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漢文学

ジャパンナレッジで閲覧できる『漢文学』の日本大百科全書のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

漢文学
かんぶんがく

日本人の創作した漢詩および文学的な漢文。漢文学は日本人が中国の言語文字を用いて、日本人の思想感情を表現したものであることはいうまでもないが、中国の文学を崇拝、摂取して、自国の文学の発展に努力してきた。そのため中国文学の変遷に留意し、新しい傾向を追って模倣を重ねてきたので、日本独自の文学と断定することは躊躇 (ちゅうちょ)される。その形式は中国に借りて、内容に日本のものを盛り込むという二重の性格をもつのがその特色である。

[大曽根章介]

奈良時代

日本の漢文学の黎明 (れいめい)は飛鳥 (あすか)時代と思われるが、まだ純文学の作品を生み出すほど成熟していない。『懐風藻 (かいふうそう)』序によると、近江 (おうみ)朝では宮廷に文学の士を招いて君臣唱和の詩が詠ぜられたとあるが、日本初の漢詩である大友皇子の作品から聖徳 (しょうとく)賛美のものが多かったと思われる。壬申 (じんしん)の乱後、大津皇子や文武 (もんむ)天皇が登場し、宮廷を中心にして侍宴応詔(宴席にはべり勅命によって詩を詠む)の詩が詠まれたが、六朝 (りくちょう)詩の影響を受けて詠物詩も現れる。奈良時代になると詩宴の中心が政治権力者に移行し、長屋王 (ながやのおおきみ)の佐保 (さほ)邸や藤原武智麻呂 (むちまろ)の習宜 (すげ)の別邸に詩人たちが招かれて詩才を競った。彼らの詩には初唐の作品の影響もみられるが、一般的に中国文学の摂取も皮相的で、単なる語句の使用にとどまっている。現存最古の総集『懐風藻』によって、上代の詩の全貌 (ぜんぼう)をつかむことができる。一方、漢文では『唐大和上東征伝 (とうだいわじょうとうせいでん)』や『万葉集』の序、『経国集 (けいこくしゅう)』の対策(官吏登用のための最高試験の論文)などに駢儷 (べんれい)文がみえる。

[大曽根章介]

平安時代

平安初期には桓武 (かんむ)・嵯峨 (さが)両天皇による学問文化の奨励によって、唐風文化は黄金期を迎える。「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『凌雲集 (りょううんしゅう)』序)の文学理念のもとに、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の勅撰 (ちょくせん)三集が編纂 (へんさん)された。当時宮廷や離宮では頻繁に詩宴が催され、また舶載された中国詩集の増加に伴って新傾向の詩風や詩体が受容され、つくられた多くの詩編は奈良時代より数段進歩した。この時代の詩壇は、嵯峨天皇を中心にして小野岑守 (おののみねもり)、菅原清公 (すがわらのきよきみ)など文人官僚によって構成されており、宮廷文学的性格をもっている。注目すべきは『遍照発揮性霊集 (へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』『文鏡秘府論 (ぶんきょうひふろん)』『三教指帰 (さんごうしいき)』などの著者で、多方面で活躍した空海である。漢文学は次の承和 (じょうわ)期(834~848)に『白氏文集 (はくしもんじゅう)』が渡来してから、従来の詩風を一変した。しかも、文章院の創立により学者の家が確立すると、文壇が学者詩人を軸にして展開する。種々の逸話に富む小野篁 (おののたかむら)、民間伝承を取り上げた『都氏文集 (としぶんしゅう)』の都良香 (みやこのよしか)、当代の詩匠とたたえられた『田氏家集 (でんしかしゅう)』の島田忠臣 (しまだのただおみ)などを経て菅原道真 (すがわらのみちざね)が登場する。『菅家文草 (かんけぶんそう)』『菅家後集』の著者である道真は、讃岐 (さぬき)、大宰府 (だざいふ)の二度の僻地 (へきち)で新しい詩境を開拓し、率直に自己の感情を吐露しているが、この天性の詩人によって初めて日本固有の漢詩が誕生した。同時代に紀長谷雄 (きのはせお)や三善清行 (みよしきよゆき)がいるが、和歌の隆盛に伴って漢詩も和風化の傾向を強め、表現を重視する美文意識が支配する。天暦 (てんりゃく)期(947~957)の大江朝綱 (おおえのあさつな)、菅原文時 (ふみとき)の華麗な秀句は人々に賞賛され、一方、累代の学者に対して新しく学者の家を起こそうとする、起家出身の源順 (したごう)や弟子の源為憲 (ためのり)らは啓蒙 (けいもう)的著述で功績が大きい。次の一条 (いちじょう)朝の詩人大江匡衡 (まさひら)・以言 (これとき)、紀斉名 (きのただな)らの活躍は『本朝麗藻 (れいそう)』などによって知られる。それ以後漢詩文は急速に衰退するが、平安後期では多くの著述によって広範な文学活動を行った藤原明衡 (あきひら)と大江匡房 (まさふさ)が注目される。この時代の漢文学は庶民風俗が取り上げられたこと、不安な世相を反映して賛仏の詩文が書かれたこと、初学者のための啓蒙書が続出したことが指摘される。

[大曽根章介]

中世

鎌倉時代には文学よりも経学が重視され、優れた詩人も登場せず、みるべきものはない。ただ貴族の間で詩会、詩歌合 (しいかあわせ)、聯句 (れんく)(2人以上が寄り合って各自が一句をつくり、一編の詩を完成すること)が行われ、一方で秀句選や故事金言集、作詩指南書が書かれたが、むしろ澄憲 (ちょうけん)や海恵 (かいえ)などの唱導文学が注目される。しかしこの時代は五山文学によって代表される。鎌倉末期に来朝帰化した一山一寧 (いっさんいちねい)らによって禅林生活における詩文制作の風習がもたらされ、雪村友梅 (せっそんゆうばい)、中巌円月 (ちゅうがんえんげつ)らの入元僧が相次ぎ、新しい詩風が生み出された。そして清拙正澄 (せいせつしょうちょう)、明極楚俊 (みんきそしゅん)、竺仙梵僊 (じくせんぼんせん)ら元の名僧の渡来により文雅の交遊が続けられ、禅林文学は急速な発展を遂げる。一方古い伝統を継承し発展完成させた博学な虎関師錬 (こかんしれん)は僧史の『元亨釈書 (げんこうしゃくしょ)』、詩文集『済北集 (さいほくしゅう)』のほかに多くの啓蒙書も書いている。そして室町初期に義堂周信 (ぎどうしゅうしん)と絶海中津 (ぜっかいちゅうしん)によって最高峰に到達する。広い学識と深い観照に支えられて巧緻 (こうち)な作風を示した義堂には『空華集 (くうげしゅう)』があり、洗練された詩風と巧妙な四六文で知られた絶海には『蕉堅藁 (しょうけんこう)』があり、2人の活躍によって中国の詩に比肩しうる境地に到達した。彼らの跡を受けて惟肖得巌 (いしょうとくがん)、江西龍派 (こうせいりゅうは)、瑞渓周鳳 (ずいけいしゅうほう)、横川景三 (おうせんけいさん)、天隠龍沢 (てんいんりゅうたく)、景徐周麟 (けいじょしゅうりん)や、風狂僧一休宗純 (いっきゅうそうじゅん)、南学の祖桂菴玄樹 (けいあんげんじゅ)らが活躍するが、作風の変化に乏しく感動が浅い。聯句会や詩会が盛んに開催され、漢籍の注釈も行われた。『三体詩』や『古文真宝』が教養書として愛読講義され、その多くは抄物 (しょうもの)として残っている。また彼らの文化事業として五山版が盛況を極めたことも忘れられない。

[大曽根章介]

江戸時代

この時代は儒者詩人という一種の職業人が漢詩文の作者であった。近世文運の開拓者藤原惺窩 (せいか)は朱子学を提唱したが、その文学観は文学は道徳を顕彰すべきものだという載道 (さいどう)派に属するもので、その作品は芸術的雅趣に乏しい。これはその弟子の博識な啓蒙家林羅山 (らざん)、文章に優れた堀杏庵 (きょうあん)、古活字版の刊行で名高い那波活所 (なわかっしょ)、師の衣鉢を継いだ松永尺五 (せきご)も同じで、詩人よりも学者といえる。詩人としては日東の李杜 (りと)と称された石川丈山と情趣豊かな僧元政 (げんせい)が双璧 (そうへき)である。尺五の門下に木下順庵 (じゅんあん)、安東省庵 (せいあん)、貝原益軒 (えきけん)らの逸材が輩出したが、名儒の誉れが高い順庵はもっぱら唐詩を尊び韓退之 (かんたいし)、柳宗元 (りゅうそうげん)の文章を愛し、その門人に経世家としても名高い新井白石、経学文章で知られた室鳩巣 (むろきゅうそう)、一夜に100首を詠んだ祇園南海 (ぎおんなんかい)、華語に明るい雨森芳洲 (あめのもりほうしゅう)など木門十哲 (ぼくもんじってつ)といわれる詩人が出て活躍した。朱子学の勧懲的見解から脱して文学の主眼を人情の表出に置いた古義堂派の伊藤仁斎 (じんさい)の門下から嫡子東涯 (とうがい)や奥田三角 (さんかく)などが現れた。しかし文芸が活気を呈した元禄 (げんろく)期(1688~1704)に古文辞学を提唱し風雅の道を顕彰した荻生徂徠 (おぎゅうそらい)の門には太宰春台 (だざいしゅんだい)、服部南郭 (はっとりなんかく)、平野金華 (きんか)、高野蘭亭 (らんてい)、僧大潮 (だいちょう)、僧万庵 (ばんあん)らの学者詩人が輩出して一世を風靡 (ふうび)した。徂徠は古語の解明によって古典を研究することを第一義と考え、華音の学習と長い間行われてきた漢文訓読の廃止を説き、表現修辞を重んじ擬古に心がけた。そのため従来の『古文真宝』『三体詩』にかわって『唐詩選』が大いに流行した。そのほか詩人として秋山玉山 (ぎょくざん)、梁田蛻巌 (やなだぜいがん)、鳥山芝軒 (しけん)、桂山彩巌 (かつらやまさいがん)も知られる。

 江戸後期には専門詩人が登場し詩の結社が生まれ、詩集の出版も多く、地方に優秀な詩人が現れた。朱子学派の京都賜杖 (しじょう)社の江村北海 (えむらほっかい)は弟清田儋叟 (せいたたんそう)とともに詩に優れ、大坂混沌 (こんとん)社の片山北海の門には寛政 (かんせい)の三博士柴野栗山 (しばのりつざん)、尾藤二洲 (びとうじしゅう)、古賀精里 (こがせいり)がおり、江戸の江湖 (こうこ)社の市河寛斎 (かんさい)門には菊池五山、大窪詩仏 (おおくぼしぶつ)、柏木如亭 (かしわぎじょてい)らが知られる。折衷考証学派の山本北山は性霊 (せいれい)説を唱えて古文辞学派を攻撃したが、同系に亀田鵬斎 (ほうさい)や太田錦城 (きんじょう)、弟子に玉池吟 (ぎょくちぎん)社の梁川星巌 (やながわせいがん)がおり、その門下の大沼枕山 (ちんざん)、小野湖山 (こざん)、森春濤 (しゅんとう)が幕末から明治の詩壇に君臨する。しかし当代随一の詩人は菅茶山 (かんさざん)であり、その系統に史詩で名高い頼山陽や藤井竹外がいる。また海西の詩聖と称された広瀬淡窓 (たんそう)や、その弟旭荘 (きょくそう)も詩才に優れた。そのほか各地に詩人が輩出し漢詩の全盛時代を迎えたが、それを統一する詩風はなく個性的作品が喜ばれた。明治時代に西欧文化が輸入されるとしだいに漢文学は衰えていった。

[大曽根章介]

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1. 漢文学画像
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2. 漢文学
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3. かん‐ぶんがく【漢文学】
日本国語大辞典
*国文学緒言〔1890〕〈上田万年〉「国文学が一般中等教育上の一学科となり、かの国語科と両立して少くとも漢文学と同地位を占めんことを」カンブン
4. かんぶんがく【漢文学】
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それぞれ勝れた詩文集を出しているのであった。 [参考文献]山岸徳平『日本漢文学研究』(『山岸徳平著作集』一)、同編『日本漢文学史論考』 (山岸 徳平)
5. かんぶんがく【漢文学】 : 中世/(四)
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6. 【漢文学(學)】かんぶんがく
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8. 飛鳥時代画像
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和歌史上、前の時期とともに一つのピークを形づくった。漢文学においても、奈良朝末に編まれた『懐風藻かいふうそう』の序には近江おうみ朝における漢文学の興隆を記し、本
9. あらき-ただし【荒木矩】
日本人名大辞典
慶応元年生まれ。明治33年から京都市美術工芸学校,京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)に勤務し,国文学,漢文学をおしえる。また文展,帝展などに関与し,おおくの
10. 在原業平画像
日本大百科全書
善作倭歌」と評されるように、美貌びぼうの皇孫でありながら自由奔放な情熱に生き、官僚の教養としての漢文学よりも私的な恋情などを詠む和歌に秀でた人物とみられた。 こ
11. アーネスト・サトウ 神道論 158ページ
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銅七年に、紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に史を撰ずるように命ぜられたとある。清人は当時の「文章」(漢文学・歴史)の第一人者。このほかに渡来人の山田史御方(三方)、楽浪
12. いお[いほ]【庵・菴・廬】
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それもより原始的なものと思われる。(2)「いほ」「いほり」は、漢字「庵」「廬」の訓に当てられ、漢文学でのこれらの字の用法に添って、隠遁者の住居も意味するようにな
13. いまづうら【今津浦】徳島県:那賀郡/那賀川町
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信行寺一〇世才玄と照円寺八世浄本は古津村にいた平島公方義根らと親交を深め、義根が京都から招いた儒者島津華山に漢文学を学び、才玄には「讃遊詩草」などの漢詩集が残さ
14. 李玉峰 【イーオ/りぎょくほう】 이옥봉
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朝鮮,李朝中期の女性詩人。沃川郡守李逢の妾腹の娘で曺植の門人趙瑗の妻。朝鮮漢文学史に許蘭雪軒と肩を並べる女性詩人の大家で,女性固有の繊細な筆致で人事と自然につい
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17. ウメ画像
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18. 浦島太郎画像
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19. 袁枚 十八世紀中国の詩人 362ページ
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21. 大江維時
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888-963(仁和4-応和3) 平安中期の漢文学者。音人(おとんど)の孫,千古の子。朝綱とは従兄弟。字は江二。江納言(ごうなごん)と称せられる。929年(延長
22. おおえのすけくに【大江佐国】
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生没年不詳 平安時代後期の漢文学者。朝綱の曾孫で父は従四位上式部大輔通直。長久四年(一〇四三)九月九日惟宗孝言・源時綱とともに文章生として勅題の試を奉るも落第
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24. おおえのまさふさ【大江匡房】画像
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25. 大伴旅人
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26. おかだ-まさゆき【岡田正之】
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た「日本漢文学史」は,わが国最初期の漢文学史研究の成果。昭和2年7月28日死去。64歳。越中(富山県)出身。帝国大学卒。字(あざな)は君格。号は剣西。著作はほか
27. おぎゅう‐そらい【荻生徂徠】
日本国語大辞典
人情の解放を認めて、明の李于鱗・王世貞の詩文を推奨したことと相まって、詩文を盛行させ、以後の漢文学界に大きな影響を与えた。門下から太宰春台、服部南郭らが出て
28. 落窪物語
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平安朝の継子いじめ物語。4巻。作者不詳。源順(みなもとのしたごう)とする説もある。順が漢文学の素養があり,和歌もよくする下級貴族の男性であることで,作者の条件を
29. 懐風藻
日本大百科全書
作品によっては詩序を付したもの(6編)、作者によっては漢文による略伝を付したもの(9編)があり、わが上代漢文学の総集として唯一のもの。その作品傾向は、宮廷を中心
30. 海游録 朝鮮通信使の日本紀行 327ページ
東洋文庫
文章の微妙なること、観察の細微なることにおいて、まさに『熱河日記』と頡頏するだろう」(金台俊『朝鮮漢文学史』一九三一年)という指摘は、まことに当をえたものといっ
31. 海游録 朝鮮通信使の日本紀行 337ページ
東洋文庫
そらく江戸期日本の漢文学史を研究するには、これらは欠かせないものではあるまいか。『海游録』の著者申維翰も、じつに多くの日本文人たちと筆談したり、漢詩を唱酬したり
32. 柿本人麻呂[文献目録]
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島地方に伝はる人麿伝説一つ』中島光風『二人の人麿』中西進『万葉雑話 14‐17 柿本人麻呂と漢文学』井上通泰『万葉史生手実 柿本人麿の歌集』武田祐吉『万葉集新釈
33. 柿村重松[文献目録]
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【書誌】:1件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:0件 『上代日本漢文学史』柿村重松, 山岸徳平(校)
34. 桂湖村
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漢文学者。名は五十郎。新潟県の新津にいつの人。郷里の福島潟にちなんで湖村と号した。国学、漢学の家に生まれ早くから和漢の学に造詣ぞうけいが深かった。上京して東京専
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思われる。漢文の傍訓にも,片仮名とともに草書体の仮名が混用された。平安初期は,男子の世界では漢文学が隆盛で,勅撰の漢詩集が相ついで編さんされ,学問といえば漢字漢
36. かわぐち-ひさお【川口久雄】
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昭和35年金沢大教授。51年大東文化大東洋研究所教授。漢詩文を文学史研究の中心にすえた「平安朝日本漢文学史の研究」をまとめる。日中文学の比較研究もすすめた。平成
37. かわじままち【川島町】埼玉県:比企郡地図
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この郷学所は会所の頭取名主など四人を郷学所掛、五人を助教として経営され、人倫の道を基本とし儒学・漢文学を中心に教育した。広く有志子弟に門戸を開き支学所を含め四校
38. 川田順
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歌人。東京生まれ。漢文学者川田剛たけし(甕江おうこう)の庶子。東京帝国大学法科卒業。1907年(明治40)住友総本社に入社。以後、実業人として活躍した。1897
39. 漢学
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つの文芸の流れを形成し,その漢詩文を対象とする漢文学史が成立する。明治期以後,欧米のシノロジー(中国学)をも漢学と訳称している。東京大学に和漢文学科から分かれて
41. 菅家後集
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。 今一つは大正三年十月末、大日本漢文学会から出たもので、一見漢学誌の観もあったが、そう許りでもなく、新体詩その他の投書をも歓迎していた。然し、大体は漢文学や哲
46. 漢文
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了解する作業との二つの側面をもっていたといえよう。丸山 隆司 明治以後も近世以来の伝統は大学の漢文学科,中国哲学科などに継承され,民間にも漢詩の結社や漢文塾など
47. かんぶん【漢文】
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48. 漢文教育
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ほぼ20年間にわたり履修されたものの、ふたたび削減縮小される傾向が顕著となっているが、以下に述べるような漢文学習の意義の重大性を再認識し、わが国の古典として大い
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漢学者。高知県出身。東京帝国大学漢文学科卒。北京師範学堂で一〇年間講義し、のちに広島文理大教授。著に「論語義注及集義」「易学精義」「五山文学史稿」など。明治七~
50. きでんどう【紀伝道】
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平安時代の大学の学科の一つ。中国の歴史・漢文学を教科内容とする。大学の紀伝・明経・明法・算の四道の成立は、「道」という呼び方にこだわれば、平安時代もややたって
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小吉は海舟の父で,幕末の貧乏御家人のひとり。幕府の衰退期を奔放不羈に生きた小吉の生涯は泰平の化政時代が生みだした倦怠と虚無感をもたたえている。『平子龍先生遺事』を併録。1969年05月刊【閲覧画面サンプル】【上記の拡大画像】【目次】表紙(扉)
新花摘(世界大百科事典・日本大百科全書)
俳諧句文集。与謝蕪村著。1797年(寛政9)刊。蕪村は其角の《華摘》にならって亡母追善の夏行(げぎよう)を発起し,1777年(安永6)4月8日より発句1日10句の詠を続けたが,16日間で中絶,その後余白を利用して関東や丹後の修業時代の回想的諸話を
江戸生艶気樺焼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代の小説、黄表紙。山東京伝画作。三冊。天明五年(一七八五)刊。題名は「江戸前うなぎの蒲焼」のもじり。金満家仇気屋の独り息子艶二郎は醜いくせにうぬぼれが強く、悪友北里(きたり)喜之助・悪井志庵などにそそのかされ、情事の浮名を世間にひろめようと
誹風柳多留(国史大辞典)
川柳風狂句集。百六十七冊。初篇明和二年(一七六五)より二十二篇天明八年(一七八八)まで呉陵軒可有編。二十三篇寛政元年(一七八九)如猩編。二十四篇同三年一口編。二十五篇より二十九篇まで和笛編。三十篇文化元年(一八〇四)一口編。三十一篇より七十篇
日本永代蔵(井原西鶴集)(日本古典文学全集)
初午は乗って来る仕合せ天は、何も言わず国土に深い恩恵を施しているが、人間は、誠実でありつつ、虚偽に及ぶことも多い。それは、人の心が、本来、無の状態にあり、事物に反応するだけのものだからだ。このように、人間が善と悪との中間で揺れ動きつつ生きる
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