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  11. 菅原道真

菅原道真

ジャパンナレッジで閲覧できる『菅原道真』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

菅原道真
すがわらのみちざね
[845―903]

平安前期の律令 (りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善 (これよし)の子で母は伴 (とも)氏。本名は三、幼名を阿呼 (あこ)といい、後世菅公 (かんこう)と尊称された。従 (じゅ)二位右大臣に至る。

 承和 (じょうわ)12年6月25日、父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ向学心も旺盛 (おうせい)で、862年(貞観4)18歳で文章生 (もんじょうしょう)となり、870年対策 (たいさく)に及第、877年(元慶1)文章博士 (はかせ)となった。その間、少内記に任じて多くの詔勅を起草、また民部少輔 (しょう)として朝廷の吏務に精勤する一方で、文章の代作や願文の起草など盛んな文章活動を続け、880年父是善の没後は、父祖以来の私塾である菅家廊下 (かんけろうか)を主宰、宮廷文人社会の中心となった。886年(仁和2)讃岐守 (さぬきのかみ)に転出したが、翌年宇多 (うだ)天皇の即位に際して起こった阿衡 (あこう)事件には深い関心を寄せ、入京して藤原基経 (もとつね)に良識ある意見書を提出、橘広相 (たちばなのひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのである。890年(寛平2)国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭 (くろうどのとう)に抜擢 (ばってき)され、893年参議、左大弁に登用されて朝政の中枢に携わることになった。たとえば894年遣唐大使に任命されたものの、唐朝の混乱や日本文化の発達などを理由に奈良時代から続いた遣唐使を廃止し、895年渤海使 (ぼっかいし)を応接、その翌年には検税使の可否を再評議するべき奏状を奉るなどの事績を残している。その間も官位は昇進を続け、中納言 (ちゅうなごん)、民部卿 (きょう)、権大納言 (ごんだいなごん)、春宮大夫 (とうぐうだいぶ)、侍読 (じとく)などの任にあたっていた。897年宇多天皇は譲位したが、その遺誡 (いかい)により醍醐 (だいご)天皇は藤原時平 (ときひら)とともに道真を重用、899年(昌泰2)時平の左大臣に対して道真を右大臣に任じた。しかし当時の廷臣には儒家としての家格を超えた道真の栄進をねたむ者も多く、900年には文章博士三善清行 (みよしきよゆき)の辞職勧告に接している。また他氏を着々と排斥してきた藤原氏にとって道真は強力な対立者とみなされており、901年(延喜1)従二位に叙してまもなく、政権と学派の争いのなかで時平の中傷によって大宰権帥 (だざいごんのそち)に左遷された。そして大宰府浄妙院(俗称榎寺 (えのきでら))で謹慎すること2年、天皇の厚恩を慕い望郷の思いにかられつつ、延喜 (えんぎ)3年2月25日配所で没した。福岡県太宰府 (だざいふ)市安楽寺に葬られる。

 このように政治社会では挫折 (ざせつ)したが、学者・文人としての道真は死後学問の神と崇 (あが)められてきたように、当時から高く評価されていた。独自の構成をもつ『類聚国史 (るいじゅうこくし)』の撰修 (せんしゅう)はとくに有名であり、『日本三代実録』の編集にも参加。文学上の業績は「文道の大祖、風月の本主」と尊敬され、その詩文は『菅家文草』『菅家後集』にまとめられている。和歌にも巧みで、配流されるとき詠んだ「東風 (こち)吹かば――」の歌は古来人口に膾炙 (かいしゃ)した。その晩年が悲惨であっただけに死後の怨霊 (おんりょう)に対する怖 (おそ)れは強く、まもなく本位本官に復し、993年(正暦4)正一位太政 (だいじょう)大臣を贈られるとともに、天満天神 (てんまてんじん)として全国的に信仰された。京都北野天満宮 (てんまんぐう)は道真を祭神として10世紀なかばに創立されたものである。

[谷口 昭]

伝説

その説話は、『大鏡』巻2時平伝や『北野天神縁起』などにみえる。右大臣まで異常な昇進をするが、大宰権帥に左遷され、悲劇の一生を終えたために付加された後人の伝説も多い。死後の霊は天満自在天となり青竜と化して、時平を殺す。彼の霊が雷神として祟 (たた)ったり、神と化した話は、当代の御霊 (ごりょう)信仰からきたものである。荒 (すさ)ぶる神としての性格のほかに、飛梅 (とびうめ)や飛松の伝説も各地にある。左遷にあたって「東風 (こち)吹かば匂 (にほ)ひおこせよ梅の花主 (あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠んだ自邸の庭の梅の木が、後世に筑紫 (つくし)などに飛んでいったとするものである。また左遷の途次の道筋に沿っての地名起源伝説なども、その哀れさをとどめる。雷神が天神として田の神として祀 (まつ)られる地方が、東北、北陸など道真と関係のない地域にも残っている。雷雨によって水をもたらす利益が農神としての性格を残したものであろう。そのほか一夜 (いちや)天神や渡唐 (ととう)天神などの伝説もある。

[渡邊昭五]



世界大百科事典

菅原道真
すがわらのみちざね
845-903(承和12-延喜3)

平安時代中期の学者,政治家。菅原是善(これよし)の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが,道真も11歳で詩を作り,父を驚かせたという。文章(もんじよう)得業生を経て872年(貞観14)に渤海使の接伴員となり,その詩才を賞された。877年(元慶1)文章博士となったが,886年(仁和2),讃岐守となって赴任した。その任中,宇多天皇と藤原基経との間に阿衡事件(あこうじけん)が起こり,道真は基経に書状を送ってその解決に尽力した。このことによって宇多天皇は,藤原氏をおさえるうえに道真を登用しようと考え,891年(寛平3),基経死去の直後に道真は蔵人頭(くろうどのとう)の重職にばってきされた。以後彼は,基経の子の時平と相ならんで参議・中納言と進み,897年,時平は大納言に,道真は権大納言に任ぜられた。当時大臣は欠員であり,時平・道真は並んで朝政統理の任にあたった。

 彼の治績にはとくに目だった点はないが,894年,遣唐大使に任ぜられたとき,行路の危険,唐の戦乱の情勢にかんがみ,遣唐使派遣の中止を申請して許され,以後遣唐使が絶えたことは有名である。宇多天皇は893年,醍醐天皇に譲位のさいも道真1人を相談相手とした。899年(昌泰2),時平は左大臣に,道真は右大臣に任ぜられ,吉備真備(きびのまきび)に次ぐ学界出身の大臣が生まれた。当時として実に破天荒な出世であり,藤原氏や学閥の反感は大きく,901年(延喜1)1月道真は天皇の廃立をはかったかどで,突然大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。これは時平らの策動によるものであるが,道真が全然無実であったか否かは,わずかに疑問の点がある。彼は配所に閉居し,翌々年2月に死んだ。

 死後,道真のたたりと称する異変が相次いで起こり,923年(延長1)罪を取り消して本官に復し,のち993年(正暦4)には正一位太政大臣を贈られた。その前から民間ではほこらを北野にたて,天満天神としてまつっており,以後,道真は文道の神として異例の尊崇を受けてきている。彼は勅命により892年《類聚国史》を撰し,また《三代実録》の編さんにもあずかった。ほかに《新撰万葉集》,また詩文集の《菅家文草》12巻があり,左遷後の作品を集めた《菅家後集》もある。
[土田 直鎮] 道真の亡霊は御霊(ごりよう)(御霊信仰)となってたたりをすると信じられた。《将門記(しようもんき)》(940)によれば,平将門の乱の際に,八幡大菩薩が将門を新皇にするとの託宣をくだしたが,この八幡の神意をとりついだのが道真の霊だとされている。道真の霊は雷神となって猛威をふるい,その伝承を集成した《北野天神縁起》には,930年清涼殿に落雷して廷臣を殺傷し,醍醐天皇も地獄におちたと伝えている。荒ぶる神としての道真像は,やがて利生(りしよう)の神としての天神像へと変化する。道真は観音の化身と見られ,慈悲・正直の神と信じられ,さらに〈王城鎮護〉の神として仰がれるようにさえなった。また道真がすぐれた学者であったことから,平安時代以来,学問・詩文の神とされ,室町時代に禅僧の間では,遣唐使廃止を建議した道真は,天満天神となって皮肉にも渡唐し,径山(きんざん)の無準(ぶしゆん)のもとに参禅したと考えられた。江戸時代には寺子屋で天神をまつり,書道の神として敬った。《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)》寺子屋の段からは,そういう事情をうかがうことができる。明治以後,学校教育を中心にして,配所にあって〈恩賜の御衣〉を毎日捧持する道真の姿が,君恩を忘れぬ〈忠臣〉として称賛された。そこには国家をゆるがす荒ぶる神の面影は,ほとんど見られない。〈東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ〉の歌は有名。
→天神信仰
[桜井 好朗]

[索引語]
天神(信仰) 天満天神 御霊


国史大辞典

菅原道真
すがわらのみちざね
八四五 - 九〇三
平安時代前期の学者、政治家。承和十二年(八四五)生まれる。父は菅原是善。母は伴氏。菅原氏は奈良時代の古人以来代々の学者の家であった。道真の祖父清公、父是善はいずれも学者の誇りとする文章博士・式部大輔に任じ、公卿の地位に列した。道真も幼少より父の厳格な教育をうけ、十一歳で詩を賦した。貞観四年(八六二)文章生、同九年文章得業生となり、同十二年方略試を受けて合格した。時に二十六歳である。これより順調に官途を進み、少内記から民部少輔を経、元慶元年(八七七)式部少輔・文章博士に任じた。学界はこの道真の昇進を快しとせず、いろいろないやがらせをした。特に同四年八月父是善が没してから、道真はいよいよ学者の非難の矢面てに立った。かれは博士である一方、父祖の経営した私塾である菅家廊下を背負ったからである。この廊下から出た秀才・進士は百人に近く、隠然たる学界の一勢力であった。同七年渤海客使裴〓らが加賀国に到着したのを迎えるために加賀権守を兼ね、かりに治部大輔の事を行えという命をこうむり、裴〓と詩を唱和し、接伴員としての任を果たした。仁和二年(八八六)道真は讃岐守に任ぜられ、文章博士・式部少輔の任をはなれた。これは菅家門下の勢いが隆盛をきわめるのを恐れた学者たちが、一時道真を地方に転出させ一派の勢いを抑えようとした運動が効を奏したのでもあろう。讃岐在任の四年間はかれにとっては無聊に苦しんだ毎日であった。しかしかれは熱心に国務にあたり、地方人民の生活を直接に知り、他日国政の衝にあたる素地を培ったといえる。またこの間に阿衡(あこう)問題(阿衡の紛議)が起ったが、道真は藤原基経に意見書を呈出し、この問題が学者の将来を萎縮させ文章を廃滅させるであろうことを憂え、基経自身のためにも何ら得るところはないことを諄々と説き、阿衡の詔書の作者橘広相のために適切な弁護を試みた。寛平二年(八九〇)国司の任期を終え、帰京してからの出世はめざましい。同三年蔵人頭・式部少輔・左中弁に任じた。宇多天皇の信任を得て、一躍政治の中枢部に関与したといえる。同六年には遣唐大使に任ぜられたが、派遣の事は実現されずに終った。この理由については古来いろいろの議論があるが、そのころ遣唐使が奈良時代の昔のような意義を失っていたことは事実である。珍奇な唐物の輸入は毎年来航する商船によってまかなわれていたし、巨大な組織となった使節の派遣に要する費用も財政上の負担となっていた。そして当時唐は凋弊し、使節が安全に唐の都に達することができるかどうかも不安の材料であった。もっともこれらのことは十分に知られた上で、なお遣唐大使を任命しているのだから、実行を中止した理由は別に求めねばならなくなる。直接の動機は、六年九月十四日付で提出した道真の、諸公卿に遣唐使の進止を議定することを請うた奏状にもとづき、停止を決定したのであるが、任命はその一月前の八月二十一日なのである。任命後一月もたたないうちに実行をやめるのは、初めから実行の意志のない形式だけの任命であったのではないか。大使の道真、副使の紀長谷雄は、停止決定後もなおその官銜には大使・副使の職を称すること数年に及んでいる。この間かれの官位の昇進は急である。七年十月中納言に任じ従三位に叙した。父祖は三位にまで進んだが、中納言に任じた者はなかった。かれは五十一歳の若さで父祖を超えた官職に就いたのである。この年春宮権大夫を兼ねたが、これは天皇が東宮の輔導に道真の力を期待したからである。九年権大納言に任じ右大将を兼ねた。同日藤原氏の家督時平も大納言に任じ左大将を兼ねた。良房・基経と代々群臣の上首を占めた藤原氏にとって、まさにそれに雁行しようとする道真の官位昇進は基経の嫡子時平にとっては目の上の瘤である。この年宇多天皇は譲位し醍醐天皇の時代となる。昌泰二年(八九九)時平は左大臣・左大将に、道真は右大臣・右大将に任じ、両者の地位の拮抗にゆるぎはない。そこで時平およびその一味は、道真の女が天皇の弟斉世親王の室となっているから、ひそかに廃立を企てていると讒言し、延喜元年(九〇一)突如として、道真は大宰権帥に左遷された。官途にあった四人の男子も諸国に左遷せられ、顕栄の座をきわめた道真に思いがけぬ悲運がおとずれた。大宰府での生活は窮迫をきわめ、病魔にも犯された。そして同三年二月二十五日大宰府で没した。五十九歳である。遺言によって大宰府に葬る。そこが安楽寺であるという。道真は文人学者として古今にたぐい稀な人であった。その詩文は『菅家文草』『菅家後集』として伝わるが、唐の詩文の形を自家薬籠中のものとし、日本的な情緒を表わした作品は絶妙をきわめる。歴史家として『三代実録』の撰修に与り、『類聚国史』も編修した。後世かれの冤が明らかにされ、朝廷や藤原氏に不幸も続いたので、その霊魂を慰めるために正暦四年(九九三)正一位・太政大臣を贈られた。また天満天神として崇められ、京都の北野に祭られた北野神社は二十二社の中にも加えられた。→北野天神縁起(きたのてんじんえんぎ),→北野天満宮(きたのてんまんぐう)
[参考文献]
『大日本史料』一ノ三 延喜三年二月二十五日条、太宰府天満宮文化研究所編『菅原道真と太宰府天満宮』、坂本太郎『菅原道真』(『人物叢書』一〇〇)
(坂本 太郎)
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1. すがはらのみちざね【菅原道真】
全文全訳古語辞典
[人名]平安前期の政治家・学者。八四五年(承和十二)~九〇三年(延喜三)。宇多・醍醐両天皇に仕え、重用されて右大臣に昇るが、藤原時平の中傷によって大宰権帥として
2. 菅原道真画像
日本大百科全書
平安前期の律令りつりょう官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善これよしの子で母は伴とも氏。本名は三、幼名を阿呼あこといい、後世菅公かんこうと尊称された。従
3. 菅原道真
世界大百科事典
845-903(承和12-延喜3) 平安時代中期の学者,政治家。菅原是善(これよし)の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが,道真も11歳で詩を作り,父を驚か
4. すがわら‐の‐みちざね【菅原道真】
日本国語大辞典
平安初期の公卿、学者。本名は三。幼名阿呼。菅公(かんこう)、菅丞相と称された。是善の子。宇多・醍醐天皇に重用され、寛平六年(八九四)第十四次の遣唐大使に任命され
5. すがわらのみちざね【菅原道真】
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[参考文献]『大日本史料』一ノ三 延喜三年二月二十五日条、太宰府天満宮文化研究所編『菅原道真と太宰府天満宮』、坂本太郎『菅原道真』(『人物叢書』一〇〇) (坂本
6. 菅原道真
日本史年表
891年〈寛平3 辛亥〉 2・29 菅原道真 を蔵人頭とする(職事補任)。 894年〈寛平6 甲寅〉 8・21 菅原道真 を遣唐大使、 紀長谷雄 を遣唐副使に
7. すがわらの-みちざね【菅原道真】
日本人名大辞典
845−903 平安時代前期の公卿(くぎょう),学者。承和(じょうわ)12年6月25日生まれ。菅原是善(これよし)の3男。文章(もんじょう)博士。宇多天皇に重用
8. すがわらのみちざね【菅原道真】
日本架空伝承人名事典
平安時代中期の学者、政治家。菅原是善(これよし)の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが、道真も一一歳で詩を作り、父を驚かせたという。文章(もんじょう)得業生
9. 菅原道真[文献目録]
日本人物文献目録
実公伝』-『菅原道真とその文学 1‐3』金子彦二郎『菅原道真とその文学 その詞藻と白氏文集との関係』金子彦二郎『菅原道真と「倭魂漢才説」』肥後和男『菅原道真の位
10. 【菅原道真(眞)】すがわら(はら)のみちざね
新選漢和辞典Web版
人名。平安前期の学者・政治家。宇多(うだ)天皇に信任され右大臣になったが、藤原時平(ときひら)におとしいれられ、太宰府(だざいふ)に流され、そこで死んだ。のち
11. 祀菅原道眞於北野天滿天神 (見出し語:菅原道眞)
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12. 祀菅原道眞於北野神社 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
神祇部 洋巻 第3巻 1616ページ
13. 祀菅原道眞於大宰府神社 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
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14. 祭菅原道眞文 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
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15. 菅原道眞儒學 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 704ページ
16. 菅原道眞善文 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 314ページ
17. 菅原道眞善書 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 710ページ
18. 菅原道眞善詩 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 569ページ
19. 菅原道眞奏議太政大臣職掌有無事 (見出し語:菅原道眞)
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官位部 洋巻 第1巻 410ページ
20. 菅原道眞左遷 (見出し語:菅原道眞)
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法律部 洋巻 第1巻 342ページ
21. 菅原道眞懐舊 (見出し語:菅原道眞)
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22. 菅原道眞詩風 (見出し語:菅原道眞)
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23. 菅原道眞諫宇多天皇 (見出し語:菅原道眞)
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24. 菅原道眞諫宇多天皇 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 247ページ
25. 菅原道眞贈官位 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 252ページ
26. 藤原時平讒菅原道眞 (見出し語:菅原道眞)
古事類苑
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27. 日本漢詩集
日本古典文学全集
4世紀ごろより中国から入ってきた漢籍を訓読によって日本語化し、さらには本家に倣って「漢詩」をつくるようになる。飛鳥時代の大友皇子や大津皇子にはじまり、平安期には
28. 菅原道真の祠
日本史年表
947年〈天暦元(4・22) 丁未⑦〉 6・9 菅原道真の祠 を北野に建立(北野天神縁起)。
29. 菅原道真集断簡(著作ID:4366420)
新日本古典籍データベース
すがわらみちざねしゅうだんかん 和歌 
30. 菅原道真伝(著作ID:311693)
新日本古典籍データベース
すがわらみちざねでん 菅原道真公伝 稲垣白嵓(いながきはくがん) 伝記 
31. 菅原道眞廟 (見出し語:廟【附】)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1461ページ
32. すがわらの-みちざねの-つま【菅原道真妻】
日本人名大辞典
⇒島田宣来子(しまだの-のぶきこ)
33. 小倉百人一首(24) 歌人/菅原道真(菅家)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
へずたむけやま もみぢのにしきかみのまにまに定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/この菅原道真すがわらのみちざね(菅家かんけ)菱川師宣ひしかわもろのぶ画[
34. 藤原時平讒菅原道眞 (見出し語:藤原時平)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 696ページ
35. はいきゅう【裴璆】(Péi Qiú)
世界人名大辞典
もども文名が高かった.初回は文籍院少監として伯耆に到着[908:延喜8].父と詩の応酬をした菅原道真の子淳茂が掌客使として接待.淳茂や大江朝綱などと詩を応酬.2
36. はいてい【裴頲】(Péi Tǐng)
世界人名大辞典
行が出雲国に到着している[92]が,10年しかたっておらずそこから放還されたか.文名が高く,菅原道真や紀長谷雄らと詩を応酬.道真との応酬詩は《菅原文草》に収録.
37. あいのごうてんまんぐう【吾井郷天満宮】高知県:須崎市/吾井郷村
日本歴史地名大系
[現]須崎市吾井郷 国鉄土讃本線吾桑駅の北、鵙谷の森に鎮座。祭神は菅原道真。旧郷社。古来、吾井郷の鎮守社で天満大自在天神と称していた。「南路志」には文治四年(一
38. あいはらかわかみてんまんぐう【鮎原河上天満宮】兵庫県:津名郡/五色町/南谷村
日本歴史地名大系
[現]五色町鮎原南谷 鮎原南谷地区の西部、蛇行して北西流する都志川右岸にある。主祭神は河上大神・菅原道真。境内には伊勢・山王・鞍馬・熊野・諏訪・荒神など一二社が
39. あおうずむら【青水村】広島県:世羅郡/世羅町
日本歴史地名大系
があることを記す。なお天満宮(現菅原神社)は美波羅川東岸の小丘陵上に鎮座する旧村社で、祭神は菅原道真・大山祇神ほか三柱。相殿に伊弉諾神・伊弉冉神・天照大神を祀る
40. あおうめじんじゃ【青梅神社】群馬県:館林市/館林城下/谷越町
日本歴史地名大系
田文書)、青梅天神(略縁起)とよばれ、祭神は菅原道真。安政六年(一八五九)二月別当菅霊山宝幢寺より館林藩に提出した青梅天神略縁起によれば、菅原道真が筑紫下向の際
41. あかおおじむら【赤大路村】大阪府:高槻市地図
日本歴史地名大系
宮田村の南西にあり、五社井路(下登岡崎水路)の右岸に位置する。当地子安天満宮の縁起によると、菅原道真が太宰府に向かう途次、追い慕って来た側室がにわかに産気を催し
42. あかがわむら【赤川村】佐賀県:鳥栖市
日本歴史地名大系
田方八七石余、畠方六〇石余とあって数字は合わないが、かなり開発が進んだことがわかる。氏神の天満神社は菅原道真を祀る。筑後平野を南流してきた宝満川は赤川村の東方で
43. あかしのえき【明石駅】兵庫県:神戸市/西区/吉田村
日本歴史地名大系
近くに「駒井の御井」とよぶ井戸があったことが知られる。昌泰四年(九〇一)大宰権帥として左遷される菅原道真が「明石駅亭」で、驚く駅亭長に「駅長莫驚時変改 一栄一落
44. あかばねむら【赤羽根村】愛知県:南設楽郡/作手村
日本歴史地名大系
北赤羽根にはかつて久助を祀った所があったという(作手村誌)。北赤羽根の字滝ノ入に天神社があり、菅原道真を祀る。また字滝乗に大日如来を本尊とする臨済宗永源寺派の臥
45. あがじんじゃ【英賀神社】兵庫県:姫路市/旧飾磨市地区/英加村
日本歴史地名大系
[現]姫路市飾磨区英賀宮町二丁目 夢前川下流左岸近くに鎮座する。祭神は菅原道真・英賀彦神・英賀姫神・応神天皇・天児屋根命。旧県社。由緒は古く、「播磨国風土記」餝
46. 秋の曲
世界大百科事典
歌詞は《古今和歌集》秋の部から6首採用し,初秋から晩秋へと配列。第3歌は大江千里,第4歌は壬生忠岑,第6歌は菅原道真で,他は読人知らず。第4歌の後に手事が2段入
47. 阿衡事件
世界大百科事典
いわゆる〈関白〉の権力を行使した。宇多天皇はこの屈辱をふかく遺憾とし,事件の際基経に諫言した菅原道真を腹心として登用し,基経の子時平と並んで政務に当たらせ,藤原
48. あこうのふんぎ【阿衡の紛議】
国史大辞典
菅公左遷」(『歴史地理』一四ノ二)、坂本太郎『菅原道真』(『人物叢書』一〇〇)、弥永貞三「阿衡の紛議」(『日本と世界の歴史』六所収)、同「菅原道真の前半生」(『
49. あこ‐えいし【阿呼詠詩】
日本国語大辞典
〔名〕画題。菅原道真が一一歳の時、月夜の梅を詠じた逸話で大和絵に多い。阿呼は道真の幼名。詩は「月耀如〓晴雪
50. あさのむら【浅野村】香川県:香川郡/香川町
日本歴史地名大系
)。明治期に入り南麓二ヵ所で採石を行っていた。宮裏にある八幡神社は浅野八幡神社と通称される。菅原道真が横岡の地に奉斎したのが始まりという。細川頼之の尊崇が厚かっ
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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