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  11. 大友宗麟

大友宗麟

ジャパンナレッジで閲覧できる『大友宗麟』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

大友宗麟
おおともそうりん
一五三〇 - 八七
戦国時代の武将。豊後・筑後・肥後・筑前・豊前・肥前六ヵ国守護。享禄三年(一五三〇)生まる。大友氏二十代義鑑の長子。幼名塩法師丸、のち五郎また新太郎。左衛門督、従四位下。諱は義鎮(よししげ)。入道宗麟・円斎・三非斎。キリスト教名ドン=フランシスコ。天文十九年(一五五〇)廃嫡事件で父義鑑が横死した(大友二楷崩の変)あとをうけ家督をつぐ。義鑑の晩年は、豊後・筑後・肥後三ヵ国守護職に補任され、弟重治を肥後菊池氏に入れて嗣とし、筑前・豊前守護職を兼ねた大内義隆とは和を結び、比較的安定していた。義鎮襲封の翌二十年大内義隆が家臣陶晴賢に殺され、これが爾後の大友氏の発展に大きな影響を与えた。晴賢はあらかじめ、義鎮との間に結んだ密約に従って、義鎮の弟晴英を大内の嗣に迎えて大内義長と称せしめた。大内勢力の退潮により、義鎮は同二十三年肥前守護職に補任。またこのころ宗家に叛いた菊池重治を、豊後直入郡木原に誘殺して後顧の憂いを絶った。この間中国では毛利元就が勢力を得、陶晴賢を討ち、弘治三年(一五五七)には大内義長を滅ぼした。しかしなお九州まで手を出すまでに至らず、義鎮は豊前・筑前・肥前方面を鎮定し、さらに伊予に攻め入った。かくて永禄二年(一五五九)将軍足利義輝から豊前・筑前守護職を加えられ、北九州六ヵ国と日向・伊予各半国に及ぶ空前の大版図を形成した。これから天正六年(一五七八)までの約二十年間が、なお波瀾はあるが黄金時代となる。しかし永禄二年九月には門司城で毛利軍との戦いが始まり、これに呼応して筑前秋月種実・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種、豊前の長野吉辰・野仲鎮種らが離反した。義鎮は豊前方面で毛利と苦戦中、同五年五月一日臼杵丹生島城を築いて移り、入道して宗麟と号し、府内は長子義統に任せた。同七年将軍義輝の命で豊芸の和が成立したので、宗麟は領内平定に専念し、毛利氏は出雲の尼子氏討伐に全力を注ぎ、同九年富田城を陥れた。これ以後尼子氏残党の動向が毛利氏の動静を決定し、これが宗麟の勢力の消長を左右する。同十年から十二年にかけての秋月・筑紫・竜造寺の離反、一族高橋鑑種・立花鑑載らの反逆は、尼子氏を討ち再び九州に軍勢をさし向けた毛利軍との内通の結果であり、宗麟の危機であった。ところが同十二年尼子勝久が但馬から出雲に攻め入ったので、元就は宗麟と和し兵を返した。勝久は敗れて京都に走り織田信長に頼ったので、毛利氏は信長を敵とすることになり、元亀二年(一五七一)元就の病死後九州から完全に手を引いた。この結果宗麟の北九州制覇が完成したのである。天正元年家督を長子義統に譲ったが、なお諸事皆宗麟の命に出でた。北の敵はなくなったが、新たに南の島津義久との対決が迫り、同六年日向の土持親成を討ち、同年冬、高城で義久軍と戦って大敗、耳川でさらに追い撃ちをかけられた(耳川の戦)。これから大友氏の大版図の瓦解が始まり、肥前竜造寺隆信や豊後でも一族の田北紹鉄と田原親宏・親貫父子の反乱がおこり、大友氏は再び危機に陥った。この間島津氏は北上し、大友氏の拠点筑前の岩屋・宝満・立花諸城を攻め、豊後南郡の内通者の導きで、同十四年島津義弘は肥後、同家久は日向から豊後に侵入した。宗麟は上坂して豊臣秀吉の救援を求め、同十五年秀吉の九州征伐となり、島津軍は退却して秀吉に降参した。この結果秀吉から義統は豊後一国を、宗麟は日向一国を与えられたが、宗麟は辞退して受けなかった。宗麟は同十年ごろから後妻ジュリヤと津久見に隠棲してキリスト教信迎の生活を送ったが、同十五年五月二十三日同地において疫病により死没した。時に五十八歳。法諡瑞峰院殿瑞峰宗麟大居士。墓は大分県津久見市大字津久見字ミウチ(中田区引地ミウチ)にある。大友氏の領国支配で注意されるものに、年老・宿老とも呼ばれる加判衆の制度がある。重臣中から選ばれ、一種の評定衆ともいうべきもので、大友氏発給の文書に遵行状を出し、連署する。人数は四、五人ではじめは国衆が多かったが、大友一族である紋の衆との争いがあり、義鑑の遺言で三人充計六人とした。加判衆は国ないし郡別に事務分担があり、「方分」と称した。加判衆の合議にあたり、分担の国について主担当となるものである。うち一、二名は筑後の守護代ないし郡詰代官として、任地に在国する定めであった。方分の下に検使が任ぜられ、郡単位に二名充代官として闕所地調査・段銭徴収・公領管理などにあたった。荘・郷単位に政所が置かれ、別に目付・耳聞を放って情報を集めた。家臣団編成は豊後では個別の与力被官契約による構成が多く、筑後などでは寄子同心的体制による国人の集団的動員体制が整備され、これを守護代が支配する植民地型の知行であった。総じて家臣団の統制は甘く、加判衆でさえ在地しており、宗麟の晩年には加判衆は出仕せず、浦上宗鉄という右筆が代行した。大友氏領国瓦解の一因である。宗麟は天文二十年山口からシャビエルを府内に招き、キリスト教の教義と西洋事情をきいてから、布教を公許し保護を加えた。当時のわが宗教界の腐敗と迷信の流行に対し、宣教師の厳粛な信仰と生活態度に感じ、さらに鉄砲・大砲・硝石などの火器に代表される西洋文化と貿易の利を得ようとしたものである。宗麟時代ポルトガル船は、五度も府内の外港沖ノ浜に来航し、盛んに南蛮貿易が行われた。シャビエルは一旦印度に帰り、同二十一年神父バルテザル=ガゴ以下を派遣した。ガゴは、シャビエルから後事を託されて山口に居たコスメ=デ=トルレスに会って指揮をうけ、宗麟の援助により府内に住院を建て、礼拝堂を設けて布教を始めた。トルレスはシャビエルの精神を体し、日本の風俗・習慣を研究しこれにとけこむ方策をとり、日本語の福音書を書き育児院・病院を建てて貧民や病人を救ったので信者は急速に増加した。永禄五年宗麟が臼杵に移ってからここが中心地となるが、元亀元年トルレスにフランシスコ=カブラルが代わると、宗麟次子親家・田原親虎らの入教問題が起り、宗麟の家庭や周辺に深刻なトラブルが発生、殉教問題にまで発展しようとした。カブラルの偏狭で妥協しない布教方針の結果で、宗麟も周囲の大反対をおし切り、天正六年妻を離婚し、カブラルにつき洗礼をうけドン=フランシスコと号した。同七年アレッサンドロ=バリニァーノが巡察師として来日してカブラルに代わると、再びシャビエルの精神に復したため、日向敗戦後の衰退期にもかかわらず、信者は増加して一万をこえ各地に教会ができた。豊後は都・下(しも)とならぶ三大教区の一つとなり、府内にコレジヨ、臼杵にノビシャドが設立され、日本人も入学した。同十年のいわゆる天正遣欧使節については出発まで宗麟は関知しなかったらしく、これもバリニァーノの布教政策の一つであった。なお宗麟が社寺を焼いたという伝承は、誇張された面がある。また遣欧使節が帰朝したのは、宗麟の死の三年後であった。
[参考文献]
松田毅一『きりしたん大名大友宗麟の生涯』、外山幹夫『大友宗麟』(『人物叢書』一七二)、『大分市史』下、西村圭子「大友氏末期における筑前支配形態の変遷」(日本女子大学史学研究会編『大類伸博士喜寿記念史学論文集』所収)、久多羅木儀一郎「大友宗麟伝雑考」(『大分県地方史』一三―一六合併号)、岡本良知「戦国時代の豊後府内港」(同一〇)、桑波田興「大友氏家臣団についての一孝察」(『九州文化史研究所紀要』八・九合併号)、橋本操六「大友氏奉行人の変遷と時代考証」(『豊日史学』二七・二八合併号)、芥川竜男「大友家臣団についての一考察―加判衆考察の問題点―」(『法政史学』一五)、松田毅一「天正遣欧使節の真相―特に伊東満所について―」(『史学雑誌』七四ノ一〇)、アルカディオ=シュワーデ「キリシタン大名大友宗麟の最期について」(『上智史学』一三)
(渡辺 澄夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

大友宗麟
おおともそうりん
[1530―1587]

戦国大名。大友氏20代義鑑 (よしあき)の長子として豊後府内 (ぶんごふない)(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸 (しおほうしまる)。元服して義鎮 (よししげ)。1550年(天文19)家督を継ぐ。1562年(永禄5)怡雲 (いうん)(宗悦 (そうえつ))和尚 (おしょう)(1518―1589)について剃髪 (ていはつ)し瑞峯 (ずいほう)宗麟となり、以後三非斎 (さんぴさい)、圓斎 (えんさい)、府蘭 (ふらん)、宗滴 (そうてき)と称す。この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも1578年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。1582年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。一方、九州6か国(豊後 (ぶんご)、豊前 (ぶぜん)、筑前 (ちくぜん)、筑後 (ちくご)、肥前 (ひぜん)、肥後 (ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。しかし、1563年臼杵 (うすき)の丹生島 (にうじま)城に移り、府内に長子義統 (よしむね)を置いて二頭政治となり、1578年(天正6)薩摩 (さつま)の島津氏と日向 (ひゅうが)耳川 (みみかわ)で合戦して大敗した。これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、1586年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣秀吉 (とよとみひでよし)の救援を求めた。翌1587年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見 (つくみ)で病死した。

[芥川龍男]2018年3月19日



世界大百科事典

大友宗麟
おおともそうりん
1530-87(享禄3-天正15)

戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタン大名と呼ばれるが受洗は隠居後。受洗名フランシスコ。1582年(天正10)大村氏,有馬氏とともに天正少年使節団を派遣したといわれるが,使節持参の宗麟書状は偽文書で,少なくとも宗麟に関するかぎり使節は偽使。キリシタンに好意を示した動機は明らかに貿易が目的で,豊後府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし,フィリピン等へ貿易船を派遣するなど十分な成果をあげた。また博多の一部を教会領に寄進している。大内義隆滅亡後,弟晴英を後継者に送ったが,1557年(弘治3)毛利氏に追われる義長(晴英)を見殺し,死の直後に豊前,筑前,肥前を制圧,旧領と合わせ6ヵ国を握り各国守護に任じ,潜在主権として長門・周防守護にも任じ,九州探題の名称も得た。68年(永禄11)毛利氏の豊前,筑前への侵攻に対抗して筑後高良山へ出陣,筑前立花城を中にはさんでの総力戦を指揮,同年10月大内輝弘を周防へ送り込み山口を占領させ,撤退する毛利勢を討って筑前を回復したが豊前北部は毛利支配下に残った。75-76年(天正3-4)ころ引退。78年受洗。同年嫡子義統(よしむね)の大敗により80年政界復帰。はじめ義統の共同統治者として,後には後見役的立場で義統を助け,86年島津氏の圧力にたえかねみずから上京,豊臣秀吉に援を請うたが,このとき国元へ送った書状は秀吉の大坂城のようす,宗麟への接待,秀吉やその側近のようすなどを活写している。秀吉の島津制圧直後に死亡。内政面では有力庶家や庶家出身者を年寄に登用し,また地域的軍事・行政権をもつ城督を新征服地を中心に設置,行政軍事組織の改変を行った。なお,キリシタンとなってから寺社を弾圧,破壊,放火したという宣教師の報告や伝説が多いが,大名時代にこうした行動はまったく見えず,その後のものは織田信長をまねた義統による寺社圧迫や兵火にかかったのが誤り伝えられた場合がほとんどである。
[木村 忠夫]

[索引語]
大友義統
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検索コンテンツ
1. 大友宗麟
日本大百科全書
戦国大名。大友氏20代義鑑よしあきの長子として豊後府内ぶんごふない(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸しおほうしまる。元服して義鎮よししげ。1550年(天文19)
2. 大友宗麟
世界大百科事典
1530-87(享禄3-天正15) 戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタ
3. おおとも‐そうりん【大友宗麟】
日本国語大辞典
戦国大名。義鑑の子。名は義鎮(よししげ)。北九州六国を制圧し、大友氏全盛期を実現。朝鮮、明、ポルトガルと交易。一方、キリスト教に帰依(きえ)し、大村氏、有馬氏と
4. おおともそうりん【大友宗麟】画像
国史大辞典
また遣欧使節が帰朝したのは、宗麟の死の三年後であった。 [参考文献]松田毅一『きりしたん大名大友宗麟の生涯』、外山幹夫『大友宗麟』(『人物叢書』一七二)、『大分
5. おおとも-そうりん【大友宗麟】
日本人名大辞典
1530−1587 戦国-織豊時代の武将。享禄(きょうろく)3年生まれ。大友義鑑(よしあき)の長男。豊後(ぶんご),肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。
6. 大友宗麟[文献目録]
日本人物文献目録
』村上直二郎『大友宗麟考』梅本春次『大友宗麟伝雑考』久多羅木儀一郎『大友宗麟と臼井・津久見・佐伯』増村隆也『大友宗麟と茶道』立川輝信『大友宗麟と豊後長泉寺之其批
7. 大友儀鎭信耶蘇數 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1102ページ
8. 大友宗麟明國通交 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 1001ページ
9. 大友宗麟破却社寺 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1647ページ
10. 大友義鎭悔悟 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 258ページ
11. 大友宗麟印[図版]画像
国史大辞典
非 非 FRCO IHS FRCO (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
12. 大友宗麟花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 大友宗麟来歴(著作ID:4397713)
新日本古典籍データベース
おおともそうりんらいれき 伝記 
14. 大友宗麟破却領内寺院 (見出し語:寺院)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1121ページ
15. 大友宗麟破却領内神社 (見出し語:神社)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1121ページ
16. あおきのしよう【青木庄】福岡県:三潴郡/城島町
日本歴史地名大系
宰府・太宰府天満宮史料一五)には寅申巳亥の庄々としてみえる。元亀元年(一五七〇)八月一一日の大友宗麟書状(同上)は天満宮神領である当庄のうち一五〇町を大友氏の家
17. 赤瀬川隼
情報・知識 imidas
受賞していた弟とともに、初めて兄弟での芥川賞、直木賞受賞を果たしたことが話題を集めた。ほかに、戦国大名の大友宗麟を題材にした「王国燃ゆ」(87年、講談社)や、「
18. あがたのしょう【県庄】宮崎県:延岡市
日本歴史地名大系
文書)に島津方の持城として「土持 県」とみえる。天正六年(一五七八)四月、日向に侵攻してきた大友宗麟の軍勢に敗れ松尾城は落城したが、同年一一月島津軍と大友軍との
19. あきごう【安岐郷】大分県:東国東郡/安岐町
日本歴史地名大系
〔鍛冶屋名〕現大添字鍛冶屋迫か。天正八年二月田原親貫は鞍懸城(現豊後高田市)や安岐城を拠点に大友家に反した。大友宗麟は次男親家を国東に入れ田原氏の名跡を継がせた
20. あきづき・あきづきのしよう【秋月・秋月庄】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
秋月の休松で大友宗麟方の五条鎮定らは毛利方と合戦し、多数の死傷者を出している(「大友宗麟証判五条鎮定軍忠着到状」五条家文書/史料纂集など)。天正一二年(一五八四
21. あきづき-たねかた【秋月種方】
日本人名大辞典
−1557 戦国時代の武将。筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月城主。毛利氏と通じて大友氏に対抗したが,大友宗麟(そうりん)の部将戸次鑑連(べっき-あきつら)らに攻め
22. あさひだけじょうあと【朝日岳城跡】大分県:南海部郡/宇目町/上爪村
日本歴史地名大系
栂牟礼城(現佐伯市)城主佐伯惟定は、同惟澄ら一族郎等を率いて土持親信の守る当城を攻め落している(三月一三日「大友宗麟感状案」佐伯文書)。現在は樹林の中に広場の跡
23. 足利義昭画像
日本大百科全書
10月征夷せいい大将軍、参議、左近衛権中将さこんえごんのちゅうじょうとなる。1569年毛利元就もうりもとなりと大友宗麟おおともそうりん、上杉輝虎うえすぎてるとら
24. あじさかのしよう【鰺坂庄】福岡県:小郡市
日本歴史地名大系
千代に譲渡した(同年五月二八日「戸次道雪譲状写」立花家文書/福岡県史資料四)。また西村七五町も大友宗麟により高良社に還補された(年未詳七月二一日「田原親賢書状」
25. あずさとうげ【梓峠】宮崎県:東臼杵郡/北川町/川内名村
日本歴史地名大系
門河(現門川町)から新名表(現日向市)へ打出て土持親成を生捕りにしている。同年八月にも島津攻めのため大友宗麟が当峠を越えて無鹿(現延岡市)に着陣している(以上「
26. あたかむら【安宅村】福岡県:田川郡/川崎町
日本歴史地名大系
戸山岳・北山の両所に祀ったため両所大権現と称されたという。文明八年(一四七六)地頭壬生弘唯が遷宮したが、大友宗麟の兵火により旧記などをことごとく焼失したといい、
27. あねがわじょうあと【姉川城跡】佐賀県:神埼郡/神埼町/上姉川村
日本歴史地名大系
治元年(一五五五)と永禄元年(一五五八)には姉川氏は竜造寺勢に味方し、姉川城が本陣となった。大友宗麟が来攻した永禄・元亀年間(一五五八―七三)には江上氏とともに
28. あねむら【姉村】佐賀県:神埼郡/千代田町
日本歴史地名大系
埼郡の三根郷にわたる地方を領域としたものであろう。永禄一二年(一五六九)三月、肥前に侵入した大友宗麟勢は竜造寺氏の佐賀城攻撃のためこの姉に陣をとった。元亀元年(
29. あまくさぐん【天草郡】熊本県
日本歴史地名大系
草・栖本・上津浦各氏のいわゆる天草五人衆の時代となる。一時は相良氏治下に入るが、やがて豊後の大友宗麟の勢力が天草に及ぶ。なお長島は永禄八年(一五六五)島津氏に攻
30. あまぐん【海部郡】
国史大辞典
が地頭職を帯したが、南北朝時代以後は大友氏および一族被官の勢力がのびた。永禄五年(一五六二)大友宗麟が臼杵荘に丹生島城を築いて移ってから、臼杵にキリスト教教会や
31. あまぐん【海部郡】 : 海部郡/(三)
国史大辞典
が地頭職を帯したが、南北朝時代以後は大友氏および一族被官の勢力がのびた。永禄五年(一五六二)大友宗麟が臼杵荘に丹生島城を築いて移ってから、臼杵にキリスト教教会や
32. あまこ-かつひさ【尼子勝久】
日本人名大辞典
織豊時代の武将。天文(てんぶん)22年生まれ。尼子国久の孫。尼子氏再興をはかり,永禄(えいろく)12年大友宗麟(そうりん)の援助をえて挙兵。出雲(いずも)(島根
33. あらきむら【荒木村】福岡県:久留米市/旧三潴郡地区
日本歴史地名大系
の筑後領主附(筑後将士軍談)に「斎藤三河守、居荒木、領十三町五反」とあり、同人は三月一一日の大友宗麟書状(隈文書/久留米市史7 資料編古代・中世)の宛所にみえる
34. あらほじんじゃ【荒穂神社】佐賀県:三養基郡/基山町/宮浦村
日本歴史地名大系
五〇四―二一)以前、衆徒の騒乱による焼失とし、荒穂神社雑記は永禄年間(一五五八―七〇)豊後の大友宗麟の兵火のためという。のち現在地に遷座し、戦国時代末期以降、こ
35. ありあけかい【有明海】福岡県:総論
日本歴史地名大系
上妻郡山下城(現立花町)の蒲池鑑広に対しては榎津への出陣を命じている(五月二五日「大友宗麟書状」同上、同月二六日「大友宗麟書状」蒲池文書/福岡県史資料五)。天正
36. アルメイダ【Luis de Almeida】
国史大辞典
ついで弘治元年(一五五五)山口へ赴き、日本イエズス会にはいった。その翌年豊後府内へ至り、領主大友宗麟の後援を得、みずから一〇〇〇クルサドを献金して同地に育児院を
37. アルメイダ
日本人名大辞典
る。イエズス会に入会,ザビエルの後継者トルレスについて布教に従事。豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟(そうりん)の保護のもと,育児院,病院などを建設,みずからも
38. アルメイダ(Almeida, Luis de)
世界人名大辞典
,山口のトルレスのもとに赴き,ガゴと共に豊後に布教して一生を奉教に尽くした.外科医術に長じ,大友宗麟の援助の下に育児院,病院,ハンセン病施療院を起こして医療にも
39. あわのみょうむら【粟野名村】宮崎県:延岡市
日本歴史地名大系
河北としても今山八幡宮祭礼役を分担している(今山八幡宮旧記)。天正六年(一五七八)四月、日向に侵攻した大友宗麟はキリスト教的理想王国の建設を目指してイエズス会の
40. あんこくじ【安国寺】福岡県:久留米市/旧御井郡地区/神代村
日本歴史地名大系
じたという(寛文十年寺社開基)。諸塔頭も随時退転し、近世初頭には宝林庵一宇を残すのみ。戦国期大友宗麟が隣接する隈代渡の渡河料徴収権を当寺に付与したといわれ(太宰
41. あん‐り【案利】
日本国語大辞典
〔名〕思いのままになること。*佐田文書‐(元亀元年)〔1570〕九月一日大友宗麟書状「諸口堅加〓下知
42. いうん-そうえつ【怡雲宗悦】
日本人名大辞典
京都大徳寺で徹岫宗九(てっしゅう-そうきゅう)の法をつぎ,天文(てんぶん)24年同寺住持となる。大友宗麟(そうりん)にまねかれ,豊後(ぶんご)(大分県)に文殊,
43. イエズス会
世界大百科事典
中心に教化を進め,17世紀初めには,全国の信徒は約20万人にのぼった。その中から,大村純忠,大友宗麟,有馬晴信らのキリシタン大名もあらわれ,また天正遣欧使節も派
44. 医学
世界大百科事典
deアルメイダで,通商旅行の必要性から多少の医術を知っていたが,日本でイエズス会に入信,豊後の大友宗麟の後援のもとに府内(現,大分市)に育児院と病院をつくった。
45. いけじりべつぷ【池尻別符】福岡県:田川郡/川崎町/池尻村
日本歴史地名大系
伊田弾正の所領であった谷名・小屋敷名一三町、大塚源左衛門の所領であった西名七町が岐部鑑種に預けられた(「大友宗麟預ケ状写」岐部文書/熊本県史料 中世篇四)。
46. いしだごう【石田郷】福岡県:北九州市(旧豊前域)/小倉南区/石田村
日本歴史地名大系
豊前国の「御弓矢怱劇」により不知行となったという(「毛利氏奉行人連署奉書」萩藩閥閲録四)。永禄九年(一五六六)大友宗麟は野上治部少輔に石田郷四〇町分を与えている
47. 石火矢
世界大百科事典
9kg)から4~5貫目(約15~19kg)ほどで,3~4町離れた敵を倒すことができた。1576年(天正4)大友宗麟が南蛮から入手して国崩(くにくずし)と命名した
48. いしびや【石火矢】
国史大辞典
いたからこれに従ったものであろう。その型式により三種に分かれる。第一は仏狼機と称するもので、大友宗麟の注文によりゴアより天正四年(一五七六)に肥前国高来郡口之津
49. いたちやむら【板知屋村】大分県:臼杵市
日本歴史地名大系
藩政史料)。旧高旧領取調帳に初めて独立村として高付され、高六〇石余。神ノ前に厳島神社があり、大友宗麟の丹生島入城の折に勧請されたという(臼杵小鑑)。明治一八年(
50. いだごう【井田郷】大分県:大野郡/犬飼町
日本歴史地名大系
同地方に赴いたイルマン・ギリエルメらの一〇ヵ月に及ぶ滞在中に一六〇名の受洗者があった。同地方の領主で王妃(大友宗麟夫人奈多氏)の義兄弟である大身は会堂建設の場所
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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「大友宗麟」は武将・大名・王・官僚・僧に関連のある記事です。
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武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
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