Croisade[フランス]
Kreuzzug[ドイツ]
クレルモン会議(1095)で教皇ウルバヌス2世により宣言された第1回十字軍以来,チュニスで敗退した最終回(1270)まで何回かにわたって西欧キリスト教徒の軍団が行った中近東各地への軍事遠征。広義にはイベリア半島,イタリア,地中海の島々などをイスラムの支配下から解放する11世紀後半からの戦いや,公式遠征に数えられていない自発的民衆巡礼団の軍事行動および中近東の十字軍国家を起点とする近隣諸地域への進出行為などの総称とされ,13世紀末以降16世紀にまで続けられたキリスト教諸国民とオスマン帝国を中心とするイスラム諸勢力との戦い(1389年のコソボの戦,1526年のモハーチの戦など)をも十字軍の名でよぶ見方もある。
起源--十字軍運動
ヨーロッパのほぼ全域を渦中にまきこみ,数世紀にわたって持続した東方進出の気運は,その根元に社会経済的要因と精神的動機をもっている。まず数世紀間を周期とする気候変動の影響が11世紀中葉から現れた。日照時間の増大,気温の上昇,降水量の低下などによって,農業生産性は著しく高まり,それまで過疎状態にあった西欧の人口動態は密度・総計ともに爆発的に増加しはじめた(農業革命)。十字軍開始期には森林が切り開かれて,耕地面積は拡大し,より豊かな衣食住の条件が追求されるようになり,経済発展に対応する社会身分の流動性が見られた。農民の階層化,市民階級の新たな形成が始まり,とくに軍馬の飼育・所有を独占的に行った騎士階級の出現が西欧社会の特色をなすにいたった。このような富,知的教養,権力といったさまざまな面で上昇運動の活力を生み出した社会は,その内部エネルギーの膨張力によって対外進出を大規模に行い得る態勢を整えたことになる。
他方,中世前半のキリスト教の発展と深化にともなう信心形態の変化は,神に人間の業(わざ)の最良最善のものをささげたいと念願する各種の営みを生み出した。ロマネスク芸術を駆使した大聖堂(カテドラル)の建設,修道院における霊的修練生活の普及,各地の聖所をめぐり聖遺物を崇敬する巡礼の流行などがその具体的表れである。さらに異教徒の住む諸地方への軍事的進出を正義の戦いとみなし,これを苦行として実践しようとする贖罪意識の高揚も重要な要素である。この精神的動機から西欧中世人の集団的心性の産物として,定期的に遠隔地の聖所へ向けて巡礼団を送る習慣が定着した。精神的指導者として聖職者(司教,司祭),修道士,民間説教師が付き添い,非武装の巡礼の護衛者として諸侯,騎士,歩卒の軍団が配属され初期の十字軍遠征隊が編成された。
公式十字軍の発動
エルサレムはユダヤ教,キリスト教,イスラムの共通の聖地であり,とくにキリスト教徒はこの都を〈キリスト受難〉の地として諸巡礼地のうち最高の聖域とみなし,その地のキリストの〈聖墳墓〉の解放を十字軍の最終目標にかかげた。このため中世の史料は十字軍を〈エルサレムもうで〉〈聖墳墓参り〉などと記録している。十字軍の発端となったのは,こうしたキリスト教徒の聖地や,聖地への巡礼が,1071年にエルサレムを占領したセルジューク朝やビザンティン帝国領であったアナトリアに侵入したルーム・セルジューク朝などトルコ系諸族によって圧迫・迫害されているという西方キリスト教国の認識であった。そして,ビザンティン帝国の対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊が導入されるようになると,ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が聖地解放のための企てとして具体化された。ピアチェンツァ会議(1095年3月)に列席したビザンティン皇帝アレクシオス1世Alexios Iの使節はイスラムによる被害を誇張し,東方正教会守護の緊急性を訴えた。教皇ウルバヌス2世はこの要請を受けいれて援助を確約したが,教皇の意図は次のようなものであったと推論される。(1)西欧における〈叙任権闘争〉の延長線上に,教会改革の促進と教皇権の皇帝権に対する優位確立をめざす運動を展開する。(2)西欧の封建諸侯,騎士の私闘を抑制する〈神の平和〉運動を勧奨し,彼らの軍事力を対異教徒戦争に転用する。(3)民衆運動として大流行をきたしている巡礼伝統を活用し,贖罪行為としての遠征参加を呼びかけ,彼らに物心両面の報酬を約束する。(4)教皇代理の資格をもつ高位聖職者を総司令官に任命し,東方正教会の教皇裁治権下への復帰(1054年以降分離)と中近東各地の占領予定地の教会管理権の復活をはかる,などである。1095年11月28日,教皇はこれらの内容をふくむと推定される〈十字軍宣言〉を公表し,フランスを中心とする西欧各地でこのアピールにこたえる遠征参加希望者の大集団が数組結成された。ここに〈贖宥(しよくゆう)〉(罪のゆるしに伴うつぐないの免除)という精神的特権を付与された武装巡礼団が公式十字軍として,2世紀余にわたって断続的に中近東各地へ派遣されることになった。
十字軍の構造,時代・地域区分,行軍ルート
アミアンの隠者ペトルスPetrusをカリスマ的指導者と仰ぐ北フランスとライン川沿岸地方の民衆約2万人が,自発的にエルサレム巡礼を目ざして結成した〈先発隊〉の出発(1096年7月)を最初として,公式・非公式,大小無数の武装・非武装の海外進出団体(単位集団当り数百人から20万人余)が続々として東方へ向かった。その構成員には,貴族的・政治的・侵略的性格の強い要素と,民衆的・宗教的・平和的性格を示す要素とが混在する〈二重構造〉が見られ,十字軍の全期間を通じてこの複合性は持続された。史料が十字軍参加者を〈巡礼たち〉と総称しているのはこの事実を示している。十字軍士はつねに勇猛な戦士と敬虔な使徒との両面を兼ね備えていたのである。
公式十字軍をその戦略的側面から時代区分すると次の4段階となる。(1)初期十字軍 11世紀末~12世紀末,エルサレム王国(1099-1187)建設期とその攻勢的防衛期。(2)中期十字軍 13世紀前半,占領地の守勢的維持期。(3)末期十字軍 13世紀後半,占領地の全面的喪失期。(4)〈後の十字軍〉期 14~16世紀,東地中海からの後退期,〈大航海時代〉への転換期。また狭義には第3段階の1291年アッカー(アッコ)陥落をもって十字軍時代の終末と見なす説もある。
十字軍の舞台となった地域は,(1)北欧をふくむ西欧諸国,西地中海など十字軍運動の策源地。(2)東欧諸国,アナトリア(小アジア),東地中海など遠征ルートの途上地域。(3)シリア・パレスティナ,ヨルダン,キプロス島など十字軍国家の直轄領域。(4)エジプト,チュニス,ロードス島,マルタ島などの外縁地域とに区分され,初期・中期十字軍は(1)~(3)の地域に,末期および〈後の十字軍〉は(4)の地域を舞台にしている。遠征の行軍ルートは第1段階の半ばまでは陸路をとり,河川,海峡の渡渉に一部船便を併用したが,アナトリアにおけるイスラム軍の抵抗が強く,兵力の消耗が甚大であった。12世紀後半から海運の発展によって,ビザンティン帝国とイタリア諸都市の海軍力が強大となり,もっぱら聖地に直航する地中海ルートが利用された。
経過の概要
初期十字軍
第1回十字軍は,上述の地域(1)の各地で遠征が発起され,ルピュイ司教アデマールAdhemar du Puyを教皇代理の調停者として4軍団が地域(2)において前進基地,補給源(コンスタンティノープル)の設定を行い,ビザンティン皇帝に対する臣従誓約の履行を受諾した後,アナトリア横断中,各地で同地を支配していたルーム・セルジューク朝軍との前哨戦ののち,地域(3)の門戸をなすアンティオキア争奪の攻城戦をもって本格的作戦に入った。同時に別働隊によるエデッサ攻略戦が行われ,遠くユーフラテス川流域地方までヨーロッパ人の占領地が拡大された。この時点でアンティオキア侯領とエデッサ伯領の十字軍国家が成立し,イスラム側はアナトリアのルーム・セルジューク朝,ダマスクスとアレッポのセルジューク朝,エジプトのファーティマ朝など,勢力が分断されていたため十字軍主力のシリア海岸南下を許すことになった。
1099年7月,正規4軍団とペトルスの巡礼団はエルサレム包囲戦を開始し,宗教的敬虔さと征服者的残忍さを同時に発揮して2日間の攻城戦の後,ファーティマ朝(エルサレムを1098年8月以来セルジューク朝より奪取)の総督を下し,住民の大量虐殺を行って占領を遂げた(7月15日)。〈巡礼たち〉は聖墳墓教会に参詣して十字軍誓願の成就を告げ,シリア・パレスティナに所領を獲得した一部の諸侯,騎士やその領内で土地財産を分配された少数の市民,農民を除いて,大部分の遠征隊員は西欧への帰路についた。このため十字軍国家はその後永年にわたって人口不足と防衛力の劣弱さに悩まされ,イスラム側の反撃を容易にすることになった。聖地に踏みとどまった諸侯は〈聖墳墓守護者〉の称号を帯びたゴドフロア・ド・ブイヨンGodefroy de Bouillonを宗主とするエルサレム王国を創設し,その封建所領としての前記2侯伯領のほか,1109年占領のトリポリ伯領,トランスヨルダン領などを支配し,地中海東岸の諸港市を西欧との交流の窓口とする東方植民地国家を建設し終わった。
しかし12世紀を迎えると,イスラム側は,モースルとアレッポに拠るザンギー朝(1127-1222)の反撃が始まり,十字軍国家の北東部,北部の喪失が相次ぎ,その衝撃とともに西欧において高揚を続けていた〈十字軍運動〉,とくにクレルボー修道院の院長で当代きっての宗教家ベルナールの勧説による第2回十字軍(1147-53)の企てが実現した。第1回十字軍の成功後まもなく騎士身分と修道士とを一身に兼ねる新しいタイプの社会的エリート集団が創造され,十字軍理念を高く掲げた〈騎士修道会〉を結成し,聖地の常備軍的性格の軍事力としてその後の十字軍に重要な役割を演ずることになる。フランス王ルイ7世,ドイツ王コンラート3世の遠征によるイスラム側ダマスクスへの攻撃(1148)は,喪失領土の回復戦略とはなり得ず,その敗退によってザンギー朝のヌール・アッディーンの下でのアレッポとダマスクスの同盟を許し,十字軍国家はシリア沿岸部の狭小な帯状地域に圧縮された。
12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑サラーフ・アッディーン(サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169-1250)の〈ジハード(聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月ヒッティーンの戦に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188-91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。
中期十字軍
西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。その間に起こったキプロス王国成立(1192),いわゆる〈方向転換十字軍〉という悪評の高い第4回十字軍(1202-05)によるギリシアのラテン帝国創設(1204),第5回十字軍末期のカイロ攻撃失敗(1221)などはいずれもその実例である。また1228-29年には親イスラム的な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇から破門をうけた身で聖地に渡り,アイユーブ朝の第5代スルタン,カーミルとの友好関係を利用して〈無血十字軍〉により一時エルサレムの返還を勝ちとった。この時期に西欧の海外進出熱や身分的上昇運動は鎮静化に向かい,それまでの信仰と領土的野心を内容とした十字軍思想は変質し,教皇と神聖ローマ皇帝の対立を軸とする政治的利害が十字軍の動機に強く反映するようになった。
末期十字軍
シリア・エジプトを統一したイスラム勢力の包囲網の中に孤立した十字軍国家は,第7回十字軍(1248-54)のエジプト攻撃失敗の後,その統率者フランス王ルイ9世による聖地防衛力の再建にもかかわらず,カイロの新政権マムルーク朝(1250-1517)の強襲をうけてほとんど破局的打撃を被った。最後の第8回十字軍(1270)はエルサレムから3000km余も遠くへだたったチュニスで挫折し,アッカーに踏みとどまっていた聖地のキリスト教徒は戦死者と捕虜を除いてすべて〈海に掃き落とされ〉,十字軍が築いた中近東の植民地は全面的に崩壊した(1291)。かろうじてキプロス島に退却した生存者はなおこの島を前衛として〈後の十字軍〉による退勢挽回を企てることになる。
十字軍の意義とその影響
十字軍に対する評価は,同時代から今日まで賛否両極の間を揺れ動いて不定であり,毀誉褒貶相半ばしているが,中世西欧社会の全体像を浮彫にした総合的な歴史事象としての意義は重要である。西欧キリスト教徒諸国民が〈十二世紀ルネサンス〉として知られる文化的高揚期を体験し,彼らのアイデンティティを確信しえたことは,十字軍史の展開過程とまったく時代的に並行しており,十字軍が中世西欧社会の成熟期をもたらしたと考えることができる。第2の意義は,キリスト教徒の大集団が長期にわたって東地中海世界に進出し続けたことによる東西文化交流の発展にある。戦術,築城術をはじめ衣食住の日常生活慣習など和戦両様の相互影響関係が生まれ,精神的領域においても古典古代の学芸の再交流が促されたことは中世末期の西欧社会にとって大きな意義があった。
十字軍の影響について見ると,その軍事的失敗にもかかわらず,ヨーロッパ人に物心両面におけるグローバルな視野の拡大をもたらした点が重要である。精神面においては宗教を異にする人々の平和的共存が現実性をもち始め,キリスト教徒側に寛容の精神が芽生え,戦士に代わって宣教師が異教徒との対話を実践する時代が訪れた。フランシスコ会士による東洋布教活動などはその先駆であり,十字軍による中世キリスト教の世界的規模の展開と見ることができる。第2に,14世紀以降オスマン帝国の勢力西漸によって東方進出運動を抑止されたヨーロッパ人が,大西洋,アフリカ大陸沿岸に目を転じ,やがて〈大航海時代〉に連なる大規模な海外進出運動を続行したことがあげられる。東洋のキリスト教君主〈プレスター・ジョン〉の探索や,十字軍時代に普及した香料など東洋的嗜好品への執着は,前記のキリスト教布教活動への使命観とともに彼らの冒険心をあおり,〈後の十字軍〉と相前後して新大陸,東アジア諸地域へのキリスト教徒の集団的植民地開拓時代を招来することになるのである。
イスラム側から見た十字軍とその意味
十字軍運動の発端は,エルサレムを占領したセルジューク朝トルコによる巡礼者の迫害にあったとされている。しかしセルジューク朝が異教徒の処遇について,イスラム法のジンミー保護の規定を著しく逸脱した政策をとった事実は認められない。一般に当時のイスラム教徒は十字軍の真の目的を理解できず,ヨーロッパから来住したキリスト教徒の武装集団を,十字軍ではなく,単にフランク人Ifranj,Firanjと呼ぶのが慣例であった。ザンギー朝のヌール・アッディーンはスンナ派擁護の政策に基づいてイスラム世界の統一を図り,異教徒に対するジハードを宣言して十字軍に対する最初の反撃を開始した。その成果はアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに受け継がれ,マムルーク朝のバイバルス1世もアッバース家のカリフを擁するスンナ派の国家体制を樹立して対十字軍戦争を遂行し,その勢力をシリアの海岸地帯に封じ込めた。イスラム軍の主力はアミールとその配下のマムルーク(奴隷軍人)によって構成されていたが,これらのアミールはエジプト,シリアにイクター(分与地)を授与された騎士であって,戦時には自ら装備を整えてスルタン軍に加わることが義務づけられていた。
11世紀に至るまで,ヨーロッパ世界についてのイスラム教徒の知識は,そのほとんどが間接的な情報に基づくものであったから,戦闘を通じてヨーロッパのキリスト教徒とイスラム教徒が直接の交渉をもったことの意義は少なくなかった。少数ではあるがウサーマ・ブン・ムンキズのように十字軍騎士と親交を結ぶ者もあったし,戦時中一段と活発になった交易活動を通じて,砂糖生産やガラス工芸の技術なども西方に伝えられた。しかし200年に及ぶキリスト教徒との戦闘は,イスラム教徒の間に不寛容なスンナ派主義をはぐくむ結果となり,十字軍に対してばかりでなく,土着のキリスト教徒やユダヤ教徒をも非難・攻撃する風潮が生まれ,やがて都市のなかに宗派別のハーラ(街区)が形成される一因となった。