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  11. 藤原秀衡

藤原秀衡

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原秀衡』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原秀衡
ふじわらのひでひら
[1122―1187]

古代末期東北の武将。清衡 (きよひら)の孫、基衡 (もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守 (むつのかみ)に任ぜられて、平泉 (ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした。

 1170年(嘉応2)彼が鎮守府将軍に任ぜられたときには、心ある公家 (くげ)はこれを「乱世の基」であると評した。なぜなら、陸奥現地の者はこの職に任じない規定だったからである。また源平合戦のさなか81年(養和1)陸奥守に任命されるが、これは、前例のない東北政治の地元委譲として論議をよんだ。平家は鎌倉の源頼朝 (よりとも)を牽制 (けんせい)し、頼朝を征討できる唯一の東国勢力として秀衡を評価し、この地位につけて鎌倉を謀ろうとしたのである。秀衡は一方で京都とこのように結ぶとともに、他方では86年(文治2)鎌倉とも友好協定を結んで、平泉のバランスとしての地位を確立している。晩年、頼朝に追われている義経 (よしつね)をかくまい、死後、彼と子泰衡 (やすひら)らとの協力による平泉の独立を策したが、これはかえって平泉滅亡の因となった。無量光院を建てている。文治 (ぶんじ)3年10月29日死去。

[高橋富雄]



世界大百科事典

藤原秀衡
ふじわらのひでひら
1122-87(保安3-文治3)

平安末期の東北地方の武将。父は藤原基衡。1170年(嘉応2)5月25日鎮守府将軍,従五位下となり,81年(養和1)8月25日陸奥守,従五位上となる。83年(寿永2)にも鎮守府将軍だった。陸奥守との兼官かと思われる。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円におよぶ支配を確立した。源義経の保護者としても有名。それは74年(承安4)から80年(治承4)までと,85年(文治1)からその死にいたるまでの,2度にわたる。源平争乱の中で,平家および朝廷から関東の源頼朝の背後をつくことを期待され,地方豪族としては異例の国守(陸奥守)への任命が行われたりしたが,ついに平泉を動かなかった。その間京都では,秀衡は2万余騎を率いて白河関を出たとか,頼朝が秀衡の娘をめとる約束をした,つまり両者は和睦したとかのうわさが流れていた。しかし秀衡が頼朝追討の請文(うけぶみ)を提出していたことは事実であり,また83年閏10月には平家追討中の源義仲に対し,協力して東西から頼朝を攻めようと進言したともいう。事態を静観してばかりいたわけではないのである。86年4月,頼朝の呼びかけに応じて表面的にはその勢力下に入ったが,なお独立性を保っていた。死にのぞんで,国衡,泰衡の2子および源義経に互いに異心のない旨の起請文(きしようもん)を書かせ,2子に対しては義経を主君として仕えるよう遺言したという。しかしその1年半後,泰衡は義経を討ち,頼朝により奥州藤原氏は滅亡した。平泉に宇治平等院を模した無量光院(むりようこういん)を建立。その東門に一郭を構え,伽羅御所(きやらのごしよ)と号して常の居所としていた。その遺体は中尊寺金色堂に葬られているが,1950年の調査によれば胸は幅広く,厚く,骨格からは弓術など武芸の強行のあとがうかがわれ,肥満型で,身長は160cm前後であったという。
[大石 直正]

[索引語]
奥州藤原氏 源義経 無量光院


国史大辞典

藤原秀衡
ふじわらのひでひら
 - 一一八七
平安・鎌倉時代前期の武士。奥州平泉藤原氏の三代目当主。保元二年(一一五七)、父基衡死去のあとをうけて、奥六郡の主となり、出羽・陸奥の押領使として、両国を管領することになった。秀衡三十六歳のころとされる。嘉応二年(一一七〇)五月二十五日に鎮守府将軍・従五位下、養和元年(一一八一)八月二十五日には陸奥守・従五位上に叙任された。秀衡の母は安倍宗任の女。前九年の役で敗れた安倍頼時の孫女にあたる。父系方の秀郷流藤原氏の京都流の血脈に、母方の土着の俘囚長の血脈、この二つの血脈を兼ね合わせた秀衡の容姿は、現存のミイラにも明瞭に残されている。秀衡のミイラは中尊寺金色堂の南脇壇の金棺内に納められた。昭和二十五年(一九五〇)の調査によれば、身長一六〇センチ前後。怒り肩の肥満体質であった。鼻筋が通り、顎の張った大きな顔であった。歯根が著しく暴露し、重度の歯槽膿漏をうかがわせる。虫歯もあった。軟弱の美食の結果かとされる。死因は骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエスかと想定される(レントゲン検査による)。血液型はAB型。秀衡の遺体に副えられた、杖(木製)・念珠玉(木製・ガラス製)・水晶露玉(金装)・黒漆塗太刀鞘残片・羅・白綾・錦・金銅鈴などは、中尊寺の博物館(讃衡蔵)に展示されている。いずれも、京都のそれに勝るとも劣らない、当代一流の工芸品であった(朝日新聞社編『中尊寺と藤原四代』)。秀衡の正妻は前民部少輔藤原基成の女。基成は康治二年(一一四三)―仁平三年(一一五三)の間に陸奥守をつとめること三度に及び、平泉二代の基衡と親しい間柄となった。任期が終わっても都に帰らず、衣川館に居を構えるに至った。秀衡の岳父として重大な発言力を有した。その女の腹に生まれた泰衡が、兄の国衡をさしおいて、秀衡の後継者となったのは当然である。国衡が「父太郎」「他腹之嫡男」とよばれたのに対して、泰衡は「母太郎」「当腹太郎」と称せられたという(『愚管抄』『玉葉』)。秀衡の館は金色堂の正方、無量光院の北にあり、平泉館(ひらいずみたち)とよばれた。北上川の段丘に位置するその場所はいま、柳之御所とよばれている。無量光院は秀衡の持仏堂。新御堂(みどう)ともよばれた。阿弥陀丈六を本尊とする壮麗な建築は宇治平等院を上回る規模を誇った。伽羅御所(きゃらのごしょ)は秀衡の常の居所。無量光院東門の一郭を占める。この御所で朝食の後、北向いの平泉館に赴いて政務を執り、そして西方の阿弥陀に手を合わせるという、秀衡の日常生活が知られる。平泉館の周辺、西木戸のあたりには、嫡子国衡・四男隆(高)衡(本吉冠者)らの家宅、泉屋の東には三男忠衡(和泉三郎)の家が、とりまくように建ちならんだ。後継者の次男泰衡は伽羅御所を引きついだ。これらのうち、無量光院は昭和二十七年に発掘調査が行われ、本堂とその後方の建物、北廊・南廊、池と中島、中島内の建物(三宇)などが確認された(文化財保護委員会編『無量光院跡』)。本堂四壁扉には秀衡の手になる狩猟の図絵が描かれていたと伝え、武人(殺生人)なりの往生を願う気持のあらわれかとされる。平泉館(柳之御所)については、北上川の改修工事に伴う緊急発掘が昭和六十三年に開始された(五ヵ年の計画)。初年度には遺跡の高台の崖下をとり囲む大溝、おびただしい量の土器(かわらけ、土師質土器)、木製品、そして建物跡の柱穴群などが発掘された。今後の発掘の成果が期待されている。秀衡の権力は、奥六郡の郡主(郡司)、さらには陸奥・出羽押領使という、父祖以来の官職によって支えられていた。衣川以北の奥六郡の支配を根拠として、両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限をつかさどる官職である。諸郡の郡司クラスを主体とする武士団十七万騎を統率する貫首となったのは、その官職によるところが大きい。鎮守府将軍の拝命はそれをますます進めることとなった。しかし、両国の民事・行政の実務までが、平泉に集中したということはない。両国の国司ならびに国衙(多賀城・城輪柵(きのわのさく))の役割は失われることがなかった。秀衡が陸奥守となった数年間(養和元年―寿永三年(一一八四))は、その唯一の例外をなす時期であった。よって、平泉を奥羽の独立政権とみなす通説にそのまま従うわけにはいかない。東国や鎮西に台頭した類似の軍事・警察権の行使者(上総権介平広常・下野大掾小山政光・越後城長茂・大宰少弐原田種直ら)との関連を考えるべきものか。秀衡の財力は、奥州名産の金と馬によって支えられていた。たび重なる貢金・貢馬は、中央政界における秀衡の評価を高くし、京都文化の受入れ、さらには鎮守府将軍任命の条件をかたちづくった。永万元年(一一六五)大高山・刈田峯両社の年貢金を神祇伯家に進める。仁安二年(一一六七)後白河上皇の面前で行われた競馬に出走の二十頭のうち二頭を献上する、などのことが知られる。将軍就任後の承安三年(一一七三)には、高野山五大多宝塔ならびに皆金色釈迦如来像の開眼供養に際して、その莫大な費用を寄進して感謝をされている。「奥州鎮守府将軍藤原朝臣は、将帥累葉の家に生まれ、勢徳希有の人たり、しかうして仁義性を受け、仏法心に刻む、殊(こと)に真乗の教行を仰ぎて、専ら当山の仏法に帰す」(「高野検校阿闍梨定兼塔供養願文」、原漢文)という讃辞が残されている。陸奥守となった養和元年にも、東大寺の復興事業に助勢をしている。「奥州の猛者藤原秀平真人は殊に慇懃(いんぎん)の志をあらはし、専ら知識の方便をめぐらす」(『東大寺造立供養記』、原漢文)と記されている。秀衡が陸奥守に任命されたのは平氏の推挙による。治承四年(一一八〇)に兵をあげた源頼朝の勢力を背後から牽制しようとする意図によるものである。この任命については、「天下の恥」なりとする公家側の批判があった(『玉葉』)。しかし、秀衡が白河関を越えることはなかった。文治元年(一一八五)、平家の滅亡によって、平泉は頼朝の最後の攻撃対象とされるに至った。源義経を匿ったことは、平泉を攻める絶好の口実にされた。その危機の最中の文治三年十月二十九日、平泉館にて、秀衡は死を迎えた。六十六歳という。義経を主君(大将軍)として、兄弟の和融を保ち、頼朝にあたるべしという遺言があり、祭文(起請文)が記された。秀衡の当時の妻を他腹嫡男の国衡に娶らせるという措置も命じられた。しかし、鎌倉の強圧の前に、秀衡の遺言はその実を結ぶことなく、水泡に帰した。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ二 文治三年十月二十九日条、東北大学東北文化研究会編『奥州藤原史料』、佐々木博康校訂『奥州平泉文書』、『平泉町史』、高橋富雄『(奥州)藤原氏四代』(『人物叢書』一二)、同『平泉』(『歴史新書』七)、同編『平泉―奥州藤原氏四代の栄華シンポジウム―』、小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』(『UP選書』一八五)、大矢邦宣「中尊寺金色堂内両脇壇再考」(『岩手史学研究』七〇)
(入間田 宣夫)
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1. 藤原秀衡
日本大百科全書
古代末期東北の武将。清衡きよひらの孫、基衡もとひらの子。鎮守府将軍。陸奥守むつのかみに任ぜられて、平泉ひらいずみ政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏
2. 藤原秀衡
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1122-87(保安3-文治3) 平安末期の東北地方の武将。父は藤原基衡。1170年(嘉応2)5月25日鎮守府将軍,従五位下となり,81年(養和1)8月25日陸
3. ふじわら‐の‐ひでひら【藤原秀衡】
日本国語大辞典
平安末期の陸奥の豪族。出羽押領使基衡の子。平泉に館を構え、白河関以北を支配、鎮守府将軍となる。平氏滅亡後も頼朝に従わず、義経を庇護して屈せず、子泰衡に義経擁護を
4. ふじわらのひでひら【藤原秀衡】
国史大辞典
?―一一八七 平安・鎌倉時代前期の武士。奥州平泉藤原氏の三代目当主。保元二年(一一五七)、父基衡死去のあとをうけて、奥六郡の主となり、出羽・陸奥の押領使として
5. 藤原秀衡
日本史年表
1170年〈嘉応2 庚寅④〉 5・25 藤原秀衡 ,鎮守府将軍となる(兵範記)。 1187年〈文治3 丁未〉 10・29 没。
6. ふじわらの-ひでひら【藤原秀衡】
日本人名大辞典
1122−1187 平安時代後期の豪族。保安(ほうあん)3年生まれ。藤原基衡(もとひら)の子。母は安倍宗任(むねとう)の娘。奥州藤原氏の3代。鎮守府将軍となり,
7. 藤原秀衡[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:4件 【逐次刊行物】:4件 『平泉情史藤原秀衡』藤原相之助『奥州藤原氏四代』高橋富雄『中尊寺と藤原三代』板橋源『藤原秀衡』高橋崇『玉葉に見える藤原秀衡
8. 藤原秀衡(ふじわらひでひら)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1148ページ
9. あいかわむら【相川村】岩手県:一関市
日本歴史地名大系
牧野新内の家中一軒があり、道場に中地氏の家中屋敷があった。原沢の菅原神社は嘉応二年(一一七〇)藤原秀衡が袖野に勧請したという天神社で、弘治元年(一五五五)に木戸
10. あおそじんじゃ【青麻神社】宮城県:仙台市/旧宮城郡地区/岩切村
日本歴史地名大系
各地青麻神社の総本社ともいわれ、古来中風退除・海上安全の守神として崇敬を集めた。仁寿以来とされる鉄鏡一面、藤原秀衡時代の作とされる随身像二体を伝える。
11. あかいむら【赤井村】宮城県:桃生郡/矢本町
日本歴史地名大系
源頼義の東征の折治暦年中(一〇六五―六九)の勧請と伝える。弘安二年(一二七九)銘の板碑がある。また藤原秀衡の家臣照井太郎の勧請と伝える祇園社(現須賀神社)がある
12. あかつごむら【赤児村】宮城県:栗原郡/金成町
日本歴史地名大系
南東は藤渡戸村、西は普賢堂村と接する。上街道が南の畑村より村を縦断し一関(現岩手県一関市)に至る。村名は、藤原秀衡が当村に歌舞を命じたところ、春風という子供が容
13. あさひたてあと【朝日館跡】宮城県:本吉郡/志津川町/志津川村
日本歴史地名大系
水尻川沿いの標高約七〇メートルの高台に所在。「志津川村安永風土記」によると南北二五〇間・東西一五〇間。藤原秀衡支配時代には四男元良四郎高衡の居館であったが、同氏
14. 朝日長者
日本大百科全書
埋めたため、そこから金鶏きんけいの鳴き声が聞こえるという金鶏山、金鶏塚の伝説(たとえば岩手県平泉町の藤原秀衡ひでひらが埋めたと伝える金鶏山)も長者伝説と重なるも
15. あたか【安宅】
国史大辞典
がある。源義経(子方)は頼朝と不和になり、弁慶(シテ)その他の郎等(ツレ)を連れて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ下ろうとする。一行は東大寺再建の勧進聖をよそおう作り
16. あとろいむら【安土呂井村】岩手県:水沢市
日本歴史地名大系
塁と空堀によって館が二分されていたことが注目される。岩淵氏系図に、文治年中(一一八五―九〇)藤原秀衡の臣照井太郎高直が築城して安土呂井城と称し、泰衡敗北ののち百
17. あらまきむら【荒巻村】宮城県:仙台市/旧宮城郡地区
日本歴史地名大系
占めた(仙台鹿の子)。それに伴い当村民は現在の荒巻に移されている。龍川院(現新寺二丁目)は平泉藤原秀衡の創建と伝え、仙台の地名由来ともいわれる千体仏を安置してい
18. あらやむら【荒谷村】宮城県:古川市
日本歴史地名大系
「吾妻鏡」建暦元年(一二一一)四月二日条によれば、宮沢村にあると考えられている小林新熊野社を建立した藤原秀衡は、元暦二年(一一八五)長岡郡内の荒野三〇町を寄進し
19. あんなかし【安中市】群馬県
日本歴史地名大系
人伊勢三郎義盛の屋敷跡などの伝承地がある。承安四年(一一七四)義経が京の鞍馬寺を脱出、奥州の藤原秀衡を頼って東下の途中、板鼻の義盛の家に投宿、主従の約を結んだと
20. いしのまきむら【石巻村】宮城県:石巻市
日本歴史地名大系
同袋谷地に曹洞宗袋谷山長林寺(本尊聖観音)がある。羽黒山山頂の村鎮守鳥屋神社は「勧請 鎮守府将軍藤原秀衡朝臣文治年中(中略)御神体ハ鳥形之自然石」と伝えるが(安
21. いずみ-ただひら【泉忠衡】
日本人名大辞典
1167−1189 鎌倉時代の武将。仁安(にんあん)2年生まれ。藤原秀衡(ひでひら)の3男。陸奥(むつ)平泉(岩手県)の泉屋にすむ。父の遺志をつぎ源義経を庇護。
22. いたいだむら【板井田村】秋田県:平鹿郡/大森町
日本歴史地名大系
(秋田風土記)、文政七年(一八二四)八三戸(雪の出羽路)。枝郷百目木村は古称を千苅田といい、藤原秀衡の伝説を残す神明社がある(雪の出羽路)。近辺の水田地は縄文土
23. いっ-すい【一睡】
全文全訳古語辞典
見れば)一睡の夢のような短いもので、総門の跡は一里ほど手前にある(ほど大きな構えであった)。藤原秀衡(の館)の跡は田畑や野原になって、(庭の築山にあたる)金鶏山
24. いとしろたいしどう【石徹白大師堂】岐阜県:郡上郡/白鳥町/中石徹白村
日本歴史地名大系
本堂は観音堂と称するが、本尊の銅造虚空蔵菩薩像を、聖観音菩薩像と誤解したことからの名という。なお本尊は藤原秀衡寄進と伝え、中尊寺の一字金輪仏と兄弟仏とされる。平
25. いわいがわ【磐井川】岩手県:一関市
日本歴史地名大系
証歌はない。厳美渓に代表されるように下流部は河床が低く、取水が難しかったため、明応二年(一四九三)藤原秀衡の旧臣の子孫と称する照井太郎らが当川の北岸の五串と南岸
26. 岩手(県)画像
日本大百科全書
物では坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ、安倍貞任あべのさだとう、源義家みなもとのよしいえ、藤原秀衡ふじわらのひでひら、それに義経や弁慶らに関するものが多く、地
27. 院政画像
日本大百科全書
菊池高直きくちたかなお追討の宣旨を下すにあたり、院庁から使者を派遣したこと、その翌々年奥州の藤原秀衡ふじわらのひでひらに源頼朝みなもとのよりとも追討の院庁下文を
28. いんのちょう【院庁】
国史大辞典
院庁より使者を大宰府管内に遣わして下知させ、また寿永二年(一一八三)には源義仲に平家追討の、藤原秀衡に源頼朝追討の院庁下文を発するなど(『吉記』)、活発な動きが
29. うすぎぬじょうあと【薄衣城跡】岩手県:東磐井郡/川崎村/薄衣村
日本歴史地名大系
大手門・搦手門の跡が残る。築城の時期は不明。城主は「仙台領古城書上」には千葉中務とある。初め藤原秀衡の家臣で帰化人の崑一禎の後裔(米倉氏)が当所に城を築き、薄衣
30. うすぎぬむら【薄衣村】岩手県:東磐井郡/川崎村
日本歴史地名大系
紀年のあるものでは寛永一七年のものが最も古い。柏木の旧気仙沼街道沿いにある笠マツは県指定天然記念物。古くは藤原秀衡の衣懸の松とよばれ、伊達政宗がこの松を仙台城内
31. うたつむら【歌津村】宮城県:本吉郡/歌津町
日本歴史地名大系
谷村(現志津川町)、南は清水浜(現志津川町)に接する。気仙道が南北に縦断する。村名の由来は、藤原秀衡の頃田束山に堂社が建立され、その卯辰の方向にあたるため村名と
32. 江の島
世界大百科事典
1182年(寿永1)4月僧文覚(もんがく)は江の島に大弁財天を勧請し供養を行った。源頼朝監臨のもとに藤原秀衡調伏を密々に祈願したものである。以後旱魃祈雨(かんば
33. えのしま【江の島】神奈川県:藤沢市/片瀬村地図
日本歴史地名大系
境川の土砂によって片瀬海岸とつながった陸繋島。「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)四月五日条に、源頼朝が藤原秀衡調伏祈願のため、文覚が「江嶋」に弁才天を勧請したとあり
34. 奥州征伐
世界大百科事典
平泉の藤原泰衡を攻撃し,これを滅亡させた戦い。奥州藤原氏と源頼朝は早くから対立的であったが,藤原秀衡が源義経をかくまうに及んで,それは決定的なものとなった。泰衡
35. おうしゅうせいばつ【奥州征伐】
国史大辞典
頼朝は、自分に敵対するようになった弟義経を追跡して、かれが平泉にかくまわれていることをつきとめた。藤原秀衡が存命中は、頼朝もこれに強い圧力をかけることができなか
36. 奥州総奉行
世界大百科事典
陸奥国留守職に任命した。戦後処理がおさまった95年(建久6)頼朝は再び葛西・伊沢両氏に対して,故藤原秀衡の後家の庇護を命じたが,《吾妻鏡》はこれを〈両人は奥州惣
37. 奥州藤原氏
世界大百科事典
統率する地位にあった。その武家政権成立史上の意義も無視できない。→平泉文化大石 直正 藤原清衡 藤原秀衡 中尊寺 平泉町
38. おおかごむら【大籠村】岩手県:東磐井郡/藤沢町
日本歴史地名大系
地名は大野東人が東北遠征の折、神明社に三度祈って当地の賊加漢丸を破ったという神の加護によるとも、藤原秀衡が平泉より大駕籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝える
39. おおとりじょうあと【大鳥城跡】福島県:福島市/旧飯坂町地区/上飯坂村
日本歴史地名大系
その東麓の舌状台地上に立地。築城年代・築城者などは不詳であるが、一説には保元二年(一一五七)藤原秀衡が同族の佐藤基治に命じて築城させたと伝え、大鳥の名は築城時に
40. おおみねむら【大嶺村】宮城県:遠田郡/田尻町
日本歴史地名大系
同郡佐沼(現登米郡迫町)に至る道が通る。当地南の大嶺山は「観蹟聞老志」に秀翠峯と記される。村名は藤原秀衡が大和国の大峰山に対して同山に奥羽の修験霊場を開いたこと
41. おざきじんじゃ【尾崎神社】岩手県:大船渡市/赤崎村
日本歴史地名大系
当村尾崎明神の三社をさすとある。いずれも海上での守護神として信仰されている。縁起によれば、養和元年(一一八一)藤原秀衡が二〇〇石を社領として寄進、以来葛西氏も天
42. 伽婢子 2 294ページ
東洋文庫
(二歳)、将来出 家を条件に助けられて鞍馬寺に預けられ、長ずる に及んで自ら元服し奥州平泉の藤原秀衡を頼って 下った(一六歳)。治承四年(=八〇)の頼朝 挙兵の
43. 伽婢子 2 312ページ
東洋文庫
中心であった。榎の島(十ノ6) 相模国鎌倉郡(神奈川県藤沢市 江の島)にある江の島。源頼朝の藤原秀衡調伏祈 願のため、文覚がこの地に弁財天を勧請したとあ り(『
44. 御守
世界大百科事典
のものがある。筒状の箱を錦でくるみ,さらに飾金具がつけられている。これに紐をつけ胸にかけた。藤原秀衡のミイラにも懸守がかけられていて,また《春日権現験記絵巻》の
45. おんぞうししまわたり【御曹子島わたり】
国史大辞典
子に収められているほか「島渡り」と題する絵巻物としても存する。内容は御曹子源義経が奥州平泉の藤原秀衡のもとにいるころ、千島という鬼のいる島の喜見城かねひら大王の
46. 御曹子島渡
世界大百科事典
御伽草子。渋川版の一つ。作者,成立年不詳。奥州藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた御曹子義経は,蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王が大日の法という兵法書を所持してい
47. かくがんじむら【覚岸寺村】山形県:鶴岡市/青竜寺川・内川流域地区
日本歴史地名大系
鶴ヶ岡から酒田へ向かう道の西側にあたる。学岸寺村とも記される。伝承によれば、文治元年(一一八五)奥州平泉の藤原秀衡により当地に般若寺が建立され、付近の地三千貫文
48. かけばんむら【懸盤村】徳島県:那賀郡/木沢村
日本歴史地名大系
牛一四。「阿波志」によれば家数三九・人数一二〇、加州・府殿野・伏木・瀬津・日浦の五里があり、藤原秀衡の後裔と称する岩佐磯丞が居住していたという。文政七年(一八二
49. かさしまむら【笠島村】宮城県:名取市
日本歴史地名大系
道祖神社は明治七年(一八七四)佐倍乃神社と改称。「観蹟聞老志」によれば川内沢川の路傍に矢立杉という巨木があり、藤原秀衡上京のとき杉に矢を射て首途を祝ったという。
50. かすがむら【春日村】宮城県:宮城郡/利府町
日本歴史地名大系
多賀城の北の上野原にこれを祀ったと伝えている(のち小野田に移転、小野田を春日と改称と伝える)。その後、藤原秀衡が新たに社殿を造営し、伊沢家景が陸奥留守職として下
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
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