1. 大友宗麟
日本大百科全書
戦国大名。大友氏20代義鑑よしあきの長子として豊後府内ぶんごふない(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸しおほうしまる。元服して義鎮よししげ。1550年(天文19)
2. 大友宗麟
世界大百科事典
1530-87(享禄3-天正15) 戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタ
3. おおとも‐そうりん【大友宗麟】
日本国語大辞典
戦国大名。義鑑の子。名は義鎮(よししげ)。北九州六国を制圧し、大友氏全盛期を実現。朝鮮、明、ポルトガルと交易。一方、キリスト教に帰依(きえ)し、大村氏、有馬氏と
4. おおともそうりん【大友宗麟】画像
国史大辞典
また遣欧使節が帰朝したのは、宗麟の死の三年後であった。 [参考文献]松田毅一『きりしたん大名大友宗麟の生涯』、外山幹夫『大友宗麟』(『人物叢書』一七二)、『大分
5. おおとも-そうりん【大友宗麟】
日本人名大辞典
1530−1587 戦国-織豊時代の武将。享禄(きょうろく)3年生まれ。大友義鑑(よしあき)の長男。豊後(ぶんご),肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。
6. 大友宗麟[文献目録]
日本人物文献目録
』村上直二郎『大友宗麟考』梅本春次『大友宗麟伝雑考』久多羅木儀一郎『大友宗麟と臼井・津久見・佐伯』増村隆也『大友宗麟と茶道』立川輝信『大友宗麟と豊後長泉寺之其批
7. 大友儀鎭信二耶蘇數一 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1102ページ
8. 大友宗麟明國通交 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 1001ページ
9. 大友宗麟破二却社寺一 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1647ページ
10. 大友義鎭悔悟 (見出し語:大友宗麟)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 258ページ
11. 大友宗麟印[図版]画像
国史大辞典
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12. 大友宗麟花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
13. 大友宗麟来歴(著作ID:4397713)
新日本古典籍データベース
おおともそうりんらいれき 伝記
14. 大友宗麟破二却領内寺院一 (見出し語:寺院)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1121ページ
15. 大友宗麟破二却領内神社一 (見出し語:神社)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1121ページ
16. あおきのしよう【青木庄】福岡県:三潴郡/城島町
日本歴史地名大系
宰府・太宰府天満宮史料一五)には寅申巳亥の庄々としてみえる。元亀元年(一五七〇)八月一一日の大友宗麟書状(同上)は天満宮神領である当庄のうち一五〇町を大友氏の家
17. 赤瀬川隼
情報・知識 imidas
受賞していた弟とともに、初めて兄弟での芥川賞、直木賞受賞を果たしたことが話題を集めた。ほかに、戦国大名の大友宗麟を題材にした「王国燃ゆ」(87年、講談社)や、「
18. あがたのしょう【県庄】宮崎県:延岡市
日本歴史地名大系
文書)に島津方の持城として「土持 県」とみえる。天正六年(一五七八)四月、日向に侵攻してきた大友宗麟の軍勢に敗れ松尾城は落城したが、同年一一月島津軍と大友軍との
19. あきごう【安岐郷】大分県:東国東郡/安岐町
日本歴史地名大系
〔鍛冶屋名〕現大添字鍛冶屋迫か。天正八年二月田原親貫は鞍懸城(現豊後高田市)や安岐城を拠点に大友家に反した。大友宗麟は次男親家を国東に入れ田原氏の名跡を継がせた
20. あきづき・あきづきのしよう【秋月・秋月庄】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
秋月の休松で大友宗麟方の五条鎮定らは毛利方と合戦し、多数の死傷者を出している(「大友宗麟証判五条鎮定軍忠着到状」五条家文書/史料纂集など)。天正一二年(一五八四
21. あきづき-たねかた【秋月種方】
日本人名大辞典
−1557 戦国時代の武将。筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月城主。毛利氏と通じて大友氏に対抗したが,大友宗麟(そうりん)の部将戸次鑑連(べっき-あきつら)らに攻め
22. あさひだけじょうあと【朝日岳城跡】大分県:南海部郡/宇目町/上爪村
日本歴史地名大系
栂牟礼城(現佐伯市)城主佐伯惟定は、同惟澄ら一族郎等を率いて土持親信の守る当城を攻め落している(三月一三日「大友宗麟感状案」佐伯文書)。現在は樹林の中に広場の跡
23. 足利義昭画像
日本大百科全書
10月征夷せいい大将軍、参議、左近衛権中将さこんえごんのちゅうじょうとなる。1569年毛利元就もうりもとなりと大友宗麟おおともそうりん、上杉輝虎うえすぎてるとら
24. あじさかのしよう【鰺坂庄】福岡県:小郡市
日本歴史地名大系
千代に譲渡した(同年五月二八日「戸次道雪譲状写」立花家文書/福岡県史資料四)。また西村七五町も大友宗麟により高良社に還補された(年未詳七月二一日「田原親賢書状」
25. あずさとうげ【梓峠】宮崎県:東臼杵郡/北川町/川内名村
日本歴史地名大系
門河(現門川町)から新名表(現日向市)へ打出て土持親成を生捕りにしている。同年八月にも島津攻めのため大友宗麟が当峠を越えて無鹿(現延岡市)に着陣している(以上「
26. あたかむら【安宅村】福岡県:田川郡/川崎町
日本歴史地名大系
戸山岳・北山の両所に祀ったため両所大権現と称されたという。文明八年(一四七六)地頭壬生弘唯が遷宮したが、大友宗麟の兵火により旧記などをことごとく焼失したといい、
27. あねがわじょうあと【姉川城跡】佐賀県:神埼郡/神埼町/上姉川村
日本歴史地名大系
治元年(一五五五)と永禄元年(一五五八)には姉川氏は竜造寺勢に味方し、姉川城が本陣となった。大友宗麟が来攻した永禄・元亀年間(一五五八―七三)には江上氏とともに
28. あねむら【姉村】佐賀県:神埼郡/千代田町
日本歴史地名大系
埼郡の三根郷にわたる地方を領域としたものであろう。永禄一二年(一五六九)三月、肥前に侵入した大友宗麟勢は竜造寺氏の佐賀城攻撃のためこの姉に陣をとった。元亀元年(
29. あまくさぐん【天草郡】熊本県
日本歴史地名大系
草・栖本・上津浦各氏のいわゆる天草五人衆の時代となる。一時は相良氏治下に入るが、やがて豊後の大友宗麟の勢力が天草に及ぶ。なお長島は永禄八年(一五六五)島津氏に攻
30. あまぐん【海部郡】
国史大辞典
が地頭職を帯したが、南北朝時代以後は大友氏および一族被官の勢力がのびた。永禄五年(一五六二)大友宗麟が臼杵荘に丹生島城を築いて移ってから、臼杵にキリスト教教会や
31. あまぐん【海部郡】 : 海部郡/(三)
国史大辞典
が地頭職を帯したが、南北朝時代以後は大友氏および一族被官の勢力がのびた。永禄五年(一五六二)大友宗麟が臼杵荘に丹生島城を築いて移ってから、臼杵にキリスト教教会や
32. あまこ-かつひさ【尼子勝久】
日本人名大辞典
織豊時代の武将。天文(てんぶん)22年生まれ。尼子国久の孫。尼子氏再興をはかり,永禄(えいろく)12年大友宗麟(そうりん)の援助をえて挙兵。出雲(いずも)(島根
33. あらきむら【荒木村】福岡県:久留米市/旧三潴郡地区
日本歴史地名大系
の筑後領主附(筑後将士軍談)に「斎藤三河守、居荒木、領十三町五反」とあり、同人は三月一一日の大友宗麟書状(隈文書/久留米市史7 資料編古代・中世)の宛所にみえる
34. あらほじんじゃ【荒穂神社】佐賀県:三養基郡/基山町/宮浦村
日本歴史地名大系
五〇四―二一)以前、衆徒の騒乱による焼失とし、荒穂神社雑記は永禄年間(一五五八―七〇)豊後の大友宗麟の兵火のためという。のち現在地に遷座し、戦国時代末期以降、こ
35. ありあけかい【有明海】福岡県:総論
日本歴史地名大系
上妻郡山下城(現立花町)の蒲池鑑広に対しては榎津への出陣を命じている(五月二五日「大友宗麟書状」同上、同月二六日「大友宗麟書状」蒲池文書/福岡県史資料五)。天正
36. アルメイダ【Luis de Almeida】
国史大辞典
ついで弘治元年(一五五五)山口へ赴き、日本イエズス会にはいった。その翌年豊後府内へ至り、領主大友宗麟の後援を得、みずから一〇〇〇クルサドを献金して同地に育児院を
37. アルメイダ
日本人名大辞典
る。イエズス会に入会,ザビエルの後継者トルレスについて布教に従事。豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟(そうりん)の保護のもと,育児院,病院などを建設,みずからも
38. アルメイダ(Almeida, Luis de)
世界人名大辞典
,山口のトルレスのもとに赴き,ガゴと共に豊後に布教して一生を奉教に尽くした.外科医術に長じ,大友宗麟の援助の下に育児院,病院,ハンセン病施療院を起こして医療にも
39. あわのみょうむら【粟野名村】宮崎県:延岡市
日本歴史地名大系
河北としても今山八幡宮祭礼役を分担している(今山八幡宮旧記)。天正六年(一五七八)四月、日向に侵攻した大友宗麟はキリスト教的理想王国の建設を目指してイエズス会の
40. あんこくじ【安国寺】福岡県:久留米市/旧御井郡地区/神代村
日本歴史地名大系
じたという(寛文十年寺社開基)。諸塔頭も随時退転し、近世初頭には宝林庵一宇を残すのみ。戦国期大友宗麟が隣接する隈代渡の渡河料徴収権を当寺に付与したといわれ(太宰
41. あん‐り【案利】
日本国語大辞典
〔名〕思いのままになること。*佐田文書‐(元亀元年)〔1570〕九月一日
大友宗麟書状「諸口堅加
下知
42. いうん-そうえつ【怡雲宗悦】
日本人名大辞典
京都大徳寺で徹岫宗九(てっしゅう-そうきゅう)の法をつぎ,天文(てんぶん)24年同寺住持となる。大友宗麟(そうりん)にまねかれ,豊後(ぶんご)(大分県)に文殊,
43. イエズス会
世界大百科事典
中心に教化を進め,17世紀初めには,全国の信徒は約20万人にのぼった。その中から,大村純忠,大友宗麟,有馬晴信らのキリシタン大名もあらわれ,また天正遣欧使節も派
44. 医学
世界大百科事典
deアルメイダで,通商旅行の必要性から多少の医術を知っていたが,日本でイエズス会に入信,豊後の大友宗麟の後援のもとに府内(現,大分市)に育児院と病院をつくった。
45. いけじりべつぷ【池尻別符】福岡県:田川郡/川崎町/池尻村
日本歴史地名大系
伊田弾正の所領であった谷名・小屋敷名一三町、大塚源左衛門の所領であった西名七町が岐部鑑種に預けられた(「大友宗麟預ケ状写」岐部文書/熊本県史料 中世篇四)。
46. いしだごう【石田郷】福岡県:北九州市(旧豊前域)/小倉南区/石田村
日本歴史地名大系
豊前国の「御弓矢怱劇」により不知行となったという(「毛利氏奉行人連署奉書」萩藩閥閲録四)。永禄九年(一五六六)大友宗麟は野上治部少輔に石田郷四〇町分を与えている
47. 石火矢
世界大百科事典
9kg)から4~5貫目(約15~19kg)ほどで,3~4町離れた敵を倒すことができた。1576年(天正4)大友宗麟が南蛮から入手して国崩(くにくずし)と命名した
48. いしびや【石火矢】
国史大辞典
いたからこれに従ったものであろう。その型式により三種に分かれる。第一は仏狼機と称するもので、大友宗麟の注文によりゴアより天正四年(一五七六)に肥前国高来郡口之津
49. いたちやむら【板知屋村】大分県:臼杵市
日本歴史地名大系
藩政史料)。旧高旧領取調帳に初めて独立村として高付され、高六〇石余。神ノ前に厳島神社があり、大友宗麟の丹生島入城の折に勧請されたという(臼杵小鑑)。明治一八年(
50. いだごう【井田郷】大分県:大野郡/犬飼町
日本歴史地名大系
同地方に赴いたイルマン・ギリエルメらの一〇ヵ月に及ぶ滞在中に一六〇名の受洗者があった。同地方の領主で王妃(大友宗麟夫人奈多氏)の義兄弟である大身は会堂建設の場所