1. 梶原景時
日本大百科全書
鎌倉初期の武将。通称は平三へいぞう。相模さがみ国(神奈川県)の豪族鎌倉氏の流。父は景清かげきよ(一説に景長かげなが)、母は横山党小野孝兼たかかねの女むすめ。11
2. 梶原景時
世界大百科事典
たづな)》(長谷川千四,文耕堂合作)は頼朝再挙のとき,忠節を尽くした三浦大助義明,畠山重忠,梶原景時を描いているが,なかでも梶原が名刀の切れ味をためす三段目切の
3. かじわら‐かげとき【梶原景時】
日本国語大辞典
鎌倉初期の武将。景清の子。通称、平三。石橋山の戦いでは平氏に従ったが、源頼朝の危急を救ったことから頼朝に信任され、侍所所司となる。源義経を讒言(ざんげん)して退
4. かじわらかげとき【梶原景時】画像
国史大辞典
永原慶二編『鎌倉と京都』(『人物・日本の歴史』四)、大森金五郎「梶原景時に就いて」(『日本中世史論考』所収)、安田元久「梶原景時」(『鎌倉幕府―その政権を担った
5. 梶原景時
日本史年表
12・18 幕府,御家人多数の訴えにより, 梶原景時 を鎌倉から追放(吾)。 1200年〈正治2 庚申②〉 1・20 幕府,上洛を企てた 梶原景時 を,駿河国清
6. かじわら-かげとき【梶原景時】
日本人名大辞典
?−1200 平安後期-鎌倉時代の武将。石橋山の戦いで平氏側に属しながら源頼朝の危急をすくい,頼朝の信任をえる。源義仲や平氏の追討にくわわり,平氏滅亡後,源義経
7. かじわらかげとき【梶原景時】
日本架空伝承人名事典
尽くした三浦大助義明、畠山重忠、梶原景時を描いているが、なかでも梶原が名刀の切れ味をためす三段目切の「石切梶原」はとくに名高い。[岩崎 武夫] また、江戸時代に
8. 梶原景時[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『梶原景時に就いて』大森金五郎
9. 梶原景時助二源頼朝一 (見出し語:梶原景時)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 664ページ
10. 梶原景時家紋 (見出し語:梶原景時)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 520ページ
11. 梶原景時専二讒言一自敗亡 (見出し語:梶原景時)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 697ページ
12. 梶原景時花押[図版]画像
国史大辞典
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13. かじわらかげときのらん【梶原景時の乱】
国史大辞典
正治二年(一二〇〇)正月、梶原景時以下一族が、駿河国狐崎に鎌倉幕府の追討をうけて滅んだ事件。景時は、その巧みな弁舌と才智によって、源頼朝に信任され、鎌倉幕府内
14. 英多保
世界大百科事典
寺領で,《吾妻鏡》文治3年(1187)8月8日条によれば,年貢雑事をめぐって,寺家は美作守護梶原景時の代官を改補しようとして訴訟をおこしている。景時の没落後,地
15. あいたほ【英多保】岡山県:英田郡/作東町
日本歴史地名大系
「吾妻鏡」文治三年(一一八七)八月八日条に尊勝寺(跡地は現京都市左京区)領として「林野英多保」とあり、梶原景時の非法が知られる。鎌倉期を通じ同寺領であった。正嘉
16. あさひのしんめいぐうあと【朝日神明宮跡】大阪府:大阪市/東区/松山町地図
日本歴史地名大系
)には、元暦二年(一一八五)二月一六日平家追討に向かう源義経軍が摂津渡辺で船揃えの際、義経と梶原景時が船を後退させるため通常とは逆の方向につける逆櫓の是非につい
17. あしもりのしょう【足守庄】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区
日本歴史地名大系
あった(嘉応二年八月九日「賀陽清仲解」関戸守彦氏所蔵文書)。また源平合戦後に備中を任せられた梶原景時は、元暦元年と推定される一〇月一八日の書状(神護寺文書)で、
18. 安達盛長
世界大百科事典
その後も幕府の宿老として新主頼家の訴論親裁停止後,重臣の合議制が成立したときにはその一人となった。梶原景時の失脚事件では弾劾派であった。無官のままであったが,幕
19. あだちもりなが【安達盛長】
国史大辞典
法名蓮西。将軍頼家の下で十三名の合議制ができた際その一人となり、またそのころ三河の守護となっていた。梶原景時弾劾の強硬派の一人。同二年四月二十六日没。六十六歳。
20. あだちもりなが【安達盛長】
日本架空伝承人名事典
その後も幕府の宿老として新主頼家の訴論親裁停止後、重臣の合議制が成立したときにはその一人となった。梶原景時の失脚事件では弾劾派であった。無官のままであったが、幕
21. あまのとおかげ【天野遠景】
国史大辞典
行を解任されて鎌倉に帰った。その後源頼朝の死を機会に出家し蓮景と号した。正治元年(一一九九)梶原景時誅伐にも参加し、建仁三年(一二〇三)九月北条時政の命を受けて
22. 淡路国
世界大百科事典
構え,しだいに洲本,炬口(たけのくち)などに拠点を築いた安宅(あたぎ)氏の一族であった。また梶原景時の子孫と称する沼島の梶原氏の活動も盛んであった。細川氏が嫡流
23. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
幕府の水軍が配置されたことである。淡路はもとより瀬戸内海東部の要地にあたり、源平合戦の末期から播磨などとともに梶原景時の軍政下にあったが、景時配下の武士は、淡路
24. 阿波局
世界大百科事典
あるとともに,千幡(のちの将軍実朝)の乳母であった。北条氏の一員として,1199年(正治1)梶原景時粛清事件のきっかけをつくった。また1203年(建仁3)の阿野
25. あわのつぼね【阿波局】
日本人名大辞典
源実朝(さねとも)の乳母。北条時政の娘。北条政子の妹。正治(しょうじ)元年一族の結城朝光(ゆうき-ともみつ)を梶原景時(かじわら-かげとき)が源頼家に讒言(ざん
26. いいだ-いえよし【飯田家義】
日本人名大辞典
げちか)の軍にくわわる。源頼朝に内応,のち御家人となり,富士川の戦いや正治(しょうじ)2年の梶原景時(かげとき)追討で功をたてた。通称は五郎。
27. いかわのしょう【伊川庄】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
明石川の支流伊川の流域に展開する庄園。伊河・井河とも書かれる。文治三年(一一八七)二月八日の梶原景時修造料田寄進状写(太山寺文書)に伊川庄とみえ、景時(当庄地頭
28. 軍奉行
世界大百科事典
西海に派遣したとき,〈軍士等のことを奉行せしめんがため〉侍所の別当の和田義盛を範頼に,同所司(次官)の梶原景時を義経につけたとあるのが,実例としては早いほうであ
29. いけどりすずき【生捕鈴木】
日本国語大辞典
狂言。梶原景時に生捕られた源義経の家来鈴木三郎重家は、源頼朝に尋問され、義経の頼朝に対する忠誠と、梶原の讒言(ざんげん)を述べ、ついに許される。「奈須」のように
30. いけのうらかっせんじょうあと【池の浦合戦場跡】山口県:柳井市/伊保庄村
日本歴史地名大系
源平合戦が行われたという。文治元年(一一八五)西海で展開された源平合戦は周防にも波及したが、梶原景時の使者が鎌倉に帰着して戦況を報告したなかに「周防国合戦之時、
31. いしきりかじわら[いしきりかぢはら]【石切梶原】
日本国語大辞典
享保一五年(一七三〇)大坂竹本座初演。頼朝挙兵の際の、三浦大助義明とその一党および畠山重忠、梶原景時などの忠節を描いたもの。特に、梶原が名刀の切れ味をためす三段
32. 石切梶原
日本大百科全書
1730年(享保15)3月大坂・竹本座初演。石橋山の敗戦後、再挙を図る源頼朝よりともを三浦大助が助け、梶原景時かじわらかげとき、畠山重忠はたけやましげただととも
33. 石橋山の戦
世界大百科事典
からくも椙山(すぎやま)にのがれたが,翌日景親軍の急追を受け,さらに深山に退いた。ここでも彼は,敵軍中にあった梶原景時のはからいで九死に一生を得,一時箱根権現別
34. いしばしやまのたたかい【石橋山の戦】
国史大辞典
かった。戦闘は平家方が大勝し、翌日に至り近くの山中で頼朝を追跡するが、敗兵の奮戦や、平家方の梶原景時の裏切り行為のためついに頼朝を捕えられなかった。頼朝は箱根を
35. 石橋山の戦い
日本大百科全書
背後をうかがった。三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義いいだいえよし、梶原景時かじわらかげときなど、景親の手に属しながらも内応する者があり
36. いちかわ-あらじろう【市川荒二郎】
日本人名大辞典
明治34年から横浜の賑座,喜楽座などに出演し,「ハマの団十郎」とよばれた。当たり役は「石切梶原」の梶原景時など。昭和10年10月10日死去。66歳。大阪出身。本
37. いっとうぐん【揖東郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
。永正八年(一五一一)には赤松村秀による徳政が弘山宿で掲示されている。鎌倉時代初め、播磨守護梶原景時が福井庄地頭を兼務し、揖保川河口を押えて播磨水軍の掌握を図る
38. いなみぐん【印南郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
などに大功田を賜っている。これを基盤に五箇庄(現加古川市)が成立したと考えられ、平氏滅亡後は梶原景時の知行所となった。郡内には印南庄・平・益気庄・志方・平津庄・
39. いぼのしょう【揖保庄】兵庫県:龍野市
日本歴史地名大系
孫に分割相伝されたと考えられる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条によれば、播磨国守護梶原景時配下の武士が平家に所縁のある庄園として「
40. うまや【
】
国史大辞典
、必ず厩が設けられた。鎌倉幕府では、文治五年(一一八九)十二月、はじめて十五間の厩がおかれ、梶原景時を厩別当に任じたと『吾妻鏡』にみえる。室町幕府では、厩別当は
41. うまやぶぎょう【
奉行】
国史大辞典
御厩別当を御厩奉行ともいい、武家ではかなりの重職であった。鎌倉幕府では、文治五年(一一八九)十二月に梶原景時が新造の御厩の別当に任ぜられており、その後には三浦義
42. うらかみのしょう【浦上庄】兵庫県:揖保郡
日本歴史地名大系
勅事・院事以下の臨時国役などが免除された。地頭職は平家が所持していたようで、平家滅亡後、源頼朝は没官領に梶原景時を任じたが、後白河院は年貢徴納を請負っていた景時
43. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
資職は越後国府を掌握できなかった。頼朝が政権をとると長茂と名を改めていた資職は頼朝に捕らえられて梶原景時に預けられ、奥州出陣に参加して宥免された。しかし頼朝の没
44. 江戸温泉紀行 200ページ
東洋文庫
おほふ。万(満)福寺は義経公の旅みし給ひし寺也。この君、平家をうち、功なりて鎌倉へきたり給ふを、梶原景時の腹ぐろなるために、頼朝公のみけしきよからず、鎌倉へ入る
45. 江戸温泉紀行 289ページ
東洋文庫
切り出したまま加工していない石のこ とo蜘 此杉山の伏木…… 木の洞に入っていた頼朝を発見した梶原景時が、この時見逃がして救ったこ とが、後に味方となる起因とな
46. 江戸近郊道しるべ 32ページ
東洋文庫
重家は老母の労りに依て、本国紀州藤代にかへり、文治五年義経公奥州に下り給ふを聞て、潜に下向し、武州に於て梶原景時が家臣大間経正が為に生捕れ、鎌倉に至るといへども
47. 江戸近郊道しるべ 311ページ
東洋文庫
さくらの惣の数は百木にたらぬばかりやありなん、又堂の前にゑならぬ松一木あり、梶原松と云、もとこの寺は梶原景時(源頼朝の家来、正治二年駿河で戦死)開基にて、その初
48. 江戸近郊道しるべ 320ページ
東洋文庫
七 「略図」(三六〇頁)欄外に、土人云、往古梶原景時此辺にて二万石許を領す、千軒台は其比人家 在し所なりと云伝ふ、実に爾りやいなや(原文片カナ交り)八 車がへし
49. 愛媛(県)画像
日本大百科全書
、同病の者が祈願すると御利益ごりやくがあるという。杏の里あんずのさとの八幡浜市合田ごうだは、梶原景時かじわらかげときの娘ちどりが難を逃れて隠れた所。アンズは、ち
50. おおうちこれよし【大内惟義】
国史大辞典
また同六年の頼朝第二回の上洛に随い、また東大寺供養に参加した。頼朝の死後、正治二年(一二〇〇)正月、梶原景時が誅殺されたとき、このころから在京することが多かった