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  11. 江華島事件

江華島事件

ジャパンナレッジで閲覧できる『江華島事件』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

江華島事件
こうかとうじけん
明治八年(一八七五)九月二十日、日本軍艦雲揚号が朝鮮国江華島付近に侵入し、同島砲台と交戦して、砲台を破壊し、永宗島を占領した事件。雲揚号事件ともいう。明治初年以来、朝鮮が日本の国書を従来の形式と相違することを理由に受理しなかったため、国交回復は懸案となっていた。朝鮮事情探索と交渉のため釜山に派遣された外務省六等出仕広津弘信は、明治八年四月上書して、懸案解決のためには、朝鮮政府内に大院君ら鎖攘党が勢力を占めないうちに、軍艦を派遣して示威運動を行い、交渉の遷延を督責する状を示すのが効果的であると報告した。外務卿寺島宗則は海軍大輔川村純義らと協議のうえ、五月、軍艦雲揚・第二丁卯を釜山に派遣した。この示威運動に続いて、海軍省は雲揚艦長井上良馨少佐に、朝鮮西岸から清国牛荘に至る海路研究の名義のもとに、朝鮮に対する示威を行うよう内訓した。寺島外務卿は、同時に外交使臣の釜山引揚げを指令し、引揚げ用汽船を派遣した。引揚げ船入港当日の九月二十日、雲揚号は京仁地方防衛の任にあたる江華島砲台付近に進出し、端艇で飲料水採取中砲撃をうけて応戦、ついで永宗鎮を攻撃、民家を焼き払い砲三十六門を戦利品とした。この報告をうけた日本政府は、この機会に朝鮮と国交関係を樹立することとし、和交・貿易を認めるならば江華島事件の賠償とみなすという方針を決定、十二月九日、黒田清隆を全権大臣、井上馨を副全権とした。日本の方針はペリーが日本に行なったことを、朝鮮で実行しようとしたもので、旧来の事大交隣の国際関係を武力的威圧により打破し、万国公法的な国際関係を樹立することであった。具体的には、対等交際と貿易の承認、釜山・江華の開港、都府と開港場間の自由往来権を得ることを指令した。翌九年二月、黒田・井上は六隻の艦船の護衛下に江華府で、日朝修好条規(江華条約)を締結した。
[参考文献]
田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上、王〓生『日支外交六十年史』(長野勲・波多野乾編訳)、渡辺勝美『朝鮮開国外交史』
(藤村 道生)


世界大百科事典

江華島事件
こうかとうじけん

1875年に起きた日本と朝鮮の武力衝突事件で,雲揚号事件ともいう。事件は,9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき,江華島の草芝鎮から砲撃を受けたことによって起きた。日本側はこれに応戦して同鎮に損害を与えるとともに,南の永宗島の永宗鎮にも攻撃を加え焼き払った。この間の戦闘で日本側は負傷者2名(のち1名死亡),朝鮮側は死者35名を出した。江華水域は朝鮮の首都漢城(ソウル)に通じる要衝にあたるため,たび重なる洋擾(ようじよう)の下で厳重な警戒体制がしかれていた。事件の背景には,日本の明治維新に伴う日朝両国関係の行き詰まりがあった。江戸時代の日本は,対馬藩を窓口に唯一朝鮮とのみ国交を持っていた(交隣関係。朝鮮通信使)。明治維新で徳川氏から天皇に政権が移ると,1868年明治政府は国交のあった朝鮮に対馬藩を通して日本の政変を通告させた。対馬藩が朝鮮に送った外交文書(書契)は,天皇親政を伝えるものであったため,〈皇〉〈勅〉などの文字を用いていた。ところで朝鮮は清の属国とされていたので,〈皇〉〈勅〉は朝鮮にとって清の皇帝とその命令を意味するものと考えられていた。その結果,大院君政権は,日本がこれらの文字を使用したのは従来の交隣関係を破棄して朝鮮の上に立とうとすることを示したものとして,書契の受理を拒絶した。いわゆる書契問題である。1873年には大院君から閔(びん)氏に政権が移ったが朝鮮側の対応は変わらず,7年間膠着状態が続いた。そこで日本政府は,雲揚号,第二丁卯号などの軍艦を朝鮮沿岸に派遣して圧力を加え,事態を打開しようとした。事件はこの結果起きた。この事件以後,朝鮮の閔氏政権は朴珪寿らの努力で大院君ら鎖国攘夷(衛正斥邪)派の反対を押しきって日本との復交を図り,1876年2月に江華府において日朝修好条規(江華条約)を締結した。
[原田 環]

[索引語]
雲揚号事件 大院君 書契問題
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検索コンテンツ
1. 江華島事件
日本大百科全書
1875年(明治8)日本軍艦雲揚うんよう号と朝鮮のソウル近くの江華島カンホワド砲台との間で行われた戦闘と、雲揚号による同砲台の破壊および永宗島えいそうとう/ヨン
2. 江華島事件
世界大百科事典
1875年に起きた日本と朝鮮の武力衝突事件で,雲揚号事件ともいう。事件は,9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき,江華島の草芝
3. こうかとう‐じけん[カウクヮタウ‥]【江華島事件】
日本国語大辞典
明治八年(一八七五)、日本の軍艦雲揚号が朝鮮の開国を要求して朝鮮沖を示威中、江華島砲台と交戦した事件。雲揚号事件。コーカトージケン
4. こうかとうじけん【江華島事件】
国史大辞典
この報告をうけた日本政府は、この機会に朝鮮と国交関係を樹立することとし、和交・貿易を認めるならば江華島事件の賠償とみなすという方針を決定、十二月九日、黒田清隆を
5. 江華島事件
日本史年表
1875年〈明治8 乙亥〉 9・20 軍艦 雲揚 、江華島砲台と戦闘( 江華島事件 )。
6. いのうえよしか【井上良馨】
国史大辞典
軍楽隊にあこがれて、楽手になろうとしたが選にもれて海軍軍人となり、戊辰戦争に従軍した。明治八年(一八七五)の江華島事件には、雲揚艦長として渦中にあった。累進して
7. いのうえ-よしか【井上良馨】
日本人名大辞典
戊辰(ばしん)戦争に従軍。維新後は海軍にはいり,明治8年雲揚艦長として朝鮮江華島砲台を砲撃した(江華島事件)。19年軍務局長となり,21年海軍大学校校長を兼任。
8. 雲揚
日本史年表
1875年〈明治8 乙亥〉 9・20 軍艦 雲揚 、江華島砲台と戦闘( 江華島事件 )。
9. うんよう‐ごう[ウンヤウガウ]【雲揚号】
日本国語大辞典
日本海軍の軍艦。明治八年(一八七五)韓国の江華島沖で示威演習中、砲撃を受けて応戦し、江華島事件を起こした。ウンヨー
10. 雲揚号事件
日本大百科全書
江華島事件
11. うんようごうじけん【雲揚号事件】
国史大辞典
江華島事件(こうかとうじけん)
12. おおくぼせいけん【大久保政権】
国史大辞典
薩摩士族が従軍したのは、反政府の気分が強い薩摩士族に対する対策としての性格を物語っていた。八年九月の江華島事件の発端は、薩派軍人の井上良馨を艦長とする軍艦雲揚艦
13. おおさかかいぎ【大阪会議】
国史大辞典
めぐって木戸と板垣の対立があり、特に内閣参議と各省卿の分離をめぐって、木戸と板垣の関係は冷却し、江華島事件を契機としてついに板垣が辞任し、崩壊するに至った。大阪
14. 桂太郎自伝 92ページ
東洋文庫
之より前我が予想の如く、明治八〔九〕年には山口に前原一誠の騒擾あり。之に次で神風連は熊本に蜂起し、又朝鮮に江華島事件あり。種々の事変ありしかども、未だ西南の戦争
15. 桂太郎自伝 176ページ
東洋文庫
(4) 明治九年の士族反乱は、十月に神風連の乱、次いで山口の前原一誠の乱と続く。さらに朝鮮の 江華島事件は、その前年、明治八年九月である。(5)鎮台に師団番号が
16. 木戸孝允[文献目録]
日本人物文献目録
庭景陽『木戸松菊公の教育普及の建言に就いて』妻木忠太『木戸松菊公の筆蹟について』妻木忠太『江華島事件と木戸孝允の立場』小林克己『五箇条御誓文と木戸孝允』高梨光司
17. きんだい【近代】画像
国史大辞典
政府は殖産興業の名のもとに士族授産に多額の資金を投じ、さきに西郷隆盛らの征韓論に反対しながら、台湾出兵・江華島事件と、外征によって士族の不満を外にそらし、また八
18. きんだい【近代】 : 近代/〔嘉永六年(一八五三)―明治十年(一八七七)〕
国史大辞典
政府は殖産興業の名のもとに士族授産に多額の資金を投じ、さきに西郷隆盛らの征韓論に反対しながら、台湾出兵・江華島事件と、外征によって士族の不満を外にそらし、また八
19. 黒田清隆画像
日本大百科全書
鉄道・道路の建設などを進めた。1874年には屯田兵とんでんへいを創設。1875年特命全権弁理大臣として江華島事件こうかとうじけんの処理にあたり、翌1876年日朝
20. 黒田清隆
世界大百科事典
導入など積極的な政策を展開した。74年6月陸軍中将に進み,8月参議兼開拓長官に昇る。76年江華島事件が起こるや特命全権公使を命ぜられ,修好条約(日朝修好条規)の
21. くろだきよたか【黒田清隆】
国史大辞典
とになり、七年六月に陸軍中将兼開拓次官、八月には陸軍中将兼参議開拓長官に任ぜられた。また、江華島事件に際しては九年一月特命全権弁理大臣として副使井上馨とともに朝
22. ぐんじせいど【軍事制度】
国史大辞典
対外軍備の転換  明治国家の指導者は、国内矛盾の解決を対外侵略に求め、明治七年の台湾出兵や、同八年の江華島事件など早くから目を大陸に向けていた。西南戦争後、大陸
23. げんいん【原因】 : 日清戦争
国史大辞典
くる。日本では明治政府成立のときから、朝鮮制圧政策が対外政策の重点の一つとされ、明治八年の江華島事件を契機に、翌年、朝鮮側に一方的に不平等である日朝修好条規を締
24. 江華島
日本大百科全書
李朝末期の1866年にフランス艦隊、71年にアメリカ艦隊の攻撃を受け、75年には日本との間に江華島事件が起こった。平野は少ないが農業は盛んで、とくに朝鮮戦争後、
25. 江華島
世界大百科事典
役割はよく果たした。しかし,1875年の軍艦雲揚号への砲撃を口実とした日本の圧力に抗せず(江華島事件),76年朝鮮政府は日朝修好条規(江華条約)を結び,釜山ほか
26. こうかとう【江華島】
国史大辞典
アメリカ艦隊が砲撃を加えて海兵隊を上陸させた。つづいて七五年には、日本海軍がここを攻撃した(江華島事件)。この島の特殊施設として、十七世紀以後史庫があった。豊臣
27. こうかとう‐じょうやく[カウクヮタウデウヤク]【江華島条約】
日本国語大辞典
明治九年(一八七六)、江華島事件の結果日本と李氏朝鮮との間で締結された条約。朝鮮の清朝からの独立、釜山ほか二港の開港、公使・領事の駐在、日本人に対する領事裁判権
28. こっけんろん【国権論】
国史大辞典
提出し、「国難に際し身を致すは人民の通議」だといい、対外侵略に積極的に協力を申し出で、また江華島事件においても政府の行動を是認し、「我が栄誉面目を全う」するため
29. 薩摩反乱記 213ページ
東洋文庫
しかるに二年の後には、ただ朝鮮の附属官吏が、けだし、その政府の命令もなく日本船に発砲せし件(江華島事件)をもって、かの国に出征せしめたる故なり」と。 「政府の外
30. しん【清】
国史大辞典
、未解決のうちに清国が日清戦争に敗れ、日本の琉球併合が既成事実になった。他方、明治政府は、江華島事件によって同九年日朝修好条規を締結し、朝鮮を「自主ノ邦」とした
31. 征韓論
世界大百科事典
この征韓論争に勝利し,大久保を中心として固められた大久保政権は1874年には台湾に出兵し,翌75年には江華島事件を引き起こし,朝鮮に対し軍事力を行使した。征韓論
32. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 358ページ
東洋文庫
(大阪会議)。・四月一四日、元老院・大審院・地方官会議を設く。漸次立憲政体樹立の旨詔勅。・九月二〇日、江華島事件起る。・九月二六日、日朝修好条規に調印。
33. そうしげまさ【宗重正】
国史大辞典
日鮮通好事務取扱を命じられ王政復古を朝鮮に通告、同二年対馬厳原藩知事、同四年外務大丞となり江華島事件のころまで朝鮮との外交を管掌した。同十七年伯爵を授けられたが
34. そう‐へいしゅん【宋秉〓
日本国語大辞典
朝鮮、李朝末の政治家。号は済庵。一八七五年(明治八)の江華島事件を契機に親日派となり、日露戦争では日本軍に協力。その後、韓国併合を推進し、日本の爵位をうけた。(
35. たいがいぐんびのてんかん【対外軍備の転換】 : 軍事制度
国史大辞典
対外軍備の転換  明治国家の指導者は、国内矛盾の解決を対外侵略に求め、明治七年の台湾出兵や、同八年の江華島事件など早くから目を大陸に向けていた。西南戦争後、大陸
36. 大院君
世界大百科事典
を強化して2度の洋擾(ようじよう)(1866,71),日本との書契問題(1868-76。〈江華島事件〉の項参照)などを惹起した。攘夷の決意を表明した斥和碑の建立
37. 朝鮮画像
世界大百科事典
これを背景として明治政府は閔(びん)氏政権(閔妃)への交代による対外政策の軟化を利用しつつ,江華島事件を契機として朝鮮の近代世界への開国を意味する日朝修好条規を
38. ちょうせん【朝鮮】
国史大辞典
、一八七三年に失脚し、閔氏一族による世道政治が始まる。開国政策をとる閔氏政権は、一八七六年江華島事件を契機に日朝修好条規(江華条約)を締結して開国した。一八八二
39. 朝鮮奥地紀行 1 40ページ
東洋文庫
を成功裡に保ってきた。侵入しようとする企図は全て暴力でもって撃退した。その年、日本が条約〔江華島事件のあとで結ばれた大日本大朝鮮修好条規。日朝修好条規、江華島条
40. つしまのくに【対馬国】長崎県
日本歴史地名大系
捨て去ることでもあった。それはまた対馬のみではなく、近代日本にとって大きな負となった。早くも同八年九月の江華島事件を経て同九年に日朝修交条規の調印がなされるので
41. にっしんせんそう【日清戦争】
国史大辞典
くる。日本では明治政府成立のときから、朝鮮制圧政策が対外政策の重点の一つとされ、明治八年の江華島事件を契機に、翌年、朝鮮側に一方的に不平等である日朝修好条規を締
42. 日清戦争史(年表)
日本大百科全書
1873(明治7)10月 征韓論敗北し西郷隆盛、板垣退助ら参議辞職1875(明治8)9月 江華島事件起こる1876(明治9)2月 日朝修好条規調印1880(明治
43. にっしんせんそうまで【日清戦争まで】 : 清/(一)
国史大辞典
、未解決のうちに清国が日清戦争に敗れ、日本の琉球併合が既成事実になった。他方、明治政府は、江華島事件によって同九年日朝修好条規を締結し、朝鮮を「自主ノ邦」とした
44. にっちょうかんけい【日朝関係】
国史大辞典
揚号も応戦して砲台を破壊した。翌七六年一月日本は陸軍中将兼参議黒田清隆を全権弁理大臣として江華島事件および修交談判のため朝鮮に派遣し軍事的圧力のもとで二月二十六
45. にっちょうかんけい【日朝関係】 : 日朝関係/(一)第一期
国史大辞典
揚号も応戦して砲台を破壊した。翌七六年一月日本は陸軍中将兼参議黒田清隆を全権弁理大臣として江華島事件および修交談判のため朝鮮に派遣し軍事的圧力のもとで二月二十六
46. 日朝修好条規
世界大百科事典
江華島事件(1875)のあと,日本と朝鮮とのあいだで1876年2月26日に,朝鮮の江華府で結ばれた〈大日本大朝鮮修好条規〉のこと。江華条約とも言う。日本側の黒田
47. にっちょう‐しゅうこうじょうき[ニッテウシウカウデウキ]【日朝修好条規】
日本国語大辞典
明治九年(一八七六)、朝鮮の江華府で調印された日本と朝鮮の条約。同八年の江華島事件を口実に締結。朝鮮が自主独立国であることを宣言、釜山・元山・仁川の開港、日本の
48. にっちょうしゅうこうじょうき【日朝修好条規】
国史大辞典
その交渉は捗らなかった。そこで日本政府は、明治八年九月、江華島事件をひき起した後、これを機会に、年来の企図を実現しようとした。江華島事件のあと、木戸孝允が特派大
49. 日本旅行日記 2 163ページ
東洋文庫
だと一人が言ったが、それは先般私が大隈と会った時に彼が語っていたことと一致する。 *朝鮮の江華島事件 鎖国政策を続ける朝鮮の大  院君政権の下で一八六六年(慶応
50. パクキュス【朴珪寿】(Pak Kyu-su)
世界人名大辞典
)が親政を始めて日本との関係修復が図られると,右議政として日本との復交を主張,雲揚号事件(江華島事件)の後も日本との軍事衝突を避けて,条約締結に朝鮮政府が主体的
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