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  11. 静御前

静御前

ジャパンナレッジで閲覧できる『静御前』の日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

静御前
しずかごぜん

生没年不詳。源義経 (よしつね)の妾 (しょう)。磯禅師 (いそのぜんじ)の女 (むすめ)で、もと京都の白拍子 (しらびょうし)であった。義経が京都堀川第 (ほりかわだい)で兄頼朝 (よりとも)の刺客土佐房昌俊 (とさぼうしょうしゅん)に襲われたとき、機転によって義経を助けた。以後、義経に従い大物浦 (だいもつのうら)(兵庫県尼崎 (あまがさき)市大物町)から吉野山に逃れたが、山僧に捕らえられて鎌倉に護送された。鎌倉では義経の所在に関して厳しい訊問 (じんもん)を受けたが、静は固く沈黙を守ったという。頼朝の妻北条政子 (まさこ)は、静が舞の名手であると聞き、鶴岡八幡 (つるがおかはちまん)の神前でこれを舞わせた。工藤祐経 (くどうすけつね)が鼓を打ち、畠山重忠 (はたけやましげただ)が銅拍子 (どうびょうし)を勤めた。静はこのとき、「吉野山峰の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」「しずやしず賤 (しず)の苧環 (おだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな」と、義経への慕情を歌ったため、頼朝の不興を買ったが、政子のとりなしによって事なきを得た。やがて静は一児を生んだが、頼朝はこれを鎌倉由比ヶ浜 (ゆいがはま)に捨てさせた。静を主題とした謡曲に『吉野静』『二人静 (ふたりしずか)』があり、浄瑠璃 (じょうるり)に『義経千本桜』がある。

[鈴木国弘]



世界大百科事典

静御前
しずかごぜん

平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。しかし翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ,鎌倉に送られて尋問をうけた。同年7月鎌倉で義経の子を出産するが,男児であったため子は由比ヶ浜に沈められ,静は京に帰された。その後の消息は不明。頼朝・政子夫妻の求めにより鎌倉鶴岡八幡宮社前で舞を舞ったとき,義経への恋慕の想いを歌ったことは《吾妻鏡》にみえて有名。
[飯田 悠紀子]

伝承

源義経との邂逅以前の静の前半生のことはよくわからない。幸若舞曲《静》は,伏見の中将と呼ばれた藤原の公卿を父に擬すが,もとより仮構の伝であろう。《義経記》でも,義経が衰運に向かってから登場する。頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が,義経の堀河館を襲撃したおりに活躍したと,《平家物語》《義経記》には気丈な女性像が描かれる。《吾妻鏡》《義経記》が記す静の動静は,基本的には一致している。鎌倉幕府の正式記録とも目される《吾妻鏡》に,義経の一愛妾の消息が詳記されていることには疑義があり,すでに流布していた静の物語を《吾妻鏡》編纂時に取り込んだものと考えられている。義経の遺児が葬られた勝長寿院が,寺の縁起譚として静の物語を管理していたとの説もある。また,《義経記》では帰洛後静が出家し,天竜寺(田中本は天王寺)の麓に庵を結び,往生を遂げたという。しかし,《異本義経記》(近世前期成立)では,出家後再性と名を改め,南都に住したとか奥州へ下ったとかの説を記している。幸若舞曲《静》にも女人教化の場を彷彿とさせる場面があるが,《曾我物語》における虎御前同様,静を名のる女性唱導者がいたらしい。その足跡が寺社の縁起や姓氏・地名にまつわって残存している例が,数多く報告されている。
[西脇 哲夫]

[索引語]
源義経 静 勝長寿院


国史大辞典

静御前
しずかごぜん
生没年不詳
源義経の妾。白拍子。磯の禅師の娘。平安時代末期の京都で舞の名手として知られたと伝えられる。文治元年(一一八五)十一月、義経が兄頼朝に背いて京都より逃亡した時に随行したが、吉野山中で義経主従と離れて京都へ戻る途中蔵王堂で捕えられ、京都で北条時政の尋問を受けた後、翌二年頼朝のいる鎌倉へ送られて重ねて義経の行方につき尋問された。同年四月、頼朝夫妻の求めにより、鶴岡八幡宮で舞を舞って人々を感嘆させた。その時に「吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」、「しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」と歌った。頼朝はこの歌を不快に感じたが、妻の北条政子が彼ら夫妻の過去の身の上に言及してこれを宥めたと伝えられる。同年閏七月に鎌倉で男子を出産したが、この子は義経の男子である故に、その日のうちに殺された。同年九月に京都に帰った。その後の生活については不明である。『義経記』には二十歳の時に往生を遂げたと記されるが、信用する根拠はない。後世とくに『義経記』や能『吉野静』『二人静』および浄瑠璃『義経千本桜』四段目などによって人々に広く知られ、親しまれた。→磯の禅師(いそのぜんじ)
[参考文献]
『吾妻鏡』
(石田 祐一)


新版 日本架空伝承人名事典

静御前
しずかごぜん
 平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。一一八五年(文治一)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき、静もこれに同行。しかし翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られて尋問をうけた。同年七月鎌倉で義経の子を出産するが、男児であったため子は由比ヶ浜に沈められ、静は京に帰された。その後の消息は不明。頼朝・政子夫妻の求めにより鎌倉鶴岡八幡宮社前で舞を舞ったとき、義経への恋慕の想いを歌ったことは『吾妻鏡』にみえて有名。
[飯田 悠紀子]
伝承
 源義経との邂逅以前の静の前半生のことはよくわからない。幸若舞曲『静』は、伏見の中将と呼ばれた藤原の公卿を父に擬すが、もとより仮構の伝であろう。『義経記』でも、義経が衰運に向かってから登場する。頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が、義経の堀河館を襲撃したおりに活躍したと、『平家物語』『義経記』には気丈な女性像が描かれる。『吾妻鏡』『義経記』が記す静の動静は、基本的には一致している。鎌倉幕府の正式記録とも目される『吾妻鏡』に、義経の一愛妾の消息が詳記されていることには疑義があり、すでに流布していた静の物語を『吾妻鏡』編纂時に取り込んだものと考えられている。義経の遺児が葬られた勝長寿院が、寺の縁起譚として静の物語を管理していたとの説もある。また、『義経記』では帰洛後静が出家し、天竜寺(田中本は天王寺)の麓に庵を結び、往生を遂げたという。しかし、『異本義経記』(近世前期成立)では、出家後再性と名を改め、南都に住したとか奥州へ下ったとかの説を記している。幸若舞曲『静』にも女人教化の場を彷彿とさせる場面があるが、『曾我物語』における虎御前同様、静を名のる女性唱導者がいたらしい。その足跡が寺社の縁起や姓氏・地名にまつわって残存している例が、数多く報告されている。
源義経
[西脇 哲夫]
静先づ歌を吟じ出でて云ふ、よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき、次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云ふ、しつやしつ〓〓のをたまきくり返し昔を今になすよしもかな、誠に是社壇の壮観、梁塵殆んど動く可し、上下皆興感を催す、二品仰せて云ふ、八幡宮の宝前に於て、芸を施すの時、尤も関東の万歳を祝ふ可きの処、聞食す所を憚らず、反逆の義経を慕ひ、別曲の歌を歌ふこと奇恠なりと云々、御台所報じ申されて云ふ、君流人として豆州に坐し給ふの比、吾に芳契有りと雖も、北条殿時宜を怖れ、潜かに之を引籠めらる、而れども猶君に和順して、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎて、君の所に到る、亦石橋の戦場に出で給ふの時、独り伊豆山に残留まりて、君の存亡を知らず、日夜魄を消す、其愁を論ずれば、今の静の心の如し、予州の多年の好を忘れて、恋ひ慕はざるは、貞女の姿に非ず、外に形はるるの風情を寄せ、中に動くの露胆を謝す、尤も幽玄と謂ひつ可し、抂げて賞翫し給ふ可しと云々、時に御憤を休むと云々
吾妻鏡文治二年四月
或日、義経奥州ニテ自害ノ由ヲ聞テ、静尼ニナリテ、名ヲハ再性ト付テ、暫ク嵯峨ノ辺ニ有シカ、後南都ニ住シト也。又、奥州ノ方ヘ下リシ共云リ。
異本義経記
静女舞衣 中田宿光了寺蔵なり。この寺原栗橋の南なる高柳村に在りて高柳寺といへる頃、静女を葬りてより什物とは為りけるか。(中略)この舞衣の事、縁起云、後鳥羽院の御宇、一歳大旱魃して耕草連枝も枯果、国民の愁安からず、貴僧を請じ雨乞執行ましませども、一滴の潤なし。公卿詮義の上、一百人の舞姫を集め、神泉苑の池にて法楽の舞を舞はせ給ふ。九十九人まで舞はれけれどもその験なし。百人目に静既に舞はむとせし時、御桟鋪御簾の内より御衣を下さる。乃ち静頂戴してこれを著し舞ひければ、車軸の如く雨降りけり。(中略)蛙蟆龍あまりようの舞衣といふ。
利根川図志巻二
いそ〓〓としづか御ぜんの跡につき
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):21‐7
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「いそ〓〓」で母の磯の禅師を暗示。作句時(天明期)の踊子に付いてゆく母は、現在のステージママというところか。
御妾は故事を云ひ〓〓浜でまひ
編者/評者:編者未詳
出典:『柳多留拾遺』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):5‐28
刊行/開き:1796~97(寛政8~9)(刊)
義経らは堀河館を出て、摂州大物の浦にいたり、弁慶のすすめで静を都へ帰すことになる。静は越王勾践の故事を述べて別れの舞を舞う(謡曲『船弁慶』)。
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検索コンテンツ
1. 静御前
日本大百科全書
生没年不詳。源義経よしつねの妾しょう。磯禅師いそのぜんじの女むすめで、もと京都の白拍子しらびょうしであった。義経が京都堀川第ほりかわだいで兄頼朝よりともの刺客土
2. 静御前
世界大百科事典
平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。しかし翌年吉野
3. しずか‐ごぜん[しづか‥]【静御前】
日本国語大辞典
平安末期から鎌倉初期の女性。母は磯禅師。もと京の白拍子、のちに源義経の側室。義経が頼朝と不和となったことから、吉野落ちに随行、捕えられて鎌倉に送られた。頼朝夫妻
4. しずかごぜん【静御前】
国史大辞典
生没年不詳 源義経の妾。白拍子。磯の禅師の娘。平安時代末期の京都で舞の名手として知られたと伝えられる。文治元年(一一八五)十一月、義経が兄頼朝に背いて京都より
5. しずかごぜん【静御前】
日本人名大辞典
?−? 平安後期-鎌倉時代,源義経の愛妾(あいしょう)。母は磯禅師(いそのぜんじ)。もと京都の白拍子(しらびょうし)。文治(ぶんじ)元年(1185)源頼朝と対立
6. しずかごぜん【静御前】
日本架空伝承人名事典
平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。一一八五年(文治一)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき、静もこれに同行。しかし翌年吉野
7. 静御前[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:3件 【逐次刊行物】:7件 『静御前』国府犀東『静御前の生涯』小谷部全一郎『静御前集』小倉恒司『静が墓と謡曲二人静 典故』横山杣人『静御前』桜木史郎『
8. あげえ こげえ
日本国語大辞典
あげへこげへにくひつきたがる」*滑稽本・東海道中膝栗毛〔1802~09〕四・上「あとの建場で、静御前が持病の疝気さァおこったと、金玉ノウつりあげて、うっちぬべい
9. あだち-きよつね【安達清経】
日本人名大辞典
しき)。源頼朝につかえ,御家人監視や源義経の探索などにあたる。文治(ぶんじ)2年(1186)静御前の子をすてる使いや押領(おうりょう)問題をおこした文覚(もんが
10. あだちしずか[あだちしづか]【安達静】
日本国語大辞典
謡曲。三番目物。廃曲。作者不詳。静御前が鎌倉八幡宮の若宮殿で、源頼朝を前に安達三郎の鼓で舞を舞うという筋。
11. アラビアン・ナイト 9 24ページ
東洋文庫
うから,あるいは獄死したのかも知れない。源頼朝の面前で,義経を恋う歌をうたいつつ舞ったという静御前の話によく似ている。マハブーバは詩をよくし,よく歌い,またウー
12. いけ も せぬ
日本国語大辞典
かたると」*浄瑠璃・右大将鎌倉実記〔1724〕しづか大和巡り「ヤイ備前摺鉢め、いけもせぬしゃっ面(つら)で、静御前に恋慕とは」*洒落本・婦美車紫〓
13. いさかむら【伊坂村】埼玉県:北葛飾郡/栗橋町地図
日本歴史地名大系
経蔵院の本尊地蔵菩薩は静御前の持仏と伝えられる。村の東方の鎌倉街道が通っていたと伝える辺りに小墳があり、文治年間(一一八五―九〇)に源義経を追って奥州に向かい、
14. 和泉式部画像
日本大百科全書
わが子と知らず道命法師と恋をすることになっている。 これらの伝承を運んだのは、小町、紫式部、静御前しずかごぜん、虎とら御前などの女性伝承を伝えた一群の人々と同じ
15. いずみしきぶでんせつ【和泉式部伝説】
国史大辞典
おそらくこの人の伝記を語って歩く遊行の女性が中世に全国を旅して廻ったためであろう。小野小町や静御前なども同じ理由から諸方に名をとどめている。和泉式部についての語
16. いそ‐の‐ぜんじ【磯禅師・磯前司】
日本国語大辞典
源義経の愛妾静御前の母。讚岐小磯の人。藤原通憲に学んで白拍子(しらびょうし)を始め、静に伝えたといわれる。生没年不詳。
17. いそのぜんじ【磯の禅師】
国史大辞典
舞は母の介添によるものであろう。そのようなことから磯も舞楽の名手と伝えられるが真偽は不明。→静御前(しずかごぜん) [参考文献]『吾妻鏡』 (渡辺 保)
18. いそのぜんじ【磯禅師】
日本人名大辞典
性。讃岐(さぬき)(香川県)の人。「徒然草」によると藤原通憲(みちのり)に男舞をならい,娘の静御前(しずかごぜん)につたえたという。これが男装して男舞をまう白拍
19. いそむら【磯村】京都府:竹野郡/網野町
日本歴史地名大系
、また天和元年宮津領村高帳でも七四・三二八石「木津庄浜分」の内と考えられる。村の西方の丘に、静御前を祀る静神社が鎮座。静は磯村出身の磯の禅師の女で、源頼朝に許さ
20. いちかわえみさぶろう【市川笑三郎】[付録]
歌舞伎事典
で国立劇場奨励賞。平成9・7《夏祭》のお辰ほかで歌舞伎座賞。平成10・7歌舞伎座《四の切》の静御前で名題昇進。平成15・10国立劇場《競伊勢物語》の娘信夫で優秀
21. いちかわえみや【市川笑也】[付録]
歌舞伎事典
平成5・9ヨーロッパ公演、平成8・8‐9マレーシア・タイ公演に参加。平成10・7歌舞伎座《千本桜》堀川御所の静御前で名題昇進。平成22・9大阪新歌舞伎座《太閤三
22. いちかわしゅんえん【市川春猿】[付録]
歌舞伎事典
平幹二朗主演《ヘロデ王》のサロメに望まれたのもうなずける。反面、《毛抜》の錦の前、《千本桜》の卿の君、静御前、《夏祭》の琴浦など若女方の役にふさわしい可憐さがあ
23. 茨城(県)画像
日本大百科全書
う、古代の世界観に基づく信仰から生まれた伝説である。なお、古河市中田の光了こうりょう寺には「静御前しずかごぜん」に関する伝説があり、その遺品を伝えている。また、
24. いますむら【今須村】岐阜県:不破郡/関ヶ原町
日本歴史地名大系
美濃側から聞えるのが義朝の家臣江田源蔵行義の声と知り、その夜を話し明かしたと伝える。これを源義経を追ってきた静御前と江田広綱との寝物語とする伝承もある。太田道灌
25. いりやむら【入谷村】宮城県:本吉郡/志津川町
日本歴史地名大系
大船沢の奥に鏡の形の跡がある鏡石という巨石があり、義経伝説がある。義経がこの地の鬼神を退治したとき、供をした静御前がこの石に鏡を掛け、その跡が残ったと伝え、近く
26. うぶ‐ごえ[‥ごゑ]【産声・初声】
日本国語大辞典
句集〔1793〕雑「産声に琴のひびきや桐の花〈呉琴〉」*新体梅花詩集〔1891〕〈中西梅花〉静御前「裳屋(もや)にあげたる初声(ウブゴヱ)の」ウブ
27. うんじょう‐びと[ウンジャウ‥]【雲上人】
日本国語大辞典
〔名〕宮中に仕える殿上人や女官。雲の上人(うえびと)。雲客(うんかく)。*新体梅花詩集〔1891〕〈中西梅花〉静御前「雲上人にはやされて、始めてかへす舞の袖」*
28. 絵本江戸風俗往来 121ページ
東洋文庫
町。回番春日竜神の能人形、この面は名作なり。駿河町・品川町・同裏河岸・北鞘町・本両替町。田圃静御前。瀬戸物町・伊勢町・本小田原町。田圃加茂の能人形。室町三丁分・
29. おおしおむら【大塩村】長野県:北安曇郡/美麻村
日本歴史地名大系
「しお」ととなえたことによるものであるが、村の中に静の桜と伝える桜樹があり、大塩は「奥州」であるとして、静御前にまつわる伝説を残している。村中に古城跡と伝える遺
30. おおつきむら【大槻村】福島県:郡山市/旧郡山市地区
日本歴史地名大系
地内)の端郷に散在(端郷は現字名として残る)。仁井池・西ノ池・葉山池・鎌倉池・新池、美女池(静御前の乳母が投身したとの伝説がある)の六ヵ池、伊藤将監高久が拠った
31. 小川破笠[文献目録]
日本人物文献目録
』正木直彦『破笠請益』高野辰之『破笠と団十郎』杉浦冷石『破笠の技巧に就いて』吉野富雄『破笠筆静御前男舞図』-『笠翁制作の後継者』竹内久一
32. おとこまい【男舞】
国史大辞典
中世の遊女芸能者の白拍子が、烏帽子・水干に太刀を佩いた男姿で舞ったのを指していう。伝説では、静御前の母磯の禅師に始まるとも、島の千載・和歌の前に始まるとも伝える
33. 尾上菊五郎[演劇]
情報・知識 imidas
3代目尾上松緑追贈)とともに「三之助ブーム」を巻き起こし、NHK大河ドラマ「源義経」に主演して人気を博し、静御前役の藤純子(現富司純子)と結婚して話題を呼んだ。
34. おのえきくごろう【尾上菊五郎】[付録]
歌舞伎事典
お富・与三郎、揚巻・助六、三千歳・直侍、十六夜・清心、《忠臣蔵》は判官・勘平・おかる、《千本桜》で忠信・静御前、権太・お里、《妹背山》は求女・お三輪・橘姫、《菊
35. おわ・す[おはす]
日本国語大辞典
「浄瑠璃・念仏往生記‐四」の「なふそれ成は真実入道にておはさぬか」、「浄瑠璃・後藤伊達目貫‐三」の「静御前は気の毒さ、聞かぬ顔しておはせ共」、「読本・雨月物語‐
36. 女大学集 288ページ
東洋文庫
藤岡屋慶治郎はじめ江戸・大阪の㎜四書蝉合梓一【、、、.判.一、一+八丁.〔口・首〕 袈裟御前・静御前の図。近江八景の図、女士農工商の図、春夏秋冬。〔頭〕 別項参
37. 香川(県)画像
日本大百科全書
う伝説の定着をみることができる。これが『保元物語』や『雨月物語』によって広く世に伝えられた。静御前しずかごぜんの母磯禅尼いそのぜんには現在の東かがわ市丹生にぶの
38. かってじんじゃ【勝手神社】奈良県:吉野郡/吉野町/吉野町
日本歴史地名大系
にて、静法楽の舞を舞し装束、并義経の鎧、宝蔵にありしが正保比火災にやけ失せぬ」とあり、境内に静御前の舞塚というものがある。文禄四年(一五九五)の吉野山惣中御朱印
39. 甲子夜話 5 312ページ
東洋文庫
出歩行す。途はや中田(中田駅)に到れり。此駅のうちに光了寺(光了寺)といふあり。其寺の門前に静御前の旧跡(静女旧跡)と書たる牌をたてたり。いかなる迩にやたちより
40. 甲子夜話 5 313ページ
東洋文庫
柄も鞘もなくて素鞘にこめたり。身には金の脛巾をかく、これは昔の遺ものにて鞘は後のものと見ゆ。又聞、静御前を葬し所とてあり。粟餅うる家のほとりより岐てわづかに入。
41. 甲子夜話三篇 1 247ページ
東洋文庫
奉レ翼候。清。おもしろぎ御戯評にて御坐候。 たひら)ハ凸 『江戸志』浅草寺の条、貞雄が補に、静御前の薙刀、観音堂の内、後本尊の前、かもみの上に、古より掛て有り。
42. 甲子夜話続篇 7 93ページ
東洋文庫
きくうれしさ。これ偏に仏神の御引合ならん。此うへは我をも伴ひ給はれと有ければ、源蔵聞て、籾は静御前にてましますか。此程の御ものおもひおしはかり、御いたはしくこそ
43. 甲子夜話続篇 7 265ページ
東洋文庫
因て予が年来古の妓舞を述るを知て然する也。 日ふ。下総国葛飾郡古河の辺、中田村光了寺は、 門徒宗にて、什物に静御前白拍子の舞衣有レ之。 蝦夷錦、胸に金糸にて日月
44. 甲子夜話続篇 7 266ページ
東洋文庫
雨降こと彩しかりしとぞ。是を蛙膜竜の舞衣と号す。玉垣日。中田村と古河との間に、しあん橋と云有り。静御前奥州へ下向の節、しあん致され候て、武州葛飾郡栗橋在、伊坂村
45. 甲子夜話続篇 7 267ページ
東洋文庫
御能触頭山田嘉膳建つと。俗碑云に足らず。されども棄るに忍びず。(碑図、上段一校注)『寛政道の記』に、又聞く。静御前を葬し処とてあり。粟餅うる家の辺りより踏分けて
46. かつ‐もって【且以】
日本国語大辞典
かつもって。頬計(つらばかり)が美しくて何の役に立物ぞ」*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕四「静御前を預けしなんど御諚の趣(おもむき)、かつ以て身に覚へ候はず」*
47. 髪
世界大百科事典
長い髪は神霊と交霊する巫祝(ふしゆく)の特徴ともされ,こうした神に仕える女性の存在は髪長媛や静御前などの伝説として各地に残されている。髪は神聖視される一方で,婚
48. からわ【唐輪】画像
国史大辞典
精密な描写がみえ、当時の唐輪の髪風を明示している。なお『義経記』六、静若宮八幡宮へ参詣の事に静御前が「割菱縫いたる水干に、丈なる髪高らかに結ひなして」とある丈な
49. きたこなしむら【北小梨村】岩手県:東磐井郡/千厩町
日本歴史地名大系
小山の白幡神社は治承元年(一一七七)源義経勧請とされ(明治五年「神社書」白幡神社文書)、社伝では静御前所持の秘仏十一面大士像の、金剛神に化身して白幡となり、天下
50. きっすい‐いん[‥ヰン]【吉水院】
日本国語大辞典
奈良県吉野郡吉野町吉野山にあった僧坊。文治元年(一一八五)源頼朝に追われた義経が静御前とともに身を寄せ、延元元年(一三三六)には後醍醐天皇の行在所が置かれたこと
「静御前」の情報だけではなく、「静御前」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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林真理子(日本近代文学大事典)
新規小説家、エッセイスト。山梨県山梨市生まれ。書店を営む家庭に生まれる。山梨県立日川高校卒業後、日本大学芸術学部文芸学科入学。1976(昭和51)年卒業後、アルバイト等をしながら宣伝会議主催のコピーライター養成講座、糸井重里コピー塾等に学んだ
永井荷風(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家、随筆家。東京市小石川区金富町に、永井久一郎、恆の長男として生れた。本名壮吉。別号断腸亭主人、石南居士、鯉川兼待、金阜山人など。久一郎は尾州(現・愛知県)の出身、藩儒鷲津毅堂に漢学を学び、上京後、大学南校貢進生となり、明治四年渡米
南方熊楠(日本大百科全書・世界大百科事典)
生物学者、民俗学者。和歌山県に生まれる。博覧強記、国際人、情熱の人として、日本を代表する人物の一人に数えられる。大学予備門(東京大学教養課程の前身)を中途退学してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究。イギリスでは大英博物館で考古学
ナポレオン1世(日本大百科全書・世界大百科事典)
フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、15)。本名ナポレオン・ボナパルトNapoléonBonaparte。[井上幸治]▲生い立ちコルシカ島は14世紀以来、イタリアのジェノバ領であったが、18世紀初期から住民は独立運動を開始し、同世紀中ごろから
パスツール(日本大百科全書・世界大百科事典)
フランスの化学者、微生物学者。父ジャン・ジョセフJean-JosephPasteur(1791―1865)はナポレオン軍の下士官も務めた小さな皮革業者で、その長男として12月27日、ドール市に生まれた。幼時の天才児らしい話は残っていない。パリの高等師
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