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  11. 梶原景時

梶原景時

ジャパンナレッジで閲覧できる『梶原景時』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

梶原景時
かじわらかげとき
 - 一二〇〇
鎌倉時代前期の武将。相模国住人五郎景清の子。通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義仲追討をはじめ、平家追討に功があった。文治元年(一一八五)屋島攻撃の際、源義経と逆櫓の策を争い、それを含んで、義経を頼朝に讒訴し失脚させた。生来弁舌に巧みで頼朝に重用され、侍所所司・厩別当などの要職にあり、建久元年(一一九〇)頼朝上洛には、後陣奉行に任ぜられた。京都の公家社会の人々とも交渉があり、京都的な教養をもち、歌道にも通じた。しかし、その要領のよさと、巧みな弁舌によって、利己的な権勢欲で人をねたみ、おとしいれることが多かった。正治元年(一一九九)十月、新将軍源頼家に結城朝光を異心をいだく者として讒言したことから、有力御家人六十六名の弾劾を受けて、鎌倉を追放され、翌年謀叛を企て上洛の途中、正月二十日駿河国の在地武士に討たれた。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ六 正治二年正月二十日条、永原慶二編『鎌倉と京都』(『人物・日本の歴史』四)、大森金五郎「梶原景時に就いて」(『日本中世史論考』所収)、安田元久「梶原景時」(『鎌倉幕府―その政権を担った人々―』所収)
(安田 元久)


日本大百科全書(ニッポニカ)

梶原景時
かじわらかげとき
[?―1200]

鎌倉初期の武将。通称は平三 (へいぞう)。相模 (さがみ)国(神奈川県)の豪族鎌倉氏の流。父は景清 (かげきよ)(一説に景長 (かげなが))、母は横山党小野孝兼 (たかかね)の女 (むすめ)。1180年(治承4)8月、石橋山 (いしばしやま)の戦いでは平氏方の大庭景親 (おおばかげちか)の手に属して参戦したが、源頼朝 (よりとも)に内応しその危機を救った。また「文筆に携わらずと雖 (いえど)も言語を巧みにするの士也 (なり)」(『吾妻鏡 (あづまかがみ)』)と評され、服属後は頼朝の信任を得、鎌倉殿 (どの)(頼朝)側近の武将として活躍した。82年(寿永1)頼家 (よりいえ)誕生の儀を奉行 (ぶぎょう)、翌年には頼朝の密命により上総介広常 (かずさのすけひろつね)を殺害、さらに平氏追討戦では軍奉行 (いくさぶぎょう)として西上、この間、「逆櫓 (さかろ)」の献策をめぐって源義経 (よしつね)と対立を生じたといい、ついには彼を失脚に追い込んだ。84年(元暦1)播磨 (はりま)、美作 (みまさか)の守護に任じられ、西国にも勢力を築く一方、侍所所司 (さむらいどころしょし)、厩別当 (うまやべっとう)など幕府の要職につき、のちには和田義盛 (よしもり)より侍所別当の職を奪い、御家人 (ごけにん)統制の中心として敏腕を振るった。景時の立場は「鎌倉ノ本体ノ武士」(『愚管抄 (ぐかんしょう)』)と称揚されたが、北条氏をはじめ有力御家人 (ごけにん)の反感も強く、頼朝死後の99年(正治1)10月20日、ついに失脚して鎌倉を退去、翌年正月、源氏将軍の同族武田有義 (ありよし)を擁立して幕府に対抗しようと西上の途中、駿河 (するが)国清見関 (きよみがせき)(静岡市)で阻止され、付近の狐崎 (きつねがさき)に一族もろとも戦死した。

[杉橋隆夫]



世界大百科事典

梶原景時
かじわらかげとき
?-1200(正治2)

鎌倉初期の武将。相模国鎌倉郡梶原の住人。父は景清とも景長ともいう。1180年(治承4)石橋山の戦で平家方ながら源頼朝を救う。翌年頼朝に近仕するようになり侍所所司となる。また83年(寿永2)平広常を謀殺する功を立てた。84年(元暦1)源義経らとともに上洛,木曾義仲を討ち,さらに西海へ平氏を追討して活躍。同年土肥実平とともに山陽道5ヵ国の軍政官に就き,以後播磨,美作の守護となる端緒をつかんだ。和田義盛より侍所別当の座を奪い,頼朝の意を体し御家人の非違を厳しく糾弾して将軍権力の重要な手足となった。頼朝への最大の忠誠者であり,また寵臣であったといえる。しかしそのため多くの御家人の恨みを集め,頼朝の死後99年(正治1)御家人66名の弾劾をうけて失脚した。翌年1月武田有義を将軍に擁立しようと上洛の途についたが,駿河国清見関で幕府方に襲われ狐崎で戦死した。
[青山 幹哉] 頼朝に讒言(ざんげん)をして義経を失脚させた景時については《平家物語》巻十一〈腰越〉にくわしい。その直接の原因となったのは,同巻の〈逆櫓〉や〈壇浦合戦〉における両者の激しい対立があげられる。景時には老獪な悪意のようなものが感じとれるが,政治家としてよりも武人として,あくまで正攻法で,独断専行する義経をたしなめ,一軍の将としては慎重な進退こそ必要であると説くことばに説得力がある。同じ《平家物語》巻九〈二度懸〉には,次男平次景高に向かって先駆けを戒めながらも,共に敵陣に駆け入り,嫡子景季の身を案じては,みずからの危険を省みず,2度も敵中深く入ってこれを救出するなど,子を思う父の情愛が強く表現されている。近世の浄瑠璃《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(長谷川千四,文耕堂合作)は頼朝再挙のとき,忠節を尽くした三浦大助義明,畠山重忠,梶原景時を描いているが,なかでも梶原が名刀の切れ味をためす三段目切の〈石切梶原〉はとくに名高い。
[岩崎 武夫]

[索引語]
三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)
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日本架空伝承人名事典
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12. 梶原景時花押[図版]画像
国史大辞典
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14. 英多保
世界大百科事典
寺領で,《吾妻鏡》文治3年(1187)8月8日条によれば,年貢雑事をめぐって,寺家は美作守護梶原景時の代官を改補しようとして訴訟をおこしている。景時の没落後,地
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16. あさひのしんめいぐうあと【朝日神明宮跡】大阪府:大阪市/東区/松山町地図
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17. あしもりのしょう【足守庄】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区
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その後も幕府の宿老として新主頼家の訴論親裁停止後,重臣の合議制が成立したときにはその一人となった。梶原景時の失脚事件では弾劾派であった。無官のままであったが,幕
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国史大辞典
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21. あまのとおかげ【天野遠景】
国史大辞典
行を解任されて鎌倉に帰った。その後源頼朝の死を機会に出家し蓮景と号した。正治元年(一一九九)梶原景時誅伐にも参加し、建仁三年(一二〇三)九月北条時政の命を受けて
22. 淡路国
世界大百科事典
構え,しだいに洲本,炬口(たけのくち)などに拠点を築いた安宅(あたぎ)氏の一族であった。また梶原景時の子孫と称する沼島の梶原氏の活動も盛んであった。細川氏が嫡流
23. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
幕府の水軍が配置されたことである。淡路はもとより瀬戸内海東部の要地にあたり、源平合戦の末期から播磨などとともに梶原景時の軍政下にあったが、景時配下の武士は、淡路
24. 阿波局
世界大百科事典
あるとともに,千幡(のちの将軍実朝)の乳母であった。北条氏の一員として,1199年(正治1)梶原景時粛清事件のきっかけをつくった。また1203年(建仁3)の阿野
25. あわのつぼね【阿波局】
日本人名大辞典
源実朝(さねとも)の乳母。北条時政の娘。北条政子の妹。正治(しょうじ)元年一族の結城朝光(ゆうき-ともみつ)を梶原景時(かじわら-かげとき)が源頼家に讒言(ざん
26. いいだ-いえよし【飯田家義】
日本人名大辞典
げちか)の軍にくわわる。源頼朝に内応,のち御家人となり,富士川の戦いや正治(しょうじ)2年の梶原景時(かげとき)追討で功をたてた。通称は五郎。
27. いかわのしょう【伊川庄】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
明石川の支流伊川の流域に展開する庄園。伊河・井河とも書かれる。文治三年(一一八七)二月八日の梶原景時修造料田寄進状写(太山寺文書)に伊川庄とみえ、景時(当庄地頭
28. 軍奉行
世界大百科事典
西海に派遣したとき,〈軍士等のことを奉行せしめんがため〉侍所の別当の和田義盛を範頼に,同所司(次官)の梶原景時を義経につけたとあるのが,実例としては早いほうであ
29. いけどりすずき【生捕鈴木】
日本国語大辞典
狂言。梶原景時に生捕られた源義経の家来鈴木三郎重家は、源頼朝に尋問され、義経の頼朝に対する忠誠と、梶原の讒言(ざんげん)を述べ、ついに許される。「奈須」のように
30. いけのうらかっせんじょうあと【池の浦合戦場跡】山口県:柳井市/伊保庄村
日本歴史地名大系
源平合戦が行われたという。文治元年(一一八五)西海で展開された源平合戦は周防にも波及したが、梶原景時の使者が鎌倉に帰着して戦況を報告したなかに「周防国合戦之時、
31. いしきりかじわら[いしきりかぢはら]【石切梶原】
日本国語大辞典
享保一五年(一七三〇)大坂竹本座初演。頼朝挙兵の際の、三浦大助義明とその一党および畠山重忠、梶原景時などの忠節を描いたもの。特に、梶原が名刀の切れ味をためす三段
32. 石切梶原
日本大百科全書
1730年(享保15)3月大坂・竹本座初演。石橋山の敗戦後、再挙を図る源頼朝よりともを三浦大助が助け、梶原景時かじわらかげとき、畠山重忠はたけやましげただととも
33. 石橋山の戦
世界大百科事典
からくも椙山(すぎやま)にのがれたが,翌日景親軍の急追を受け,さらに深山に退いた。ここでも彼は,敵軍中にあった梶原景時のはからいで九死に一生を得,一時箱根権現別
34. いしばしやまのたたかい【石橋山の戦】
国史大辞典
かった。戦闘は平家方が大勝し、翌日に至り近くの山中で頼朝を追跡するが、敗兵の奮戦や、平家方の梶原景時の裏切り行為のためついに頼朝を捕えられなかった。頼朝は箱根を
35. 石橋山の戦い
日本大百科全書
背後をうかがった。三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義いいだいえよし、梶原景時かじわらかげときなど、景親の手に属しながらも内応する者があり
36. いちかわ-あらじろう【市川荒二郎】
日本人名大辞典
明治34年から横浜の賑座,喜楽座などに出演し,「ハマの団十郎」とよばれた。当たり役は「石切梶原」の梶原景時など。昭和10年10月10日死去。66歳。大阪出身。本
37. いっとうぐん【揖東郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
。永正八年(一五一一)には赤松村秀による徳政が弘山宿で掲示されている。鎌倉時代初め、播磨守護梶原景時が福井庄地頭を兼務し、揖保川河口を押えて播磨水軍の掌握を図る
38. いなみぐん【印南郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
などに大功田を賜っている。これを基盤に五箇庄(現加古川市)が成立したと考えられ、平氏滅亡後は梶原景時の知行所となった。郡内には印南庄・平・益気庄・志方・平津庄・
39. いぼのしょう【揖保庄】兵庫県:龍野市
日本歴史地名大系
孫に分割相伝されたと考えられる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条によれば、播磨国守護梶原景時配下の武士が平家に所縁のある庄園として「
40. うまや【〓
国史大辞典
、必ず厩が設けられた。鎌倉幕府では、文治五年(一一八九)十二月、はじめて十五間の厩がおかれ、梶原景時を厩別当に任じたと『吾妻鏡』にみえる。室町幕府では、厩別当は
41. うまやぶぎょう【〓奉行】
国史大辞典
御厩別当を御厩奉行ともいい、武家ではかなりの重職であった。鎌倉幕府では、文治五年(一一八九)十二月に梶原景時が新造の御厩の別当に任ぜられており、その後には三浦義
42. うらかみのしょう【浦上庄】兵庫県:揖保郡
日本歴史地名大系
勅事・院事以下の臨時国役などが免除された。地頭職は平家が所持していたようで、平家滅亡後、源頼朝は没官領に梶原景時を任じたが、後白河院は年貢徴納を請負っていた景時
43. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
資職は越後国府を掌握できなかった。頼朝が政権をとると長茂と名を改めていた資職は頼朝に捕らえられて梶原景時に預けられ、奥州出陣に参加して宥免された。しかし頼朝の没
44. 江戸温泉紀行 200ページ
東洋文庫
おほふ。万(満)福寺は義経公の旅みし給ひし寺也。この君、平家をうち、功なりて鎌倉へきたり給ふを、梶原景時の腹ぐろなるために、頼朝公のみけしきよからず、鎌倉へ入る
45. 江戸温泉紀行 289ページ
東洋文庫
切り出したまま加工していない石のこ とo蜘 此杉山の伏木…… 木の洞に入っていた頼朝を発見した梶原景時が、この時見逃がして救ったこ とが、後に味方となる起因とな
46. 江戸近郊道しるべ 32ページ
東洋文庫
重家は老母の労りに依て、本国紀州藤代にかへり、文治五年義経公奥州に下り給ふを聞て、潜に下向し、武州に於て梶原景時が家臣大間経正が為に生捕れ、鎌倉に至るといへども
47. 江戸近郊道しるべ 311ページ
東洋文庫
さくらの惣の数は百木にたらぬばかりやありなん、又堂の前にゑならぬ松一木あり、梶原松と云、もとこの寺は梶原景時(源頼朝の家来、正治二年駿河で戦死)開基にて、その初
48. 江戸近郊道しるべ 320ページ
東洋文庫
七 「略図」(三六〇頁)欄外に、土人云、往古梶原景時此辺にて二万石許を領す、千軒台は其比人家 在し所なりと云伝ふ、実に爾りやいなや(原文片カナ交り)八 車がへし
49. 愛媛(県)画像
日本大百科全書
、同病の者が祈願すると御利益ごりやくがあるという。杏の里あんずのさとの八幡浜市合田ごうだは、梶原景時かじわらかげときの娘ちどりが難を逃れて隠れた所。アンズは、ち
50. おおうちこれよし【大内惟義】
国史大辞典
また同六年の頼朝第二回の上洛に随い、また東大寺供養に参加した。頼朝の死後、正治二年(一二〇〇)正月、梶原景時が誅殺されたとき、このころから在京することが多かった
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