年末に頼朝の代官として鎌倉を進発していた源範頼 (のりより)・義経 (よしつね)の軍に敗れ、1月20日北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津 (あわづ)で31歳で討ち死にした。
東国のように源氏の地盤でない木曽谷で兵をあげ、小武士団からなる北陸を勢力圏としていたにもかかわらず、全盛を誇っていた平氏政権をわずか3年足らずで打倒した武略は、義仲が第一流の武将であったことを示す。しかし乳兄弟の今井兼平 (かねひら)・樋口兼光 (ひぐちかねみつ)のような勇武な部将はいたが、大夫房覚明 (たゆうぼうかくみょう)以外に有能な政治顧問のいなかったのが致命的弱点であった。その覚明も入京後は義仲から離れ、信州武士の習いを公家社会で通そうとしたのみならず、安徳 (あんとく)天皇西下後の皇位継承に、以仁王の皇子北陸宮 (ほくろくのみや)を強引に推したのが、公家を決定的に反義仲に追いやった。情に厚い武将であったが、武士社会のなかに強い地盤を築く余裕もなく没落していかざるをえなかったのである。
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平安末期の武将。源為義の次男義賢(よしかた)の次男。母は遊女。通称〈木曾冠者〉。生誕の翌年父が甥の源義平と武蔵で戦って殺され,以後義仲の乳母の夫信濃の中原兼遠のもとで養育された。1180年(治承4)9月,以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けて木曾に挙兵,小笠原頼直を討ってさらに上野に進出し,翌81年(養和1)には信濃に攻め入った越後の城助職(じようすけもと)を破って越後に進んだ。反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか,源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。83年(寿永2)3月,義仲は長子源義高(11歳)を人質として鎌倉の頼朝のもとに送る。こうして東方との紛争を避けたうえ北陸道の経略に専念し,5月には越中・加賀国境砺波(となみ)山の俱利伽羅(くりから)峠の戦で平氏軍を大破して近江に入った。伊賀から大和に出て北上する行家軍と呼応しながら7月28日に勢多(せた)から平氏西走後の京へ入った。直ちに後白河法皇より平氏追討の命を受け,無位無官から従五位下左馬頭(さまのかみ)越後守,ついで伊予守になった。しかし兵粮の不足と軍兵の無秩序から人心を失い,行家とも対立して,閏10月には備中水島で平氏に敗れて帰京。その間に法皇は〈寿永2年10月宣旨〉を頼朝に与え頼朝との接近を図っている。孤立した義仲は11月クーデタを敢行,翌年1月みずから従四位下征夷大将軍となって〈旭将軍〉と称したが,頼朝代官として上洛した源義経・範頼の軍に敗れ,1月20日北陸に落ちる途中近江粟津(あわづ)で敗死した。鎌倉にいた長子義高も4月26日に討たれている。
〈木曾義仲〉の名で広く知られる義仲の人物像は,都の公家と対比される武士像の一典型として,《平家物語》や《源平盛衰記》などに,鮮やかに伝えられている。信濃から北陸道を経て京都に進撃する義仲は,めざましい武勲の人として描かれる。平家軍を追って砥浪(となみ)山の羽丹生(はにう)に布陣した際,近くに八幡の神祠があるのを知って,書記の大夫坊覚明に願文を作らせて戦勝を祈ったが,このとき白鳩が旗竿の上をかけたという。また俱利伽羅峠では,夜陰に乗じて四方から太鼓,法螺貝(ほらがい)を鳴らし,松明(たいまつ)を角につけた多数の牛を使って攻めたので,山谷は一時に鳴動し,混乱して墜落した平家の人馬が谷を埋めつくしたという。義仲が京都に入ると,兵は民家を略奪して治安を乱し,また都人と山中育ちの者との風俗や習慣の違いなどによって,京都の人心は義仲から離れたとされる。《平家物語》巻八の〈猫間(ねこま)〉や〈鼓判官(つづみほうがん)〉には,義仲のふるまいや物言いが武骨で野卑であったことが語られている。さらに,源義経らの軍に敗れて都を逃れた義仲の最期の場面は,《平家物語》の白眉である。義仲は乳母子(めのとご)の今井兼平と打出の浜で行き会い,奮戦ののち,最愛の巴御前を無理に去らせる。兼平と主従2人になった義仲が〈日来(ひごろ)は何ともおぼえぬ鎧が,今日は重うなったるぞや〉と告げると,兼平は自害を勧め,その間敵を防ごうという。これに対して義仲は,これまで逃れきたったのは兼平と同じ所で死のうと思ったからだ,いっしょに討死をしようという。この死に臨んでの2人のやりとりは,乳母子とのきずなの強さを示すとともに,この主従の関係が友情とも呼べるようなつながりの側面ももっていたことをうかがわせている。
→義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲の事跡は,信濃善光寺聖(ひじり)によって語り伝えられ,《平家物語》に書きとどめられた。《平家物語》の伝える,以仁王の令旨を受けての挙兵後に平家との戦闘のあった横田河原は,善光寺の近くであった。さらに北陸に進出した義仲は越中・加賀国境の俱利伽羅峠や加賀の安宅,篠原で平家方を破ったが,そうした北陸合戦の実情もまた,京都と善光寺を結ぶコースである北陸道を遊行(ゆぎよう)していた聖によって語り伝えられた。また,京都や西国における義仲の動向を語り伝えたのは,安芸厳島と信濃善光寺の間を遊行していた聖であった。
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