解説・用例
奈良時代の漢詩集。一巻。編者は、淡海三船、石上宅嗣、葛井広成など諸説あるが未詳。天平勝宝三年(七五一)成立。近江朝(七世紀後半)以後約八〇年間の漢詩約一二〇首を作者別、年代順に配列したもの。六四人の作者のうち大部分は中・下級貴族だが、文武天皇、大友皇子、川島皇子、大津皇子、藤原宇合などが代表的。先行中国漢詩文の影響が濃く、類型的な傾向が強いが、日本最古の詩集として貴重。
漢詩集。1巻。撰者(せんじゃ)については、淡海三船(おうみのみふね)説、葛井広成(ふじいのひろなり)説、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)説などがあるが未詳。751年(天平勝宝3)成る(序文による)。近江(おうみ)朝以降、奈良朝中期の天平(てんぴょう)ごろまでの約八十数年間のわが国の詩人64人の漢詩120首を、ほぼ時代順・作者別に配列して一巻にまとめている。作品によっては詩序を付したもの(6編)、作者によっては漢文による略伝を付したもの(9編)があり、わが上代漢文学の総集として唯一のもの。その作品傾向は、宮廷を中心とした侍宴(じえん)や応詔の作が多く、少数の詠物詩をも含んでいて、中国の六朝(りくちょう)・初唐詩に学んだ跡が濃厚。おもな作者には、大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)、大津皇子、文武(もんむ)天皇、藤原史(ふびと)、長屋王(ながやのおおきみ)、藤原総前(ふささき)、同宇合(うまかい)、同万里(まろ)、石上乙麻呂(おとまろ)らがある。686年(朱鳥1)謀反事件で刑死した大津皇子の「金烏臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕離家向」は、『万葉集』の「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲がくりなむ」とともに有名。
[藏中 進]
現存する日本最初の漢詩集,1巻。751年(天平勝宝3)11月成立。書名は〈先哲の遺風を懐(おも)う詩集〉の意をもつ。撰者はその序文に名を記さず,淡海三船(おうみのみふね)など数説にのぼり,最近白壁王(後の光仁天皇)説もあるが,未詳。冒頭に,梁の昭明太子編集の《文選(もんぜん)》の序などを参考にした序文を置き,日本の漢詩の歴史的展開を巧みに記し,さらに編集事情を述べる。詩数は近江奈良朝の詩120首。これを大友・河島・大津皇子以下ほぼ時代順に配列し,その64名の詩人は,文武天皇,諸王,官人,僧侶など多彩にわたる。詩形は五言が大部分を占め,五言八句の詩が多いが,平仄(ひようそく)を顧慮しない詩が少なくない。詩の内容は,侍宴応詔など公的なうたげの詩が多く,遊覧の詩がこれに続き,珍しく述懐・詠物・七夕などの詩をも含む。詩句の中には,中国の詩の改作に過ぎないものもあり,また《文選》はもちろん,当時伝来していた初唐の王勃(おうぼつ)や駱賓王(らくひんのう)の詩文を学んだ跡も見られる。とくに左大臣長屋王周辺の官人,および以後の官人作の〈詩序〉数編の佳品は,王勃らの詩序を参考にした点が顕著である。儒教,老荘神仙などの中国思想をもつ句もあるが,深く学んだものではない。本書には万葉歌人の詩もあるが,歌に比してつたなく,作詩の困難さを示す。とはいえ,詩という中国的表現を試みたことは,わが上代人の表現を知る上で注目に値する。
老」の作者たる亡名氏(久保天随説、ただし武田はこれを広成とする)、作をとどめぬ某(林古渓説)、仏家(福井康順説)らがあげられている。一巻。天平勝宝三年(七五一)十一月成立。巻頭に序文を掲げ、目録を置き、ついでほぼ年代順・作者別に詩を連ねる。序文は古来の学問・文芸の歴史を述べ、古人をしのび、散佚をおそれて六十四人、百二十首の詩を集めたとし、先人の遺風を忘れぬために「懐風」と名づけたともいう。『懐風藻』の「藻」は、石上乙麻呂の詩集『銜悲藻』(現存しない)にならったと思われる。詩人は六十四人、大友皇子(弘文天皇)から葛井広成に及び、巻頭あたりの大友・河(川)島・大津の諸皇子、釈智蔵・葛野王・釈弁正と、巻末近い釈道慈・釈道融・石上乙麻呂との九人にだけ伝記がつけられている。詩は群書類従本がもっとも多く百十八首をのせるが、うち「山中」「歎
老」はのちの追加と思われ、釈道融の詩四首が脱落していると考えられる。道融には校異の形で別の一首が入ってもいる。もっとも、これ以外の百十六首が、必ずしもすべて信じられるわけではない。大津皇子の「述志」一首は一聯しかなく、「後人聯句」がつけられ、かつ大津の句は『東大寺諷誦文稿』に類句があり、『万葉集』の大津の歌と似通い、七言という新しい形で、後人の句も大津皇子謀反事件を内容としている。同じく事件に関する、次の「臨終」も後周や金代の臨刑詩と同想で、『万葉集』にも臨終歌があり、これらはのちの補入を疑わせるところがある。そのような疑問をふくんではいるが、とにかく現形についてみると、まず詩形は五言詩が圧倒的に多く百九首、七言は七首にすぎない。その上に句数を考え合わせると、『懐風藻』の大体の傾向は中国初唐の詩の傾向に似通っている。また詩題については公宴の詩が目立ち、晴れの作品集の感も抱かせるが、『文選』などと比較すると雑詩の比率が大きく、公宴詩が七一〇―二〇年代の長屋王時代に集中している。このことと関連するのが儒教思想で、対立的な老荘思想は少ないにしろ、儒教思想の見られるのはほとんど公宴詩で、『懐風藻』全体が硬直した政教の詩集なのではない。それは作者についてもいえることで、平安時代の勅撰三集から『本朝文粋』とくだるに従って漢学者の活躍が目立つのに対して、『懐風藻』では、漢学者でも渡来氏族の人でもない一般官人が、作者としてもっとも多い。しかも彼らの中で最多数をしめるのは、極位が五位の人々で、多くの一般下級官人が、『懐風藻』の詩の担い手だったことになる。公宴で作詩するにしろ、より多くは、ふつうに雑詩の世界に感懐を托した官人集団の詩が、『懐風藻』の詩であった。その中できわだって詩数も多く、本格的な詩を残すのが藤原不比等とその三子、総(房)前・宇合・万里(麻呂)で、『万葉集』の大伴氏と対応しつつ、当時の文芸のあり方をもの語っている。宇合には漢詩集二巻すらあったという。また、石上乙麻呂・葛井広成の詩も、達意のものである。しかし彼らは全体にとっては特殊であって、多くの人々はもっと素朴に、和臭にみちた詩を作っている。ともあれ、『懐風藻』は奈良時代の漢詩のほとんどであって、それ以外に伝えられる奈良時代の漢詩は、二十一首にすぎない。なお、現存のテキストは、すべて、長久二年(一〇四一)に文章生惟宗孝言の書写したものが、京都蓮華王院に伝わり、それを康永元年(一三四二)のころ転写したものに基づいている。諸本は、上述のように群書類従本系統の二首の有無による差違があるていど、また来歴志本が元和元年(一六一五)書写、以下すべて江戸時代のものである。刊本は『群書類従』文筆部所収本のほか、天和本(天和四年(一六八四))、その校定本の宝永本(宝永二年(一七〇五))、さらにその校定本たる寛政本(寛政五年(一七九三))の三本がある。なお現今もっとも入手しやすく信頼できるテキストとしては『日本古典文学大系』六九所収本がある。解説・用例
奈良時代の漢詩集。一巻。編者は、淡海三船、石上宅嗣、葛井広成など諸説あるが未詳。天平勝宝三年(七五一)成立。近江朝(七世紀後半)以後約八〇年間の漢詩約一二〇首を作者別、年代順に配列したもの。六四人の作者のうち大部分は中・下級貴族だが、文武天皇、大友皇子、川島皇子、大津皇子、藤原宇合などが代表的。先行中国漢詩文の影響が濃く、類型的な傾向が強いが、日本最古の詩集として貴重。
発音
カイフーソー
[フ]
[ー]<1>
書名奈良時代の漢詩集。編者未詳。一巻。七五一年(天平勝宝三)成立。わが国最古の漢詩集。近江(おうみ)朝以降八〇年余にわたる、天皇以下六四人の作品一二〇編を収録。中国六朝(りくちょう)詩の影響が強い。
善
囲棊 ...
善
囲棊 ...
我一箇之榻 ...
魯壁之余蠧 ...
登 ...
是三階平煥。四海殷昌。旒 ...
湮滅 ...
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